【ハロウィンパーティーの招待状】吸血鬼の旅路について
この物語は、拙著『ハロウィンパーティーの招待状』の世界観を用いた、ハロウィンとは関係のない、宗教と人種に焦点をあてた、本編にはない固有名詞や種族表記が存在する、個人的な一次創作の二次創作である。
死神セクメト
それは十月の終わりの日、ちょうどハロウィンの夜だった。偶然見つけた廃屋敷には、いくつもの壊れたヴァイオリンやチェロ、そしてピアノが置いてあった。風の噂では、数年前に没落貴族が一家心中をしたらしく、そのまま呪いの館だと放置されたと聞く。実際、未練がましい霊魂が屋敷にまとわりつき、ポルターガイスト程度に楽器をたまに鳴らしている。
するりと影を縫うように、金髪の男が楽器の前に立つ。大きなマントを取り外すと、男は室内を眺めた。赤い目の、吸血鬼だ。外から優しい月明かりが差し込み、彼にはとても明るい夜だった。
ポーン……と、音が鳴る。もう一つ、鍵盤を叩く。ポーン……ポーン……と、ピアノは少し歪に音を鳴らした。
鍵盤の感触を確かめるように、吸血鬼の鋭い爪の指先がゆっくりと鍵盤を撫でる。まるで昔に弾いていたよう、懐かしむように触る指先の間を、凍える冷気がするりとすり抜けて、白い霧状のもやとなって頭上を舞い、消える。
『アハハ』
『うふふ』
『……キャアア!』
笑い声に混ざって悲鳴が聞こえる。ふっと辺りが暗くなり、鳴っていた楽器の音も消え、静寂が訪れる。
ポーン……と、また音が鳴る。いくつか、半音階の短いメロディーを叩けば、続くように、キィー……とヴァイオリンの音が鳴り、再度辺りは静まりかえる。
吸血鬼は息を潜める室内を見回してから、ゆっくりとピアノの椅子を引き、鍵盤の前に座ると、両手を鍵盤に乗せた。
静かに、半音階ずつ、音を奏でていく。悲しく、優しく、重く、厳かに、歌うように一つ一つ音が流れ始める。人間達にはよく知られている一曲だ。不安定なメロディに続くように、いくつかの弦楽器が独りでに鳴り始めた。霊魂達がいたずらしているのだろう。具現化していない幻か塵のような霊魂達は、目視こそできないが、確かにそこにいて、楽器を奏でている。
「(この曲に……なかなかどうして、楽しそうな音色を立てる)」
吸血鬼は面白くなってしばらく霊魂達とともに弾き続けた。やがて、一つのヴァイオリンが宙を舞った。そこに演者がいるように、ピアノに応えるように、ヴァイオリンがピアノの傍らをくるくると回り音を奏でる。
突然、ピアノが止まる。ガシャンと音を立てて、舞ったヴァイオリンが落下し、いくつもあった霊魂が見えはしないが一目散に姿を消す。続いて、こもった拍手の音がした。
「お見事。いいねぇ、素敵な曲だ」
吸血鬼は動かない。声の主は、彼のいる部屋の影から現れた。深くフードを被り、仮面をし、手足の見えない長いローブに身を包んでいて、服越しに拍手をしていた。吸血鬼はゆっくりと、決して好意的ではない、無機質で無表情な視線を向けた。だが、相手は気にせずその手を取って楽しげに笑った。
「ほら、やっぱり! 招かれてる! ぜひ、君にパーティーで曲を弾いてほしい」
ひっくり返された手のひらには、見たことのない模様が浮かび上がっていた。
それが、死神との出会いだった。
死神は、その模様こそがハロウィンパーティーの招待状だと説明し、自分をパーティーに誘った。パーティーの存在は知っていた。父から、あれは社交場でも、我々の知る社交場とは全く異なるものだと、うっすら情報は知っていた。実際、貴族の騙し合いのような堅苦しいパーティーではなかった。数百年と生きてきたのに、見るものすべてが新鮮だった。
「あかんあかん! 自分、魔力込めすぎや。そないに強う緊縛しちゃあ、霊魂ちゃんかわいそやろ! いったん演奏止めえ」
「魔力?」
「あかん、地が出てもうた。君さぁ、強いんだからもっと手加減して。魂の具合からして、君って、吸血鬼の中でも古い一族でしょ? しがらみが濃くて、強くて、一筋縄じゃいかない魂」
「…………分かるのか……?」
「うはは、そんなに驚く? 自分、死神よ? それくらい分かる分かる。まだ感情の初々しい魂で、ご家族の加護がこれでもかってほどついてて、愛されて窮屈そうだ」
「…………」
「何、その顔ぉ……あのねぇ、ご家族に感謝しなよ? その加護がなかったら、君の魂なんて冥界にとっちゃあとんでもないご馳走なんだから」
冗談か本音か分からないように、けらけらと大袈裟な身振りで笑う死神。その手を取ると、吸血鬼はじっと死神を見つめて、淡々と話し出す。
「ヨアンだ。ヨアン・ダネシュティ。貴方のおっしゃる通り、私は血族の中でも統治の血族の者だ。貴方は?」
「ほぉ、ダネシュティ家かぁ! 自分はセクメトだ。死神のセクメト。よろしく」
「セクメト、私は魔力など、使っていない。ここにいる霊魂達を縛りつけているのは、貴方だろう? 自分で演奏を頼んでおきながら縛りつけておくとは、どういう了見だ。さぁ、答えろ」
「……んふ……んふふふ、なるほどぉ……それが暗示かい? お生憎様、自分にそれは効かないなぁ。君の暗示は血肉を持たない者には効かない!」
「導きの子よ」
「あっ……と、伯爵」
けらけらと笑っていた死神が、急に大人しくなった。その視線の先には長身の骸骨が立っていた。伯爵と呼ばれた骸骨は黒い上質なシルクハットを取ると恭しくお辞儀をした。
「彼かい? 見つけてきたというのは」
目も口もない顔で、骸骨は骨を鳴らしてカタカタと笑ってみせる。
「はじめまして、古い夜の血を引く子よ。この子から何か聞いているかい?」
「演奏をしてくれと、頼まれた……」
淡々と返答する吸血鬼の様子と、飄々と知らん顔をする死神を見比べて、骸骨は肉のない顎を撫でる。
「手こずっているようだね」
「伯爵、聞いてよ。こいつったら魔力を消さないのよ。ほら、霊魂ちゃん達が縛られちゃってる!」
「……」
「導きの子よ、君はもう少しリラックスしてみてごらん。大丈夫、ここにいる霊魂達は、招かれた者達だ。君が導かなくてはならない霊魂達ではないよ」
「えええ? 自分、そんなことしてるぅ?」
「無意識なんだね。勤勉なことは良いことだけれど、ここでは楽にしていて大丈夫。招かれた者達は、特別だから」
「ほぉん……?」
「夜の子よ。君は楽器ではなく、これを持とうか」
「タクト?」
「君は演奏でさえも、その特性を発揮するのだね。素晴らしい。けれど、それなら尚のこと、指揮者に向いている。やってごらん」
二人は伯爵と呼ばれた骸骨の言葉を互いに理解するように間を置いてから、吸血鬼が曲を奏で始めると、死神もゆっくりと両手を広げ、大きく深呼吸をした。
「それ、魔力じゃないのかぁ……。自分も、この子達を押さえてるつもりなかったのに……まだまだだなぁ」
先程まできちんと整列して弾いていた霊魂達が、ヴァイオリンやトランペットを持って、急に楽しそうに宙を舞い始める。対応しきれず固まる吸血鬼のタクトが止まりそうになり、その手に骨だけの手を添えて曲を続けると、骸骨はカタカタと笑った。
「大丈夫、リラックスして、楽しんで」
終始無表情だった吸血鬼が、少し困惑したような顔を向ける。彼の緊張が死神にも伝わり、二人してやっと緊張が解れたように、吸血鬼は微笑み、死神は楽しそうに霊魂達とともに踊り出した。
吸血鬼ヨアン・ダネシュティ。遥か昔、夜を支配したという王の血を継ぐ由緒ある家系の一人息子だ。自分達を統治の血族と呼ぶにも理由がある。王の血はいくつかに分家し、それらを統べる強く濃い血筋が、自分達ダネシュティ家だからだ。
成人を迎え独り立ちをすると、いくらかの同胞は世界を知るために各地を渡る。統治の血族は、若手の頃こそ外の世界を知るも、大抵は元に戻りひっそりと暮らしている。血を絶やしてはならないからだ。
……そこまで保守的になる必要があるだろうか。どうせ、簡単には死なない体だ。そう、簡単には、死ねないのだ。
死神はセクメトと名乗った。彼だか彼女だか知らないし興味もないが、便宜上、彼だとすると、彼とはその後もパーティーで会うようになり、それ以外でも会うことも重なり、次第に腐れ縁になっていった。
魂の加護は、セクメトの話を聞くまで——おそらく親や姉の加護だろう——そんな加護があるとは思ってもいなかった。大抵のモンスター相手に、我が血族は向かうところ敵なしだ。無意識に代々加護を与え受け継ぎ、強者であり続けているのかもしれない。死神相手に自分達が弱者になるというのなら、最初からそうして守る習慣があるだろう。
また、セクメトは南の出身だと言った。砂漠の民が住む独特の文化の地方だ。てっきり霊魂に関連する者達は皆、この世ではないどこかに住んでいると思ったが、そういうわけでもないらしい。
「ここから南東にあるだろう。人間達の大陸国。あれはいまいち理解できない。年齢も性別も血筋もばらばらで、信仰とやらの組み分けだけで争う」
「人間って、そんなもんよ?」
「知ってはいたが、目の当たりにすると……」
「うはは、カルチャーショックかい? そうだねぇ……君に分かりやすく説明するなら、魔力かな。人間には同じく恐ろしいモンスターでも、闇と聖のモンスターは大抵対立するだろう? 信仰も同じだ。君には同じ人間同士に思えても、実際は全く別物だ。人間達の信仰は、実に深い争いの種だ。君のところのように分かりやすいのは、砂漠の民かな。信仰は一つしかなくて、血統がそのままその者の運命だ」
「以前、住んでいた」
「そうなんだ!」
「太陽の神を祀る民だろう? 文化をよく知らなくて、散々荒らしたし、荒らされた。俺も酷い言われ様だ。疫病を撒き散らす悪魔だ、神の使者だ、誰それの生まれ変わりだ。果ては、神だ。俺が神に見えるか?」
「あっはっは!」
「その、信仰とやらは覚えないとならないものか? 俺はただ正体を知られずに静かに過ごしたいんだ」
「うはは、どうだろうねぇ」
セクメトは自分と違う視点で人間達を見ていた。自分達は人間の血を糧にするため血肉については詳しいが、セクメトと出会うまで、人間達の信仰や宗教について全く気にしたことがなかった。
信仰者スピロ
これは、血族の元を去り、半世紀ほど過ぎた頃の話だ。
南東に位置する大陸国は、大きくなりすぎた人間の国で、自分が拠点にしていた末端の地では、ほとんど国として機能していない無法地帯だった。喧しいわりに夜は静かで、自分のような闇を司るモンスターには潜みやすい地だ。自分も若かったのだろう。砂漠の民のいる地域にいた時は、たまに人間がモンスターに殺されようが気づかれなかった。ましてやこの無法地帯なら、一人二人がモンスターに殺されようが気づかれないだろうと高を括っていた。
レンガ造りの家々が並ぶ街中を歩いていると、点々と古い建造物を目にする。どういった目的の建物か知らないが、魔法で造られた気配は一切しない。モンスターが造ったものだろうか。人間が造るにはあまりにも綺麗に左右対称で、中に入ると、自分の数十倍の高さがある天井は細かい模様や色合いが豪奢で、ステンドグラスから射し込む陽が美しすぎて目を奪われた。おそらく、自分よりも長い年月を経ている建物だと思われる。こんなにも美しい建物を、百年と生きない人間達が作り上げたのかと、底知れない脅威と興味を感じた。周りには、後から集まったであろう、少しだけ聖のモンスター達の気配はある。この程度、害はない。
「どなたですか?!」
突然、室内に叱るような声が響く。思わず物影に隠れてしまった。広く高い天上に反響して、それはあの世の声のように四方八方から聞こえてくる。
「ここは聖神な場所です。何人たりとも穢すことは赦されません」
初めて見た服装の男だった。話を聞いて知ってはいたが、実際見るのは初めてだ。いくつかの模様の刺繍で飾られた長い布を全身にまとっている。
彼はここの地域の者だろうか。街中には様々な血筋が混在している。遠い地のよく知らない血筋だということ以外、彼のことは分からない。
男は近づいてこない。警戒しているのは一目瞭然だった。
「福音の教えの者ですか」
「……」
「ここでは靴を脱いでください」
続いて男はあれこれと話をしてくる。建物の中ではこうするああすると、躾のなっていない子を叱るかのような口調だ。
「もしや、敵か」
次に男はそう尋ねてくる。ヨアンは答えない。
「……」
「もしくは、移民か。悪いことは言わない。ここは福音の者は迫害される。その服装からして福音の者だろう? ここは去るといい」
男が何か説明してくる。自分を見逃すような言い方だが、ヨアンが見逃すつもりはなかった。
「昨夜も、おまえと同じような男が倒れていた。首を縛られていた」
「何の話だ? まさか、おまえがやったのか」
「おまえも同じ血筋だろう?」
ヨアンは男の胸倉を掴み上げると、小石でも投げつけるかのように軽々と男を地面に叩きつけた。
「ぐうっ! おまえ……!」
「さぁ、安らかに眠れ。おまえは痛みを感じない」
じっと男を見つめてヨアンが囁く。僅かな抵抗は無意味に終わり、夜が明けきらない早朝、男は死体として発見された。
町で暴動が起きたのは、それから一週間もしない頃だった。朝陽がまだ眩しい早朝に、それは静寂を切り裂く悲鳴で幕を開けた。後から町の人々の声で気づいたのだが、男を殺した場所は町の集会所のような場所だったらしい。レンガ造りの家の中で状況を眺めていると、一人の男が近づいてきた。先日の男と似たようで少し違う、知らない血筋の男だ。
「こんなところにいたら殺される。さぁ、急いで!」
小声で男は告げる。誰かと間違えているのだろう。自分の人間ではない手を易々と取って、男は自分を連れて走る。家から出て、狭い路地を抜けて、隠された瓦礫から地下室へと入る。
湿気る冷たい地下に、十数人の人間達が潜んでいた。南の者、男と同じく知らない血の者、東の者、その他血筋は散らばっている。
「しばらくここに隠れよう。神は決して私達を見捨てない」
いくらかの人々が天へ祈りを捧げる。何をしているのか不思議に思えた。
「私はスピロだ。あなたは?」
「ヨアンだ」
「ヨアン、よろしく。こんなに冷えきって。もう大丈夫だ。あなたはここの町の人ではなさそうだね? 移民かい?」
改めて握手を求められ、なんとなく応じた。人懐っこい笑顔でスピロは笑う。汗ばんだ体臭の奥に南の知っている血筋を見つけた。
「いや、旅人だ」
「それは最悪だ。ここは紛争が多い。同じ福音の者なら、できるだけ北に逃げるといい」
「よかったら……この地域のことを教えてほしい」
「あぁ、喜んで」
暗闇に蝋燭の火が灯る。ヨアンの真っ赤な瞳にスピロが驚き後退る。本能的に一歩、彼に近づき、遠のいた。逃げる人間を面白いと感じた自分に、戸惑った。
「あ、あはは。失礼」
「……悪魔だ。悪魔の目だ」
一人の青年が呟く。青年の隣にいた女が怖がり距離を置くが、スピロは笑って手を振る。ヨアンは着ているマントは脱がない方がいいと判断した。
「悪魔なら最初から誘惑の言葉を囁くだろう。あんなところに避難していない。服装からして北から来たのだろう? ここは危険だ。北に戻るといい」
「……何故、危険なんだ?」
「あなたも福音の教えの者だろう? ここら一帯は預言の導きを信じる者が多い。それで毎回争っている」
スピロは丁寧に教えてくれた。この町には二つの信仰があり、それぞれ教えが異なり生活も違う。その対立で大小含めたら毎日のようにどこかで争いがあるという。説明を聞く限り、彼らは弱者で、先日の男が強者のようだ。客観的には同じようなものに思えたが、当事者同士は文字通り死活問題らしい。
「預言の導きを信じる者も、福音の教えを信じる者も、どちらも土地を巡り争っているだけだろう。何故、住み分けない」
「ふふ、そんなことができたらいいね。戦争がなくなったら、この子の住む世界はきっと優しい世界になる」
スピロの妻であるヘレンが笑う。彼女は身重で何度となく苦痛に呻き声を上げている。もう数日と待たず新しい命がこの世に誕生するという。彼女の簡易的な布をまとっただけの服装より、髪をまとめあげて晒される首や露出した腕が、なんとも魅惑的に見えた。
「(話に聞いて知ってはいたが、妊婦とはなんて面白いんだ。ヘレンの香りにスピロの香りも混ざり、複雑で、宿る命の香りがどれだか分からない)」
「そんなに見つめて、不思議? 触ってみる?」
柔らかい布に凭れかかって、ヘレンが笑って大きな自分の腹をさする。ヨアンは恐る恐るそこに手を添えた。
「…………」
「冷たい手。大丈夫?」
「あぁ」
耳を近づけなくても、そこにヘレンと違う鼓動があることははっきり聞き取れる。思ったより硬い腹は風船のようで、しかししっかりと脈を打つ。ヨアンは自然とヘレンを見上げた。薄明りの中でも分かる、金に近い明るい茶色の目と髪をして、そばかすのある顔は少し汗ばんでいる。
ヨアンは口で大きく息を吸い込んだ。無意識に開いた唇を閉じて、いくらか視線を泳がせた。
「すまない、失礼する」
知らない血に、とてつもなく興味が湧いた。幸い、美味しそうとは思わず、血に飢えてもいない。ヨアンは一言だけ告げると地下室の奥へと姿を潜ませた。
数日後、出産の時は突然訪れた。不幸にも、ここには産婆も医者もいない。新鮮な水も清潔な布も限られている。スピロは相当慌てふためいた。彼ら夫婦の友人らしい女が、少年を引き連れてヘレンの介抱にあたった。
悲鳴と呻き声が地下室に響く。ヘレンを取り囲む人々に巻き込まれまいと、ヨアンは遠目にそれを聞いていた。
「(人間は、百年と生きない。代わりの分身のように、これほど短期間で子を産む。それも、こんなに苦痛に満ちたかたちで。痛みを伴いながら種を紡ぐなんて、いつか滅びないだろうか。人間が滅びたら、我々はどうするのだろうか)」
ふと、ぐわりと視界を歪ませるほどの血の香りがした。すかさずマントに顔を隠す。平衡感覚を奪う強い香りとともに、人々のざわついた声が耳に届く。
「息をして!」
先程の女が悲鳴を上げる。なんとなく状況は察せられた。
ヨアンはそろりと取り囲む人々の傍に近寄った。いくらかの人達が悲鳴を上げる。少し先に、倒れたヘレンとその手を掴むスピロ、その傍らに二人の友人の女が赤子を抱きかかえている。
「(なんとも奇妙な肉塊だ。今なら分かる。こんなにも分身のように、ヘレンのようで、スピロのようで、全く違う血の者)」
「旅の方、何かご存じですか! この子を助ける知恵はありますか!」
「あぁ、この子を奪わないでください」
必死に何かを訴える人間達がとても不思議に見えた。彼らは全く魔力がない。こうやって祈ることしかできないのだろう。
ヘレンの香りは出会った当初から少しずつ変わっていた。はっきりと嗅ぎ分けられるようになった今、断言できる。あれは赤子の香りだ。赤子の鼓動は近いうちに止まる。この子は腹にいる時から血が死に始めている。
泣き続ける女達の前、スピロが膝を折る。天に祈る姿は独特で惨めに見えた。そんなことをしても赤子は蘇らない。この子には最初から魂が宿っていないか、産まれてすぐに肉体から離れたのだろう。霊魂だとしてもモンスターとして蘇らない限り、真実は自分には分からない。
「あぁ、神よ。私と、私の家族をどうかお守りください」
スピロがそう口にする。何度も呪文のように繰り返す。聞いた話では、死んだら皆、神とやらの下に赴き安全を保障され祝福されるらしい。彼らも死んだらそこで赤子と合流できるなら、とっとと死ねば良いのにと思った。そういう問題でもないらしい。
赤子は地上に戻ってから埋葬されるそうだ。ふと思ったのは、これで赤子がゾンビにでもなったらスピロ夫婦はどうするのだろうか。話の中で分かった、彼らが悪魔だなんだと嫌う側は基本的に闇のモンスターだ。自分もゾンビも、おそらく対象だろう。
「静かに!」
スピロが小声で叫ぶ。彼の声と重なってドンドンと何かを叩く音が地下に響いた。
「見つかった……?」
一人の女が呟く。あれだけ呻き声を上げたのだ。見つかっても仕方ない。
少年が母親に隠れるように身を潜めた。ヘレンは奥で寝ている。スピロは身を低くして、奥へと後退った。
「ヨアン、こっちへ」
スピロが手招きをする。蠟燭の火は手際よく消されていった。
「預言の者なら、迎え討つ。手伝ってくれ」
室内の奥に隠されていた短剣を手渡される。
「……」
「あなたも福音の者なら、分かるだろう。どちらが異端だ。我々が迫害され続ける筋合いはない。すまないが……あなたを庇えるほど余裕がないかもしれない」
「……」
スピロの目に闘志が宿る。いくらか人を殺したことのある目だ。ヨアンは闇に溶けるように奥へと退いた。
ドンドンと響く音が急に一発の大きな音になる。続いていくつもの足音が聞こえてきた。闇に潜むスピロ達の前に松明の光が届き、一人、また一人と影が見えてくる。先日の長い布をまとった男達だった。
「うぐっ……!」
闇から生えたように、剣が男の腹を突き刺した。反撃に振られた剣は、闇の中の人物に当たったようで、そこからも呻き声が漏れる。それを皮切りにスピロは闇から抜け出した。
「はぁあ!」
狭い地下室の中は建物を支える柱がいくつかある。それを盾にスピロは素早く剣を振り回し、手際よく相手の背や腹、首を斬っていく。
「ぐあぁ!」
「助けて……!」
「いやぁ!」
「くそっ、行かせるか!」
それでも次々と現れる相手の数に対応しきれない。無惨に殺されていく仲間の死体をくぐり抜けて、スピロはヘレンの元へと駆けつけた。
「ヘレン!」
間一髪のところで、スピロは侵入してきた男の剣を振り払ってヘレンの前に立ちはだかる。死んだ赤子を抱きかかえたままヘレンは恐ろしさに身動きが取れない様子だった。
「逃げろ、くそっ!」
相手の腕を斬りつけてスピロが叫ぶ。ヘレンは微々たる動きしかできず、それに気を取られた一瞬、今度はスピロが腹に傷を負った。もう一度二人の男達が剣を振り払う。が、どちらも大きく弾かれて思わず地に手を、膝をついた。
「静まれ」
短剣が松明の火を反射して光る。ヨアンだった。
「無駄に俺の前で血を流すな」
「ならばここから出ていけ、異端の者ども!」
「異端はおまえ達だろう!」
いがみ合う二人の間で、ヨアンは静かにお互いの剣先を下ろさせる。あまりに強い力で下ろされ、二人してヨアンを見返した。
「何故そこまで争う。おまえも、スピロおまえも、おまえ達は同じ、南の砂漠の民の血を引いた、遠い地方の血筋だ」
淡々と話すヨアンの言葉に、ふと二人は互いに互いを見合ってしまう。確かにヨアンの言うように、二人は同じ薄い茶色い目をして、似たような濃い栗毛で、少し目鼻立ちのしっかりしている顔をして、背丈も近い。ヘレンの方が、むしろ異質な明るい色をしている。
「はるばる会えたのだろう? おまえが連れてきた他の男も、この地下にいる青年も、同じ血筋だ。同胞と何故殺し合う」
「ヨアン、あなたは福音の者ではないのか……?」
「何をくだらない。もしそれが本当だとしても、信じるものの違いは変えられない。我々に改宗しろと? 何を呆れたことを! 誰が不浄の者どもの教えを信じるか! 先に我々に手を出したのはおまえ達だろう!」
侵入者の男は叫ぶ。反撃するようにスピロも叫ぶ。
「いいや、おまえ達だ! でっちあげもいい加減にしろ」
「いや、違う。血を抜き取るなど、不浄の行いをしたのはおまえ達しかいない」
「何の話だ」
ヨアンは眉をひそめた。気になる一言があった。牽制された剣先を再度持ち上げ、侵入者の男は続ける。
「十日前だ。我々の礼拝の場にて、同志を殺害したのはおまえ達だ。あんな変死体にして、何のつもりだ。宣戦布告としか思えないだろう!」
「……ここから北の、白い建物のことか?」
「あぁ!」
「おまえくらいの年の、緑の装飾の茶色い服を着た男か?」
「……よく、知っているな」
スピロと侵入者の男は、目の前で顔を覆い酷く落胆するヨアンの意味が分からず見入っていたが、ヨアンが顔を上げると二人して背筋が凍った。ヨアンがマントに身を包みながら、鋭くこちらを睨むのだ。
「俺だ。俺がやった。まさか、こんなことになるとは思わなかった」
獣の牙のようなものが口から覗く様に、侵入者の男は怯えてヨアンに剣先を向けた。
「モ、モンスターの仕業だったのか!」
「ヨアン、おまえ、何者なんだ。福音の者では……ないのか……?!」
戸惑うスピロの剣を下ろさせて、ヨアンはじっとスピロを見つめる。
「一度もそんなことは言っていない。誤算だ。亡骸は埋めた方が良かったか」
「な……、俺達は、おまえのせいで……争って、皆は死んだというのか?」
「申し訳ない」
「ふざけるな!」
スピロが叫ぶ。声と同時くらいに、侵入者の男がヨアンの背中を斜めに大きく切り裂いた。
「……」
「た、倒れろよ……!」
裂かれたマントをたくし上げ、淡々とヨアンは侵入者の男に振り返る。無機質な赤い目に囚われ、侵入者の男は一歩、また一歩と後退る。
「あ……」
「これ以上、無闇に数を減らすな。人間が滅びては我々が困る。人間とは、こんなにも子孫を残すことが難儀なんだな。争ってもいいが、絶えないでくれ」
剣身を掴み持ち上げて、ヨアンはそれをわざと侵入者の男の喉に近づける。抵抗するも、ヨアンの力が信じられないほど強い。
「さぁ、ここは退いてくれ。俺が憎いのなら、いくらでも付き合ってやる。スピロ達には手を出すな」
目の前の男が何かを言いかけて、口から血を吐き出した。
ヨアンはゆっくりと後ろを振り向く。スピロが自分諸共、侵入者の男を突き刺していた。
「おまえのせいで、友が、仲間が殺されたというのか!」
剣を思い切り引き抜けば、侵入者の男は胸元から血を溢れさせてヨアンに凭れかかるように倒れる。それを抱き留めて、ヨアンはじっとスピロを見つめた。
「まさか、我が子が死んだのも、おまえのせいか!」
混乱して剣先を向けるスピロの姿はどうにも哀れで、侵入者の男を捨て置き、ヨアンは両手を広げてゆっくりとスピロに近づいた。
「うわぁあああ!!」
スピロの剣がもう一度ヨアンを斬ろうと振り落とされる。それは容易く掴まれ、下ろされ、離され、ヨアンはスピロをゆっくりと抱きしめた。
「濡れ衣だ。赤子は腹の中で既に死に絶えようとしていた。ヘレンが腹からあれを出さなければ、ヘレンも無事では済まなかったかもしれない。死んだ血は人間を殺す」
「う……あぁ……」
「おまえの血筋も、間違えていない。おまえが今し方殺した男とおまえは、同じ血族だ」
「あぁ、くそっ!」
「何故、同胞を殺す? その信仰とやらは、それほど偉大なものなのか?」
スピロが抵抗するも、ヨアンの腕は動かない。
「答えてくれ。純粋に不思議で仕方ない」
「誰がおまえの言葉を聞くか、悪魔め!」
最後に見たスピロの目は、人を殺したことのある残酷な目をしていた。
魔法道具アーティファクト
食事の後に死体を捨て置くと色々と面倒が起きると分かり、なるべく持ち去り自分で埋めるようになった。わざわざ棺を用意して埋めたスピロの遺体は、慣習的に首を切り落として足元に添えた。本当かどうか知らないが、モンスターとして蘇らないようにするための、おまじないのようなものだ。これも信仰とやらだろうか。よく分からない。
ただ、この埋め方がきっかけで殺人犯がモンスターだと知れ渡り、どうにも居づらくなり、土地を追われることになった。
顔の割れていない地を目指し、海を渡った。大陸の向こうとこちらで、人種は変わったが、あまり内情は変わらないように見えた。信仰というものは、そこでも相変わらず正体不明のままだった。
港町では、様々なモンスターが潜んでいた。国境の無法地帯と同じで、人々の行き交うごった返した雑踏は簡単に紛れ込めた。そこでしばらく、眠らない夜の店を転々とし、様々なモンスター達と出会った。食人鬼や狼男が密かに人間達のふりをして、小人や妖精が見つからないようにして、人間達の生活に紛れ込んでいる。そのうち、海や水を渡れないモンスターのことを知った。我々吸血鬼の中にもそういった者もいると聞くが、会うことは叶わなかった。
航海中、初めて人魚という者にも遭遇した。なわばりを荒らされたと思ったのか、彼らは容赦なく襲いかかってきた。彼らの中にも人間を吸血する者がいた。人間達の船に乗せてもらっている以上、転覆させるわけにもいかず、できる限り速く船を走らせてもらった。その間、彼ら人魚から船を守るくらい、造作もないことだった。気づけば自分は海のモンスターから船を救った英雄となり、魔女だとすら噂され、祝いの席を断る代わりに多くの路銀をいただいた。
だいぶ、北上した。便りで聞いている姉の住む町が近い。一度、姉のところに寄ろうかと思った。姉は人間達に正体を明かしてともに住んでいると聞く。
幻滅するだろうか。それとも、安心するだろうか。
知らない姉の姿を知りたいと思う一方、知らないままでいたい気持ちも同時に沸き起こる。
「(姉さんは、このまま人間達とともに歩むのだろうか)」
姉が血族の元に戻るようには思えなかった。歳月をかけて築き上げた関係があるだろう。興味だけで無闇に邪魔することは、どこか躊躇われた。
姉のいる町も、今しがた去った港町も、とある大きな大国の一つだ。この国は、出生が物を言う。以前にいた大陸国も内戦が多いが、あれとは似て非なるもので、町や村単位で、向こうはもはや別の国だったが、こちらは都以外は都に隷属し、蹂躙されている。
その中でも、自分はわざと弱い地域に住み着いた。その地域は隣国との境が曖昧なわりに、鷹下の雀のように権力ある都の言いなりで、やや混乱の最中にあり、紛れ込むにはうってつけだった。
とある小さな集落に拠点となる屋敷を構え、数人の人間を操り、地方貴族の真似をした。いまいち地域の文化に慣れず、孤立するように郊外に建てた屋敷だったが、それでも十分な役割を果たした。
偽りの貴族を演じるうちに、人間達の生活を覚え、操るのではなく雇うようになり、老いない姿に気づかれる前に定期的に拠点を変えるようになった。数人の使用人と暮らす様は、表向きは彼らを雇っているわけだが、実際は飼っている感覚に近い。彼らに餌を与え、外敵から守り、思考や嗜好を教えてもらい、時に無作為に喰らった。使用人である一方、彼らは食事であり、玩具であり、ペットであり、対等に会話のできる相手でもあった。彼らを雇うには、人間達の金が要る。そのために人間達の文化に紛れ込み、いつしか偽名を使うようになった。
生きている人間の近くでないと、満足に暮らしていけない自分がいる。姉とは違い、自分は遠目から人間達を眺め、時に他のモンスター達から人間達を守り続けた。ある拠点では、それ故に守護神だとか神の使いだとかに守られた地域と謳われ、独自の信仰が芽生えたことがあった。守護神だと祀るならばいくらか役に立てといたずらに流した噂は、簡単に血を手に入れる方法になった。いわゆる瀉血が流行ったのだ。大量の生き血が溢れ、初めて人間の狂気を恐ろしいと感じた。
この頃にセクメトと出会い、自分の考えるような血肉による分類、セクメトのような霊的な分類、そして魔力による分類を気にするようになってきていた。
とある崖の近くに小さな村があった。村といっても、工場のようなところで、そこかしこに洞窟があり、崖の近くは何度も爆発したような跡があった。
村は旅人で賑わっていた。旅人はほとんど商人のようだ。あちこちの店先で、あれやこれやと金勘定の言葉が飛び交っている。滞在する者がいないのか、村には旅人を泊めるような施設は一つもなかった。
「おぉ、そこの旦那! ここに来るなんて珍しい。あんた、エルフだろ? これがこんなに反応するんだ、相当な魔力の持ち主だ。是非うちの品を見ていってよ!」
突然、方位磁石のようなものを持った男に声をかけられる。ヨアンは己のマントに隠れるようにして、足早にその場を立ち去った。
「(何故魔力が暴かれた? 極力隠しているはずだが)」
恐ろしくなって逃げ出してしまったが、それでもヨアンは足を止めた。村全体が不思議な空間に包まれているのだ。だから、足を踏み入れた。あまりにも得体が知れなくて、面白そうで、心が弾んだ。
「(人間達の技術なのだろうか)」
物陰に潜んでも見つかってしまう気がして、ヨアンはもう一度人通りへ戻る。
「(よく見ると……あいつも……あれもだ。モンスターがいる。あれは、小人だろうか。地面の匂いが強すぎて、血の香りが分からない)」
ヨアンは物珍しそうに辺りを見回しながら、ふらふらと店を見て回った。
「……」
一際興味を惹かれる店があった。その露店の店先で、ヨアンは足を止めた。隣には頭に角を生やして、見た目は明らかに人間ではないのに人間の血を持つ男がいた。
「(なんだ、こいつは。角の生えた人間……?)」
「旦那さんよ、それ以上は値引きできんなぁ」
初老の店主があれこれと書かれた小さな冊子を捲りながら角の男に答える。やりとりを聞きながら、ヨアンは店先に並べられた品々に目を輝かせた。
見たことのないものばかりだった。総じてどれもが深く魔力を込めている。赤い宝石を埋めた指輪に、黒くぬめりのある輝きを持つバングル。何かに取りつけるのかフック状のものもあれば、細かい文字が大量に刻まれた鏡のようなものもある。
「……?」
ヨアンは引き込まれるように一つのブレスレットを手に取った。触ればすぐに意味が分かった。
「(光魔法だ。この、嵌め込まれた宝石のようなものが、強い光を放つように、促してくる)」
透明なビーズの一つ一つに、砕かれたような小さな宝石が埋め込まれている。その欠片がヨアンの魔力に反応して、何もしようとしていないのに、小さな光の粒を生み出した。
咄嗟に、ヨアンはブレスレットを投げ捨てるように手離した。
「……あ、」
「大丈夫か、あんた」
隣にいた角の男がヨアンに声をかけた。相手こそ驚いている様子だった。
「店で試しちゃだめだろう。ちゃんと試着場で試さないと」
「……試す? 試着場?」
「あんた、試着場を知らないのか?」
「……なんだ、それは」
「はは、あんた、エルフかい? 作っている側は知らなくて当然か」
「……?」
明らかに理解していなそうなヨアンに、角の男は楽しそうに説明する。
「アーティファクトは分かるだろう? あんたみたいなモンスター達が作ってくれる道具」
「……」
「あんた、そこから知らないのか?」
さすがに怪しまれると思い、ヨアンは知らないなりに首を横に振った。
「いや……」
「あぁ、そうか、実際に商品として並んでいるところを見る機会はないか。あんた達が作ったものを、俺達はこうやって加工して使っている」
男の話を整理するとこうだ。
アーティファクトはそれそのものが魔力を持ち、また持ち手の魔力を増強させる道具で、人間と親しいモンスター達——エルフや小人、妖精といった聖のモンスター——が大本を作成し、この村の職人達が実際に人間達が扱えるように加工しているという。
「エルフ製だと高すぎるし、それなりに魔力を持つ者じゃないと扱いきれないからな。宝の持ち腐れになってしまう」
「……その角も?」
「あぁ、正解。これもアーティファクト。光属性で、雷が撃てるようになる」
「……」
「あんたがさっき持っていたブレスレットも光属性だな。光属性は得意分野か?」
「……どれも、特に変わらない」
「さすが、エルフは違う」
男はバンドで支えていたらしい角を外して見せると、それをヨアンに差し出した。言われるまま恐る恐る手に取ると、やはり光属性だとすぐに感じ取れた。
「……ブレスレットより、これの方が魔力が強い。電気に特化させているから、雷なのか」
「鑑定の目があるのか! な、なぁ、それなら、あっちの店で一つお願いしてもいいか?! 掘り出し物を探したい!」
「?」
角の男が人通りの奥を指し示す。このままエルフのふりをするのも悪くないと、ヨアンは角の男の言うままについて行った。
何件か見て回るうちに、ヨアンもアーティファクトについて詳しくなっていった。人間ではないとはいえエルフだと言えば歓迎された。今は魔力を込めた宝石について詳しくないが、今後、これを隠れ蓑にするのは良い案だと思った。
「ありがとう、とても有意義だった。晩飯くらいおごらせてくれ」
「気持ちだけいい。人間の食事は口に合わない」
「そうか。生き辛そうだな、エルフっていうのは」
「生き辛い……のか、俺は」
角の男の他愛のない一言に、ヨアンの表情が強ばる。咄嗟に角の男は取り繕い笑うも、ヨアンは狼狽えるだけだった。
「失言だったか、すまない」
「あぁ、いや……」
「今日は、もう、帰るのか?」
「あぁ」
「またここで会えたら、よろしく頼むよ。よかったら名を聞いていいか?」
「……もう、ここへは来ない」
「そうか」
角の男が残念そうに、最後の握手を求めた。ヨアンは快く受け入れた。
この村を覆う不思議な感覚の正体も、アーティファクトによるものだった。試着場というものは実際に魔法を試せる場所のようで、だからあんなに近辺の崖が崩れていたのかと、妙に納得できた。
品々を眺めながら、気づいたことがあった。まず、以前の大陸国だ。一昔前のこととはいえ、彼らがこういったものを使った形跡はない。海を渡りこちら側に来てから、度々こういったものを目にした。文化の違いなら、国と国が争いでもしたら大変なことになる。加えて、例えば、魔女と呼ばれる人間だ。彼らは自らの魔力を操り、様々な魔法を扱う。その膨大な魔力を制御する術を持ち、だからこそ魔女と呼ばれ畏れられる。しかし、ここにあるアーティファクトを用いれば、才のない人間、特に大陸国にいたような魔力を持たない人間にすら、魔法が使えてしまう。
少し、危ういと思った。普段から魔力を制御する術を知らない人間に、もし魔女並の魔法が発動できたら。
その懸念は、後に現実となった。
それは内戦の最中、唐突に起きた。敵味方関係なく、そして自分も、何もかもを飲み込んで爆発が起きた。木っ端微塵に破壊された町は、辺り一面焼け野が原と化した。いくつかの建物の骨組みを残すだけで、見る影もなく、人間だったであろう骸らしき煤を点々と残すだけだった。
「……ぉ……あ……」
かろうじて人間だと分かる黒い骸が、まだ意識があるのか、それともただ空気が物理的に抜けただけなのか、意味を持たない呻き声を漏らし、そのまま煤となって死んだ。
あちらにも、こちらにも、時を止めたように、何もかもが爆発に飲まれ、灰となり、煤となった。町にばらまかれた魔力の破片は、分かるだけでも光や水、火といった属性が複雑に絡んでいる。これでは人間は、直撃していれば自分も、ただでは済まなかっただろう。降り注ぐ魔力の残骸は自分には些細なものだが、もしかしたら人間にはそれでも悪影響があるかもしれない。
「……凄まじい威力、だったんだな」
何も残っていない。町が一つ、消えている。灰が降る町で、それでもしっかりと原型を残す己の棺は、古の時代から掘り起こされた化石のように、場違いに存在を主張していた。
自分自身は、棺のおかげで無傷だった。それよりも、問題は二つあった。一つは吸血欲だ。眠りを妨げられ無理矢理に叩き起こされたせいで、じわりじわりと体から蒸発していくように血に飢え渇いていく。もう一つは棺だ。己が百年と眠らないように、棺は盾となりその機能を失った。代わりを用意しなくてはならない。さすがに手ぶらの状態は、どうしたって脆い。別に死にはしないが、だからといって無敵ではない。
一瞬で亡くなり死を受け入れられない霊魂が化けて出て、状況説明を求めるようにそこかしこで叫んでいる。それに釣られて死霊が、そしてハイエナのようにゾンビ達が、ここぞとばかりに町に引き寄せられてきた。無慈悲に殺された迷える霊魂を、待ち構えていたように闇から黒くて大きな網が、大きく口を開き飲み込み再び闇へと消える。どこからか湧いた、遠くから目を光らせていた四つ足の獣様の食人鬼達が、機会を伺うようにじりじりと自分にも近づいてくる。
「鬱陶しい!」
モンスターしかいない今、何も気にすることはない。渇きに蝕まれ苛立ちも沸き上がる。吹っ飛ばしてやろうと放った火の弾丸は、空中の魔力に引火したように大きな爆発を起こして自分諸共吹き飛ばした。
体のあちこちが痛む。八つ当たりがそのまま自分に返ってきた。瓦礫からゆっくりと立ち上がり、使い物にならなくなったマントを剥ぎ棄てる。防ぎきれずに焼かれた眼球や睫毛、火傷を負った額や頬はすぐに癒えていく。反するように急速に体が渇く。
「……あぁ、あ……やめろ、渇くな……やめろ……!」
町は灰になり、人っ子一人いない。棺もない。眠りから覚めやらない頭で、まとわりつくゾンビ達を凪ぎ払いながら、ヨアンは消えた町から森の奥へと、着の身着のままで彷徨った。
青年騎士エフィーム
痛い。喉の奥が裂けるように痛い。体のあちこちが内側でひび割れるように軋んで痛い。歩くたびに体中が刻まれるように痛い。
おまけに、どうしようもなく眠い。眠くて、眠くて、頭が回らない。眩暈もする。体が鉛のように重い。思うように動かない。
牙が痛い。酷く疼く。牙だけ冷たく熱い。痛い。
血が欲しい。人間の生き血が欲しい。
叶わぬならせめて今すぐ眠らせてくれ。
血が足りないんだ。血が、
「……落ち着け……、……落ち着け!」
ないはずの心臓が鼓動を打つように、体内で何かが脈打つ。これこそが吸血欲だと、ヨアンは何度も浅く、深く、呼吸を繰り返す。
「(問題ない、正気だ。この程度で気を狂わせてたまるか。まだ、歩ける。まだ、耐えられる)」
情を制御する術は、幼い頃から嫌というほど学んできた。容赦なく厳しく躾てくれた父親のおかげだ。
太陽と月が何度も空を巡り、荒れ果てた景色が次第に元の森の姿になる頃、木々を縫うようにひたすら歩き続けた先で、前方からものすごい勢いで馬が駆ける音が近づいてきた。
「……男……」
ぽそりと、独り言が口をつく。風とともに横を駆け抜けた馬は五、六頭で、銀色の甲冑をつけた騎士らしき人物が乗っていた。ほんの一瞬だったが、薄い茶髪のまだ若い青年と、壮年の男は確認できた。
至近距離とはいえ、あの一瞬で、騎士らしき者達のどれかは好みでない東の大国の純血の男だと、嗅ぎ取った自分がいた。
「(問題ない。香りに惑わされない。まだ、平常心だ。問題ない)」
馬が嘶く。つられて、音のした方角に耳を澄ます。
「悪魔に呪われし者よ、聖騎士の聖剣によって退治する!」
先程の騎士らしき男の声が聞こえる。興味と欲望のままに、ヨアンは彼らの後をつけていった。
騎士らしき者達は剣や弓、槍を掲げて、村人達に襲いかかっていた。火の放たれた燃える家屋から、家畜の悲鳴が聞こえてくる。
「逃げろ!」
「やめて、娘を返して!」
「悪魔め!」
「死をもって償え!」
村人が叫び、騎士が罵声を浴びせる。その様を見ながら、ヨアンは口元を綻ばせた。
「(村人はどれも混血だ。騎士は……ほとんど都の純血だ)」
「神の慈悲を与える。最期に言い残すことはないか」
「あたしらが何したっていうの! あんた達こそ悪魔じゃないか!」
ある民家で、壮年の騎士が話す。大剣を向けられた妙齢の女は騎士を睨み罵声を浴びせるも、言い終わらないうちに剣は女を貫いた。その傍らに、殺された女と同じくらいの年の男が槍を持つ青年騎士に捕らえられ、大声で叫んだ。
「殺してやる!!」
その言葉に反応するように、壮年の騎士は大剣を頭上に振り上げた。
「誰だ!」
壮年の騎士が矛先を青年騎士の方に向ける。青年騎士が驚き後ろを見やると、捕まえている男のすぐ後ろに知らない姿があった。黒いロングジャケットの、金髪の男。吸血鬼ヨアンだった。
ヨアンは髪を乱したまま、ゆっくりと顔を上げた。後ろ手に捕まれている村の男を青年騎士から引き離すと、ヨアンが代わりに腕を掴み、雑に男の髪を掴み上げた。
「見つけた」
焦りと怒りに満ちた、敵意のある顔だった。その赤い眼が自分に向けられたわけでもないのに、青年騎士はたじろいだ。
壮年の騎士がヨアンに剣先を向けたまま、口を開いた。
「何者だ」
ヨアンは淡々と壮年の騎士を見返してから、青年騎士の槍に飾られた国旗に視線を移した。
「……この国の騎士団か」
「あぁ、我々は聖騎士団だ。私は第五騎士団長イヴァン。今、刑罰の最中だ。邪魔をしないでもらいたい」
「……刑罰…………」
「そいつは罪人だ。我々が処刑しなくてはならない。そこを退いてくれ」
「……」
ヨアンは視線を壮年の騎士に戻す。氷のような冷たい視線に、彼の顔は強ばった。腕を掴まれた村の男はヨアンから逃げようとするも、びくともしない。
「なん、だ、こいつ、は、離せ! 誰だ、おまえは。俺はこんな奴知らないぞ!」
「……事と次第によっては、貴殿から裁かねばならなそうだが?」
青年騎士も槍をヨアンに向ける。周りからは悲鳴や家屋の倒れる音が響く中、数秒、この空間だけ静寂が流れた。それを破ったのは村の男だった。
「助けてくれ。こいつ、人間じゃない! 離せ、離せよ! なんて馬鹿力だ!」
「モンスターか」
壮年の騎士が改めて体勢を整える。
「国を脅かすモンスターならば、この聖剣で成敗してくれる!」
壮年の騎士が二人諸共斬り殺そうとするも、ヨアンはさらりと刃を避ける。遅れて青年の槍が村の男を刺そうとして、代わりにヨアンを貫いた。
「う、うわ、あぁ、違う、俺、俺は、おまえを刺そうとはしていない!」
「エフィーム、落ち着け!」
「ひぃい!」
しっかりと槍はヨアンの脇腹を突き抜け、反対側に矛先を見せた。村の男は完全に怯えきっていた。ヨアンがジャケットの襟を正し髪をまとめ、わざと分かるように正体を明かす。青年騎士は槍を持ったまま引き抜くに引き抜けず、慌てた様子で壮年の騎士に助けの視線を送った。
「その耳。やはり人間ではないな」
「……貴方達と敵対する意思はない。この男の血が欲しい」
「吸血鬼か」
「た、助け、助けてくれ」
ヨアンの言葉に、男は逆に騎士団に助けを求めた。壮年の騎士がもう一度男を処刑しようと剣を振りかざすも、ヨアンが明らかに盾となり邪魔に入る。ヨアンは男の顔を無造作に掴むと、淡々と男を見つめ言い放つ。
「眠れ。おまえは、目覚めることを知らない」
「何をしている。そこを退け!」
「……」
「その罪人を貴殿に渡すわけにはいかない。我々の聖剣をもって裁かなければ救いにならない」
「そこかしこから聞こえる……”聖剣によって退治する” というやつか?」
「あぁ、そうだ。穢れた魂を聖剣をもって解放し、浄化する。モンスターに喰わせるわけにはいかないのだ。邪魔をしないでもらいたい」
「そうか、残念だ……」
ヨアンは槍を自らから引き抜くと、壮年の騎士に手を伸ばした。村の男は急に黙り込んで膝をつき俯く。カランカランと強い音を立てて、槍が床に投げ捨てられた。
「イヴァン、俺を忘れろ。おまえは俺と出会わなかった」
自分より少し大きい壮年の騎士の胸ぐらをいとも簡単に引き寄せて、吸血鬼が壮年の騎士に囁く。
「……何を、して……いるんだ……」
一人、取り残された青年騎士が困惑する。壮年の騎士も、村の男も、二人とも吸血鬼の言葉の後に項垂れてしまった。その様子の一部始終を、彼は見届けていた。
すかさず槍を握り直して矛先を向けるも、青年騎士はゆっくりと矛先を下ろしていく。目の前の吸血鬼がぐらりと大きく揺れて、そのまま壮年の騎士や村の男とともに膝をつく。浅く肩で息をして、何かを懇願するように顔を向けてくる。
「や、やっぱり腹の傷が……」
「大人しく、して……いてくれ。エフィーム、おまえは何も見ていない」
「何故、俺の名を」
「…………エフィーム……だよ、な?」
「……あ、あぁ」
吸血鬼が次第に目を見開いて、不思議そうにこちらを見つめてくるので、青年騎士も反射的に答えてしまった。ヨアンは少し狼狽えて、頭を抱えて話す。
「……そこの、騎士が……貴方の、名を……」
勝手に面食らったように、ヨアンが言葉を選びながら青年騎士に答える。青年騎士も、状況が掴めず狼狽えた。
「あ、あれ、そうだったか。まぁ、いいや。退いてくれ。まずはこっちを裁かないと。おまえのことはその後だ」
項垂れる村の男の前に立つと、青年騎士は槍を持つ手に強く力を込める。ヨアンは咄嗟に村の男を庇おうと手を伸ばすが、青年騎士は相手を見つめたまま動かない。
「……?」
「くそう……!」
青年騎士は躊躇うどころか、矛先を収めて顔を手で覆った。
「……できない。悪魔に呪われていようが、こんな、無抵抗な人を、殺せない……!」
悔しがるような怯えるような青年騎士の様子に、ヨアンは小首を傾げた。青年騎士は慌ててヨアンに振り返る。
「お、おまえだって、さっきのは、わざとじゃない!」
「……」
「あの、腹の傷は……大丈夫なのか……?」
「…………ふふ、貴方は、私を心配するのだな」
辛そうにヨアンが微笑む。刺されたはずの腹から血を流すことはないが、それでもやせ我慢のような笑みに、青年騎士は自然と手を差し伸べた。
「……あ、えっと」
手を取る代わりに視線が突き刺さる。何かを耐えるように一度大きく深呼吸をしてから向けられた視線は、殺意のような、情欲のような、ぎらついた目をしていた。
殺される。
そう直感した。青年騎士は己の血の気が引くのがよく分かった。
「え、あ……」
「……エフィームと、言ったな」
ゆっくり立ち上がり、軽々と村の男を肩に担ぎ、ヨアンは怯えて眉を下げる青年騎士の槍を掴み下ろした。
「私はヨアンだ。貴方達の、その信仰とやらに興味が湧いた。数分、待ってくれないか。少しでいい、もう少し、貴方と話がしたい」
「あ、待て、その、逃がされては困る!」
「逃がしはしない。生きたまま返せる自信はないが、必ずこれをここに戻そう。後で供養してやってくれ」
「え、あ」
咄嗟にヨアンを呼び止めるも、不思議で恐ろしい眼差しに、青年騎士は気圧されてしまった。ヨアンは瞬く間に姿を消した。
「…………あぁ、もう、限界だ……!」
声を絞り叫ぶ。青年騎士は暗示にかからなかった。万全なら暗示にかかったかもしれないが、元から耐性のある人間だったのか、正直どちらか分からない。自分の中で、興味と欲望が揺れていた。もう少し話をしたい。けれど、もう楽になりたい。会話をして幾分か気は紛れたが、痛みは増すばかりだ。加えて、暗示は地味に体力を使う。
暗示にかかったままの獲物は、無抵抗で自立すらしない。民家の裏手にあった物置小屋で、男を立たせるように脇腹を抱えると、その首筋に牙を立てた。
「うぅ……おま、え……は……!」
痛みに我に返ったのか、男はヨアンから逃れようと抵抗するも、ヨアンはやはりびくともしない。
「……ぐっ、……くそったれ……」
激痛とともに牙が抜かれる。腕は離れても顎を掴まれ、男は頭を強く壁に打ちつけた。それでも男は必死にその手を剥がそうとするが、まるで無意味な抵抗だ。男はヨアンを睨みつけようとして、ぞっとした。
真っ赤な満月のように、ちらちらと燃え上がる町の火を受けて光を返す眼。淡々と、無機質に、猛禽類が獲物を狙うように、自分を値踏みするように視線が深く突き刺さる。薄く開かれた唇は、血に濡れた牙をしっかりと見せる。吸血鬼がゆっくりと深呼吸をした。
「…………はぁ……」
大きなため息をついて薄く微笑んだ姿はどこか満足げで、恐ろしいモンスターのはずなのにやけに艶やかで美しく感じた。吐息も、本当なら血生臭いはずで、周りもこれだけ争い火の手があがり焦げ臭いはずなのに、吸血鬼から木造の新築の家のような、樹木の密のような、不思議な香りがした。
「……うぅ……」
もう一度噛みつけば、男は押し殺した呻き声をあげて完全に意識を手放し、もう一度項垂れる。
「(潤せ。俺を、満たせ)」
生き血だ。この、人間の熱い生きた血。
喉を通り、体中に染み渡るように広がる熱が、痛みを包み込んで消し去っていく。重かった体が軽くなって、気怠い眠気も吹き飛ばし、次第に頭も冴えてくる。とてつもない解放感に加えて、妙な興奮も沸き起こる。この男の持つ血の影響か、渇きすぎた反動か、強い高揚感がする。
きっと、反動だ。眠りが十分ではなく、負傷もした。選り好みなんてせず、手当たり次第噛みつきたかった。そんな野生染みた吸血など、己の矜持が許さない。だから、獲物を一人に絞った。極力一番好みの人間、一人に。熟した人間の男なら、南の海の民の混血が格別に良い。
きっと、この酔いしれそうな感覚は、そのせいだ。
「…………やりすぎたか」
吸い上げられなくなった血の変化に顔を上げると、もう血の一滴も残っていない男は肌が不気味に白くなっている。死体を見慣れた者ならいいが、あの青年騎士はそうではないだろう。
ヨアンは死体を抱えて先程の民家へ戻った。そろりと中を覗く。期待はしていなかったが、青年騎士も壮年の騎士も、いなくなっていた。
「……」
気づけば、村には聖騎士の姿はなくなっていた。数分では戻れなかったようだ。遠くで、うっすらと馬の蹄の音がする。見渡す限り民家から炎があがり、生きている者の気配は家畜一匹とていなかった。
使用人エリー
聖騎士エフィーム。もう一度会うことは可能だろうか。ヨアンは再会を期待しつつ、国境の混沌とした地域をしばらく流浪していた。そのうちに、一つの町に拠点を置いた。
セクメトの知り合いに、棺を含めた埋葬の専門家がいた。棺の用意はその者との連絡も含め、全面的に彼に任せることになった。できれば直接依頼したかったが、その者はこの世には来られない体質のようで、逆に霊体離脱などできない自分とは、会合しようがなかった。
本来、自分の血族は、一人一つの棺を持つ。成人する子へと、親からそれが贈られる。果てしなく永い一生を、その棺とともに過ごすのだ。それはシェルターであり、揺り籠であり、永い生の中の死であり、いのちを預ける場でもある。並大抵の衝撃では、壊れないものだ。
それが壊れたのだ。件の町は、後にアーティファクトのせいで起こった事故だと判明した。たまたま自分が巻き込まれたのか、それとも自分の魔力が何か作用したのかは、今となっては分からない。先何十年と、そこは人間の寄りつかない地域となり、魔力を求めるモンスター達のたまり場となり、世紀を跨いで独特な結界の張られた地域となった。
「聞いたよ、散々だったねぇ。おかげで君の魂がより一層輝いた。冥界のご馳走だ」
「……おまえも飽きないな」
「挨拶だ、挨拶! 君だって人間の値踏みくらいするだろう? なんの血筋だ、なんの種類だ。一緒だって。苦悩とか享楽とかそういうのを経験して、魂は驚くほど輝くもんなんよ。冥界にとっちゃあ、美味しいご馳走だ」
「へぇ……それなら、俺の血族はさぞ不味いだろうな」
「ほんとそれ。みんなせっかく上質なのに、死ぬまでに君みたいに旅に出てくれないかなぁ」
「おまえなぁ」
声を潜めて笑うセクメトは、ヨアンが住む屋敷のリビングで、二階を見上げながら楽しそうに呟いた。
「使用人も二階に住まわせているんだ?」
「俺が使わない」
「ほぉん」
「基本的に、俺はここに居ないだろう?」
「だから、心の距離が遠いのよ」
「何の話だ」
「気づかないかなぁ。君の使用人でしょ? たぶん、このままだと一人死んじゃうよ。嫌な運命に片足突っ込んでる。幼くて無垢なほど、染まりやすいからねぇ」
「……もしや、エリーのことか? 一番年下の」
「なんだ、気づいてるなら話は早い。あの娘さぁ、君があまりに無神論者のせいで、良くない方に心が傾いてるんだよねぇ」
「……無神論者のつもりはないが」
「あの娘にはそう見えてる。君はもう少し人間達の宗教だとか歴史だとかを知ってた方が良いんじゃないかなぁ。人間に紛れて暮らしているんだろう? 郷に入れば郷に従えってやつ」
「そうだよな……」
「早い方がいい。その娘ちゃんのためにも、早いうちに環境を変えてあげないとねぇ」
「環境?」
「例えば、その娘が祈る場所や仲間がいそうな、町中に引っ越す、とか?」
「……ならば、そろそろここを畳むには良い頃合いか」
「おぉ、喰っちゃうの? 君が血に濡れてくれるなら、自分としても大歓迎だなぁ」
「へぇ? 初耳だ。おまえも血に興味があるんだ?」
「まぁねぇ。で、どうするの?」
「ああする」
ヨアンがすでに用意してある瓶を指し示す。
「俺とその娘だけ、ここで焼け死ぬ。無難な事故だろう?」
「うはは、用意周到」
セクメトはひらひらと手を動かして、瓶の中を覗く。案の定、大量の油が入っていた。
「棺はどうする? 持ち歩くの?」
「しばらく埋めておく。今は眠りにも血にも飢えていない。向こう一年は、ゆっくり拠点を探すよ」
「それなら預かっておこうか? 君の祈りは覚えたし、いつでも持って来れる」
「あまり俺に優しくしようが、おまえに喰われてやらないぞ」
「ただの親切心なのに! ひどい!」
「日頃の行いのせいだな」
二人してひとしきり笑い終えると、ヨアンは寝静まる二階の一角を眺め懐かしむ。
「……あいつらは、単純に好みを集めた。数年と、世話になったからな。手離した後も、路頭に迷わないように準備はしてあるが……おまえの言う霊的な……信仰や宗教といったものは、考えてやらなかったな。少し、参考にするよ」
それから数日後の夜、屋敷に火の手があがった。かろうじて生き延びた寝巻き姿の使用人達は、炎の海で亡くなった年端もいかない使用人の女と雇い主の男の死を、それはそれは酷く嘆いたという。
ここで死ぬか、ともに生きるか。使用人の中でも一際幼く、一番手離しがたかった人間の女エリーにはそう問うた。彼女はともに生きる道を選んだ。いくつかの人間関係を精算し、雇い主もとい吸血鬼ヨアンの傍にいることを選んだのだ。
「俺に目を合わせるなと、何度言わせる!」
「申し訳ございません!」
「それに、以前と同じように、俺はここで食事は取らない。ここでは眠らない。湯浴みをしたいならその時に言う。おまえは屋敷と自分自身の維持管理だけしていればいい。金は十分与えたはずだ。勝手にやりくりしてくれ。俺の世話は焼くな」
モンスターだと正体を明かしても、エリーは逃げるどころか必要以上にヨアンの世話をしようとした。以前は複数いた使用人が自分一人になったためだろう。その度に、ヨアンは苛立ち顕にエリーを遠ざけた。
半年も経つと二人は距離感に慣れ始め、エリーは斜めに俯いて喋る癖がついた。
「おまえは何故、懺悔の祈りを繰り返す」
「……懺悔、ですか?」
「言葉が、まるで罪人だ。おまえは何もしていないだろう」
「いえ、今日一日、知らなかったことや間違えたことを、神に告白して、明日も一日お守りくださるように、祈っているのです」
「……」
「ヨアン様の明日も、どうか、お守りください」
二人だけになって、気づいたことがある。エリーは、決まった祈りをする。決まった祈りが、日に何度か存在する。セクメトに言われるまで気に留めなかったエリーの行動が、ヨアンには物珍しく映った。人間の信仰など、別にどうでもいいと思っていた。しかし、それが日々の生活の姿勢にまで影響を及ぼし、果ては彼女の血の香りに繋がってくる。無視はできないと、ヨアンも次第に興味を惹かれていった。
数か月後。たまにヨアンは二階の窓辺で、本を片手に夜風にあたることがある。月夜の明るい夜、ヨアンが窓辺で読書をしていると、エリーが静かに部屋を訪れた。何度かのノックの後、招き入れる。夜も遅いというのに、彼女は簡易的ではあるが仕事服のままだった。
「なんだ」
「……」
エリーは恐る恐る窓辺を見やる。窓辺に、ヨアンの足が見える。出窓の窓枠に、見知らぬガラス瓶や宝石らしきものが見えた。紙束を持つヨアンの手元まで視界に入れて、エリーははっとして目を反らす。
「(いけない。目を合わせちゃだめ)」
「もう、遅い。おまえは眠れ。ここは人間には些か冷える」
「えっと、あの、そうですね。夜は特に冷えますし、火を焚かないと……あ、ヨアン様は寒くないのですよね」
やたら場を取り繕うようにエリーは無意味に愛想笑いを浮かべる。ヨアンは一呼吸置いてから話し出した。
「……火が恐ろしいのなら、無理に暖を取らなくていい」
「(あ、火事のこと……私は大丈夫なのに)」
「闇には怯えるな。俺がいる」
「……ヨアン様」
「……」
「ヨアン様は、そうやって……いつも私を気にかけてくださる。それなのに、私は……ヨアン様のお役に立てているのでしょうか……」
ぱらりと紙をめくる音がする。返事はない。
「私……あの、せっかくお傍においてくださっているのに、何もしてさし上げられて、いない気がして……」
「……」
「ヨアン様は、私に屋敷の掃除しか、言いつけません。他に何か……私にできることはありませんか?」
後ろに控えるエリーの方へ、ヨアンが振り返る。エリーは常日頃から言われているように、目を合わせまいと俯いた。
「……」
ヨアンが無言で近づいてくる。
「……」
間近まで歩み寄るも、ヨアンは何も言ってこない。沈黙に痺れを切らし、エリーは話しかけようとした。すると、ぽん、とヨアンがエリーの頭を撫でた。
「十分だ」
「あ、あの!」
エリーは俯いたまま喋り出す。
「どうして、私を選んだのですか? 他にも使用人はいて、みんな、私より掃除も上手で、頭も良くて、きれいな方ばかりでした。それなのに、どうして、私だったのですか?」
「……」
「ヨアン様は、私によくしてくれます。お傍に置いてくださった。戦争孤児だった私を、学のない私を拾ってくださり、ここまで育ててくださった。拾われなかったら、字も読めませんでした」
「……」
「住むところも、服も、食事も与えてくださって、生活も自由で……生活の基礎も、学びの機会も、ヨアン様が与えてくださいました」
「……俺は何もしていない」
「そんなことはありません。すべて、ヨアン様がお与えくださいました。私は感謝しています。せめて、恩を返したいのです。ヨアン様はいくつかの言いつけだけで、他には何もおっしゃらない。今も昔も、私はほとんどヨアン様に給仕していません」
「……」
「あの時……屋敷が燃えたあの日。ヨアン様は自分は吸血鬼だと正体を明かしてくださいました。打ち明けてくださって、感謝しています」
「自分を喰らうモンスター相手に、感謝か」
「はい。ヨアン様はヨアン様ですから」
「逃げようとは、思わないのか」
「逃げるだなんて、そんな。私にはここ以外に行く宛などありません」
「……」
「もしかして、私はいつかヨアン様に捨てられるんですか?」
「そうは言っていない」
「……」
怒涛に喋り倒すエリーの言葉が途切れる。ヨアンが呆れてため息をつく音がする。エリーは目の前でブランケットを持つ手の、甲に浮かび上がる血管や、すらっと伸びた指と鋭い爪に魅入ってしまう。
「(ヨアン様って、爪が長いんですね)」
「恩など、考えなくていい。おまえは十分、役に立っている。俺は何日も帰ってこないことが多い。屋敷の維持がそうだ。毎日しなくてはならないようなことは、俺には難しい。本もそうだ。おまえがたまに買ってくるものは、俺にはどれも新鮮で、面白い。細かいことだが、おまえはそれも、俺が分かりやすいように並べて片づける。俺には人間達の持つ信仰とやらがいまいち理解できないが、おまえのおかげで少しは掴めたように思う。だから、恩など考えなくていい。おまえは屋敷と自分自身の維持管理だけしていれば、それでいい。……金が足りないなら、渡すが?」
「あ、いえ! それは十分です!」
エリーは顔を上げてしまった。不意にかち合った視線に、ヨアンも驚きに目を見開いた。
「おまえは!」
「申し訳ありません! 申し訳ありません!!」
二人して顔を反らす。一瞬だけ見えたヨアンと、初めて目が合った。今は自分から目を合わせないし、以前はヨアンが目を合わせなかった。
透き通った、宝石みたいな紅の瞳。これが吸血鬼なのかと、エリーはバクバクと煩く鳴る心臓を抑えながら深呼吸をした。
「……私は……ヨアン様のお役に……立てているのですね」
俯いたままエリーは安堵に微笑む。ヨアンは纏めあげられた髪のせいで無防備に晒されるエリーの肩口を指差して、いたずらに爪先を肌に滑らせた。指先からエリーが強張るのが伝わる。
「五年後だ」
「ヨアン様?」
「五年後、今の仕事を終えたら、ここも去る。その時に、おまえにまた問おう。俺に喰われて死ぬか、俺とともに生きるか」
「……」
ヨアンの指は喉を通り、顎先で離れる。
「おまえは、都の血筋で……ほとんど純血で、わずかに北の民族の血を引き、二の型で、その年頃で、女で、少しだけ地が得意な魔力を持つ」
「……」
「おまえを選んだのは、単純に俺好みだから。それだけだ」
ふわりと、ブランケットが肩を覆う。微かにムスクのような香りがした。
ヨアンが去って行く。窓辺へと戻る足元を見つめて、エリーはまだ緊張の抜けない己の体を、ブランケットの中、力の限り抱きしめた。
「俺は、視線で人間に暗示をかける。狙った獲物を捕らえるため、逃がさぬよう、意識を奪う」
「……」
「だから、おまえとは目を合わせない。さぁ、おまえは眠れ。もう遅い」
ぱらりと、また紙をめくる音がする。エリーは一言だけ礼を言うと、足早に部屋を後にした。
それから数か月、変わらずにエリーはよく働いた。己の出生を知りたいのか、やたらと民族や歴史関連の書物が増えた。エリー自身も、健康に気遣うようになった。好ましい変化だが、ヨアンには悩ましい変化でもあった。
「ヨアン様好みに産んでくださった両親に感謝しています」
「北の民族は、狩猟に長けている民族だそうです」
「モンスターと人間がともに暮らす町があるそうです」
「私は、ヨアン様好みになっているでしょうか」
いちいち話しかけてくるようになったエリーだが、ヨアンは当初のように拒むことなく彼女の好きにさせた。仕事であろう書斎に籠りっきりになる時以外は、目線さえ合わせなければ、ヨアンとエリーは良い話し相手になった。
「血の香りが違うんだ。あれはおまえと同じ北の混じる者。あれは東の純血で、都に多い者」
「私にはみんな同じに見えます」
「だろうな」
ベンチに座って並木道を行き交う人々を眺めながら、ヨアンは懐かしむように語る。
「ここと南にいる人間とでは見た目も違う。海を渡った先の南には、おまえのような薄い肌も、灰色の目も、今のところ見たことがない。厚い肌に、褐色の目が多い」
「いつか、見てみたいです」
「おまえを連れて旅か。それも悪くないな」
「連れていってくださるのですか!」
「今の仕事が終わればな」
「あれから時間が経ちましたね。あと、四年ですね。また契約更新します」
「くく……、おまえは、実に、逃げようとしないな」
「もちろんです。どこまでもお仕えします!」
「突然俺に喰われてもか?」
「そんな! あと四年はともに生きるって、約束ですよね?」
「さぁな? 俺はいつでもおまえに惹かれている。いつ、欲しくなるか分からない」
傍らに置かれたエリーの手を取って、その手にヨアンは視線を落とす。使い込まれ荒れた指先と、せめてもの手入れがされた爪。人間特有の高い体温が、じんわりと手から手に伝わってくる。
「え、あの、えっと……」
手が震えている。ヨアンは静かに目を閉じて、軽く手の甲に口づけた。
「その、ヨアン様は……そう言いますが、その……私、全然美人でも可愛くもないですし、こんな、くるくるの髪ですし、痩せっぽっちですし、そばかすだって……」
「なんだ。見目の話か?」
「あ、はい」
「清潔にし、余計な香りをまとわず、過度に着飾らなければ、それでいい」
「……」
「それより、健康で、酒や病に蝕まれず、穢れない血肉の持ち主の方が、断然俺は好みだ。俺の正体は話しただろう。最初こそ、おまえを話せる非常食にしか思っていなかった」
「話せる、非常食。そんな、酷いです」
「分かっている。今は良き隣人だ」
ヨアンは気まぐれにエリーを連れて出かけるようになり、人種の話をするように、エリーも何度かヨアンを教会に連れていき、宗教の話をした。
「どれも同じに見える」
「十字を切るのにも、私達はこうです。指を、こう」
手で形を作って見せて、エリーは胸元で十字を切る。
「こうではないのか」
「それは、福音の方がよくやるやり方ですね。私達とは違います。三本の指です。神を表しています」
「細かいな」
「難しいですか」
「いや、面白い」
礼拝から帰宅するなりヨアンが呟いた一言に、エリーは一つ一つ説明をしていく。
「天と、地?」
「逆です。右から、左。救われたる者と、滅びたる者」
「…………」
言われた通りに手元を動かし直して黙り唸るヨアンに、エリーは楽しそうにくすりと笑った。きっと難しい顔をしているだろう。想像の中で、いつしか見た宝石のような輝かしい瞳で、きっと眉間にしわを寄せている。
「福音の方々とは、仲良かったのですか?」
一つの分厚い本をめくりながらエリーが問う。
「いや、たまたま生活圏にそういう人間達がいただけだ。おまえの説明で福音の者達だったと知ったくらいだ」
「本当に興味なかったのですね」
「あぁ。さすがに、預言の者達との違いは分かるが……おまえ達は同じ教典だろう。何故、違う信仰になる?」
「えっと、解釈です。考え方が、違うんです。例えば、神が人としてこの世に生まれるところがあるんですが、それって、神とは人であり神であるという人達もいれば、神は神でしかないと解釈する人達もいます。同じことが書いてあっても、教えによって解釈は変わるんです」
「おまえも、違う解釈の人間とは血を流し争うのか?」
「いいえ、そんなことはしません。争いは争いしか生みませんから。私は、他の方々を異端や敵とは思いません。残念には、思いますけど」
素直に疑問を口にするヨアンに対して、自分が教えられるものがあると、エリーは毎回とても楽しそうに語った。
「エリー」
「は、はい!」
「次の休み明けに、都に近づく。少し厄介な町だ。決して俺から離れないと誓うなら、ともに来るか?」
「……はい!」
相変わらず二人は顔を合わせない。一礼して書斎を後にして、エリーは閉じた書斎のドアに額を凭れさせ、嬉しそうに微笑んだ。
「都まで! ヨアン様と一緒……!」
小声で囁きながらエリーは廊下をステップしていく。都までは遠い。ちょっとした旅行だ。浮かれ気分でエリーは着々と準備を進めていった。そうして二人は、都の隣町まで、足を運ぶことになった。
都の隣町は、商人の町だ。宝飾品や衣服、そして武器に至るまで、様々なものが売り買いされている。エリーは目移りしながらヨアンの後を小走りについていく。決して二人は顔を合わせない。ヨアンは一度もエリーに振り向かなかった。
「お久しぶりです、旦那様」
とある店で、顔馴染みの様子でヨアンと店主は会話をする。エリーは傍に控え、言われたままにいくつかの小包を抱えていた。
「エリー」
「はい!」
「これを使おうとしてみてくれ」
「あぁ、荷物はそこに置いてもらって構わない」
「ありがとうございます!」
荷物を置いて、エリーが不思議そうに振り向く。差し出されたものは、見たことのない石の嵌められた指輪だった。
「……使う、ですか」
「アーティファクトという魔力を増幅させる道具だ。おまえは少なくとも魔力を持つ。使おうとしてみてくれ」
「あの……」
訳がわからず、エリーは店主に助け船を求めた。店主の男は優しそうに微笑み、エリーをカウンターまで呼んだ。カウンター越しに、店主はエリーの中指に指輪を嵌めた。
「意識を指輪に集中させて、何か感じるものはあるかい?」
「私、魔法について詳しくなくて!」
「旦那様から聞いてるよ。魔法に詳しくない者が、これを扱えるか、我々は知りたいんだ。目を閉じて、意識を集中してみてごらん」
「は、はい」
エリーが言われた通りに目を閉じ、集中する。ヨアンと店主は、彼女の変化を逃すまいと凝視する。
「店主、頼んだものはできているだろうか!」
突然、元気な声がした。エリーも含め皆して声の主に顔を向けた。
「エフィームか、できてるよ」
「エフィーム……?」
現れた青年は、いつかの記憶の中の怯えた青年騎士ではなく、立派な騎士の姿をしていた。兜がないために、初めて顔がよく見えた。エリーとあまり変わらない、大人になりきっていない年頃の、まだ幼い顔つきだ。少しばかりか、背も伸びたように見えた。
「…………えっと、何か?」
ヨアンは驚いたままエフィームを見つめていた。何かを話しかけようとするヨアンを見て、エリーは咄嗟にエフィームに声をかけた。
「立派な鎧ですね!」
あまりにはきはきと話すエリーの声に、その場の誰もが一瞬言葉を紡げず間を置いた。最初に、ヨアンが喉で声を殺したように笑った。
「くく、突然、失礼しました。その鎧……貴方は都の聖騎士団の者ですか」
「はい、第五騎士団に所属しています。といっても、まだまだ下っ端ですがね」
「私は宝石商のニコと申します。もしや、イヴァン殿の団員ですか?」
「団長をご存じなのですか」
「えぇ、以前に少しばかりお世話になりました。西の辺境のことはご存じでしょうか。ちょうど、村が焼かれておりました。覚えておりませんか?」
ヨアンはエフィームに近づく。じっと、その目を見据えて、しばらくヨアンは動かなかった
「お嬢さん?!」
突然、エリーが倒れ込んだ。咄嗟に皆が手を差し伸べるが、いち早くヨアンが抱き留めた。
「……だ、大丈夫か?」
店主がカウンター越しに身を乗り出して心配そうに声をかける。ヨアンは申し訳なさそうに二人に深くお詫びした。
「えぇ……あまり魔法に触れてこなかったもので、少々刺激が強かったのでしょう」
顔を上げず、腕の中のエリーを見つめながら、ヨアンは淡々と返答した。
「(……あぁ、変わらない。この、苦手な東の純血の香り。この男は、やはり暗示にかかる気配すらしない。生まれながらの耐性だ。幸い、この男には聖魔法どころか、ほとんど魔力を感じない)」
「大丈夫ですか」
「えぇ、ご心配なく(……これが、我が血族を葬る星の下に生まれいずる人間。幸い、たとえアーティファクトを使おうが、この男に聖魔法は使えない。しかし、この男に子ができれば、我々の脅威となるだろうか)」
「あなたも顔色が悪い。手を貸しましょうか」
「お気遣いなく。私は元々そこまで顔色はよくないものですから」
ヨアンが愛想笑いを向ける。エフィームはその顔を見て、少し戸惑ったようにヨアンから距離を取った。
「……」
「あの、すごく……失礼なことを、聞いてもいいですか」
「何か?」
ヨアンはエリーを抱き上げて微笑む。エフィームは己の顔を半分手で覆い、深呼吸をしてみせた。
「あの、ニコ殿は……もしかして、人間ではないお方、ですか」
「どうして、そう思われました?」
ヨアンが貼りつけたような愛想笑いを向ける。顔を反らすエフィームは、以前の自分を怖がる姿ではなかった。彼は恥ずかしがるような、躊躇うような、不可解な表情をしている。
「俺、前に、あなたみたいな赤い目のひとと会ったことがあるんです。まだ、俺が新兵で……そいつはしっかりモンスターでした。吸血鬼だった。同じように、あなたも赤い目をしていて……同じものではないのに、あなたにも、人間じゃないような、不思議な感じがして……。あなたには、あのモンスターのような、恐ろしさはなくて。宝石商だからですかね。まるで、その瞳にも宝石が宿ったように、綺麗です」
「エフィーム、口説くならよそでやってくれ」
店の奥に姿を消していた店主が戻ってきて早々にエフィームに茶々を入れる。エフィームはそんなつもりはないと、慌てて二人に弁明する。そのうち、エリーも意識を取り戻した。
「おっしゃる通り、私はエルフの血を引いておりましてね。といっても、彼らのような強力な魔法は使えませんし、この通り、ちょっとした外見くらいしか、受け継いでおりません」
でまかせを口にしながら、ヨアンは聞き耳を立てているエリーの頭を一つ撫でた。
「申し訳ありません。私、気を失っていましたか」
「気にするな」
「ほれ、出来は上々」
「すごい! これなら俺でも防御魔法くらい使えますか!」
店主から槍を受け取ったエフィームは、柄に埋め込まれた黄色い宝石を嬉しそうに眺める。地の魔法の、簡単な防御魔法だと、ヨアンは思った。
エフィームはヨアンに最後まで気づかなかった。以前と違い、人間に紛れて商店にいるのだ。まさかあの時の吸血鬼だとは思わなかっただけかもしれない。
エリーはここぞとばかりにエフィームと店主に魔法について話を聞いた。楽しそうにおしゃべりをするエフィームとエリーを、ヨアンは目を細めて眺めていた。
「考え事かい?」
「……あぁ、いや」
「旦那様も隅におけない。こんないい娘がいたなんて」
「ただの使用人だ。……それ以外の、何でもない」
じっと若い二人を見つめていたヨアンに、店主が笑って話しかける。明らかに上の空の返事にも、店主はしばらく会話を待っていた。そのうち、ヨアンは感心したように一つ、深く息を吐いた。
「一つ、頼まれてはくれないか」
そこは、アーティファクトを始めとした魔法道具を扱う店だ。そこの店主を介して、ヨアンはわざとエリーをこの町に滞在するよう言いつけた。人間の足では、拠点の屋敷からこの商人の町まで片道一週間ほどかかる。学びのために通える距離ではない。後で迎えに来ると言い残し、ヨアンは三か月近く戻って来なかった。
「見捨てられたかと思いました!」
久々に会ったエリーはものすごく怒っていた。確かに何の説明もなく置き去りにし、一度も便りをやらなかった。相変わらずエリーは俯いたままヨアンに話す。狭い仮暮らしの一部屋で、エリーは店主の元で、懸命に働いているらしい。
「(全く、たくましい)」
いくつか、あの聖騎士からもらったと思われる手紙や宝飾品も見受けられた。加えて、支給している金では足りないはずのアーティファクトの数々がエリーの部屋に飾られている。店主の計らいでは、説明のつかない量だ。
「ヨアン様にしては、急ですね。早急に身支度をします!」
「いや、いい。今日は、話をしに来ただけだ」
「はい」
「今日を以て、おまえを手離す。おまえはこのまま、人間とともに生きろ」
「……え…………?」
「店主に話はつけてある。おまえと同じ信仰の者達とも出会え。町の南にある大きな建物を訪ねるといい」
「あの……」
「心配するな。路頭に迷わせはしない。おまえは十分仕えてくれた。もう自由に生きろ」
相変わらず、お互い顔色は伺えない。エリーが何か言いたげに思えたが、気のせいだったかもしれない。
数年後、突然のことだった。そのエリーが拠点の屋敷に一人で戻ってきたのだ。長旅をしてきたようで、大きな鞄一つに、動きやすそうな男物の服を着て、長かった髪は短くなっていた。
「何故、ここに」
屋敷は数年放置され、錆びれ、湿気て、いつの間にか細やか霊魂が巣食う屋敷になっていた。
「五年後! あの、約束しましたよね! もう、どいて!」
「あぁ、邪魔だ、このままでは話もできない」
屋敷に住まう霊魂達が誰だ誰だと執拗にエリーにちょっかいを出してくる。彼らに邪魔されながら、ヨアンはエリーの手を引き、屋敷の裏手にある小高い丘まで連れ出した。
「……はぁ、はぁ……足が……、お速いの、ですね」
「……」
息を切らすエリーが苦笑いをしてみせる。ヨアンは顔をしかめた。
「何故ここに戻った。俺はおまえを手離した。戻る義理はない」
困惑の色を見せるヨアンに、エリーは悲しそうに微笑んだ。
「間に合って、良かったです。五年は、今の仕事だと、おっしゃっていました、よね。だから、間に合うと、思いました」
息も絶え絶えにエリーが話しかけても、ヨアンは反応せず、目線もくれない。エリーは眼下の屋敷を指して声を荒らげた。
「見てください、この寂れた屋敷を。ヨアン様がいかに、普段屋敷の手入れをなされていないか、一目瞭然です!」
「……」
「いきなり私を解雇したのに、何もかも準備されていて……。あの時の火事も、ヨアン様の仕組んだ火事だったのですね。かつての生き延びた同僚と、会ってまいりました。彼らから話を聞いてきました。みんな、路頭に迷うことなく、火事の直前にそれぞれの出会いをしています」
「……会ったのか、かつての仲間に」
「はい、全員と。事情があって今日まで生きていることを伝えられなかったと、話してきました。みんな、ヨアン様が生きていると知ったら喜びます。きっと、正体を明かしても誰も怖がりません!」
「……」
「また、以前のようにお仕えさせてください。お願いします!」
「……」
ヨアンは返答しない。エリーはますますヨアンに近づいた。
「以前にも申し上げました。私にはヨアン様のお傍にいる以外に、行く宛などありません。定期的に引っ越しをなさると、教えて下さいましたよね? 次の仕事先でも、屋敷の手入れは私にお任せください。人手が足りないのなら、私も探しますから」
訴えるエリーの言葉を聞きながら、ヨアンは俯き、大きなため息をついた。
「……もういい」
「私をヨアン様のお傍に置いてください。でなければ、糧にしてください。私を救ってくださったヨアン様のためなら、喜んでこの身を捧げます。私は好みの血なのでしょう?」
「もういい!」
ヨアンは苛立ち、エリーの襟首を鷲掴んだ。咄嗟に手に手を取るも、エリーの体は少しだけ宙に浮いた。
「うっ!」
「今更、血など関係ない! 俺はただおまえが……」
言いかけて、ヨアンは慌てて手を離す。どさりと力が抜けたように二人して地に膝をつき、ヨアンは顔を上げないまま呟いた。
「何でもない。忘れてくれ」
項垂れるヨアンの、小さくないはずの小さく見える背中。エリーは恐る恐るそれに手を伸ばし、ヨアンを包むように抱きしめた。
「……神は、乗り越えられない試練には遭わせません。きっと、そこから解決する道も用意されています」
エリーは、見てしまった。膝をつく前の数瞬、悔しそうな、悲しそうなヨアンの表情を、エリーは垣間見てしまった。
「(ヨアン様、そんな顔をなさらないでください)」
もし、手離したことを後悔しているのなら。自分とともにいてくれるのなら。
「ヨアン様、私に寄り添わせてください。一人で、抱えないでください」
いくらでもやり直せると、何度でも説得しよう。気まぐれに、飽きたから手離したようには、到底見えなかった。エリーは一層抱きしめる腕に力を込めた。
「……」
やんわりと、腕がほどかれる。より力強い手が、エリーの腕を下ろさせ、その場にもう一度しゃがませる。逆にヨアンがエリーを抱きしめるように、彼女の後頭部に手を宛てて、ヨアンが肩に顔を埋めた。
「すまない」
噛まれると思った。エリーは必然的に強張った体を叱咤して離れていくヨアンを見上げた。ほんのり冷たい、首筋に残るキスの跡を撫でて、エリーは困惑した顔を向ける。不意に、二人は二度目の視線を交わした。
「あ……」
「エリー」
二度目に見えたヨアンの瞳は、以前の無機質で美しい宝石ではなく、無慈悲に獲物を殺す蛇やトカゲのようだった。
「エリー、俺を忘れろ。二度と思い出さない。俺に関するすべてを忘れて生きろ、エリー」
「……」
ゆっくりと手が離されるも、目線が外れない。何度かの瞬きをしたヨアンを見て、エリーは、ほろりと一筋の涙を溢した。
「どうして……私では……だめなのですか?」
エリーの呟きにヨアンが眉をしかめる。祈りに組まれた両手の中には、ペンダントの形をしたアーティファクトがあった。立ち上がり、背中越しにヨアンは自嘲気味に笑った。
「(暗示にかけられないように、対策していたのか)」
「……私が人間だから、遠ざけるのですか?」
「……」
「それならせめて」
「おまえを牙にはかけない」
「ならば、ここに置いてください。私では役に立ちませんか?」
「そうは言っていない。おまえは人間だ。エフィームとでも添い遂げろ。あれは闇のモンスターへの抵抗を持つ」
「お待ちください! 私は」
「おまえは十分俺に仕えてくれた。もう、十分だ。もう、俺に囚われるな。頼むから、俺を忘れてくれ」
「ヨアン様」
エリーから嗚咽が聞こえる。
「五年、経ちました。ヨアン様の言いつけ通り……五年、待ちました。私に……また問うてはくれないのですか? ヨアン様は……私を必要とは……してくれないのですか……!」
後ろから悲痛な訴えが聞こえる。ヨアンは二度と、エリーに振り返ることはなかった。
追放するように手離したエリーは、その後、エフィームと結ばれることはなかった。彼女は人間の町に行ってもよく働き、人々に愛され、晩年ではあるが伴侶と出会い、孫まで授かり、老いて天寿を全うした。
エリーは自分によく懐いた。己の気まぐれで拾って連れてきたというのに、健気によく懐き、よく働いた。それがどうにも真新しくて、面白くて、愛しくて、儚いいのちがひたすら懸命にしぶとく生きるものだから、その儚くない強さが慣れなくて、分からなくて、恐ろしかった。
見守り続けた笑顔が、太陽のように輝けばこの心も喜びに照らされ、憂いに陰ればこの心も不安の雨に濡れた。
分かってはいたが、エリーの死を、最期を、間近で見届けることはできなかった。愛する人間達に囲まれ、衰弱して死に逝く姿は、驚くほど安らかだったらしい。
もしかしたら明日にでもモンスターとして蘇るかもしれない。そう何度も願い、何度も否定した。
セクメトは笑う。エリーの魂がとても上物だと。おまえのために手離した魂ではないと、彼の冗談に怒りさえ覚えた。
「ヨアン様」
幻聴さえ聞こえそうで思わず耳を塞いだ。
「(…………あぁ、俺は、いまだにおまえを求めている)」
あの時。エリーを連れてでかけて、エフィームと再会した、あの時。新しい学びに喜ぶ姿を見て、絶望した。こんなにも懸命に刹那を生きるエリーの一生を、己の欲望だけで縛りつけて終わらせるのかと、底知れぬ恐怖を感じた。
自由にさせたい。自由にしていてほしい。
人間の町での彼女の姿を見て、心を決めた。大事にしすぎて匿い傍に置いておくよりも、本来いるべき場所に帰そう。
拾い連れてきたことも、勝手に手離したことも、すべて、己の我が儘だと分かっている。
それなのに、自分はどうだ。こんなにもたった一人の人間に未練がましい。
未だにエリーの亡霊が脳裏から離れない。ともに過ごした時間など、たったの十数年だというのに。
手に入らない、手に入れようとしなかった瞬くいのちに、もう二度と触れられない。
「(……エリー、おまえは幸せだっただろうか。俺は……この身でなければ、おまえを手離さなかっただろうか)」
何も言わない墓石の前で、ヨアンはただ、ただ、風に吹かれる花束を見つめ、膝をついた。
どの国も栄枯盛衰を繰り返すように、東の大国はそのうち勢力を失い、いくつかの国に分離した。それでも争いは収まらず、何度となくヨアンは引っ越しを余儀なくされた。何度目か分からない争いに巻き込まれ、またいくつかの使用人を手離し、何度目か分からない拠点となる屋敷を後にした。
足の赴くままに、かつて住んでいた町や村を巡り、ある丘に戻ってきた。見通しが良く、少し強い夜風が吹く丘に、いくつもの墓石が並んでいる。そのうちの一つにヨアンが花束を添える。花は風に吹かれて花弁を大きく揺らした。
「…………」
名前の文字をなぞる。カツンと指先が音を立てた。彫られた名の溝に、爪が当たったのだ。
「……タネル……エレン……」
弱々しい、絞り出すような声だった。
「レヴィ……ニコル……クララ……、……サンドラ……」
淡々と、名前だけが連なっていく。たまに吹く強い風に名前を消されながら、ヨアンはマントの襟に顔を埋めるように踞る。
「……イレーヌ……(……エリー)」
最後にもう一度、名前をなぞる。声に出せなかった彼女の墓石の前で、ヨアンはゆっくりと顔をあげた。
「……牙にかけた使用人達だ。おまえの後に、イレーヌと出会った。おまえと同じような都の女で、去るくらいなら喰ってくれと頼まれた。……先日のタネルは、戦争で死ぬなら俺の糧になると願い出た。その前のエレンもそうだ。戦の後遺症で、残り少ない寿命を俺に捧げた。レヴィは変わった奴だった。目の見えないエレンより盲目的に俺を信じていたが、この死ねない体をあれだけ理解してくれた人間はいなかった」
ざらりと砂が手に触れる。石の表面は、雨風に晒され、昔より少しざらざらしているように思えた。
「正体を明かせば、大抵は逃げ出した。今でも、それが本来の関係だと思う。けれど、正体を明かしても彼らは逃げなかった。最期まで俺を慕うんだ。クララは、その典型だ。俺とともに生き続けた。……クララは身勝手だ。しわだらけの顔で笑って、衰え弱った身で時に俺を弟か子のように扱う。笑ってしまうだろう。たかが六十の娘がだぞ」
ヨアンは静かに肩を震わせた。
「……皆一様に、愛しい。おまえのことがあって、人間達に近づくまいと血族の元に戻った時期もあった。けれど、俺が、それは耐えられなかった。窮屈で、退屈で、死んだように生きることは、とても苦しい。おまえが何度も学ぶように、俺も、分からないなりに、人間達に接してきたつもりだ。暗示の程度も覚えたんだ。今ならおまえの目を見て話ができる。……おまえには悪いことをした。おまえもクララのように、おまえの好きにさせてやれば良かった。クララのように……寿命の尽きるまで……」
爪が墓石を引っ掻く。
「……そんな、苦しすぎる」
ヨアンは顔を上げる。
「聞いてくれ、エリー。手離すより、寄り添う方が数倍苦しいんだ。どんなに丁寧に、傷つけまいと、心に耳を傾け、共に歩み、彼らの親愛を、忠誠を、信頼を築いても、彼らは争いに倒れ、病に負け、天災に喰われ、寿命に殺される。……なぁ、エリー、神とやらは乗り越えられない試練には遭わせないのだろう? なら、いつこの試練は終わる? 俺はいつまで繰り返せばいい?」
ヨアンは倒れるように墓石に頭をつけ、そのまま横になるように墓石に寄り添う。
「もう、疲れた……失うことに、疲れたんだ……」
独白を止め、ヨアンは静かに瞼を閉じた。
町娘ミサ
営みは変わらず続く。ヨアンが己の永い生に苦悩し歩みを止めようが、人間達は変わらず栄え衰え、歩みを止めない。
繰り返す忙しない人間の町に潜むことに疲れた頃、ある貴族の今を知った。よくある、迫害や処刑で消えた貴族の一つ。あれは何年前の話だったか。
もぬけの殻なら、都合良い。使用人がいないと生活の細かいところで不自由するだろうが、人間の真似をしなくて済むのなら、一人の方が身軽だろう。
ヨアンは今の拠点を最後にしようと決めていた。最後の使用人を送り出し、もう人間達の元には戻らないつもりだった。棺を隠し、身支度を済ませようとしている最中、またもや人間達の争いに巻き込まれた。
もう、呆れて何も言えない。跡を濁さず、金輪際、人間達の前から消え失せよう。
「(これで、いい)」
そうして、ヨアンは棄てられた貴族の屋敷へと赴いた。
旅の道中、屋敷が幽霊屋敷だと噂されていることを小耳に挟んだ。人間達の作り話だろうと気にしなかったが、着いてみると、それは確かに幽霊屋敷になっていた。そこには先住人がいた。サラという地縛霊だ。正確には、サラと思われる地縛霊だ。出会った当初、本人が一度だけそう名前を口にしたが、二度と確認が取れず、そのままサラと呼ぶようになった。屋敷に縛られ話し相手を求める呪われた霊魂。誰かとともに住まうことには人間で慣れていた。今更、悪霊がいようがどうでもいい。サラは特に悪さをしてこない。彼女自身が霊魂であるためか、人間達のように忙しなく日常を繰り返しはしない。日々は、時を忘れるほど緩やかに流れていった。気づけば、そろそろ百年になろうとしている。
あれから何度もハロウィンパーティーには招かれていて、何度も参加を断った。執拗に現れる招かれたしるしは、当日中は決して消えることはない。目敏いセクメトには何度も見つかり、パーティーに参加せざるを得なかった。後に、伯爵から”お守り”を配るようにお願いされ、いつしかセクメトと共に、パーティーに倣い、二人とも食べもしないお菓子類をばらまくようになった。それに伴い、少なからず人間達と関わり続けなくてはならなかった。一時期は気力も失せ、最低限の指揮だけ事務的に行っていたが、次第に楽団の指揮もお守りの準備も楽しむようになった。それもこれも、セクメトからヒントを得た、仮面のおかげだった。
長寿の種族である自分にとって、一つの人間の町に関わり続けることはとても難しい。十年もすれば、関係は変わる。三十年もすれば、人間が変わる。人間達とはもう関わらないでいたかったが、そうもいかない。以前の失敗もあり、正体を隠すため、ヨアンは仮面の旅人を演じ続けた。それが功を奏したのだ。
毎年秋頃にやってくる、黒いマントに仮面の男。数年前から、以前訪れていた旅人の息子が同じ服装でやってくるようになった。どちらも旅人で、珍しい鉱石を対価に食料等を買っていく。……これが、この町での自分だ
経験上、アーティファクトを作るエルフだと名乗れば己を隠さなくても済んだだろう。けれど、また面倒のことになりたくなかった。人間達に、必要以上に近づきたくなかった。
「ねぇ、バジル。来年も来てくれる?」
長い髪を結いあげた笑顔の娘が問うてくる。雑貨屋の店主の娘で、名はミサという。バジルは、自分のこの町での名前だ。ミサは、はつらつとして悩み事のなさそうな元気な女で、雑貨屋の看板娘だ。
「あんた、親父さんに声までそっくりだな。仮面のせいか、昔に戻ったみたいだ。また来てくれって、親父さんにもよろしく伝えておいてくれ」
「来年は、バジルが好きそうなハーブも用意するね! また絶対来てね」
「あぁ……(俺が使うわけじゃ、ないんだがな)」
血族の中にはその永い生の営みの中で、人間と全く関わらない者もいる。予め用意された生き血しか知らない。自分は、それは心底、窮屈だと、退屈だと思う。ともに同じ町には住むには忙しなさすぎたが、適度に関わる方が断然面白い。
だから、この町で築き上げた関係は、なんとしても維持したい。少し、姉の気持ちが分かった気がした。
「あんたがもう少し何者なのか明かしてくれたらなぁ。親としちゃ、心配なのよ。あんたのことは信用しているが、なにせ年数回、この時期しか会わないからな」
店主が呆れ返って愚痴をこぼす。
「何の話だ」
「うちの娘がさ、あんたに夢中なのよ。贔屓目もあるが、これでも町一番の美人だって言われてるんだからな。それをこんな……あんたの仕入れを見てりゃ分かる。相当過酷な旅をしているじゃないか。娘をそんな旅には行かせられない」
「何を冗談を。連れていくわけがないだろう」
「ふふ、あんたの好みじゃないかい? 年頃とはいえ、じゃじゃ馬だろう? もう少し大人しくすりゃあいいのに」
「健気じゃないか。よく働き、親を助け、機転も利く。十分だろう?」
「……あんたの見る目、嫌いじゃないぜ」
「そうか。また、来年もよろしく頼む」
店主はバジルを気に入ってくれていた。こつこつと関係性を築き上げてきた町だ。適度な距離感が、居心地が良かった。
「バジル、新商品なんだけど、一緒に味見しない?」
「バジル、これ、もらって! いいの、私が渡したいだけだから」
「バジル、見て! 服屋の友達が、ミサにはこれが似合うってくれたの。似合う?」
そのうち店主の言うよう、ミサは執拗に自分を構うようになった。これは距離を置くべきだと思い、数年かけてミサに見つからないように店主の元に通った。
ある年、ミサのいる雑貨屋で買い物を済ませ、帰路につこうとした時、彼女と路地で鉢合わせた。正しくは、待ち伏せされていた。
「バジル」
仮面は、目元だけは見える仕組みになっている。もしもの時用でもあるが、他は少しでも見えると年を取らないと見破られたら面倒で極力隠している。
惚けた眼差しで見つめてくるミサに、ヨアンはぎくりとした。暗示にかかっている目だ。意識を奪う前の、操る時の目。
己のことは理解しているつもりだ。普段は意識的に特性を使っているし潜ませているが、事ミサにおいては意識しなくても暗示にかけてしまったようだ。
「(まいったな……こんなに弱い人間がいるのか)」
「ねぇ、バジル」
「(極力特性は消しているのだが……ミサに耐性がなさすぎるのか。気をつけなければ)」
不用意にミサが仮面に触れようと手を伸ばした。窘めるように、その手を掴んで下ろさせると、ヨアンは一度深く瞼を閉じた。
「ミサ」
視線がかち合う。ヨアンの赤い眼とミサの青い瞳が互いを映す。
「何故、待ち伏せしていた?」
「……バジルが……いつも、ここを通って帰ってくの……ここにいたら……バジルに、会える」
「ミサ」
ヨアンはミサから目を離さない。じっと、獲物を狙うような鋭い視線が突き刺さる。
「……おまえは俺を知らない。バジルという男は、ここを訪れる多くの旅人と変わらない。おまえは、俺を、知らない」
抱き寄せたミサへ囁くと、虚ろな目をしたミサは、耐えかねたようにその場で意識を手離して崩れ落ちた。ヨアンはミサを抱えて雑貨屋に戻ると、彼女の父親である店主が慌てて対応をしてくれ、おかげでヨアンは余分な土産を持って帰宅することになった。
それから、数年。変わらず旅人バジルは町で食料等を買っていく仮面の男だ。幽霊屋敷の人数も増えにぎやかになった頃、キティが買い物に同行したいと言い出した。同居人の魔女だ。
せっかくだ。ミサのいる雑貨屋の買い物は、彼女に任せた。その方がミサに近づかなくて済んだからだ。
「ねぇ、ヨ……アンでいいんだった。次いつ仮面の男するの? 買いたいものがあるんだ」
幽霊屋敷で、モコモコの寝間着姿のキティが問う。
「名前ありすぎて混乱する。なんて呼んでいいか分かんなくなっちゃった」
「おまえに教えた名は三つだろう。多くない」
「多いよ」
書斎のソファで寛ぐヨアンの隣に、キティが共に座って持ち込んだ冊子を広げた。
「実はさ、バジルって名前、前に仲良かった人の名前なんだよね」
「へぇ?」
会話の途中で、キティが楽しそうに話題を振る。この幽霊屋敷に来るより前に、巡り会った遊牧民がいたという。その一人が、同じ名前だったらしい。
「仲良い人が、バズって呼んでた」
「愛称だからな。エリザベスをエリーと呼ぶだろう」
「私も愛称できる名前にしたらよかったな」
「キティは偽名だろう? いくらでも変えたらいい」
「そうもいかないんだよねー。これでも通り名だし? ねぇ、ヨアンっていうのも偽名?」
「いや、それは本名だ。ヨアン・ダネシュティ。統治の血筋だ。言わなかったか?」
「本名だったんだ! あなたって、名前で縛られることってないの?」
キティが不思議そうに問う。魔女はその高い能力と引き換えのように、名前に意味と力を持つ。それが、本名を名乗れない理由にもなる。同様に、本名による魔力の引き出され方は尋常じゃないと聞く。
「俺の場合、名を知られている方が都合が良い。偽名でも同じだ。その方が暗示にかけやすい」
「へぇー……つくづくヨアンの特性ってさ、ほんとズルいと思う」
「そうか」
「だって、偽名でも通用するんでしょ。ズルくない? 魔法使ってないし。あなたってサラとは違う最強だよね」
そうして、吸血鬼ヨアンと魔女キティもとい仮面の旅人バジルとフードの旅人ベティが、度々町を訪れるようになった。
「あ、これ、サラが好きそうじゃない? 買ってこうよ!」
「無駄買いするなよ。今日の買い物はパーティー用じゃない。おまえらの食料だ」
「バジルだって料理に使うでしょ? これ、買おうよ」
「……好きにしろ」
楽しそうに店先で会話をする声を聞きつけて、ミサは客に声をかけようと振り向いた。店先には、大きな黒いフードを被った小柄な女が、仮面の男の腕を引いて楽しそうに品を選んでいる。されるがままに仮面の男が女の後をついていき、仮面越しでも分かる、楽し気に口元に手を添えて、肩を震わせて笑っている様子が見えた。
「いらっしゃい!」
景気良くミサが笑う。釣られるようにキティがミサに近づく。ヨアンは遠目から二人を見ていて、近づこうとはしなかった。
キティが居ついてからというもの、秋頃のパーティーの準備品とは別に、人間の増えた幽霊屋敷用にと通常の買い物もするようになっていった。たまに、キティ一人でも町を訪れるようになっていた。
「ヨアンっていうか、バジルだよ! ほんとに何したの? あのミサって人だよ。私がケンカ売られるんだけど!」
ある日、帰宅してすぐに、魔法でいくつかの商品を宙に浮かせて引き連れながら、キティがヨアンの寛ぐ書斎と、すごい剣幕でやってきた。
「私、あなたと同じ場所に住んでるとは言ったけど、それもまずかった? 前に暗示にかけたから自分のことは知らないって言ってたよね。見てこの贈り物! あなた宛で、商品タダ! これ、さすがにやばくない?」
「……すまないが、状況を詳しく教えてくれ」
キティの話では、いつの間にか自分とキティとミサの間で色恋沙汰が生じていた。雑貨屋の店主とは、今まで通り、何の問題もない。ミサとはあれから会ってもいないし、会話一つもしていない。店主経由で名前くらい話がいく可能性はあれど、それだけでは、さすがにこうはならない。
「(何故だ。関わっていないのに、どうしてそうなる)」
状況を確認しようと訪れた店先で、ミサは待ち構えていたようにバジルを捕まえた。
「ねぇ、どうして?! 私、ずっと待ってたのに!」
ばさりと花束が地面に投げつけられる。声色も血相も変えてミサが叫ぶ。
「(なんだ、何が起きている)」
「あなたが来ない年も、ずっと!」
「(こんな娘だったか? 外見は着飾っているが、中身はボロボロだ。やつれすぎだ。これでは、健康を害しているだろうに)」
綺麗に飾られた爪の両手が、バジルの首に巻きつく。恨みに染まった顔で、ミサはバジルの首を強く締めつけた。
「あなたがいてくれれば、それでよかった。どうして私を見ないの? 私が何かしたの? どうして話してくれないの!」
「(暗示は効いていた。実際、直後は忘れていた。あの町には行っているし、店主とは話しているが、ミサとは話すどころか目すら合わせていない。俺以外の誰かが暗示を? いや、ないな。そもそも暗示に落ちていない? まさか)」
ギリギリと締めつけてやるも、バジルは平然として悠長に考え込んでいる。その様を見て、ミサが笑い出す。
「……ふふ、ねぇ、バジル。私ね、あなたがただの旅人だとは、思ってないの。ずっと見ていれば、分かるの。あなたは、何者? 人間じゃ……ないのでしょう?」
手を離すと、今度は首に腕を回して、ミサはバジルに抱きついた。バジルは上の空で、抱きつかれようが反応しない。
「(分からない。どうして、人間とはこう上手くいかない。ただ、そこにいてくれればいい。俺もそれ以上近づかないし、近づいてほしくない。……俺は、自分が思っている以上に人間に近づいているのだろうか。何が正解だ。どうしたらよかった。正体を明かしている姉さんは、一体どうして信頼関係を続けていられる。俺も、せっかくここまで、この町と信頼関係を築き上げてきた。なのに、こんな人間一人に壊されるのか)」
「いつも、とても魅力的な香水ね。ねぇ、話して。あなたは、何者?」
動かないことをいいことに、ミサはバジルの胸元で満足げに囁いた。
「………………香水?」
「えぇ。いつもムスクのような、変わった香水をつけてるじゃない?」
「香水」
「違うの?」
「(……あぁ、なんだ。なんだよ)」
ヨアンはすとんと胸のつかえが取れたように合点がいった。
「(こんなことで、ここまで煩ったのか)」
自分が持つ特性だ。長いこと潜ませることに慣れ、捕らわれる者もいなくて忘れていた。獲物の人間を惑わせ、捕まえる特性。視線で狂わせ、香りで誘う。そう、香りだ。エリーといた頃には、細心の注意を払っていた。だが、幽霊であるサラはもちろん、魔女であるキティも香りには言及してこなかった。自分も、意識的に消している。町の人間達も何の問題もない。それなのに、それでもだ。ミサはまたしても暗示にかかった。かけようと、思っていないのに。
「(煩わしい! 心底、馬鹿馬鹿しい!)……俺が人間ではないなら、何なんだ」
「ふふ、やっと話をしてくれた」
ミサが満足げに笑う。ヨアンは気だるそうにため息をついた。
「手袋もして、首も耳も隠れる大きな仮面。あなたが見えるのは、その髪と……仮面の奥の、不思議な目」
愛おしそうにミサがバジルの髪に触れる。するりと一房の髪を弄って、ミサが笑う。
「ねぇ、あの女とはどんな関係?」
「……?」
「ベティって娘。私と違って小柄で、愛嬌のある、可愛い子。あの子、あなたのなんなの?」
飾られた爪がバジルの腕に食い込む。遅れてキティのことだと把握する。ヨアンの中で、一つの答えが出ていた。
「(潮時だ)」
これは狩ってしまおう。世話になっている雑貨屋の店主は、どうしようか。娘が死ねば悲しむだろう。だからといって、二人とも牙にかけるには問題が多い。自分も、この血は要らない。だが、この町には拘りたい。けれど、雑貨屋はここでなくてもいい。
「……吸血鬼、だったの?」
仮面の下の素顔を知ってしまえば怯むだろうと思っていた。それでもミサは嬉しそうに、むしろ我が儘に、バジルを帰らせないと泣きわめいた。
ミサの望むように抱き寄せ宥めれば、彼女は口づけを求めた。もう死に逝くいのちだ。好きにさせた。
久しぶりに、何も考えず、己の本能のまま、深く、強く、暗示をかけた。彼女はまるで息を引き取るように、静かに深い眠りについた。
「痛みも、苦しみも、何も感じないまま、安らかに眠れ」
酷くやつれた姿は、たった数年前の面影すらない。細い手首には無数の傷跡があり、瞳は冷たい海の底のように淀んでいた。
店主はミサの変わりように手を焼いていたようで、自分を追って失踪したという作り話を簡単に信じてしまった。絶望に暮れる店主を慰めようとは思わなかった。もう、それ以上は、どうでもよかった。
いつからか習慣になった亡骸を持ち帰る。深く赤いドレスは血の色を隠し、添えられた同系色の黒い花束と己の服装も相俟って、まるでこうなると分かっていたかのように喪服のようにも花嫁衣装のようにも見えた。
「吸血鬼君、良いところに帰ってきた!」
「(……あぁ、そうだった)」
淡々と歩いているうちに屋敷に到着していた。元気よく話しかける喧しい大声は余計に気を滅入らせた。
ヴィクター・フランケンシュタイン博士。つい先日新しくここ幽霊屋敷に住みつくようになった人間の男だ。遠くの大陸の血を引き、砂漠の民や放牧民に南の島の民など、様々な混血の男。その上、生命体を造り出す技術と自分自身での実験せいで、なんとも雑味のある面白い人間だ。
こいつはモンスターに詳しい。下手に隙を見せると勝手に推測し、時には失礼な憶測を投げつけてくる。
ヴィクターは執拗に死体を欲しがった。実は、手首に噛み跡がある。それを彼に知られるのは、少し癪だった。死体を渡すこと自体は構わないが、そこだけ腕を潰すなりして隠蔽しておけばよかった。吸血もしていない、ただ己の都合で殺しただけだ。これ以上ぞんざいには扱えなかった。
「待ちたまえ! そもそも、この女は君の獲物で間違いないな? よく聞く、首に噛み跡がない。吸血鬼とは首から獲物の血を啜るものではないのか?」
「……」
「答えてくれ。君の獲物で間違いないのだな?」
「(これは、獲物ですらない。己の都合で、いたずらに奪ったいのちだ。こうなりたくないから、暗示をかけるのにな)」
嬉しそうに質問するヴィクターの、楽しそうで愉快な様を見て、同じ関心を持たれるのでも、こちらの方がましだなと、ふと思う。彼は、研究のための興味を向けてくるだけだ。個のあれこれに執着はしてこない。
「知識と実際が異なるのだよ!」
楽しそうに語っている彼が喋り振り回す手と手首に、うっすら見える血管を見つけて、ミサはここを刺して殺したと、苦しまず死なせるために強く暗示に落としたと、ぼんやりと眺めながら思い出す。
「(……こいつもキティも、これだけ近くにいても何ともない。俺も極力、特性は消しているけれど……こいつらが特異……なわけがないよな。店主だって問題ない。町でも問題ない。ミサだけが、特異だった)」
「この女は、幸せな生涯だったかね?」
ヴィクターがいつになく真剣に呟く。なんだかんだ言っても、人間同士。こんな見ず知らずの相手にも情けをかけるのかと、相手が相手なだけに辟易した。
「……知らない(知るわけがない。知りたくもない。俺の町をたった一人の人間に奪われてたまるか)」
「長い付き合いではないのか?」
生命の研究者ヴィクター。黒猫の魔女キティ。二人とも人間なのに、こうして身近で接してくれる。これ以上望んでは、贅沢だろうか。人間達の町には、もう、近づかない方が良いのだろうか。
距離感が、いまだ掴めない。
研究者ヴィクターと商人クラーヴァル
ヴィクターはたまに妙に興味をそそられる。あまり同居人にそういった気を起こしたくないのだが、正体が分からずずっと気になっている。普段の彼は全く気にならない。むしろ本人の気質も香りもどちらも苦手だ。けれど、彼はたまに別の人間の香りをさせる。さすがにモンスターの香りではないのだが、もしかしたら、この人間離れしたよく分からない香りは、怪物とやらの香りだろうか。怪物とやらは、何者だ。香りの正体が知りたいと、そう常から思っていた。
「(この香り、まさか)」
それは偶発的に起きた。彼の後をつけようとしたわけではなかった。たまたま、行き先が同じだった。ヴィクターは森の片隅の隠してあった小さな船に乗り込んだ。そこには、もう一人、男がいた。瞬時に彼らの間柄を、ヨアンは見るよりも速く嗅ぎ取ってしまった。
「待たせたな、ハンク」
「ようやく会えた、ヴィクター!」
安堵や歓喜を全身で現す男に、ヴィクターは呆れたような満足げなため息をつき笑い返し、二人は深く口づけた。彼らが親密な間柄にあることは一目瞭然だった。
目的地は、その先だった。遠回りしようと、ヨアンは足早にその場を後にした。
数十年に一度、血族への贈り物をしている。人間達のいる地域に出ない者がほとんどで、アーティファクトや宝飾品に関心のある者もほとんどおらず、それ故に稀血を詰めたボトルを贈ることが多い。
特殊な買い物は、特殊な店でないと手に入らない。そこは、もはや人間達の通貨が通じるような場所ではない。
「(墓を荒らすヴィクターなら、こういったものも使うのだろうか)」
中途半端に彼らを目撃してしまい、ちらほらと二人の影が頭を掠める。その度にヨアンは視線を泳がせた。
「(あぁ、最悪だ)」
宵闇の中、煌々とネオンが煩く瞬いている。雑踏の中の店先で、闇を司る、蹄の形の、獣の類であろうモンスターの爪が瓶に詰められ売っている。ふと、自分の手を見つめた。
「(俺の場合、ただの毒だろうな)」
ああいったモンスターを元に薬を煎じ、人間の病を治す者がいると聞く。自分達の場合、薬になると聞いたことがない。不老不死を求めてこの血肉を欲する者はいるが、総じて人間には毒でしかない。人間以外には、その限りではないのだろうか。
「(数日滞在するんだ。いくら身の安全が保障されているとはいえ、気をつけなければな)」
ヨアンが一つの建物に入っていく。ロビー奥で、一人の黒服が深々とお辞儀をした。
「ヨアン様ですね。お待ちしておりました」
滞在先の館は、以前セクメトとも偶然に遭遇したことのある、闇のモンスターにはお墨付きの館だ。部屋へ着き、荷を解き、いくつかの書類を整理しながら、ヨアンは眼下の商店街を眺めた。
所狭しと、モンスター達が行き交っている。ここは、自分みたいな魔力を使わないモンスターの特性も、もちろん魔法も、ほとんどの害なすものは抑え込まれてしまう。皆、平等に滞在し、寛いでいる。
「(今宵は、ゆっくりしよう)」
久しぶりに気を張らず、己の種族も気にせず、何も考えずに過ごせる。ゆっくり、羽を伸ばそう。
数日後、その日は館を後に帰宅する予定だった。いくつかの荷物を館に預けたまま、最後の用事を済ませようと商店街を歩み探していと、急に、強烈に、嗅ぎ覚えのある香りが鼻をついた。
「……!」
覚えはあった。数日前に見た、ヴィクターとともにいた者だ。見事に、ヴィクターの香りもする。
それは、明らかに健康的な体躯をした好青年といった体で、茶色い髪に薄い琥珀の目、鍛えられた肉体に人当たりの良さそうな顔をしている。
「ヨアン殿、頼まれていたお品です」
店先で、小包を受け取ろうと手を伸ばしたところで、その男はこちらに気づいたように駆け寄ってきた。
「ヨアン。まさか、幽霊屋敷の吸血鬼の、ヨアンですか」
「(ここで遭いたくなかった!)……ひと、違いでは」
「あぁ、話に聞いている特徴そのままだ。その瞳に、その髪、その手の甲の肌に、爪に、背丈もそのままだ」
自分より一回り大きな男が、嬉しがって勝手に手を取り握手をしてくる。ヨアンは固まって動けなくなっていた。
「噂はかねがね。よかったら、少し、話をしませんか」
まるで隙のない笑顔で男は笑う。ヨアンは彼が聖魔法の加護をまとっていることに気づき、大人しくその後についていった。
男はヘンリー・クラーヴァルと名乗った。代々商人の家系らしく、ここもよく知っているようだった。喫茶店の片隅で、クラーヴァルは人当たり良い笑顔を向ける。
「僕はね、すごく譲歩しているんです。あなたみたいな得体のしれない男のいる屋敷に住むなんて、僕は大大大反対ですからね」
勝手に買ってきたドリンクを差し出して、クラーヴァルは微笑む。ヨアンは腕を組んだまま動かない。
「ヴィクターは、あれでけっこう寂しがり屋なんです。僕がいないとどうしようもない。料理もできないし、一人じゃ生活力が全然なくてね」
「……」
「よかったらどうぞ。この店は有名ですから、ご存じですよね。吸血鬼の方にも召し上がっていただけるドリンクです」
「……」
「くれぐれも、ヴィクターに変な気を起こさないでくださいね」
一頻り話し終えると、クラーヴァルは自分のドリンクを飲み干してじっとヨアンの返答を待った。ヨアンは大きくため息をついた。
「……言われなくても近づかない。むしろ、近づかないように、言ってやってくれ。俺の方が困っている」
「それは、あなたが吸血鬼だからですよね」
急に、クラーヴァルが身を乗り出して手を近づけてくる。さすがにヨアンはその手を強く振り払った。
「いった!」
無駄に体躯の大きいクラーヴァルは、そこらのモンスターより威圧感がある笑顔で手を伸ばしてくる。
「何だ」
「せっかく、あなたとお会いできたんだ。ヴィクターに土産が欲しい。いつも、彼が言っているんですよ。あなたの髪の毛一つでも欲しいって。それはもう、煩くて。僕だけを見ていてほしいのです。そのためにも、彼の興味をあなたから引き剥がしたい」
「だから、何をしようとした」
「あなたの髪の毛一つでも欲しいって、そのままです。いいでしょう、それくらい」
「ごちそうになった!」
ヨアンは逃げるように店を後にする。クラーヴァルも負けじと後を追った。モンスター達の行き交う商店街は、障害物が多い。風船のような大きな体躯のモンスターの横をすり抜けると、ヨアンは滞在していた館へと逃げ込んだ。
「待ってください」
それでも、しつこくクラーヴァルは追いかけてきた。何事かと、黒服が対応してくれ、改めて館のロビーにて、彼と面と向かって話すことになった。
「(どうして、こうなる)」
「話の機会をありがとうございます」
屋敷に従事する黒服が、愛想笑いで場を後にする。ヨアンは一人用には大きすぎるソファに埋もれるように深く座り、両手で目を覆った。
「確かに、髪の毛を無理やり抜くわけにもいきませんね。ハサミをお持ちしてしましょう」
「くれてやるわけがないだろう」
「どうしたらいただけます?」
「……」
もう拉致が明かない。ヴィクター以上に、こいつは話が通じない。
真っ直ぐ、疑いなしに見つめてくる視線。聖魔法をまとっているとはいえ、暗示にはかかってしまいそうな、弱い魔力。だが、ここではそれも効力を持たないだろう。
「逆に、おまえは何を差し出す?」
ヨアンが肘をつきながら問う。彼の、躊躇わず身を乗り出して話を聞く様は、まるでヴィクターのようだと、ヨアンは内心苦笑した。
「僕、ですか。なんだろう……」
「おまえ自身は、差し出せないのか?」
困らせてやろうと思った。乗り出してきたクラーヴァルの胸元を掴み引き寄せる。クラーヴァルはよろめき、ヨアンに覆い被さるように彼の座るソファに手をついた。真上で、クラーヴァルが驚きに目を見開いた。ヨアンは笑う。
「たまにな、ヴィクターから、知らない血の香りがする」
「彼から」
「あぁ。豊潤で、複雑で、人間にしては奥深い血の持ち主だ」
「彼には手を出さないでください」
「あいつじゃない、おまえだ。ヴィクターと関係を持ち、彼にその香りを残す、内陸の、山に囲まれた、戦の民の混血」
「……分かるのですか」
「まぁな」
手を離してやると、クラーヴァルは大きく深呼吸をして元いた自分のソファに戻る。ヨアンは高鳴るクラーヴァルの心音に優越感を抱いたが、クラーヴァルは悉くそれを壊していく。
「あはは、お恥ずかしい。僕らの関係がばれていたんですね」
「……」
「そういったことも分かられてしまうとは、モンスターとは卑しいものですね」
「おまえが言うな。俺も想定外だ。彼がよく言う怪物とやらの血の香りかと思っていたが、とんでもない。ただの人間だったとは」
「……残念ですか?」
クラーヴァルがほくそ笑む。ヨアンは白々しく肩を竦ませた。
「しかし、それは脅しにも交渉材料にもなりませんよ。僕達は関係を公言していますからね。なんなら、広めたっていい」
「そんな回りくどいことはしない。ヴィクターの役に立ちたいのだろう?」
クラーヴァルをわざと指差して、ヨアンは語る。
「混血とはいえ、これだけ濃い戦の民は珍しい。おまえを差し出すなら、ヴィクターに協力してやってもいい」
「僕を、殺すのですか。それは、さすがに、承諾しかねる」
「だろうな」
くつくつと喉の奥で笑って、ヨアンは腕を組む。
「実は、探し物があってな。稀血に準ずる、ある程度希少価値のある血だ。純度や型はいい。そこまで高級なものは探していない。先程のドリンク程度の量でいい。ボトルに詰めて魔法をかければ、立派な商品だ」
「僕に、それを、しろと」
「ヴィクターに土産が欲しいのだろう?」
今度はヨアンが立ち上がる。クラーヴァルの座るソファの隣に立ち、彼の腕を掴み上げた。
「なんて、力だ」
宙吊りになるように腕が上げられる。慌ててクラーヴァルが立ち上がり、もう片手でヨアンを捕えようとするも、もう片腕も掴まれてしまう。
「一つ、話をしよう。我々はどうしても、噛みついてしまえば獲物を殺してしまう。傷が深すぎるんだ。生かしておくのなら、爪で傷をつける。この、親指の尖端が釘みたいなもので、的確に血管を狙える」
「なんの、話ですか」
「我々の習性だ。良い土産話だろう? 彼は俺を調べたいわけじゃない。我々の種族を知りたいだけだ」
ヨアンが薄く笑う。
「おまえは被害者で、ヴィクターの協力者だ」
不可解な顔をしていたクラーヴァルが、やっと理解したようにようやく笑って頷いた。ヨアンは、外を見ようとしない血族に、たまには嫌味の一つでも送ってやろうかと、わざと彼の血を求めた。実のところ、ヨアン自身も興味を惹かれていた。自分も血族も、普段はここまで混ざりすぎた混血を口にしないのだ。
「こちらをお使いください」
黒服が頃合いを見て必要なものを用意してくれる。彼らは客同士の争いが起きないために監視役でもあるようだ。クラーヴァルに痛み止めを出してくれると提案してくれたが、当の本人がそれを拒んでしまう。
「ご配慮ありがとうございます。けれど、痛みの度合いも知っておきたいのです。これもヴィクターのため。ヨアン、あなたもお気になさらず」
「(この男は、ヴィクターを引き合いに出せば、いくらでも簡単に言いくるめられそうだな)」
しっかりと血管を見せるクラーヴァルの手首に、ごくりとヨアンが喉を鳴らした。斜めから次第に食い込ませるように、ヨアンの親指の爪が橈骨動脈付近を狙う。爪先からじんわりと血が現れ、ヨアンの指を伝い、一滴、一滴、ゆっくりと滴り落ち、小さな器を経由してボトルへと収まる。
視線をやれば、クラーヴァルが痛みに耐えながら興奮気味に傷口を見つめている。痛みよりも好奇心が先行する様は、あの男にこの男、二人とも似た者同士だなとヨアンは面白がった。
「(なるほど、この男がまとっている聖魔法もこのボトルも危害を加える類ではないから、アーティファクトの力が制限されない。血が劣化しないで、ボトルに入る前から守られている)」
「ひょっとすると、僕の血も、ここでは値段がつくのか?」
「……」
「もっと、どばっと一気に血を抜かれると思いました。案外モンスターも器用なんですね。なめていました」
「(こいつ、どこまでも俺を目の敵にするな)」
引き抜かれた爪に代わり、幹部を強く押さえながら、ヨアンは黒服を呼んだ。彼らは内容には触れず、淡々と職務をこなしてくれた。
「応急措置ですから、後で魔法の使える方に治してもらってください。ヨアン様、こちらは当館でお預かりでよろしいでしょうか」
「あぁ、よろしく頼む」
傷口を押さえながら蹲るクラーヴァルを眺めながら、ヨアンは血のついた指先を拭う。
「……なんとも、香りが残念だ」
ヨアンの言葉にクラーヴァルが頭をあげる。彼は指を眺めていた視線をクラーヴァルに移すと、肩を竦めてみせた。
「俺は、悉くヴィクターが苦手らしい」
なんともいえない顔をするクラーヴァルの傷つき包帯の巻かれた手を取れば、ヨアンは軽くそこに口づける。
「さぁ、ヘンリー・クラーヴァル。二度とこんなことはしない。一切忘れてくれ」
試しに強く視線を送るも、やはりこの場では特性は完全に消されてしまっていた。
地縛霊サラと魔女キティ
ヴィクターが居ついてから何度目かの秋が来た。あれからクラーヴァルともう一度会う機会があった。彼がわざわざ自分を訪ねてきたのだ。
彼は感謝を述べたが、同時に忠告も口にした。確かに、髪だなんだはもう要らなそうだ。ミサの時に噛み跡を、その後の争いで血痕を、それぞれ自分の残した跡をヴィクターが拾い上げている。それでもヴィクターが自分から興味を外さないと、クラーヴァルは自分に牙を剥く。
「いいから、俺を巻き込むな」
お角違いも甚だしい。研究室からヴィクターの首根っこを掴まえて引きずり出せば、雑な扱いにクラーヴァルが悲鳴を上げる。事の顛末は話してあるようで、むしろ血筋についてあれこれと聞かれ、ヨアンは逃げるように二人の前から姿をくらませた。
「人気者は大変ね」
サラが笑う。どこからか見ていたようだ。
「サラは知っていたのか、あいつらのこと」
「ついさっき知ったわ。あなたはいつから知っていたの?」
「最初から気づいてはいたが……面識は、最近だ」
「どういうことかしら?」
「血の香りだ。香りだけは先に知っていた。それが人間の男で、あんな生き残りのような血筋だとはな。本人に直接会わなければ、分からなかった」
「吸血鬼のあなたでも、分からない血があるのね」
「おまえのように純粋な血筋ならともかく、ヴィクターは混ざりすぎだ」
「あら、わたくしは実体がないのに。それでも、わたくしの血筋が分かるのね?」
嬉しそうにサラが微笑む。ヨアンは一度彼女から視線を外し、中庭で忙しないヴィクターと楽しそうなキティを遠巻きに眺めながら、一つ一つ、言葉を紡ぐ。
「パーティーで……向こうで、おまえは実体を持つだろう。それで、十分だ」
「不思議ね。わたくし、向こうではそこまで人間だった頃のようになっているのね」
「まぁな」
昼間の緩やかなそよ風が大きく吹く。キティに言い寄っていたヴィクターが風で吹っ飛ばされた。拒まれたというより、頼み込んで飛ばされたようだった。
「わたくしは、本当はどんな人間だったの?」
サラがわくわくしながら手を合わせる。ヨアンは少し困ったように笑い返した。
「そうだな。ある土地の、とても繊細な……純血だ。代々、血筋が守られてきたような……」
「まぁ」
「どうやって、守られてきたのかは……分からない」
なんとなく言葉を選びながら話すヨアンを、サラはじっと見つめていて、その視線に返すに返せず、ヨアンは戯れる二人に視線を戻す。
「わたくし、偉い人だったのかしら? うふふ」
こんな時、つくづく自分がモンスターだと思い知る。サラは、これでいて、結局人間なのだ。
彼女がどれだけの人間の霊魂を屠ってきたか数知れない。会話をしようとするだけだ。それで彼女に恐怖などの念を抱いただけで人間が人魂と化す。
ヴィクターが、サラが人間も含めた対象の生気のようなものを吸収しているのではと話していたが、あれはそんな可愛いものじゃない。
サラは、霊魂を喰っている。人魂にしてしまうのも、そうして喰うからだ。何度かセクメトにも確認した。彼女が人魂にしてしまった人間の霊魂は、死神であるセクメトの元を訪れない。あの世に逝けず、完全にサラに取り込まれ、消滅する。そうして蓄えられた霊魂の量に比例して、この屋敷の呪いが深く強いものになる。霊魂の専門家が言うのだ、間違いない。それを本人は何も分かっていないのだから、質が悪い。
そんな強烈なモンスターであるサラですら、所詮は元人間だと見下している自分がいる。血を糧にする自分がいるのに、無防備に血肉を晒す弱き者。守ってやらないと、いつか何者かに喰われてしまう。
「嬉しいねぇ、今年もキティちゃんは招かれたんだ! いいよねぇ、あの魔力もさることながら、あの子の内に秘めた凄まじい悲しみ! それはもう酷いんだから!」
「喋るなよ、他人の過去なんて聞きたくない」
「いやいや、自分、感情しか分からないのよ。どんなエピソードかは死んでもらわないと分からない」
「そうなのか」
「うはは、なんか警戒してる?」
パーティー当日、一通り楽団への指揮が終わると、ヨアンは建物の一室でセクメトとともに寛いでいた。
彼は最近、毎回のようにキティの具合を聞いてくる。明らかにその魂を狙っている。気持ちは、分からなくもない。あれだけの魔力を秘める、穢れのない肉体。聖魔法に耐性のあるモンスターなら、欲しがって当然だ。
「むしろ、おまえはどうなんだ」
「え。何、自分?」
「おまえも魂を喰らうのか?」
「うはは、急に何?」
「地縛霊のサラは霊魂を喰らう。死神のおまえもそうなのか?」
「もしかして、自分にキティちゃんが喰われると思った?」
楽しそうにセクメトが笑って両手を叩く。ヨアンはじっとセクメトを疑うように見つめる。
「キティが招かれたここ数年の話だ。やたらと伯爵に加護の話をされる。おまえのせいか?」
「やめて、やめて! そんな趣味ないから! ほんと、気になっちゃうの。分かるでしょ。君だって美味しそうとか不味そうとか関係なく惹かれる血ってあるでしょ!」
必死に訴えるセクメトの言葉に、いつかの死にかけた赤子の血を思い出して、ヨアンも言葉を詰まらせた。
「死神の性ってやつだ。魂を喰いたいとか、冥界へ送りたいとか、そういうものじゃない。気になるっていうなら、君がずっと連れてきてる地縛霊ちゃんの方よ」
「サラか」
「それそれ」
仮面の顎を撫でながらセクメトが楽しそうに肩を震わせて笑う。
「いつだったか、大層ご執心の女がいたでしょ? その女と同じ、正しき賛美の教えの者だ。奥底でそう信じてるのに、何の因果か、そう見えない悲しく惨めな魂だ。そういう信仰を持つ傷ついた魂の方が、自分は気になるね」
先程感情しか分からないと言っていたが、セクメトは目に見えない信仰やら感情にここまで精通している。彼の視点にはなかなか慣れないなと思いながら、ヨアンは軽く息を吐く。
「……個人的には、あいつは味気がなさすぎてつまらない。東の大国の都の純血、その本質を貫いた血筋だ。混じり気がなさすぎて、物足りない」
「うはは。面白い! 自分もさ、あのひとは正しき賛美ちゃんといえばそうなんだけど、良くも悪くも古すぎた時代に取り残された信仰なんだよね。この辺、ただの好みなんだけど」
「へぇ?」
ヨアンが興味深そうに声を漏らす。
「俺もだ。古すぎて、今となっては珍しい血だが、純粋すぎて、逆にそこまで興味を惹かれない」
「似てる。どっちも古すぎて純粋だ。信仰と血筋が一致することもあるんだ」
くるりと袖の長い手を回してセクメトが大袈裟に考える。
「おまえがキティを気にするのも、信仰故なのか?」
「いやいやー? あれは単純に魔力さ。君はどうでもいいって感じだね?」
ツンツンとヨアンを小突くセクメトの服を払って、ヨアンが嫌そうに笑う。
「あぁ、個人的にあの方面の血筋は好きじゃない。混ざってはいるが、キティはおおよそ北西の島国の血筋だ。あの一帯は、おまえの嫌いな福音の教えの地域だろ」
「しかも、古い善行派の方。キティちゃん、全然そういった信仰の気配はしないんだよねぇ。宗教を持ってなさそう」
「はは、かもな」
頬杖をついて、ヨアンは目を細める。窓の向こうに、話題の人物が楽しそうに笑う姿が見えた。
「魔女は信仰でその魔力を強めると聞いたことがある。あいつにはそれも必要ないんだな」
「ちょーっとそれは違うかなぁ? 信仰とか宗教とかってのじゃなくて、キティちゃんにはキティちゃんなりの信念はあると思うよ。そうじゃなきゃ、あんな風にはならない」
セクメトもはしゃぐのをやめ、ヨアンと同じく、静かに窓の外の賑やかな笑い声のする方を眺めて話す。
「……ねぇ、キティちゃんの出身地ってさ、妖精とかエルフとか聖魔法の使い手が多いじゃん? あの子、その辺の血筋は混ざってないって言ってたよね」
「あぁ。何度も言うが、どれだけ微量でもモンスターと人間の血は間違えない。元人間のモンスターでもだ」
「こっちもねぇ、少し調べたんだ。キティちゃんにあれっっっだけ加護くっつけてる犯人って、たぶんね、あの子の身近にいたひとで、聖魔法を扱えるモンスターか、その混血っぽいのよ
「へぇ?」
「北のエルフじゃないかな。生きていたら、君が教えてくれたかもね」
「どのみち、俺達には苦手な聖魔法の使い手か」
「嫌な加護だよねぇ、モンスターの加護ってやつは。頑丈すぎて、手が出せない」
冗談めいて笑うセクメトだが、彼はいちいち同居人達を狙っているかのような口振りで話す。本気なのか冗談なのか、それとも彼の性格なのか、いまいち理解しきれない。最悪、このままではヴィクターはもちろん、キティも、もしかしたらサラだって狙われるかもしれない。霊魂については、幽霊なのにサラは詳しくないし、自分より魔女のキティの方が詳しいくらい、よく分からない。
モンスターの加護について、お守りについて、伯爵にもしばしば勧められる。自分の場合、一番強固に加護を与えてしまうのは、己の血だ。相手の体に流してしまえばいい。そんなことをすれば、人間は死ぬ。同様に強い加護が、噛み跡だそうだ。いのちを奪わず跡だけつける方が難しいし、一つ間違えるとただの呪いだ。キティが招かれる前はそんな話は一切なかった。わざわざ自分に話すのだ。そういうことだろう。
目を離すなという、助言だろうか。大切な人間を作るなという、警告だろうか。
「夜の子よ」
はっとした。考え込んでいて、伯爵が隣に立っていることに気づかなかった。セクメトはセクメトで、視界の端で誰かと話し込んでいる。
「伯爵」
このひとは全く気配がない。触れはするものの、その感触さえ自分の幻かと思うほどに。
「一つ、良いことを教えよう。君が血に敏感なように、彼女は、悲しみや恨み、不平や怒りといった感情に敏感だ。その上、彼女は血に所縁のある君だからこそ、気になってしまう。分かってあげて」
「(あいつ、女だったのか)……あ、あぁ……」
ひらひらと骨だけの手を振って、伯爵が次の者に声をかけに去っていく。心が読まれていたように、タイミングよくそんなことを言う。
考えてみれば、誰も伯爵の名前を知らない。尋ねようとしない。正体を知らない。彼だと思っているが、彼女かもしれない。何度か、この疑問は抱いたことがある。しかし、いざ伯爵と話す時に、その疑問を抱いたことがない。
これも、一種の暗示だろうか。
「……全く、分からないひとだ」
遠目に伯爵の姿を眺めながら、ヨアンは軽いため息をついた。
熱狂と混沌のパーティーから戻ると、どこまでも穏やかで、変わらない幽霊屋敷が迎え入れてくれる。
あぁ、ここが我が家なんだなと、心から思う。
あれから、エリーの家系を孫の代までは様子を見ていたが、元が同じ人間でも、エリーのような人間は生まれてこなかった。同様にエフィームの家系がいつか脅威になるかと監視を続けたが、誰一人として彼のような性質を持つ人間は生まれてこなかった。
自分の元いた屋敷の数々は、まるで別世界のように跡形もなかったり、そのままモンスターの巣窟になっていたりして、もう一度足を踏み入れることはなかった。
たくさんの手離した使用人も追えるところまでは追ったが、皆が一様に寿命を含めて死を迎えていった。
幽霊屋敷に住み始めて百年以上経つ。もはや、自分を覚えている古い人間はいない。今は年数回、いくつかの町の人間達と、つかず離れずの付き合いを持つ。
これが、自分にとって、適切な距離なのかもしれない。
「少し、切ないな」
ヨアンは吸血鬼だ。人間を求め、学び、愛し、糧にし、守り、寄り添いながら、今宵も幽霊屋敷から人間達へと、想い更ける。
【ハロウィンパーティーの招待状】吸血鬼の旅路について