
百合の君(75)
絶っっっっっ対許さない。怒りに燃えているのは浪親だけではなかった。菜那子さまの夫君がお仕えする帝を裏切って別の帝を立てるなんて、菜那子さまを裏切るも同然、土下座して額が土にめりこんで温泉が出て溶岩が流れてそれで焼け死んだとしても絶っっっっっっっっ対に許さない。
みつの怒りはまさに火を噴く山の如くだったが、落ち着いて考えてみると川照見盛継も並作もいない現在の出海が、あの鬼のような喜林義郎に勝てるわけがない。
どうしよう、と悩んだみつは、当然至るべき結果に至った。まずは上洛、かな。そう、まずは上洛して菜那子さまにお逢いして、憎き喜林を討伐する勅命をいただかないと。
みつの行動は早かった。ばあさんの部屋を片付け遺品の中から使えそうなものを見繕うと、それを土産として菜那子の屋敷を訪ねた。
庭の池を撫でる風は冷たく、もうすっかり秋だった。吾亦紅の咲く庭には紅葉が散り敷き、柔らかい光を反射していた。みつは菜那子との思い出に浸っていた。あの初めて目を見交した日、唇が自分のために動いたこと・・・。
揃えた指先が冷えてくる。いつの間にか、日が傾きかけていた。
ため息をついたみつは、次いで香のかおりを嗅いだ。菜那子さまだ、とみつが思う前にその心臓が大きく脈打った。簾を上げたまま、菜那子は洋装で現れた。
「変わった着物を、持ってきてくださったのね」
みつが献上したばあさんの遺品を、さっそく使ってくださったのだ。空のように青い生地に、みつには何というのか分からないが胸元に金の留め具がつき、腰から下はほおづきのように膨らんでいる。
「ずいぶん手間取ってしまいました、これで合っているかしら」
みつは息を飲んだ。ああ、さっきまで自分が手にしていた布が、いま菜那子さまをお包みしているのだ。みつは頬に菜那子の柔らかさとぬくもりを感じた。そのまま妄想が宇宙の膨張速度を超えてふくらむかと思われたが、ふと自分の膝が視界に入り、収縮に転じた。男のように無骨な黒い袴を穿いている。
みつは、百合隊で戦っていたときの穂乃を思い出した。
「囮など、わたくしにお申し付け下さればいいのです。君が自らなさることはございません」
当時十一歳だったみつは、穂乃に駆け寄った。そばには剣山みたいに矢を突き刺した敵の死体が転がっている。醜い男だった。無様にも大口開けて目の玉がひっくり返っていた。目と口を閉じさせれば少しはましになるのかもしれないが、触りたくないし、閉じたところで不細工なのは変わらないとみつは思った。傍らに立つ穂乃は凛々しかった。白い鉢巻きが、風になびいた。
「私は、浪親様の夢をただそばで見ていたいとは思いません。その夢を共に叶えたい。浪親様が私を守ってくださるというのなら、私も浪親様をお守りいたします。皆に対してもそうです。私が国母であるのは、単に君主の妻だからというのではなく、皆を守るからだと思っています」
今のみつの恰好は、その時の穂乃を真似たものだ。が、全然似合っていないと彼女自身は思っていた。それでもそんな恰好で参上したのは、万一のことがあれば命を賭してお守りする覚悟なのだと菜那子に伝えるためだった。
「出海殿の忠義、お上はまことに心強く思召しておられますよ」
二十歳になったみつは、もうひれ伏してもお腹は鳴らない。しかし、もう少し下の方がむずむずするようになった。
「わが主、出海浪親は今も喜林義郎と戦っております。つきましては、喜林討伐の勅命を賜りたく、こうして菜那子さまの下に参った次第にございます」
菜那子はなにか考えるような様子だった。彼女が感情を表すのを、みつは初めて見た。その憂いを私が晴らしてさし上げたい、とみつは思い、いや、私が絶対に晴らしてさし上げるのだと決心した。
「でも喜林に、出海殿は勝てますか?」
「このままでは勝てないでしょう」
みつは正直に答えた。菜那子に嘘をつくことは、死ぬことよりも恐ろしい。執事の川照見も最古参の並作も失った出海が、別所討伐で名をあげた喜林に勝てる見込みはまずない。今の出海にあるのは征夷大将軍という職名だけだが、それとて喜林も僭称している。諸国の大名がどちらにつくか、言わずと知れたことだ。
菜那子は再び考えるような様子を見せた。長い時間が流れた。みつは自分の心臓の高鳴りが、何によってもたらされているのか分からなかった。
「別所と、戦った時の手は、どうでしょう」
ともすればそよ風にでもかき消されてしまいそうな、か細い声だった。
「と、おっしゃいますと?」
そしてみつが聞き返したことなどなかったかのように、再び長い時が経った。待っている間に、あの花村清道の絵を配ったことを言っているのだと気が付いたが、重ねて発言するのは憚られた。それに、話がすぐにまとまったら帰らなくてはいけない。ぶぶ漬けは美味しいが、みつはもう少し悩む菜那子の姿を見ていたい。
「あの、童の絵を、配ったような」
言われてやっと気が付いたというように、みつは手を打った。
「さすがでございます、菜那子さま、帰ったら早速とりかかりましょう」
「頼りにしていますよ、みつ」
十年通い続け、名前を呼ばれたのはこれが初めてだった。みつ、あの唇が確かにそう動いた。みつ、みつ。ああ、みつに生まれてよかった。父さま母さまありがとう、みつの妄想は再び膨張を始め、体積は無限に増大、逆に密度は減少を続けほぼゼロになり、意識が遠のいた。そして気が付くと菜那子はおらず、やはりぶぶ漬けが出されていた。
みつはぶぶ漬けを平らげて大急ぎで八津代に戻ると、花村清道を雇った。今度は喜林軍の蛮行を絵にして配るだけではない。湖を渡って他国に逃れた難民の子供を題材とした「あの日、それから」という紙芝居まで作って旅芸人に巡業させた。
あの日、それから
カルナラに住む猟くんは、五歳の男の子です。猟くんはお父さんが湖で漁をして、お母さんが魚を売っている間、いつも友達と遊んでいます。
その日もそうでした。友達と遊んでいると、大人たちが慌てて走り出したのに気がつきました。周りを見てみると、国境から大勢の兵隊が人を斬りつけながら迫って来ます。
恐くて動けない猟くんを、知らない大人が手をとって逃がしてくれました。
今、猟くんはマヅダの避難所で生活していますが、あの日以来、いつまで待ってもお父さんともお母さんとも会えません。
キバヤシという悪い将軍が、猟くんたちカルナラの人々を悪者だと言って、兵隊をけしかけたからです。
「嘘ではないか!」
声が聞こえるのが早いか、盃を投げつけられて金笠はひれ伏した。大名が奥嚙山の神酒尋拡張工事をしていると聞いて駆けつけたが、まさか喜林本人だとは思わなかった。金笠の小さな体はブルブル震えた。白粉もダラダラ流れた。金笠はまだ若い。義郎と同じで天涯孤独の身、今のところ家族はないが、全国を行脚しているうちに良い女子と知り合い、その地に腰を落ち着けるなんて想像をしたのも一度や二度ではない。大名に気に入られ一躍出世どころか、もう間もなく死ぬ。最期には母の顔が浮かぶものと聞いているが、母の顔を知らない金笠は、何も思い浮かばなかった。
「こんな物でまたあの虐殺を繰り返すつもりなのか! あやつは人間を何だと思っているんだ!」
義郎の怒鳴り声で鳥達は一斉に飛び立ち、山の紅葉が散った。木怒山までもが後ずさりし、金笠の隣にひれ伏している。
「戦のない世を目指す将軍は、人を滅ぼして戦をなくすつもりか!」
若い頃に砕かれた木怒山の脇腹が痛んだ。川の流れがごうごうと響いている。
「して、この芝居、評判はどうなのだ?」
急に義郎のトーンが下がった。木怒山は横目で金笠を見た。金笠は震えているばかりで答えられない。木怒山が小声で「お答えせよ」と命じると、金笠はハッと気づいたように喋りだした。
「こ、この紙芝居はおかげ様をもちまして、全国あまねく評判がよく、この正月の余興にと刈奈羅だけでなく八津代やこの古実鳴まで、たくさんのお声を頂戴しております。
民草の 根をも萎らす 煤の原 繁き林も つひに枯れなむ(*)
なんて歌まで流行りまして」
「馬鹿か!」
木怒山に怒鳴られて見上げた義郎の顔は、しかし怒ってはいなかった。瞳を落として川原の石を見つめている。先ほどまで鬼のように見えたその赤い瞳を、金笠は兎のようだと思った。
「で、あろうな。山を下りて十余年、人間というものが分かった」
そして義郎はそのまま去った。木怒山と金笠は目を見交した。まるでお互いが命の恩人であるかのように、二人は抱き合った。
百合の君(75)
(*)
煤の原・・・喜林の居城、煤又原城を指す。
繫き林・・・「繁き」と「き(喜)林」をかけたもの。
歌の意味としては、民を虐げる煤又原城の喜林。今は繫栄しているが、いずれ滅びるに違いない(というか、そうあってほしい)。
個人的には、よくできたと思っています。この物語が史実であったなら、実際にありそう。