
恋した瞬間、世界が終わる 第92話「喧騒の中で、踊る」
ーー仮面を被ったものは、
自身の裏側を表で現し
表と裏を取り違えてしまう
音楽の調べが大広間の来客たちの間に吹き抜けると、ヨハン・シュトラウス2世の“春の声”の軽快なワルツが、解放感と共に場を盛んにさせたーー
大広間には、優雅な音楽を奏でるために充分な管楽器や弦楽器、鍵盤楽器など小編成の楽団の姿が見えた。
タンゴを演奏するためのバンドネオン奏者も何処かにいるのかもしれない。
演奏者らもそれぞれが仮面を被っていた
仮面の種類は【フルマスク】というものになるのではないだろうか。それは会場の来客すべてが着用している種類で、要は、目元だけではなく口元まで覆うタイプで、より秘匿性を重視する用途の物だ。基本の型はそれなのだが、仮面上に蝶の羽のような飾りがあったり、宝石などの貴金属が散りばめられていたり、星やら、月やらのデザインが施されていたりなど、個性が上塗りされている。演奏者らは演奏の妨げにならない為にか、派手な装飾はなく、シンプルで軽量そうな最低限と言って良い飾りの仮面を被っている。
隣り合う人々は、差し出された手を取り、優雅にワルツを踊り始めた
この大広間にいる人物全てが、仮面上での疎通という暗黙の了解を得ている。祝祭感がこの場を支配し、それに紛れた陶酔感にも場が酔わされている。私は彼らのメッセージの指示通り、このまま舞踏会に参加しなければならない。そうしなければ、リリアナの身にも危険が迫ってしまうのだろう。
リリアナ……
リリアナはこの場に来ているのだろうか…
春の声のように、サワサワと落ち着かない
この軽快な調べとリズムによって、この場への警戒感さえも吹き抜けてしまいそうだ。こうも会場のすべての人が仮面を被り、衣装も着飾っていると、何かの代理を全員でしているかのようだ。全員で何かを演じている。何かのシンボルに全員が成り切っている。演じる役の中で洗脳されている。この劇的な不気味さの中では、真実よりも、その場限りの嘘や小手先の声が価値になってしまう。
私はとにかく、仮面を被った見ず知らずの誰かと踊ることの誘い、その落ち着かなさに孕(はら)む要素に一線を引いて、身構えた。
そんな仮面に覆われた私の前に、ある香りが漂ったーー
エキゾチックな初手
仮面上の羽飾りの曲線の精密な艶っぽさ
その神秘性の先にいる、一人の女性
スタイルの良さとは別に、整然としたものが何処かに欠け
仮面の中で微笑する姿が見えた
何かを見透かしたような微笑だ
この女性は一体、誰なのか?
この女性の背景に、誰かがいるのだろうか?
陰謀が透けて見えるようで、見えない
ーー黒いドレスを身につけたわたしの眼
男たちの貪(むさぼ)るような視線
仮面をつけているはずのわたし
でも無防備なわたし
わたしの苦笑は仮面の下で覆われ、見ず知らずの男に吟味されるがままになっていますーー
この荒野に放たれたような気持ち!
仮面の男たちの目の吹き抜けに、青い眼か、赤い眼が光って見えるようで、仮面が却って、見えないでいる事の恐怖を煽っているのです。
わたしは目を伏せたままでいるしかないのでしょうか?
【なにも心配いらないわ】
サッポーと名乗った、あの声の主
鏡の歪みに映ったものは、今はこの黒いドレスの中に感じるのです。
この声の主は、わたしを助けると云いました。
今のわたしは、独りではないのです。
スパイシーな香りと、ほのかな甘さーー
仮面を被った男たちの一人が、わたしの前に進み出て会釈をしました
「お嬢さん、綱渡りは得意ですか?」
「は?」
思わず、わたしは聞き返しました
その男は、仮面の下でどこか懐かしみのある表情を想像させました
「不安な気持ちを透かせて見せてしまうと、荒野では命取りになりますよ」
これは忠告なのでしょうか
「……あなたは、誰?」
男は、わたしの前に手を差し出しました
黒いドレスから、声が聞こえました
【その手を取るのよ】
ひとまず、わたしはその手を取ってみることにしたのです
ーー喧騒の中で、好転するのは…悪夢か?
香水の香りがつきまとい
大広間の雑踏に
煙のように立ち昇る
人々が踊り始めると、大広間にはそれぞれの香水も開放的に乱立したーー
背の高いあの男の動向に注意を向けていたはずが、私はこの雑踏の息苦しさに咽せてしまった。
踊り始めた人々は、軽快なリズムに欺かれたまま違う側へと動かされている事に気づいてはいない。
私も自分の息継ぎを忘れると場に呑まれてしまう
独りになる事、独りでいる事を恐れてはいけない。
出来る限り、この仮面の下から、人々を観察する事に努めよう。
私は、見届ける義務がある
私には、バベルの塔に登る資格がある
そのような線引きを行なった時、
甘い香りが漂ったーー
若い女だ。
20代…ひょっとすると、10代の後半か。
ダンスの誘いに来たようだ。
ひょっとして、君は
手を取る相手を間違えていないかい?
甘い香りの中に、官能的な匂いが揮発している。
それは香水のではなく、若い女特有の身体からのもの。
表情を忘れてゆくようだーー表情が歪んでゆくようだ
私は、ただの一度の少女に我を忘れてゆくのか?
私を燃え上がらせ、きっと燃え尽きさせる
恋した瞬間、世界が終わる 第92話「喧騒の中で、踊る」
次回は、9月中にアップロード予定です。