
百合の君(73)
このエピソードは、珊瑚を中心とした複雑な親子関係を踏まえないと理解が難しいです。
相関図が45と46の間にあるので、それを見ながら読んでいただけると分かりやすいかもしれません。補足として、珊瑚の実父が喜林義郎であるという事実は、噂にはなっているものの、義郎自身それを肯定も否定もしたことがありません。
養父というべきか実父というべきか、喜林義郎に呼び出されて珊瑚は参上した。将軍を名乗っているというのに部屋には調度品の一つもなく、ただ煤けたような暗い壁に囲まれている。まるで人屋だ、と珊瑚は思った。こんな所で過ごしているから、戦い以外に楽しみがないのだ。
案の定、義郎は感情のうかがえない目で珊瑚を見た。
「古実鳴の生活はどうだ? 慣れたか?」
慣れるも何もない。稽古と称して何度殺されかかったか。信じていたわけではないが、やはり喜林義郎から父の愛を得ることはできなかった。
「もう二年です。すっかり慣れました」
幼い頃から、珊瑚は自分の言葉と心を引き離すのに慣れていた。うかがった父(義郎)の顔に表情はなかった。その自分と同じ赤い瞳にも、もはや親しみを感じられない。
「出海がそなたを返せと言ってきておる。そなたはどうしたい?」
しかしその言葉は思いがけないものだった。とっさに珊瑚は言葉に詰まり、足の親指を掻いた。
「ふむ、急に言われても分からぬか、そうであろうな」
義郎は木怒山に目配せをした。
「出海様からの書状です」木怒山は紙を広げた。その真っ白な紙は、珊瑚にも一目で高級品と分かった。
『このまま珊瑚を手元に置いておけば、貴殿は人質を取って戦う卑怯者と罵られましょう。本当の父である私の元に返した上で、正々堂々戦いましょうぞ』
珊瑚の心に、古実鳴に来てから初めての歓喜が湧いた。浪親が、初めて自分が父親だと宣言したのだ。珊瑚はその純白の紙に微笑む父(浪親)の姿を見たような気さえした。しかし、すぐにはっとして義郎の様子を窺う。気を抜いたらいつ殴られるか分からない。
義郎は、まるで固めたような無表情のままだ。
「私としてはどちらでもいい。人質などあってもなくても私が負けることなどあり得ぬからな。そなたの気持ち次第だ」
珊瑚の心はすでに出海に決まっていた。浪親に会いたいだけではない。上嚙島城には母がいる。この古実鳴に人質に出された母が帰って来るなり、今度は自分が養子になった。母と過ごした思い出は、ほんの幼い頃にしかない。
しかし、それをそのまま口に出すのは憚られた。それに、去る前に直接聞きたいこともあった。
「母を、ご存知なのでしょうか?」
木刀が飛んでくると思って目をつむったが、何も起こらなかった。目を開けると、相変わらず無表情の喜林義郎が座っていた。
「当然だ、ここに人質に来ていたのだからな。そなたも知っておろう」
「いえ、それ以前に・・・」
「それがそなたと何の関わりがある?」
剣よりも鋭い眼光に、珊瑚は何も言えなかった。脂汗が腋を濡らした。重い沈黙を木怒山が咳払いで破った。珊瑚はそれを足掛かりに、居住まいをただした。
「天下の喜林が人質のおかげで勝ったと思われては、名誉に傷がつきましょう。私は八津代に帰り、二人の父のご武運をお祈り申し上げます」
「どちらかの武運は尽きねばならぬがな」義郎は苦笑した。その瞳は一瞬で穏やかになった。「まあ、いい。これで決まりだ。木怒山、珊瑚を送り届けよ」
珊瑚は深く一礼して、退出した。最後に見せた義郎の笑みに後ろ髪が引かれるような思いがしたが、母のいる八津代に着く頃には忘れた。
珊瑚が帰って来ると聞き、いきなり抱き着いてくるのではないかと思ったが、もうそこまで子供ではなかった。
思い出とは別人のように背は伸び、童形ながらも頬がすっと細くなった。しかし、父親譲りの赤い瞳はどこか物思わしげで、女子のようだった幼少期と変わらない。
珊瑚が帰参の挨拶を述べる間、穂乃は我が子の成長を喜ぶと同時、それを間近に見られなかったことを悔やんでいだ。そして、こうも成長したのであれば、自分の心配は杞憂になるのではないかと思った。
「父上の書状、拝見いたしました」
穂乃はぎくりとした。らんらんと輝く珊瑚の瞳が眩しかった。蟻螂(義郎)の性格を考えると、本人に見せるようなことはしないのではないかとも思ったが・・・。
「その、父上に直接お礼を申し上げたいのですが、一緒に行ってくださいませんか」
いくら大きくなったとはいえ、子供は子供だ。やはり、珊瑚が一人で浪親様に会おうとするはずがなかった。こう言い出すのは分かっていた。会えば、珊瑚はがっかりするだろう。会わねば悲しむだろう。さて、どうしたものか・・・。
「父上は、いつも珊瑚のことを想っていますよ」
「ならばそれをお聞かせ願いとう存じます」
揺れる心を抑えて、穂乃は事前に考えていた通りにすることにした。
まず自分だけが浪親と会い、珊瑚の気持ちを伝える。いきなり珊瑚が訪ねたら浪親は戸惑うだろうが、自分から言い含めておけば最悪の事態は避けられる。
「でも、それはもう少し後になってからの方がよいのではありませんか」
「なぜです?」
「帰って来て早々、そんなことを聞かれては父上も驚かれるでしょう」
穂乃はわざとらしいくらい大げさな口調で言った。しかし、珊瑚は目を伏せた。きっと父とのやり取りを思い出しているのだろう。その悲しそうな顔に心を痛めたが、さらに傷を重ねるよりはましだ。抱きしめたい気持ちを抑え、穂乃はじっと我が子を見つめる。
「そうですね、まずは挨拶だけにいたします」
この子はいつもこういう時に笑顔をつくる。穂乃の胸に、またちくりと痛みが走った。
「ええ、私からもそれとなく言っておきますから、心安くなさい」
「では」
一礼して、珊瑚は下がった。
珊瑚が見えなくなった途端、穂乃の目に涙があふれた。白粉が剥がれるまで泣いて、泣き止んだら頬を叩いた。
正念場はこれからだ。珊瑚のため、私は戦い続けねばならない。
百合の君(73)