冷やし中華がはじまる予感

 昨夜はすこぶる蒸し暑く、古い壊れ気味なエアコンと共に汗水垂らして迎えた朝、里村は直射日光にてかる体を起こし、張り付く前髪をぎゅっと絞って大仰につぶやく。
「冷やし中華しか勝たん……」
 その日は大学も休み、バイトも休み、給料日後で金はある、稀に見るハレの日だった。里村は黙々とシャワーを浴びて軽装で自転車を飛ばし、二十四時間営業のスーパーに向かった。そう、まずは涼む。クールダウンして考える。今できるのはそれだけだ。
 エアコン修理代も美容院代も捻出できない貧乏学生には、外食で冷やし中華を食べることはまったく解せぬ。ならばと一念発起。そのスーパーで涼ませてもらいながら材料を物色し、早速割引のきゅうりとトマトは手に入れた。しかしこれだけでは流石に物足りない。
「卵食いてえなー、ハム……麺、麺どれだ」
 錦糸卵を作る技術はない。ハムは一番安くていい。だが麺だけは。
 現在午前八時、もう三十分は休んでいるので良い加減外に出なければ。里村は長髪を結び直して外へ出る。強く鋭い熱波と光線が、額から腕から脚から、すべてに均等に突き刺さる。まぶしいぜ。
 日陰へ移動し美味い麺を探す。ここで里村には、麺に詳しい者に心当たりがあった。通話マークをためらいなく押す。
「あっちぃー、あ、みょんみょんおはよ、冷やし中華の麺って何使ってる?」
 みょんみょんは大学の先輩で里村と同い年の男だった。同じ手芸サークルに所属しており、料理もずば抜けて上手い。つまりモテる。
 電話口のみょんみょんは眠そうに、きくすい、とだけ返して電話を切る。きくすい。サンキューな、と里村は心で礼を言い、颯爽と車輪を回した。
 今のスーパーにはきくすいの麺はなかった。時間を潰しながら回った四店舗。流石にフラフラしながら入った五店舗目で、三食四百円できくすいの麺が売っていた。
「まじか、いけるんちゃう?」
 つい言葉が漏れる。それがあまりに嬉しそうだったのか、隣にいた女性がくすりと笑う。はっとしてももう遅く、みすぼらしい大学生がラーメンに喜んでいるさまが出来上がってしまった。いそいそと一袋を取り上げ、レジへ向かう。するとメッセージが一通。
「多分タレ入ってないと思うからうちでつくるぞ」
「マ! マジ感謝だわ! みょんみょんさま!」
「ミャクミャクみたいに聞こえるからやめれ」
 ここからみょんみょん宅までは自転車で約十分。しかし里村はうきうきと腹ペコでがぜんやる気を出し、七分で着いた。
「まいど! さとむらです! みょんちゃん! ありがとよ!」
 チャイムを鳴らすとみょんみょんが爽やかに出迎えてくれる。彼が髪をグレーに染めた日、あまりにも健康的な大学生すぎて大爆笑したことを里村は思い出した。エアコンにしばし涼ませてもらい、さあ、夢にまで見た舞台の開幕だ。
「では里村さんはお野菜洗ってくださる〜?」
「はーい!」
 熟れぎみのトマト、優しく包むように洗いまな板へ。きゅうりはイボがなくもしかしたら中身が詰まってないかもしれない。一人で食べるならなんでも良かったが、まぁ、仕方がないなと念入りに洗ってやる。次、ちょうど良い大きさの涼しげな器を二枚。里村は棚の中をじっと眺め、一人暮らしの割に多い皿数から吟味していく。
「卵ォ、食うなよ」
 振り返ると、綺麗な薄焼き卵が布を広げたように冷まされている。さすがに今つまみ食いをすればバレるだろうと反論した。
 皿はガラス製の装飾があるものとないものを選んだ。聞くと一応用途が違うらしいが、まったくピンと来ず、ふぅんとだけ返した。
 麺を締め、くるりと高く盛る。トマト、きゅうりを隣り合わせ、ハム、錦糸卵を隣り合わせ、すりごま、冷蔵庫にあったというもやしのナムルと大葉を乗せ、タレを回しかける。ここまで全部みょんみょんがやった。
 おそらく今朝の自分がやったのでは到底辿り着けない美しさだろう。綺麗に繊切りにされた具材が放射状に並ぶさまはまるで太陽だ。
「梅干しいる? うまいよ」
 中央に大きな梅干しをひとつ乗せ、名実ともに完成した。
「いただきまーす!」
 涼しげな冷やし中華二丁、うまいうまいと二人ですすりあげ、腹も心も満たされるとはまさにこのことだと里村は思う。ジョッキの麦茶はおかわりをして氷が土砂降りのように鳴るのを、みょんみょんは喜ばしく見ていた。

冷やし中華がはじまる予感

冷やし中華がはじまる予感

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-03

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