
百合の君(74)
「おお、穂乃か、よく参った。白浜が口をきいたぞ」
鉄の塊が、上からずーーんと落ちて来た。白浜を膝に抱えた浪親は、失敗した福笑いのような顔をしていた。穂乃はあえて次男を無視した。
「あの書状、珊瑚はたいそう喜んでいましたよ」
「書状?」
「ええ、あの・・・」
喜林の、と言いかけ浪親の顔が険しくなるのを見て、穂乃は「珊瑚を返してくれという・・・」と言い直した。
「ああ、あれか、なんでだろう」
「あなたが初めて、自分が父親だと宣言したのが、嬉しかったようです」
穂乃は努めて笑顔を作った。
「そうか、そうだな、初めてだったか?」
白浜は父の膝であばあば言って喜んでいる。
「ええ、お礼を言いたいと申しておりました」
「そうか、もう珊瑚は帰って来たのか?」
「ええ、つい先程。近いうちに帰参のご挨拶に伺うと申しておりました」
「そうか」
また幼子を覗き込む夫を見て、穂乃は悲しくなった。
「ある童に会いました」
浪親は返事をしない。穂乃はためらった。せっかく上機嫌でいる夫をわざわざ怒らせる必要はないのではないか。そのような考えが頭をかすめ、しかし珊瑚のために戦うとついさっき決心したばかりだと思い直した。
「古実鳴にいた時のことです。出海の兵となり、別所に捕えられた少年を見ました。体にも、心にも深い傷を負っていました。大人の事情で子供たちが親から離されるなどということは、もうこれ以上あってはなりません」
「そうだ、そのために私は戦っている」
意外にも浪親は笑顔を見せた。もっと言わねば伝わらない。
「喜林と」喉に恐怖のようなものがつっかえた。「戦をするのですか」
「もちろんだ、あいつは畏れ多くも皇子をかどわかし都の帝に弓を引く大逆者だ。征夷大将軍として成敗しなくてはならない」
浪親の表情が精彩を帯びた。珊瑚の話題では決して見せなかった顔だ。それが悔しかったからなのか浪親を止めたかったからなのか、穂乃にも分からない。分からないが、喉につっかえていたものが、急に吐き出された。
「だから戦を起こすのですか、戦のない世を目指す将軍が」
浪親は一瞬驚いたような表情を見せ、にやりと笑った。
「あやつは近いうちに必ず大きな戦を起こす。今のうちに叩くのは、被害を最小限にすることだ」
「とうとう、憎しみに染まってしまいましたね」
浪親は静止した。
「なんだと」
その目つきに穂乃は一瞬ひるんだが、ここで負けてはいけない。穂乃は勇気を振り絞った。
「前にも言いましたが、戦はそれが憎しみでさえあれば、戦に対するものでも利用します」
「それは違う、人が理性を求めても、歴史が狂気を求めるのだ。私が戦のない世を求めれば求めるほど、家臣は謀反を起こす、喜林は私に盾突いてくる。私にもどうすることもできない流れのなかに、私はいるのだ」
穂乃の怒りが爆発した。初めて会った時と同じ怒りだ。
「そんなものは言い訳です! 歴史も時代も、つくっているのは人間です!」
白浜は泣き出した。
「ではどうしろと言うのだ」
「天下など、喜林にくれてやればよいのです!」
浪親はその顔を青く染めた。
「それが狙いか! 喜林と通じて私の天下を二人で奪おうというのだな」
「何をおっしゃっているのです?」
「気付いてないと思ったか。あやつはお前の元の夫であろう。再び心を通わせ、私に復讐しようというのだろう」
穂乃は呆れた。確かに人質交換の時に話はしたが、かつての愛情は戻る兆しもなかった。当たり前だ、今はもう出海の妻なのだから。こんな下らない嫉妬で戦をさせてはならない。歴史は彼を最低の暗君と罵るだろう。いつの間にこの人はこんなに馬鹿になってしまったのか。
穂乃の脳裏に落ち武者から救ってくれた時の浪親の顔が浮かんだ。冷たいが冬の小川のように清らかだったその瞳は、いま目の前で腐乱した泥沼になっている。憎悪や猜疑が蛆や孑孑のように増殖し成長し飛び回っている。
もはや穂乃は珊瑚のことも忘れた。天下万民のため、ここで止めなくてはいけない。できなければ、今まで以上の戦が起こる。燃える心を押しとどめ、赤子に語りかけるように優しいため息をつく。
「今、私が心を捧げるのはあなただけです。だからこうして止めようとしているのです。二人で野に下り、手習いの先生でもいたしましょう」
「なぜそんな者にならねばならぬのだ」
浪親の目があらぬ方向に走った。
「あなたの夢のためです。あなたの夢は私の夢です。
喜林には戦を終わらせる気はありません。あの男の世はおそらく地獄でしょう。ですが、それを武力で倒そうとしても同じことの繰り返しです。私たちは私たちの見て来た世界を子供たちに伝え、たとえ今は地獄でも次の世を天の国にいたしましょう。猫がねずみを食べるまえの世の中に」
浪親の目が再び穂乃を捉えた。その瞋恚の炎を見て、穂乃は自らの無力を悟った。
「今できないのでは意味がないわ! 私は征夷大将軍だぞ、将軍にできぬことが手習い師匠などにできるか。お前やはり、喜林に天下をやって、その御台所の座に就こうというのだな。あるいは喜林さえ愛しておらず、私の力が衰えてきているのを見て乗り換えようというだけか。なんと浅ましい女よ」浪親の唇はまるで別の生き物のように震えていた。それは泣いているようにも見えた。「もう妻とは思わぬ。下がれ!」
「浪親様も、もう戦では戦をなくせぬことはお分かりでしょう。なのになぜまだ戦に固執するのです。本当に戦をなくすつもりが、まだおありですか」
「誤魔化すな! 私には証拠があるのだ!」
浪親は泣く白浜を押しのけて、懐から紙を放り投げた。木怒山が蝶姫に当てた、穂乃の不義を密告する偽りの文だ。
「なんですこれは」
読んだ穂乃は愕然とした。この木怒山という男は、煤又原城で喜林の側近をしていた男だ。人質に出されていた間、夫から返信がなかった理由がやっと分かった。全てこの男のたくらみだ。私を使って出海と喜林を争わせ、自らが天下を獲ろうというつもりだ。
「これは偽りです。根も葉もない嘘です」
「今さら信じると思うなよ、喜林も、お前も、絶対に許さぬ、下がれ!」
近づいてきた家臣は、固く穂乃の腕を掴んだ。泣く白浜と浪親が遠ざかってゆく。
穂乃が見えなくなると、浪親は白浜を抱き上げ、一緒に泣いた。
「私はもう、これ以上なにも失うわけにはいかぬ・・・」
その声は白浜の泣き声にかき消され、誰にも聞かれることはなかった。
百合の君(74)
作中で言及されている穂乃と浪親が初めて会った時は(2)に、落ち武者から救った場面は(21)に、穂乃と喜林の再会は(55)あります。また、浪親が失ったものは(18)で語られる実家の滅亡や(72)における長年一緒に戦って来た仲間の死を念頭におくと、理解しやすいかもしれません。