舞台『サヨナラソングー帰ってきた鶴ー』レビュー
『サヨナラソング』、とても素晴らしい舞台でした。
あらすじは以下の通りです。
布を織る様子を見てはいけない、という禁を破った夫の元から去ったはずの鶴=おつうが彼の懇願に応じて舞い戻り、村で再び暮らし始めたら…という『鶴女房』のアナザーストーリー。その未完成作品を自殺した夫が書き残していた。夫と同じ小説家で、鳴かず飛ばずの夫と違って売れっ子作家としてその名を世間に知られている妻は生前、夫を担当していた編集者からこの続きを書いて欲しいとお願いされる。夫が亡くなってから一ヶ月も経っておらず、自身の気持ちの整理がついていない上に一人息子の様子がおかしい事を気に病む妻は、その依頼を強く断るも実質的な遺書ともいえる作品に手を加えては止め、手を加えては止めを繰り返す。唐突な夫の死に対して出せない答えを見つけようとするかのように…。
舞台の上ではその①アナザー『鶴女房』の話の展開が②現実パートと並列的に演じられ、既に去った者と残された者との間にある絶対的な隔たりとして家族の悲喜交々を描き出すのですが、これと同時に①の方では異類婚姻譚を軸に、おつうを排除したり都合よく利用しようとする村社会の実相が皮肉たっぷりに切り取られ、②の方でも機能的な分業社会の軋轢がぎちぎちと回り出します。
と書いてしまうと本舞台がすごく深刻なもののように思えますが、①で与吉を演じられる小関裕太さんのキャラクターが本当に「バカ」が付くぐらい底抜けに明るくて、出てくる度に舞台の明度が増し、②の現実パートにまでその残光が届いてしまう始末。実際、②の方でも「え、マジで!?」と驚くトンデモ展開が待っていて、創作された家族とリアルな家族を中心にしたユニークな笑いが終演まで巻き起こります。この部分が、ともすれば社会派に染まりそうなテーマの関係項をスムーズに運ぶ非常に優れた語り口となって、忘れられない感動を舞台の最後に生み出します。
なぜ夫である宮瀬陽一は自死を選んだのか。
そう言葉にする度に、喉が渇く苦しみを覚える妻、篠川小都を演じる臼田あさ美さんがその手で強く握り締める鍵は、妻も子供も顧みずに自ら命を絶った宮瀬陽一個人が抱える問題に通じ、さらには人間社会の構造的な暗がりも露わにする。そのきっかけとなる問答を、ただただ純粋に繰り返すのが二人の間に生まれた愛息。パパにもママにも幸せになって欲しかった気持ちです。
死ぬのは駄目だ、と描くアプローチを本舞台は取っていません。ああそうか、生きていても良かったんだなぁ…という嘆息混じりの苦笑いをこそ本舞台は生き生きと描き出していきます。
タイトルである『サヨナラソング』に込められた祈りも下手な台詞を必要としない。そこに込められた想いは光となって、彼や彼女の後悔を劇場に解き放って消えていきます。その行方をリアルタイムで追えるのは舞台ならでは。私、観劇しながら泣いたの初めてです。母が宮瀬陽一と同じ末路を辿っていて、残された側の、あの凪いで仕方ない気持ちが痛いほど分かる身としては臼田あさ美さんの表情に救われる思いでした。すっごく、すっごく良かった。スタンディングオベーション、力の限りさせて頂きました。
演出の面でも、小関さんも臼田さんもほんとどうやって衣装チェンジだけじゃなくて髪型も「与吉」になったり「おつう」になったりしちゃってるのよ!?ってぐらいに見事な入れ替わり立ち替わりのオンパレード。プロジェクションマッピングも駆使して、臨場感溢れる体験を客席で味わえるのは漏らすことなくここに記すべき本舞台の良きポイントです。
完成度の高い作品を目の当たりにできて、舞台や芝居の持つ力を体感できた。それが何よりの幸せです。『サヨナラソング』東京公演の劇場は紀伊國屋ホール、今月の21日まで公演中です。終演後、リピートチケットも現地で発売していたのでそちらも是非。都合つかなくて、視界の端の収めながら諦めた私の代わりに観劇しまくって下さい。お勧めです。
舞台『サヨナラソングー帰ってきた鶴ー』レビュー