百合の君(76)

百合の君(76)

 膝を動かすたびに膳をひっくり返しそうになるし、後ろに控えている木怒山(きぬやま)の酒臭い息が漂ってきた。
 かつて神が祭りをご覧になったという舞台は、征夷大将軍の席となっている。しかし、出海(いずみ)に続いて喜林(きばやし)も将軍を称したため、どちらが舞台に席を取るかということで戦になりそうになった。そこで幕を張って半分に分け、それぞれの領土の位置関係から、東寄りを喜林、西寄りを出海の席としていた。
 したがって、その席は狭かった。今までの方が良いではないか、義郎(よしろう)は舌打ちをした。舞台から祭りを見物するのが将軍であり、それを譲るのは戦に負けるも同然と言われたが、やはり人間社会は不合理な事ばかりだ。猿がこんな席を頭領に用意したら、制裁を受けるに違いない。
「出海はいくつ御薪を出した?」
 正面の山には、無数の火のついた丸太が斜面を転がり落ちている。夜闇で山の輪郭が見えにくいので、それらはまるで星々が天から落ちて来るように見える。
「は、およそ五千と」
「ときに珊瑚(さんご)はどうしている?」
 義郎は、席を分ける幕に視線を移した。
「出海の後継者として、ご立派に成長されているそうでございます」
 珊瑚に厳しくし過ぎたかもしれない、義郎は生まれて初めて後悔をしていた。しかし、初めて会う我が子に、どう接するべきなのか分からなかった。自分が若い頃に受けた鍛錬をほどこしたつもりだったが、当時の師範の木怒山からは、殺意さえ感じられた。だからといって、自分の子を甘やかしては、君主として示しがつかない。
 御薪は繰り返し落ちていた。それはすでに去りしものと未だ来ぬものが同時に存在する光景であり、時として見る者を惑わせる。ふと義郎の脳裏に疑問がよぎった。先ほどの問いが珊瑚に聞かれたかもしれない。いや、むしろ珊瑚に聞かれることを期待して、私はお前のことを想っていると伝えたくて、わざとあの問いを発したのかもしれない。義郎は、己の弱さを恥じた。そして、木怒山に軽んじられることを恐れた。赤目で山猿とあだ名された義郎は、ただその強さだけで日の本の半分を支配している。少なくとも、本人はそう思っている。
 義郎はそれ以上何も言わず、川向うの山を眺めた。炎が滝のように落ちている。いま視界に入っているだけで、一体いくつあるのだろうか。気持ちを切り替えるために数えてみようかと思ったが、すぐにやめた。
「喜林からはいくつ出す?」
「えと、何をでしょうか?」
「御薪に決まっておろう」
「は、五千用意してございます」
「あと五千出せ」
「しかし・・・」
神酒尋(みきひろ)拡張で伐った木があろう」
「ははっ」
 義郎は酒を一口含んだ。いつまで経っても、美味いと思わない。

 異様な臭いで目が覚めた。いつの間にか酔って寝てしまったようだ。すでに夜は白んでいて、空に黒い煙が上がっているのが見えた。
 戦だ!
 反射的に義郎はそう思い、自ら革で作った鞘を手に取った。しかし次の瞬間みたのは、燃えている山だった。一瞬事態が理解できなかったが、すぐに分かった。多すぎる御薪が火災を引き起こしたのだ。
「川の水を汲んで火を消せ! このままでは村も城も焼け落ちるぞ!」
 叫ぶ義郎に、木怒山が駆け寄ってきた。その表情から、悪い知らせであることが分かる。
「将軍!」
「どうした!」
古実鳴(こみなり)で百姓一揆が起こりました!」
 言葉が出なかった。今まで正巻(まさまき)地方では、祭りの期間中、戦も一揆も起こったことがない。別に明文化された決まりがあるわけではないが、誰もが祭りに敬意を払っているのだ。
 義郎は幕の向こうの出海を睨みつけた。不気味に静まり返ったその布から、煙が発生しているように見える。その気配を察して、木怒山が義郎の手を押さえた。顔を横に振っている。
「ここは任せた」
 言い捨てて義郎は馬を走らせた。

百合の君(76)

百合の君(76)

あらすじ:出海浪親に対抗すべく、別の帝を擁立し、征夷大将軍となった喜林義郎。正巻地方最大のお祭り、奥噛祭りは例年通り開催されましたが・・・。 奥噛祭りについては、(3)や(7)でも言及されているので、振り返ってみても面白いかもしれません。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-27

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