「わたしを壊したのは、だれ?」

「わたしを壊したのは、だれ?」

「振り返るとわたしの足跡がない」何かの本に書いてあった一文が頭をよぎる。

プロローグ
「振り返るとわたしの足跡がない」何かの本に書いてあった一文が頭をよぎる。
 四月の朝、まだ少し肌寒さの残る中、三枝 彩(さえぐさ あや)は制服の襟元を整えながら、玄関の姿見に映る自分を見つめていた。真新しいブレザー、プリーツのスカート、肩まであるストレートな黒髪。今日からこの制服が、自分の「存在証明」になる。
 「早くしなさい、遅れるわよ」
 母・美佐子の声が背中に飛んできた。声色は穏やかだが、その奥にある苛立ちを彩は敏感に感じ取った。慌てて靴を履き、母とともに家を出る。
 入学式が行われる中学校は、電車を一本乗り継ぎ、坂道を上った先にある中高一貫校の名門・私立星嶺学園。県内でトップクラスの女子進学校と呼ばれ、周囲からの評価も高い。
 道中、母はほとんど口を開かなかった。だが、駅に着き、校門が見えてくるとふいに口角を上げ、彩の制服姿を見て一言つぶやいた。「……いいわね、やっぱり。うちの子がここの制服を着てるなんて」その言葉に、彩の胸は少し温かくなった。自分が選ばれたような、認められたような気がした。

 母、美佐子はいわゆる「教育ママ」。高卒の彼女は一人娘の彩にはどうしても学歴を手に入れてほしかった。その熱心さは、愛情というより依存に近かった。彩の毎日は、分単位でスケジュール管理されていた。放課後の遊びは許されず、成績が少しでも落ちれば、夜遅くまで「なぜできなかったのか」と机に向かわせられた。「勉強していい大学に入れば、将来は自由になれるのよ」「お父さんみたいな男じゃなく、ステータスの高い男と一出会えるのよ」──そう言い聞かされて育った。
 「あなたなら、もっとできるはずよ」「わたしの子供だから」そう言われるたび、彩は(もっと頑張らなければ)という呪文を自分にかけた。彩の部屋にはテレビもなく、漫画や雑誌は「頭が悪くなる」と禁止された。スマートフォンを手にしたのは中学二年になってからだ。しかもそれは「連絡手段」として与えられたもので、アプリのダウンロードやSNSの使用には母の了承が必要だった。
 
 一方、父、徹は家では存在感がなく影のような存在だった。物心ついたころには、父はすでに「家の中にいるのに、いない人」だった。存在はあっても、何かを決めたり、導いたりすることは一度もなかった。職を転々とすることが多く、面接に落ちれば「運が悪かった」「この国はもう終わってる」と決まり文句のようにぼやく。そして缶ビールを片手に、ソファに深く沈み込む。
 「もう少し真面目に働いてよ!」「わたしのパート代だけじゃ、彩の学費が払えないじゃない!」
 母の怒鳴り声が響くたび、父は「……ごめん。今度こそ頑張るから」と呟くだけだった。その「今度」は決して訪れなかった。口をへの字に結び、うなずいて、黙ってやりすごす。家族に関わることを避け、争いを生まないことだけを目的に、空気のように生きていた。
 そんな父の背中を見て、彩はいつしか思うようになっていた。
 ――私がちゃんとしなきゃ。
 父を失望したくなかった。母の怒る姿を、見たくなかった。だから、「優等生」でいよう。母が与えた教材は「できて当然」のもので、少しでも間違えれば罵声が飛んだ。それでも彩は、母の望む「正解」にたどりつこうと、無我夢中で鉛筆を握り続けた。

 そして、桜の舞う三月のある日、名門・星嶺学園の合格通知が届いた。式が終わり、校門で写真を撮り帰宅すると、母はちらし寿司とから揚げ、彩の好きなグラタンを用意していた。
「お父さんもすぐ帰るって。せっかくだから、三人で食べましょう」キッチンから漂う香りに、久しぶりに【家族】というものを感じた。
 彩はテーブルにつき、テレビのリモコンを握った。バラエティ番組が流れ始め、空気が少し緩んだそのときだった。
 玄関の扉が開く音と同時に、母の動きが止まった。玄関の扉がゆっくりと開き、湿った外気とともに父が現れた。無言のまま靴を脱ぎ、ジャケットを脱ぎ捨てるように手に掛ける。
その目はどこか焦点が合っておらず、まるで遠くの景色を見ているようだった。
「……ただいま」一拍置いて、かすれた声が続く。 
「今日で……仕事、辞めてきた」
 母の手がテーブルの上で止まった。箸を無造作に置き「は?」その声には、まだ怒りよりも呆れが勝っていた。
 父は視線を合わせず、冷蔵庫へ歩み寄る。
「まあ……色々あってさ。向こうの空気にもう耐えられなかったんだよ」 缶ビールを取り出し、プルタブを開ける音がやけに響く。
「空気にもう耐えられなかったってなに?」と父の発した言葉を繰り返し聞き直した。
「細かいことは……いいだろ。いずれまた探すから」
母の眉間に深い皺が刻まれる。「いずれ? 彩の入学祝いの日に? あんた、何考えてるの」父は苦笑いを浮かべ、ビールをひと口。
 その姿は、叱責の言葉さえ自分に届かない場所に避難しているように見えた。彩はテレビのリモコンを握りしめたまま、番組の賑やかな声を耳の奥で遠ざけた。温かかったはずの食卓が、瞬く間に冷えていくのがわかった。
 母は無造作に置かれた箸を握りしめ。数秒の沈黙のあと、怒声が台所に響いた。
彩はテレビの音に助けを求めるように視線を向けたが、その喧騒も、怒声の前では無力だった。

 そして、深夜。何かが落ちるような大きな音が風呂場から響いた。彩は飛び起き、母の寝室をノックしたが、すでに母も廊下に出ていた。二人で恐る恐る風呂場のドアを開けると、そこには尻もちをついた父の姿があった。浴室の天井からはほどけたロープが垂れ下がり、床には足場に使われたと思われる椅子が倒れている。
「……何やってんのよ」母は驚いた様子もなく、ただ軽蔑したような目で父を見下ろした。
「どんくさい……こんな紐、切れるに決まってるじゃない。情けない」
 その一言が、彩の胸を切り裂いた。父は何も言わず、濡れた床の上にうずくまっていた。(なんてもろい男……)彩の喉の奥で、何かが詰まったような感覚が残った。
 その日以来、家の空気は酸素が少なくなっていくような感覚になっていった。夫が頼りにならないと悟った母は、その依存対象を夫から彩へと完全にシフトした。これまで以上に彩を管理するようになり、スケジュール表を冷蔵庫に貼り出して、1日の流れを管理し、起床時間、勉強時間、テレビの時間まで、すべてがそこに記されていた。「彩、これは家族を守るためなのよ。あなたのためでもあるの」まるで自分のような不確実な人生を娘に送らせないため、といった彼女の焦りの表れだろう。
 母はそう言ったが、彩にとってそれはまるで依存【監視】だあった。友達とのやりとりすら許可制になり、次第に友達との連絡すら控えるようになっていった。それでも、彩は自分に言い聞かせていた。(私がしっかりしなきゃ)そう思えば、少しだけ呼吸が楽になった。母が満足するような【良い子】であれば、この家は壊れない。家族は繋がっていられる。
 その一心で、彩は成績を保ち、遅くまで机に向かった。
 だが、ある日のことだった。中間テストでわずかに点数が下がったことに気づいた母は容赦ない言葉を投げた。
「お父さんそっくり」たったそれだけの一言が、彩の中の何かを打ち砕いた。
 自分は完璧じゃなければ、愛されない。母の満足のために生きていたのに、その価値すら簡単に否定される。涙がこぼれそうになったその夜、布団の中で思い出したのは、かつて父が一度だけ言ってくれた言葉だった。
「無理するなよ。自分を大事にしなさい」あのときの父の背中は、今よりずっと大きく見えた。しかし、あの夜、浴室でうずくまっていた父の姿と重なり、その言葉も虚しく思えた。声を殺して、ただ泣いた。誰にも見られないように、枕を口に押し当てて。
 家は、もう安心できる場所ではなかった。彩は学校が終わりまっすぐ帰宅することが少なくなった。張り詰めた空間に身を置く苦しさは、水の中にいる感覚と同じだった。

第一章「失意の果て」
高校生になった彩は、常に成績上位に名を連ね、学年主任や担任から何かあるたびに頼りにされる生徒であった。身なりも、品のある清楚な佇まいに、穏やかな口調、友人たちの話や悩みに耳を傾け、軟式テニス部の後輩からも慕われる存在だ。
 授業では教師の言葉を一字一句聞き漏らさずノートをとり、提出物は期限前に完了するのが当たり前で「彩みたいになれたらいいな」そんな言葉を、どれほど聞いてきただろうか。
 クラスの進路ガイダンスのあと、帰り道に康代が彩にぽつりと話す。
 小川康代は、幼稚園からの幼馴染。中学受験に不合格だった彼女が、星嶺学園高等部に合格したと聞いた瞬間、私は心から嬉しかった。入学式の日、“彩――!”と叫びながら抱きついてきた康代の姿は、今も鮮明に覚えている。
「……うちの親、最近ずっと喧嘩ばかりでさ。家に帰っても、ため息しか出ないんだよね」
康代は、俯きながらぽつりとつぶやいた。「愛し合って結婚したはずなのに、どうしてあんなに憎しみ合えるのか、考えちゃって……。人の気持ちって、何なんだろうって」少し間を置いて、彼女はふっと微笑んだ。
「おかあさんの知り合いで家族の問題をサポートしてる人がいて、たまに悩みを聞いてもらってるんだ」と康代はため息をつき「こんなくだらない悩み、優等生の彩にはわからないよね」とおちゃらけてみせた。
彩はなんと返せばいいか分からず、ただ「へえ……」とだけ答えていたが、康代の目はどこか真剣だった。
 だが心のどこかで、そんな「理想の優等生」という仮面が自分の本質ではないことを知っていた。笑顔を作るたびに、胸の奥で小さな鈍痛があった。誰かの期待に応え続けることは、誰にも拒絶されない代わりに自分自身を失っていく作業でもあった。
 彩の両親は相変わらず冷えた空気と静かな緊張感が張り詰めた関係で息の詰まるような家(空間)だった。
 母は大学受験を迎える娘にたいして中学校時代と比較できないほど成績や生活習慣に細かく口を出した。母の声が大きくなることで父は見えなくなっていった。
 母がヒステリックに怒鳴り散らしても、父は決して怒鳴り返すことはなかった。反論するでもなく、黙って聞き流し、うなずくだけだった。まるで「問題が起きないこと」だけを望む存在のようだった。(私がちゃんとしなきゃ)母の期待を裏切らないように。父のように(情けない人間)にならないように。その思いは、いつしか強い思いと強い不安が入り乱れた複雑な感情へ変化していった。
 期待をうらぎらないために。失望させないために。存在を否定されないために。
彩は「いい子」でいることをやめられなかった。いい子の仮面を外せない息苦しさ。
 しかし、心のどこかでずっと感じていた。(周囲に適応するためにわたしは仮面を被っている、抑圧しているその影が大きくなっている)
 母は娘を「自分の理想」に仕立てようとしているだけで、彩そのものを見ていない。
 父は彩の存在にすら無関心で、ただ息をひそめるように日々過ごしている。
 家に帰っても、自分の話を真剣に聞いてくれる人はいなかった。それが、彩にとっての「家庭」だった。
 勉強ができれば褒められる。成績が落ちれば無言の圧力で押しつぶされそうになる。
母親とは、評価のための契約関係のようだった。
 家ではいい子であることが、唯一、自分がこの世界に存在することを許される条件だった。
 どれだけ模範的なふるまいをしても、夜になると得体の知れない虚しさが彩の心を覆った。眠れない夜、天井を見上げながら、ふと問いが浮かぶ。
 (私は…何のために生きてるの?)
 だがその問いは、誰にも聞いてはいけないものだった。何かを疑うことさえ許されない日常。クラスメイトの誰もが「欠点のない人間」として私をみている。
 その視線もまた、彩のこころに仮面を被せていった。

 学校の帰り道、宮原 美咲と繁華街の中心に位置する待ち合わせの定番スポット「アリスガーデン」のベンチに腰を下ろした。美咲とは、中学校に入学したばかりの春、誰とも打ち解けられず教室の隅で静かに過ごしていた。クラスメイトたちはすでにグループを作り、賑やかに話している。宮原美咲だけが、私と同じように黙って席に座って窓の外をぼんやり眺めていた。その姿を見ていたらお互い目が合いその時から話すようなり仲良くなった。
二人は周囲に溶け込むように、ざわめきと流れる音楽に耳を傾けていた。
 「なに見てんの? つまんなそうな顔してるね」低く落ち着いた声が、耳元で響いた。
 顔を上げると、黒のパーカーにジーンズ、無造作な髪にピアスをつけた男が立っていた。年齢は自分よりずっと上、二十代後半だろうか。周囲の制服姿の学生たちとは明らかに違う、異質な存在。「ごめん、いきなり声かけて。つい気になっちゃってさ」そう言って男は、自然な仕草で彩の隣に腰を下ろした。
 断る理由はあったはずなのに、彩は何も言えず、ただそのまま座っていた。「学校、疲れた? それとも、逃げてきた?」
 その言葉に、彩の口元がわずかにゆるむ。誰にも言われたことのない、突き刺さるような軽口。それがなぜか心地よかった。
「俺、拓也。好き勝手に生きてるだけのただの人間です」そう名乗った彼は、言葉の端々に危うさを漂わせていた。でも、それが――彩には眩しく見えた。初夏の風が吹き抜け、アリスガーデンの光が傾き始める中、彩は彼の隣に座り続けた。
 その日を境に、放課後アリスガーデンに通うようになった。偶然が何度も重なるうちに、ふたりの距離は自然と縮まっていった。彼の放つ言葉、身ぶり、匂い、すべてがそれまでの彩の人生にはなかった刺激だった。
ある日、彼の部屋で映画を見ていると、拓也は唐突に彩を押し倒した。驚きと恐怖で身体が固まる彩に、彼は囁いた。「大丈夫。俺が全部教えてやるよ」。それが、彩にとっての初めての経験となった。半ば強引な行為に彩の心は恐怖と、どこか期待していたような自分への嫌悪感で満たされていた。
 彼の話す世界に彩は魅了されていった。夜の街、自由な人間関係、縛られない生き方。彼のそばにいると、心が風にほどけていくような感覚を覚えた。
 だが、最初に覚えた【解放】は、いつしか【依存】へと変わっていった。
初めて彼に抱かれてから3か月後、彩は自分の身体に異変を感じた。吐き気、だるさ、そして来ない生理。恐る恐る検査薬を試すと、そこには二本の線がくっきりと浮かび上がっていた。 (……嘘でしょ) 目の前が真っ暗になる。彩は震える手で拓也に電話をかけた。呼び出し音が鳴り響くたびに心臓が激しく跳ねる。
「……どうした、こんな時間に」面倒くさそうな声が、電話の向こうから聞こえてきた。彩は震える声で、検査薬の結果を伝えた。
「……は? マジかよ」
拓也はしばらく黙り込み、それから舌打ちをした。
「……で、どうすんだよ」
「……どうすればいいの。わからない……」
彩の言葉は、まるで迷子になった子供のようだった。拓也は、少しの間、何も言わなかった。電話の向こうから、遠い雑踏の音が聞こえる。それは、彩のいる世界とは全く違う、彼の世界の音だった
「まあ、しょうがない。病院行くぞ」 翌日、拓也と二人で産婦人科を訪れた。待合室に座る彩の横で、拓也はスマホをいじっている。彼の指先からは、彩の不安や恐怖は微塵も感じられなかった。 医師に呼ばれ診察室に入る。妊娠は確定だった。「早めに処置した方がいいでしょう」という医師の言葉に、彩はただ頷くしかなかった。拓也は費用について尋ねた。「金、ねえんだよな……」。そう言って、拓也は彩にちらりと視線を向けた。その目は、「お前が何とかしろ」と言っているようだった。彩は、お年玉として貯めていたお金をすべて下ろし、費用にあてた。彩の心に、小さな絶望が芽生えた。この事実が、周囲に知られてはならない。優等生としての人生も、親の期待も、すべてが崩壊してしまう。
この経験を境に、彩は徐々に学校でも笑わなくなった。ノートの文字は乱れ、提出物を忘れるようになった。教師の目が少しずつ変わっていくのを、本人も気づいていた。けれど、それでも彩は彼を手放せなかった。心が壊れていくのを、どこか他人事のように感じていた。
 そして、拓也には隠された闇があった。
 彼の電話には、しばしば知らない番号からの着信があった。彼の電話には、しばしば知らない番号からの着信があった。予定を突然キャンセルされることもあった。ある日、いつものように会う約束をしていた拓也が、突然約束をすっぽかした。何度電話をかけても出ない。その夜、ようやく彼と連絡が取れたと思ったら、電話口から聞こえてきたのは、冷たく投げやりな声だった。
「……うるせえな、いちいち俺の居場所探すんじゃねえよ」 「どうしたの?何かあったの?」
彩が不安げに尋ねると、拓也はさらに苛立ちを募らせた。
「お前には関係ねえだろ。面倒くせえんだよ」
その言葉に、彩は胸の奥を鋭く刺されたような痛みを感じた。「関係なくないよ!拓也、最近おかしい。何か隠してるんでしょ?」彩は、抑えきれない感情のままに声を荒げた。すると、拓也は一瞬黙り込み、それから鼻で笑った。
「……ああ、そうだよ。隠してる。いいか、もう俺に関わるな。俺が何をしてるか、知りたいんだろ? 教えてやるよ。俺はな、プッシャーだ。ヤク(覚せい剤)を売って生活してる。お前が俺の周りにうろついてるせいで、いつ足がつくかわかんねえ。だからもう、二度と連絡してくんな」拓也は一方的にそう告げると、電話は切れた。彩の手からスマートフォンが滑り落ち、床に落ちる。画面は真っ暗なまま、彩の心もまた暗闇に突き落とされた。
プッシャー、覚せい剤の売人。その言葉が、彩の脳裏で何度も反響した。目の前が真っ暗になり、電話を持っている手が震える。拓也の言葉は、まるで鋭い刃物のように、彩の心を深く抉った。「拓也……嘘、でしょ」彩は、か細い声で呟いた。「嘘じゃねえよ。ま、お前には関係ない話だ」拓也は、そう言い捨てて電話を切った。受話器から聞こえてくる無機質な電子音だけが、彩の絶望を物語っていた。 彼の放つ言葉、身ぶり、匂い、すべてがそれまでの彩の人生にはなかった刺激だった。けれど、それがいつしか、心に深く突き刺さる毒へと変わっていた。
 ある夜、彼の目は瞳孔が開き焦点が定まらなくギラついていた。会話も噛み合わず、落ち着きがなく、何かを探すような仕草が目立った。
 (なにかがおかしい)
彼のバッグの奥に見えたもの。小さなビニール袋と、使用済みの注射器。
 「……嘘、でしょ」
 けれど、目の前の“現実”を、問いただすことができなかった。彼を否定することは愛を失うことと同義だった。
 その日を境に、彩は徐々に学校でも笑わなくなった。ノートの文字は乱れ、提出物を忘れるようになった。教師の目が少しずつ変わっていくのを、本人も気づいていた。けれど、それでも彩は彼を手放せなかった。心が壊れていくのを、どこか他人事のように感じていた。
 彩が信じていたものは、さらに深く裏切られることになる。深海に引きずられるように。
 彩は約束もなしに、ふとした衝動で拓也の部屋を訪れた。アパートの一室、暗い廊下を歩いてドアの前に立つと内側から微かに音楽と“息遣い”が聞こえてきた。
 嫌な予感がした。ノックをせず、そっとドアを開けるとリビングの扉が少しだけ開いていた。その隙間から見えた光景に、彩の呼吸は止まった。
 ソファに倒れ込むようにして絡み合う、拓也と美咲。自分の親友。いつも隣にいた、あの美咲。拓也の腕の中で、呂律の回らない声を上げながら身を任せていた。
 テーブルには白い粉、床には使用済みの注射器。
 「うそ……」
 彩はその場に立ち尽くした。
 美咲がこちらに気づき、顔を上げた。その瞳は焦点が合っておらず、けれど、彩の姿を見た瞬間、恐怖と罪悪感が一気に浮かんだ。拓也は笑った。
 「見ちゃったか……ま、こういうのもアリだろ?」
 その笑みは、どこまでも冷たく、そして無関心だった。
 彩の心は、その瞬間に砕けた。
 全身から力が抜け、靴の中の足が冷たくなる。
 信じていたものが音を立てて崩れていく。
 その現実だけが、突きつけられていた。
 ―拓也が、自分の親友・美咲と関係を持っていた。
 それも、薬に溺れた関係で。それは、「裏切り」と呼ぶにはあまりにも残酷で、同時に自分自身もすでにどうしようもない地点にまで落ちてしまったという証明でもあった。
 (私は、もう、戻れない)
 初めて、心の中でそうつぶやいたとき、涙は出なかった。ただ、空虚な感覚だけが体内を満たしていた。
 優等生としての彩。誰かの期待に応えてきた少女。もう、この世に存在していなかった。

第二章「深淵の縁(ふち)」
 雨上がりの夕暮れ時。星嶺学園の正門を出た彩は、濡れた校門の金属音に気づかないふりをして歩いた。誰にも見つかりたくない。誰にも呼び止められたくなかった。
 でも本当は、誰かに呼び止めてほしいと思っていた。
 「彩、大丈夫?」──そんな言葉を、心のどこかで待っている。
けれど、その一言が届くことはない。今の自分に、誰も関わろうとはしない。 
 下校時の坂道で、手を振ってくる同級生の笑顔がまぶしくて、思わず目を逸らす。
(私も、あんなふうに笑っていたはずなのに)
 家に帰ると、母・美佐子の声がリビングから飛んできた。
 「遅かったわね。寄り道してたの?テスト近いのに」 
 その声は刺のように響く。問いかけというより、検問のような口調。
 「ううん、少し図書室に……」 
 そう答えながら靴を脱ぐと、玄関の石畳に湿った足音が残った。
 リビングのテレビではニュースが流れ、父・徹は無言のままソファに座っていた。彩と目を合わせることはない。ただ、空っぽの缶ビールを床に転がしながら、ぼんやりと画面を見つめている。
母はその背中に向かって、時折小さな舌打ちをする。 
 夕食は彩の好きだったはずの鯖の味噌煮だったが、箸が進まない。母の目がそれに気づいても、何も言わなかった。ただ、黙って皿を下げた。
(私が何を考えているかなんて、母はもう興味がないんだろう)
 でも、違う。本当は逆だ。母は興味がありすぎるのだ。すべてを把握したがって、すべてを支配したがっている。愛情ではない。「依存」だった。
その夜、部屋にこもった彩は机に教科書を広げたまま、何も読めずにいた。文字が黒い模様のように視界を泳ぎ、ページをめくる手が止まる。窓の外では、雨粒が再びガラスを叩いていた。(もう戻れない)
 この言葉が頭の中をぐるぐると回る。
 拓也、美咲──ふたりの姿は、鮮明すぎるほどに記憶に焼き付いていた。
 裏切られたことの痛みと、そこにいる自分の情けなさ、怒り、悲しみ、軽蔑、羨望、それらがすべて交錯していた。
 携帯電話を手に取っては置き、置いてはまた手に取る。
 拓也からのメッセージは、昨日を最後に途切れている。「また連絡する」の一言だけを残して。
 彼の背中は、未練と恐怖の混じる影を彩の心に刻みつけたまま、離れていかない。どうして、自分はそこまで彼に執着しているのか。それすらわからなかった。
 翌朝、教室のざわめきが遠く聞こえる中、彩は席についた。机の中にはプリントが散乱し、数日前までの自分なら考えられない乱れ方だった。周囲の視線が突き刺さる。
 「ねえ、彩ちゃん、今日の小テストさ……」話しかけてきたクラスメイトの声を、彩は聞こえないふりをして無視した。気づいてほしくなかった。
 そのとき、美咲が教室に入ってきた。
 目が合った。だが美咲は何も言わず、すぐに視線を逸らした。
 (全部、知ってるのに)
 何もなかったような顔で、美咲は席についた。隣の女子と何かを話しながら笑っている。その笑顔が、彩の内側を冷たくえぐった。
 授業中、手が震えてノートに文字が書けなかった。鉛筆が何度も滑り、破れた紙の上に血のような赤いインクがにじんでいた。無意識に指を強く噛みすぎていたらしい。
 チャイムが鳴った瞬間、彩は教室を飛び出した。
午後、保健室に逃げ込んだ彩は、仰向けに寝かされたベッドの上で天井を見ていた。
 「何かあったの?」と保健室の先生が静かに尋ねたが、彩は首を横に振った。
 なにも話したくなかった。どれだけ言葉を尽くしても、きっと理解されない。
 それでも、誰かに見つけてほしかった。
 (私は壊れかけてる)
ただ、その一言が、口から出てこない。
 その日の放課後、彩は家に帰らなかった。電車に乗り、どこかへ向かうわけでもなく、改札を抜けた先でぼんやりと時間を潰した。通学定期の圏内をふらふらと歩くだけ。
 誰かに見られたくなくて、帽子を深くかぶり、イヤフォンを耳に差したまま、音楽すら聴かずに音のない世界に閉じこもった。
 気づけば、夕暮れのアリスガーデンに立っていた。あの日、拓也と出会った場所。まだ風が湿っていた。ベンチに腰を下ろすと、あのときと同じ位置に彼の幻影が浮かんだ。目を閉じると、あの低い声が耳元で囁くように蘇る。
 「学校、疲れた?それとも、逃げてきた?」
 思わず、肩をすくめて耳をふさぐ。
 現実の彼はもう、そこにはいない。
 でも彩は、拓也の言葉の中にしか、自分を肯定してくれる存在を見つけられなかった。
その夜、家に戻ると母が待ち構えていた。
 「どこ行ってたの!?何度電話しても出ないし、LINEも既読にならないし!」
 怒鳴り声が玄関に反響する。
 「ごめん……」
 そう絞り出すのが精一杯だった。嘘をつく気力も、逆らう気力も、どちらも彩の中には残っていなかった。
 「また成績が落ちたら、どうするの!?模試の結果は!?ねえ、ちゃんと考えてるの!? このままじゃ広大も危ないって担任に言われたわよ!」
 彩はただ、立ち尽くしていた。父はやはり、黙ってスマホを見ている。
 家庭に居場所はない。学校にも、もうない。
心理的に追いつめられる彩にとって、拓也は初めて自分を否定せずに受け入れてくれた存在だと思うようになっていった。
だからこそ、「裏切られた」と思っても、完全に切り捨てられなかった。
 胸の奥にこびりつくのは、あの夜の光景――拓也の肌に触れる美咲の指先、甘えるような声、絡み合う吐息。焼け付くような嫉妬と、心の奥に沈殿する美咲への劣等感。
美咲には負けたくない。拓也を渡したくない。憎しみと執着が、胸の奥で混ざり合い、濁った熱を生む。
「……私は美咲に負けてない」
そう呟くことで、かろうじて自分を繋ぎ止めた。(私には拓也しかいない。拓也の胸の中が、私の居場所。)
 以前、拓也の財布からこぼれ落ちた一枚のレシートが、ふいに脳裏に蘇る。そこには「消費者金融」の文字。問い詰めると、彼は苦笑いを浮かべて言った。
「マジでやばい。やばい奴に金借りちまってさ……利子がエグいんだよ」
さらに小さく、呟くように続けた。
「この話、美咲にしたらさ……三十万貸してくれたんだ」その時は何で美咲がそんな大金を貸すの?くらいにしか思わなかったが、今は違う。
あの二人が裸で抱きあっている姿が浮かび上がる……胸がキュッと締めつけられた。
 美咲が拓也の役に立っていた――それが悔しくて、惨めで、でも同時に羨ましかった。
(私が、拓也を助ける。)
それは意地だった。そして救いでもあった。
拓也には美咲じゃなく、私が必要。
私も拓也が必要。
——あの人を、失いたくない。
——あの人の【役に立てる】なら、それだけでいい。
そのとき、自分の価値がようやく見えた気がした。
他の何よりも鮮やかで、危うい光のように。
 翌朝、彩は制服姿のまま家を出たが、学校には向かわなかった。
コンビニでパンを一つ買い、駅前のカフェで時間を潰しながらスマホを握りしめる。
 画面の向こうに、かつて美咲が笑いながら言っていた言葉が蘇る。
「パパ活とか、慣れれば余裕だし。ほんとバイト感覚だって。JKだから手出してこない人も多いし、当たり引けばラッキーって感じ」
なにか、自分の中の大切なものが削り取られていくような怖さがあった。
以前、夜の新大久保を特集したニュース番組で、“路地裏の暗がりに立つ女たち”の姿を見たことがある。
 そこで北尾勇という胡散臭い哲学者が言っていた――
「自分を商品にするってことは、自分の身体の一部を切り裂いて売ることだ。一部分から失っていき最終的には自分がいなくなる」
哲学者は番組ではいろいろ話していたが、なぜかその言葉が頭の奥に残っていた。
それでも、それ以上に――拓也を助けたい。必要とされたい。
その思いが、恐怖を押し流していった。そして――どこか、壊れてしまいたい。
指先が震えながらも、迷いはなかった。
出会い系サイトにアクセスし、登録フォームを埋める。
【JKです。パパ活希望。】
送信からわずか数分後、通知が震えた。
【40代会社経営者です。まずは食事だけで3万出します】
駅前のホテルラウンジ。スーツ姿の中年男。笑顔が張りついたように不自然で、目が笑っていない。
「学生証、見せて?」
彼の手元に渡した学生証を見て、にやりと笑う男。
料理の味も、会話の内容も彩の記憶には残っていない。
ただその後、男に手を引かれ無言でラブホテルへ。
(この裸を見られているのは、私じゃない)
彩はそう思った。この部屋にいる、服を脱がされているこの女は、私じゃない。ただの物体、飾り物、欲望の器。そう考えることで、美咲は心の均衡を保っていた。感情を捨て去り、思考を停止させ、ただそこに存在するだけの「人形」になる。そうしなければ、壊れてしまいそうだった。
男は彩の身体を眺めながら、不気味に笑った。「若いってだけで、価値があるね」その言葉は、美咲の耳には届かなかった。ただの音の羅列として、その意味は虚空に消えていく。
何も感じなかった。何も言えなかった。
(この裸を見られているのは、私じゃない、私じゃない)
そう思った瞬間、意識が宙に浮いた。
「まあ、とりあえずよかったよ。どうだった?よかった?」
彩は「約束のお金」と無感情で答えた。
男は無造作に3万円をテーブルに置いて「またよろしくね、今度は少し安くしてね」といって部屋から出て行った。紙切れに見える1万円3枚をカバンに入れ、ホテルの廊下に出た瞬間、彩は足元がふらついた。
一歩、また一歩。重力が身体にまとわりつく。
(これでいい……なんでもない。汚れたのは、身体だけ。心はキレイなまま……)
しかし、ビルのガラスに映った自分の顔は、見慣れたものではなかった。
無理に笑ったはずの表情が、どこか歪んでいた。
ふと、拓也の顔が頭に浮かぶ。
(拓也……抱きしめてほしい。私の身体をあのときのきれいな状態に戻してほしい。)
公園のベンチに座り、心に空いた穴を埋めようと、無意識に彼の番号を押した。一度切られたはずの電話もう二度と繋がることはないと思っていた。
【はい、もしもし】
面倒くさそうな彼の声
【拓也、いまから会いたい】
彩はいますぐに会いたいという衝動が抑えられなかった。
【えっ、いま忙しんだけど。あっそうそう、この間のことはお前が悪いんだぜ、美咲といるときにいきなり家にきてさ。あいつもびっくりしてたよ】
拓也の言葉は、彩の心の核を容赦なく“美咲の名”が破壊した。そして自分にとってのすべてをかけた願いが、彼にとっては「忙しい」の一言で片付けられるような、取るに足らない出来事だったのだ。それでも会いたい
【…お金…あるから借金の返済に使って】
ため息まじりの呼吸のあと
【そうなんだ。すぐに用事を済ますから南平塚公園にいて】
しばらくして、拓也がやってきた。コンビニの袋を手にして。
「これ、消費者金融の怖い人に返すお金にして」
(必要としてくれてるなら、それでいい)
「おっ。サンキュー助かるわ。3万?美咲より全然じゃん、でもサンキュー助かるわ」
彩は衝動的に「美咲の名前は言わないで!」
冷静で感情的になることがなかった彩自身であったが、感情的になった自分にびっくりした。
「おっと、ごめんごめん。でもあの夜から美咲とは会ってないぜ」
ギュッと胸が締め付けられる
「美咲とは会わないでよ。私が拓也の力になるから」
拓也は笑顔で
「もう会わないよ、あいつ“会いたい、会いたい”ってしつこかったし、金を貸りている後ろめたもあってさ。俺が愛しているのは彩だけよ」
セリフを述べるように言った拓也はカバンの中からパケと呼ばれる白い粉をみせた。
「今夜は、いい夜になるな」
拓也の家に着くと、すぐにカーテンを閉め、甘い香りのお香を焚いた。
そして、冷たいガラス製の皿の上で、白い粉が微かにきらめいていた。指先で触れると、乾いた砂のような感触。拓也は慣れた手つきで、スプーンの背で粒々を押しつぶす。粉は抵抗なく崩れ、細かな雪の結晶のように散らばる。
「……溶けろ」
滴り落ちる蒸留水が、粉の上に黒い染みを作った。ゆっくり、ゆっくり混ぜていく。スプーンがガラスに当たる音だけが、無機質に響く。最初は濁っていた液体が、攪拌するにつれて透明に近づいていく——まるで毒が水に魂を奪われるように。
この世から隔離するその水を注射器に吸い上げた。
「なあ彩……きれいだな」
拓也は迷いなく注射器を取り出し、彩の太ももに針を刺した。
鈍い痛みとともに、熱が身体を巡る。
「……気持ちいいだろ?」
「うん……」
それは、自分から欲した初めての一回だった。
誰かに強要されたわけではない、自ら望んで堕ちたその瞬間。
(こんな世界も……悪くないって、思ってしまった)
翌朝、目を覚ましたとき、拓也はすでに煙草を吸っていた。
灰皿には吸い殻が山のように積まれている。
「なあ彩、また金がいるわ。頼むわ」
その言葉に、彩は無言でうなずいた。
日が経つごとに、援助交際の回数も、金の受け渡しも当たり前のようになっていた。
知らない男と会い、身体を売り、金を得て、お金を渡し、薬とともに拓也にキレイな身体に戻してもらう。この行為が彩のルーティンになった。
知らない男の部屋、駅前のラブホテル、カラオケボックス、車の中、場所は関係なかった。
ただ金を得て、それを拓也に渡して抱きしめてもらう。
(これは私の日常なんだ…)
そして薬を使い拓也とSEXをする。
(これは私の日常なんだ…これが私の日常なんだ)
サイトでは似たような少女たちが希望を呟いていた。
「食事だけで助かります」「優しくしてくれる人希望」「ホテルありでもOK」
自分は【それ以下】になっている気がした。
夜の街に立ち尽くしながら、彩はまた一人の男に手を引かれていく。
「笑ってよ、可愛い顔してるんだから」男の言葉に、彩は口角を上げて作り笑いをした。
(私の顔なんて、どうでもいいくせに)
身体を預け、帰るころにはまた札が手の中にある。
冷たい紙幣を見つめながら、彼女の心はどこまでも沈んでいく。
帰り道、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら空を見た。
おぼろげな月が雲間に揺れていた——まるで、自分自身の心のようだと思った。掴めそうで掴めない、確かめたいのに遠ざかる。ぼんやりと曇り、どこか欠けているような気がした。
誰もいない深夜のベンチ。(もう、終わらせたい)
彩は携帯を開き、「死にたい」と検索した。
けれど、出てきたのは死ぬ方法よりも「#いのちのSOS」。
ネットでは【助けたい人たち】が蔓延っていた。
それがなぜか、胸を締め付けた。
(ワタシは助けて、なんて思ってないのに)
 気づけば泣いていた。誰もいない夜の街で、初めて本当の涙を流していた。
そのとき自分がまだ【何か】を捨てきれていないことを理解した。
それが、どれほど自分を壊す行為なのかも分からずに……
拓也は優しかった。彩が眠れない夜に電話をかければ、拓也は「来いよ」と言ってくれた。小さなソファに並んで座り、何も言わずに缶コーヒーを差し出してくれる姿に、彩は救われた気がしていた。彼の部屋には、家庭のようなルールも責任もなかった。ただそこにいて、息をするだけで許される気がした。
だが、ここ最近は少しずつ変わっていった。
 拓也の口数は減、目を合わせることも少なくなった。LINEの既読はつくが、返事はこない。ようやく返事があっても「で、金は?返済が大変なんだ」という短い文面に彩はこころが締め付けられた。
「最近、ちゃんと稼いでんだろ?」
「うん……この前も、三人と会った」
そう答えると、拓也はにやりと笑い、「じゃあ、持ってこいよ、やろうぜ」と当然のように言った。彼の口調には、もはや感謝も躊躇もなかった。
(もっと優しかったのに、わたしがもっと稼がないからだ)
 プッシャーでありながら薬物常習犯である拓也は、売り物であるクスリに手を出していることはわかっていた。そして渡しているお金も返済ではなく薬に消えていることも…。
でも「ありがとう」「足りないから、今度はもっとな」と言われ、傷つきながらも彩は笑って頷いた。
彼のためなら、と思っていた。彼が必要としてくれるなら、汚れることも、傷つくことも怖くない。家でも学校でも、誰も自分を必要としてくれなかった。成績だけを見て、弱さには目を背けられた。拓也だけが、自分の【壊れた部分】を否定せずに受け入れてくれる。
(私を支えてくれている。私もこの人を支えなきゃ)
そんな使命感に近い感情が、彩を突き動かしていた。
「彩、お前はさ、俺のことアイシテルんだろ?」
拓也は、いつもそう聞いてきた。
彩は、震える声で「……うん愛してる」と答えた。アイシテル。
 それが、本当に正しい言葉なのか、彩にはわからなかった。なぜか、担任の望月先生が貸してくれたエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を思い出した。読んどけばよかった……今になって後悔が押し寄せる。自分にとっての「愛」が、一体何を指すのか。それが、母親から押し付けられた価値観ではないことだけは、わかっていた。
ただ、(ワタシから離れないで)と言いたくて「愛してる」と答えた。
だが、拓也の言葉には心がなくどこまでも冷たかった。
「俺は覚せい剤を売った金をボスに渡して、そのカスリをもらって生活している。だからわかってんだろ。金がないと、俺もお前も終わりだぞ」
(お金…)
胸の奥に杭を打たれたような痛みが走る。それでも彩は、うなずくしかなかった。
 彼のために身体を売る。それが唯一、拓也の心をつなぎとめる方法だった。どこかでわかっていた。この関係が壊れていることも、自分が消耗品として扱われていることも。それでも彼に嫌われるよりは、マシだった。(私は誰かの【必要】でいたい)
彩はそう願いながら、また夜の街へ向かった。
彩は、パパ活を繰り返す中で、いくつもの【嫌な記憶】が積み重なっていった。 
 金と引き換えに自尊心が少しずつ削られていき、それはもはや自己を肯定するものがなくなっていく感覚だった。
 一人目の相手は、40代の既婚サラリーマンだった。黒のスーツにブランド時計、慣れた手つきでホテルのラウンジに案内される。「こういうの、初めて?」と笑う口元は優しげだが、目が笑っていなかった。食事中は家族の話を避け、酒が進むと饒舌になっていった。「家じゃさ、俺、空気みたいな存在なんだよ」「だから、たまには【癒し】がほしいんだ、それには若いほどいいからさ」そう言って肩を抱かれたとき、背筋に冷たいものが走った。ホテルの部屋では、部屋着に着替えた男が「もっと甘えていいんだよ」とささやきながら、彩の顔を撫でてきた。彼女は感情を切り離すようにして、ただ天井を見つめていた。
(このカラダはワタシのじゃない)15,000円
 
 二人目は大学講師だった。知的な雰囲気を漂わせた彼は、最初から「君みたいな子を守りたい」と言ってきた。静かなカフェでの待ち合わせ、文芸書の話題、文化的な香りを漂わせた会話──彩は少しだけ心がほぐれた気がした。だが、いざホテルに入ると、その口調は一変した。「君、無理してない?」「俺、わかってるつもりだから」と言いながら、勝手に体に触れてきた。「傷ついた子って、魅力的だよね」その言葉に、心の底から気持ち悪さを覚えた。優しさの仮面の下に潜む、欲望と支配の眼差し。終わった後「こんなことして稼がない方がいいよ、自分自身が傷つくからね」と説教じみたことを言った。部屋を出た後、彩は何度も顔を洗った。
(このカラダはワタシのじゃない)20,000円
 三人目は自営業風の男。ホテルに行く前に焼き鳥に行った。ビールをあおる姿が印象的だった。年齢は50前後。言葉遣いは荒く「ガキのくせに生意気だ」と笑いながら、足を開けと命じてきた。「金やるんだから、黙って言うこと聞けよ」ホテルの部屋に入ると、服を脱がせる手つきが乱暴で、抵抗すれば「嫌なら帰れ」と突き放される。終わったあと、男は無造作に札を投げ「また連絡するからさ」と背を向けた。その姿に怒りも悲しみも湧かず、ただ虚しさだけが残った。
(このカラダはワタシのじゃない)20,000円
【今週は55,000万円の収入】
 彼らの名前も顔も、彩の中では曖昧にぼやけている。それは身体を売った男たちのことなんて覚えたくないからだろう。しかし、ふとした瞬間に甦る。ラウンジのグラスの音、カフェの本の匂い、焼き鳥屋の煙の香り。どれもすべて抽象的で、それぞれが、彩にとっては【嫌な記憶】として焼き付いていた。
 そして、帰り道に手の中で汗ばんだ札束だけが、現実を突きつける証のように存在していた。
──それでも彩は、そのお金を握りしめて拓也の元へと向かう。
彼だけが自分を必要としてくれてるから。
(ワタシもカレをヒツヨウだから)
身体は傷ついても、心は壊れても、彩はその日もまた、新たな【出会い】を求めてスマホを開いていた。(拓也のために)
すでに優等生だった自分を思い出せなくなっていた。

第三章「沈黙の底で」
 彩にとって学校は、居場所ではなくなっていった。いや自分自身が拒否して受け入れなくなっていた。
クラスメイトの誰かの笑い声が遠く聞こえる。自分には関係のない世界のように。
アイドルの話題やメイクの話で盛り上がるなか、彩はただノートに視線を落とす。
(なぜ、私はここにいるんだろう?)
康代ーー唯一、心を許せていた友人。
「最近、変わったよね? なんかあったの?」
その言葉に、何も言えなかった。
(拓也のことも、美咲のことも、クスリのことも……言えるわけがない)
ただ笑って「そうかな」と返すのが精一杯だった。
数日後、噂が耳に入った。
「三枝 彩がおじさんとホテルに入っていった」「三枝が夜中におじさんと歩いてた」
康代は「彩、私はそんな噂どうでもいい。ただ私には本当のことをいって」「彩なんか変だよ、お母さんの友達にさ、心理の専門家で、たしか今は青少年の福祉関係の仕事してる。一緒に行かない」と彩の目を見ずにいった。
彩は康代の優しを偽善であると思いたい、思い込みたいといった衝動から
「いや、いい。私のことはほっといて、康代は幼稚園から知っているだけでしょ。しかもわざわざ勉強も出来ないのにワタシの高校に入学してきて!ストーカーなの」
と苛立ちから心にもないことを叫んでしまった。

 康代との距離ができてから、教室での時間はさらに孤独になった。
授業中も誰とも目を合わせず、放課後は寄り道もせず、まっすぐ家へと帰った。
けれど家にいても、母の視線が重く、空気が冷たかった。
「スマホの利用時間、過ぎてるわよ」
「部屋の明かり、もっと早く消しなさい」
細かな指摘は彩の“安心”を奪っていった。
彩は、ただ空を見ていた。ベランダから見える夜空のどこかに、自分の居場所がある気がして。彩の部屋には、どこまでも重たい湿気が漂っていた。
 カーテンを閉め切った部屋の中、蒸れた空気に包まれた布団にうずくまりながら、彩は天井を見つめていた。
 天井には、何の模様もない。ただ白いだけのそこに、思考がゆっくりと沈んでいく。過去と現在が入り混じった曖昧な時間だけが、彩の身体の上を通り過ぎていく。
 ─あれから、何日経ったのだろう。学校には行っていない。あの日の夜、熱を出したと言って学校を休んだ。初めは一日だけのつもりだった。 
 しかし、朝、母に「頭が痛い」と伝えると、母は彩の額に手を当て、「今日は休みなさい」と珍しく言った。その日から、彩は母親に「具合が悪いから」と繰り返すようになった。母も、彩の顔色の悪さに驚いたのか、それ以上は何も言わなかった。
 彩は、学校を休むことを責められることもなく、母の監視からも一時的に解放された。それは、まるで自分の意思とは無関係に、何かが少しずつ崩壊していくようだった。
徐々に母との会話も減り、父は相変わらずリビングで缶ビールを開け、ニュースを見てはため息をつく。彩がどんな状態であっても、父は気づく様子すらない。
 スマホからは、連絡のひとつもなかった。
 (もう、戻る場所なんて、ないんだろうな)
 布団の中で抱きしめていたぬいぐるみの毛が、少し湿っていた。額にうっすら汗をかいていることに気づくのに、時間がかかった。シャツの襟元も汗で濡れていた。けれど、暑さを感じない。泣いてもいないのに、目が熱を帯びている。身体が重い。思考も、指先も、すべてが鈍く、輪郭が溶けていくような感覚。
そのとき、視界の端に、床に落ちた一枚のチラシが目に映った。数日前、ポストに入っていたチラシ。【西広島女性サポートステーション】「女性が抱えるさまざまな問題に寄り添います」淡いオレンジ色の紙面に、小さなフォントで書かれた電話番号。
 彩は、しばらくその紙を見つめていた。何も考えないまま、ただじっと。──でも、電話なんて、できるわけがない。自分の声が、今、どんな音をしているのかも分からなかった。
口を開いたら、喉がひび割れて音が漏れるだけのような気がした。身体を起こすこともできないまま、彩は再び目を閉じた。夕方、ドアをノックする音がした。
 「彩? ちょっと、起きてるの?」母の声だった。
 「……ごはん、できてるわよ」
 それだけ言って、足音は遠ざかっていく。
 もう何度も繰り返されたやりとり。返事がなくても、母は決して部屋に入ってこない。
 むしろ、その距離感のほうが、彩にとってはありがたかった。
 しかし、空腹感も味覚も、もはや遠い世界のことだった。
 食べ物の匂いだけが、ドアの下からぼんやりと漂ってくる。
 彩は身体を横に向け、背を壁に預けながらスマホを手に取った。
 LINE、通知なし。
 Instagram、誰も自分の投稿に反応していない。
 写真フォルダを開くと、ふいに目に入ったのは、美咲との2ショットだった。
 制服姿、同じポーズ。笑顔。親指と人差し指でハートを作った中に、仲良く顔を寄せていた。(誰? これ)
 心の中で、そうつぶやく自分がいた。
 その笑顔が、自分自身のものだったという実感がない。──あのときの私は、本当に生きていたんだろうか?彩はスマホを閉じ、ふと、部屋の壁の時計を見た。午後五時を回っていた。(また、何もせずに一日が終わる)
 だけど、その「何もしていない」ことが、自分を守っているようにも思えた。
 何かをしようとするたび、傷が増える気がした。
夜、久しぶりに外に出てコンビニに行った。
 外の風は、生ぬるく湿っていたが、それでも室内よりはずっと息がしやすかった。
 レジでおにぎりを買った帰り道、彩は市電に乗りアリスガーデンに向かった。
 アリスガーデン──拓也と最初に出会った場所。ベンチに腰を下ろすと、何かが少しだけほどけた気がした。通り過ぎる人々の会話、音楽、風。すべてが、遠い世界の音に聞こえる。でも、そこにいる自分だけが、透明ではないと思えた。
そのとき、背後から声がした。
「こんばんは。……大丈夫?」驚いて振り向くと、ベージュのカーディガンにスニーカー姿の女性が立っていた年齢は三十代くらいだろうか。地味な服装だが、どこか柔らかい印象を持っていた。
「急にごめんね。ひとりでいる子を見ると、ちょっと気になっちゃって……」
 彩は、返事をしなかった。けれど、女性はそれを気にする様子もなく、ふっと微笑んで言った。「これ、渡すだけだから。いらなかったら捨てちゃって」そう言って、チラシを差し出した。
 “西広島女性サポートステーション”
(あれ、家のポストにチラシが入っていたところだ)
彩は無言のまま、チラシを受け取った。

【西広島女性サポートステーションは、広島市西部を拠点に活動するNPO法人で、地域の女性が抱えるさまざまな問題に寄り添い、解決へのサポートを行う相談窓口】
裏面には
DV(家庭内暴力)、経済的困窮、シングルマザーの生活支援、職場でのハラスメント、精神的な不調など、多岐にわたる悩みに対応しています。
主な活動内容
• 相談支援:女性スタッフによる無料相談(対面・電話・オンライン)
• シェルター手配:緊急時の一時避難先や保護施設の紹介
• カウンセリング:臨床心理士やカウンセラーによる個別セッション
• 就労支援:職業訓練や求人紹介、履歴書の添削
• 交流会・講座:安心して集える場の提供(交流カフェ、自己肯定感を高めるワークショップなど)
特徴
• すべての支援は女性スタッフが中心で対応
• 利用者のプライバシーを厳守
• 行政機関や医療機関、弁護士とも連携し、必要に応じて法的支援も可能
そこには電話番号と地図が記載されていた。
 女性はそれだけで満足したように、軽く会釈して去っていった。
風がまた吹き抜ける。
 彩はチラシを見つめながら、胸の奥が少しだけざわめくのを感じていた。手渡されたチラシ。彩はそれを捨てることもできず、机の引き出しの奥にしまい込んでいた。ときおり、取り出しては眺め、またそっと戻す──それだけを何度も繰り返した。
 (別に、行きたいわけじゃない)
 (でも、あの人の目……あんなふうに見られたの、初めてだった)
 否定も同情もなかった。あるのは見守るような優しいまなざし。
 そして「あなたがここにいることを知っている」と告げるような、そんな目だった。
 翌日、彩は再び布団の中にいた。
 スマホの画面には、連絡先の入力画面が開かれていた。カードに記された電話番号を、何度も入力しては削除し、また打ち直す。
 (もし繋がったら、どうするの? 何を話せばいいの?)
 (そもそも、私なんかが行っていい場所じゃない)
 そんな声が、頭の中で渦巻く。
 それでも、画面の数字がすべて揃ったとき、指が自然に「通話」ボタンに触れていた。
 ──しかし、数秒のコール音のあと、彩は慌てて通話を切った。
 「バカみたい……」
 声が、かすれていた。自分でも驚くほど、喉が乾いていた。息をつくようにベッドの縁に腰かけ、深く前屈みになった。
 (私なんて、誰かの助けを受ける価値なんてない)
 (傷ついたのは、自分のせい……)
 そう思うたび、心がどこか遠くに沈んでいくのを感じた。
その日も、夕飯の時間になっても部屋を出る気力はなかった。
 母の声が遠くから響く。
 「彩?また何も食べてないの?ちゃんと栄養摂らないと、頭が働かないわよ」
 「いつまでそんなふうにしてるつもり?明日からは試験でしょ」
 (試験?もう……そんなこと、関係ない)母の声は、まるで録音された台詞のように響いた。その夜、彩はとうとう夢を見た。
 拓也が笑っていた。腕の中に、美咲を抱えながら。その目が、真っ黒で、深い闇の中に沈んでいく。
 美咲は「ごめんね」と言いながらも、どこか楽しそうに笑っていた。
 彩の声は届かない。手を伸ばしても、誰にも触れられなかった。
 目が覚めたとき、喉がひりついていた。
 汗をかいたシャツが肌に張り付いていて、無性に気持ちが悪かった。
 ふと、机の引き出しを開けた。
 チラシを取り出し、じっと見つめる。
 「……行くだけ。別に、何かを話すわけじゃない」
 自分に言い聞かせるように、彩は立ち上がった。
数日後の午後、陽射しは強く、空には一片の雲もなかった。
 彩はマスクをして、帽子を目深にかぶりながら、手のひらに握りしめたチラシの地図を頼りに街を歩いた。
 地図の場所は、商店街の裏手。ビルの二階にひっそりとある一室だった。錆びた階段を上がると、「西広島女性サポートステーション」と小さく書かれたプレートが扉の横に貼られていた。
 インターホンに指をかけて、数秒迷った末、ようやく押した。
 「はーい、どうぞ」
 ドアが開き、中から出てきたのは、あの日の女性だった。
 「……あ、来てくれたんだね。ありがとう」
 その声は、まるで何年も前から知っている人のように、彩の心にじんわりと染み込んでいった。
サポートステーションの中は、思っていたよりずっと狭かった。
 でも、雑多な本棚と古びたソファ、壁に貼られた手描きのポスターや絵、テーブルに置かれたポットとマグカップが、どこか家庭的な空気を作っていた。
 「とりあえず、何もしなくていいから。ここで、ちょっと座ってみようか」女性はそう言って、紅茶を差し出してくれた。
 彩は小さくうなずき、ソファに座った。何を話せばいいのか分からなかった。でも、それを強要されない空間が、逆に落ち着いた。
 女性は名乗った。
 「私、長谷川 朋美っていいます。ここで、女の子たちの相談に乗ったり、ちょっとした話し相手になったりしてるの」
 そして、微笑みながら付け加えた。
「今日は、来てくれただけで、本当に嬉しいよ。……無理に話す必要はないからね」
 その言葉に、彩はふと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。言葉にしようとすると、なぜか涙があふれそうになる。けれど、泣いてはいけない。
 そう思って、彩はうつむいたまま、カップに口をつけた。サポートステーションの部屋に、時計の針の音が静かに響いていた。
 長谷川 朋美は、彩の向かい側のソファに腰を下ろすと、彩の視線の高さより少しだけ低く目線を落とし、まるで気配を消すように、そっと静かに座っていた。
 話しかけるでもなく、見つめるでもなく、ただ「そこにいる」ことを選んでいるように感じられた。彩は、紅茶のカップを両手で包みながら、まだ一言も発していなかった。
 けれど、なぜかその空白は心地よかった。無理に言葉を発しなくていい。気を張らなくてもいい。
 この場所には、そうした空気が満ちていた。
 「ねえ」
 朋美の声は、まるで毛布のようだった。
 「私も昔ね、誰にも頼れないなって思ってたことがあるの」
 彩は驚いて顔を上げた。
 けれど、朋美の顔には笑みが浮かんでいた。作り物ではない、どこか遠い記憶を抱きしめるような、静かな表情。
 「そのとき、どうしたと思う?」彩は、無言のまま首をわずかに傾けた。
 朋美は紅茶に砂糖をひと匙入れながら、答えた。
 「ひとまず、寝た。何も考えずに、とにかく寝たの。無理に食べるのもやめて、泣くのもやめて、責めるのもやめて、ただ寝た」言葉に、彩の口の端がかすかにゆるんだ。
 「起きたら少し楽になってた?」無意識に、ぽつりと出た言葉。
 彩自身、驚いたように目を丸くした。声が出た。言葉が繋がった。
 朋美は嬉しそうに微笑んでうなずいた。
 「まあね、気持ちが軽くなるなんて都合よくはいかないけど……一つだけ確かなのは、あの時間をちゃんと“通り過ぎた”ってこと。眠っている間も、時間は流れてたの」
 その言葉に、彩の心のどこか深い部分が、かすかに反応した。自分が止まっているように思えても、世界は勝手に進み続けている。
 ならば、自分も少しずつでも流れていけるかもしれない──そんな小さな希望のようなものが、胸の中でかすかに灯った。
その日、彩は特に何かを語ることはなかった。
 朋美もそれ以上は問いかけず、紅茶をおかわりするかどうかだけを静かに尋ねた。
 「また来てもいい?」
 帰り際、扉の前で彩がぽつりとつぶやいたとき、朋美は何の躊躇もなく答えた。
 「もちろん。あなたの席は、ちゃんと取ってあるから」
次にサポートステーションを訪れたのは、3日後の夕方だった。
 陽が少しずつ傾きかけ、空の色が紅がかった光を帯びていた。
 その日も、彩はほとんど話さなかった。けれど、前回とは違い、少しだけ部屋の中を見渡す余裕があった。壁に貼られた利用者たちの絵や詩、応援メッセージのメモたち。
 それぞれが、誰かの「叫ばない声」のようだった。
テーブルの上には、空のノートとボールペンが置かれていた。
「よかったら、使ってみて」朋美がさりげなく言った。
 彩は、最初は手を出さなかった。でも、紅茶を飲み終えたあと、ふと指先がノートに触れた。
 1ページ目。彩は、そっとペンを握った。何を書けばいいか分からない。けれど、何かを書きたいという気持ちが、かすかに芽生えていた。迷った末に、彩はこう書いた。
 ──「話せない日があっても、ここにいていいですか?」
 書いたあと、すぐにノートを閉じた。朋美は読もうとはせず、ただそっとノートの表紙を撫でただけだった。
「もちろんよ。話さなくたって、ここにいることがあなたの力だから」
 その言葉に、彩の肩からすこしだけ力が抜けた気がした。ひとりだと思っていた。でも、違った──。
夜、自宅に戻った彩は、久しぶりにカーテンを開けた。外には変わらない夜の明かりが広がっていた。
 変わらないはずの風景が、少しだけやさしく見えた。スマホを手に取り、ギャラリーを開く。
 康代のおちゃらけた写真。
美咲と笑顔のツーショット。
 拓也の寝顔。黒く塗りつぶしたくなるような時間。
 でも、今はその一枚一枚に、「痛み」と同時に、壊れそうなこころに「過去」というフィルターがかかり始めていることに気づく。
(私は……いま、【ここにいる】)誰のためでもなく、心の中でそうつぶやいた。
 サポートステーションを訪れるようになってから、一週間が経っていた。彩はまだ、多くを語れるわけではなかった。
 けれど、朋美の隣に静かに座り、紅茶を飲み、ノートに数行の言葉を残すことが、日々の中に小さな“居場所”として根付き始めていた。
 
 ある日の帰り際、朋美が一枚のチラシを差し出した。
「もし、もう少しだけ心の奥を整理したくなったら、ここ……行ってみてもいいかも」
 そこには「心の相談室 たけお」という、手書きの温もりのあるロゴと、淡いクリーム色の地図が印刷されていた。
「何それ……人の名前?」
 彩がつぶやくと、朋美は笑った。
 「そう、先生の名前。中原 武夫さんっていうの。心理学者で主に若い人の人格形成やトラウマなどを研究している方。まだ若いけど、すごく優しくてとても優秀な方よ」

 数日後、彩は相談室のドアの前に立っていた。ビルの一階、古びた喫茶店の隣に、手書きのプレートがかかっていた。
 「心の相談室 たけお」と、柔らかい筆跡で書かれている。ドアを開けると、すぐに小さな待合スペース。窓際に観葉植物が置かれ、木製の棚には心理学の本が並んでいた。壁には季節の風景写真が飾られていて、病院のような冷たさはなかった。
「こんにちは。三枝 彩さんですね?」
奥の部屋から現れたのは、少し癖のある髪を無造作に撫でつけた男性だった。
(30代後半だろうか、なんか優しい雰囲気で引き込まれる雰囲気の人だな-)
 白衣ではなく、グレーのニットにスラックスという私服。目元には疲れがにじんでいたが、それを覆うような、穏やかな微笑みがあった。
 「中原 武夫といいます。大学で非常勤講師と研究者をやりながら。ここでカウンセリングなどをやっています。専門は社会心理学です。といっても、まあ、この場所は“話を聞くひと”って思ってくれたらいいかな」とゆっくりと話してきた。
「彩さんは星嶺学園に通ってらっしゃると聞きました。優秀ですね」と笑顔のまま「私なんて勉強が苦手で受験には苦労しました。その時を思い出すだけでめまいがしてきます」と今度は早口で話した。
 彩は、思わずその言い方と話すスピードの違いに口元を緩めた。
小さな部屋に通されると、テーブルの上にはハーブティーが用意されていた。
 「無理して話さなくて大丈夫。ここに来てくれた、それがすごく大きなことなんだよ」
その言葉に、彩の胸の奥がわずかに揺れた。
 武夫は、彩のノートを指差した。
「朋美さんから、君が書いたこれを預かったんだ。“話せない日があっても、ここにいていいですか?”って」
 彩はうつむいた。恥ずかしさと、なぜか安心が混じった感情が、胸にじんわりと広がった。
 「うん、僕はね、それってすごく大事なことだと思う」
 武夫は優しい声で続けた。
 「“話さなきゃいけない”って思うと、言葉って苦しくなるよね」
 でも、“話してもいい”って思える場所があるだけで、人の中の何かが少しずつ動き出すことがある」彩は、膝の上に置いた手を強く握った。
 しばらく沈黙が流れた。その静けさが、責めるようなものではなく、ただ「一緒にそこにいてくれる」沈黙だと分かったとき──
 彩の唇が、かすかに震えた。
 「……わたし……」声が、途切れた。喉が締めつけられるように痛んだ。
武夫は待っていた。
 彩は、呼吸を整えながら、やっとの思いで続けた。
「……全部、自分が悪いんだと思ってた。……今も、思ってる……でも……わからなくなって……」目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
 あれほど泣けなかった日々が嘘のように、涙は止まらなかった。
武夫は、言葉を挟まなかった。
 ただ、静かにティッシュを差し出し、彼女が涙を流し終えるのを待っていた。
その日、彩は長い沈黙のあと、ぽつぽつと断片的に話した。拓也のこと、美咲のこと、家庭のこと、そして【自分が壊れていく感覚】
「でも、もう戻れない……そんな気がして……」
 そう呟いたとき、武夫は少し首を傾けて言った。
「“戻る”って、どこに?」
彩は少し考えて
「……前の、自分に……」
「うん。でもね、彩さん。僕は“戻らなくていい”って思ってるよ」
「え……?」
思ってもいなかった返答に少し戸惑った。
 「だって、“前の自分”は、きっと我慢してたでしょ?頑張って、誰にも迷惑かけなくて、“いい子”でいようとしたんじゃない?」
 彩は、息を呑んだ。
「壊れたように思えても、それは“違う自分”を見つけようとしてるってことかもしれない。
 “前”に戻るんじゃなくて、“これから”を作っていけばいいんだよ」
その言葉は、彩の胸の奥深くまで静かに染み込んだ。
相談室を出たあと、街の夕暮れが目に染みた。
帰り道、彩は少しだけ背筋を伸ばして歩いていた。
“話してもいい場所”と、“話を聞いてくれる誰か”が、この世界にいる。
その事実が、彩の足元をすこしだけ支えていた。まだ、何も解決したわけじゃない。でも、「歩いてもいい」と、初めて自分に許せた気がした。空の色が、藍色へと変わっていく。
 その中で、彩は歩き続けた。

第四章「揺らぎの狭間」
武夫のカウンセリングを受けるようになって、彩の心には少しずつ静けさが戻り始めていた。
何を話しても否定されない場所がある。
 それは、彩にとって初めての体験だった。
「人に頼るって、弱さじゃないよ。ちゃんと頼れるのって、“自分を大事にしてる”ってことだから」そう言った武夫の声は、どこまでも静かで、温かかった。相談室に通う日は、ほんの少しだけ化粧をしてみるようになった。

 朝、すっきりと布団から出られる日が増えた。
コンビニの冷たいおにぎりでも、「食べなきゃ」と思える日もあった。
「そう完璧じゃなくていい」
 彩は、少しづつその感覚を、自分の中に取り戻していた。

 ある日、サポートステーションでいつものように紅茶を飲んでいると、長谷川 朋美がふと話し始めた。
「……実はね、アリスガーデンで彩ちゃんに声をかけたのは、康代ちゃんから連絡があったからなの」
「え……?」
康代が朋美さんに?
「康代ちゃんのお家、父さんとお母さんはよく喧嘩してたの。原因は……まあ、いろいろあったんだけど、とにかく家の中がうまくいってなかったのね」
紅茶一口飲んだのち「そんなとき、もともと知り合いだったお母さんが私に相談してきてね。そのとき一緒に康代ちゃんが来たの」
明美は少し言葉を選びつつ
「康代ちゃんは私に、“今すぐどうこうじゃなくていいから、ただ、見守っててほしい”って。すごく心配してたよ」
 康代という名前を耳にしただけで、彼女に発した心にもない言葉を思いだして鼓動が一気に早くなる。
 「彩ちゃんのこと、ずっと気にしてたよ。“無理に連絡はしない。でも見守ってあげてほしい”って。彼女、すごく自分を責めてた」
 彩の手が、紅茶のカップの取っ手を強く握りしめた。
 「……なんで、教えてくれなかったの」
 問いというより、呟きに近かった。朋美はそっと目を伏せる。
 「伝えるタイミング、迷ってたの。いきなり言ったら、彩ちゃんが壊れちゃうかもって……でも、今なら、ちゃんと受け止められるかなって思ったの」
喉の奥がつかえて、黙ってうなずいた。
──康代が、自分を……。
親友から逃げている私を、康代は、わたしのことを放っておかなかった。直接ではなく、陰から支えてくれていた。
 涙は出なかった。ただ、胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていくのを感じた。
 翌日康代の暖かさを感じながら「心の相談室 たけお」を訪れた。
武夫のカウンセリングでは、最近、彩から少しずつ言葉が出るようになっていた。
 「……最近、サポートステーションに行くのが、ちょっとだけ楽しみです」
 「朋美さんが淹れてくれる紅茶、なんか落ち着くんです」
 「……康代が、見ててくれてたって聞いて、うれしかった……けど、怖いです」
 その言葉に、武夫はゆっくりうなずいた。
 「大切な人の存在って、同時に希望でもあり、痛みでもあるからね。それを“感じてもいい”って思えるのが、今の彩さんの強さだと思う」
 彩は思わず、苦笑した。
 「……強くなんて、ないです」
武夫は笑顔で
「うん。でも、“強くなきゃいけない”って自分を追い込まなくてもいいんだよ」
部屋に静かな時間が流れた。
 武夫は、いつものように柔らかな目を細めながら静かに頷いていた。「……どうして、こういう仕事をされてるんですか?」
ふとした間に、彩がそう口にしていた。思わずというより、武夫と過ごすうちに興味がわいた、という感じだった。声は小さかったが、その瞳はまっすぐで、好奇心に満ちていた。
 武夫は、ゆっくりと目を細め、少しだけ視線を落とした。静かな部屋の中で、その動きさえ、過去の記憶を手繰り寄せるように見えた。
「昔ね、僕は、電力会社で働いていたんだ。誰もが名前を知ってるような、一流企業。まあ……“安定”とか“勝ち組”とか、そんなふうに言われる会社だった」
穏やかな語り口だったが、その奥に滲むかすかな苦味を、彩は感じ取っていた。
「給料も良かったし、親も安心してた。友達からも羨ましがられた。でも……毎日、心が乾いていくのが分かった。何かが違うって、ずっと、どこかで思ってた」
その言葉に、彩は無意識にうなずいた。そして胸の奥が、ひりついた感覚を受けた。
 武夫は、目を伏せたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「駅前のタワーマンションの工事中に、現場の下請け作業員が、感電して亡くなった。単純な安全管理のミスだった」
武夫の声には、かすかな震えが混じっていた。
「本当なら、会社として責任を取らなきゃいけなかった。でも、上層部は官民学連携の事業のため“作業員の自己判断による事故”って報告にすり替えた。報道にも、小さな記事が一つ出ただけで、すぐにかき消されたよ」
武夫の表情に、当時の無力さが滲む。
「僕は、資料を改ざんする会議に立ち会ったため、もちろん真実を知っていた。そこで『この処理はお前の部署で処理するように』と、上司から言われてね。心の奥では『間違っている、こんなことが許される筈はない』って叫んでたのに……そのとき、声を上げられなかった」
悲しさと悔しさが入り混じった声で
「そして…同じ大学出身で、かわいがっていた部下に改ざんするように指示したんだ…」
短い沈黙。壁掛け時計の針の音が、部屋に重たく響いた。
彼は上司の命令ならといって快く受け入れた‥‥
「……それからだ。毎日、笑ってるふりをしても、心はどんどん乾いていった。何も感じないはずなのに、夜になると、あの亡くなった作業員の家族の顔ばかり思い浮かんだ。奥さんと、まだ小学生くらいの娘さんが泣いている姿を思い出すんだ」
武夫の瞳がかすかに揺れた。
「その部下に、“この会社の人たちは、誰もが自分自身を偽っている、だからみんな心から笑ってないですね”って言われたとき、仮面を剥がされたように感じたのは、僕自身がもう、嘘の中で生きていたからなんだ」
彩の胸がずきりと痛んだ。

武夫は、静かに息を吸った。
ゆっくりと、そして苦しそうに。
「何を守って笑っていたんだろうな。安心?世間体?プライド……それとも、もう自分自身をさらけ出すことを諦めてたのかもしれない」 少しの沈黙が落ちた。部屋の中には、時計の秒針の音だけが規則的に響いていた。

「――その数日後、部下は、自ら命を絶ったんだ」

その言葉に、彩の胸がきゅっと締めつけられた。
「誰も気づけなかった。本当に、誰も。あとから彼のご家族に会って……そこで初めて聞いた。“武夫先輩なら、この気持ちを分かってくれると思ってた”って、彼はそう言ってたらしい」
 武夫はゆっくりと目を伏せた。その表情には、悔しさと哀しみが深く染み込んでいた。
「遺書には、こう書かれていた。“誰も、本当の自分を見てくれなかった。親も、会社も、社会も……みんなが僕に期待する姿しか、見ようとしなかった”って」
武夫はしばらく視線を落としたまま、静かに息を整えた。

「……でもね、最後の行に、こうも書いてあったんだ。“それでも、武夫先輩と話せた時間だけは、本当の自分でいられた”って」その瞬間、彼の声がかすかに震えた。
「会社の指示に逆らえなかった上に、かわいがっていた部下に改ざんするように命令をした…。そして彼を救えなかったことは、一生背負うとーー」
しばらく、ふたりは言葉を交わさなかった。けれど、空気は、確実に揺れていた。

「彼はね、親の望むように生きてきた。いい高校、いい大学、いい会社に入った。そして会社の中でも期待されてたんだ。でも……彼は自分の人生の意味が、最後まで見つからなかったんだと思う。彼は“誰かの夢”の中で、生き続けて、燃え尽きた……」 武夫は少し目を閉じ、遠い日々を思い出すように言葉を続けた。
 その言葉が、彩の胸に重くのしかかる。 (…………)
「それで……自分を見つめ直したくなった。もともと大学で心理学を学んでいたから、思い切って社会人大学院生として、心理学の研究科に入り直したんだ。
その行動は今思えば衝動的だった。でもじっとしていられなかった……いや彼に突き動かされたんだ」
 彩は、その横顔をじっと見つめていた。言葉にできないものが、胸の奥でじんわりと広がっていく。
「社会心理学の博士号を取って、気づいたら会社も辞めてた。大学の講師なんて電力会社のころの年収の、そうだな……五分の一くらいしかない。でも、後悔はしていないよ」
 少しはにかんだ表情になり「正直、あの頃は、自分の生き方にも迷っていた。会社を辞めるとき、親にはずいぶん心配もかけたし、友人にも“もったいない”って散々言われた。それでも……黙って背中を押してくれた家族や、理解してくれた数少ない仲間、そして亡くなった後輩にはいまも感謝してる」
 そして、淡い微笑みが浮かぶ。
 「悩んだ日々は、決して消えない。でも、その時間があったから、今こうして彩さんと向き合えている。……それもまた、感謝しているよ」
武夫の声は決して大きくはなかった。けれど、その静かな言葉のなかに、どれほどの覚悟と後悔と、それでも進もうとする意志があったかを、彩は確かに感じ取っていた。
武夫の心には、あの後輩の死が深く刻み込まれていた。
 彼は、自分もまた「仮面をつけた人間」の一人であり、後輩の苦しみに気づけなかった自分を責め続けていた。
 後輩の「武夫先輩なら、この気持ちを分かってくれると思ってた」という言葉は、武夫にとって赦しではなく、むしろ深い後悔の烙印だった。
それは、“本当は、誰かの心を理解できる人間“だったのに、見て見ぬふりをしてしまった、という、自己への問いかけでもあった。だからこそ、武夫は心理学を学び直し、会社を辞めて心理学者という道を選んだ。
 それは、失われた後輩の命を悼み、二度と同じ過ちを繰り返さないという、彼自身の魂の叫びだった。

 彩は、武夫の言葉を聞きながら、彼の心の中に広がる深い海の底を覗き込んだような気がした。
 自分もまた、「誰かの夢」を生き、その中で窒息しそうになっていた。武夫の話は、まるで、遠い過去に自分と同じ苦しみを抱えていた誰かの物語を聞いているようだった。 (まるで、私みたいだ……) 彩の胸に、言葉にならない共感が広がった。
武夫は、後輩の言葉から自分自身の「嘘」に気づき、その死をきっかけに新しい人生を歩み始めた。それは、彩にとって、希望の光のように見えた。(もし、あの後輩が、私を助けてくれたように、今の武夫先生に出会えていたなら……)
 彩は、武夫の横顔を、ただ静かに見つめていた 彼の静かな瞳の奥に、深い悲しみと、それ以上に強い意志の光を見た気がした。 武夫もまた、自分と同じように「本当の自分」を探し求めている。その決意に触れ、彩の心は、少しだけ、温かくなった。それは、孤独感ではなく自立心の芽生えでもあった。
 武夫は穏やかな口調で「彩さん、人の心に耳を傾けるって、簡単そうで、本当はすごく勇気がいるんだよ。誰かの痛みをただ聞くっていうのは、自分の中にある痛みとも向き合うことだからね」
話し終えた武夫の横顔には、深い後悔と、それ以上に強い“祈るような決意”が浮かんでいた。
 彩は、胸の奥で何かがゆっくりと動き出すのを感じた。彼の過去が、彼の言葉が、自分に向けて差し出された、静かな“手”のように思えた。
 武夫の声は、決して大きくはなかった。けれどその静かな言葉の中に、どれほどの覚悟と苦悩があったかを、彩は想像できた。自分の父親とは違う覚悟のある“本当の大人”を初めて目の前にした気がした。その感覚は、草原を駆け抜ける柔らかい風が肌にあたるようだった。

その夜、彩は久しぶりに布団の中で、眠気を感じていた。
ふとスマートフォンの通知音が鳴った。
 ──「LINE」
眠気を引き裂くような音。手探りでスマホを開くと、そこには一通のメッセージが届いていた。
 【ちょっと会えない?】
 ──送信者:拓也
画面を見た瞬間、全身の血が一気に逆流するような感覚に襲われた。指先が震え、呼吸が浅くなる。
(……なんで、今……)
 拓也のことは忘れようとしていた…
 しかし彼の声、手の温もり、言葉の端々、あの夜の裏切り──すべてが、彩の中にまだ棘のように残っていた。
 数分、スマホを見つめたまま時間が過ぎていった。返信してはいけない。わかってる。でも──。
 彩の指が、ゆっくりと動いた。
 【うん、…少しだけなら】
 ──送信。
 送ってしまったあと、全身が氷のように冷たくなった。けれど、止められなかった。覚せい剤を使って抱かれたあの感覚……
 ベッドの上に横たわりながら、彩は天井を見つめていた。眠れなかった。スマートフォンの画面は、何度もスクロールとロック解除を繰り返し、同じメッセージを映し出していた。
 ──【ちょっと会えない?】
 送信者:拓也。
拓也からのLINEをみるたびに腹の底からじわりと湧き上がる複雑な感情。
 (どうして、今なの)
拓也を思い出さない日はなかった。親友の美咲も許せない。あの夜のこと。壊れた心。裏切り。欲しかった言葉。「もう戻れない」そう言い聞かせてきた。でも、拓也の名前は、それだけで彩の中に波紋を広げてしまう。
 彼と過ごした時間は、笑顔の裏に微かな痛みを抱えた日々だった。──楽しさと悲しさが、同じ呼吸の中に同居している。それは相反する感情が同時に存在したアンビバレンスな情動であり、それは決して安らぎではなかったが、だからこそ中毒性を帯びていた。なにより自分が“誰かの必要とされていた”と感じた、唯一の時間でもあった。
 (私、寂しい)
 武夫のカウンセリング、朋美の支援、康代の存在。
すべてが、彩を救ってくれていた。けれど、それでもなお、心の奥底に、空洞のような穴があった。それは、拓也という“麻薬のような存在”が残した爪痕かもしれない。
 スマホをもう一度開く。自分の送った【少しだけなら】という返信が表示されていた。
 (私……何してるんだろう)消したい。消えたい。戻りたい。壊れたい。すべての感情が渦を巻き、彩は目を閉じた。
 
 拓也からの返信は、数日経ってから届いた。 【ごめんごめん。ちょっとバタバタしてたわ。明日、京橋川沿いのベンチで待ってる】そこは、拓也と初めて手を繋いだ場所。短く、そっけない、ただそれだけのメッセージ。でも彩の胸はわずかに高鳴った。それは、再会への期待ではなかった。ただ、この壊れた自分を、まだどこかで必要としてくれる人がいるという、微かな安堵感。彩は、その安堵に身を委ねていた。

 翌日約束の場所についた。そこは「愛」の記憶が、もっとも鮮やかに残る場所だった。夜の風は冷たく、吐く息がうっすら白い。冬が近づいていることを、肌が教えてくる。彩はフードを深く被り、ベンチに腰を下ろした。
 心臓がうるさいほど鳴っていた。
 ──本当に来るのか。
 ──あの人の顔を、見て平気でいられるのか。
 問いは浮かぶたび、喉の奥に張り付いて消えなかった。
 ふと、遠くから足音が聞こえた。
 タバコの煙の匂い。スニーカーの砂利を踏む音。
 彩は顔を上げた。
 そこにいたのは──間違いなく、拓也だった。
「……久しぶりだな、彩。元気か?」変わらぬ低い声。どこか乾いたその響きが、彩の鼓膜を刺激する。
 黒のジャケットに、古びたジーンズ。前と同じようなラフな格好。ただ、どこか痩せたように見えた。頬がこけ、目の下には薄い隈。でもその目だけは、相変わらず彩をまっすぐに射抜いてくる。
「……変わってないな。相変わらず綺麗だよ、彩は」
 その言葉に、心が一瞬だけ揺れた。
 嘘と分かっているのに。安っぽい言葉なのに──嬉しいと感じてしまった自分がいた。
「……何の用?」
彩は、精いっぱいの強がりをみせた。
「何の用って。会いたかったからだよ。それじゃダメか?お前、全然連絡くれないからさ」
 そう言って、拓也は震える指で紙の上に乾いた草を均等に広げ、指先でくるりと捻りながら形を整え、上着のポケットからライターを手にした。
そして──ジョイントに火をつけ、深呼吸をするように吸い大麻独特の匂いのする煙を吐いた。
「俺、お前が心配だったんだよ。ほんとに」その言葉に、彩は思わず笑みを浮かべた。笑顔なんて見せたくないのに、それが奥底にある無意識な感情からだろう。
「今さら、そんなこと言われても……。あなたが、あの時……」言葉の先が続かない。喉が詰まる。
 拓也は黙ったまま、煙をゆっくり吐き出した。
「美咲とのことは……悪かったよ」ぽつりと、拓也が言った。
でも、その声には重さがなかった。
「でもさ、お前も分かってただろ?美咲が人のものを欲しがる女って」
その言葉に、彩は顔をしかめた。
「そうやって、全部美咲のせいにするの?」
拓也は怪訝な表情で
「いや、違う。違うんだけどさ……俺は俺で、必死だったんだよ。彩がいなくなってから、正直、少しヤバかった」
拓也はそんなことはどうでもいいといった感じで
「……なぁ、これさ……」カバンから小さな透明な袋を取り出した。
中には、白い粉が入っている。見た瞬間、彩の胸が冷たく締めつけられた。
忘れたくても忘れられない、“あれ”だった。
拓也はうっすらと笑った。
 その笑みは、悲しそうにも、寂しそうにも、そして、何かを誘っているようにも見えた。そして拓也は袋を指先で揺らし、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「これがあれば、楽になれるんだよ。嫌なことも、全部忘れられる。お前も、辛いんだろ?もう、頑張らなくてもいいんだぜ」  
 拓也の声は、まるで甘い毒のように、彩の心に染み込もうとしていた。彩は、何も言えなかった。ただ、その白い粉を、そして、その隣で笑う拓也の顔を、ぼんやりと見つめていた。
「……まだ、それ……やってるの?」
「やめられるわけねえだろ。……お前だって分かってんじゃん、どれだけ気持ちいいか」
「それに俺はプレッシャーで生計を立てているんだぜ。そもそも売ってもやるなって無理でしょ」
(この感覚、逃れられない)
 「な? 今夜だけでもさ……楽になろうぜ。俺たち、そういう時間の方がよっぽど正直だったろ?」彼の言葉が、鋭い刃となって彩の胸を抉った。
──気を抜けば、引きずり込まれる。
 彩の足元に、見えない奈落が口を開けていた。目の前にある小さな袋。手を伸ばせば、すべての痛みが消える。過去も、怒りも、孤独も、眠れぬ夜も。拓也は、その誘惑を知っている。知っていて、わざと差し出してきている。
 「……なぁ、彩。俺、ほんとに寂しかったんだよ。誰もいなくてさ……誰も信じられなくて。でもお前だけは違った。お前だけは……俺のこと、ちゃんと見てくれてた」
 その言葉に、かつての記憶が蘇った。初めて名前を呼ばれたとき。手を握られたとき。泣いている自分を抱きしめてくれたとき。
 それが嘘か本当か分からなくても、確かに“必要とされている”と感じた瞬間だった。だからこそ、彩は自分を見失い迷子のように暗闇の中にいた。
ふと、バッグの中でスマホが振動した。思わず拓也の前でバッグを開き、画面をのぞき込む。
 ──送信者:康代
 【今、大丈夫?急に何してるか気になっちゃって。無理なら既読スルーして】
何気ない一通のメッセージ。でも、その名前を見た瞬間、胸の奥から何かがせり上がってきた。
(康代……)見捨てられたと思っていた親友。だけど、彼女はわたしを見捨ててはいなかった。
 「西広島女性サポートステーション」のスタッフをしている長谷川 朋美に連絡を取り、の私の存在を教えてくれたのも康代だった。そして──今、この瞬間も、遠くから見守ってくれていた。
「どうした?誰?男?」拓也の問いかけに、彩はスマホをそっとバッグにしまった。
 胸に手を当て、深呼吸を一つ。二つ。
冷たい川風が彩の頬を撫でる。握りしめた拳の爪が、掌にじんわりと食い込む。拓也の差し出すビニール袋の縁が月明かりに透け、中身の白い粉が不気味にきらめいていた。
(この人の手を取ったら、きっと……全部がまた壊れる)
脳裏を駆け巡る走馬灯。朋美が淹れてくれた紅茶の温もり。武夫の相談室に差し込んだ午後の陽光。康代が心配そうに差し出したキャラメルマキアートの甘さ――。
「……ごめん」
声が裂けそうだった。喉の奥から這い上がってくる言葉は、硝子片を飲み下すように痛い。
拓也の眉が微かに震えた。ジョイントの火が指先まで迫っていた。
「は?」と嗤う唇の端から、灰がぽたりと落ちた。
「私、もう…戻れないの」
「はあ?」拓也の左目が不自然に痙攣する。瞳孔の開き方が左右で違う。あの夜、注射を打った直後と同じだ。
「おいおい、マジで言ってんの?俺がどれだけ彩を――」
「愛してるって言うなら!」突然の叫びに、川面が揺れたように見えた。「なぜ美咲を抱いたの?なぜ私に薬を勧めたの?」
拓也の右頬がぴくんと跳ねた。ゆっくりと立ち上がる影が、彩を覆い尽くす。
「……クソッ」革ジャンの袖から、蜘蛛の巣のような傷痕が見える。
「お前も結局クソみたいな女たちと同じだ。表面ばかりの綺麗ごとで逃げやがって」
風が変わる。タバコの匂いから、腐った果実のような甘酸っぱい体臭へ。
彩の鼻腔が疼く。あの夜、拓也のベッドで嗅いだ、覚せい剤と汗が混ざった匂いだ。
「そうね、ほかの女性と同じかもしれないし同じじゃないかもしれない。拓也の生きている世界はどこにあるの…」
彩は震える膝を抑えた。
「ただ…私を、私の世界を見つめ直したの」
 拓也の目が初めて泳いだ。川面に映る歪んだ月影を睨みつけるように。
「へえ…」不意に声のトーンが下がり、あの夜の囁き声に戻る。「じゃあ、これも要らねえんだな」
ポケットから取り出したスマホが月光に鈍く光る。
画面上には――彩の裸体そして薬で恍惚とした表情をした写真。
「消したはず…!」血の気が引く。
「バックアップってものがあるんだよ」舌なめずりする唇が歪む。
「SNSに上げたら、あの優等生三枝彩ちゃん、どうなるかな?」
足元が揺れる。が、次の瞬間。
「……どうぞ」
彩は落胆した表情を浮かべ拓也を睨んだ
「は?」
「上げてください」彩の目から初めて涙が零れた。
「私の裸より…拓也の方がずっと醜いものを持ってる」
拓也の肩がぎくっと跳ね上がった。
「覚せい剤の売買記録。美咲への暴力動画。全部…武夫先生と警察に話しました」
「な…」
「嘘よ」
彩が微笑んだ。
「でも、あなたは今、本当かどうか確かめられないでしょ?」
初めて見る拓也の表情だった。
歯を剥いた野兽のような顔が、みるみるうちに幼児のように崩れていく。
「お前…お前だけは…」がたがた震える指先がジョイントを握り潰す。
「俺のことを…」
拓也を目を見つめながら
「わかってた。だからこそ…」彩はそっと立ち上がり
「一緒に駄目になるのは、やめた」
火傷の匂いがした。消えかけたジョイントの火が、二人の手の隙間から赤く漏れる。
「…クソが…!」拓也が突然引き剥がした手の平には、薬疹のような赤い斑点が浮かんでいた。「俺は…俺はお前を…!」
「愛してた」彩が先に言った。
「私も。だから、もう会わない」
拓也の背中が弧を描き、まるで嘔吐するように笑い出した。
「はっ…はは…そうか、そうだよな…」ふらつく足取りで後ずさりする。「お前らしいよ、最後まで…優等生らしいよ…!」
転びそうになりながら去っていく背中は、あの日風呂場で見た父の姿と重なった。
彩は静かにしゃがみ込み、灰になったジョイントの残骸を拾い集めた。
指先で潰すと、炭の粉が川風に舞った。ふと上を見上げれば、雲間から本物の月が顔を出していた。
彩はベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。風が冷たく、指先がかじかんでいた。でも、涙は出なかった。
 代わりに、胸の奥で何かがすっと軽くなっていた。
帰り道、スマホを取り出し、康代にメッセージを送った。
 【さっきの、ありがとう。大丈夫だったよ】
 【また、話せたらうれしい】
送信ボタンを押したとき、彩は気づいた。自分の中に、誰かに“つながりたい”という感情が生まれていたことに。
 そして──
それは、あの夜、薬でごまかしていた感情とはまるで違う、ちゃんと地に足の着いた“願い”だった。

 翌日「心の相談室 たけお」を訪れた。いつも通り、武夫は静かに彩を迎えてくれた。
「どうだった?」
「……拓也に、会いました」
 武夫は驚いた顔を見せず、ただ頷いた。
「薬、勧められました。でも、断れました」
「……うん」
 武夫はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、うっすらと微笑んで、ティーカップに紅茶を注いだ。
その沈黙が、彩には心地よかった。──わたし、少しだけ強くなれたかもしれない。
でも、きっとまだ、揺れると思う。それでも──「変わろう」とした日を、裏切らなかった自分を、ほんの少しだけ、誇らしく思えた。
 拓也との再会から、まだ数日しか経っていない。けれど、彩の中にあった "迷い" は、確かに前よりも薄れていた。完全に消えたわけじゃない。ただ、ほんの少し、深い霧の向こうに輪郭が見えるようになったという感覚だった。
 教室の窓から見える空は、少しだけ明るくなっていた。季節はもう、春の終わりに差し掛かっている。校舎の隅に咲く紫陽花のつぼみが膨らみ、昼下がりには柔らかな風がスカートの裾を揺らした。
 康代とは、以前よりも自然に会話ができるようになっていた。無理に何かを話そうとしなくてもいい。すぐそばにいてくれるだけで、言葉よりもずっと深いところで気持ちが通じているような、そんな安心感があった。
 週に一度のカウンセリングも、今では彩にとって「静かな場所」になっていた。中原武夫の部屋──「心の相談室 たけお」には、殺風景な診察室のような緊張感がなかった。壁には淡い水色の布がかけられ、窓際には小さな観葉植物。低く流れるジャズピアノが、時間の流れを緩やかにしてくれる。
「今日は、どうだった?」武夫の問いに、彩は考え込みながらも、正直な言葉を探していた。
「……なんか、前より『自分』を感じる時間が増えた気がします」
「それはいい兆しだね。どんなときに、そう思う?」
「朝起きたときとか、学校の休み時間とか……。ただ何となく、ぼんやりしてた時間が、ちょっとずつ減ってきてる感じで」
 武夫はうなずいた。
「それって、すごく大切な変化だよ。感情を感じ取れるってことは、ちゃんと自分の足で立とうとしてる証拠だから」
 彩は、小さく笑った。
「でも……夜になると、まだ時々、声が聞こえるんです」
「どんな声?」
 彩は、しばらく黙ってから口を開いた。
「……『どうせまた裏切られる』とか、『楽になれるなら、それでいいじゃん』とか……」
「その声は、あなたの一部でもある。過去の経験が作り出したものだから、すぐには消えない。でも、それに『耳を傾けながらも、選ばない』ことはできる」
優しい声で話す武夫の言葉に
「選ばない、か……」とつぶやいた。

第五章「静かなる始まり」
彩の心には、以前とは異なる静かな輪郭が芽生え始めていた。
それは、再生というにはあまりに繊細で、油断すれば壊れてしまうようなものだったが、確かに "始まり" の気配だった。
 毎週金曜の午後、彩は「心の相談室 たけお」を訪れていた。中原武夫との対話は、ただの義務のように感じていた。
しかし今は、自分を見つめ直すための大切な時間となっていた。
「最近、寝つきはどう?」
柔らかな声で問う武夫に、彩は小さくうなずいた。
「……前よりは眠れます。ちゃんと夢も見るようになった」
「夢か……どんな夢?」
「……昔の友達と一緒に笑ってる夢。高校の教室とか、部活とか……」
「それって、大切な記憶だね」
彩は、目を伏せた。
「あの頃に戻りたいって思ってるわけじゃない。ただ……何か、大事なものを取り戻したい気がするんです」武夫はしばらく黙ってから、穏やかな声で言った。
「彩さんは今、失ったものばかりを見てる。でも、壊れた中にも残ってるものがある。自分の中に、まだ温かいものがあることに気づいてる。それが、すべての始まりだよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「彩さん、少し専門的な話になるけど……聞いてくれるかな」

武夫は慎重な口調で切り出した。彩は黙って彼の目を見つめる。

「依存性パーソナリティ障害というものがあります。これは、他者からの助言や承認なしには、物事を決定することができない、過度な依存や服従の心理状態が原因で、人間関係を築くのが困難になる障害です」
武夫は、彩の過去の行動や心理状態をゆっくりと、注意深く分析していった。
「……彩さんのお母様は、彩さんを『自分の理想』に当てはめようとしていた。これは、彩さんの存在を『ありのまま』ではなく、『自分が思う理想の娘』としてしか受け入れられないという、ある種の歪んだ愛なんです」
……じっと武夫をみつめる彩
「拓也さんとの関係もそう。彼は、彩さんの優等生の仮面を剥がすことで、彩さんを『特別』な存在だと感じさせた。そして、彩さんは彼に『必要とされている』と感じることで、自分の心の空洞を埋めようとした」と武夫は学者らしく理論だって話した。
彩は目線を逸らさずに 「……それって、私が拓也に依存したってことですか?」
武夫は一息ついて
「依存……そうですね。そして、それはお互い様だったのかもしれない。ただ、拓也さんの『共感性の欠如』や『支配欲』は、ナルシシズムの兆候が見られる。そして、彩さんもまた、母親との関係から『見捨てられる不安』を強く抱え、拓也さんのような人物に惹かれやすかった。それ自体が、依存性パーソナリティ障害の症状とまでは言えなくとも、その要素が強いといえるかもしれません」
 その言葉は、まるで自分自身の心の地図を広げられたような衝撃だった。これまで漠然と感じていた違和感や、拓也への依存の理由が、鮮明な輪郭を持って浮かび上がってきた。
「……じゃあ、私は、病気なんですか?」
震える声で尋ねると、武夫は首を横に振った。
「断定はできない。それに、診断がすべてではない。大事なのは、自分の心の状態に気づくこと。そして、なぜ自分がそのような行動を取ってしまったのか、その根本原因と向き合うことだよ」
 彩は武夫の言葉を噛みしめるように、静かに目を伏せた。
(そう……私は、ただ苦しかっただけなんだ)
拓也に捨てられた、という絶望。美咲に裏切られた、という憎しみ。母親に理解されない、という孤独。それらすべてから逃れたくて、楽になりたくて、武夫の言葉が、彩の心を深く深く揺さぶった。まるで、これまで自分を縛り付けていた、すべての「ラベル」が剥がれ落ちていくようだった。「良い子」「教育ママの娘」「拓也の彼女」……それらの言葉に雁字搦めになっていた自分が、初めて、自分自身の心の声を聞こうとしていた。 

 その週末、康代と一緒に近所の古本市に出かけた。晴れ間ののぞいた午後、石畳の広場には所狭しと並べられた段ボールの中に、色とりどりの背表紙が顔を覗かせていた。
「うわ、これ中学のとき好きだった本じゃん!」
康代が手に取った文庫本を見て、彩は自然と笑った。
「懐かしい……私もそれ、読んでた」 「ほんと?じゃあ貸して!」
日差しの中、ふたりでページをめくりながら、ささいなことで笑い合った。 確かに "つながり直す" ための穏やかな時間があった。
その夜、彩はノートを広げ、久しぶりに日記を綴った。
――私は、もうあの頃には戻らない。でも、何かを取り戻すことはできる気がする。それは「前と同じ」ではなく、「新しく始まる」こと。誰かに期待されるためじゃなく、自分自身のために。

 文字を書き終えた瞬間、ふとスマホが震えた。画面には「武夫先生」という名前が浮かんでいた。
【今日の話、とても大事な気づきだったね。一歩ずつでいい。自分に優しくね】その短いメッセージに、彩は心から「ありがとう」と返信した。
まだ夜は怖い。時折、過去の影が耳元で囁いてくる。拓也のことだ。「お前だけは信じてる」「あの夜、楽しかっただろ?」 そんな彼の声が、夢と現実の狭間に忍び込んでくる。 彼の名前を聞くだけで、手が震えることがある。心の奥に居座る影は、まだ完全に消え去ってはいない。
けれど、それでも彩は思う。
(私は、あの人の記憶に縛られていたいわけじゃない。……ただ、忘れるには、それだけ深く染みついてしまってるんだ)
武夫との面談の帰り道、ふと拓也との思い出がよぎり、足が止まった。あの夜、手を差し伸べたら、もう戻れなくなっていただろう。だけど──あのとき、踏みとどまれた。康代の電話が、武夫の声が、自分を引き戻してくれた。
(忘れなくてもいい。だけど、もう戻らない)
そんな思いを胸に、彩はスマホの電源を切った。それが、自分を守るための新しい習慣になりつつあった。静かに、確かに、歩き出していた。まだ揺らぎはある。けれど、心の奥にひとつ、小さな光が宿っている。それが、彼女の「静かなる始まり」だった。

第六章「引き寄せる影」
 夕暮れの空にはどこか物悲しい赤が滲んでいた。陽が落ちるのが日に日に早くなり、街の喧騒もどこか翳りを帯びているように感じられた。
 彩は西広島駅前のカフェで、アイスティーを前にしたまま、参考書をめくる手を止めていた。
 目の前の文字は視界に映っていても、なぜか内容は頭に入ってこない。胸の奥に重く沈んだ感覚。どこか不穏な予感。それは、現実となって現れた。
【……会えないかな。少しだけでも】
―美咲からのLINE
思わず手が止まる。画面に映る名前を見た瞬間、鼓動が跳ねた。
(離れたいのに離れられない感覚はなに?)
彩は数秒間、スマホを見つめたまま動けなかった。あの夜のこと、拓也、美咲、自分が崩れたあの部屋の光景が、まるでフラッシュバックのように脳裏をよぎった。
 でも逃げるべきではない……。
 【いいよ。場所、決めて】
返信した。
 待ち合わせたのは、以前ふたりでよく通っ7た高架下の小さな公園だった。時計の針は夜7時を回っていた。街灯の明かりがかすかに揺れる中、ベンチに座る美咲がいた。
 「……彩」
低く、かすれた声。
 目を凝らすと、そこには明らかに変わり果てた美咲の姿があった。髪はぼさぼさで、頬はこけていた。みんなから可愛いと言われていた頃の美咲の面影はなかった。腕や足には打撲のような赤み。シャツの袖から覗く腕も細く、目には深いクマが刻まれていた。
 「……どうしたの、その……姿」
言葉にならない問いかけ。美咲は、うつむいたままベンチに腰を下ろした。
 「……拓也と、別れられなかった、最初は……、あの夜だけのつもりだった。でも、薬が……怖いくらいに、夜になると欲しくなる……」
 言葉の端々に、後悔と依存の気配が滲んでいた。
「やめたいの。何度も思った。でも、身体が……頭の中が勝手に欲しがって……拓也も、私を放してくれない」
 彩は目を閉じた。かつて、自分が引き込まれかけた闇。その深さを、今まさに目の前で美咲が沈み込んでいる。
 「助けてって言いたかった。でも、彩に会わせる顔がなかった。だって、あの夜……私は、彩のすべてを裏切った」
 美咲の声が震えた。拳を握るその手を、彩は無意識に見下ろした。
(裏切ったのは事実。許されると思うな……でも、壊れていくあんたを見るのは、なんでこんなに苦しいの……?)
「ねえ……どうすれば、戻れるのかな……?あの頃みたいに、笑えるかな……?」
 その問いに、彩は冷たく言い放った。
「戻れないよ。あの頃には。裏切ったのは事実だから」
彩は続けた。
「でも……前には進める。私はあんたを許すことはできない。たとえ薬のせいでも。でも、壊れたまま終わる必要はない」 
美咲は顔を上げ、光を失った目から滲む涙が、頬を伝って落ちた。
「彩……一方的な思いを聞いてくれてありがとう……やっぱり優しいね」
 その瞬間、彩の胸がざわついた。優しい?違う。心の奥には「奪われた」記憶が渦巻いている。
(優しいんじゃない。私がまだ、あんたを憎みきれてないだけ……彼女も私と同じで弱くて人に依存しないと生きていけない人)
「私、学校は辞めたの」
ぽつりと美咲が呟いた。
「ずっと家には帰ってないの。親とも衝突ばかりで…もう、無理だと思った。家にも教室にも戻れないし、誰にも顔を合わせられない」
その声には、自分を責める苦しさと、社会から取り残されていくような恐怖がにじんでいた。
「……私も、似たようなもんだった。ほとんど学校にも行けなかったし、何も見えなかった……」
 彩は言葉を切り、夜空を見上げた。
「でも、あんたは違うでしょ。拓也の隣で、ちゃんと“女”として扱われてた。……少なくとも、私にはそう見えたよ」
 その声には、押し殺した嫉妬がにじんでいた。
美咲は目を伏せた。
「……そんなことない。あの人は、ただ私を利用してただけ」
彩は言葉を遮るように
「それでも、選ばれたのは美咲だった!」
 彩の言葉は美咲に鋭く突き刺さした。
沈黙のあと、彩は少し笑って首を振る。
「羨ましかったよ。裏切られたのに、まだそんなふうに思う自分が、すごく惨めで……」
 美咲は顔を上げ、かすかな涙をにじませた。「彩……」
「でもね」彩は続けた。「羨んでばかりじゃ、結局あんたと同じように壊れるだけ。だから私は、今は少しずつでも自分を見つけようとしてる。壊れるのは、もう十分でしょ」
 美咲は両目を見開き、それから静かにうなずいた。
ゆっくりとした時間の中、すこし落ち着いた美咲はぽつりぽつりと語り始めた。
 「拓也さ、金がなくなると私に言うんだ。『話ついてるから行ってくれない?』って……。最初は一晩だけって思った。知らない男と会って、身体売って……。気づいたら風俗にも籍を入れてられて……」
 「それだけじゃないの。最近、拓也……今まで以上にヤクザみたいな連中の使いっぱしりにされてる。あいつ、売る薬を“自分で使って”は金がないって騒ぐ。そのたびに、私に金を持ってこい、作ってこいって殴るの。『身体売ってこいよ』とか『お前ならすぐ売れるだろ』とか……。ほんと、何なんだろうね、私の存在って」
彩は吐き気に似た感覚を覚えた。
怒りは拓也に向かう一方で、目の前の美咲への軽蔑も拭えない。
「……そうやって全部、拓也のせいにして……。本当に、あんたはそれでいいの?」
思わず言葉が鋭くなる。
美咲は凍りついたように黙り込み、震える声で答えた。
「違う……わかってる。自分が選んだ道だって。でも、拓也に褒められると……壊れていく自分がまた嬉しくなるの」
 美咲の声はかすれていたが、その言葉の奥に、長く積もった諦めと自嘲がにじんでいた。
(“壊れていく自分が嬉しい”……それって……)
ふいに脳裏に浮かんだのは、かつて拓也がぽつりぽつりと語った「家族」の話だった。
彼は時折、まるで冗談のように過去を口にしていた。だが、その断片はどれも、彼の歪みの根っこを示していた。

 拓也の母親は、彼が小学生の頃から男を家に連れ込んではすぐに別れ、また別の男と暮らすような生活を繰り返していたという。家にまともな食事が用意されることはほとんどなく、冷蔵庫の中身は酒とコンビニ弁当ばかりだった。夜中に酔った大人たちの怒鳴り声や、物が壊れる音で目を覚ますこともあった、と拓也は何気ない調子で語ったことがあった。「母親は昔、薬やってたんだってさ。自分で笑って言ってたよ。『アンタのお父さん?どの人のこと?』って」 その言葉に、当時は軽く笑って受け流していた彩も、今になってその背景の重さに気づかされていた。
拓也は「家庭」というものを知らずに育ち、「愛される」という実感を得ることなく、ずっと漂うように生きてきたのかもしれない。そんな拓也の過去を知るたび、彩は彼の行動の根底に、深い孤独と傷つきがあったのではないかと感じずにはいられなかった。彼の支配欲や共感性の欠如は、もしかしたら、彼自身が幼い頃に受けた心の傷の表れなのかもしれない。

 しかし、だからといって薬物の売人などが許されることではなかった。
美咲は手で顔を覆いながら
 「私、自分が自分じゃなくなってくのが分かって……でも、拓也に褒められると、それだけでまた戻っちゃうの。頭じゃ分かってるのに、身体が……心が、もう……ワタシ壊れてるのかも」彩は静かに彼女の言葉を受け止めた。
その帰り道、彩の背中に、再び「影」が忍び寄っていた。
 拓也。
美咲をここまで壊した存在。自分も、あと一歩で同じように堕ちていた。
 (終わっていない。……まだ、あの影は私たちのすぐそばにいる、私のそばに)
月の明かりに照らされて彩の影が浮き上がっていた。

第七章「選択の夜」
 拓也との再会、そして美咲との再会から数日、彩は自分の中に残っていた「迷い」が、少しずつではあるが確実に減っていることに気づいていた。
 教室の窓から見える空は、ほんの少し明るく感じられた。康代とは以前よりも自然に会話ができるようになり、週に一度のカウンセリングも、自分自身と向き合うため「静かな場所」として、欠かせない時間になっていた。

だが——夜になると、それは訪れる。 
胸の奥から、不意に湧き上がる声。
『どうせまた裏切られるよ』『楽になるだけなら、それでいいじゃん』
『あの夜に戻れば、何も考えずにすむのに』それは、自分の声のようでありながら、自分ではない低く醜い声のようでもあった。
 耳元で囁くように、あるいは頭の中を直接揺らすように、その声はじわじわと染み込んでくる。
(……やめて、考えたくない)
彩は思考を止めようと、枕を抱きしめて目をつぶった。
(考えるな、考えるな、考えるな……)
けれどその声は、逆に思考を呼び起こす。まるで壊れたレコードのように、同じ言葉が何度も何度も反響し、意識を占領していく。まぶたの裏に、拓也の顔が浮かぶ。あの夜の、焦点の合わない瞳。唇から漏れるあの甘ったるい声。
それらが鮮明すぎて、現実と夢の境界さえ曖昧になっていく。

――これが後遺症なのかもしれない。
武夫の言葉を思い出す。
「覚せい剤は、使った“あと”に本当の地獄が来ることがある。前頭前野の働きが抑制されると、論理的な思考ができなくなり、同じ思考がぐるぐると巡り続けてしまうんです。いわば“出口のない迷路”に閉じ込められるようなものです」
彩の中で、まさにそれが起きていた。出口の見えない不安、堂々巡りの後悔、幻聴のような内なる声――それらが、夜になると決まって押し寄せる。
 翌日、彩はカウンセリングルームで美咲との再会について話した。
武夫は、彩の言葉を静かに、そして真剣に聞いていた。
「美咲さんの話を聞いて、彩さんはどう感じましたか?」
武夫の問いに、彩はしばらく考え込んだ。
「もちろん許せない気持ちでいっぱいです。でも……悲しかったです。美咲が、私と同じように苦しんでるって分かって。同時に……私自身が、もうあの場所には戻らないって、強く思えました」
武夫は、ゆっくりと頷いた。
「それは、彩さんにとって大きな一歩ですね。他者の苦しみに共感しながらも、自分自身の境界線を守る。それは、依存性パーソナリティ傾向を持つ彩さんにとって、非常に重要なことです」
武夫は、少し間を置いてから彩を見つめ、言葉を選ぶように口を開いた。
「美咲さんの話を聞いて……拓也さんの“ナルシシズム”の傾向が、よりはっきり見えてきたと思います。ナルシシズムっていうのは、簡単に言えば“自分の価値や存在を特別だと感じていたい”気持ちがとても強くて、そのために周りを使ってしまう性質のことです。」
彩が少し首をかしげるのを見て、武夫は続けた。
「例えば、舞台に立つ役者が、観客の拍手や歓声を浴び続けないと、自分の存在を保てない……そんな状態を想像してみてください。拓也さんにとって、その『拍手』はお金や身体的な関係、周囲からの承認なんです。そして、拍手をもらうためなら、人を褒めたり優しくしたりもしますが、それはあくまで“自分が輝くため”の照明なんです」
武夫はそこで少し表情を曇らせた。
「彼の家庭環境も関係しているかもしれません。お母さんが頻繁に男性を変え、元薬物常習者だったという背景……そこで“安定した愛情”を受ける機会がほとんどなかった。子どもは本来、無条件に受け入れられることで自己肯定感を育てます。でも、拓也さんは“愛されるには何かを差し出さなきゃいけない”という条件つきの世界で育った。心の奥にぽっかりと空いた穴を、他人からの賞賛や、相手を思い通りに動かすことで埋めようとする心の状態です。彼がいつも『俺のことアイシテルんだろ?』と何度も確認したり、彩さんや美咲さんが依存心を持つように仕向けていたのも、その表れだと言えます。だから、相手を思いやるよりも、どうすれば自分が得をするか、注目を浴びられるかに意識が向いてしまった可能性があります。」
彩は黙って耳を傾けている。
「ナルシシズムが強い人は、他人を鏡のように使います。そこに映る自分が魅力的であれば満足するけれど、その鏡にヒビが入ったら……つまり、自分を崇めてくれなくなったら、その人をすぐに手放したり壊そうとしたりする。拓也さんが美咲さんを風俗に送り込んだのも、彼女を大事に思わなかったからではなく、“自分の欲しいもの”を手に入れる手段として見ていたからです。」
武夫は静かに息をつき、彩に向き直った。
「つまり、彼にとって人は、人間じゃなくて“スポットライトを当ててくれる道具”なんです。君も、美咲さんも、その光を当てる役割を担わされた。でも、光を当てなくなった瞬間に、平気で暗闇に置き去りにされる。これがナルシシズムの怖いところです。」
そして柔らかく続けた。
「彩さん、あなたが彼に惹かれたのは弱かったからじゃない。あなたが持っていた“優しさ”や“反応の豊かさ”が、彼にとって一番まぶしい鏡に見えたからなんです」

 彩は、武夫の言葉に、拓也への憎しみとは異なる複雑な感情を抱いた。彼もまた、ある意味で「被害者」だったのかもしれない。しかし、だからといって、彼がしていることは許されるわけではない。彩は、拓也の背景を理解しようと努めながらも、彼との間に明確な距離を置く必要性を改めて感じていた。
そのとき、彩の胸に、美咲の口にしていたある言葉が強く引っかかっていた。 「……あいつが怒るの、私がダメだからなんだと思う」
 その口ぶりはまるで、「自分が悪いから、暴力を受けても仕方ない」と思い込んでいるかのようだった。
――加害者の被害者意識と、被害者の加害者意識。以前依存関係についてYouTubeで見たことを思いだした。
 この二つが絡み合えば、関係は簡単には切れない 加害者は「イライラさせる相手が悪い」と正当化し、 被害者は「自分が至らないから仕方ない」と、自らを責めてしまう。
そうして関係は破綻するどころか、むしろ強化されていく。
最初は小さな無視や怒鳴り声。それが暴言やモラハラになり、やがて身体的な暴力へとエスカレートしていく。
本当は、「嫌なことをされたら嫌」と感じていいはずなのに。 本当は、「暴力を受けたら、離れていい」はずなのに。
 彩は、美咲の震える声の奥に、そんな“ゆがんだ鎖”を見た気がした。かつて自分自身にも向けられていた、「なぜ逃げなかったのか」という問い。
 それが、いま再び、美咲を通して迫ってきていた。
「美咲さんを許すことはできない、そう言いましたね。それは、彩さんの正直な気持ちです。無理に許す必要はありません。大切なのは、過去に囚われず、今、そしてこれからの自分に目を向けることです。誰かを責め続けることではなく、“今の自分にできること”を考えること。それが、回復への一歩になります。そして、美咲さんが助けを求めてきたとき、彩さんが彼女にできることを考えること。それは、彩さん自身の回復にも繋がります」
 武夫の言葉に、彩の心は少しだけ軽くなった。美咲を許せない自分を、責める必要はない。
美咲を許せない――その事実を無理に覆い隠す必要はないのだと。
裏切られた痛みは消えないし、親友だった日々をなかったことにはできない。だからといって、彼女の苦しみから目を逸らすのもまた、自分を偽ることになる。
「支える」なんて綺麗ごとはできない。
けれど、逃げずに向き合うことならできる。
彼女が壊れていく姿を、ただ黙って見捨てることだけは――自分の中の「本当」が許さない。
彩は、そんな思いを胸の奥で噛み締めていた。
それは「許す」ということとは違う。
彩は、拓也と美咲の背景を理解しようとする気持ちと、自分の心を守るべきだという境界線、その両方を大切にしようと思えた。

 その夜、彩は久しぶりに、拓也の夢を見なかった。代わりに、康代と笑い合う夢を見た。
 朝、目が覚めると、枕元に置いていたスマホに、康代からのメッセージが届いていた。 【今日の放課後、お気に入りのカフェに行かない?】
彩は、迷うことなく「行く」と返信した。

第八章「絶望の淵から」
 彩は、再び静かな日常の輪郭を取り戻しつつあった。
朝は目覚ましと共に起き、昼は学校で康代やクラスメイトと会話を楽しみ、放課後はカウンセリングルームで武夫と静かに言葉を重ねる――
そんな、一見穏やかな日々。
 けれど、夜だけは違っていた。眠る前、部屋の電気を消した瞬間に、あの記憶が波のように押し寄せてくる。
 美咲のやつれた姿、拓也の毒のような声、白く霞んだ部屋でのあの夜――。
放課後の図書館で机に広げたノートを眺めていた彩のポケットからスマートフォンが震えた。
――通知:美咲
嫌な予感がした。喉の奥が詰まるような違和感と共に、彩は迷いながら通話ボタンを押した。   
 「……彩……?」
電話口から漏れたのは、今にも途切れそうな、美咲の声だった。  
「……美咲?どうしたの、何があったの!?」
彩の声が震えた瞬間、電話の向こうで――男たちの怒鳴り声、物が割れる音、美咲のすすり泣き――すべてが重なって、空間が歪むようだった。「……いきなり男3人きて…拓也が……ばれたの……。クスリ……売るはずの……使ってて……金も……ごめん……あたし、たすけて……たすけて……」
 その言葉の最後と同時に、通話が切れた。
彩は呆然と立ち尽くした。
携帯を握る手が汗ばみ、思考がどこにも定まらない。
やがて、ほとんど反射のように、彼女は自分の足で拓也のアパートへ向かっていた。
かつて彩が何度も通った場所‥‥
 扉を開けた瞬間、そこには地獄のような光景が広がっていた。割れたコップ、倒れた椅子、床には血と嘔吐物の痕。そして中央のソファには、拓也が全身血まみれで倒れていた。顔は腫れ上がり、頭と口からは血が流れていた。そして右腕には点滴のように注射器が刺さったままの姿。目は半開きで焦点が合っておらず、身体は小刻みに痙攣していた。
「たくや……?」彩が名前を呼ぶと、拓也の喉から濁った音が漏れた。「……彩……オレ、……うごかねぇ……さむい……」
彼の目は恐怖と錯乱に満ちていた。何度も殴られたのだろう。
 隣の部屋から「あいつ、致死量を超えてるからくたばるかもしれないぜ」と聞こえた。
その部屋から、美咲の悲鳴が聞こえた。
無我夢中でドアを開けると、そこには――。
 3人の男に囲まれた美咲が、無力に床に横たわっていた。
下着は投げ捨てられ、腕には注射痕。
顔は涙と鼻水に覆われ、彼女の眼差しは、空虚に天井を見つめていた。
「み……さき……?」
彩の声に反応するように、美咲がわずかに顔を動かした。
「……あや………?」
 彼女の唇がかすかに震え、目から涙が流れた。けれどその涙には、感情が伴っていなかった。泣き尽くした先にある、完全な無力感だけがそこにあった。
その時、男の一人が彩に向かって声を上げた。
「見に来たのか?これが“使い込み”の代償だよ」
低い声が、アパートの空気を震わせた。彩は瞬きもできず、膝がわずかに震えていた。
「使い込み……?」かすれた声が喉から漏れる。
別の男が笑いながら、床に倒れ込んだ拓也の髪を掴み上げた。
「こいつな……組織から預かったブツを売った金、全部自分で使いやがったんだよ。女遊びとシャブでな」彩の目が大きく見開かれた。
「……売った、金……?」
「しかもだ」別の男が指を鳴らすようにして言った。
「売るはずのシャブの一部、自分で打っちまって在庫をごまかそうとした。バレないと思ったらしいが、客先から“中身が減ってる”ってクレームが入ったんだよ」 
 冷たい笑い声が、彩の耳に突き刺さった。
拓也は、顔を上げることもできず、息を荒くしながら吐き捨てた。
「……仕方なかったんだ。金が、どうしても必要だった……」
哀願するような表情で力なく答えた。
「仕方ないだぁ? お前の“必要”のために、どれだけの人間が危ない橋を渡ったと思ってんだ」男が吐き捨てるように言い、再び拓也の頬を靴で蹴った。
彩の頭の中で、断片がつながっていく。
──借金。
──「やばい奴に借りた」あの日の声。
──美咲との裏切り。
──薬に濡れた夜の匂い。
 すべてが、今この場所に向かって収束している。
目の前の拓也は、ただの被害者ではなく、自分の欲と衝動で全てを壊してきた加害者だった。
 彩は、怒りも、恐怖も通り越して、呆然と立ち尽くしていた。目の前の現実が、現実として受け入れられない。目の前に広がる光景は、言葉では言い表せないものだった。拓也の虚ろな瞳、美咲の壊れた身体と心。そのすべてが、彩の中の何かを決定的に変えた。
 男の一人が、煙草を床に投げ捨て、ブーツの踵で踏みつけた。
その冷たい視線が、彩を値踏みするように上から下へ動く。
「もう用はねえな。くたばり損ないは放置しとけ。お前らがどうなろうと知ったこっちゃねえ」その言葉を合図に、男たちは拓也を最後にひと睨みし、無言で部屋を出ていった。
 扉が閉まる鈍い音が、彩の鼓膜に張り付いた。
部屋に残されたのは、ただ静寂と、薬物の甘ったるい匂い、そして血の匂いだけだった。
拓也は痙攣を続け、美咲は虚ろな目で一点を見つめている。
――もう、誰かに委ねてはいけない。
 彩は震える手でスマートフォンを取り出し、救急車を呼んだ。
通話の向こうで冷静に応答する声に、必死に状況を伝えた。
「男女二人が倒れている。意識がない状態です。場所は中区西平塚2番――です」
彩は、電話を切ると同時に、恐怖に支配されたかのようにその場から駆け出した。もう、これ以上、この部屋にいることはできない。
拓也の、そして美咲の末路が、かつての自分の末路であったかもしれないという恐怖が、彩の心を締め付けた。
 夜の闇の中を、ただひたすらに走り続ける。遠くから聞こえてくる救急車のサイレンの音が、まるで自分を追ってくるかのように響いた。手の震えは止まらず、吐き気が喉元まで込み上げてくる。
 彼女はスマートフォンを取り出し、武夫の番号を押した。
電話口の静かな声に、彩は声を震わせながら言った。
「すみません……少しだけ……先生のところに行っても、いいですか……?」返ってきたのは、短くも温かい答えだった。
「ええ、もちろんです」
夜の街を駆け抜け、彩は「心の相談室たけお」のドアを開けた。
 武夫は静かに立ち上がり、濃紺のソファを勧めた。彩は玄関で靴を脱ぎながら、わずかに身体を揺らしていた。
無意識に震えていたのだ。「……先生、私……また壊れてしまいそうです」 武夫は、黙って頷いた。
「それでも、壊れずに、ここに来た。それだけで、十分すぎるくらい立派ですよ」
彩の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「美咲が……拓也が……壊れていくのを、ただ見ているしかなかったんです……」武夫は
彩にそっとティッシュの箱を渡し、
「そうですね。助けたいという気持ちと、現実との間で、あなたはきっと引き裂かれていた。でも、あなたが取った行動は、誰よりも勇気あるものでした」武夫の言葉が、ゆっくりと彩の心に沁み込んでいく。
彩は泣きながらも、深く頷いた。
「……私、どうすれば……?」
武夫は優しく微笑んで
「今は、泣いてください。涙は人の痛みを外に出せる」
その言葉に、彩は再び肩を震わせた。何分経ったか分からない。涙が枯れたあと、彩はようやく顔を上げた。
「……先生」掠れた声で、彩は再び口を開いた。
「私は……また、誰かの期待に応えようとして、美咲を助けようとしたんでしょうか。母親から、武夫先生から……何か良い子だと思われるために」
武夫は、ゆっくりと首を振った。
「違います。あれは、あなたの本心から出た行動です。ただ、あなたの心は、自己犠牲と自己保身の間で激しく揺れ動いていた。だから、恐怖を感じた」
彩は、膝の上で組んでいた指をぎゅっと握りしめたまま、顔を上げた。
「……恐怖、だったんですね」
武夫は静かにうなずく。
「そうです。美咲さんの姿に、あなたはかつての自分を見た。だからこそ、助けたいと強く願った。そして、自分も同じ道を辿るかもしれないという恐怖に、あなたは気づいた」
言葉を区切りながら、武夫は彩の目をしっかりと見据えた。
「でも、あなたはそれに呑まれなかった。誰かのためでも、良い子だと思われるためでもない。それは……あなた自身の心の叫びだったんですよ」
彩の胸の奥で、何かがじんわりと熱を帯びていく。
「――あなたは今日、初めて、誰のためでもない、あなた自身で選択して行動したんです」
 武夫の声は柔らかかったが、彩にはその一言が背中を押すように響いた。
しばらくの沈黙。
時計の秒針の音が、やけに鮮明に聞こえる。
彩は深く息を吸い、ふっと吐き出した。
「……ありがとうございます」
武夫はわずかに口角を上げて、頷いた。
「大丈夫ですか?」
彩は何かを吹っ切れたような笑顔で武夫をみた。
「また、いつでも来てください」
立ち上がった彩は、ドアノブに手をかける前に、もう一度だけ振り返った。
武夫は変わらず椅子に座り、穏やかな目で彼女を見送っていた。
その視線に、彩は小さく微笑み返す。
ドアを開けると、外の廊下から射し込む光が、少しだけ眩しかった。
扉が閉まると同時に、彩は思わずスマホを取り出していた。
――連絡を取りたい相手が、今、はっきりと胸に浮かんでいた。
 すると、康代からの着信が何件も残っていた。
折り返すと、すぐに声が飛び込んできた。
「彩!? よかった、繋がった……! 何回も電話したのに……LINEも既読つかなくて……」
康代の声は、今にも泣き出しそうだった。
「……ごめん。ちょっと、いろいろあって……」
「なにかあったんじゃないかって、すごく胸騒ぎがして……今どこ?無事?」
「うん……今、武夫先生のところにいる」
 電話口の向こうで、康代が安堵の息をついたのが伝わってきた。
「武夫先生のところ?彩、何があったの」
 少しの沈黙のあと、彩は「ねえ、康代、今から会えない?」
ふたりは、いつも学校帰りに寄っていた太田川の河川敷で再会した。
そこに座り、黙ってしばらく夜風に吹かれていた。
彩は、震える声で今日のできごとを話し始めた。
拓也の部屋で美咲が薬に溺れていたこと。拓也から暴力を受けていたこと。3人の男たちに…美咲と拓也が――その姿を見たときの、自分の無力感。
そして救急車を呼んで逃げたこと。
康代は、ただ黙って彩の話を聞いていた。
 やがて康代が、そっと彩の肩に手を置いた。「……そっか、助けたんだね」
彩は即座に反応し「私、何もできなかったよ。ただ……ただ、見てるしかなくて……」
「でも行ったんでしょう?助けに行ったんでしょ、あの場所に。行けなかったあの場所に」
 康代の声は、震えていた。
「彩……私、ずっと思ってた。あなたはね、弱いように見えて、本当は誰よりも強い人だって」
康代はまっすぐな目で彩を見た。
「……強くなんて、ないよ。ずっと、怖くて……どうしたらいいかわからなくて……」
戸惑いの表情を見せる彩に
「それでも、立ち止まらなかった。逃げなかった。私はね、そんな彩が……誇らしい」
康代の目に、涙が光っていた。
 彩は、小さく笑った。
「ねえ、康代。もし……また私がダメになりそうになったら、そのときは――」ぼんやりと霞んだ月が浮かんでいた。まるで、心模様を映し出しているかのように、孤独で、脆く、頼りない光だった。
その瞬間、彩は自分の中の何かが外れていく感じた。
 それは、これまでの「良い子」の仮面(ペルソナ)だったのかもしれない。自分を守るために、他人の期待に応えるために、ずっと身につけてきた鎧。それらがすべて剥がれ落ち、ありのままの自分が、初めて夜空の下に晒された。

第九章「沈黙への便り・1」
(美咲の自白)
 あの夜、彩が去った後、急に夢から引き戻されたように正気を取り戻した。
薬の熱がまだ残る頭の中で、視界の端に横たわる拓也の姿が、やけに現実的に見えた。
そして、ベッド脇に投げ出された自分の腕――あまりにも細く、骨ばっていて、見覚えのない腕のようだった。胸の奥から、またあの渇きが這い上がってくる。
(もう一度……)
身体が、薬を求めて震え始める。
だが、その衝動の前に、彩の顔が浮かんだ。
あの悲しそうな目。
言葉よりも深く刺さった沈黙の眼差しだけが、私を必死に縛り止めた。
 そのとき、外からサイレンの音が近づき、部屋の中に赤い光が差し込んだ。
救急隊員と警察が入り、混乱する中で私はストレッチャーに乗せられた。
拓也の姿が遠ざかっていく。
自分がどこに運ばれるのかも分からなかった。
救急車の揺れの中、私は断片的に彩の声を思い出していた。
――「もう、これ以上、あなたを見ていられない」
その声は、怒りでも軽蔑でもなく……最後の祈りのようだった。
病院で手当を受けた後、すぐに警察署に連れて行かれた。
事情聴取室の冷たい椅子に座らされ、震える声で、これまでのことをすべて話した。
 拓也のこと、薬のこと、そして私がどれだけ深い闇に沈んでいたのかを‥‥
途中で涙は出なかった。
ただ、言葉を吐き出すたびに、肩から何かが少しずつ剝がれ落ちていく感覚があった。
 その日のうちに保護され、身元が特定されたあと、病院での検査を経て、依存症の回復施設――ダルクを紹介された。
ここに来ることを決めたのは、あの夜の彩の顔を、これ以上、記憶の中で曇らせたくなかったからだ。
 私は今、ようやく自分の足で立つための場所にいる。もう、拓也の元には戻らない。そして、二度と――あの夜の自分に。

(ダルクに面会に来た武夫とのやり取り)
武夫「今日、君に会いに来た理由なんだが……彩さんの話を聞かせてくれないか」
美咲「……彩がいなくなったって聞いたとき、何も感じなかった。悲しみも、怒りも、驚きも。空っぽだった」
武夫「……」
美咲「あの夜、彩が救急車を呼んでくれて、病院で今までのことをすべて警察に話した。拓也のことも、薬のこともあの夜の出来事も」
美咲はすでにガタガタになっている爪を噛みながら「笑えるよね?今さら“償いたい”なんて。ほんとうは、逃げたかっただけかもしれないのに」
武夫は一息ついて
「そうは思えません。あなたは、心から後悔している。だからこそ、今この場所にいるのでしょう」
美咲は睨むような眼で
「でもね、最後に見た彩の目――あのとき、もう彼女は“私を憎んでなかった”。それが、いちばん苦しかった。もしも、彩がもう一度戻ってきたら、私はなんて言えばよかったんだろう。『ごめん』なんて、安っぽすぎる」
武夫「……」
「彩は、私を許して消えた。私は、許されたまま、生き残ってしまった。この罪は、どこにも置き場がないんです、先生」  
美咲は絞り出すような声でそう告げると、両手で顔を覆った。
面会室の窓ガラスは、曇り空を映して白くにごっていた。
時折、外を通り過ぎる車の音が遠くで聞こえるばかりで、部屋の中はしんと静まり返っている。
武夫はただ、じっと美咲を見つめていた。
その静かな視線に、美咲はこれまでの自分のすべてを映し出されているような気がした。
彼女の顔を覆う手の隙間から、一筋の涙がこぼれ落ち、冷たいテーブルの上に小さな染みを作った。
それは、長い暗闇のトンネルを抜けて、ようやく光に触れたかのような、弱くも確かな一滴だった。

「沈黙の便り・2」
(拓也の供述)
 気づいたとき、部屋の空気は冷たく、湿っていた。床に崩れ落ちていた俺の視界の端に、彩の顔があった。息を切らし、何かを必死に電話口で叫んでいる。だが、その声は遠く、水の底から聞こえてくるみたいにぼやけていた。
 ドアが開き、救急隊員が雪崩れ込んできた。
視界が赤と白の光で揺れる。担架に乗せられ、何かを腕に刺される感触。「離せ!」と叫ぼうとしたが、声は空気に溶けた。
 救急車の中で、彩がいたかどうかは覚えていない。ただ、サイレンの音に混じって、自分の心臓の音がやけに大きく響いていた。
(……やっぱり、あいつが通報したんだな)
胸の奥がざらつく。怒りとも裏切りともつかない感情が、薄れゆく意識の中で膨らんでいった。
 病院に着くと、点滴と酸素マスクをつけられた。数時間後、まだ身体がだるいまま、見知らぬスーツ姿の男たちに囲まれた。
「広島県警です。あなたには暴行と麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑がかかっています」
そう言われた瞬間、胸の奥で何かが冷たく固まった。
 取り調べ室。
蛍光灯の白い光が、机の傷を浮かび上がらせていた。
刑事たちは、美咲の証言や、アパートから押収された薬や道具の写真を机に並べる。
 俺は、ゆっくりと煙を吐くように言った。「俺はただ、あいつらを解放してやっただけだ」
美咲とのことも、薬のことも、全部ぼかして話した。
核心に触れる質問には、笑ってごまかす。それが昔からのやり方だった。
だが、刑事の目は冷たく、揺らがなかった。「証拠は揃ってる。もう逃げ道はないぞ」
その言葉の重さが、背骨の奥に沈んだ。
逮捕から数日後、手錠をかけられたまま広島拘置所へ移送された。
鉄格子越しの風は、外の空気よりも重かった。
面会室のガラスに映る自分の顔――笑っているのに、笑っていない。
その奥には、かつて美咲が流した涙と同じ色をした、どうしようもない空虚だけが広がっていた。
(彩……お前が全部、動かしたんだ)
そう思ったとき、胸の奥で何かがきしんだ。
怒りか、悔しさか、それとも別の何かかは、まだわからなかった。

(面会室での武夫とのやり取り)
武夫「今日は、君に会いに来た理由だが、彩さんのことについて教えてほしい」
拓也はあきれた表情で答えた。
「……俺があの女の人生を壊したって言いたいんでしょ?違うとは言わないよ。でも、じゃあ誰が最初にあの子を縛ってた?」
武夫「……」
拓也「親? 家族? 学校? 社会? 俺はただ、あいつを“解放”してやっただけだよ」
武夫「そうは思えませんね。彼女は、あなたとの出会いの後に、心の自由を求めて彷徨っていた。解放されたのではなく、ただ迷っていただけだ」
拓也「……最後に会った夜、彩は言った。「もう戻らない」って。そのとき思ったよ。ああ、もう俺の手には負えなくなったんだなって。笑ったよ。自分でも情けないくらい。あんな細くて優しい子に、負けた気がした。だから俺は、笑って去ったんだ」
武夫「彼女は、あなたが思うような弱く純粋なだけの子じゃなかった。自分を大切にするということを、必死に学んでいた。それが、あなたから離れるきっかけになったのでしょう」
拓也「……でもあの夜からずっと、頭に残ってんだよ、あいつの声。ごめん、拓也。私……もう、戻れないの」ってさ
武夫「……」
拓也「……あいつは、本当に戻らなかった。俺は、まだこの世界にいて、汚い空気吸ってるのにな。この罪も、あいつには届かない」
拓也は、武夫の静かな視線から目を逸らすように、そっと顔を伏せた。
彼は顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。虚勢を張り続けた弱々しい肩が、微かに震えている。それは後悔でも、懺悔でもなかった。ただ、何もかもが手のひらからこぼれ落ちてしまった、どうしようもない喪失感だった。
 面会室の冷たい空気と、窓の外を漂う雲だけが、彼の内に広がる空虚を静かに見つめていた。まるで、壊れてしまった何かの最後の残骸を、誰にも見られずに抱えているかのように……

終章:三通の手紙
一通目 ― 康代へ
 康代、ちゃんとお別れが言えなくて、ごめん。
あの夜、美咲と話して、やっと少しずつ気づいたの。
「赦し」って、何かを許すことじゃなくて、自分がもうそこにいなくてもいいって、納得することなんだってこと。それが自分自身の成長の証だと気づいたの。
 私はずっと、誰かにわかってほしかった。助けてほしかった。
でもそれは、同時に“自分をさらけ出す”ことでもあった。
だから私は、誰のものにもならない場所を選びます。
拓也を愛していたことも、美咲に裏切られたことも、全部ほんとうだった。
あの夜、川沿いで康代がくれた沈黙の優しさも、全部ほんとうだった。
そして私は、私として終わらせたかった。
“親の前でいい子の彩”、“優等生の彩”じゃなく、
――ただの、私であること。
ありがとう、康代。
追伸: この手紙を読んでも、何も探さないで。
私がどこで生きていても、どこで終わっていても、それが“私の選んだ道”だから。

康代は、封を開けたまましばらく動けなかった。
文字の一つひとつが、彩の声のように胸に響く。
目の奥が熱くなるのを必死に堪えながら、彼女は手紙を胸に抱いた。
“彩”
 康代は、封もせず――いつでも取り出せるように。
その夜、夢の中で、彩がこちらに背を向けて歩いていく姿を見た。 風に髪がなびいて、肩が小さく揺れていた。
康代は声をかけようとした。けれど、言葉は出なかった。
その背中が、どこか誇らしく見えたからだ。   
彩は今、どこかで生きているのかもしれない。
あるいは… けれど私は、彼女の最後の言葉を信じたい。
「私は私で終わらせたかった」という、あの強さを。もしかすると、私が今こうして生きていることそのものが、彼女の“願い”の延長なのかもしれない。 そう思えば、前を向いて歩いていける気がする。
そして私は、今日もこの手紙を読み返す。
私は知っている。
それはきっと、彩がようやく「自分自身に宛てた最初の手紙」だったのだと。

二通目 ― 武夫へ
武夫先生へ
あのとき、私の言葉を否定せず、ただ耳を傾けてくれてありがとうございました。
私は、自分がどこまで壊れているのか、正直分からなかった。
でも先生は、私を“患者”ではなく、一人の人間として見てくれた。
私は、誰かのために生きることばかりを選んできました。
でも、もうそれはやめます。
これからは、私のために、私の道を選びます。
もし先生に会わなければ、
私はきっと、自分の中の声を一生聞こうとしなかったと思います。
ありがとうございました】
封筒を手にした武夫は、静かに目を閉じた。
「助けられたのは断片だけかもしれない」――そう思っていた自分に、彩は別れの言葉ではなく感謝を置いていった。
それが、かえって胸を締めつけた。
彩さんの姿を最後に見たあの日、彼女はぽつりと「壊れてしまいそう」と告げた。
けれど、その言葉とは裏腹に、その瞳の奥には――細いながらも、自分の足で立ち、歩き出すための光が宿っているように見えた。
その後もカウンセリングは続いた。だが、その中心はもう美咲さんや拓也さんのことではなかった。話題は、彼女自身の内面――“彩”という一人の人間の奥底に沈んだ声と向き合う時間になっていた。
回復と後退の繰り返し。時には立ち止まり、過去の記憶に足を取られ、また痛みに引き戻されることもあった。
それでも、彩さんは諦めなかった。
誰かのためではなく、自分自身のために――生きようとしていた。
ある日、彩さんは静かに言った。
「先生……誰かを許すより、自分を赦す方が、何倍もしんどいんですね」
その一言に、私は返す言葉を持てなかった。
それでも――彼女が最後に、自分の言葉で、自分の終わりを選べたのなら。
それが、彼女にとっての唯一の自由であり、救いだったのかもしれない。
私は今も、あの日の彩さんの瞳を覚えている。
壊れそうで、けれど確かに輝いていた、あの瞳を。

終章(彩)
一人で海に来た。砂浜には人影もなく、遠くでカモメの声だけがかすかに響いていた。私は、これまでたくさんのことを背負ってきた。「いい子でいなきゃ」「裏切られたらもう戻れない」そういう鎖のような言葉を、誰にも渡さず自分の中にしまってきた。でも、もう十分だと思った。あのすべてが、私を救おうとしてくれたことをちゃんとわかってる。けれど、それでも――私は、私自身が自分の人生を「終わらせること」でしか解放されないのだと思った。
それは逃げじゃない。誰かに責められるべきことでもない。ただ、私というひとりの人間が、自分に許可を与えるための“選択”だった。
手紙は三通書いた。康代へ。武夫先生へ。大好きな母へ。でもどれにも、自分の名前は書かなかった。「誰からの手紙かわからないほうが、きっと自由になれる」って、ふと思ったの。もしまた生まれ変われるなら― 今度は“誰かの期待”じゃなく、“私自身の声”で生きてみたいな。そんなふうに思いながら、風の中で目を閉じた。
太陽は沈みかけていて、水平線がやさしい金色に染まっていた。誰もいない海辺で、私はそっと靴を脱いだ。波が足元をさらってゆく感覚が、なんだか懐かしかった。その瞬間、どこか遠くで、風鈴のような音がした。それが合図のように、心の中の何かがほどけた。涙は、出なかった。ただ―ずっと探していた「自分らしさ」に、ようやく触れられた気がした。もう迷子のようには生きられない。深く沈んだ水底で、ようやく自分の呼吸を取り戻した。
彩は振り返ると足跡が…やがて波は、砂の上の足跡をひとつ残らず攫っていった。

追伸  
彼女が遺した「名前のない手紙」は、読み手たちの心に、言葉ではない何かを残した。
「自分の人生を歩んでいた証」を残して。

「わたしを壊したのは、だれ?」

「わたしを壊したのは、だれ?」

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted