映画『バード ここから羽ばたく』レビュー
本作で対比されるのは社会と自然。
イギリスの貧困層が身を置く痛切過ぎるほどのリアルな生活は物理的にも、制度的にも人々の行き場を奪い、内向きな固有のルールを作り上げて、子供といった自分たちより弱いものに負荷をかける現実を生む。主人公ベイリーの場合、それは大人になり切れない子供な父親の再婚話をきっかけとした行き場のなさに繋がり、家から逃げ出そうにも逃げられない鬱屈とした思いをギャング団のような暴力に転化しようとしてもお前は子供だ、ただの女だと蔑まれて追い出される見えない仕切りとして彼女を苦しめる。精神的にも八方塞がりになる彼女が抱える事情はそれだけではない。自分を捨てた母親の元にいる自分より小さい妹たちに振るわれるろくでなしの虐待問題によって深刻化し、講じられる手段の少なさに見てるこちらも息苦しくなってしまう。
そんな重い雰囲気に接木されるのは異質なドキュメンタリー。人間とは無関係に営まれる自然の様(さま)。
飛びもせずにゆっくりと動かされる蝶々の羽の動きや道端を闊歩する馬の歩み、家族の足元に戯れ付く犬の愛嬌はベイリーが束の間、現実の辛さを忘れられる瞬間美として映像に収まってはすべての恨み辛みを飲み込ませてくれる。ベイリーもそれを知っているからか、その手に握るスマホで撮影する動画には自然を題材にしたものが多くて、おもちゃと大差ないミニプロジェクターを使ってはカーテンで仕切る程度の「自室」の壁に映した夢を、じっと見やる。その静かな時間に訪れる安らぎは生きる為に小便も大便もするヒト科の動物的な側面へと向きを変え、初潮に動揺するベイリーに優しく手を差し伸べる養母の、あばずれだとばかり思っていた人間性にまでレンズの角度を広げてみせる。
人に宿る「社会」性と「動物」性はその境界を曖昧にしてこうして映画『バード ここから羽ばたく』の中心を占めるに至り、その交点に舞い降りるバードという名の存在を際立たせていく。
鳥のような顔をして、鳥のような振舞いばかり見せる彼は確かにフリークと貶されるぐらいに奇妙で、怪しくて、近付きたくないような近付きたいような落ち着かない距離感で私たち人に接する。両親を探す彼の旅に付き添うことになったベイリーも最初は彼を強く拒み、けれどどうしようもなく惹かれて、彼の周囲に漂う自由の気配を頼りとするようになる。そんなワンダーな魅力を持つ彼が抱える秘密は、観客の評価を二分するであろう劇薬。社会的動物と称される人間が操る言葉の戯れのように、〇〇「的」な言い回しで、何でもかんでも接合するキメラな想像とニュアンスを独り占めして去っていく。
動物でもある人が作る社会は、動物でもある人が生きる自然で、細胞の数でその生態が複雑怪奇になる生き物の集合体。曖昧にできないその境界で、嫌になるくらいの絶望と希望が育まれる。それを知ったからこそ、ベイリーは変身を果たして踊ってみせた。不平不満をぶち撒けるラップから民族的な音楽にまで及ぶバリエーション豊かな音楽が本作で使われている理由もここに収斂する。理屈で語り得る音楽の最中にあって、人は最もエモーショナルに変容する。クソほどダメな親父がなぜか決して子供を見離さないのも、その親父の背中で育った兄貴が図らずも授かった命を守り抜こうと無謀な選択を躊躇なく行えたのも、感情「的」になれる「私」や「私」や「私」が選べる人生。スタイリッシュでクリティカルな完成度を誇る本作が暗に語るその真理こそ私が映画『バード ここから羽ばたく』を激賞する最大の理由。超力作の素晴らしい作品を観れて本当に大大大大満足です。興味がある方は是非。ル・シネマ渋谷宮下などでまだまだ絶賛公開中です。
映画『バード ここから羽ばたく』レビュー