東山界隈 -妄想煉獄-
夏に咲く百合
晩夏の京都は、熱を逃がしきれずにいた。
日中に焼けた石畳が夜になっても呼吸をつづけ、鴨川の水面をわずかに揺らす風さえも、どこか湿って重たい。
祇園祭の賑わいは過ぎ去ったのに、まだ赤い提灯がいくつか残っていて、まるで消し忘れた記憶のように宙を照らしていた。
西木屋町、その小さなバーは、町家を改装したと聞く。
引き戸を開けると、板の間の冷えと、甘く焦げたような木の匂いがした。
奥まった席に、その男はいる。いつも同じ姿勢で、同じ席に。
かつて「悪い人」と噂された彼は、もう喧嘩も騒ぎも起こさない。
ただ片隅に腰をかけ、酒をひと口ずつ含みながら、黙って時を過ごしている。
誰に頼まれるでもなく、金も受け取らず、それでも用心棒のようにそこにいるだけで、店は不思議と落ち着いていた。
彼の隣に女がいた。
西陣で織りの修業をしていたが、肺を痛めて工房を離れたという。
糸を織るときの粉塵が、体を少しずつ蝕んだのだろう。
白い指先にはまだ繊維の痕がかすかに残っている。
咳をするたびに胸を押さえ、顔を伏せる。けれど、横顔にはいつも淡い笑みが浮かんでいた。
それは誰にも理解されない強さのようで、同時に儚さの印のようでもあった。
二人はほとんど言葉を交わさなかった。
ただ並んで座っているだけで、深い糸で結ばれていることが伝わってきた。
その糸は、私には見えない。
けれど、確かにそこにあるのだと信じざるを得なかった。
私はその光景を眺めるしかなかった。
理解できない愛が目の前にあった。
それは私の中に、裂け目のような寂しさを生み出した。
風に揺れる提灯の赤は、まるでその寂しさを照らし出すために灯っているかのようで、私は目を逸らすことができなかった。
秋のダリア
秋が深まり、西本願寺の大銀杏が黄金に燃え上がる頃、
京都の町は一瞬だけ明るさを取り戻す。
だが、その眩しさが消えるとき、町家の中は急に冷え込み、風は骨に沁みるほど冷たくなった。
彼女はもう工房に戻ることはなかった。
かつては朝から晩まで響いていた機の音──「ギイ、トン、ギイ、トン」という一定の律動は止み、
西陣の町家にただ静けさが沈んでいた。
糸を織ることができなくなった彼女の指先は、白く痩せて、微かな痕跡だけを残していた。
男は、そんな彼女のそばを離れなかった。
昼も夜も、傍らに座り、酒をゆっくりと口に含む。
誰に語るでもなく、嘆くでもなく、ただ沈黙を守り続けていた。
その沈黙は、かつての荒々しさを裏返したかのように、重く、揺るぎなかった。
町には噂が絶えなかった。
「かつては恐れられた男が、病の女に縛られている」
「哀れなことだ」「いい気味だ」──人は好き勝手に言う。
けれど、その座敷の中に漂う気配は、哀れなどではなかった。
二人だけの世界の中で、愛は密やかに燃え続けていたのだ。
私は、外からその光景を見守るしかなかった。
何もできない。
言葉をかけることも、近づくこともできない。
ただ、心の奥で確かに疼く感覚があった。
愛は確かにそこにあった。
しかし、愛はどこへも行けなかった。
私には言葉しかない。
言葉だけが、この二人を繋いでいた証を残すのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
晩秋の風が落葉をさらい、西陣の町を黄金色に覆い尽くす。
その絨毯の上を歩きながら、私はただ、裂けるような寂しさを抱えていた。
冬に咲く
大晦日の夜、京都は雪に覆われていた。
知恩院から鳴り響く除夜の鐘が、ひとつ、またひとつと闇を震わせる。
川風に舞う粉雪は提灯の明かりをかすかに反射し、鴨川は白い靄のように揺れていた。
女はすでに息を引き取っていた。
工房に戻ることもなく、布を織りあげることもなく、最後の糸を断ち切られるようにして。
彼女の笑みは記憶の中にしか残っていない。
男は、その夜、鴨川の川べりに立っていた。
片手に酒瓶を持ち、雪を浴びながら、ただ黙って流れを見つめている。
誰も近づけない気配。
その背中は、町を荒らした昔の「悪い男」ではなく、狼のように孤高な影であった。
私は少し離れた場所から、その姿を見つめていた。
声をかけることもできない。
近づけば、その沈黙を壊してしまう気がした。
彼が守り抜いた誇りが、雪の中でゆっくりと凍りついていく。
やがて鐘の音が百八つに近づく頃、彼は酒を最後のひと口、喉に流し込んだ。
白い息が闇に溶ける。
そして、川の向こうに姿を消した。
狼のように、誇りを失わないまま。
私はただ、見届けるしかなかった。
胸の奥に裂けるような寂しさを残しながら。
言葉しか持たない私にできるのは、今ここに刻むことだけだ。
愛はどこへも行かなかった。
けれど確かに、ここにあったのだ。
雪の夜に沈黙する誇りとともに。
東山界隈 -妄想煉獄-