栄小学校の女の先生
栄小学校の女の先生
栄小学校の女の先生
埼玉県草加市の松原団地にある栄小学校である。
京子は今年から4年B組の担当になった。
教室に行くと40人の子供たちが先生が来るのを待っていた。
大体、皆、知っている顔だが一人、内気な子がいた。
名前は山野哲也だった。
皆ワイワイ騒いでいるのに一人ぼっちである。
経歴には小学校3年まで神奈川県にある喘息の施設に入っていて3年の終わりにそこを退院して親元に帰ってきて栄小学校に転入した・・・とある。
学科の成績は普通で特に優秀なわけではなく特に成績が悪いわけでもない。
昼休みは皆、教室でお喋りをしたり校庭に出てドッチボールをやったりしているのに、その子は一人で机に向かっている。
あの子は何を考えているのだろう?
趣味とかあるのだろうか?
学校の廊下で会った時ニコッと笑顔で「こんにちは」と言っても返事もしない。
しかしその子は図工だけは上手かった。
夏休みが終わって二学期が始まった時、図工で「夏休みの思い出」を絵で描きなさいと言ったら、あの子は野球場の絵を描いた。
きっとプロ野球観戦に行ったのだろう。
それであの子は野球場の絵を描いたのだろう。
しかし吃驚した。野球場を空中の一点からの視点で書いていて立体感を出している野球場を描いたからだ。ちょっと小学生に描ける絵ではない。皆は絵が下手なのに。しかしあの子の描いた絵は芸術的な価値はない。技術者的な正確さのある絵だ。
京子はその子(山野哲也)のことが気になるようになった。
「仏は子供を愛するのに区別はないが、その中に病気の子がいると仏の心はひときわその子に惹かれていく」
と仏教聖典にあるが京子もそれと同じ感覚だった。
元気で友達がたくさんいる子は何もしなくてもいい。
健やかに育つから。しかし友達もいなく挨拶も出来ないような子は何とか皆と同じように元気で活発になり友達も出来るようになって欲しい。
・・・・・・・・・・・・
その週の日曜日、京子は順子という大学時代の友人の家に行った。
順子は大学で心理学を専攻して心理のカウンセラーになっていた。
ピンポーン。
チャイムを押すと家の中から「はーい」という声がして玄関の戸が開いた。
順子が出てきて顔を出した。
「いらっしゃい。京子。待っていたわよ」
ささ、どうぞ入って、と言って順子は京子を家に入れた。
「やあ。順子。久しぶりね」
そう言って京子は順子の家に入った。
「元気?」
順子が聞いた。
「ええ。元気よ」
京子が答えた。
「順子は?」
今度は京子が聞いた。
「ええ。元気よ」
順子が答えた。
「京子。とりあえず食卓に座って。パスタを作ったわ。お昼まだでしょ」
「ええ。ありがとう」
そう言って京子は食卓に着いた。
順子はウキウキした様子でキッチンに行った。
そしてパスタとサラダとアイスティーを持って来た。
パスタには小エビがたくさん入っていた。
「小エビのタラコソースにしたの。どうぞ」
順子は嬉しそうに言った。
「ふふ。相変わらずね。順子は」
と言って京子はクスッと笑った。
順子は学生時代からパスタが好きだった。
仲良しの友達が集まって食事をしようということになると順子が「イタリアンへ行こう。パスタ。パスタ」と熱烈に言うので順子がいると食事はイタリアンの店と決まっていた。
幸い大学の近くに、イタリアンの店があったので、食事といえば、そのイタリアンの店ばかりに行った。順子はパスタが好きで、いつも色々なパスタを食べていた。
「さあ。どうぞ。食べて」
「ありがとう。あなたがお昼用意して待っているわと言ったから私も朝ごはん食べずに来たの。お腹ペコペコだわ」
京子の腹がグーと鳴った。
二人は「頂きます」と言ってパスタを食べ出した。
「どう。京子。お味は?」
順子が聞いた。
「うん。タラコの風味とほのかな塩気のクリーミーなソースが最高だわ。小エビのプチプチ感もいいわ」
京子が答えた。
「ふふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ」
二人はパスタをパクパク食べサラダも食べ、そしてアイスティーをゴクゴク飲んだ。
「あー。おいしかった。ご馳走さまでした」
京子が言った。
「ご馳走さまでした」
順子も食べ終わって言った。
「京子。学校の先生はどう?」
順子が聞いた。
「うん。まあ楽しいわ。楽でもあるしね」
「よくわからないげど小学校の先生って楽そうね。京子は何を教えているんだっけ?」
「全科目教えているわ」
「担任しているクラスもあるんでしょ。何年生を担任しているの?」
「4年生だわ」
「ふーん。4年生か。小学生も4年生になったら、わーわー騒ぎ出すでしょ」
「ええ。みんな元気よ」
「クラスでいじめとかケンカとはあるの?」
「ないわ。有難いことに」
「そう。それはよかったわね」
そう言って順子はアイスティーを啜った。
「ところで京子、今日は何の用で私の所に来たの?いきなり、あなたが会いたいって電話してきたから少し驚いたわ」
「ねえ。順子。あなたは大学で心理学を専攻したでしょ。どんな資格を持っているの?」
京子が聞いた。
「臨床心理士、学校心理士、臨床発達心理士、認定心理士、産業カウンセラーの資格を持っているわ」
「すごいわね。それでどんな仕事をしているの?」
「いくつもの企業や団体でカウンセラーとして働いているわ。それと講演依頼も結構くるから講演もしているわ」
「すごいわね」
「いやあ。心理学部を出ても、なかなかこれといったいい職場はみつからないわ。だから心理学部を出た人は結構、色々な資格を取っているわ」
「謙遜しているけれど本当はすごいんでしょ」
京子がニヤッと笑った。
「ふふふ。さあ、どうかしら・・・・・」
順子は含み笑いして答えた。
「順子。今日、私が来たのは、あなたが優秀な心理学者だから聞きたいことがあって来たの」
「なあに?聞きたいことって?」
「ある生徒のことなの」
「どんな生徒なの?」
「私が担任している4年B組の生徒なの」
「男の子?女の子?」
「男の子」
「どんな性格なの?」
「無口で誰とも話さないの。昼休みになっても皆は校庭でドッチボールをやったり、教室でお喋りしたりしているのに、その子は机に着いたまま、じーとしているだけなの。廊下ですれちがって私が会釈しても少し目をそらして何の返事もしないの」
「ふーん。それで学科の成績は?」
「普通よ。5点評価で全科目3点くらい」
「親子関係は?」
「お父さんとお母さんがいるわ。一度、家庭訪問に行ったことがあるわ。優しそうなお母さんだったわ。お父さんは会社に出勤していたのでいなかったけれど、お母さんに、お父さんのことを聞いてみたけれど真面目な性格らしいわ。哲也くんを叱ったり間違っても虐待なんてしたこともないって言っていたわ」
あはははは、と順子は笑った。
「順子。何がおかしいの?」
「あなたの単純さが」
「どう単純なの?」
「だって考えてごらんなさい。子供を虐待している親に、あなたは子供を虐待していますか、って聞いて、はい。虐待しています、って言う親がいると思う?」
順子が言った。
「それは確かにそうだけど。人の性格は会って少し話せば大体わかるものだと思うわ。私の前では良い母親を演じて子供に対しては態度が豹変して虐待している、というような、そんなジキル博士とハイド氏のようには到底思えないわ。虐待されているのなら顔にアザが出来るでしょう。哲也くんは顔にアザが出来て学校に来たことなんて一度もないし・・・」
京子が反論した。
「殴るだけが暴力じゃないわ。言葉の暴力の方が肉体的な暴力より、つらいものよ」
順子が言った。
「私もそう思うわ。でも哲也くんのお母さんは哲也くんを叱りつけるようには、とても思えないわ」
京子が言った。
「ふむふむ。それで、その子のことをもっと教えて」
順子は哲也に興味を持ちだしたようだった。
「その子はね、栄小学校に入学したの。だけど小児喘息があって2年生の初夏の頃から神奈川県にある喘息の施設に入ったらしいの。小児喘息を治すために。そこで3年生まで、つまり1年半、喘息の施設に入っていたの。喘息も施設に入ったことで改善して4年からまた栄小学校にもどってきたの」
京子が言った。
「ふーん。なるほど。なるほど。もっとその子に対する情報はない?」
順子は謎を解く探偵のようだった。
「そうね。その子は図工だけは得意なの。美術の時間、夏休みの思い出で楽しかったことを絵に描きなさいって言ったら、その子は野球場の絵を描いたの。しかも空中の斜め上からの視点で描いた絵で立体感を出していて正確で、その時は、クラスの皆が寄ってきて、おおー、すげー、と驚いていたわ。私もよく小学校4年生で、よくこういう絵が描けるなって驚いたわ」
順子は、ふむふむ、といかにも得意げな余裕の表情をした。
順子には何かわかったことがあるのだろうと京子は思った。
「京子。あなたは(-)がないから問題ないと思っているけれど。(+)があるかどうかということは考えようとしないの?」
「(-)とか(+)って何なの?」
京子は首を傾げて順子を見た。
「哲也くんのお父さんもお母さんも哲也くんを叱ったり虐待してもいない、って言ったでしょ。叱ったり虐待したりするっていうのが(-)の行為だわ。そういうのは無いとお母さんは言ったんでしょ。私もそれを信じるわ。しかし(+)の行為があるかどうかは、あなたは聞かなかったから(+)の行為があるかどうかは、わからないじゃない」
「順子。(+)の行為って何なの?」
京子が聞き返した。
「(+)の行為っていうのは哲也くんのお父さんや、お母さんは哲也くんに(愛)を与えているかということよ。そして哲也くんは親を愛しているかどうかってことよ。親が子供に(愛)を与えていれば子供は親を愛するわ」
順子が言った。
「順子。確かにその通りだわ。でも私、家庭訪問で哲也くんのお母さんと会って明るい優しそうなお母さんだなって思ったわ。きっと哲也くんに(愛)を与えていると思うわ」
京子が反論した。
「私はそうは思わないな」
順子は自信に満ちた口調で言った。
「どうして?」
「その子は図工が得意で立体的な野球場の絵を描いたって言ったでしょう。それが理由よ」
順子が言った。
「ええ。私もどうして図工はあんなに上手いのかって驚いたわ。でも、それが親の(愛)とどういう関係があるの?」
京子が聞き返した。
「小学生は色々なことに興味を持つわ。夏休みの思い出を絵で書きなさいと言って、その子は野球場を描いたんでしょ。ということは、その子はプロ野球が好きで親と一緒に東京ドームにプロ野球の試合を見に行ったのにちがいないわ。だからその子は野球も好きなのよ。野球を見るのも好きだし野球をやりたいとも思っているはずよ。でも内気で喘息で体力がなくて友達がいないから、というか、友達の輪に入れないから野球が出来なくて、さびしがっているのよ。・・・・・私の推測をどう思う?」
順子が京子に聞いた。
「え、ええ。言われてみれば、その通りだと思うわ。さすが心理学者ね。もっと話して」
京子は順子の鋭さに感心し出した。
「その子のお父さんは仕事だけの人間で趣味もなく休日は寝ころんでテレビを観ているだけだと思うわ。哲也くんをかまってあげたり一緒に遊ぶということもしていないと思うわ」
順子が言った。
「ど、とうして、そんなことまでわかるの?」
哲也の父親まで分かる順子が京子には不思議だった。
「だって、もしお父さんに将棋とか釣りとか何かのスポーツとかの趣味があったら大抵、子供はお父さんと、その趣味を一緒にやるでしょ。そうは思わない?」
「お、思うわ。そ、それで・・・」
「だから哲也くんは家でも親にかまってもらえないから、きっと一人で絵を描いたり、プラモデルを作ったりと、一人で出来る遊びをしているのよ。内気な子はデリケートで繊細な性格だから絵が上手くて図工が得意になるのよ。だから哲也くんは、学校でも友達がいないし家でも親にかまってもらえないから(愛情)に飢えているのよ。つまり親から(愛)という(+)の行為は受けていないのよ。私はそう思うわ。京子はどう思う?」
順子が言った。
「そ、その通りだと思います。順子先生」
京子は順子を尊敬し出した。
「先生なんて呼ばないでよ。私は100万人以上の人間を見てきたから話を聞けば大体のことはわかるわ」
「では順子先生にお伺い致します。廊下を歩いていて哲也くんと会って私が会釈すると哲也くんは顔をそむけるんです。これはどうしてでしょうか?私を嫌っているんでしょうか?」
京子が聞いた。
「ははは。違うわ。正反対の逆よ。哲也くんは間違いなく、あなたのことが好きなのよ」
順子が答えた。
「ど、どうしてですか?好きな人が会釈したら会釈を返すものでしょう?会釈しないどころか、顔をそらすというのは私を嫌っているからじゃないんですか?」
京子が聞いた。
「京子。それは元気な子の場合よ。あなたは元気で明るい人間だから内向的な人間の心理が全然わかっていないわ」
「順子先生。好きな人を無視するという心理を教えて下さい」
京子はひれ伏して頼んだ。
「あなたはシャイな人間の心理が全然わからないのね。シャイな男の子は好きな女の人に、自分が相手を好いているということを気づかれたくないの。自分の感情を素直に示すということが出来ないの。鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす、という心理よ。これはシャイな人だけじゃなく社交的な人でも起こることがあるじゃない。だからことわざになっているほどでしょ。哲也くんはきっと毎日、熱烈にあなたのことを想っているに違いないわ」
こればかりは京子はわからなかった。信じられなかった。本当にそうなのかと疑った。
しかし今までの順子の言うことが、もっともなことばかりで納得させられることばかりだったので、そして順子が今まで100万人以上の人間を見てきた優れた心理学者なので信じることにした。
順子は続けて言った。
「哲也くんだってクラスの女の子で好きな子がいるはずよ。男の子たちとも友達になって一緒に野球をやったり、ドッヂボールをやったりして遊びたいと思っていると思うわ。でも病弱で体力が無いしシャイだから、それを言うことが出来ないのよ。(僕も仲間に入れて)って言うことが出来ないのよ。私はそう思うわ。京子はどう思う?」
そう言って順子はアイスティーを啜った。
「順子先生。天才的な心理学者である順子先生が仰るのだから、それが正しいのだと思います」
京子は最大限の尊敬の思いを込めて言った。
「京子。あなたは一人ぼっちの哲也くんを皆と友達になれるようにしたいと思っているのでしょ」
「え、ええ。ではどうすればいいのでしょうか?」
「哲也くんは、あなたを好きなのよ。まず、あなたが哲也くんに(愛)をあげたらどう?」
「それにはどうすればいいんでしょうか?」
「哲也くんは、人に甘えてはいけない、そして人から同情されたくないという信念を持っている誇り高い子だと思うわ。だから哲也くんの方からあなたに話しかけるということは絶対しないわ。だから、あなたの方から哲也くんに声をかけるのよ。哲也くんの心を開かせるのは極めて難しいと思うわ。だから哲也くんが一人になった時に、さり気なく話しかけて、あなたの家に連れていくのよ。内向的な子は集団の中では人と話すことが出来ないけれど1対1でなら話すことが出来るのよ」
「わかったわ。じゃあ今度、哲也くんが私の家に来るようにしてみるわ」
「うん。ぜひそうしてみるといいと思うわ」
京子は時計を見た。
もう帰ろうと思った。
「順子。今日は色々とためになるアドバイスをしてくれてありがとう。私、そろそろ帰るわ」
京子が言った。
「いやあ。いいわ。またいつでも私で役に立つことがあったら、いつでも私の所へ来て」
「ありがとう。順子」
「京子。ちょっと、あなたのスマートフォンにショートメールを送るわ」
そう言って順子はスマートフォンを開けてピッピッと操作した。
そして送信ボタンを押した。
すぐに京子のスマートフォンにピピピッと着信音が鳴った。
京子はショートメールを開けてみた。
それにはこう書かれてあった。
「パンへの飢えがあるように豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。誰からも愛されず必要とされない心の痛み。これこそが最もつらいこと、本当の飢えなのです。与えて下さい。あなたの愛を。あなたの心が痛むほどに。マザーテレサ」
京子の目からポロポロと涙が溢れ出た。
「親から愛されなかった子、親から無償の愛を受けなかった子は性格が歪んでしまうのよ。ジェームス・ディーンの名作・エデンの東だってそれがテーマでしょ」
順子が言った。
京子は自分は先生なのに生徒の気持ちを全然わかっていないことに打ちひしがれていた。
「順子。今日はどうもありがとう。じゃあ今日は私、帰るわ」
「そう。じゃあ哲也くんの心を開かせるよう頑張ってね」
京子は立ち上がって玄関に向かった。
順子も玄関までついてきた。
「順子。今日は本当にどうもありがとう。さようなら」
今日はペコリと頭を下げた。
「さようなら。またいつでも来てね」
順子が言った。
こうして京子は順子の家を出た。
・・・・・・・・・・・・・
京子は家に帰った。
そして、どうしたら哲也くんを自分の家に連れてこれるかを考えた。
順子の思考力の深さに刺激されて、京子も自分で考えなきゃ、と思うようになったのである。
うーん、と京子は腕組みをして考えた。
1時間くらい考え込んで京子は一つの方法を思いついた。
「そうだ。算数の抜き打ちテストを明日しよう。哲也くん以外の生徒には誰でも解けるような簡単な問題を出して哲也くんだけには難しい問題を出そう。絶対、解けないような。それで哲也くんを教員室に呼び出すということをすればいいわ」
京子はわれながら名案を思いついたと嬉しくなった。
小学4年生の算数は、分数の足し算、引き算、少数の足し算、引き算、四捨五入、折れ線グラフと表の読み取り方や使い方、などである。
哲也くん以外の他の生徒には優しい問題にして哲也くんだけには難しい問題を出そう。
えーと。どんな問題がいいかしら?
そうだ。東大理三の数学の入試問題を出せば哲也くんは絶対、解けないわ。
と京子は思った。
しかし、ちょっと考えて、やっぱりそれはまずいことに気がついた。
東大理三の数字の入試問題なんて、あまりにも不自然すぎる。
カンの鋭い哲也くんに、おかしいと気づかれちゃう。
じゃあ小学6年生の算数の問題を出そう。
小学6年生の算数は、分数のかけ算(分数×整数、分数÷整数、分数×分数)、分数のわり算、小数と分数の計算、円の面積、比例と反比例、などである。
京子は急いで算数の問題を作った。
哲也だけには小学6年生の算数の問題にして他の生徒には小学4年生のやさしい算数の問題を書いた。
すぐに京子は問題を書いた。
書いた問題を見て京子は「よし。これなら大丈夫だわ」と思った。
京子はわれながら自分は頭がいいなと嬉しくなった。
もう夜おそくなっていたので京子は風呂に入ってパシャマに着替えて布団に入った。
・・・・・・・・・・・・
翌日。
京子は学校に行った。
4年B組に向かうとガヤガヤと生徒たちの声が聞こえてきた。
京子が教室に入るとお喋りがなくなった。
京子は教壇の壇上に立った。
「起立」
「礼」
「着席」
がいつものように行われた。
「みなさん。今日は算数の抜き打ちテストをします」
京子が言った。
「ええー。そんなー」
と生徒たちは困惑の声をあげた。
「大丈夫です。やさしい問題ですから。算数の成績が悪い人でも解ける簡単な問題です」
そう言って京子は問題用紙を裏側にして生徒たち全員に配っていった。
そして教壇にもどった。
生徒たちは全員、真剣な面持ちである。
「じゃあ、50分で解いて下さい。はじめ」
はじめ、の合図で生徒たちは全員、問題用紙を裏返して表にして問題を解き出した。
京子は生徒たちが問題を解くのを楽しそうに見ていた。
こういう時が小学校の教師冥利につきるのである。
50分、経ったので京子は、
「はい。終わり。みなさん。鉛筆を置いて下さい。問題用紙を裏側にして下さい」
皆は問題用紙を裏側にした。
「一番うしろの席の人、前列の人の問題用紙を集めて持って来て下さい」
席は6列あり一列が7人である。
言われて席が一番さいごの生徒が、その列の生徒たちの問題を集めて京子の所に持ってきた。
その時、ジリジリジリーと1時間目の終業のベルがなった。
「じゃあ1時間目の授業はこれで終わりです」
そう言って京子はスタスタと教室を出て行った。
生徒たちは、
「簡単だったな。オレ全問、正解できたよ」
「オレも」
「オレも」
と言い合っていた。
皆、全問正解できたようだ。
しかし哲也だけはしょんぼりしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
そして、その日の午後の授業も終わった。
皆は「あーあ、終わった。帰ろうぜ」と言ってランドセルを背負って教室を出て行った。
その時、京子が教室に入ってきた。
哲也も荷物をまとめてランドセルに入れようとしている所だった。
京子は哲也に近づいてきた。
「山野哲也くん。ちょっと教員室に来てくれない」
京子が言った。
「はい」
哲也は小さな声で返事した。
哲也は京子のあとについて教員室に行った。
京子は教員室の自分の席に座った。
しかし哲也は京子の前に立ったままである。
こういうふうに自分は座ったままで生徒を目の前に立たせて説教するのも教師の楽しみなのである。
「哲也くん。今日の算数の試験、全員、満点だったわよ。簡単な問題を出したからね。でも哲也くんは0点よ。皆、算数がどれだけわかっているのか調べてみようと思って抜き打ちテストをしてみたのだけれど。このままじゃ哲也くんは5年に進級できないわよ」
と京子は叱るように言った。
「す、すみません」
哲也はうつむいて小声で答えた。
「私は算数は、わかりやすく教えているつもりよ。皆もちゃんとノートしているわ。哲也くんはちゃんとノートしているの?」
京子は厳しく問い詰めた。
「す、すみません」
哲也はまたしても、うつむいて小声で答えた。
「哲也くん。私は謝れって言っているんじゃないのよ。ちゃんとノートしているのかって聞いたのよ。答えて」
京子は厳しく問い詰めた。
「す、すみません」
哲也はまたしても、うつむいて小声で答えた。
京子には哲也がまるで「俺たちの勲章<孤独な殺し屋>シーン1」の水谷豊のように見えた。
「それと。哲也くんは人が挨拶をしても挨拶しないでしょ。どうして?」
京子は厳しく問い詰めた。
「す、すみません」
哲也はまたしても、うつむいて小声で答えた。
「哲也くんは何を聞いても、すみません、しか言えないのね。そんなことじゃ中学生になっても一人ぼっちよ。社会人になっても、どんな仕事にも就くことも出来ないわよ。人と話さなくて出来る仕事なんて、この世の中にないんだから」
京子は厳しく言った。
「す、すみません」
哲也はまたしても、うつむいて小声で答えた。
京子はいい加減、苛立っていた。
「哲也くん。教師には生徒がちゃんとした社会人になれるように教育する義務があるの。ちょっと私に着いてきて」
そう言って京子は哲也の手をひいて教員室を出た。
校舎を出た京子は学校の駐車場にとめてあるラパンの助手席を開けた。
京子はラパンで学校に出勤していた。
「さあ。哲也くん。乗って」
京子に言われて哲也は助手席に乗った。
京子も運転席のドアを開けラパンに乗り込んだ。
京子はエンジンを駆け車を始動した。
ラパンは走り出した。
普通の子なら「どこへ連れて行くのですか?」くらいは聞くものだが哲也は何も話さない。
とことん無口な子だなと京子は思った。
車は団地を離れ松原団地の東の建売住宅の方へ向かって走った。
ほどなく車は一つの一軒家に着いた。
京子は家の前の駐車場に車をとめた。
「さあ。哲也くん。降りて。ここが先生の家なの」
言われて哲也は車から降りた。
京子も降りて京子は哲也を家に入れた。
京子は哲也を6畳の部屋に入れた。
「さあ。哲也くん。座って」
畳の部屋で木製テーブルがあり哲也はテーブルの前に座った。
しかし京子は哲也を自分の家に入れることが出来たので、内心しめしめと思っていた。
京子はキッチンに行ってストロベリーショートケーキと紅茶を持ってきた。
「さあ。哲也くん。ストロベリーショートケーキがあるから食べて」
京子が優しい口調で言った。
「有難うございます。頂きます」
と言って哲也はショートケーキをモソモソと食べて紅茶を飲んだ。
「哲也くん。今日の算数は哲也くんだけ小学校6年生の問題を出したの。だから解けなくて当然よ。ゴメンね」
京子が謝った。
「いえ。いいです」
哲也は小さな声で言った。
京子は驚いた。この子は何ておとなしい子なんだろうと思った。普通の子だったら「どうしてそんなことをしたんですか?」と聞き返すのに決まっているのに。
「ねえ。哲也くん。先生は哲也くんにわざと意地悪なことをしたのよ。どうして怒らないの?」
京子が聞いた。
「理由はわかりませんが先生なりのお考えがあってなさったことだろうと思います。ですから先生のお考えに従います」
哲也が答えた。
京子は吃驚した。この子は何ておとなしく礼儀正しい子なんだろうと。
こんなおとなしく礼儀正しい子は世界中を探しても、この子一人くらいしかいないだろうと思った。
「哲也くん。哲也くんはどうして人と挨拶しないの?」
京子が聞いた。
「・・・すみません」
哲也は小声で答えた。
「いいの。先生。内気で無口な子の心理って全く分からないの。先生が元気だからだけど・・・」
「・・・・」
哲也は黙っている。
「哲也くん。先生。哲也くんのこと知りたいの。少し質問してもいい?」
「はい」
「哲也くんはお父さん、や、お母さんと話することある?」
「あまりないです」
京子はなるほどなと思った。
哲也は順子の言った(+)の行為つまり親からの愛は受けていないんだなと思った。
京子は順子の推測がどれだけ当たっているかを知りたいと思った。
なので順子の言ったことを哲也、本人に聞いてみようと思った。
「哲也くんは、夏休みの思い出、を絵で書きなさいと言って野球場を描いたでしょ。じゃあ夏休みに野球観戦に行ったの?」
「はい。父が連れていってくれました。東京ドームです。巨人―ヤクルト戦でした」
哲也が答えた。
「じゃあ哲也くんは野球が好きなのね?」
「はい」
「哲也くんは野球が出来るの?」
「キャッチボールくらいは出来ます。でもあまり上手くは出来ません」
「キャッチボールはお父さんとやったの?」
「いえ」
「じゃあ誰とやったの?」
「僕は栄小学校に入学しましたが小児喘息の治療のため、2年生の1学期の途中から神奈川県にある喘息の施設に入りました。そこは皆、病弱な子ばかりなので友達の輪に入ることが出来たんです。皆と友達になれました。なので友達と一緒に野球をやりました。だから少しは出来るんです」
哲也は答えた。
「ええ。知っているわ。哲也くんが2年生の途中から国立小児病院二ノ宮分院に入ったということは。でもそこは小学校3年までだから4年でこっちにもどってきたのよね」
京子が言った。
京子は順子が言った「哲也くんは、お父さんにかまってもらえていない」ということが当たっていたので順子の炯眼さに驚いた。
「哲也くんはクラスの女の子で好きな子とかはいないの?」
京子が聞いた。
「・・・い、います」
哲也は顔を真っ赤にして答えた。
「その子に(好きです。付き合って下さい)と言うことは出来ないの?」
「で、出来ません」
「どうして?」
「だって僕のようなネクラな人間は女の子と話していても話題がなくて女の子を退屈させてしまうだけだと思うからです。それに告白する勇気なんて、とてもじゃないけれど、ありませんし・・・」
哲也が答えた。
京子は順子が言った「内向的な人間は自分の感情を素直に示すということが出来ない。鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす、ということが当たっていたので感心した。
そして、この子は何て相手思いな子なんだろうと感心した。
こんな他人思いな子は世界中を探しても、この子一人くらいしかいないだろうと思った。
「哲也くんは廊下で私とすれちがった時、私が挨拶しても黙っているでしょう。哲也くんは私が嫌いなの?」
京子が聞いた。
「い、いえ。嫌っていません。逆です。僕は先生が好きです」
哲也が即座に答えた。
「じゃあ、どうして私が挨拶しても黙っているの?」
京子が聞いた。
「恥ずかしいからです。それに人と挨拶するのって疲れちゃうからです」
哲也が言った。
「哲也くんが私を好きといってくれて。先生、嬉しいわ。どういうふうに好きなのか、もっと具体的に教えてくれない?」
京子が聞いた。
「きれいで優しい女の先生だからです。先生を初めて見た時から好きでした」
哲也が答えた。
京子は順子が言った「シャイな男の子は好きな女の人に、自分が相手を好いているということを気づかれたくない。自分の感情を素直に示すということが出来ない」ということが当たっていたので順子の炯眼さに驚いた。
「哲也くんが私を好きと言ってくれて、先生、嬉しいわ。私も哲也くんが好きだわ」
京子が言った。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
哲也が答えた。
素っ気ない返事で京子は残念だった。
京子は順子が言った「哲也くんは、人に甘えてはいけない、そして人から同情されたくないという信念を持っている誇り高い子」ということと「内向的な子は集団の中では人と話すことが出来ないけれど1対1でなら話すことが出来る」ということが見事に当たっていたので順子の炯眼さに驚いた。
しかし京子は(愛)を告白したのに哲也は「そう言ってもらえると嬉しいです」などと素っ気ない返事をしたのが残念だった。これはきっと哲也は順子の言った「人から同情されたくないという信念を持っている誇り高い子」だからだろう。
京子は哲也の心を開かせるのには、どうしたらいいか分からなかった。
それでもう真実を話して哲也がどう反応するか見てみようと思った。
「哲也くん。実は私、昨日、大学時代の同級生で心理学を専攻して心理学者になった順子という友達に会いに行ったの。私は哲也くんが何を考えているのか分からなかったから順子に哲也くんが何を考えているのか聞いてみたの。私はそれをテープレコーダーに録音しておいたわ。それを聞いてみて」
そう言って京子は机の上にテープレコーダーを置いた。
そして再生ボタンを押した。
昨日の京子と順子の会話が流れ出した。
哲也は黙って聞いていた。
しかしだんだん哲也の顔が青ざめていった。
会話が終わったので京子はテープレコーダーを止めた。
「哲也くん。順子は色々と哲也くんのことを言っているけれど順子の言っていることって本当なの?どこか間違った所はある?」
京子が聞いた。
「・・・あ、ありません。全部、正しいです」
哲也には自分は人に理解されない人間だという絶対の確信というか自信をもっていた。
それが全部あばかれてしまって哲也は動揺していた。
哲也の目からはポロポロと涙が流れ出ていた。
「哲也くん。順子は(哲也くんは毎日、私のことを熱烈に想っている)と言っているけれど本当なの?」
京子が聞いた。
「ほ、本当です」
哲也は泣きながら言った。
「私も哲也くんが好きよ。世界一愛しているわ」
そう言うや京子は自分の隣に座っている哲也を引き寄せてガッシリと抱きしめた。
「哲也くん。好き。愛しているわ」
そう言いながら京子は哲也を力一杯、抱きしめた。
そして母親が自分の子供にするように頭の髪の毛を優しく撫でたり手をギュッと握ったりした。
初めは受け身だった哲也も、うわーん、と大声を出して泣き出した。
「先生。好きです。ずっとずっと好きでした」
そう言って哲也も京子の体を抱きしめた。
「いいのよ。哲也くん。人に甘えちゃいけない、なんてことないのよ。うんと甘えて」
言われるまでもなく哲也はそういう心境になっていた。
孤児根性で歪んでいた哲也の心は変わっていた。
どんなに人に親切にされても、それを受け入れてもいいんだ、という心境に変わっていた。
「おかあさーん」
哲也はそう言いながら泣いた。
涙がとまらなかった。
哲也は、男はどんなに辛くても人に甘えてはならないと自分に言い聞かせてきた。
男は地獄で笑うものと強がってきた。
しかし哲也は京子に抱きつかずにはいられなかった。
虚勢をはっていても哲也は愛に飢えていた。
哲也は彼女の子宮に入るくらいの、小さな、小さな、小人になって、この世の全ての煩わしいことに悩まされないで済む、彼女の子宮の中に胎児のように入ってしまって、そこで、いつまでも眠りつづけたいと思った。
しかし哲也のそんな思いは誰にも知られたくなかった。
「先生。お願いです。このことは誰にも言わないで下さいね」
京子はニコッと笑って至極当たり前のように「言いませんよ。哲也くん」と言った。
そして「よしよし」と子供を可愛がるように哲也の頭を撫でた。
哲也はいつまでもこうしていたかった。
涙がポロポロと流れて止まらなかった。
哲也は何も考えていなかった。
ただ清々しい満足の中に静かに眠っているかのようだった。
・・・・・・・・・・・・・
哲也はその後、京子の作ってくれたカレーライスを京子と一緒に食べた。
「哲也くん。つらいことがあったら、いつでも私の家に来てね。私が哲也くんをうんと抱きしめてあげる」
京子が言った。
「有難うございます。先生」
哲也がカレーライスを食べながら言った。
もう夜の9時になっていた。
「じゃあ哲也くん。今日はもう遅いから家に帰ろう。私が車で送るわ」
「有難うございます。先生」
こうして哲也は京子のラパンで哲也の住んでいる公団住宅のB501に京子の車で行った。
「先生。今日は有難うございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい。哲也くん」
哲也が住宅の中に入って部屋に入るのを見届けると京子はエンジンを駆けて車を出した。
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翌日。
学校の廊下で京子と哲也がすれ違うと京子は、
「おはよう。哲也くん」
とニコッと会釈した。
「おはようございます。先生」
哲也も笑顔で挨拶した。
哲也は4年B組の前に来た。
よし、言おう、と哲也は勇気を出した。
ガラリと教室の戸を開けると、いつものように皆がワイワイ騒いでいた。
哲也は教室に入ると、ピタリと立ち止まった。
そして皆を見た。
「おはよう。みんな」
哲也は勇気を出して言った。
ワイワイ騒いでいた生徒たちのお喋りがピタリと止まった。
教室はシーンとなった。
皆は一瞬、顔を見合わせて困惑した。
哲也はいつも黙って教室に入り黙って自分の席に着くからである。
どういう心境の変化なのか皆はわからなかった。
しかし心境の変化の理由なんてわからなくても構わなかった。
困惑は瞬時に優しさに変わった。
優しさが皆の心にはちきれんばかりに起こっていた。
「おはよう」
「おはよう。哲也くん」
「よう。哲也。おはよう」
皆が哲也に温かい挨拶をした。
哲也はスタスタと歩いて自分の席に着いた。
哲也は自分の席に着くと隣に座っている大津チサ子という女の子に顔を向けた。
そして大津チサ子に、
「おはよう。大津さん」
と挨拶した。
大津チサ子はクラスで一番、明るく可愛い女の子だった。
「おはよう。哲也くん」
大津チサ子はニコッと微笑して挨拶した。
先生が4年B組の戸を開けた。
いつもは先生が来るまで生徒たちはガヤガヤ騒いでいるのだが今日は皆、静かだった。
皆がガヤガヤ騒ぐから、おとなしい哲也が一人ぼっちになってしまうのだ、ということに皆が気づいたからだ。
京子が教室に入ってきた。
京子は壇上に立った。
「起立」
「礼」
「着席」
がいつものように行われた。
1時間目は国語の授業だった。
「では皆さん。教科書35ページを開いて下さい」
京子が言った。
皆は教科書35ページを開いた。
そこには作家の小説が書かれてあった。
タイトルは「栄小学校の女の先生」で、作者は「浅野浩二」と書かれてあった。
「浅野浩二さんはお医者さんで作家という異色の小説家です。そして何と小学校は栄小学校を出ているのです。この小説は浅野浩二さんの小学4年生の時の自伝のような小説です。読みやすいので皆さん黙読してみて下さい」
京子が言った。
「へー、栄小学校を出ているのか」
「医者で作家なんてすごいな」
二人の生徒がそう言った後、皆は小説を読み出した。
初めは静かだったが10分くらいすると、うっ、うっ、という、すすり泣きをする生徒の声が聞こえてきた。
30分くらい経った。
「みなさん。読み終えましたか?読み終えた人は手を上げて下さい」
京子が聞くとクラスの生徒、全員が手を上げた。
「では感想のある人は手を上げて下さい」
すると何人もの生徒が手をあげた。
京子は誰に指名しようかと迷ったが五十嵐花子を指名した。
「では五十嵐さん。感想を述べて下さい」
京子に言われて五十嵐花子は話し出した。
「この哲也って子、可哀想で可哀想で涙が止まりませんでした。でもラストはハッピーエンドなので、ほっとしました」
次は後藤恵子が指名された。
「無口な子、って何を考えているのか、わかりませんでしたが、この小説を読んでわかりました。マザーテレサの言葉に感動しました」
次は大谷純が指名された。
「この栄小学校から、こんな優れた人が出たことを誇りに思います。この浅野浩二という人は天才だと思います」
等々。
色々な好意的な意見が述べられた。
・・・・・・・・・・・・・
1時間目の授業が終わった。
そしてその日の午後の授業も終わった。
「おい。野球をやろうぜ」と言って野球好きな、いつものメンバーが校庭に出て行った。
哲也はランドセルを背負ってすぐに家に帰るのだが、その日は帰らなかった。
哲也はおそるおそる校庭に出て行った。
そして野球をやっている生徒の一人(高橋)に声をかけた。
「ねえ。僕も入れてくれない?」
高橋は無口な哲也に初めて声をかけられて驚いた。
同時に嬉しくなった。
「おう。大歓迎だよ。哲也はどこのポジションをやりたい?」
高橋が聞いた。
「僕は下手だから外野でお願いします」
哲也が答えた。
「じゃあライトを守ってくれない?」
高橋が言った。
「うん」
哲也は急いでライトの守備位置に行った。
「よし。それじゃあ再開するぞ」
高橋が言った。
ランナーは2塁と3塁に二人いた。
まだノーアウトだった。
ピッチャーがボールを投げバッターが打った。
それはレフトの浅いフライになった。
哲也はそれを、おぼつかない足取りでキャッチした。
犠牲フライになれると思って、タッチアップで3塁ランナーがホームへ走った。
哲也はキャチャーめがけて思い切りボールを投げた。
しかしボールは暴投になってしまって3塁ランナーは楽々とホームインした。
「ドンマイ。哲也」
「でもよくフライとったな」
京子は教員室からその光景を見ていた。
京子は泣き崩れて、立っていられなくなり座り込んでしまった。
涙があとからあとから出続けて、それはいつまで経っても止まらなかった。
2025年8月31日(擱筆)
栄小学校の女の先生