思い初めるラピスラズリ

 わたしの名前は、ながとも るり。ママと弟のれい君と三人でアパートで暮らしている。
 わたしは小学四年生、もうすぐ十才になる。ママがプレゼントは何がいい?ってずっと聞いているけど決められないでいる。ママがとっても無理しているのを知っているから、ママでも買えるものをって思っていたらのびのびになっちゃった。子どものくせに遠慮って思う?ママが毎日どんなたいへんかって知ってる?わたしは、もう十歳だから、だいたい知っているんだよ。大人の事情っていうんだよ。
 今、わたしたちが三人暮らしなのは大人の事情。というか、ほとんどあのパパのせいだって思っている。ママを困らせる人は大嫌い。だからパパも今は大嫌い。パパのことは好きって思う暇もなかった。覚えているのはママがいつもひとりだったってこと。一人でわたしとれい君のお世話をしていた。パパは朝起きたらいなくて、わたしたちが寝た頃に、帰ってきていた。ママがわたしたちのそばを離れてそっと起きて行って、パパのお世話をしていた。シャワーの音と、レンジがチーンっていう音。ママが冷蔵庫を開け閉めする音。お風呂上がりのパパがテレビをつけて、ママが音を小さくして、って頼むと、ちっ!て舌打ちする。
 お出かけにパパがいたことはあまりない。いたとしてもスマホをずっと見ていて、れい君が転んでも、他の子にいじわるされても見ていない。その間、ママは汗だくになって生活にひつようなものだけを買いそろえる。ママはゆっくり服をみて買うのをとうにあきらめている。自分の服も私たちの服もフリマアプリとかでまとめ買いしている。
 他のお友達みたいに、パパすきって思えなかった。ママはいつもイライラしていたけど、パパといると今度はビクビクしていた。パパはたたいたりとかはしないけど、大きな音をたててドアをしめたり、荒っぽくコップをがんっ!って置いたりして、おれはきげんがわるいんだ、ってアピールしていた。わたしやれい君より不機嫌を自分でコントロールできないパパだった。わたし?わたしはできるよ。いやなことがあったってれい君にやつあたりなんかしない。だって、お姉さんだから。わたしはパパに似ているってみんないう。顔はしかたないけど、なかみはぜったいパパみたいにならない。
 だから、今の三人の方がいい。ママはイライラもビクビクもしなくなった。疲れているけど、そういうときは私もれい君も声をかけない。ママがパパみたいになったらいやだから。
 かわいそうだなんて思わないで。わたしたち、ぜんぜんかわいそうじゃない。先生やおじいちゃんおばあちゃん、おじさん、おばさんが、子どもがかわいそうってママを責める。
 ママを責めないで。ママはいつもがんばっている。ママはいつもきれいだし、ほんとうはとっても優しい。
 わたし、しっかりしないと。ママしかいない家の子は、なんて言われたくない。

 ある日、出会った大人の男の人で、こんなに優しい人がいるんだって初めて思った。
 学校の近くに大きな図書館がある。そこにいる図書館の人、みんなから先生って呼ばれている。この人がすてきな人って気づいたのが、たぶんわたしが最初だって思う。それがいいの。他の人に気づかれたくない。わたしだけが知っていればいい。
 先生と初めて会ったのは、社会の時間、図書館見学の日だった。司書さんたちは胸ポケットに本のイラストが刺繍されたおそろいのエプロン。せんせいともうひとりの司書の女の人が案内をしてくれて、図書館の使い方の説明をしてくれた。もう一人の女の人は同級生の三津さんのお母さんで、三津さんは少し恥ずかしそうだった。でも、うれしさの方が大きいのが分かった。いいな。わたしも、ママのお仕事を見てみたい。
 わたしも最初はまじめに聞いていなかった。みんなもこそこそ話したり、つつきあったり、押し合いへし合いしている。男子ってほんとうるさい。でも、みんなと同じようにしないと仲間外れにされちゃう。先生の言うことを一人だけで聞いていたら、いい子ぶってって言われる。わたしのクラスは、その時、担任の先生が交代するぎりぎりのところに来ていた。クラスはバラバラでどこに向かっているか分からない船に乗っている感じだった。船に乗ったことはないけど。川を流れていくお椀にのった一寸法師もほんとうは不安だったんじゃないかな。
 でも、せんせいが立ち止まって、黙ってみんなが静かになるのを待っていたら、みんなだんだん気まずくなって、静かになっていった。せんせいは、大声も出さないし、派手なしぐさでこちらを向かせようともしない。
 せんせいは不思議な人だった。パパはお気に入りの香水があって、いいにおいがしていたけど、せんせいは何のにおいもしない。しいていえば紙のにおいがする。紙ってにおいがないけど、先生はそんな感じ。おひげのそり残しのないつるりとした顎や鼻の周りが清潔で、口元はいつもかすかに微笑んでいる。
 男子ってほんとおばかさん。みんな、せんせいの雰囲気にあてられて少し静かになったけど、やっぱり空気のよめない子が何人かいる。本をえらびましょう、って時間になったとき、高いところにある本をとるための脚立でふざけたりしている。持ちきれない本をいれるためのカートに本を投げ込んだりして、何冊かはカートに入らずに下にそのまま落ちた。
(やめてよ。はずかしい。)
 図書館のせんせいがじっと見ている。担任の先生は必死に止めようとしているけど男子たちは聞いていない。  
 あんのじょう、脚立でふざけていた男子がバランスを崩した。脚立を支えていた子が手を離したからだ。その時、誰よりも早く動いたのがせんせいだった。ぐらりとかしいだ男子の体を抱きとめて、倒れる脚立から他の子たちを、自分の背中で防いだ。ひょろりとしているように見えたせんせいの腕に筋が入って別の人の腕みたいだった。
 せんせいはそれから、その子たちを、本を読むための長椅子に座らせた。そして自分は床に膝をついた。そしてまず聞いた。
「どこかいたいところはない?」
 男子たちはすっかりうつむいている。
「けががなくてよかった。この脚立は何のためのものかな?」
「高いところの本を取るためのもの」
「そうだね。きちんと話を聞いていたね。じゃあ、このカートはなんのためのもの?」
「選んだ本をいれるため」
「そう。よく分かっているね。分かっていてさっきみたいな危ないことをどうしてしてしまったのか説明できる?」
 せんせいの問いかけに男の子たちは顔を見合わせて何も言えなくなっている。大きな声で怒ったり、泣いたりしてくれたらいいのにと思っているに違いない。せんせいの静かな問いかけにどういう顔をしていいか分からないみたいだ。
「自分でも説明できないことをしてしまうことってあると思う。でもね、社会の決まりごとの前ではそれは通用しない。決まりごとは、自分やまわりに危ない目にあわせないためのもの。みんなの場所を守るためのもの。わかってくれるかな」
 せんせいは、ちらかった本と乱雑に本が投げ込まれているカートをその子たちの前に持ってきた。
「この本、痛そうだね。本だから何も感じないかな。でも、僕は自分がされているみたいな気分になった。本は書いた人の心が入っている。今頃この本を書いた人は痛がっているかもしれないよ。本は大事に扱ってください。危険なことはしないでください。それからきまりごとを守れない人は図書館の出入りは禁止です。君たちが痛い思いをしたらおとうさんもおかあさんも、みんな悲しむよ」
 せんせいは、分厚いめがねをかけている。近視の人が分厚いめがねをかけると目が小さくなるんだなあ。ひいおばあちゃんがめがねをかけると反対に目が大きくなるんだけど、あれは遠視、老眼なんだって。せんせいは男の子を受け止めたはずみでめがねが飛ばされて、めがねのつるがゆがんでしまっていた。それを胸ポケットに入れて、男の子たちに話しかけている。せんせいの目はめがねからだと、つぶらでリスさんみたいな目だけと、めがねがないとぜんぜん違う。大きくはないけど、先のとがった鉛筆で書いたくっきりした線で囲まれたような目、目の黒い部分と白いところの区別がはっきりしている。水のきれいな小川みたい。さんざん盛り上がって声がかすれた寝起きのパパのどろんとした目とは大違い。パパはそうじゃない日も、血走った赤い目をしていた。 
 ママと知り合ったころは街でよく声をかけられるいわゆるイケメンだったらしいけど、パパはよく言っていた。
「ママと結婚してから自分は劣化した」
 せんせいはイケメンじゃないけど、とても優しそうで、しっかりしていて、何かを誰かのせいにしたりしなさそう。人は見た目じゃないっていうのがせんせいをみていると納得できる。すぐ、パパと比べてしまう。ほんとうはパパが気になって仕方ない。大人ができること何にもできないような人だから、ちゃんと生きているか心配になる。大嫌いだけど気になる。これってよくあることなのかな。
 わたしはせんせいのきれいな目と骨ばった細い手首と反対に大きな手、静かに語りかける声に、本を選ぶことも忘れて、その様子を見続けた。担任の先生は何にも言えずにひたすら、せんせいたちに頭を下げていた。それはみっともなくてとてもかわいそうな光景だった。

 結局、わたしは本を借りられなかった。今日の校外学習で、わたしたたちははじめて図書館の利用者カードを作った。帰るときに渡してもらうんだけど、市のお花のイラストか市の公式キャラクターのイラストが入ったのと選べるんだけど、わたしは市のキャラクター入りのにした。とてもかわいいんだけどこれが市のキャラクターって知らなかった。
 名前入りでラミネート加工されたカードタイプの利用者カード、大人なら誰もが一枚は持っている名前入りのカード、図書館以外では使えないカードだけとわたしも少し大人になった気がする。せんせいと三津さんのママが一人ずつに渡してくれる。私は先生からもらいたくてその列に並ぶ。そしたら、私のカードは三津さんのママが持っていてがっかり。また、列に一番後ろに並び直す。配り終わったせんせいも近くに来て、話しかけてくれた。
「ながとも るりさん、本は選んだ?」
 せんせいはつるが曲がったままのめがねを仕方なくかけていた。たぶんすごく近視なのだろう、めがねがないとだめみたい。
「まだえらんでない。もう学校にかえらないと」
 せんせいにわたしの選んだ本を見てほしかった。本に貼られたバーコードをぴっ、ってして、はいどうぞ、って手渡してもらいたかった。せんせいにとっては、うるさくてトラブルメーカーのいる小学生たちの一人だって思う。せんせいは怒っていないけど、きっと呆れている。あの子たちをとめられなかったわたしたちもきっと同じに見られている。はじめて会ったのにもっといい子たちって思われたかった。だいいちいんしょうがよくないなんて、さいあく。これから図書館にいけなくなる。
「今日はうるさくしてごめんなさい。また来ていいですか」
 わたしはずるい。自分だけよく思ってもらおうとしている。いい子ぶりっこって言われたって、せんせいに覚えていてほしい。お話の聞ける子もいたって。わたし、とてもずるい。せんせいがわたしの今のきもちに気づいたらきっとあきれちゃうかな。せんせいはなんでも見通すような目をしているから。でも、せんせいはやわらかくわらった。わたしのずるいところとか知らないように、それはきっとあいそわらいとかじゃなくて先生の本当の笑顔。
「だいじょうぶだよ。また来てくださいね」
 せんせいの手はすんでのところで止まった。頭をなでてくれるかと思っていたのにがっかりした。りょうかいなくに人にふれてはいけないって、それがきまりごとだって。
 たしかに、勝手にかわいいね、なんてほっぺや頭にさわってくる大人がいて、それがすごくいやだった。パパやママのともだちや、親戚の人たちとおりすがりのおばあちゃんとかも遠慮なく触ったり、写真を撮ったりする。さすがに小学生になると減ったけど、わたしちいさい時のことよく覚えているの。大人はちいさいから知らないだろうけどって思うけど、子どもをばかにしすぎ。パパやママの友達であってわたしのともだちじゃない。せんせいはそういういみでただしい。
 せいけつかんがあって、かしこそうで、ものしりで、しずかで、やさしい。でもいざというときは行動できる。こういう人がパパだったらよかったのにって。せんせいがパパだったら本をたくさん読んでくれて、公園に行ったら一緒に遊んでくれる。知らないことに何でも答えてくれる。そしてきっとママのこともだいじにする。せんせいは女の人にぜったい優しいはず。せんせいのこと何にも知らないけど、こうだったらいいなってどんどん思い描いてしまう。わたしはにやにやするのがおさえられなかった。そしてどきどきするのも。 
 ともだちとの間で、だれがすき?とかはつこいは?って話になるけど、でもなんだか言えない。教えたくない。あんなおじさんってぜったい言われるに決まっている。
 せんせいはただのおじさんじゃない。せんせいがすてきな人だって、流れ星みたいにすっと線を描くようにきれいな目をしていることも、ともだちには知ってほしくないの。わたし、いやなやつかな?ひとりじめしたいって思う。この気持ちを。

 それから、はじめは少しずつ、週に一回とか、そのうち週末やお休みの日にも図書館に行くようになった。ママやれい君と一緒の時もあれば、れい君と二人の時もあった。図書館で本を借りられる期間は二週間、借りられる本は最大で二十冊、その間、その本を持って行ってお願いすれば、一回だけ延長ができる。開館時間、休館日、トイレの場所、そのほかいろんなことをぜんぶせんせいが教えてくれた。せんせいは忙しそうだから、いつもじゃないけど、わたしやれい君に気づくといつも静かに笑いかけてくれる。新しい銀縁のめがねは先生によく似合っていた。でも、ママみたいにコンタクトにしないのかな。ずっと見ているとせんせいは大人しいけど、意外と人気者で、大人にも子どもにも話しかけられている。そのことを話したら、せんせいはお仕事だからどんな人も公平に接しなくてはならないとママは言った。忙しいのだから、邪魔してはダメよといつも言う。そんなこと分かっている。ほんとママは気にしすぎ。
 ママはわたしが四年生になったころくらいから、仕事の内容がかわって残業を入れるようになった。保育園のころはお迎え時間に間に合うように仕事を終わらせていたけど、わたしたちが留守番できるようになったからか、帰る時間が少しずつ遅くなっている。
 図書館に子どもがいていい時間のぎりぎりまでわたしたちは図書館で時間を過ごす。本を読むのに飽きると、DVDコーナーでアニメ映画を見る。せんせいが時々見に来ているのに気づいているけど、画面に集中しているふりをする。
 れい君も、そのうちせんせいのことが大好きになっていた。れい君は恥ずかしがりやでこわがりやで甘えん坊で、誰よりもかわいい子で、私の弟。ママとわたしでずっと守ってきた。よく泣く赤ちゃんで、パパが泣きやめと強くゆさぶることもあった。そんな時のパパはほんとうにこわくて大きくて、大嫌いだった。わたしと同じものが好きで、パパがかってくるおもちゃはあまり気にいらないようだった。パパはそれがおもしろくなくて男の子らしくない、せっかく買ってきたのに、二度と買わないとれい君が悪いみたいに言っていた。そんなのパパのきまぐれで買ってきただけなのに。れい君らしさとか何にも理解していない。
 せんせいはれい君が選んだ絵本を、絶対に悪く言わなかった。いい本だね、僕も好きだったよ、感想を聞かせてね。れい君はいつもいい本を選ぶねといつもほめてくれた。れい君は本当にうれしそうで、パパにもらえなかった言葉を言ってくれるせんせいのことが大好きになった。れい君がせんせいにべったりになると、わたしはおねえさんらしくがまんしないといけなかった。おねえさんだから、年下の子に譲ってあげないとって自分に言い聞かせた。読んだ本の感想を先生にお話しするときもれい君が先。れい君は高いところにある本をせんせいに抱っこしてもらって取ることもある。うらやましいなんて思っちゃいけないのに、じぶんがされなかったからって、れい君にやつあたりしちゃいけないのに、そういうことがあるとわたしは、帰り道、いつも無口になった。無口にならないと、れい君にいじわるなこと言っちゃいそうだった。
 でも、かみさまはちゃんと見ていてくれたのかもしれない。せんせいとふたりだけでお話できる日が来た。放課後、学童にいっているけど、その隣に、れい君の保育園がある。わたしもそこの保育園に行っていた。小学生が月に一度、小さなお友達に絵本を読み聞かせる行事がある。わたしは今回の当番で、当番が決まった時から、なやんできた。れい君もいるから、れい君が読んだことあるのは選べない。
 わたしが、小さい子向けの絵本コーナーで、ああでもないこうでもないとうろうろしていると、せんせいが声をかけてくれた。
さっきトイレ行ったとき、ちゃんと鏡みておけばよかった。せんせいとせっかく二人でお話しできるのに、わたしかわいい顔できているかな。せんせいはやっぱりそんなことなあんにも気にしていない。せんせい、きっとどんかんな人なんだ。
 わたしが、保育園で読み聞かせする絵本を探しているっていうと、せんせいは忙しくなかったのか、いっしょにさがそうか?って言ってくれた。せんせいが選んでくれた本なら、きっといい本だ。みんなきっとひきこまれる。
 でも、せんせいが選ぶってことはなかった。わたしがこれどうかな?っていうのをにこにこしてうなずくだけ。なんかちょっとものたりない。ヒーローみたいに、ぱっと選んで、どうぞ!って渡してくれるのかなと期待していた。どうでもいいのかなってちょっと鼻の奥がつんとしてきた。ほんとうは子どものさがしものに付き合っているひまなんかないって心の中で大あくびしてるのかもしれない。わたしの中の悪魔がそう言う。
 わたしが鼻をすすって、もやもやしているのが分かったのか、せんせいは、本をテーブルに並べだした。
「たくさんあるね。ひとまず、この中から選んでみよう。あせらなくていいよ。るりちゃんがいっしょうけんめい、保育園のお友達のことを考えながら、選んだことが大切だと思う。時間かけて選んだ本はきっとみんなの心に残るよ。」
 悪魔はどこかへ走って逃げていった。せんせいは私の選んだ何冊もの本をぜんぶ抱えてくれていた。
「せんせい、おしごとはいいの?」
「うん。本を選ぶのを手伝うのが僕の仕事だから。」
 わたしのほうがしんぱいになる。いくら仕事だからって、ずっとわたしのために時間を使うなんてよくない。だけど、本当はうれしい。
 わたしのまったくの想像だけど、せんせいは子どもの本だからって、てきとうなことやそのばしのぎのことは言わない人だと思う。真剣に本を見つめている横顔は働く大人って感じで、パパもお仕事の時は、家と違って真剣な顔しているのかなって。また、パパのことを思い出す。パパは笑うこともあったけど、楽しそうでも、優しそうでもなかった。最近、知った言葉で、「皮肉」っていう言葉がある。たぶんパパの笑顔は「皮肉」な笑顔だと思う。それか、テレビを見てげらげらと笑う時に見るのは、何も考えていない笑顔。
 パパがこんな人だったらいいな、って思う時、やっぱりパパがいたらいいっていうことだ。認めたくないけど。あんなパパならいなくていいって思うけど、やっぱり「パパ」がいてくれたらいいなっていうときは何回もある。
 でも、気づいた。パパは、いたらいいけど、せんせいにパパになってほしいじゃなくて、わたし、なんでもっと早く生まれなかったんだろうって思う。せんせいと同じ年で同じクラスだったら、よかった。
 私は迷いに迷って、何冊か読み聞かせの本の候補を選んだ。先生は最後まで、自分の考えを言うことがなかった。
「どれもいいね。おうちで練習しよう。ゆっくり、まちがえてもいいから、大きな声でね。読みやすいのにしたらいいよ」
「せんせい、聞きに来てくれる?」
「うーん。むつかしいかなあ。でも、応援しているからね」
 半分がっかりしたけど、あとで良かったと思った。だって、せんせいの前でなんて、やっぱり緊張する。

 「その本、知ってる。このかいぶつはけっきょく、まけちゃうんだ!」
 結末まで、あと何ページもあるのに、その子が結末を叫んだ。みんな、もう絵本を見ていなくて、その子に気をとられている。わたしは続きが読めなくなってしまった。せんせいといっしょに選んだのに、せんせいがこれ、わくわくするね、とにっこりしてくれたのに。
 わたしが電池のきれた人形みたいに動けないでいると、れい君が、その子にとびかかった。けんかなんてしたことない、いつも泣かされているれい君が、何度突き飛ばされても、先生たちに引き離されても、その子につかみかかり、髪の毛をひっぱりあって、その子をけったり、足をふんずけている。れい君は泣いていない。顔を真っ赤にして怒っている。相手の子のほうが泣き出しそうだ。
「ねーねのじゃまをするな。まけるのはおまえだ!」
 あんなことしたら、れい君、次の日、仕返しされちゃうよ。どうしよう、れい君が仕返しされていじめられたら。ママとれい君を守るってやくそくしたのに。
 わたしはその様子を見れなくて、こわくなって、部屋を飛び出していた。先生や保育園の子どもたちの間をすりぬけて、靴もそろえずに学童の倉庫へ逃げ込んだ。
 胸がばくばくして、体が勝手に震えている。忘れていた涙がぽろりとこぼれたかと思うと、どんどん涙があふれてきた。
 外からノックの音がひっきりなしにしている。うるさい。どうしてそっとしてくれないの。ちょっとしずかにしてほしい。みんなによろこんでもらいたかったのにどうしてこんなことになるの。ああ、れい君、だいじょうぶかな。
 ノックの音が聞こえなくなった。代わりに、会いたい人の声が聞こえる。不安すぎて、聞こえるはずのない声が聞こえているのかもしれない。
「るりちゃん、せんせいきたよ。聞こえてる?」
 せんせいがほんとうにいた。まわりは子どもたちや学童の先生たちの声がまだざわざわしているけど、せんせいの凛とした声が、それをかきけしていく。
「みんな、お部屋に戻って。大勢がいるとるりちゃん出てこれないから。るりちゃん、今からお話をするよ。聞きたくなければ一回そっちからノックして」
 わたしとせんせいの間には倉庫の引き戸がある。でもまわりがしんとしているのが伝わる。せんせいのあんなきっぱりした言い方初めて聞いた。
 せんせいは、わたしのためだけにお話をしてくれた。がんばりやで責任感の強い女神様が、がまんできないことがあって、大きな岩の中に隠れてしまうお話。女神様はお日様の神様でもあるので、女神様がいないと世界はまっくらになって、わるものたちがここぞとばかりに出てきて、暴れまわる。作物は実らなくなって、みんなおなかがすいて元気がなくなる。みんなはどうにかして、女神様にでてきてもらおうと知恵を出し合う。
 岩の中で、女神様は何を考えていたんだろう。わたしと同じかな。まわりがあんまり騒ぐから出るに出れなくなって。どんな顔したらいいか分からない。
 せんせいはお話を終えた。ずっと聞いていたいけどお話には終わりがある。人を好きなることの終わりっていつだろう。それはしあわせなおわりかたか、パパとママみたいに思い出ししたくないようないやなおわりかたかな。
 せんせいはわたしが出てくるまで、待ってくれると言った。ねーね、ごめんね、出てきてよう、とれい君の声もする。二人しかいないなら出てあげてもいい。
 あ、せんせいが行っちゃう。せんせい、待って。
 夢中で、倉庫の中の収納ボックスの陰からはいだして、ちょっと走って引き戸を開ける。
 急いでいるときに限って、ものごとはゆっくりすすむ。せんせいは、こちらを向いて、膝に手を置いて体をかがめて、ほっとしたような顔をしていた。髪の毛はぼさぼさで、図書館で見るときの服ではなくて、長袖のTシャツにデニムをはいていて、へんてこなイラスト入りの靴下をはいていた。よくみたらTシャツもどこの国か分からない言葉が書かれている。せんせい、お休みの日だった。たぶんくつろいでいたかもしれないのに、わたしのせいでよびだされたんだ。
「よしよししていいかな?」
 頭のてっぺんが何かの重みであたたかくなった。せんせいの手だった。せんせいは頭をなでてくれていた。せんせいの手は大きくて私の頭がすっぽり入ってしまいそうだった。もっとなでてほしいな、って思ったけど、せんせいの手はぎこちなく頭の上を往復して、離れていった。
「るりちゃん、出てきてくれてありがとう。よくがんばったね。何にも気にしなくていいよ。だいじょうぶだから」
 あたたかい手と声、そして冷たい銀縁のめがねの奥のやさしいたれ目。せんせいがすごく近くにいるのに、わたしは涙と鼻水と汗でひどい顔している。でもせんせいはわたしのはずかしいきもちなんてなあんにも気にしていない。男の人は女の人の涙によわいってだれかが言っていたけど、せんせいはやっぱりすごく変わっているんだ。
 れい君が膝立ちしている先生の背中にしがみついている。学童のお友達や、保育園の子どもたちもそろそろと集まってきた。保育園の子たちが口々にごめんね、さいごまでききたかったよ、と謝ってくれた。
 みんなのしょぼんとした様子をみていたら、さっきの自分のやったことも恥ずかしくなった。「穴があったらはいりたい」って言葉があるけど、まさにそれだ。せんせいもまじめな顔していたけど、笑いをがまんしているのを、わたしはこっそり見ていた。
 やっぱりせんせいってすてきだ。

 ママは、話を聞いた次の日には、時間をつくって、せんせいにお礼を言いに行くようなきまじめな人だ。でも、ママはいつころからか、すこしふまじめな部分もみせるようになった。どこがって簡単にいえないけど、まず、お化粧品のにおいがかわった。外国製のお化粧品なんだって。ママはもともときれいだったけど、目鼻立ちを強調するようなお化粧をするようになって、ますますきれいになった。
 ママがきれいなのはいいけど、困ったこともある。学校の授業参観を忘れたり、明日までにもっていかないといけない教材費を忘れたり、わたしたちがもってかえったプリントも日にちが過ぎても冷蔵庫に貼られていたりした。
 れい君の保育園の連絡帳にも「見ました」ってサインもおさぼりするようになった。連絡帳を見ると、れい君の保育園での様子、今日できたこと、苦手だったおかずを食べたことや、おともだちと仲良くできていることなど、先生がかわいい字で書いてくれていた。それを見ていたら、わけもなく涙がでてきた。一か月前のれい君と今のれい君、いや、昨日と今日だって違うかもしれない。れい君はどんどん大きくなって、ちょっと前のれい君と会うことはぜったいできない。
 ずっと見ていることはできないけど、先生が連絡帳に書いてくれる小さなできごとを見る暇くらいはあるはずなのに、ママはそれでいいのかって、思ったら涙がでてきた。一緒に連絡帳をみて、れい君、すごいねって話したい。わたしはいいから、れい君をもっとみてあげてほしい。
 ママがパパじゃない男の人と一緒にいた時のきもちはことばにできない。ママはひとりの女の人だった。わたしと同じようにママやパパしかいない友達はけっこういた。一人でがんばっているパパママもいれば、いつの間にか初めて見る人と一緒に学校の行事に来ているパパママもいた。そのうちその子たちの苗字が変わることもあった。でも共通しているのは最初はよく話していた「新しいパパやママ」のことを、みんなだんだん話さなくなることだ。あの時見た男の人が「新しいパパ」になるかは今のところわからない。ママはこっそり会っているから、わたしたしに紹介するつもりは今のところないみたい。
 ママも恋をしている。わたしにもわかるくらいあきらかにその人に夢中だ。せんたくものもたたまないで、どうにかそれぞれのなまえをかいた大きなカゴの中にほうりこむ。しわしわの服にアイロンをかけるのは自分の分だけ。わたしの髪もむすんでくれなくなった。ごはんは作ってくれる時もあれば、今日は疲れているから好きなもの買ってきてってお金をくれる。なんでもママにしてほしいわけじゃない。ちゃんと今でもいっしょのお布団で寝る。ママも疲れている。
 でも、でもね、ママ、最近、何も聞いてくれなくなったね。ママはいるけど、いない。
「るりは、自分でできるよね。るりはお手伝いしてくれるから、ママ助かるな。れい君のことお願いね。」
 珍しくそう言ってママは今日もお仕事にいってしまった。

 うとうとしていたら、れい君の泣き声、今までに聞いたことないような泣き声。
 ぎゃーっていう泣き声。わたしの中の危険を感知する装置が、その泣き声に反応する。おねえちゃんになった時からその装置はわたしの頭の中にあった。
 れい君はどこから出ているか分からない血で赤く染まっていた。一人で何かしようとしてけがをしてしまった。頭の中の危険探知機の音もれい君の泣き声も止まらない。
 ママ、怒るかな。泣いちゃうかな。出かけるときのママが言っていたことを思い出す。
 れい君、ごめんなさい。ママ、ごめんなさい。血のとめかたなんて知らない。けがの手当のしかたなんて教わっていないの。わたしはあいさつしかしたことないお隣さんちのドアを叩いた。おねがい、おうちにいてください。
「弟がけがをしました。たすけてください」
 よかった。ちゃんと言えた。お隣さんはすごくびっくりしていたけど、ママと同じくらいの年頃の女の人だった。足に力が入らなくなってふにゃりと座りかけたわたしをしっかりと抱きとめてくれた。旦那さんがあわててれい君の様子を見に飛び出していった。

 よく知らないのにお隣さんはとてもいい人たちだった。病院まで連れて行ってくれて、どうにかママと連絡をとろうとしてくれた。わたしはまたうとうとして、目を覚ました時、見たのはママがその人たちにすがりつくようにしてすみません、すみませんと叫んでいるところだった。お隣さんは、旦那さんのほうは困り果てていて、奥さんのほうはわたしの肩を抱いたまま、とても怒った顔をしていた。わたしにジュースを飲ませてくれる時の顔とは別人のような厳しさだった。
「子ども二人だけにして、何してたんですか。おねえちゃんは、ひとりでうちに来たんですよ。この際だから言いますが、けっこうな頻度で二人で留守番させてますよね。こんなこと私たちが言うことではないですけど、おおごとになる前にもう少し考えるべきじゃないですか?これは通報案件ですよ。」
「何も言うことはありません。本当に本当にすみません。」
 ママからはお化粧のにおいがしなかった。
 それから、いろんな大人から話を聞かれた。ママはひとまわり小さくなったように、たまに小さく震えながら、時々泣きながら、か細い声でその人たちと話をしていた。わたしは、ママが、みんながいうほど無責任な人じゃないって思う。わたしのママはひとりだけだもの。どんなにこの大人たちがりっぱな人たちで、いろいろ知識があって、お給料がよくても、ママ以上にわたしたちのことを考えてくれる人はいない。わたしはだんだん腹がたって、もう爆発しそうだった。れい君だって、ママとわたしのところに帰りたいってずっと言っている。それでいいじゃない?どうして、三人の今後を、とか勝手な話をするの?そんなのわたしたちがこれからつくっていくの。今まで知らん顔していて、急に出てきて、ママは一人なのに、そっちは三人、ひきょうじゃない?
 結局、❝見守り❞という形で、話し合いはやっと終わった、とママは言った。
「これからもママとれい君と三人だよね?」
「そうよ。るり、ごめんね。ママを許して。」
「わたし、へいき。ママこそ怒ってない?れい君がけがしたこと・・」
 ママは首を横に振りながら、わたしをだきしめてくれた。ひさしぶりにママがだきしめてくれた。お化粧のにおいじゃなくてママのにおい。いいにおい。ママがわたしたちのママに戻ってくれた。うれしい。

 それからは、まるで洗濯機にほうりこまれたように、放り込まれたことはないけど、ばたばたと、毎日が過ぎて行った。ママの方のおじいちゃんとおばあちゃんがやってきて、ママと長いことお話していた。怒った声も聞こえてきたけど、最後はママとおばあちゃんが涙交じりの声で、手を握りあっていた。ママはこらえていたものが、あふれて、まるで、れい君みたいに泣いていた。
 わたしたちは、お引越しすることになった。心機一転っていうことみたい。わたしはとてもいやだったけど、ママの決心は固かった。
 おひっこしの準備は、どんどん進んでいった。わたしたちの意見はきいてもらえない。もう決まったことを、言われただけ。学校のお友達はとても驚いていた。あまり話したことない子たちが急に話しかけてきた。ほんとうはわたしを話したかって、くすぐったいような気持ち。
 お引越しも転校もしかたない。これはきっと運命だ。神様がこれからも三人で暮らせるようにしてくれたと思うことにした。ママの彼氏とは一度も会ううことはなかった。きっとその人は運命じゃないんだ。わたしは、せんせいに会いたかった。会ってお別れを言いたかった。借りたままの本もある。それなのに、図書館は閉まっていた。中は電気がついているけど、人が見えない。
入口に張り紙がしている。蔵書点検ってどういう意味だろう。
「ざんねんだね。蔵書点検のため来週まで閉館だって」
「ぞうちょてんけん?」
「図書館のお片付けみたいなもの。本を調べて、きれいに並べ直したりするの。本がたくさんあるから、時間がかかるのね」
 知らない女の人が、れい君よりも小さな男の子に言い聞かせていた。男の子は、いやいやしていたけど、さいごはお母さんに手をひかれて行ってしまった。
 「蔵書点検」の間は、図書館は開かないらしい。私は来週の今頃はもうここに来ることはできない。遠いところ、飛行機で行くような町にあるような新しいおうちに行く。そこにも図書館があるだろうけど、せんせいは、いない。
 わたしはとぼとぼとおうちに帰った。荷物が少なくなって、車一台に乗せられるくらいの荷物しか残っていない。わたしとれい君は二人で初めて飛行機に乗って、新しいおうちに行く。空港までおじいちゃんたちがお迎えにきてくれる。ママは車が必要だから、一人で長い距離を運転して、後から来るんだって。
 初めて乗る飛行機が旅行じゃなくて、生まれた育った町とおわかれするための飛行機なんて、去年のわたしは想像もしてなかっただろう。
「どうしたの?」
 ママが、のぞきこんでくる。ママは、また、こうしてわたしの目を見てお話してくれるようになった。わたしはママに、せんせいとお別れできなかったことを話した。もう荷物を増やせないから、と言っていたママは、わたしの話を聞き終わると、すっと立ち上がった。
「るり、れい君、きれいな紙を買いに行こう」
「どうして?」
「せんせいにお手紙書こう。とびきりきれいな紙で封筒も手作りするの。色鉛筆・・もう荷物で送っちゃったなあ。色鉛筆も買わなくちゃ。」
 れい君はお買い物と聞いてぴょんっと飛び上がった。わたしのしんぞうもどきっとはねあがった。

 その夜、私はお手紙を、れい君は絵を書いた。明日、せんせいに会えるかどうかわからない、とママは言った。その時に備えて書いておこうと。もし、せんせいがいたら、言葉でも伝えたたらいいと。
 何回も書き直した。うまく書けなくて、涙が出てきた。わたしのこの気持を伝えられる言葉が見つからないし、しらない言葉がたくさんある。せんせいがわたしたちのことを忘れられなくなるくらいのお手紙を書きたいのに。
「るり、字はていねいなほうがいいけど、気取った言葉を使わなくていいのよ。感動させようとすると、人はしらけちゃうの。るりの今思いつく言葉でいいの。るりが心を込めてありがとうの気持を伝えたら、きっと先生の心に残るはず。るりのだいすきなせんせいもきっとママと同じことを言うよ」
 それを聞いて、私が、何を書いたか知りたい?教えないよ。私が、今書けるせいいっぱいのお手紙。せんせいだけに読んでほしい。誰かにだいすきってはじめて伝えるの。
 ママの予想はあたった。空港に向かう途中で、寄った図書館にはせんせいはいなかった。
「お出かけしていいるの。ごめんね。もう少ししたら帰ってくるはずなんだけど」
 三津さんのママは悪くないのに、とてもすまなそうな顔をした。三津さんのママなら信用していい。わたしは昨日遅くまでかけて書いたお手紙とれい君が書いた絵を、三津さんにママに差し出した。
「せんせいに渡してください。もう時間がないの」
 ママの車に乗って、車が走り出し、スピードが出てきたとき、反対側の道を、せんせいが歩いているのが見えた。あっという間にせんせいは、遠ざかる景色の一部になった。
 ほんとうにもう少ししたら帰ってこれてたんだ。もう少し、あと少し、待てばよかったな。ほんと、タイミングがわるい。せんせいは、わたしがこんな気持でいること、やっぱりぜんぜん、気づいていないと思う。
 せんせい、さようなら。せんせい、ありがとう。せんせいのこと、だいすきでした。


「飛行機があっちの方に向かうのを見ると、その時のことを思い出す」
 私は、高校生になった。たまたま空いていたブランコを彼氏と独占して、ゆらゆら揺れている。ここに来たばかりの頃、ママに、前住んでいた町はどっちの方角かってよく聞いていたらしい。だから今でも覚えている。彼は、思ったとおり、むすっとしている。
「初恋の話聞きたいっていったの、そっちじゃん。」
 るりのことは何でも知りたい、って頼むから、とっておきの思い出を話したのに。私もむすっとし返す。
「そうだけど、そんなかわいいきれいな話とは思わないだろ。クラスのちょっとかっこいい男子くらいなら上書きできると思ったのに、俺、そんな思い出には手が出せない。それに、実は俺が初恋ならいいなって・・・」
「私たち、もう高校生だよ。恋のひとつやふたつ、誰だってあるでしょ。それにもうせんせいはきっと私なんて忘れている。今が大事って、もっと自信持ってよ」
「俺は、るりが初恋なのに・・・」
「え?何?もう一回!」
 聞こえているのに、あんまりうれしくて、私はいじわるしてしまった。彼は、たぶん頭のてっぺんから足先まで真っ赤になっている。二度は言わねー!とブランコから飛び降りた。私は、相変わらず真っ赤な顔でむすっとしている彼に抱きついた。
「もし、せんせいにまた会えたなら、話したい。せんせいとお別れしたときはとても悲しかったけど、でも今はすごく幸せ。だって大好きな自慢のカレシがいるって」
「・・俺も、せんせいに会ってみたい。俺がるりを幸せにするからって言う」
 彼は、大事なことを言う時は、照れたりしない。ちゃんと目を見てくれる。目の形はぜんぜん違うけど、その時の目の輝きが、せんせいを少しだけ思い出させる。
何人かが「可愛い」「マジでタイプ」から始まって「好き」、「付き合って」と言ってきた。
うれしくなかったかと言えば嘘になるけど、全然心が動かなかった。可愛くなければ、好きにならないし、可愛さがなくなったら見向きもしなくなるかもしれない。人は機械じゃないのにパパみたいに「思っていたのと違う」、「劣化した」って言って簡単にものでも家族でも捨ててしまえるような相手に「可愛い」を理由に好きだって言われても信じることはできない。
彼は「可愛いから好き」じゃなくて「好きだからだんだん可愛く思える」と初めて言ってくれた。
私の好きなところは「威勢がいいところ」だって。彼は、一度思ったら一直線で、そっけなくされても、あきらめなかった。私のほうが根負けして、今では私のほうが好きの気持が上回っている。
彼との思い出がいっぱいになって、私の生活がそれで満たされたら、あっちの方向に向かう飛行機を見上げることはなくなるかな。せんせいは、きっとまだあの町にいて、図書館で、本と一緒に働いている。すてきな人だったことは覚えているけど、最近少し輪郭がぼやけてきた。私のこれから先もまだはっきり見えない。でも今は、青空に緑の山の稜線がくっきり映えるような毎日だ。たまに濃い霧の中に迷い込んで、不安で悲しくて辛くて、目をつぶってしまいたくなることもあるけど、私はきっとだいじょうぶだって信じている。せんせいが私一人のためにお話してくれた女神様だって落ち込んで逃げたくなることがあるんだから、私たちが物事がうまくいかなくても当たり前。それに、私は一人じゃない。
まだちょっと顔の赤い彼の手をひいて、二人で並んで歩き出す。
どこに行こうか?
行ってみたいとこある?
たくさんあるよ。
どこでも連れて行ってあげる。
連れて行ってもらうんじゃない。いっしょに計画して、いっしょに行くの。
やっぱり俺は、るりのそういうところが好きなんだ。
 入道雲が大きな手のようで、こちらにおいでと呼んでいるようだ。明日にはなくなってしまう雲をおいかけて、私の毎日はこれからも続いていく。

思い初めるラピスラズリ

思い初めるラピスラズリ

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更新日
登録日
2025-09-19

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