夏とポケットティッシュ

 その青年は20歳くらいの、どこにでもいる気の弱いところがありそうな風体の若者だった。
 そしてそのどこにでも売っていそうな黒縁眼鏡の向こうから一瞬気だるげな視線をこちらによこしたかと思うと、急に人の良い笑顔を浮かべて元気な声とともに何かを手渡してきた。
 ポケットティッシュである。
 もし今日、この猛暑の中友人の娘へのプレゼントに絵本を買いに来なければついぞ見られなかったであろうその青年の咄嗟の営業スマイルに私は感心した。同じ時間、商業施設の入り口に居合わせただけの、完全なる偶然の邂逅には勿体無いほどの良い笑顔と声量だった。
 私は極力その若々しく日に焼けた手に触れないようにしながら、曖昧な笑顔でそれを受け取った。なんだか不思議と、触れたら自分の指まで暑い夏に取り込まれてしまいそうな気配を、一瞬だけ感じたのである。
「キャンペーンをやっていますよ!」
そう言って彼は不動産屋のチラシも何枚か渡そうとしてきたので、私は咄嗟に両手を鳩尾の辺りに引き上げて、
「いえ、結構です……」
と小さい声で情けなく断りを入れた。
 そもそもこんなところで立ち止まっている訳にはいかない。私は、今年小学生になった友人の娘の屈託の無い笑顔を思い出し、同じフロアの広い本屋へ逃げるように入った。

 ああ涼しい、とエアコンに感謝しながら絵本のコーナーを探した。
 本屋というところは無駄な熱気が無い。ただ己の目的地を目指してすれ違う同志達が遠慮がちに狭い通路を行き交うその空間が、私は好きだった。
 この辺りだろうか、と店内を見回していると、突如、軽い容器を落としたような音と「あっ」という子供の力の抜けた声が聞こえた。
「はなちゃんのジュース……」
 小学校低学年くらいだろうか、精一杯お洒落したのであろうひまわりのワンピースの裾と、それとは不釣り合いなほどに履き込まれたスニーカーのつま先がジュースで濡れていた。
 周りの大人達は皆一様にそっと息を呑み、困ったようにその少女を見守っていた。その内の何人かは少女の親らしき人物を目で探していたが、この小さな大事件に名乗り出る大人はいなかった。
 天井の照明をひたすらに反射するだけの本屋の床にじわじわと広がっていくジュースの水面を見下ろして立ち尽くす少女がきゅっと口を引き結んだのを見て、私はハッと身じろぎした。そして、ズボンのポケットからカサッと乾いたビニールの擦れる音がした瞬間、私は白いポケットティッシュを掴んでその張りつめた空気に触れさせていた。
 パリッと指でビニールを破いた音を聞きつけた大人達の気配を感じながら、私は少女に声をかけた。
「これ、良かったら使って」
 少量のティッシュペーパーでは足りないことは重々に承知していたが、床のジュースが無遠慮に集めるこの少女への視線をこちらに分散させねばと思うと同時に、私は膝をついて白く頼りないペーパーを水たまりに浸していた。
 全然足りない。この子の親は何をしている。他の人間は見ているだけか、畜生。と、この状況に耐えられず心の中で徐々に悪態をつき始めたときである。
「ごめんなさい……」
と、小さく謝る少女の声が正面から聞こえた。
 私は顔を上げられなかった。その少女が今、何を思っているのか、私などが簡単に推し量って声をかけたところでどれも場違いであることは明白だった。
「大丈夫、それより清掃の方を呼ぼうか、これじゃあ全然足りないね」
などとなけなしの語彙でもってもぞもぞと言っていたら、後方から聞き覚えのある若い男の声がまっすぐ飛んできた。
「こぼしちゃったんですか?大丈夫?これ、使ってください!」
 ガサガサと大量のポケットティッシュを差し出しているのは、先ほど入り口で私に声をかけた眼鏡の青年だった。
「どうぞ、君もびっくりしたね。落ち着いてこれでスカートと靴を拭きな。いくらでもあるから」
 その青年の声がはっきりと本屋に響くや否や、周りにいた静かな観客達は一斉に動き始めた。
 少女に優しく声をかける者、スカートを拭いてやる者、店員と清掃員を呼びに行く者、私と一緒に床を拭き始める者、ああこうして世の中は動き出すのかと、私は隣で次々にティッシュを開封していく青年を眩しく思った。

 全てが片付き、少女も無事に親に連れられて帰ったあと、私は先ほどの青年に声をかけた。
「ありがとうございました。私一人ではどうにも出来なくて」
 青年は2回ほど瞬きをしてから、人の良さそうな笑みを浮かべて
「いえ、貴方も大変でしたね。僕はこれで良いんです、だって配らなくてはいけないポケットティッシュが無くなりましたから」
と悪戯っぽく言った。そしてずれていない眼鏡を直して、それだけです、とはにかみながらまた笑うので、この人もちゃんと笑う人間だったのだなと何だか可笑しくなった。
 貰ったポケットティッシュはもう無いが、こんな夏ならもう少しだけ続いて良いかもしれないと、ズボンのポケットの軽さがそう言っていた。

夏とポケットティッシュ

夏とポケットティッシュ

夏と眼鏡の青年とポケットティッシュと本屋とジュースと少女との、何か起きそうで何も起きない話です。息抜きの純文学をどうぞ。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-13

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