瀉血

 やっぱり自分はいない方がいいのかな。死んだ方がいいのだろうか。そんなことをたまに考える。内面の方ではずっと疲労感を抱えていたというのはあると思う。思春期辺りから振り返ってみるとずっと疲れていたというのはある。その疲労感から目を逸らすために、疲労感をないものとして扱うために、表面の自我の方では無理に社交して無理に様々な物事に取り組むという精神構造が定着してしまったみたいだ。内と外のねじれは、もう自分の人生のテーマになってしまっているのかもしれない。

 このねじれを作ってしまった原因として、やはり性の問題はあるだろう。それを無視するわけにはいかない。性の問題はずっと自分についてきた。自分が十代のころは、まだインターネットがそんなに普及していなかったので、誰にも自分の性のことを打ち明けることができなかった。自分に巣食うどうしようもない離人感、離脱感のようなものは、性が影響で生じたと自分では思っている。そうして、二十代前半になって、インターネットが徐々に社会に浸透するようになり、突然自分の性の問題がいきなり解決されてしまった。喜ばしいことだったが、自分の心身がついていけなかったのだろう。私は歓喜しながら、内側の方では異様な虚無感、寂寥感に襲われていたらしい。

 このときの心境を説明するのが難しい。長らく抑圧していた緊張が突然顕在化して、表層の全面で痛覚が活性化した。青春時代に感じることのできなかった痛みを感じていいということになり、存分に遅れてやってきた痛みを私は味わった。負傷と治癒が同時に押し寄せ、精神は随時緊張しながら、異様に活動的になっていった。これまで流すことのできなかった血を、思いっきり流すことができて、解放と癒しを感じていた。小説を読むことは、快適な瀉血であることを私は知った。もう内容もほとんど覚えていないが、あのときはやっぱり読書を必要としていたのだと思う。抑圧からの解放という経験が私を文学へと誘ったのだが、その理由がはっきりしない。

 自分と同類の人と出会うことも、遊ぶことも、関係を持つこともできるようになった。だから、自分の性の問題はもう解決してこれからは遅れた分を取り戻せばよかったし、実際私はそうした。それでも心の中の異様な虚無感は消えないどころか、却って増長したのかもしれない。あの衝撃を境に自分の人生が分断されているような感じがある。それもまあ自分の思い込みかもしれない。単なる文学的気取りなのかもしれない。しかし、あのころから私の読書遍歴が始まってしまったのは事実だ。よせばいいのに文学なんかに手を出してしまった。

 私はどうして本なんか読んでしまったのだろうと思うこともあるが、そのたびにあの衝撃を受けた時期に戻ってくる。あの衝撃だけはどうしようもない。当時は繊細になりながら異様に尊大な気分も味わっていた。結局自分の心理を私はまったく説明することができていない。自分に対して自分のことを説明する行為に対して怖れがある。自分の心理を受け入れるのが怖いのだろう。当時は忙しくて、自分の心理と向き合う暇がなかったというのもある。最近になって、ようやく自分の過去を受け入れることができるようになってきた。どうしてここまで時間がかかったのだろう。

 こんな経験をするくらいなら、ネットを通じてあんな世界を知らない方がよかったのだろうか。しかし、そうすると私は同類の人たちと出会えず、思春期に密かに抱えていながら必死に見ないように努めていた惨めな気持ちをずっと持ち続けることになっていただろう。その場合、最悪の選択をしていたことも考えられる。出会い系掲示板のおかげで私の人生はひっくり返ってしまったのだけれど、それでよかったとは思っている。と言いつつ、どちらの方がいいか考え出すとやっぱりわからない。抑圧から解放されて快楽を享受できたことで、新たな苦痛を担うことになったのもおそらく事実だから。

 解放される前の閉塞感は耐えがたいものだった。今でもまったく言語化できていないのだろう。自分の苦しみを自分でわからないように何重にも錯綜させる思考を自分に課すストイックさを磨いてしまった。まったく不要なものであり、そんな経験はしない方がいいに決まっている。こういう経験は、私と同世代の人なら、それほど珍しいものではないだろう。それでも自分にとっては衝撃的経験であり、この経験によって傷ができ、そして傷が治癒されたようだった。

 この衝撃の後、文学的感傷にゆっくり浸ることができればよかったが、そんな暇はなく私は働かなければいけなかった。当時の私はもう休みたかった。20代前半の時点でもう人生を生き切った気分になっていた。ためこんでいた疲弊が突然意識化されてしまい、精神はその場に座り込んでいたかったのだと思う。あのころに、自分に課せられていた進路から脱却できればよかったが、そんな勇気が私にあるわけがなかった。当時は過去の傷がうずきだし、文学的感受性が露わになっていたが、そこに科学的、物質的思考がのしかかってきた。このあたりも、まだ言葉にできていない。あまりしたくないというのもある。これまでにそんな余裕もなかったから。

 インターネットの誕生によって、あの世界には革命的な変化が訪れたのだと思う。それまで出会えることのない人たちがいきなり出会えるようになったのだから。ネットがない時代はもっと不便だったらしい。年配の人たちは、よく文通していたころを懐かしく語っていたりする。テレビやSNSでは、その手の人たちが今ではたくさん出てくる。多分ネットが普及したことが大きいのだと思う。人権が向上したとかいう話はうさんくさい。自分はネットが普及する以前から、自身の性質を公表していた人たちには一定の敬意を持っているが、ネット以後に雨後の筍みたいに出てきた人々には少し不信感を持っている。

 インターネットのおかげで自分は解放感を味わえた。本当にすくわれたと思っているし、あの解放がなければ死を選んでいたのかもしれない。それでも、今の風潮についていけないところもある。これからは自分たちの時代だ、みたいな感じで自己主張をして、古い考えから抜け出せない人たちを嘲笑している同類の人たちを見ると、私は古い方に味方したくなってしまうときがある。このあたりの心理を自分でもうまく説明できない。本当に自分は解放されてよかったのだろうか。しかし、解放されていなければ今生きていたかどうかもわからない。性の問題と政治の問題は異なるようだ。政治に性を持ちこんだこと自体まちがっているのかもしれない。人間の社会は裕福になりすぎて、なんでもできると思いあがっているのかもしれない。こういう考え方は自分の首を絞めるのだろうが、自分の中にある素直な感情がそう言っているようだ。書いていて混乱してきたので、この話はこのあたりでやめようと思う。

 死にたいというのはどういう感情なのだろうか。自分自身、独り言で言ってしまったりする。結局、私は本気で死にたいとは思っていないのだろう。死にたいと思って、実際に実行する人は世の中にたくさんいる。そういう人たちに比べれば、自分の死にたいという感情などくだらないものだと言われればその通りだ。それでも死にたいという感情には何か釈然としないものがある。死にたいは生きたいの裏返しだと自分は思う。自分が死んだらどうなるか自分も誰も知らないのだから、死にたいという感情はどこかおかしいところがある。死にたいという感情は、生きたいという感情を変形したものにしかなりえないのではないかと思うことはある。それはお前が追い詰められた経験をしていないからだ、本当の絶望を知らないからだ、と言われれば返す言葉はない。だが、傍観者より当事者の方がいつでも優れた意見を持っているとは言い難いとも言える。

 死ねば無になるというのも受け入れがたい。誰も自分の死を経験した人はいないのだから、死と無を重ね合わせていいのかはわからない。そもそも無というものがやっぱりよくわからない。無は概念にしかなりえないので、無はありえないと自分は思っている。科学は死について何も語らない。死後の世界は別に存在してもいいのだが、そういうことは言わない方がいいというのが今では常識になっている。近代以降、科学が発達して聖書などの宗教的な世界観が否定されたこと、そして人間が力を持ったことで、自分の人生を生きるために忙しくなったこと、主にこの二つの理由で、天国や輪廻について語ることが避けられる風潮ができたのかもしれない。

瀉血

瀉血

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-24

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