映画『ひゃくえむ』レビュー

*かなりのネタバレを含みます。前情報なしに鑑賞したい方はご注意下さい。

 レイコンマ何秒で決着がつくという点で、私は陸上の100メートル走競技=F1と同じスポーツだと認識していました。すなわち生まれ持った体格、身に付けた走り方の技術、適応距離、その日の天候あるいは風の向きや強さ、体調といった様々な要因の噛み合い方で出せるベスト。それを出し尽くした先で順位が明確に決まる。その過程に精神論が入り込む余地がない真に合理的な勝負、それが100メートル走競技である。それをテーマに描くスポーツ漫画は、だからドラマになりにくいと思っていたんですよね。『なぎさMe公認』でも能力的に秀でていない主人公が臨むのは戦術で勝負ができる400メートル走競技でしたし、なら頭で闘えない『ひゃくえむ。』で描けるドラマはもう挫折する人生か又は栄光を掴み続ける苦しみといった陸上選手の栄枯盛衰しかないんじゃないか。もしそうじゃないのなら、どういうストーリーのフックを仕掛けているんだろうか。そういう興味をもって劇場に足を運びました。
 結論からいえばもう財津と海棠。その関係性がとんでもなく素晴らしかったですね。
 機械のように正確かつ精密で、その言動すら非人間的に思えて仕方ない財津がF1マシーンなのだとしたら、海棠は実に人間臭い選手。諦めがいいようで非常に悪い。全部勝てないならどこかで勝ってやるという虎視眈々とした執念で毎試合を走る。財津に負ける。また走る。財津に負ける。またまた走る。財津に負ける。もっともっともっと走るを繰り返してきた選手人生。
 100メートル走競技の真実を体現するような二人の関係性が、けれど物語の後半で急に崩れ出す。きっかけは財津。端的にいえば「人は機械じゃない」。走り続けることの意味、モチベーションの維持が海棠との最後の勝負における明暗を分けた。
 こう記すと「なんだ、ありがちの展開じゃないか」と思われることでしょう。けれど違うんです。この財津×海棠のレースには『ひゃくえむ。』の主人公の一人、小宮が参加していた。命の危険を察知して、身体が自然とかける限界のブレーキを命を賭けて乗り越えることができるフィジカルの化け物。財津と肩を並べるほどに日本の陸上界を牽引するまでになった彼までも、海棠に負けたんです。この描写が持つ意味は非常に大きかった。なんせ彼は財津と違ってモチベーションが下降気味だった訳でもなんでもない。常に新記録を狙う獣だった。にもかかわらず、何故?
 観客の側で渦巻きだすこの謎がまた本作のもう一人の主人公、トガシの選手人生にも大きなスポットを当てる所が実に白眉な演出でした。
 トガシもまた海棠に似て浮き沈みの激しい選手人生を送っていて、せっかく出場権を得た全日本選手権の前に肉離れになってしまい、医者からは出場の辞退を勧められる。選手生命を考えればそれがベストの選択だと諭される。しかしながら所属する企業の陸上部からは「もし出場しないなら契約打ち切り」の最後通告を受けます。
 後にも先にも進めない正念場。そこで初めて吐き出す感情の塊は現実に折り合いをつけることに長けてきたトガシらしくないもので、走れなくなって初めて分かる走ることの意味を我々に突きつけます。
 速く走るのが至上命題の競技にあって、速く走る以上のもの。アイツに勝ちたい、自分に勝ちたい、死ぬまでにしなきゃいけないあれこれを置き去りにして一心不乱に前へ、前へと頭から突っ込んでいける悦び。一度ハマれば病みつきになる、それがレース。純粋な『ひゃくえむ。』。
 冷静沈着なトガシが辿り着くこの境地は、かつて小学校時代の小宮が鬱屈とした気持ちから逃げるための動機にも似ていて、二人の中身と影の重なり合いのように思えるハイライトになっていた。それを独特な言葉で、会話のテンポで魅せる魚豊さんが傑物。『チ。―地球の運動についてー』でも味わった複雑な人間味に「これよ、これ!」なニヤニヤが止まりませんでした。
 実写の演技を元に作られるロトスコープのアニメーション、斬新なカメラワーク、自然現象に心象風景をぶつけまくる文学的な映像と次々に繰り出される表現の何もかもが「その瞬間」に捧げられる。余りにも熱い完成度に心躍りました。前評判どおりの面白さです、『ひゃくえむ。』。まだの方は是非。見逃し厳禁の良作です。

映画『ひゃくえむ』レビュー

映画『ひゃくえむ』レビュー

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-30

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