死神の娘
多くの人が『死神』を思い浮かべる時、その姿は骸骨が大きな鎌を持ち黒いフードのついた服を着ている。人の想像力が生み出したその禍々しい姿はいつごろからか、当の死神たちにも、自分たちはこういうものだというイメージとなって刻みつけられた。死神たちのテキストとされる『死と死者の扱い方』という書物の表紙にもその姿が描かれている。しかし、現代においてそんな恰好をした死神は絶滅危惧種となっている。
死神の中で骸骨のように痩せた者はいるが本当の骸骨はいない。昔気質の死神たちが自分を取り戻そうとするときその恰好をして同胞と会い、語り合う。時代がいくら変わって、文明や技術が発達しても死神の本分は変わらない。
この世界に生をうけた生き物は誰ひとりとして死ぬ運命から逃れられない。いい人も悪い人も、どれだけの偉人であっても、貧富の差なく、男女の差なく、年齢に関わらず、大きくても小さくてもいつか死ぬ。時期が違うだけ。死神は当然一人でそれらすべてを司れるわけはなく、この世界各所にいる。“神”だがもっと人間に近い。太古の昔から人間とともにいた。
彼らの中には人間と同じように生きることを選ぶ者もいる。彼らにはもう死神としての能力も権威もない。人間と同じ長さを生き、同じように死ぬ。彼らは言う。「人間の中には、我々よりもよほど多くの人が想像する「死神」の様相に近い者がいる。死相が顔に出ている。」と。
想世子(そよこ)の父親の清嗣(きよつぐ)は死神であり、母親の礼羅(ライラ)は、人の死が近づくとその家の近くで泣き声をあげる妖精だった。想世子はこの人ならざる者の間に生まれたが、見た目はまったく普通の少女である。ふっくらとした頬、血色のよい唇、生気に満ちたきらめく目をもった赤ちゃんだった。
両親は戸惑った。欲しくて産んだには違いないが、あまりにも生命の息吹に祝福されたこの福々しい子、死を誰よりも身近なものとしている自分たちが育てられるだろうか。死神の清嗣も泣き妖精の礼羅もこの子が将来、子ども、ゆくゆくは大人になりどんな能力を持つか想像がつかない。死神なのか泣き妖精なのか。
人間の産婦人科で人間と同じ産みの苦しみを乗り越え、元気な産声をあげたみどりご、その時の気持ちを忘れることはないだろう。新生児室でひときわ元気に泣いて手足を動かす我が子を礼羅は複雑な思いで見つめた。
礼羅は死人が出る家の周りで泣いてその死を予告する本分をもって生きてきた。多くの人には風の音と聞こえるそれは実は泣き妖精たちの声である。泣くことは実は歓喜の声でもある。死人が出て、黄泉の国の住人が増える。黄泉の国にも、また死が、別れが、ある。それは消滅、黄泉の国からも消えてほんとうに無になってしまう。黄泉の国が死人であふれないのはそのためである。泣き妖精たちの泣き声を聞くと、黄泉の国の人々は歓喜の声を上げるのだ。ようこそ、と。待たなくても必ず死は訪れる。泣いて喜ぶほどのことではないと礼羅は思う。死にたくなくても死ななければいけなかった時代があった。病気になり大切な人たちを残して死ななければならない人たちがいる。礼羅たちはどんな死でも泣き声をあげて知らせた。宿命からは逃れられない。本能が泣くようにと命じ、礼羅は泣き妖精の本分を果たしてきた。人間の世界で、人間の女性として生まれ育ったが、人間の男性との出会いは難しかった。人間と恋をして結婚して、本来の姿を半ば忘れてしまった同胞たちもいるが、礼羅は人間へのもつ生への執着が苦手だった。同胞たちの中にはその生きようとする姿に強く惹かれる者がいる。おそらく彼らの中には先祖代々のどこかに人間の血が入っている。
人間が命や幸福を求めてもがく姿が、悲しく愚かでそして愛おしい。愛おしいと思うと別れがつらくなる。愛する者の死を予告するために泣くことなど考えただけで自分の方が消えたくなる。
礼羅には一滴も人間の血が混じらない家柄で、それが誇りでもある。死神の清嗣と出会い、恋愛をして、結婚した。由緒ある泣き妖精の家系だが、現代に生まれた礼羅は多分に人間の影響を受けていた。明るい太陽の下で清嗣と愛し合った。月夜の下がふさわしいなんで古臭い。若かった礼羅はほんの少し自分の宿命に反抗したかった。太陽の下で愛し合ったから、想世子のような赤ちゃんが生まれたのだろうか。健康そうな子、この上なく愛くるしい。着飾らせ見せびらかしたいくらいにかわいらしい。しかし、自分の子ではないようなふしぎな感覚、泣き妖精でも母性はある。それなのにどこからかさらってきた赤ちゃんか、もしかしたら取り違えられたのかもしれないと錯覚する。礼羅はどこにでもいるひとりの母親で、初めての出産のあとで、気持ちが落ち込み、マタニティブルーの只中にいた。
産後の母親のために訪問した市の保健師がとても親身になってくれた。あまり人と深く関わらないようにしてきた。人間が嫌いではないが、自分の本分を果たすためにはあまり親しくして情を持たない方がよいと思っていた。
しかし、まだそこを割り切れない若い泣き妖精だった。母親となって人間と同じように不安、気持ちの落ち込みを受け止め慰めてもらった時、人間と交流したくなる同胞たちの気持ちが理解できた。死を予告する自分達であるが、人の死を弄ぶ者ではないし、人の死の時期を左右することはできない。運命として訪れた死に立ち会うだけだ。泣き妖精は、死を予告しその家のまわりで泣き声をあげるので昔から嫌われている。その泣き声は恐ろしく悲しげで不吉なものとされてきた。死を恐れる人間たちからは醜悪な姿として描かれている。それは甘んじて受け入れるしかない。姿を見せてはいけないから。
子どもを可愛いと思えない、泣いたらどうしたらよいか分からない、母乳が思うように出ない・・礼羅のつたない思いの吐露をうなずいて聞いてくれるこの職務に忠実で心優しい人間は自分が泣き妖精と知ったらどうするだろうか。この人間も親しい人間と永遠の別れをしたことがあるだろう。そう思いながら礼羅は人間の持つ最大の良き一面、“他者への思いやり”に触れて子育てへの意欲を取り戻した。
死神の清嗣は礼羅より、死神としての自分のあり方もわきまえている。死神としての清嗣は鳥肌がたつほどに威厳に満ちている。夫としての清嗣はこの上なく愛情あふれる一人の男である。死神もいろいろで世捨て人のような性格の者もいるが、清嗣は人間に精通していた。黄泉の国からその時々に人間の死を司るためにやってくるのではなく、人間の世界で、人間の近くにいることを選んだ。産まれ、生きて、いつか必ず死ぬ。それをいちばん近くで見届けることは光栄なことである。決して人の死を望み、人をいたずらに死なせるのが死神ではなく、その死を見届け、その体から抜け出た魂を次の場所に導くのが死神の本分である。
人間の世界で生きる清嗣は病院で働いている。死神とは使命であり職業ではない。それゆえに報酬がないので、経済生活は人間の世界で働いて賄う。死神たちは様々な職業に就いている。清嗣には人が産まれ、生きるために、健康のために、病気を治すために通い、最期を迎える場所。それらを見ることができるうってつけの職場だった。給料もいいし、家族を養うためにもちょうどいい。
死神たちは、人間と同じ姿をして、同じように年をとり、ある程度の年齢になると一旦人間の世界から姿を消して、また何食わぬ顔で、違う場所に戻ってきて溶け込んでいる。そんなことを何度か繰り返して、いつか仲間の死神たちに命の終わりを見届けてもらう時がくる。死神でも永遠の命はない。清嗣もいつか自分もそういうときが来るのを知っている。自分もそうやって仲間や家族を見送ってきた。
長らく独り身だったが、ある時、人間の世界で、礼羅と出会った。際立って美しく雰囲気のある女性は、泣きはらした赤い目と風になびく長い銀髪、その髪を振り乱し、死人がでた家の周りを飛びながら泣き声をあげていた。自分の本分を果たそうと一生懸命の若い礼羅、今まで泣き妖精は何人もみてきたが、こんな魅力的な泣き妖精は初めて見た。人間の時の陰影ある清楚な姿もいいが、本来の姿になったときの銀色の長い髪の彼女は格別だった。泣き声はよく響き、澄んでいて、他の死神たちが集まってくるほどだった。慎み深い性格も好ましい。
清嗣は様々な根回しをして礼羅と二人で組んで死者の家にいけるようにしてもらった。仕事上のパートナーが生涯のパートナーとなる人間の世界で言う職場恋愛からの結婚。他の死神たちに取られる前に、一世一代の告白をして、結婚にこぎつけた。
礼羅にしても、死神の誇りを持ち、人間として仕事もしていて、何より自分を美しいと愛していると言ってくれる落ちついた大人の清嗣に初めから惹かれていた。死神の時は冷静なのに、二人でいるときはとても情熱的で熱烈で。清嗣によく思われたくて練習して思い切り泣いて見せた。
二人はとてもありふれているがとても幸せな恋をして結婚した。死神同士で結婚しなくてはならない決まりはないはずだ、ちゃんと使命は果たすから、結婚させてほしいと親や、親族、他の死神たちや泣き妖精たちに直訴した。
心配したほどの反対はなく、ほどなく二人は結ばれた。想世子はそんな夫婦の待望の子どもである。
想世子(そよこ)という古風な響きをもつ名前は、二人が初めて一緒に死を見届けた高齢の女性の名前だが、なぜだかこのソヨ子に清嗣は愛着を持っていた。苦悩に満ちた生涯だった。最期の時も一人だった。入所していた施設の人たちに看取られて旅立った。子どもたちもいたのに死に際に間に合わなかった。しかし皆知っている。彼らは聞こえないふりをして、多忙だからと言い訳を連ね、わざとのろのろと準備をし、亡くなった連絡を受けてから家をでる有様だった。
懸命に子育てをしたのに母親の思いを受け止めなかった子どもたちである。実母を早くに亡くしたソヨ子の子ども時代は孤独だった。情の薄い夫との冷え切った結婚生活、しかし、その中でも失わなかった心優しさが、ひきよせた穏やかな老後があった。しかし、夫とも子どもたちとも分かり合えないままだった。世話をさせるだけさせて彼らはソヨ子に報いることをしなかった。時がたてばソヨ子を覚えている人はいなくなる。せめてソヨ子が生きていた証を残したい。覚えている者がいると示したい。実母の死を幼くして見たソヨ子、清嗣はその死をも司った。自分が見えても、少しも怖がらない幼子のソヨ子。
「かみさま、おかあさんをよろしくおねがいします」
小さな手を合わせて頭を下げた。死は必ず誰にでも訪れること、もっと一緒にいたいがそれをどうすることもできない。ソヨ子の母親はもう決して動くことはないのに閉じた眦からそのとき一筋涙が流れた。死神は泣かない。死に対して思いをはせていてはいかに死神でも気持ちがもたない。どんな悪人でも生まれたばかりの赤子でも誰かの最愛の恋人であったとしても等しく扱う。数えきれない親子の別れを見てきた清嗣がこのままこの母親を連れていっていいのかと迷ったのは、この時が最初で最後だ。この幼子に心を打たれた。この世に思いをはせながら、死んでいくあまたの命。彼らの記憶は霞のように消えていく。それでも人は、行く先には必ず死があるとしても生きようと前に進む。
清嗣は礼羅にその話をして、二人は迷わず我が子に想世子と命名した。
死神と死を予告する泣き妖精の間の子どもだが、想世子は人間の社会で人間の子どもと同じように育った。最初こそ戸惑った両親だが、日増しに可愛くなる我が子を前に、親としての情が勝り、大切に育てた。
初めてのもしかしたらこれが最後になるかもしれない育児に夢中になった。ある程度成長しないと彼らは自分たちの本分や能力に目覚めることはない。想世子は本当にどこにでもいる人間の子どもだった
人間の子どもがかかる水疱瘡やおたふくかぜにも一通り罹り、両親は大いに心配した。性格は元気すぎず、内気過ぎず。両親も今までは必要以上に人間とかかわることはしてこなかったが、子どもを介しての交流ができ、世間一般の親らしくなっていった。学校で何かの賞をもらったといえば小躍りして喜んだ。
少しゆがんだ親心なのは、できれば人間の異性と仲良くなってほしくないということである。人間の男の子が怖いと思うくらいになってほしいとさえ願ってしまった。
同じような境遇の者と結ばれれば、何の迷いも悩みもない。娘にはつらい思いをしてほしくない。この人間の世界に、生まれ育つだけでもすでに大変なことなのだから。
親の心子知らずというのは人ならざる者たちにもあてはまる。そして子どもは親を選べない。
想世子は隣の部屋に引っ越してきた人間の男の子に恋をしてしまった。日焼けした笑顔、底抜けに明るい人間の男の子、周晴(しゅうせい)。
できるだけ死神の同胞たちやその家族と接する機会をもってきたが、想世子は彼らにあまり興味を持たなかった。綺麗だけど気取っていて人を見下したような冷たい感じのお兄さんたちのことは好きにはなれそうもない。
自分や両親の本来の姿をまだ知らない想世子にとって、両親の「お友達」に会う時間は退屈だった。子どもなら当然の感情であった。まだ小学生の想世子には、大人の集まりはとても退屈で、それより学校の友達と会う方が楽しい。
娘の赤くなった顔を見て両親は、ついにその日が来たかと思った。一家が住むマンションの新しい隣人一家の息子が周晴だった。ラジオ局に勤める父親、会社の営業職の母親、妹の美璃(みり)、全員がみな朗らかで生き生きとしていた。周晴はその名の通り周りの人を明るい気持ちにさせる少年だった。清嗣や礼羅でさえもつられて笑顔になってしまう。自然体で活発で何の濁りもない澄んだ心、人懐こい笑顔。五月人形のように凛々しい。
(うわあ、なんてまぶしい。すごくすてきな子)
想世子より少し背が低いが、そんなことぜんぜん気にならない。同じ年で学校も同じ、こんな幸せな偶然あっていいのだろうか。クラスが同じだったらもう最高に幸せ。
「おねえちゃん、いっしょに遊んでね」
妹の美璃もとてもかわいい。一緒に登校するのは必然で、すぐに仲良くなれそうだ。
引っ越しのご挨拶は上質のタオルだった。柔らかくて肌触りがよい。一家の印象そのままだ。清嗣も礼羅も人間の魂を視覚化する能力があるが、彼らは人間の中でも上質で善良な魂をもっている。
想世子は不老不死ではないが、自分達の娘である以上、人間より長く生きる。この少年でなくとも、人間を愛したらその事実に想世子はひどく傷つくのは自明の理である。分かっていても両親はいろいろ考えすぎてしまう。これが一時のあこがれで会ってほしいと思うのだった。
蝋燭のように白い顔、影が起き上がってきたような人達。話し方は穏やかで、洗練された都会の人。やせ形で細長いお父さん、同じく細くて背が高く、薄い眉と色素の薄い目とやわらかな自然な茶色の髪の毛のお母さん、美人なのになんだか怖い。
一人娘は想世子といって、顔立ちや雰囲気は母親譲りで、両親よりは親しみやすそうだった。今までにみたどの女の子より可愛いと思ったことは誰にも言えない。母親と同じ色の髪をおさげにして、どこか遠い国からきたような雰囲気のある少女だった。
第一印象は、隣の家族は、見た目は少し怖い感じで、口数は少なく、周晴の両親とは正反対だが、悪い人達ではなかった。
家の鍵を忘れ、入れなくなり途方に暮れていると、助けてくれておいしい手作りお菓子をふるまってくれたのは、想世子の母親であり、夏休みの前に持ち帰る荷物を妹の分まで持って四苦八苦しているとそれを手伝ってくれたのは想世子の父親で、ひやりとした手や光のない黒い目はまだ怖いけど、眠気を誘う優しい口調で、子ども相手にも敬語で話す丁寧な人だった。
妹の美璃がどういうわけか隣人たちに懐いて、そのうち遊びに行ったり、招いたりするようになる。想世子は周晴の前の学校の話や、今夢中になっているサッカーのことに目を輝かせて熱心に聞いてくれる。
想世子たちがサッカーの試合の応援に来てくれると不思議に調子がいいのだ。
想世子の家は、子どもがいると思えないほどいつも片付いていて、同じ間取りの部屋なのに全然違って見えた。こういうのを「モダンでスタイリッッシュ」のお手本のような部屋だった。
想世子は、美璃のまっすぐな黒い髪を愛おしそうに、きれいに自分と同じお下げにして、それを耳の横でくるくるとかたつむりのようにした不思議な髪形に結い上げる。まるで魔法にかかったようにかわいらしくなる。周晴は、漫画に熱中しているふりをしながら、女の子たちの遊びを、想世子が美璃の髪を丁寧に扱う優しい横顔を盗み見る。夜、お風呂に入るときに「髪をほどかないで!」と美璃が駄々をこねるが、次の日にはまたあっと言う間に想世子が結い上げてくれる。
やがて、周晴の世界が広がり、男の子の友達と遊ぶようになり三人で遊ぶ時間は減った。今日は遊びにいかないと告げたときの想世子のさびしそうな顔にいたたまれなくなった。
意識せずにいられないのだが、一度ひやかされてことで、恥ずかしく、登下校も一緒にしなくなり、妹を置いて、当番だからかとか、遊ぶために校庭の良い場所をとりたいからと理由をつけて早く家を出るようになった。
想世子は律儀に、美璃を連れて、小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくる。校庭で遊んでいる周晴に、美璃が「周ちゃん!」と呼びかける。反射的にそちらを見ると想世子とも目があう。秋葉のような色の髪が通学帽子からのぞいている。授業中には窓からさしこむ陽光がその髪を照らし、さらに明るくキラキラと彩られ、教科書の字をなぞる指先が赤く色づいている。
いつも避けてごめんな、と周晴は心の中で謝る。元気いっぱいで明るい周晴はクラスの人気者で誰とでも仲良くできる。想世子もクラスの友達の一人と思えばなんということもないのに、素直になれない。想世子は、「ちょっといいな」くらいではなくもうすでに「すごくいいな」に周晴の中で変わっている。
想世子の方も、周晴の態度に戸惑っていた。自分は可愛くないだろうか。自分は何か気に障ることをしてしまっただろうか。嫌われてしまうことをしたのだろうか。それは何かあれこれ思い返しても分からない。それが分からない鈍感な自分にあきれているのかもしれない。このくらいの年ごろは、女の子の方が精神年齢が高い。恋愛に興味を持ち始めるのも女の子の方が早い傾向にある。周晴たち男子が馬鹿騒ぎしている一方で、女子たちは好きなアイドルや、年上のお兄さんや、新任の先生など、誰がかっこいいかを話題にするようになる。ひそひそと話すのが何より楽しい。そして同じクラスの男子を見て、男の子ってどうしてあんなにさわがしくて幼稚なのかと呆れる。
この人、かっこいいよねとアイドルの写真を見て付き合いで、「うん。かっこいい」と言っていたのを聞かれたのかもしれない。周晴と違ってクールな感じが魅力の人だったから。
または、ふざけている男子を注意して、女子対男子のようになってクラス中がもめた。怖い奴だと思われただろうか。想世子の思いはぐるぐるからんでいく。人気のアイドルより、一番人気と評判の中学生よりも、大好きなのは周晴で、初めて会った時からずっと変わらない。お日様みたいに明るくて誰とでも仲良くて、足も速くて、髪形もかっこいい。
初めて会った時、ハキハキとした声で「そよちゃん」と呼んでくれたときは時は自分でも分かるくらい顔が赤かったと思いだす。
(どうして前みたいに話しかけてくれないの。違う人になってしまったみたい)
昔は父親が帰ってくるのを待ちかねて抱っこされに行っていたのに、今は自分から話しかけることはない。前はその日あったことは全部話していた。
それに、父も母も何か自分に隠していることがあることに薄々気づいている。そういうところがなんだかいやらしく感じてしまう。
両親は、娘の変化に戸惑うばかりだった。礼羅は自分の育て方が悪かったのだろうかと自分を責め、お父さんに謝りなさいとたしなめて、想世子と険悪な雰囲気になる。
清嗣が子育ては母親の仕事だけではないと礼羅を慰めるが、もともとが悲観的で自虐的な性格の礼羅は悩んでいるのに夫と話し合うことを避ける。そんな性格にも惚れたのだが、清嗣は思う。どこかで間違ったとしたら、自分が人間の世界にいること、礼羅に恋をして結婚して子どもに恵まれたことかもしれない。
それらをしなければこんなに礼羅は悩まなかったし、想世子が人間に恋することもなかった。だけどもう今の生活、妻子を手放すことはできないし、どんなに想世子に疎ましく思われても、父親であることを諦めることはできない。
万事超越した存在であるはずの死神も、子育てについては、手探りで進むしかない。娘の成長に困惑しながらも清嗣は、自分の本分は果たさなければならないと思っている。清嗣と礼羅は二人一組で、死者の元へと行っていたのだが、娘が生まれて、二人とも家を空けるわけにはいかず、礼羅は泣き妖精をお休みして、専業主婦となった。娘の恋心は理解できても、自分の例を示して相談にのってやることはできない。娘の恋は母親のそれよりはるかに壁が多い。あきらめろとも応援するとも言えない自分。母親なのに。
もしも、今後、想世子が自分は人間ではないこと、両親が死神、泣き妖精であることを知ったらどうなるのかと思うと胸がつぶれてしまいそうだ。清嗣は決して礼羅を責めないのに、もっと早く物心つく前から教えておけばよかったと、礼羅は後悔し続けた。
「そよちゃんがおねえさんならいいのに。周ちゃんはさいきんぜんぜんみりと遊んでくれないんだよ。」
今の想世子の心の支えは、美璃だった。惜しみない愛情を受けて育った日なたのような美璃も、周晴の変化に不満をもっているらしい。ふくらませたやわらかいほっぺたをつついて、想世子は、自分はなんてずるいんだろうと思う。美璃のことがかわいいのは確かだが、周晴の妹であることが大きい。純粋に自分を慕う美璃を利用する自分が嫌いだった。
二人は中学生になった。まだまだ少年期の入り口にたったところだが、小学生とは違う。
体と心が大人になるための準備を始め、周晴もさすがに想世子を無視できなくなる。幼いころから知っているとなかなか異性としてみることはできないものだが、中学生の想世子しか知らない男子が、想世子にちらちらと視線を送っているのを目の当たりにすると、なんだかいらいらする。入学早々先輩たちに呼び出されるのを見て、そのあと、あっさり断ったと聞けばほっとする。
「好きな人がいるって断ったらしい」
そう周りが話しているのを聞くと、それは誰だと問い詰めたくなる。恥ずかしさから無視してしまいできてしまったこの距離をどうやって縮めたらよいのだろうか。
想世子は合唱部、周晴はサッカー部に入った。サッカーに集中しなければならないのに、発声練習をするひときわのびやかな想世子の声に、どうにも調子が狂う。ただの発声練習なのにいつまでも聞いていたい美しい声。部活が終わっても、時々ピアノを弾きながら歌うときがあり、みんなが聞き惚れている。顔は知らなくても、その声は有名だった。放送委員会からも声がかかり、昼休みに想世子が流行の歌を紹介するコーナーも作られた。声だけ美人と揶揄されることもあるが、おおむねが想世子の歌声に聞き惚れてその姿を想像する。歌声の通りの美少女は、ひっそりとピアノを奏で、いつの間にか帰宅しているのだ。
昔みたいに屈託なく話したい。でも、自然に話せるか自信がない。こんなことを思うのは想世子に対してだけだ。仲間内でも異性を品定めして、好きな子を明かしあうのが友情の証であったりする年頃だが、周晴はその輪に入れないでいる。
適当に話を合わせるが想世子ちゃん可愛いよなと水を向けられても、そうかなあと無関心を装って答える。人に順位をつけるのはよくないことだし、そういうことに想世子を軽々しく話題にしてほしくないと思いながら。
周晴の両親は二人とも明るい性格でハキハキしていて自己主張もしっかりしている。ラジオ局に勤め、声の仕事をしている父親、入社当初から若手の筆頭と言われてきたやり手の会社員の母親。二人は似ているからひかれあったのだが、その分反発するときは強烈だった。互いに譲らない。数年前から意見の対立が増えた。
配偶者がいなくても、困らないほどの収入がある。その上、お互いに他に思う相手がいる。まだ友人の段階だが、遠からず恋愛関係に発展してもおかしくないという関係で、少しの刺激で燃え上がってしまうところまできている。
周晴はそういう両親の変化に敏感になった。二人とも妙に優しいと思えば、考え込んでいることもある。
(自分や美璃はどうでもいいのか)
何も思い悩むことがない時代が、親に全幅の信頼をしていた時代が終わりつつかあることを感じていた。
明るくて闊達な両親、家族で出かけた思い出は数えきれない。泊りがけで満点の星空を観に行った。晴れた日にピクニックに出かけた。よくわからない現代アートの美術館に連れ出された。サッカーの試合、運動会などの学校行事は両親がいつも観に来てくれた。二人ともおしゃれでかっこよくて自慢の両親だった。
それなのに。自分たちは二人をつなぎとめるには足りないのだろうか。一度心が決まると両親たちの行動は早かった。周晴は何もできなかった。周晴が怒って怒鳴り散らして泣いても二人とも悲しそうにするが、反対方向に歩き出した足を止めることはできなかった。
「周晴君、どうしましたか?」
家に帰りたくなくて、家の近くの公園にいた。ここで想世子や美璃と遊んだ。子どもたちは三三五五に帰って行って、人もまばらな公園。仕事帰りの隣のおじさん、想世子のお父さん、音もなく近くにいてぎょっとする。だいたいスーツ姿、だらしのない恰好はみたことがない。他のお父さんたちと同じように満員電車でぎゅうぎゅうに押されて通勤しているようだが、どんな顔をして満員電車の中で耐えているのだろうか。少しウェーブのかかった黒髪をきれいになでつけている。
「もうすぐ引っ越すそうですね。御両親から聞いています。想世子もひどく落ち込んでいましてね。まだ時間があるならちょっとうちに寄りませんか」
父も母もどちらかが家にいるだろうと双方が思っているのと、時々、想世子の家で過ごすことも了承済みなので、最近はいつも帰りが遅い。
「美璃ちゃんはまだ学童ですか?一緒に迎えに行きましょう」
おじさんと二人で美璃を迎えに行く。見た目は影が人になった暗い感じのおじさんだけど、とても気配りのできる大人だ。
「周晴君たちがいなくなるのはとてもさびしいです」
おじさんは抑揚のない声で言う。しかしそれが社交辞令でないことは分かる。おじさんは紳士の教育をうけた人なのだ。上等なお香のようないいにおいがする。
美璃はまだよく知らない。誰がどう伝えるのか両親はそのことについても口論をする。美璃は家族の太陽であり、ほんとうは自分がひきとりたいと双方が思っている。
おじさんと手をつないで美璃はスキップしている。いいにおいがする穏やかなおじさんのことが大好きだった。
想世子の家は、いつもひんやりしていて掃除が行き届いている。おじさんは家でもきちんとしている。カゲロウのような想世子の母親が出迎えてくれる。長い亜麻色の髪をお団子に結っている。眉毛も同じ色で、異国情緒あふれる顔立ちはどこか知らない国の貴婦人のようだった。すけるように色が白く、くぼんだ目が光の加減で青みがかって見えるのがふしぎだ。
「ようこそ。想世子にお菓子を買いに行ってもらっているの。少し待っていてね」
あまりにきれいに片づけられていると、そこを汚してはならないという心理が働く。想世子の家はきれいすぎて居心地が悪い。忙しい両親が申し訳程度に片付けた家の方が落ち着く。
美璃はなにも気にせず飼い猫と遊んでいる。青い目をもつ白い猫で毛足が長い。オスだが優しい性格なのか、美璃とも飽きずに遊ぶ。猫が悠然と玄関へ歩いていく。母親が言う。
「想世子が帰ってきたのね。」
かちりとドアが開き、寒気をまとった想世子が帰ってきた。手にジュースとお菓子が入った袋を下げている。美璃と猫が飛びつくように出迎える。こうして向き合うのは久しぶりだ。
「お部屋で遊んだら?おやつを持っていくわ」
そんな母親の気遣いもあまり意味はなく、ひとりはしゃぐ美璃をはさんで、もくもくとお菓子を食べ、炭酸ジュースでお腹がふくれるだけで、話もできずに帰る時間になった。だしぬけに想世子が話しかける。
「明日、一緒に帰って?」
思いもよらぬ申し出だった。
「年が明けたら引っ越すんだよね?待っているから。一緒に帰ろう。おねがい」
想世子の目がうるんでいた。顔が赤いのは寒さのせいだけではない。その目を見れば、断ることなどできない。みんなにどう思われようと想世子の真剣さに向き合わなければならないと周晴はうなずいた。
翌日の放課後、何も知らない友人たちは部活帰りにいつものようにコンビニに寄ろうと誘ってきたが、周晴はそれをふりきって、待ち合わせの場所へと急ぐ。学校から出て少し歩くと学用品や体操服を扱う商店がある。その近くに想世子が待っていて、小さく手を振っている。二人すぐ並んで歩き出す。家の前まで来ても、話が尽きなくて、家の前を通り過ぎる。ぜんぜん時間が足らない。もっと、ずっと、このまま二人で歩いていたい。時間が巻き戻されて、両親の不和や転校は全て、なかったことで明日からまたいつもの毎日が繰り返されていってほしいと願った。時間は永遠にあるように思えるのに少しくらい戻ってくれないだろうか。どうして自分たちを無視して現実はどんどん進んでいくのだろう。しかし、時間やものごとにはすべて限りがあるから、今、この時にしたいことをしておかないと、と勇気がでる。思いきって手をつなごうと差し出すと、想世子が握り返してくる。
「周君、私のこといやなのかなって思っていた。だって急に苗字で呼ぶし、必要なことしか話しかけてくれなくなったから。一緒に帰ってくれるなんて信じられない」
「ごめん」
どう接していいか分からなかった。想世子はいつの間にかお姉さんになっていて、他の男子たちに見られていて、手が届かなくなっていた。今までの時間がとても惜しいものに思えてたまらなかった。
「確かに避けていた。どう話したらいいか分からなくて・・でもきらいじゃない。きらいになったことなんてなかった。こんな風になるまで正直になれないなんて、俺は本当に意気地なしなんだ」
「そんなことない。いつでも言えるって思っていると言えなくなっちゃうね。私も同じ。あのね、私は周君のことが好き。初めて会った時からずっと。周君に嫌われてないことが分かってから、やっと言おうと思うなんて私もずるいよね。怖かったの」
「俺、そよちゃんが好きだから、転校したくない」
握った手がどんどん熱くなって汗ばんできた。どうしよう。気持ち悪くないかな。
周晴は一度手をはなして、もう一度握りなおす。
「ごめんな、今まで不安にさせた分、俺が先に言いたかった。俺はそよちゃんのことが好きです」
「ありがとう。周君。うれしい。私、周君と同じ高校に行きたい。勉強がんばる。私のこと忘れないで。」
「ぜったい忘れない。」
想世子は自分がとても重たい発言をしていることは分かっていた。どんどん欲張りになっていく。本当は彼女もつくらないでと言いたかった。まだ始まってもいない周晴の新生活に嫉妬した。
新しい出会いで周晴が自分を忘れてしまわないか不安になった。時間が止まってほしい。でも、今は思い描いていたことが叶って、想世子の心は幸せでいっぱいだった。好きな人が自分のことを好きだと言ってくれる。それはなんて幸せなことなんだろう。
しかし、時間は止まらない。それどころか少し早く進んで、希望と幸せでとけてしまいそうな想世子の体に変化をもたらす。何か月か前、遅まきながら初めての月経が訪れていた、想世子は自分の能力に目覚めることになる。その能力は、想世子にはあまりにも過酷な忌むべき力だった。
母親と周晴、美璃は引っ越すことになった。父親もいずれはその部屋を退去すると言う。疲れてはいるが、もうふっきれた様子の周晴の母親が「お世話になりました」と淡々とあいさつをする。
離婚という結末になりその上すでにそれぞれ新しい恋人がいたとしても、彼らの魂は上質さを失わなかった。人間は時として愚かな選択をすることもあるが、それが魂の質に関係するとは限らない。
そういうところも含めて人間は人間足り得る。しかし、子どもたちに与える傷は深い。周晴も美璃も笑顔はなく沈痛な面持ちだ。想世子の家の飼い猫がすりすりと寄っていくと、美璃がついに泣き出した。
「いやだよ、お引越ししたくないよ。パパともいっしょにいたい」
母親がなだめるが、美璃は泣きやまない。想世子は美璃がかわいそうでたまらず抱き寄せた。ぎゅっと抱き合った時、想世子の頭の中で何かがはじける音がした。目の前が真っ白になった。真っ白な布をかぶせられたようだ。それが取り払われると次に見えたのは、眠っている美璃、今より少しだけ大きくなっている。
だが、それは眠っているのではないと想世子は分かる。お昼寝しているような安らかな顔だが、息をしていない。どうして眠っていないと分かるのか、自分はいつの美璃を見ているのか。そして目の前は暗転した。
時間にしたら一瞬で、周りの人は想世子に何が見えていたのか分からないくらいの刹那だった。涙さえ凍るように体が冷たくなっていく。頭の中を光線が行き来している。ここで取り乱してはならない。想世子は本能的に判断した。何かが起こっている、自分の中で。
周晴たちが帰ってしまうと、想世子は玄関に座り込んだ。両親は気づいた。目には見えないが想世子が自分の力に目覚めたと分かった。
「そよ、何が見えたのかい?」
父親だけが想世子を「そよ」、と呼ぶ。想世子は何かが見えたのだ。我を失うほどの光景を。想世子が震える声で答える。
「ミ、ミリちゃんが眠っている。でもおかしい。あれは寝顔じゃない。あれは・・ああ!言えない。そんなこと言えない。」
想世子は頭を抱えて手足を縮めて倒れ伏す。言えない、言えない、違う、違うと壊れたように繰り返す。母親がぶるぶる震える想世子を抱きしめる。それしかできない。月経がきたときの比ではない。
(ああ、想世子は見えたのか。ミリちゃんの死相が)
清嗣と礼羅は、やはり自分たちの娘だと安堵するとともに想世子の取り乱しように、呆然と見つめるしかなかった。自分達とのつながりを確信すると同時に、想世子が今受けている衝撃の大きさを思うと、自分達の上にも天が絶望を押し付けるように落ちてくるようだ。
想世子の能力は触れた相手が亡くなった時の顔が見えるというものだった。まだ未熟なのでそれだけだ。死ぬ時期や死因までは見えない。しかし顔をみればその人が年老いているかそれともあまり年を重ねていないかおおよそは分かる。美璃の顔は想世子が知っている顔だったのだろう。つまり美璃の死相はそう遠くない未来のものであることは分かってしまう。想世子は何日も学校を休んだ。
想世子は両親にも触れてみたが、両親は人間ではないからか、何も見えてこない。飼い猫を抱きしめると、たった一匹で横たわる白いふさふさの体が見えた。その上に桜の花びらが降り積もる様まで見え、想世子は悲鳴をあげた。何も知らないかわいそうな猫は驚いて逃げ出してしまった。
少し触れただけなら見えないようだが思いをこめると見えてしまうようだった。想世子は絶望した。役に立つどころか忌まわしい力だった。やっと周晴と気持ちを伝えあったのになんとわずらわしい運命なのか。つないだ手の暖かさを覚えている。いつの間にか背が高くなった周晴に、少し顔を覗き込むようにして「好きだよ」と言われた時の息の仕方を忘れるほどの喜び。
これからたくさんの初めてを重ねて思い出をつくっていく期待で胸がはちきれそうだった。待ち合わせて帰ったり、買い物に行ったり、お茶を飲んだり、海にも行く。女の子らしい夢がいっぱいだった。
今は自分の手さえも見えない真っ暗闇の中にいる。周晴と付き合うということはいつか触れ合うことを意味する。触れないでいられるだろうか。思いを貫くことはできるだろうか。そんなことばかり考えている自分にさらに絶望する。なんて浅ましいことを考えているのか。実ったばかりの恋が汚されていくようで怖くてたまらない。
能力に気づくことで、両親の真の姿をも知ることになりさらに絶望は深まった。両親、特に父親に感じた不快感、何か隠されているという不信感はこれだった。ずっと自分に隠していた両親の本当の姿。
両親は、完全に選択と時期を誤った。真実はもっと早くに話すべきだったと後悔した。能力の発芽には何か兆候があると思っていた。しかし、想世子は初潮も平均より遅く14才になっても能力の片りんさえ見えなかった。
もしかしたらこのまま能力に目覚めることはないかもしれないと考えていた。そういう者もまれにいるからだ。それほどに想世子は人間らしかった。はるか長く生きていても自分の娘の変化さえ気づけず最悪な形で真実を突きつける結果となった。
想世子の絶望は自分たちのせいだと両親は苛まれた。なんと愚鈍な親であることか。人間の世界で生き生きと育つ娘への愛おしさに目がくらんだとしか説明できない。周晴と両思いだと分かった日の娘は輝くようだった。恋の力は不思議だ。そう思ったらたった一瞬で輝きを失う。それを、かわいそうと思う反面、心のどこかで娘が人間と恋をすることを諦めてくれたらと思っている。そしてそう思う自分たちに二重に打ちのめされるのだった。
周晴からは約束通り定期的にメールがきた。新しい学校にもなじみサッカーも続けている。そのメールを待ちわびている自分がいる一方で今度は想世子が周晴を避ける番だった。短い返事を返し、自分のことを書くことをしない。
自分に起こったこと、見えてしまったもの、今何を思っているのか。周晴はたぶん知りたいと思っていること、何も伝えることはできない。困惑する周晴の顔が容易に想像できるがどうしても本当のことは言えない。話したいことはたくさんある。会いたい。会って話したい。でもこんなこと誰が信じてくれるだろうか。自分は死神の娘で、人間ではないなどと。周晴とおなじ人間でない。好きになってもらう資格はない。こんな忌まわしい役に立たない力を持った人間でない自分はどこに行けばいいというのか。
ある日を境に周晴のメールが途絶えた。ついに愛想を尽かされた。女性らしく丸みを帯びつつあった想世子の体は枯れ枝のようになりふっくらとした柔らかい頬からは血の気がひいたままになった。
そして、出かけていた父は帰宅して驚愕した。想世子が固い顔で手を握ってきた。
「美璃ちゃんのところへ行っていたのね?」
死者のところから帰ってきたことを言い当てた。飛躍的に能力が向上していた。触れるだけでなく、においやかすかな感情からも鋭敏に感じ取ることができるようになっていた。
「美璃ちゃん亡くなったの?お父さんが連れて行ったの?どうして?どうしてそんなことができるの?お父さんなら止めることできるでしょう?魂をつなぎとめることできるでしょう?」
問い詰められ清嗣は一瞬たじろいだ。しかし死神としての矜持が勝った。
「そよ、私にはそんな力はない。私にできることは魂を次の場所へ連れて行くことだ。与えられた寿命を延ばしたり、魂を引き留めることはできない。教えたはずだ。私が行ったとき、魂はもう体を出ていた。体は冷たくなっていた。小さな魂は行き場所を探して泣いていた。美璃ちゃんはこの年齢で死ぬことは決まっていた。それを見届けるために、美璃ちゃんの魂が安らかにあるように行って来たのだよ。」
「周君は?周君のお父さんやお母さんには会ったの?」
「会ってはいない。でもそばにいたよ。泣き叫んでいたね。当たり前のことだ。お父さんは、何百回もそんな光景を見てきた。決して慣れるものではない。あの泣き声を忘れることはできない。でも美璃ちゃんを彼らのところにとどめ置くことはできない。これがお父さんたち死神の使命、本分なのだ」
「お父さんなんて大嫌い。ひどい人。どうしてあなたが私の父親なの。私生まれてきたくなかった。」
想世子は全身で両親を拒んだ。抱きしめようとする母親を振り払い、父親には近づかないでと叫んだ。窓に手をかけ身を乗り出した。母親が悲鳴をあげるが想世子には届かない。
「そよ、どんなに責められても構わない。君は私たちの娘だ。つらいだろうがそれは動かしようがない。君が生まれて来てくれた時私たちがどんなに幸福だったか・・・」
「私、もう生きていたくない。どうしたら私は死ねる?死神の娘は死ねるの?」
「どんなに憎んでくれていい。望むなら私たちは君から離れていこう。だけど、自分から死ぬなんて言わないでおくれ。私たちは死のうとしても死ねない。いつかは消滅という死を迎えるときはくる。でもそれまではたとえ体が亡くなっても死後の世界に行っても受け入れてはもらえない。そよがどこにもいけずにさまよい続けるなんて・・」
「だったらこのままでずっと生き続けるの?こんな忌まわしい状態でずっと生きていけない」
「そよ、お願いだ。自分を否定しないでくれ。」
想世子は一声絶望を叫んで、窓から飛び降りた。地面に叩きつけられるが、その体には傷一つつかない。
(ごめんね、かわいそうな美璃ちゃん。周くんごめんね。私、周君と違うんだ。人間じゃない。周君のそばになんていられない)
想世子の意識はそこで途絶えた。
『私たちも引っ越すことになりました。遠いところになるため連絡はできなくなります。どうか息災でいてください』
想世子からの連絡はなかった。父親からの短い手紙が届いた。
前の学校の友達に聞くと、想世子は一度も学校に来ないまま転校したそうだ。不思議なのはそれからあっという間に、みんなの記憶から想世子が忘れ去られてしまったことだ。
次にその友人に会った時「そんな子いたかな?」と首をかしげられた。歌声がきれいで・・と説明しても誰も思い出せないようだった。時間がたつと、そんな子は初めからいなかったようにも思えた。
周晴も美璃が突然に亡くなり、憔悴する母親を支えるのに毎日が精いっぱいでそうしているうちに月日は流れ、周晴の中でも想世子の思い出があいまいになっていった。
完全には忘れず、中学生のころ、とても好きな子がいたよなと思い出そうとするが、どんな姿かたちだったのか、ふにゃふにゃになってぼやけていくのだ。
だが高校生になりできた彼女ははじめての彼女でないことははっきりと分かった。ずっと前に初めて自分から好きだと伝えた相手がいたことは覚えていた。
最初で最後、二人で手をつないだ日に携帯で二人で写真を撮った。なかなか目線があわなくて半分見切れてしまったりして笑いあった。幼い恋だった。これから先もっと一緒にいたいと思った。写真だってもっと増えていくはずだった。それなのにそのたった一枚の写真さえいつかどこかでなくしたまま見つからない。
周晴は大学生になった。一時期はひどく気鬱になっていた母もどうにか立ち直り、仕事にも復帰した。
高校生の時に、母を長年支えた男性と再婚し、17歳下の妹、璃月が生まれた。周晴は母の再婚に対して何も意見しなかった。再婚の相談をされた時すでに母の胎内で命が育っていた。璃月は愛すべき妹だった。
ずっとサッカーを続けて、大学でもサッカー部で、強豪ゆえに練習量も試合数も多く、アルバイトや遊びはままならないが大学生活はそれなりに充実している。
大学生になって奇妙な友人ができた。名前は千崎拝祢(ハイネ)。
名前もその人となりもかなり変わっている。二人が友人と言うみんなが驚く。共通点はひとつもない。
拝祢は退廃的な美貌の男で性格は享楽的、悪いことはしないがとにかく謎めいている。哲学専攻で、留年しないか不思議なくらい大学に来ない。大学に現れると真っ先に声を周晴に声をかけてくる。昔からの知り合いのように親しげに空々しいほどの笑顔で。変な奴だと思うが、その話には引き込まれる。様々な国を旅した話には好奇心をかきたてられる。
学食で久しぶりに会った拝祢は誰に会った時よりも、心からうれしそうな顔をする。近況報告をし合うが、たいてい話の始まりは脈絡がない。
「僕の彼女の写真見る?」
「彼女がいたのか?初耳だ。」
「誰にも言ったことないよ。周が初めてさ。言ったらみんなが泣くからね」
本気か冗談か、他の人には決して言えないような前時代的な自己陶酔の発言も拝祢なら聞き流せてしまう。というより聞き流した方が己のためだと思う。
「別に見たくない。」
それは本心だ。友人の、殊に拝祢の彼女をみて何を言えというのか。数か月後には別の人に変わっているはずだ。それに“彼女”と定義づけていいものか分からない人たちが大勢いるに違いない。
「そう言わずに、周にはみてほしいんだよ。」
意図が分からない。断れば僻みだととられるだろうか。周晴にも付き合い始めの彼女がいる。うらやましいという要素はない。むしろ拝祢の彼女が気の毒になる。この男と付き合うにはよほど鈍いかよほど胆力がないと耐えられない。
「まあ、見てよ、きっと気にいるから」
周晴が気に入ってどうするのか。拝祢の恋愛規範は破たんしている。友人でいることが不思議なくらいだ。
この魔性の男に何人が泣かされたか分からない。時々姿を消し、またふらりと現れる。とにかく口が上手く、優しい振る舞いに魅入られる者は男女問わないともっぱらの評判だ。周晴としては、とらえどころがなく、芯もなく、この手の輩が本当は嫌いだ。自分からは関わりたくないのに拝祢はなぜか周晴を気に入っている。
特定の恋人がいても到底本気とは思えない。それに今まで「彼女の写真」など見せてくれたことはなかったのに今回はやけに執拗にすすめてくる。周晴が聞かなかったことにしていると、周晴のスマホに写真を送信してきた。
「勝手に送らないでくれ」
拝祢の目は微笑んでいるが、有無を言わせない。仕方なく添付された写真を開く。よくあるカップルの自撮り写真だが、確かに、拝祢の隣にいる女性に周晴の目はくぎ付けになった。初めて見る人、と思う。
しかしどこかで会ったことがある。懐かしさがこみあげたが、拝祢の次の一言でその懐かしさにあたたかくなった気持ちは一気に冷え込んだ。
「可愛いと思うだろう。よかったら紹介するよ」
「僕の彼女です、と紹介してくれるのか?」
「違うよ。僕の彼女としてではなく君の彼女候補として紹介すると言っている」
何を言っている。この男は。どういう紹介だ。
周晴が何も言わないでいると、理解していないのかと、拝祢はゆっくりと話す。
「僕、この子には正直もう飽きていてね。親御さんに見込まれて付き合ってみたんだけど。最初はよかったよ。美しいし気立てもいい。でも物足りない。人形を抱いているようだ。どうも打ち解けてくれなくて。一度は付き合った相手だから傷つけたくない。君になら安心して託せる」
あまりの身勝手さに周晴は激怒した。分かっていたがこいつは最低だ。この女性の親は何が良くてこの男を見込んだのか。
「断る。興味ない。自分でどうにかしろ。恋人を誰かに押し付けるなんて、人でなしだ」
「もっと楽に考えたら?頭が固いな。でもそういうところが、この子とお似合いだと思うんだが。」
周晴は拝祢の胸倉をつかんだ。振り上げかけた手が震えた。暴力はいけないと分かっている。
だが、拝祢はひるむどころかいたずらっ子のようにあかんべえをして見せた。その舌を見てぞっとした。叩いたりしたら自分の身に恐ろしいことが起こるのではという恐怖にとらわれた。
拝祢の舌は黒かった。べろりと出した舌は表面だけでなく全体が黒く見えた。一瞬で舌は引っ込んだので錯覚だと思うことにした。不気味だと舌は赤いものだという違和感はなかった。拝祢のような男の舌は黒くて当然だとも思った。
心の深淵に闇を飼っている拝祢。やわらかな色のセーターを着て、のりのきいたシャツが襟元からのぞいている。とても好青年風だが、こいつは芯まで腐ったやつだ。
「そこまでいやなら仕方ない。他の友人に紹介してみるよ」
相手かまわず自分の恋人を押し付けようとする非道すぎて言葉が出ない。愛おしそうに彼女の写真をなでる。そのきれいな大きな手で優しく撫で、同時にその手で飢えた野獣たちの群れに平気で押し出す。見知らぬ女性だが彼女が男の手から手へと渡り歩かされる様子が脳内に浮かんだ。拝祢に魅了されて疑うこともせずに。
彼女の何か言いたげなまなざしが心に刺さる。このままにしておいたら誰か分からない男に押し付けられるかもしれない。しかし自分にも付き合い始めの彼女がいる。この女性に同情し、非道な拝祢には怒りを禁じえないが、だからといって彼女を引き受けることはできない。拝祢は周晴の心の内を見透かしたように、頬杖をついたまま黙って見ている。
「君の言いたいことは分かる。彼女がいることも知っている。君は恋人への誠意と僕の彼女への同情で揺れている。簡単に飛びつくような男じゃない。僕が君と友達でいたい所以だよ。君らしくて実に好ましい。だからこそ君に彼女を託したい。もし気が変わったら教えてよ」
「俺の彼女に手を出すなよ。そうやって外堀をうめるようなやり方をしたら承知しない」
拝祢は両手を上げる。
「約束する。そんなことはしない。君の彼女にはなんの魅力も感じないからね。君は彼女にはもったいない。彼女が君の何にひかれているか知っているか?それを君がずっと知らないことを祈るよ」
どうして、そんな心をえぐるようなことを言えるのだろう。拝祢の精緻な美貌が恐ろしい。無邪気な青年の時もあれば老獪な中年にも見える。
「自分で気づくしかないよね。自分で恋の痛手を負う勇気がない者はそのうわずみさえもすする権利はない。」
意地でも拝祢の話には乗らないと決意した。ものすごく疲れるやり取りだった。
部活には行ったが、周晴らしくないミスを連発して仲間たちを心配させた。
人の心をかきまわすだけかきまわして拝祢は突き放す。親しげな時との反動がむちのようにしなって心に赤い傷をつけるが、気づいた時にはもう離れることができなくなっている。
拝祢は、自分が恋愛に夢を見たときがあったろうかと振り返る。飽きるほど遊び、胸やけがするほど恋をしてきた。誰もが拝祢の与える愛される喜びと快楽に夢中になった。しかし拝祢の方はそのどちらも感じたことはない。彼ら相手に、心をうめつくすほどの思いにとらわれたことがない。
拝祢も死神の子どもである。母が死神、父は死後の国と現世の間にある川をわたる舟の船頭だった。死者を舟に乗せ向こう岸へと運ぶ。ある日、父親の多鹿(タジカ)は船からその川へ身を投げ、そのまま流され二度と戻らなかった。拝祢は父と一緒に船に乗っていた。父は両手を広げて後ろに倒れ吸い込まれるように川の流れに飲み込まれていった。
もとから感情表現に乏しく口数の少ない父だった。ただその時だけは、拝祢の額をそっとなで、熱をはかるときのように額に当てた。そして手を瞼の上にずらし、額にふっと息をふきかけた。
「目をつぶっていなさい。お父さんがいいというまでしばらく開けてはいけない。達者でな。おまえはいつだっていい子だった。幸せを祈っている。」
父にしては長い言葉だった。父の言葉はいつも短かった。結局父から「目を開けてよい」という声はしなかった。目を開けると茫々とした川があるだけだった。
あとから分かったがそれは父の能力で苦しみや精神的な衝撃をやわらげたり忘れさせたりできる。拝祢にその力が効いたかは拝祢にしか分からない。拝祢は取り乱すこともなく父がいなくなったことを受け入れているようにみえた。父の多鹿は仕事をしている時も楽しそうでも自分の役割に誇りをもっているわけでも、逆に不満をもっている様子もなかった。だから川に飛び込む理由が見当たらない。
拝祢は幼いころから自分が何者であるかを知っていた。麗しい死神の母のタヒラは人間の世界では踊り子だった。拝祢を産むと父に預けた。拝祢の子守唄は川の流れる音、父の聞こえないくらい小さな歌声だった。
母の踊りは観た者が天にも昇る心地となると称される見事な艶やかな舞と言われた。タヒラはその美貌と体と踊りで莫大な財を成した。死神としても一流でほとんどの者がこの世の憂いを脱ぎ捨てて、死へと旅立つのだった。
父がいなくなったあとは母と暮らすようになるかと思われたが、拝祢も母も共に暮らすことを拒んだ。母は拝祢に何不自由ない生活をさせてくれたが、抱いてくれたこともなく、会話もほとんどなかった。拝祢は口が滑らかでキザな口説き文句を息をするように繰り出すのだが、父にしても母にしても拝祢に言葉で伝えることを教えたようには見えなかった。
父がいなくなったあと、他の死神たちが後見人となり、面倒をみて躾けてくれたおかげである。言葉は武器になる。美しい少年はどこの家でも大切にされたが、拝祢には決定的に欠けているものがあった。心の安寧、安定した帰る場所。
成長して人間の世界でひとり暮らしを始めると、母が与えてくれた高層マンションに一人で住み、同居人とはひと時の夢とうつろな恋を楽しんで、相手は頻繁にかわった。彼らは死神である拝祢の練習台であり、実験台でもあった。少年から青年にかわりつつある美しい拝祢を弄んでいるはずが、実は、手の上で転がされて観察されて、そして捨てられ、その後、あまり年月を経たずに死期を迎え、死神としての拝祢に再会することになるのだった。
幼馴染で遠縁の娘、想世子は、そんな拝祢を苦々しく見ている。拝祢を取り巻く環境を思えば、無理もないとも思う。決して好きではないが、嫌いにもなれない。死神たちに序列はないとされているが、拝祢の母親は由緒正しい血統で地位は高く優秀ではあった。奔放にふるまっても咎める者はいない。想世子は、拝祢の母親が自分の母親でなくて本当によかったと思っている。息子に与えたものはその命と美貌と死神の社会での地位、そして裕福な暮らしである。十分だと思われるかもしれないが、息子に一切の関心を示さない彼女が母であったなら、自分はどうなっていたかと想像するとうすら寒くなる。なぜなら今、想世子がいるのは、献身的な母の愛情のためにほかならないからだ。拝祢の母であったなら、最初から見放していた。
人間の世界で生まれ育った想世子が、「ふるさと」と呼ばれる死神だけの居住地に戻ってきたのが人間でいう14歳の頃。心を閉ざしていた。拝祢は入れ替わるように人間の世界に行くのだが、その前のわずかな期間、想世子の父親から人間の世界で生きるための知識や人間とはという心得を教わっていた。正直新しい生活に心が浮き立ち、ほとんど話をきいていなかったのだが。
死神は相対的に感情表現も控えめで、表情も乏しい。想世子は生きた人形のようだった。波打つ髪にはずっと櫛を通していないようにもみえた。
拝祢は美しいお人形さんを愛でるようにさっそく話しかけたが、想世子は無愛想で返事もしなかった。そこに誰もいないように、視線は何もない空を見つめていた。わずかな感情の動きも読み取れない想世子に拝祢はめげずに話しかけ続けた。人間も死神も拝祢を見たらその魅力にそわそわするのに、自分にまったく関心をもたない想世子に心を惹かれた。自分に関心をもってくれないと言う点は母のタヒラと同じだった。
タヒラに関心をもってもらうことはおそらくこの先もない。生活にじゅうぶんすぎるお金をくれるだけ上出来だと思う。しかし日を追うごとに想世子の時々揺れる瞳や小さなため息に、手ごたえを感じていた。
(美しい想世子、僕の可愛い生きたお人形さん。なんて綺麗なんだ。ひどく扱ったら壊れてしまうかな。どのくらいひどくしたら壊れるのかな。人間もそうだろうか。限りある命の人形がくりひろげる人間の世界、早く行きたい。)
想世子の両親は、一時は消滅を自ら望むほどに思いつめ、赤子同然になってしまった想世子を、こんな風にしてしまったのは自分達だと言いながら、今まで以上に手厚く辛抱強く世話をした。
抜け殻だったが、死神たちの日常を目の前にするうちに、何の役にも立たない忌まわしい能力をもつ自分を到底認めることはできないと思っていたが、血とは不思議なもので、想世子の中の死神の血が現実を受け入れることを選んだ。
人間の世界では楽しかったということしか覚えていない。「ふるさと」に帰ってくる直前のことはあまり記憶がない。ふるさとについたころずっと泣いていた。元いたところに帰りたかったけど、ならば帰るかと聞かれればやっぱりいやだと駄々をこねた。会いたい人がいるのに会いたくない。そんな相反する気持ちから手を左右から引っ張られて体がびりびりぎしぎしと音を立てた。記憶があいまいになったのは、ある日お招きをうけた病院のような白い建物に住む父の友人と会ってからだと思う。
「どんな死でも動じないのが死神。その娘ならどんな現実にも順応できるはず」
突き放したようで、きっとだいじょうぶだと安心させるような言葉。そう言って彼は想世子の額を指でなぞった。何かの字を書いたようにも思えるその指の動きはよどみなく額を滑り離れて行った。
「助かりました。私のやり方では効かないようでしたので」
父と友人が話しているのを遠くからもう一人の自分が聞いていた。
拝祢は時折、想世子の元を訪れ、話をしていく。想世子は拝祢とも普通に話せるようになっていた。拝祢の歯の浮くようなお世辞も、口説き文句も右から左だ。そっけなくされても拝祢は、鼻白むこともなく「まだまだ僕は修業が足りないね」、と微笑むのだった。
会った当初は歯の浮くような言葉をささやくくせに、それに続く拝祢の話の半分は他の人間たちとの恋愛話だ。想世子は冷ややかな目でそれを聞き流している。相手の人間の容姿、性別、年齢、性格、国籍、出自、過去、すべて一貫性がない。ありとあらゆる人間、自分に興味をもってくれる人間ならどんな人間でもいいみたいだった。
中には純粋で真面目な相手もいるが、そんな相手ほど拝祢は軽く扱う。拝祢の口癖は、「汚れた人間ほど、死ぬときは美しく。最低のゴミに最も高貴な死を」だった。
死神はその死を司る人間をえり好みしないものだが、拝祢は自分が気に入った者とそうでない者の扱いの差がある。
想世子はそんな拝祢に呆れている。父のような高潔な死神の姿とかけ離れている。
「どうしていつか別れると分かっているのにそんなに楽しそうなの?」
大抵は拝祢が捨てるのだが、あえて「別れる」という言葉を使う。あまりに相手が気の毒だからだ。拝祢がふるさとに帰ってくるのは大抵、恋愛と言う遊戯がひとつ終わった時だ。決定的な別れを言わず姿を消す。相手が必死に探し、憔悴しても気にしていない。
「終わるとわかっているからさ。永遠の愛より期限が見えている愛の方が好きだな。いつか終わると思うから一層愛しさが増す。」
「あなたはその人たちの死ぬときが分かるの?」
「もうすぐ命の火が消えることを感じることはできるけど、いつかまでは分からない。死者のところへ行って、その死を司どり、見届け、次の場所へ導くだけだよ」
「愛した人の死もなんとも思わない?」
「感傷は今もあるよ。初めの頃はね、すごく苦しかった。でも僕がその人の美しい思い出となっているなら、死による別れもそう悪くないと思うようになったよ」
「ぜんぜん理解できない。私は耐えられない」
「ああ、君の能力の話だったね。悪趣味でかわいそうな。帯に短し襷に流しの能力だね。」
想世子の能力を貶めながら、拝祢は想世子の手を取り、手首に走る青い血管を指でなぞる。
「首、手首、足首。3つの“首”を暖めるといいらしい。そしてこの3つの“首”は敏感なところらしいよ」
「気持ち悪いこと言わないで。お母様に言うわよ」
拝祢の眉間に一瞬皺がよる。拝祢の母タヒラが息子に関心がないことを知っていての強烈な嫌味だった。何をしてもお金をいくら使ってもタヒラは何も言わない。手紙の一つもよこさない。タヒラを見るのはもっぱら写真やポスター、動画の中だった。
想世子は手を強く振り払った。想世子は拝祢にもう慣れた。拝祢のやり方は、優しく甘い言葉、自尊心をくすぐり、劣等感を癒す。「好きだよ」「君は特別」、拝祢にしてみればあいさつと同程度で、
そして物心両方を満足させる。そしてある日、笑顔で、君のためだよと言いながら別れを告げる。ふわりと抱き上げ、手を放す。複雑な感情を持つ人間ほど御しやすく惚れさせやすいと嘯く。
「もったいないね。死に顔さえ愛おしいと突き抜けられたら、君に勝るやつなどいないよ。君の美しさならどんなやつだって思いのままだ。好きな相手と触れ合わないまま枯れてしまうのかい?残念すぎる。良ければ僕は今空いているよ。君に死に顔を見られるなら本望だ」
「あなたこそ悪趣味だわ。死神を汚しているあなたとなんてありえない」
「手厳しいことを言っている顔もきれいだよ。そういえば君、人間に恋したことがあるね。図星かな」
想世子の表情は変わらないが、白い耳たぶがほんのりとする。誰を思い浮かべているのか、拝祢は想世子の反応が愛おしくてならない。同じ死神の子なのになぜこんなにも想世子と自分は違うのか。両親の愛と人間の世界での楽しい記憶。清らかな心。決して自分のものにはなってくれない。拝祢はすべてとの縁が希薄だった。親とも人間たちとも。
本当は永遠の愛がどういうものか見てみたい。自分には生涯縁がないそれを愛する想世子から見せてもらいたい。想世子は決して自分を愛さない。想世子が愛してくれないなら想世子の目に映るものを知りたい。
想世子が恋をした相手とはどんな人物だろうか。想世子が恋をしたらどんなふうになるかを見てみたい。僕の手のひらの上で見知らぬ誰かとの恋に溺れて身を焦がす最高のダンスを見てみたい。
「僕と一緒に人間の世界に戻らないか。ここにいたって日々が虚しく過ぎるだけだ。僕を好きになってくれなんて言わない。一緒にいなくていい。君が恋を忘れてこのまま静かに生きているのを見ているのが辛いんだ。」
「あなたにそんなこと言われても一片も信じられない。あなたは自分が恋をすることに飽きているの。私を思うふりをして、高みの見物をしたいだけ。」
「お見通しだね。ねえ、君の好きな人間を僕も自分のものにしたいと思っていたらどうする?彼の魂はとびきり上質だろうね。彼の死を司るのは僕だ。彼の一生につきまとって、君がいないばかりに、彼は家族から看取られるのではなく、そばにいるのは僕ただ一人。」
「拝祢。あなたは本当に最低ね。人の死は公平に扱うべきでしょう。これをきかれたらただではすまないわ。何がほしいの?私?それともその人間?」
「君には嘘をつけない。両方欲しい。僕は自分で自分を止められない。君にそばにいて彼と僕の間にいてほしい。僕を止めてほしい」
その言葉は真実のように聞こえた。そして両方欲しいといいながら、機会はいくらでもあったのに拝祢に無理矢理迫られたことはない。
拝祢は恋愛には貪欲だったが、性愛に関しては餓えたところがない。それが退廃的でありながらどこか清廉な印象さえ与える。相手の方から我を忘れて拝祢を求めていく。拝祢はそれにこたえて相手の望む悦楽を与える。
しかし、誰ひとり拝祢を満足させる者はいない。拝祢が通った後には恋情と欲望に焦がれて生きながら死んでいる屍が累々と横たわっている。
想世子が拝祢と人間の世界へ戻ろうと思った理由は様々ある。主にはやはり人間の世界が恋しくなったこと、拝祢がこのまま不行跡を続ければさすがに同胞たちが黙っていないだろうと思ったからである。母のタヒラの影響力も限度がある。誰か監視をつけるべきだという声がある中、想世子が手をあげた。二人の仲を疑う者、両親からの反対はあったが、想世子は懇願に近い形で押し切った。子どもができるようなことがあれば、すぐにでも二人とも戻らせるという条件がついた。
想世子は人間の世界に続く扉を開ける。扉を開けたらすでに街の中であったり、果てしない線路を走る列車の中であったり、大海をすすむ船の上であったりする。時々によって違うが、どこに行くにしてもその扉を開けていく。
想世子が望めば、少女の頃いた場所ではなく、他の地域、他の国でも行けた。しかし、想世子は楽しい思い出とあいまいな記憶、おそらく悲しい記憶がある懐かしい場所へと戻った。髪を真っ黒に染め、短く切った。毛先が頬のあたりでくるりと巻いている。丸いメガネは、このごろ、強く意識すると死相が見えるようになってきた鋭敏な感覚を遮断するためのものだ。気休めにしかならないが、レンズ越しに見える久しぶりに人間の世界はすべてがきらめいて見えた。
さざめくように伝わってくるのはそこで生きる人々の喜び、苦しみ。それは決して不快でなく愛おしく温かく想世子を迎え、そして包んでくれた。
拝祢が女性を連れているということはすぐに評判になった。漆黒の艶髪、背が高く、その人にしか出せない雰囲気のある女性だという。ピアノ講師やホテルのラウンジやバーでピアノを弾いて生計をたてているその女性は、その印象だけだと拝祢が見せつけてきた写真の女性とは違うように周晴には思えた。
拝祢が怪我をして入院したというので、周晴はお見舞いに行った。三角関係のもつれから階段から突き飛ばされた。実際は拝祢になびいた女性の恋人が激怒して彼女につめよったところに居合わせてしまい“間男”拝祢は制裁を受けた。拝祢にしてみれば珍しくもないがそうなる前に姿を消すつもりがその矢先でのことだった。
拝祢は相手については、突然からまれて突き飛ばされたと警察には語った。
「相手は酔っていたよ。酒とかわいそうな自分にね」
拝祢は被害届を出すこともなく治療費も負担してもらうこともなかった。
「どうしてそんなに冷静なんだ。」
「僕を突き落した酔っぱらいはたぶん基本的には善良なんだと思う。やや依存的だが持って生まれた善良さを踏みにじられて育った。善良な人間が善良なままで生きられない世の中で窒息しそうになっていた。僕にけがをさせたことでずっと苛まれるだろうね。本当に息絶えてしまうかも。生まれてからずっともうじゅうぶんに彼は罰を受けている。」
傍目には幸せな二人、女性を誘惑したのは拝祢の方で、彼は激怒した。彼女にも拝祢にも、おめおめと彼女を奪われる情けない自分にも。
(君はほんとうに彼女が好きなんだね。)
拝祢の言葉に男は逆上した。
(違う、こいつが俺に惚れているんだ。俺がいないとだめだって言ったくせに)
彼は彼女にモラルハラスメントを行っていた。彼は自己肯定感が低く、それであるからか自分を大きく見せようとする。彼女に依存し、彼女にも自分無しではいられないといてほしいと思っていた。それなのに、優れた容姿、高学歴、裕福そうな男、自分たちのような者たちにはまったく関心もなさそうな男が戯れに手をだし、彼女も舞い上がった。
自分だけ置いていかれる。自分が築き上げた二人だけの世界を簡単に壊されてしまう。
気が付いたら目の前から憎き間男は消え、肉体が固いものに当たる音がした。
悲鳴、救急車のサイレン、カメラのシャッター音、彼女の泣き声、自分の心臓が早鐘を打つ音。彼は彼女を引きずるようにしてその場を立ち去った。二人のあとを黒い犬が音もなくついていった。拝祢の飼い犬、名前はアロガン。
もともとは拝祢の父とともに船に乗っていた。愛情のある飼い主なら決してつけない名前の犬。それでも拝祢たちのそばにいる。彼ら二人がこれからどんな人生をたどるのかはアロガンだけが見ている。
「お見舞いありがとう。来てくれたのは君くらいなものだ」
「嘘言うな。病棟の人が言っていたぞ。押しかけてきて困るって。ほとんど断っているそうじゃないか」
「ばれていたか。まだ痛むんだ。会いたい人くらい自分で決めたい」
「そのうち誰も来なくなるぞ。心配してくれる人を大事にしろ」
「いいよ。離れたければ。今回のことは人の整理をするのにちょうどいい。顔を見て元気になれるような人じゃなければ会いたくない」
本当に心配してくる人もいれば物見高い人もいる。拝祢はそのいずれにも会わなかった。
病室のドアが開き、音もなく入り込んできたのは、拝祢や周晴と同年代の女性だった。噂の彼女だな、と周晴は思った。伝え聞いた特徴と一致している。彼女は目を細めて周晴に会釈する。黒髪と白い肌に赤い唇の3色、それだけで美しい。瞳は青の洞窟のような色。
「いつもありがとう。今日も美しいね」
彼女は返事もしないで、窓際に積まれた本を紙袋に入れ、また新しい本を何冊か同じ場所に平積みした。
「君が選んだ本、どれも面白かったよ。さすがだ。新しい本もありがとう」
「今日はついでです。ロビーでピアノを弾かせてもらうので」
「ああ、そうか。月一回の日だったね。周、こちらは想世子さん。ここにボランティアで入院されている方々のためにピアノを弾きに来ているんだ。想世子、こちらは和田周晴君だ。いつも話している・・」
2人の間を邪魔しては悪いとそろそろと席を立ちかけた周晴はどきりとする。想世子と言う名前、そして想世子の視線の両方にからめとられて動けない感じがする。しかしすぐその視線の強さはほぐれ、柔らかいものに変わっている。
「なあ、一緒に聴きに行こう。久しぶりに聴きたい。周、車椅子を押してくれないか」
「拝祢、無理を言ってはいけません。どうぞお気になさらないで。職員の方にお願いしますから。」
想世子は、病室を出て行った。
「照れているね。かわいいな。あの子だよ。僕が紹介したいって言っていた子」
「あの写真とはずいぶん違うな」
「そうだね。僕はどっちも好きだな。君は前の方がいいかい?彼女に言おうか。すぐ君好みに変えてくれるよ。見た目によらず従順な女だよ」
「やめろ。俺は関心ないと言っただろう。それに彼女にも失礼過ぎる」
「正直になれ。美しいものに目がいくのは普通だろ。」
「お前の普通にあてはめるな。」
「ふつう、って何だろうね。自分を普通って言っている人の方が思わぬ普通でない行動をするものだよ。」
まともに話す気にもなれない。それでも周晴は拝祢の車椅子を押してやる。
会場は受付から少し離れた待合スペースにあった。先代の院長が寄贈したと言う小さなピアノの前に想世子がいて、音合わせをしている。バイオリンが趣味の医師と二人で何曲か披露するようだ。
演奏が始まると皆静かに聴き入る。医師のバイオリンの腕前は玄人はだしで、その音色が引き立つように想世子がピアノを奏でる。周晴は音楽のことはさっぱり分からない。
それでも二人の演奏は素晴らしく息があっていると思った。天上からの音楽、そんな言葉が浮かぶ。誰もが知っているであろう名曲、この曲はこんなにも美しいものだったのか。
最後に想世子が弾き語りをする。日本語ではないその歌は古い映画の主題歌だという。少し低くそれでいてまろやかなこの声、どこかで聞いた。周晴はうなじに軽い痛みを覚え。痛みはうなじを這い上がっていき頭の中のどこかにたどりつく。記憶のどこか。それを考えているうちに万雷の拍手でミニコンサートは終わっていた。
このミニコンサートはいつも好評でこれまでピアノを弾いてくれていた婦人が高齢を理由に引退した後、想世子が担うようになったという。
周晴は、拝祢の思惑にのりたくない気持ちの一方で想世子への懐かしさとその佇まいにひきつけられる自分を制御できないでいた。有り体にいえば一目ぼれしてしまった。軽薄な友人に女性を紹介されてそれに反発してみたが、思いのほか美人で、心が動いてしまった。という陳腐なことはしたくなかったが、実際そうなのだった。
初めて会うはずなのに懐かしい。しかしその懐かしさの元をたどろうとしても途中で途切れてしまう。懐かしいからだけではない。その立ち姿、指先、声、丸メガネの奥の思慮深そうな瞳、すべてに心ひかれた。
彼女がいるのにちょっと美人だからと言って目移りするのは最低だと思う。拝祢があの黒い舌をのぞかせながらこちらをうかがっているのを想像して身震いがする。一目ぼれは一瞬、それが継続するはずがない。
花火は一瞬だから美しいし、想世子のような女性は少し離れたところから見るのがちょうどいい。
そう思うのに想世子ともっと近づきたい。拝祢といるとまるで人形のようだが本当はどんなふうに笑うのだろう。どんなことを考えてピアノを弾いているのだろう。案外抜けているかもしれない。そうだったら可愛いな。
拝祢を病室に送り届けて、周晴は拝祢がベッドに横たわるのを手伝ってやる。
「ありがとう」
拝祢は横になるとすぐに目を閉じた。まだどこか痛むのだろう。いつも涼しげな双眸の下には薄い隈ができている。
「痛くてよく眠れないときがある。でもきれいな音色を聴いたから今日はよく寝れそうだ」
拝祢がそんな弱気なことをいうことに驚く。痛み止めをもらおうか、と言っても力なく首をふった。
「早くよくなれ。」
「周、今日は来てくれてありがとう」
ありがとうと2回も口にした。この時だけは拝祢が年相応の青年にみえた。特別室にたった一人。入院費もかさむだろうがそれを支払ってくれる親がいる。拝祢の母親。一度だけ会ったことがあるが口もきけなくなるほど独特の香気をもった人だった。そこにはそんな母親がきた気配も痕跡もない。お見舞い希望は数あれど、一番来てほしい人、母親は支払いの時だけしか来たことがないのだろう。
そして、病室には寄らずに帰っていく。支払さえも人を寄越しているかもしれない。なにせ有名で多忙な舞踊家なのだから。
周晴は、複雑な思いを抱えながらもやはり拝祢と友人でいることをやめられなかった。
彼は美しさを鼻にかけ、尊大で不誠実、それでいていつも寂しそうで何かを探している。そういう落差を見せることが拝祢のやり口のひとつと分かっていても、彼とまた会ったら今度は自分から話しかけてやろうと思ってしまうのだった。
病室を出て、一階へ降りる。想世子が病院の職員と談笑していた。またお願いしますと言われて笑顔で応じている。想世子と目があう。黙礼すると顔周りの髪がふわりと揺れる。
近くで見るとあまり視線の位置が変わらない。踵の高い靴を履いているのを差し引いても背が高いというのは本当だった。
「拝祢を病室に送ってくださってありがとうございます」
「いいえ。大したことでは。コンサート、とてもよかったと思います。拝祢も気分よく寝てしまいました。」
想世子がふっと微笑む。よかったとしか言えない自分を笑ったのか、拝祢の寝顔を思って笑ったのか。いずれにしても雑味のない笑顔だった。
「あの、お疲れ様でした。病院だけどおいしいコーヒーが飲めるところがあるんです。一緒にどうですか?」
おいしいコーヒー、全国にチェーン店があるコーヒーショップ、周晴には味の違いなど分からない。想世子とはきっと拝祢のことで共通の見方があるようで、彼女とはそのことを語り合えるのではないかと思った。初対面でまともに話もしていないのに、いきなりお茶しましょう、なんてまるで拝祢のようだ。
そうだ、拝祢のせいにしてしまおう。想世子ともっと話したいのも下心みえみえで軽々しくお茶に誘うのも拝祢が変なことをふきこんだせいだ。拝祢の女なら断るか、誘いに乗ってくるようならその程度の女だ。
「いいですよ。喜んで。私も緊張したみたいで、コーヒー飲みたいです」
あっさりと承諾した想世子に安堵するやら、あきれるやら、周晴はどきまぎしながら彼女を隣接したコーヒーショップに案内する。それぞれに代金を支払い窓際の席に横並びに座る。
「おいしいですね」
ほっと息をついて、想世子が心から言う。そうだろうか。缶コーヒーよりは香りも新鮮で飲みやすいが、おいしいと口から自然にでるほどではない。そもそも周晴はあまりコーヒーを嗜まない。
「拝祢とは大学のお友達ですか?」
「まあ、そうです。一回生の時に、突然話しかけて来て・・。でも、いつも一緒にはいません。行動範囲も部活もも違います。講義の前とか、学食で会った時に少し話す程度です。それでも友達といっていいのかどうか・・・。そちらは?」
「私は高校生の前くらいからです。父の知り合いの息子さんです。私には兄か弟のような人です。」
「そうですか。ピアノはいつからされているんですか?よくわかりませんが、上手だってことはわかりました。それに聴いていてとても心地よかった・・です」
「母に幼いころから習いました。あとは独学です。ピアノを弾いているときは何も考えずにいられました。特に生業としたいわけではありませんでしたが。でもこうやってひかせていただいてみなさんによろこんでもらえて続けてよかったと思っています」
「みんな聞き惚れていました。続けてきてよかったですよ。入院されている方はつらいかもしれませんがまた明日からがんばろうって思ったんじゃないですか。俺は少なくともそう思いました。」
「ありがとうございます。拝祢からあなたのことはよく聞いています。思っていた通りの人でした。拝祢はあの通りあまり友人と言える人はいません。純粋に友達になってくれたのはあなたくらいしかいないと言っていました。」
想世子の横顔は完璧だった。丸みのある後頭部、眉間が高いので立体的な顔立ちをしている。顔にかかる髪を耳にかける仕草に胸が高鳴る。くるりとした毛先と丸いメガネが硬質な美貌を中和して柔和に見せている。
拝祢はどうしてこんな人を飽きたなんて言えるのだろうか。拝祢は美しいものに目がない。しかしその分気が多い。美しいものはいくらでもこの世界にはある。
しかし、周晴には美しいものがいくらあってもそこに好きと言う気持ちがなければ美しいものもからっぽだと思う。
この世に人はたくさんいるが好きな人はたった一人だと思いたい。そして、多少いびつであっても美しくなくても好きになるときは好きになる。
浮気をするような最低な男や女。結婚していてたとえ不和が生じていたとしてもまだ離婚もしていないのにそれぞれ他の人に慰めを求め、離婚したとたんに再婚してしまった父親。今は妹もいるし許しているが母親も同じだった。大人の心模様なんて知らない。大人だって子どもの心なんて自分たちの次だろう。
潔癖な十代初めの頃に男と女に戻った両親を見るのはとてもいやだった。周晴や今は亡き美璃がどれだけの思いだったか。美璃(ミリ)は外国の言葉で「小さくて可愛い」とか「愛おしいもの」とかいう意味があるらしい。その大事なもの、美璃が天に召された時、両親は半狂乱になって嘆き悲しんだ。失ったものの大きさに気づくのも何もかもすべて遅かった。両親はお互いを責めあった。様々な擦れ違いがあり、やり直す努力もせず結局は別れたことには触れずに。
自分は、絶対そんなことはしない。自分が選んだ相手といろんな相違も擦れ違いも越えていきたいと思ってきた。
(にいにはそんなことしないよね)
美璃が言っている。ずっと小さいままの美璃が。父や母、そして兄とまた一緒に暮らせると最後まで信じていたに違いない小さな妹。
「一人の人を幸せにできない者に二人目、三人目と幸せになる資格も可能性もない」
それは誰が言ったのか。どんなにきれいで誠実な言葉を並べてもそのように振る舞おうとしても恋に魅入られたら良識は吹っ飛んでしまう。そんな弱さを拝祢は十分に知っていて、何もかも仕組んで、周晴を理性と欲望の狭間に落とし込んでそのもがく様子を眺めて楽しもうとしている。
そう想像すると想世子が拝祢につかわされた悪魔のように思えてきた。我知らず不快感があらわれたのかもしれない。想世子が気遣わしげな表情になった。自分の感情のふり幅が大きいせいで、想世子に気を使わせてはならない。早く視界に入れないようにしないといけないのに、そのきれいな指先で心をかき乱される。鍵盤の上を滑らかに動く一本一本が長い指。もう二度と会わなければいい。
今日聞いた曲が何だったかもう忘れるくらいに、違いの分からないコーヒーの味とともに、彼女のことも忘れてしまえばいい。
「milimili」
想世子が呟いた。一瞬幻聴かと思った。
「最後に私が弾き語りをした曲です。私が作りました。ミリとは、小さくて可愛い、だそうです。他にもいろんな意味があるようですが、小さくて可愛い。大切な愛しいもの。が一番しっくりくると思います。ミリちゃん、という知り合いの女の子がいました。名前の通り小さくて可愛くてまるで太陽でした。私にとっても。はじめて作った曲ですが、曲名は最初から決めていました。ミリという単語を聞くとすごく温かい気持ちになる。ミリちゃんとつないだ手の感触も思い出す。髪を結ってあげたとき、細くて指通りの良い髪質まで思い出します」
さっきまで、心をかきみだしていると憎々しく見ていた指先、周晴の記憶によみがえったのはその指が美璃の髪を優しく梳いていく様子、美璃の髪を美しく結うことだけを考えている横顔。それを盗み見ている少年の自分。だいぶ見た目は変わったが、異国の貴婦人のような母親譲りの、青い目はそのままだった。髪と眉は、黒いのに目は青くて、メガネをかけていてもよくわかる。かつて、その青い目を見て初めて人に“好きだ”と言った。
「俺の妹もミリって名前でした。もうこの世にはいません。もう二度とその声を聞くことはできない。俺たちの小さくて可愛いミリとはもう永遠に会えません。あなたの知っているミリもそうですか?」
青い目はまるで泉のようだ。泉から涙があふれてくる。当然青くはなく透明な涙が想世子の頬をつたっていく。
「拝祢の彼女として二度と会うまいって思われようとしました。でもあなたを見たらだめだった。私のつくったミリちゃんの歌を聴いてほしかった。私の知っているミリちゃんとあなたの大切なミリちゃんはきっと同じです。あなたはミリちゃんのお兄さん、周君。」
「ミリのために作ってくれたのですね。ミリはあなたのこと大好きでした。あなたが結ってくれた日はお風呂に入らないって大騒ぎで・・。あなたの髪にあこがれていました。今の髪形をみたら驚くよ。ミリや俺はあなたをなんて呼んでいましたか?俺の記憶と一緒だったらうれしいな」
「呼んでみてもらえますか?自分で自分を呼ぶのは恥ずかしいです。」
「そよちゃん」
周晴は少し躊躇した後、そう呼んだ。父はそよ、と呼ぶ。しかしそれ以外は、想世子か想世子さん、想世子ちゃんと呼ぶ。そよちゃんと呼ぶのは子どもの頃からの自分を知っている人たち。
「もう一度呼んで。」
かき乱すためではなく、懇願するように想世子の指が周晴の服をつかもうとして宙をさまよってちからなく落ちた。意識すれば見えてしまうかもしれない。でももう、何が見えてもどうなろうと今はどうでもよかった。今一度彼に思い出して名前を呼んでもらえるなら。
「そよちゃん。なんで返事くれなかったの?」
「もう一度」
「そよちゃん。ずいぶん印象が変わったね」
「周君、もう一度。しつこいかもしれないけどお願い。これで最後だから」
「そよちゃん。何回だって呼ぶよ。それにこれで最後になんてさせない。話したいことがたくさんある。泣かないで、そよちゃん。泣いていたら話せない」
周君、そよちゃんと、繰り返し呼び合う二人は、子どもに戻ったようだった。初めて会った時に戻ってまだ友達だった頃のように、お互いに芽生え始めた恋心を隠しながら美璃をはさんで3人で遊んでいた頃のように。
恋の進行速度は人それぞれ、恋草が燃え広がるまでの時間も人それぞれ、亀の歩みから、赤ちゃんのハイハイ、幼児のたどたどしい足取り、大人の全力疾走、坂道で加速がつきすぎて止められなくなるような速さ・・。
なぜこんな大切な思い出を忘れていたのかと悔やむが、今までの空白は必要なものだったとも思う。空白が大きいほど思いが通じ合った時の喜びははかりしれない。
しかし、現実のところ、想世子は周晴にようやく会えてうれしくてたまらない一方で、強固な意志をもって自分を抑え込まなければならず、周晴と会うととても疲れた。
少しでも気を抜くと周晴の死相が見える気配がするので、気をそらさなければならない。当然、身体的な接触はしない。周晴は戸惑っていることだろう。
中学生の頃は全身から好意を感じるくらいで、いささかたじたじとなるほどだった。周晴は、現在の彼女とはまだ完全に別れられていない。初恋の相手に再会するという幸運な偶然に遭遇したが、それ以上の進展は避けたかった。常に誠実でありたいと思っている。妹に顔向けできないようなことはしないと自分自身に誓っている。生きていたら高校生くらいになっている妹にきちんと紹介できるような相手でなければならないと思っている。夢や希望が抱えきれないほどあった小さな妹はある日突然帰らぬ人となった。美璃の無念に比べればどんなことも些末なことだ。
想世子のきれいな横顔、慈愛に満ちた笑顔、水面がゆれるような青い瞳、なだらかな肩、それを間近でみて、手を伸ばせば届くところにいる。今にも歌をくちずさむような半開きの唇にすいよせられてしまいそうだ。
しかし、胸の高鳴りとともに想世子といると、罪悪感と心の奥底にしまった何かを無理矢理引き出されるような、それを必死で引き出されまいとする葛藤で、苦しくなる。これは思いが深まる副作用の苦しみか、それとも自己嫌悪の苦しみか。
想世子と拝祢は珍しく二人並んで歩いていた。拝祢がドライブに誘ってきた。
「周晴もかわいそうに。生殺しだな」
そう言われるだろうとは思っていた。いまだ友人の域を超えない想世子と周晴は拝祢からみたら不思議な関係に見える。
「このままなのかい?清い友人関係で。まあ、このままなら周晴も今の彼女とそのままだろうね。浮気の定義は人それぞれだけど、想世子は間違いなく心の浮気相手だね。性欲は人間の彼女で発散して心は美しく清らかな君に満たしてもらう。触れてはいけない神聖な何かとして。きれいな思い出と共に。男としてはうらやましい限りだ。もっとも体の方も満たされたら最高だけど」
「本当・・最低ね」
「想世子は今一番美しいよ。今までも美しかったが、周晴と触れ合いたくてうずうずしている姿は最高に美しい。澄ました顔して飢えた女にはぞくぞくするよ。僕はいつでもいいよ。もう何も気にせず衝動に身を任せてもいいんじゃないか?」
「気持ち悪い。黙りなさい」
想世子はそれ以上返答しなかった。拝祢は人の心をざらりとなでる。ざらざらとなでるだけなでて責任をとらない。言葉は本当にいやらしいが、約束通り無理強いはしない。
時々こうして二人で歩くだけでそれを周りに吹聴することもない。けがをして入院して以来、体調は万全でなく、青白い顔をしている。言うことは最低だが、欲をぶつけあう行為ができるほどには回復していないことを、想世子は知っている。
「少し歩こうか」
車を駐車場にとめて二人と一匹はぶらぶらと歩く。デートコースでもなんでもない店も何もない通りを歩く。
拝祢の飼い犬アロガンはいつの間にか戻ってきていた。
アロガンはきちんと手入れされ食べさせてもらっているので、飼い主に似て美しい犬だった。お互いの感情表現は薄いが、忠実な犬で拝祢に寄り添って歩いている。
見慣れない街の見慣れない通りを歩く。暑くも寒くもない季節。風のない昼下がり、人はみなそれぞれの場所、家庭、学校、職場などにいて人も車も少なく静かだ。空は高く、名も知らぬ鳥が円を描くように飛んでいる。
歩道橋のある交差点にさしかかると拝祢が想世子の手を握ってくる。想世子は振りほどこうとするが拝祢は静かに力をこめて離そうとしない。その握り方が性的なものではなく何かを確かめようと、伝えようとしていることに気づいて想世子は抵抗をやめた。
「何も感じないかい?」
拝祢が歩道橋を眺めている。
「あのあたりから走る車の上に石を落した人がいたんだよ。面白半分に。」
握られている手から冷たさが這い登ってくる。これ以上、拝祢の話を聞くとよくない気がしたが、動くことができない。
「それで落とされた車の運転手はパニックになった。ここは周晴の妹さんが亡くなったところだ」
どくどくと体の一部分から音がする。想世子が死神の娘として能力に目覚めたとき一番最初に見たもの、それは周晴の妹の死相だった。汗がじわりとにじみ悪寒がする。
「父親とひさしぶりに会う日だった。家族がそろった日にあの子は亡くなった」
石を落された車が前の車を押し出すようにぶつかって青信号を渡っていた妹をはねた。向こう側に父親がいた。小さな体は即死だった。あまりに痛ましいと神が思ったのか顔や体にはほとんど傷がつかなかった。しかし、内臓や頭の中はひどく傷ついて、あっという間に心臓が止まった。確かに美璃は眠っているようだった。
「周晴はそれを一部始終見ていた」
どん、と体が押される感覚がして、想世子の眼前に耳の中に、その光景と音が映し出され聞こえてくる。悲鳴、かけよる人々、パトカーや救急車のサイレンの音。美璃の体は人々に阻まれて見えない。呆然として立ち尽くしているのは懐かしい少年のころの周晴。
母親が携帯電話を片手に震えている。うまく操作ができないようだ。
「誰か、誰か、助けてください」
「僕はだいじょうぶです。娘を早く助けてください。どうか早く・・お願いします」
両親が叫んでいる。なんて悲痛な光景だろう。
「このとき、僕は君のお父様とともに死神として初めて臨終に立ち会っていた。清嗣先生は淡々と本分を果たした。実に立派だった。周晴はあまりのことで動けなくなっていた。直前まで手をつないでいたのに、美璃は父親をみてうれしくてかけだした。美璃の魂はもう体から離れていて、行き場が分からず泣いていた。誰も自分に気づいてくれないしね。清嗣先生が美璃を抱き上げてずっとそばにいた。僕もずっと周晴の近くにいた。君の友人とはその時は知らなかった。石を落した者も、車の運転手たちもまだ生きている。彼らのせいで美璃は死んだが、法でもって彼らを裁けても、彼らは死をもって償うことはない。彼らも死ぬ時期が決まっているから。そして僕にもどんな高名な死神にもそれを動かすことはできない。どんな無残な現実があってもだ。」
想世子は拝祢の手を振り払い、内臓が引き絞られるような苦しみで座り込んでしまった。
拝祢はその様子に気をつかうでもなく、歩道橋のあたりを見つめ続けている。想世子は座っているのも辛くアロガンに寄りかかって吐き気を耐える。
「どうして、私をここへ連れてきたの?」
「残酷なことをしていると分かっている。でも君にここを覚えていてほしかった。周晴とここを通らないとも限らない。周晴はあれからここを一度も通っていない。僕が通らせていない。周晴の中ではここは存在していない場所」
拝祢は記憶を切断することができる。出来事とその出来事が起こった場所をつなく記憶の糸を切ってしまうことができる。
周晴はあれから一度もここを通ることがなく生活してきた。何度説明されてもその場所のことだけが覚えきれない。そこを通れば近道であってもそこを通らなければたどりつけないときでも、自然とよけるように仕向けている。
「周晴には死ぬまでここを通らせない。美璃が死んだ事実までは消せないが、あんなむごいことまで覚えていなくていいと思っている。記憶は五感すべてが影響してつながっている。記憶は破片だ。ばらばらなピースを形にしようと脳が思っても不思議ではない。妹の死を受け入れることはできてもどこでどうしてそうなったかまで受け入れなくていいと僕は思う。きっと僕は間違っている。特定の人間にだけそんなことをするのは許されない。でも周晴だけはそうしてあげたかった。どうしてかな。僕には珍しいことだね。他の人間の苦しみや辛すぎる現実は、宿命だろ?としか思わないのに」
他人のことを話すように拝祢は、語った。
「私といたら悪いことしか起こらないのではないかしら。周君は時々、記憶か何かを必死にたぐりよせようとしているの。表情で分かる。私との思い出で周君が辛い思いをするかもしれない。あなたの考えが分からない。つらい記憶から遠ざけようとしておきながら今反対のことをしている」
「君だからだよ。愛しい想世子。君はぜったい僕のものにはならない。周晴の死を司るのは僕でありたいが、彼が生の最期に見るのは君であってほしい。立てるかい?」
拝祢が想世子を立たせて抱きしめる。幼い子供をなだめるように。それは思いを共有する相手への信愛の抱きしめ方であり、想世子は素直に拝祢の背中に手をまわした。
「拝祢、あなたの私への好きや愛しいはどういうものなの?」
「言葉通りだよ。君にずっと恋をしている。今すぐでも強引に僕のものにしたいけど、君が周晴に恋をしているなら喜んで応援する。僕は周晴のことも好きだ。出会い方は事故現場で最悪だけど。友だちになりたくて、彼をずっと見守ってきた。僕の力はいつまで続くか分からない。とにかく周晴が何を思い出しても君が近くにいれば安心だ。君には苦しいだろうけどどうか頼まれてほしい。僕たちで彼を守ろう」
拝祢は特に恋愛に関しては、ひどい男である。誠実であったことは一度もない。傷つけられて捨てられた相手は数知れない。
愛しいと言われても信じられないが、周晴の妹の話は真実と思う。周晴はこのままその時の記憶をあいまいにしたまま生きてくれたらいいのに。自分がいなければそうできるはずだ。
しかし、想世子はこの先、周晴が誰を選ぼうともそれが自分でなくても、もうどこにも行くまいと思った。周晴の笑顔を見られるならガラスの破片が入った水を飲みこむような痛みだとしても、彼のそばにいたいと思うほどに、周晴を愛しているから。
高いところから物を落とすとそれはある程度の重みがあると、一直線に落ちていく。その様子が面白いと思った。その物の運命は自分のものだ。最初は小銭を落とした。「十円だってお金だよ」とたしなめる声は無視した。
この何の意味もないであろう行為が、心を落ち着かせた。こんな気持ちの落ちつかせ方をしているのは、自分しかいないかもしれない。重力にしたがって、吸い込まれるように下に落ちていく。決して重力に逆らって戻ってこない。成長してもそれをやめられなかった。落とすものは小銭からだんだん大きくなった。ひとけのないところに落とすのだし、誰に迷惑をかけるでもなし、人生の他のことはまじめにしているのだからこの小さなストレス解消は大目に見てほしい。
しかし、ある日もう少し刺激がほしくなった。自分のすることで、人がびっくりする様子が見たくなった。目の前に落ちてきたものに驚いて上を見上げる人の間抜けな顔。
歩道橋から石を落した後、一人の女の子が車にはねられた。騒然となる眼下の光景を見て、しまった、とんでもないことをしてしまったとその場から逃げだした。
そのあとのことは知らない。誰も追ってこなかった。それから少し自重して水にものを落とすようにした。
高いつり橋から落した時にできる波紋や水しぶきをみると心が落ち着いた。しかし、日に日にあの時の刺激的な思いを、水しぶきでは我慢できなくなった。誰もいないところならいいのだ。歩道橋から物をおとすなどという酔狂な失敗はもうしない。
どうしてあんな場所を選んだのか。そう、自分はおおむね善人で、仕事もまじめにしている。ささやかなストレス解消くらいしてもいい。
高層マンションに住んでいた。下で子どもたちが遊んでいた。高いところなので、子どもたちの声は聞こえない。あの子たちの上にこれを落としたらどうなるだろうか。その想像がどうにか自分の心を支えていた。
まともにまじめに生きているはずだったのに、いつしか家庭にほころびが生じていた。それはいつしか修復不可能なまでに裂けてしまった。ひとつがゆがむと次々と壊れだす。自分の中の悪魔が垣間見えたのだろうか。
気がつけば一人になっていた。家族がいなくなった部屋には前よりもっと寒くなった。もともと暖かい家庭とは言い難かった。それでも人の気配があった。今は一人、ぬくもりを感じるものは何もない。
ベランダに出て、袋入りの豆菓子を一口食べて、次は一つ落としてまた食べる。豆は軽いので風にあおられてどこかへ飛んでいく。木の上に落ちて鳥のえさになるか風に乗ってはるか遠くまで飛んでいくかもしれない。いずいれにしても二度とここに戻ってくることはない。
あの時、石を落した。そして女の子が車にはねられた。生死は分からない。実際に自分は手を下していない。
自分は犯罪といえるようなことは何もしていない。今までだって注意しながら物を落としていた。理性をもっていた。
なぜこんな孤独なのか。宝くじがあたって大金持ちになりたいとか、仕事で成功したいとかそんな大それたことは思っていない。ただささやかな楽しみを持ちながら平穏な生活がしたい。他に趣味もない。飲酒など大人のお遊びもしない。家にもまっすぐ帰っていた。
あてどなくさまよっているとあるビルの前にいた。そういえば子どもが通っていたピアノ教室が入っているビルだ。6階建てのビル。誰が入り込んで散策していても、不審がられない。ピアノ教室は3階にあった。ちょうど子どもたちの教室があっていたて、何人かの親たちが外から見守っている。
皆、優しい顔をしてわが子たちを見守っている。子どもたちが小さな手で鍵盤を触っている。先生はピアノ、子どもたちは小さなオルガンで、先生はとても美しい女性だった。異国の貴婦人のような立ち姿で、黒い髪に青い目をしていた。
細い銀縁のメガネをかけ、きれいな山形を描いた上唇、その朱色の唇が時々歌う。子どもたちをピアノの前に集めて、音程を正しくとれるための練習をさせる。「じょうず」と彼女は全員に言う。
先生のピアノにあわせて子どもたちがドレミで歌う。最期に子どもたちに大人気のアニメの主題歌を弾きはじめると、子どもたちがわっと盛り上がる。生徒たちにせがまれるまま先生は人気の曲を次々に弾いてくれる。そういえば、自分の子どものピアノ教室の様子を見たことがない。
その楽しそうな様子に見とれていると、「せんせいさようなら」と声がして、レッスンは終わっていた。子どもたちが次々に出て来て親たちと手をつないで帰っていく。誰も一人でいる自分に気がとめない。こうやって誰もいない教室に入って行っても。透明人間になった気分だ。
周晴の年の離れた妹、璃月は5才。ピアノを習いたいと自分から言い出した。想世子が講師をしているピアノ教室に入れてもらえることになり、毎週楽しみにしている。
「せんせいはピアノの魔法使いだよ!」
璃月も、美璃と同じようにすっかり想世子の虜だ。想世子と周晴はあと一歩が踏み出せない。周晴は自分のしっぽをかもうとぐるぐるまわる犬になった気持ちだ。
想世子も静かに微笑んで関係を問うわけでもないが、それでいて時々自分こらえるような揺れ動く表情をするからたまらなくなる。何かに邪魔されて指先さえ触れることもない。
璃月をピアノ教室に迎えに行ってほしいと母親から連絡があった。試験期間中で部活も休みで断る理由もない。
璃月は他の生徒よりお迎えが遅い方が、大好きなそよこせんせいをひとり占めできるこの時間が好きだ。
きれいで優しくて歌とピアノが上手なそよこせんせい。まん丸のメガネをかけていて、青い目にすいこまれそうでもっとよく見たくてメガネをはずしてくれないかなあと思う。
ママとパパとお兄ちゃんの次に好きな人。ママとパパとお兄ちゃんは順位なんてつけられない。そよこせんせいはみんなが使ったオルガンとピアノに消毒液をつけた布で順番に丁寧にふいていく。
そして部屋中を掃除する。掃除するときでも踊るように優雅なそよこせんせい。時々、璃月を見て「お迎えはまだかな」と気にしてくれる優しいそよこせんせい。窓からのびあがって下を見ると、今日はお兄ちゃんが来てくれた。
「おにいちゃん、せんせいと下に行くからそこで待っててね!」
お兄ちゃんはまぶしげに目を細めて上を見上げて手を振ってくれる。
「せんせい、りつきといっしょに来てください」
そよこせんせいは、まだやることがあるはずなのに「いいよ」とにっこりして手を握ってくれる。
お兄ちゃんとそよこせんせいが一緒にいるのを見るのが好きだ。だって二人とも大好きだから。大好きな二人の間に自分がいるのがうれしい。
想世子が来ている丈の長いカーディガンが腰のあたりから膨らんでいる。かくれんぼしている璃月の裾から細い細い足が出ている。
周晴はまたか、と思いながら、可愛くてならない。美璃もかくれんぼしてさがしてもらうのが好きだった。たった今気づいたかのように見つけてやった時のわくわくした顔が思い出される。
「あれ?うちの妹はどこにいったのかな?」
周晴はわざとゆっくり大きな声で言う。璃月のくすくす笑いの振動が、お腹に伝わってきて、想世子もくすぐったくて笑いをこらえる。
ばあ!と満足げな璃月がカーディガンの中から顔を出す。
「りつき、ここにいたの?分からなかったよ」
芝居がかった周晴、璃月も分かっていて、このくだりをいつでも繰り返す。ママの時にこれをすると真面目に対応されて興ざめする。お兄ちゃんはいつも付き合ってくれる。
「先生、連れて来てくれてありがとうございます。」
周晴は、そう言って璃月に手を伸ばそうとすると、想世子がふと上を見上げて、顔色を変えて再び璃月をカーディガンで覆った。
何かが落下してきて、カーディガンごと璃月を抱きしめた想世子の背中の上で割れた。想世子はその衝撃で沈み込んだ。周晴はとっさに二人の上に覆いかぶさったが、それ以上何も落ちては来なかった。砕けた破片は想世子の白いこめかみにも傷をつけていた。
周晴の記憶のとぎれとぎれになった部分音を立ててつながっていく。落下物が璃月に当たっていたら、自分がすぐ手を伸ばして璃月がカーディガンから出て来ていたら、自分は二度も妹を失っていたかもしれない。
あの日、自分がしっかり手を握っていたら、美璃は走り出したりしなかった。父に会えてうれしくて、自分も油断していた。
青信号だったのに、車は止まっていたはずなのに、突然動いて、美璃の体がふっとんだ。泣くこともひとことも発することなく美璃は地面に叩きつけられて、それから目を開けることはなかった。
人の命が消える瞬間を見たのは初めてだった。
璃月は大きな音とそよこせんせいの顔に傷がついているのを見て泣き出してしまった。
これは絶対誰かが落とした。今日は風もなく穏やかな天気で風で物が簡単に落ちるような日ではない。美璃の時も誰かが仕掛けなければ車が急発進するはずはない。
周晴は、ビルの中へ駆け込もうとする。誰がこんなことをしたか確かめなければならない。想世子がその背中にしがみつく。
「周君、行かないで。璃月ちゃんのそばにいてあげて」
「君が璃月といてくれ。俺は行かないとならない・・君と妹に怖い思いをさせた奴の顔を確かめる。」
周晴は想世子を振り切って、ビルの中へ突進していった。想世子は璃月を再びカーディガンごと包んで抱きしめた。
「璃月ちゃん。もうこわいことないよ。だいじょうだよ。せんせいがついている」
想世子は周晴にしがみついたときに見えた。周晴は天寿を全うして亡くなる。皺だらけの老いた周晴は安らかな顔をしている。そして多くの家族がその周りにいる。抱きしめた璃月も周晴と同じように年老いて白いベッドの上で眠るように息をひきとるところが見えた。きっと周晴は戻ってくる。想世子は初めてこの力に感謝した。この二人が無事ならこの体の痛みなどたいしたことはない。
やってしまった。つい、出来心で落としてしまった。自分はもう引き返せないところに来ているのかもしれない。当たる寸前で落としたつもりだったのに、今は昂揚感より焦りが大きかった。
二人と一緒にいた青年が憤怒の形相でビルに走りこんでいった。彼と鉢合わせしないように、どこに隠れようか、それとも非常階段から降りようかと逡巡していると、爪と床がふれあうようなチャッ、チャッという足音がして黒い物体が目の前にいた。子牛ほどもあるような大きな黒い犬だった。目の玉も黒くよく磨かれたピアノのように黒光りしている。いるはずのない生き物に遭遇すると人は言葉が出なくなるらしい。
犬はそんな人間の考えなどは知らないとばかり低くうなっている。犬が尻尾を振るときは喜んでいる時ばかりとは限らないと何かの本で読んだ。犬の長く伸びた影からゆっくりと何かが起き上がってきた。
ゆらゆらと立ち上がり、やがて完全に人の形になった。若い男で気圧されるほどの美貌だった。
影から人が生まれたことは気にならない。それほどまでに美しい男は、艶やかな笑みを浮かべている。微笑んだままの唇がゆっくりと動き、優雅な所作でお辞儀をした。
「こんにちは。卒爾ながら、お尋ねします。あれを落としたのはあなたですか?」
危険察知の本能で即座に首を横に振る。彼はたった今ここに現れた。何も見ていないはず。そう、落とした者はもうここにはいない。自分ではない。
自分は、たまたま上の階から降りてきた一利用者だ。そう言い聞かせてその単純な思考は歪みに染まっていく。
「おかしいですね。僕が何のことを言っているか理解していますか?ずっと中にいたなら、外で起こっていることを知らないはずなのに即座に否定する。普通なら何があったのか聞くところなのに、僕の問いにいとも簡単に首を振った。それなら、僕が次に何をするかも分かりますか?」
彼はそんな屁理屈を言った後、犬の耳元にささやいた。
「行け、アロガン」
短い指示のあと、黒い犬が小走りで近づいてきたと思ったら、ふくらはぎに激痛が走った。
犬が一縷の容赦もなくかみついてきた。悲鳴をあげて振り払おうと足をけり上げると、今度は手にかみついてきた。薄い手の甲の皮膚が裂ける感覚がある。
耐え難い痛みにその場に膝をつくと、美しい男も膝をつき目線をあわせている。こんな異常な状況なのに、彼の美しさに見惚れてしまう。時折見え隠れする彼の舌が黒く口の中が洞穴のようにみえるのは気のせいだろうか。
男の声は低く甘くとろりと耳に入り込んでくる。まるで愛の言葉をささやくかのように。
「もう一度聞きます。あれを落としたのはあなたですね?」
今度は問いかけではなく確認するように聞いてくる。抗えずにうなずいてしまった。美しい男は、手を額に当ててきて、ふっと息をふきかけた。そして少し手を放して広げた手を何かを集めるように握りこんだ。
「やっと見つけた。あなたをずっと探していた。」
美しい男は笑みを浮かべているが、その目は雄弁で侮蔑と怒りの炎が静かに燃えているのが痛みでもうろうとしても分かった。何者か分からないが怖い。
「見逃してください」
「見逃すもなにも、あなたが何かした証拠はないからね。あなたは法に裁かれることもないだろう。あなたは長生きするよ。稀有なまでの長寿の血統だ。いつまでも長生きなさい。この言葉は、僕からのはなむけだ。」
美しい男はそう言って、また犬の影とひとつになった。黒い大きな犬は、血を味わうように舌なめずりをしてから、去って行った。
その姿を声もなく見送りながら意識が途絶えた。次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。血だらけで倒れているのを、発見した青年が背負って連れ出してくれたそうだが、その特徴はあの美しい男とは違っていた。
それから、傷は治っても痛みが残った。楽しい思い出が、忘れていたはずの子どもの頃からのおぞましい記憶にとって代わられ、寝ても覚めてもその記憶が生々しく頭の中を支配した。
気が触れてしまえば楽なのに、ただ記憶に苛まれる日々、いつまでも明けない夜のように長い長い残りの人生の闇が口をあけて行く先に待ち構えていた。
アロガンに噛まれた傷はなかなか治らない。傷は消えても痛みはずっと残る。仕事や日常生活を送るのにも差し支えるほどに痛む。命を奪うことはできないが、拝祢はしまいこんだ記憶を引き出すこともできる。
この人間は幼少期ひどい扱いを受けていた。心の防衛本能でそれを記憶の奥底深くに沈めている。それをみんな引きずり出して一つにしてずっと記憶から消えないようにする。頭の片隅どころか真中に据える。一生忘れられないように。そして、その死んだ方がマシだというくらいの記憶に苦しめられながらなかなか死ねずに長生きする。拝祢ができる最大にして唯一の報復だった。
「最低な人生を送った人間こそ最も高貴な死を。そして今際までの苦しみを」
想世子のけがは重症ではなく、完治も早かった。ピアノ教室を運営する会社からも、周晴の両親からも見舞金があり、しばらく休暇を取り、仕事復帰した。また、ピアノ教室に子どもたちの楽しげな声が戻ってきた。
穏やかな毎日の中で、拝祢の体は徐々に弱っていった。検査結果も問題なく、入退院を繰り返し、最終的には一人暮らしの豪華な部屋で伏せる日々が続いた。死神の子で、人間のように死ぬのではなく、消滅すると信じている拝祢だが、この思い通りにならない体に困惑と焦燥が広がっていった。
想世子は毎日、見舞いに行き傍に付き添った。今までの驕慢な態度は影をひそめ、心細げに自分の手を見つめる拝祢がいた。周晴に誤解されるぞ、と拝祢は呆れていたが、一人にはしておけない。
ある日、部屋から拝祢のうめき声が聞こえた。初めて聞くような苦しそうな声、動揺し怯えている。部屋に行くと拝祢の指先が欠けている。まわりに肉片はない。まちがいなく指先は消えていた。このまま指先から、手、体が消えていくのかもしれない。死神にとっての死、消滅だが、実際にどうやって消滅するのか見たことがないし、その言葉を口にする勇気は二人にはない。
想世子はすぐに父の清嗣に連絡をした。清嗣はすぐに来てくれた。拝祢は若く大きな病気もしていない。怪我も治っているはずから消滅までまだ早いのではないかと、想世子が訴えると、清嗣は拝祢を注意深く観察した。
「長い話になる。拝祢の隣にいなさい」
拝祢は横になることを拒み、想世子と隣り合って座った。
「体の一部が消えかかっているのに、だいじょうぶだ、とはもう言えない。今から話すことを覚悟して聞いておいてほしい。とても残酷なことを話すが、知らないままいかせるのはかわいそうだ」
それは、とても残酷な現実の話だった。
拝祢のけがは、通常、人間ならいつ死んでいてもおかしくない重傷だった。死神としての部分が辛うじて、死を防いだが、時がたつと拝祢の体の中の様々な器官が壊死していった。
拝祢の父親、多鹿はもともとは人間だった。音楽と妻をこよなく愛する楽器職人で、自らも演奏しながら歌った。その朗々とした歌声の生きる喜びに満ちた若者に誇り高い死神のタヒラは懸想した。そして禁を犯した。
多鹿の妻は難しい病気にかかり、余命いくばくもなかった。悲嘆にくれる多鹿にタヒラはささやいた。
妻の命を長らえさせる代わりに、自分の夫となれ、と。人の定められた寿命を変えることはもっとも大きな禁であるが、タヒラは巧妙に他の死神たちの目をかいくぐり、多鹿の妻を生き長らえさせて、代わりに多鹿の人間としての命を終えさせた。そして多鹿はタヒラの夫となった。
死神が司る通常の死と認められないため、どこにも行くことができず、死者を乗せる舟のこぎ手となるしかなく、自分はどこにも行けないのに死者を送る仕事をする中、多鹿は心も死んだ。
タヒラは早々に多鹿に飽きたのか、二人の間に生まれた子ども、拝祢を多鹿に預け、いずこへかと去って行った。無垢で愛くるしい赤ん坊でも、多鹿の心を生き返らせることはできなかった。それでも、わずかに残った親としての責任感でしばらくは育てていた。
しかし、いつものように死者で満杯の船の中に、妻を見つけた。年老いていたが最愛の妻を見間違うはずはない。自分の命とひきかえにしてでも妻に生きてほしいと願った。どんな人生を送ったが分からないが宣告された余命よりははるかに長く生きたであろう妻を見て多鹿はようやくこの重たい櫂を手放してよいのだと思った。
足元で大人しく待つ息子を見ると少し躊躇した。この子は「おとうさま」と自分を呼び、自分以外に頼れる者のいない子である。タヒラを妻だと思ったことは一度もない。自分が妻とする人はたった一人だ。その妻との間に何人でも子どもが欲しかった。
しかし、自分の子どもはこの子ただ一人しかいない。もうすべてが限界に達していた。愛する人との子どもではないが、それでも自分の血を分けた子どもに悲しみを残したくない。自分が川に流されて沈んでいくのを見ないように、そして自分のことを忘れてくれるように祈りをこめて幼い拝祢の額に手を置いた。
「確かにお前を愛している。お前はいつだって、とてもいい子だった。でももう限界だ。弱い父親だったとうらんでくれていい。そして忘れてほしい」
幼子と年老いた最愛の妻を交互に目に焼き付けて多鹿は川に身を投じた。
拝祢は両手で顔を覆っている。
「それが僕が消滅することと因果関係があるのですか?半分人間なら人間のように死ぬことはできないのですか?」
「それは私にもわからない。タヒラの犯した禁の影響かもしれない。君のお父さんは最終的には君を置いて行ってしまったけれど、君を育ててくれたのはあの人で、間違いなく愛情を注いでいた。君は一人で川岸に座っていた。アロガンが君を守るように傍にいて、私に手紙をくわえて持ってきた。“自分は弱い父親です。申し訳ないが、どうかこの子を頼みます”と。どうしてお父さんがいなくなったか、ご両親が夫婦になった経緯を知りたいと言っていただろう。話すかどうか迷ったが、何も知らないままなのはあまりにも不憫だった」
「僕はもう消滅してしまうのか?僕はまだいくらも生きていない。いやだ、助けて。お母様・・・」
来るはずのない母親を呼ぶ拝祢は子どもに戻ってしまったようだった。刹那的で享楽的な生活をしていたのも死神の子としての傲慢さと自信からで、本当は半端な存在で軽んじていた人間と同じくもろいものだった。
しかしその終わり方は人間としてではなく、死神としての死、消滅である不思議な現実,しかも少しずつ体が消えていくという生き地獄のような消滅の仕方に拝祢は打ちのめされた。
「私にはタヒラがわからない。同じ死神としても親としても。何度も連絡を取ろうとしたが返信がない。呪われるがいい、タヒラ」
拝祢は清嗣の言葉に、ぱっと顔を上げた。目に強い光が宿っている。
「たとえ清嗣先生でも母を悪く言うことは許さない。こんなにも冷たくて情のない人、それでも僕の母だ。」
一度として、母子として過ごしたことがない。拝祢に母親らしい言葉をかけたことはあっただろうか。
莫大な財産と裕福な生活を与えてくれたが、拝祢がもっともほしいものは決してもらえないままだ。抱いてくれたことも優しい言葉も暖かいまなざしも成長を喜ぶことも二人の間にはなかった。それでも拝祢には、たった一人の母親。最期の時、そばにいてあげてほしいという想世子たちの懇願も無視するようだとしても。
その日から、拝祢は目に見えて欠けていった。それは生きながらにして業火に焼かれるに等しい壮絶な最期だった。それでも真実を知った拝祢は以前のように傲然とした態度で欠けていく自分を見つめていた。
「もう、君を抱けないね。みじめなことだ」
そんな自虐的な拝祢を想世子は抱きしめた。拝祢は憐れむなと抵抗したが、想世子は抱きしめ続けた。恋人として愛することはできなかった。しかし、拝祢を家族のように思っていることは伝えたかった。
拝祢の強張りが溶けていく。最期の時が近づいていた。
「想世子、君の気をひきたかった。今までごめん。そして、感謝している。もう一度周晴にも会いたいな。僕はどうして生まれてきたのだろう。想世子、つらいよ、こわくてたまらない。」
「拝祢、周君は元気だよ。拝祢のこと心配していた。周君は長生きする。私、見たの。美璃ちゃんのこと思い出したみたいだけど気丈にがんばっているよ。拝祢、あなたが大好き。あなたが大切。忘れない。生まれてきてくれてありがとう」
拝祢は想世子の腕の中で消滅した。消滅する瞬間まで、その目はずっと想世子を見つめていた。最後まで消えずに残ったその目玉は想世子の掌中で虹色に輝く珠になり、想世子は終生それを大切にした。
後日、拝祢の近親者と名乗る人物が、拝祢の住んでいた部屋の解約、退学届けなどの一切の後始末を完璧に行い、仙崎拝祢という人物はこの世から消えた。
想世子と周晴は、美璃がなくなった場所に来ていた。二人で出かけるのは何度目だろう。
手をつないで、なんの変哲もない通りを歩く。アロガンが想世子に寄り添って悠然と歩く。
周りの人たちはもう拝祢を忘れてしまっていた。初めからいなかったかのように話題にすらならない。
周晴はこの場所に来ても動じなかった。美璃を忘れたわけでも、なくなった瞬間の衝撃をなかったことにしているわけでもない。いつか人は必ず死ぬ。思いがけない別れが来る。耐え難い悲しみにさらされ立ち直れない時もある。これ以上ないほどに傷ついても残された者は後を追わない限りは、生きなければならない。お腹がすいて、いつしか笑えるようにもなる。時間が動くと悲しみも時間とともに過ぎ去っていく。いつまでも悲しみの中立ち止まっているようで、気が付くとその先をすでに生きている。
周晴は、拝祢を忘れていなかった。どうにも理解できない部分の多い男だったからこそ強烈で忘れられない友達だった。
「拝祢、どうしているかな。」
想世子は周晴が拝祢を忘れていないことに驚いたと同時にうれしかった。自分が何者であるか明かすときは来たと思った。周晴の最期の時を見た今となっては、たとえ何を知られても、それが永遠の別れとなっても怖くはなった。そしてきっと後悔はしないだろう。
「周君、私、聞いてほしいことがあるの。」
あなたに初めて会った時から好きだった。切ない気持ちも思いが伝わる喜びも知った。禁を犯した拝祢のお母さんの気持ちも少しだけわかる。あなたに聞いてほしい。私が何者であるかを。
もしかしたら怖がらせてしまって二度と会えないかもしれない。でも伝えたい。あなたを愛している。この思いとともに伝えたい。
「周君、私は・・」
数十年後、周晴は家族に看取られて亡くなった。死への道行は一人だが、見送る人は大勢いる。家族のために、自分の夢のために懸命に生きた。周晴もまた、最期の瞬間まで最愛の人を見つめていた。最愛の人の瞳は宇宙から見た時の地球のように青く、その瞳に励まされ癒されてともに人生を歩んできた。今にも閉じそうな周晴の目が家族の後ろに見たことのない人物をとらえた。その人は恭しくお辞儀をした。
「お迎えにきました。お会いできて光栄です。尊敬する高名な方のお身内ですね。私はまだまだ新米ですが、心を込めてあなたの御出立をお手伝いします。」
死神の娘