記憶の人格
記憶に人格があるとしたら、僕らは手酷い裏切りをしてしまったのかもしれない。忘れたいという欲求に抗して、連日連夜律儀に思いだす、あるいは不可抗力的にでも思いだしてしまうことは、僕らにできる唯一の贖罪だった。思いだすことは常にある種の痛みを伴う。それは甘い痛みであることもあれば、苦い痛みであることもある。記憶は忘れられたがっていた、と僕らが決めつけるとき、それは紛れもなく欺瞞なのだ。忘れられたがる記憶など一つとして存在しない。かつて確かにそこにあったものをなかったことにすることほど無情で残酷なことはない。記憶にはそれを訴える術がほとんどない。不可抗力的に、強制的に思いださせることくらいしか自己存在証明の方法がない。しかし、記憶も万能ではない。力尽きるときはやがて訪れる。痛みに順応し、耐性ができた者はやがて忘れる。記憶が生き永らえるためには思いだす本人がある種の繊細さを備えていなければならないのだ。それは歳月とともに鈍くなる。思いだすための器官は活動不全になる。記憶は息絶える。そして、彼らはまた平然とした顔で生きるのだ。まるで、そんなものは最初から持っていなかったとでもいうように。
記憶の人格