東山界隈 ―妄想煉獄―

東山界隈 ―妄想煉獄―

夏に咲く百合

晩夏の京都は、熱を逃がしきれずにいた。
日中に焼けた石畳が夜になっても呼吸をつづけ、鴨川の水面をわずかに揺らす風さえも、どこか湿って重たい。
祇園祭の賑わいは過ぎ去ったのに、まだ赤い提灯がいくつか残っていて、まるで消し忘れた記憶のように宙を照らしていた。

西木屋町、その小さなバーは、町家を改装したと聞く。
引き戸を開けると、板の間の冷えと、甘く焦げたような木の匂いがした。
奥まった席に、その男はいる。いつも同じ姿勢で、同じ席に。
かつて「悪い人」と噂された彼は、もう喧嘩も騒ぎも起こさない。
ただ片隅に腰をかけ、酒をひと口ずつ含みながら、黙って時を過ごしている。
誰に頼まれるでもなく、金も受け取らず、それでも用心棒のようにそこにいるだけで、店は不思議と落ち着いていた。

彼の隣に女がいた。
西陣で織りの修業をしていたが、肺を痛めて工房を離れたという。
糸を織るときの粉塵が、体を少しずつ蝕んだのだろう。
白い指先にはまだ繊維の痕がかすかに残っている。
咳をするたびに胸を押さえ、顔を伏せる。けれど、横顔にはいつも淡い笑みが浮かんでいた。
それは誰にも理解されない強さのようで、同時に儚さの印のようでもあった。

二人はほとんど言葉を交わさなかった。
ただ並んで座っているだけで、深い糸で結ばれていることが伝わってきた。
その糸は、私には見えない。
けれど、確かにそこにあるのだと信じざるを得なかった。

私はその光景を眺めるしかなかった。
理解できない愛が目の前にあった。
それは私の中に、裂け目のような寂しさを生み出した。
風に揺れる提灯の赤は、まるでその寂しさを照らし出すために灯っているかのようで、私は目を逸らすことができなかった。

秋のダリア

秋が深まり、西本願寺の大銀杏が黄金に燃え上がる頃、
京都の町は一瞬だけ明るさを取り戻す。
だが、その眩しさが消えるとき、町家の中は急に冷え込み、風は骨に沁みるほど冷たくなった。

彼女はもう工房に戻ることはなかった。
かつては朝から晩まで響いていた機の音──「ギイ、トン、ギイ、トン」という一定の律動は止み、
西陣の町家にただ静けさが沈んでいた。
糸を織ることができなくなった彼女の指先は、白く痩せて、微かな痕跡だけを残していた。

男は、そんな彼女のそばを離れなかった。
昼も夜も、傍らに座り、酒をゆっくりと口に含む。
誰に語るでもなく、嘆くでもなく、ただ沈黙を守り続けていた。
その沈黙は、かつての荒々しさを裏返したかのように、重く、揺るぎなかった。

町には噂が絶えなかった。
「かつては恐れられた男が、病の女に縛られている」
「哀れなことだ」「いい気味だ」──人は好き勝手に言う。
けれど、その座敷の中に漂う気配は、哀れなどではなかった。
二人だけの世界の中で、愛は密やかに燃え続けていたのだ。

私は、外からその光景を見守るしかなかった。
何もできない。
言葉をかけることも、近づくこともできない。
ただ、心の奥で確かに疼く感覚があった。

愛は確かにそこにあった。
しかし、愛はどこへも行けなかった。
私には言葉しかない。
言葉だけが、この二人を繋いでいた証を残すのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。

晩秋の風が落葉をさらい、街を黄金色に覆い尽くす。
その絨毯の上を歩きながら、私はただ、裂けるような寂しさを抱えていた。

冬に咲く

大晦日の夜、京都は雪に覆われていた。
知恩院から鳴り響く除夜の鐘が、ひとつ、またひとつと闇を震わせる。
川風に舞う粉雪は提灯の明かりをかすかに反射し、鴨川は白い靄のように揺れていた。

女はすでに息を引き取っていた。
工房に戻ることもなく、布を織りあげることもなく、最後の糸を断ち切られるようにして。
彼女の笑みは記憶の中にしか残っていない。

男は、その夜、鴨川の川べりに立っていた。
片手に酒瓶を持ち、雪を浴びながら、ただ黙って流れを見つめている。
誰も近づけない気配。
その背中は、町を荒らした昔の「悪い男」ではなく、狼のように孤高な影であった。

私は少し離れた場所から、その姿を見つめていた。
声をかけることもできない。
近づけば、その沈黙を壊してしまう気がした。
彼が守り抜いた誇りが、雪の中でゆっくりと凍りついていく。

やがて鐘の音が百八つに近づく頃、彼は酒を最後のひと口、喉に流し込んだ。
白い息が闇に溶ける。
そして、川の向こうに姿を消した。
狼のように、誇りを失わないまま。

私はただ、見届けるしかなかった。
胸の奥に裂けるような寂しさを残しながら。
言葉しか持たない私にできるのは、今ここに刻むことだけだ。

愛はどこへも行かなかった。
確かに、ここにあったのだ。
雪の夜に沈黙する誇りとともに。

ショータイム

与圧された機内は、あまりにも静かだ。
高高度を巡航するこの巨体は、まるで一つの空飛ぶ都市のようで、
分厚い座席に沈む俺は、眼下で何が起きているのかを忘れてしまうほどだ。

機内の気温は一定に保たれ、仲間の笑い声がインターホン越しに行き交う。
コーヒーをすするやつ、無線の雑音に肩をすくめるやつ、
誰もがどこかで「ここは安全だ」と思い込んでいる。
俺もそうだ。この与えられた快適さが、思考を鈍らせる。

窓の外には、白くたなびく雲海が広がる。
その下にあるはずの街、京都、馬町。
俺は地図でその名前を知っているが、そこに住む人々の顔を知ることはない。
知らないからこそ、ためらいは薄い。
「目標は都市の一部であり、敵の軍需を支える場所だ」と。

嘘だ。

任務を正当化する言葉を何度も自分に刻んできた。

だが時折、疑いが顔を出す。
――俺は本当に、何をしているのだろう。
家を焼き、子どもを泣かせ、街を灰に変えるために、
ここまで飛んできたのか?
その疑問が喉の奥に詰まるたび、
快適な空気が逆に重く感じられる。

だが疑惑に沈み続けることは許されない。
現状維持の重力が、俺を元の座席に押し戻す。
ここで疑うことは、命令を拒むことと同義だ。
疑念は燃料タンクに沈む沈殿物のように、
かき混ぜれば爆発の種になる。
だから俺は、疑いを心の底に封じ、
任務を遂行するしかないのだ。

その時。
空を切り裂くように、
鋭い閃光が突き上がってきた。
視界をかすめたその姿に、俺の全身が凍りつく。

秋水。
名前は聞いたことがある。
あいつらが最後に繰り出した切り札。
だが、今見たものは、兵器というより生物の断末魔だった。

あれは血を吐く鳥だ。
機体を裂いて推進剤を燃やし尽くし、
内部を犠牲にしながら、ただ一撃のために駆け上がってくる。
その動きは直線的で、刹那的で、
それでいて恐ろしいほど純粋だった。

俺は銃座を握りしめる。
だが、照準に入ったその影を見ながら、胸の奥で声がする。
――これは本当に敵なのか?
あれは自分の命そのものを爆ぜさせ、
俺たちの「快適さ」を引き裂こうとしている。
それは敵機というより、
人間の絶望と執念がかたちを持った炎に見えた。

思えば、いま身を置くこのBは、
あまりにも快適で、あまりにも正常すぎる。
ここで過ごす時間は、まるで戦争などないかのように流れていく。
だが、アイツは違う。
血を吐きながら、存在の全てを賭けて制空している。
あれが「戦争の真実」ではないのか。

銃座のトリガーを引く指が震える。
撃たなければ死ぬ。
任務を果たすには撃つしかない。
けれど、照準器の向こうにいるものを撃つことは、
俺自身の心の奥で何かを撃ち抜くことでもあった。

ああ、ごめん。
俺はおそらく、この先もこの疑惑と共に生きるのだろう。
快適さに守られたまま都市を焼き払い、
それでも「俺は任務を遂行した」と言い聞かせて。

だが忘れない。
血を吐きながら駆け上がり、
この空を、そして俺の存在を揺らした瞬間を。
それは美しく、恐ろしく、そして確かに――
生きて帰れたら、俺は二度と飛行機には乗らない。

メイルシュトロームの彼方に

京橋の飲み屋街。
赤提灯の下に漂う安酒の匂い。
皿にこびりついた焼き鳥のタレは黒光りしていて、隣の席の男が吐くような笑い声が、俺の耳の奥でいつまでも反響してやまない。

ここにいる連中はみんな無邪気な顔をして飲んでやがる。
だが俺には見えるんだ。
──奴らの背中に貼り付いた影が。
あれは「興味」ってやつの化けの皮だ。

興味は感情じゃない。
あんな甘ったるいもんじゃない。もっと深く、もっと粘ついて、俺たちの首筋に囁きかけてくる衝動だ。
「覗け」「触れろ」「もっと知れ」──そう命じてくる。
そして気がついたら、俺たちは火に手を伸ばし、腐った草を噛み、夜空を追いかけてしまう。

わかってる。興味があったからこそ人間は進歩した。
火を盗み、星を追い、薬を見つけ、鉄を打った。
だが同時に核を撒き散らし、毒をばらまき、己の首を絞めてきた。
恩恵? ああ、恩恵だ。だが俺は疑っている。
もしかすると──興味こそが最大の罠なんじゃないか、と。

ほら、嫌悪ってやつはわかりやすい。
腐った臭いに吐き気を覚える。爛れた肉に目を背ける。
避けろ、逃げろ、それで助かる。
これは正直なセンサーだ。
だが興味は違う。あれは「進め」と囁くが、実際は落とし穴の底に誘っているんじゃないか?
利益誘導? 笑わせる。あれは利益じゃない、ただの賭けだ。

この街だってそうだ。京橋。
時代の残り香が腐ったように充満してる。
古いポスターが壁に貼られたまま、剥がれることもなく。
一見すれば懐かしい温もり? いや、違う。これは興味を餌にした檻だ。
酔っ払いどもは「昔ながらだ」と喜んで飲んでる。
だが実際は──もうずっと同じ匂いに絡め取られて、身動きが取れなくなってるんだ。

俺は疑う。
進歩と呼ばれるものの全部が、興味に操られた虚像じゃないかと。
もし人間に興味がなければ、縄文の火を囲んでただけで、何万年も平和に生きられたんじゃないかと。
進歩と呼ばれるものは、本当に恩恵だったのか?
──いや、わからない。もしかすると俺の頭の中で、興味そのものが「恩恵だ」と刷り込んでるのかもしれない。

飲み屋の奥でテレビが鳴ってる。安いバラエティの笑い声が壁に反響して、俺の神経を削ぐ。
隣の客は、缶チューハイ以下の酒を「うまい」と言って笑っている。
俺には笑えない。
笑うってことは、興味に身を明け渡した証拠だ。



──頼む、もう囁くな。
「もっと知れ」「もっと進め」
それ以上言うな。
俺はもう、十分すぎるほど知ってしまった。


カウンターに残った焼酎のコップを睨みながら、俺は呟く。
「興味なんざ、恩恵でも衝動でもない。俺たちに仕込まれた、最大の罠だ」

ああ、飲みすぎだな。

ロードオーシュ

私はシモーヌだ。
衝動で歩き、欲しいものは手に入れ、興味のないものは見向きもしない。
そうやってこの街の中を、少し高い場所から眺めるように生きてきた。
でも今の私は、もう完全なシモーヌではない。

昨日、クローゼットの中で死んだマルセルが、今日の私に取り憑いている。
小さくて、臆病で、無垢なマルセル。
彼女は、暗く狭い場所で膝を抱えたまま、音のない水面みたいに静かになった。
その最後の温度が、私の胸の奥に沈んでいる。
息をすれば、その冷たさが肺の内側に触れる。

午後、本町を歩いていたら、奇妙な人だかりに出くわした。
商店街の真ん中に、花で囲まれた粗末な棺が置かれ、その中には野犬が横たわっていた。
首には赤い布が巻かれ、足元には誰かが置いた骨付き肉。
僧衣を着た男が、ゆっくりと読経をしている。
私は最初、それを面白半分に覗き込もうとした。
だけど、マルセルが私の中で立ち止まり、
「ちゃんと見て」とでも言うように、その光景を正面から見据えた。

犬の毛はもう風になびかず、瞳は閉じられている。
それでも、棺の周りに集まった人たちは、
まるで家族を送るような顔をしていた。
私の視界の端で、マルセルの眼差しがじっとそれを見つめている。
奔放な私には理解しづらい静けさと、
無垢な彼女だけが知っている悲しみの形。

帰り道、石畳に積もった葉を蹴り飛ばしたとき、
赤茶色の水が跳ねてスカートの裾を濡らした。
いつもの私なら笑って歩き続けるところだ。
けれどマルセルが、その色を犬の毛並みの色と重ねた。
すると足が止まり、胸の奥で、
何かが静かに沈んでいく感覚が広がった。

夜、部屋に戻ると、クローゼットの扉がわずかに開いている。
そこは彼女が去った場所であり、
私の中の彼女が生まれた場所だ。
暗闇の奥からマルセルが私を見ている。
その視線は、昼間の野犬を送る人々の目とよく似ていた。
束縛ではない。
けれど私の衝動を、ほんの少し鈍らせ、
笑いを少しだけ遅らせる。

秋は、この二人を同じ温度に近づける季節だ。
冷たい風が私の奔放を研ぎ澄まし、
マルセルの無垢をさらに透明にする。
やがて私たちは混ざり合い、
奔放な生に、無垢な死が完全に沈殿する日が来る。
その日、笑いはもう高く響かず、
代わりに低く長い余韻だけを残すだろう。

土蜘蛛

――京都スマートモビリティ推進局・非公開記録より

会議室の窓の向こうに、比叡の山並みが淡く霞んでいる。
ガラス越しに見えるそれは、まるで千年の時間を濾した風景のようだった。

私は腕を組み、無言でディスプレイを見つめていた。
映し出されているのは、アシダカグモのように無数の脚で地面を歩く“なにか”――いや、確かにそれは乗り物だった。
御神輿のような構造体を中央に担ぎ、脚が歩を進めるたびに振動を吸収し、静かに、どこか雅に進んでゆく。

「……また“脚”かい」
呆れたように言った。「これ、君の“おみこしバス”の、何番目の試作だ?」

向かいの若者は、緊張を押し隠すように一礼した。
その手には、まだ温もりの残る紙のメモ帳が握られている。

「バージョン23です。ですがこれは“バス”ではありません」
彼の声は熱を帯びていた。
「人を乗せて“歩く”、都市そのものの足です」

私は目を細め、思わず鼻で笑った。
「わかってる。構造も思想も、君の説明は完璧だ。理屈としてはな。」

若者は目を逸らさなかった。
「理屈以上です。リニアや空中モノレールが速くて便利なのは当然です。でも――
彼らは風景を“断ち切る”」
「私がやりたいのは、風景と同じテンポで進む移動体なんです。
五条坂を登る老夫婦の、あの歩幅と。」

私は口元を引き結び、静かに言った。
「……君、東山の人間だろう?」

お互いの目が揺れた。
それは質問ではなかった。記憶の糸を結ぶ、確認だった。

「そうです。今熊野の出です」
彼はゆっくり頷いた。
「坂のある町は、歩く速度が心の速度になります。
石畳に鳴るのは、ただの足音じゃない。町の記憶を踏みしめる音です。」

私は目を伏せたまま、しばらく沈黙していた。
私もまた、古い通りの空気を知っている人間だった。

「……けれど、現実の話をしよう」
「今回の案件には、ドバイのスカイモノレール企業と、
西海岸のスタートアップが絡んでる。
歩くマシン?“ノスタルジーの無駄”って笑われるさ。資金が降りない」

若い技師は一歩前に出た。
迷いはなかった。

「それでも“足のある公共交通”を見せます。
町を担ぐ神輿のように、人を背負って歩くモビリティを。
千年都市に、もう一度“歩幅”を取り戻すために。」



――若い。無鉄砲だ。けれど、正しかった。

椅子に背を預け、息を吐いた。

「……市長が言ってたよ。『京都は過去の都市じゃなく“未来の原型”になれる』ってな」
「いいだろう。四条通での試作を許可する。
市民が拍手したら、その時は……スポンサー抜きで通してやる」

お互い、わずかに微笑んだ。

「ありがとうございます。
足音の似合う都市に、ふさわしい足をつくります。」

その日、京都の空は曇っていた。
だが若い技師の眼差しには、はっきりと道が見えていた――
石畳に残る、都市の未来の足跡をなぞるように。

ガヴァージュ

──奥が焼けただれている。
だけど、それでも私は眼球を閉じられない。
光の文字が管のように差し込まれ、流し込まれる。
画面から零れ落ちる言葉のひとつひとつが、熱を帯びた液体となって私の中へ沈んでいく。
甘くもなく、苦くもなく、ただ化学的な熱。
脳の壁を焼くその感覚は、じわじわと内側を蝕む毒でしかない。

前頭葉は、すでに風船だ。
膨張しすぎて、クモ膜がきしむ音が自分の耳に聞こえる。
胃酸の匂いが血流に流れ込み、鉄錆のような味を漂わせる。
でもまだ、情報は止まらない。
スクロールする指が、まるで私の意思を裏切っているみたいに勝手に動き続ける。
「やめろ」と命じても、筋肉は言うことをきかない。
私は囚われた。
自分の手に。
自分の視覚に。
自分という檻に。

──そして、眼だ。
この眼が、膨れ上がっていく。
最初はただの乾きだった。
瞬きを忘れたせいでレンズが荒れて、ひりつくだけだった。
それがいつのまにか、眼球そのものが肥大していく。
内圧に耐えきれず、眼窩の中で膨張を続ける。
白目は脂肪のように濁り、黄ばんだフォアグラの質感を帯びる。
眼の奥から肉が盛り上がり、視神経は弦のようにぴんと張り詰め、ひとつの音を軋ませ続ける。
「見ろ」「見続けろ」──そう鳴っている。

私は分かっている。
これは異常だ。
これは病だ。
まるでトラホーム、腐蝕の名を思い出す。
まぶたの裏で、細菌の様に野蛮で微小な私が祝祭をあげている。
顕微鏡の下でしか見えない地獄を、私は自分の体の奥で感じている。
痒み、痛み、滲出液。
視界はどんどん濁っていくのに、やめられない。
私はまだ飲み込む。
まだ吸収する。

──「私は騙されない」
そう呟くたびに、笑いが込み上げる。
なぜなら、もうとっくに騙されているから。
自分の舌で確認する前に、情報は胃の奥に沈んでしまう。
味わう暇なんかない。
判断する暇もない。
私はただの飼育された猿。
太らせるためだけに喉を拡げられた存在。
あの映像の中で悲鳴をあげていたガチョウと、何も変わらない。

愛してほしい。
憎んでもいい。
ただ、私の内臓を誰かに抱きしめてほしい。
膨れすぎて苦しい眼球を撫でてほしい。
「もう大丈夫、眠っていい」と囁いてほしい。
麻酔してほしい。
この光の拷問を一瞬でも止めてほしい。

……でも誰も来ない。
だから私はまた指を動かし、スクロールする。
光が流れ込み、眼球が肥大していく。
視界は涙とも膿ともつかぬ液体で曇り、やがて世界はぼやける。
それでも私は飲み込む。
私はやめられない。
私は生きている限り、この情報ガヴァージュに口を開き続ける。

──どうか。
せめて夢の中でだけでも、誰か私を愛で麻酔して。
フォアグラと化した眼の奥で、最後の光が静かに溶けていくその瞬間まで。

斜視

クローゼットの扉を開けたまま、私はしばらく動けずにいた。
夏と秋の境目、湿気を孕んだ京都の夜。
古い鏡台の前に立つと、裸電球の下で自分の顔がぼんやりと浮かんでいる。
アプリで約束した明日の夜、私は円町駅で彼に会う。

黒髪で線の細い美少年。
写真で見たときから、現実の輪郭をしていないように思えた。
肌は白磁のようで、頬の陰影は削ぎ落とされ、顎は彫像の稜線。
人間というより、舞台の上に立たされた仮面のようだった。
私は恋愛が欲しい。
彼は──。
年齢の乖離を、服で少しでも埋めたい。

白いブラウスを取り出す。
柔らかい綿、襟がわずかに開き、胸元を清楚に見せる。
だが、あまりに「無難」で、すぐに畳の上に投げ出した。
黒髪の彼と並んだら、私はただの「背景」になるだろう。

次に手に取ったのは、ベージュのロングスカート。
軽く広がる裾。腰回りのラインは控えめに出る。
けれど合わせ鏡に立ってみると、落ち着きすぎていた。
「お見合い」みたいに見える。
雑踏には、沈んでしまう。

押し入れの隅から黒いワンピースを引きずり出す。
二年前、友人の結婚式の二次会に一度だけ着たもの。
肩口に控えめなフリル。
布地は光を吸うマットな黒で、ラインはすらりと長い。
鏡に映った自分は、少しだけ輪郭が細く見えた。
──これなら、彼と並んでも「人間」として溶け込めるかもしれない。

靴箱を開ける。
エナメルのヒールは虚勢に見える。
スニーカーは砕けすぎている。
選んだのは、低めの黒いパンプス。
アスファルトに控えめな音を刻む程度の存在感。
歩幅を合わせるために、ちょうどいい。

最後に耳元。
小さなシルバーのピアス。
鈍い光で、黒髪の彼に映えるかもしれない。
だが、鏡の中の私は自分の視線を避けていた。
「彼はきっと、私を見ない」
予感はすでに胸に根を下ろしていた。



夜。
円町駅前のロータリーは排気ガスが白く溶け、焼き鳥屋の煙と混じり合う。
学生の笑い声、信号を渡る人のざわめき。
その人波の中で、彼は立っていた。

いた。

黒髪は風に揺れ、頬の線は夜の光を切り取る。
薄いスウェットに細身のスラックス。
無印かユニクロか、どこにでもある服のはずなのに、彼が着ると異様に映えた。
線の細さと衣服の余白が、彼の存在をいっそう不安定に見せていた。

「こんばんは」
彼は小さく会釈をした。
声は低く、膜の向こうから聞こえるように柔らかい。
だがその黒目は、私を見ていなかった。
わずかに逸れ、私の“横”を見て、ふっと頬を緩めた。

その笑みは、私に向けられたものではない。
私の肩口に立つ“何か”に、確かに向けられていた。

私は話題を投げかけ続けた。
好きな食べ物、音楽、学生時代のこと。
返事はいつも短い。
「うん」
「そうだね」
「まあ」
会話は空白ばかりなのに、沈黙はなぜか澄んでいる。
だが私は知っている。
彼が微笑むのは、私の言葉のときではない。
彼の斜視がわずかに解ける瞬間だけ。
──その先に誰かがいる。

「何を見ているの?」
我慢できずに問いかけた。
彼は黒髪を揺らし、少しだけ笑った。
「君じゃないよ」

胸が裂けるようだった。
怖いのではない。
もっと深い、鋭利な違和感。
私は恋を求めてここに来た。
けれど、彼は何かを見ている。
彼に見られることのない私は、すでに「生きていないもの」と同じだった。

別れ際。

ロータリーのバスが発車し、排気が白い靄を作る。
その中で彼は静かに立っている。
女みたいな顔と黒髪。
私を見ず、隣の誰かにだけ微笑む。

──円町の夜風の中、私は悟った。
私は彼にとって「出会い」ではなく、ただの「媒介」なのだ。
彼が欲しているのは私ではない。
私の背後にまとわりつく、見えない何か。

そしてその瞬間、私は初めて「見られていない」ということが、これほど残酷で、美しいものだと知った。

黒羽に触れず

僕の眼は、まっすぐに世界をとらえない。
右と左が、時折ふっとずれる。
その瞬間、視界の裂け目から「何か」が滲み出てくる。
ひと影、影法師、笑う顔。
誰にも見えないそれらを、僕はただ黙って見てきた。

祖父はいつも言っていた。
「東山からカラスがくるんや。人の姿をしとるくせに、心のない化鳥や」
七条通り沿い、七本松から御前まで、祖父はあの界隈で働き、笑い、酒を飲み、怒鳴り、また笑ったという。
けれど今は店のシャッターは下り、道は痩せ細り、若い連中は線路の向こうに消えた。
それでも祖父は声を張り上げて歩いた。
「仏さんに聞かせるんや。まだこの道に命が残っとるとな」

その背中を、幼い僕は見ていた。
痩せて小さくなっていくのに、妙にまっすぐな背骨。
東寺の方角に手を伸ばし、見えぬ仏に叫ぶ姿。
あれは祈りだったのか、恐怖の裏返しだったのか。

祖父はいつも怯えていた。
東山からくるカラスに。
それは人の姿をして、心を持たない。
「ワシは、あの女にひどいことをした」
祖父は時折そう呟いた。
黒髪の女。鳥辺野のカラス。
その記憶と怨念が、祖父を夜ごと震わせていた。

──けれど僕は、祖父と同じようには感じなかった。
僕にとって東山のカラスは、恐怖の象徴ではなく、別の何かだった。
胸の奥をざわつかせる存在。
恋とも呼べぬ、不明瞭な感情。
まだ見ぬ幻影に、どうしようもなく惹かれていた。

僕の眼は斜めにずれる。
まっすぐには捉えられない。
だがその「ずれ」の中に、世界の裂け目が開く。
人の肩口に寄り添う幽霊の群れを、僕はそこに見てきた。
アプリで人に会うのも、そのためだ。
彼らの背後に憑いた影を覗き込み、そこにカラスが紛れていないか確かめる。

女と会っても、僕は女を見ない。
自然と視線は逸れる。
頬が勝手に緩む。
──その先にいるのは、彼女ではない。
彼女の肩越しに漂う誰か。
けれど、求めているものとは違う。

東山のカラス。
お前は本当にいるのか。
祖父が怯え、憎んだ存在は幻だったのか。
それとも僕の眼だけが、まだその影を拾えずにいるのか。
いや、幻でもいい。
僕は幻に恋をしてしまったのだから。
その黒い羽音に、心を絡め取られてしまったのだから。

円町の夜風が吹く。
バスの排気が白く舞い、焼き鳥屋の煙が漂う。
通りすぎる人々は僕に目を向けない。
ただ僕だけが、視線を逸らし、裂け目を覗き込む。
そこに「まだ来ぬもの」を探し続ける。

眼の奥がふたたび外れる。
世界が二重に揺れる。
僕は待った。
──だが、そこにいたのは、ただの幽霊だった。

また外れたか。

いや、これは。

正面橋

正直俺はもう、自分が何をしているのか分からなくなっていた。
一日を通して積み重なった疲れが、骨の奥にまで沈みこんでいる。
呼吸をするのさえ、何かを思い出すように重かった。
それでも川を渡ろうと歩いていたのは、ただ足がそういうふうに動いただけなのかもしれない。

菊浜の酒場に、雨を逃れるように滑り込む。
戸口を開けると、鼻先に広がるのは馴染みの匂い──酒の甘い香り、総菜の胃袋を刺激する香り、床から立ちのぼる湿った木と土の匂い。
不思議と胸の奥を緩めてくれる。
疲れ切った体に、その混ざり合った香りは優しく突き刺さり、ここが「帰れる場所」なのだと教えてくれる。
外の雨に打たれ、どこか心細かった自分を、そっと包み込むような匂いだった。
外は土砂降りに近い雨だった。今日は五山送り火の日。
例年なら胸のどこかにざわめきがあるはずなのに、その夜の俺には何もなかった。
ただ雨が落ちて、傘を持たずに歩いてきた足元がじっとり濡れている。

店主がカウンターの奥で呟いた。
「雨の日は火もかわいそうやな」
そう言って、いつもは後回しにする窓掃除を始めた。
グラスから放たれるガラスをたたく水音が、雨音に混じって単調に響く。
その規則的な音を聞いていると、かえって落ち着いた。
──これでいい。
燃える山を見るには、今の気持ちは弱すぎる。
大文字の炎は強すぎる、俺には重すぎる。

時間の感覚が曖昧になっていた。
雨音と布のこする音に溶け込むように、酔いで心の輪郭がぼやけていく。
外から聞こえるのは、濡れたアスファルトを走る車の水しぶきの音だけ。
酒をひと口あおる。喉を通る液体は、期待ほど熱をくれなかった。

やがて、雨脚が弱まり、そして止んだ。
それを合図にしたかのように、店の隅にいた客たちが顔をほころばせる。
「お、止んだな」
「ありがたいこっちゃ」
笑い声が小さく連なり、それが熱を持って空気に広がっていく。
その温度に押し出されるように、俺は席を立った。


正面橋に出ると、川面に街灯の光が流れ込み、濡れたアスファルトを照らしていた。
七条と五条、両側の光が交錯するこの場所を、俺は好んでいた。
夜風はまだ湿っているが、雨に洗われた空気は幾分か澄んでいる。

八時が近づき、人々が川沿いに集まりはじめていた。
派手な色のスカーフを首に巻いた老婆。
缶ビールを片手に、煙草をくゆらせる爺さん。
夜に備えて化粧を落とし、すっぴんで佇む若い女。
橋の欄干を叩きながら走り回る子供たち。
それぞれの生活と、それぞれの疲れを抱えながらも、皆この夜に同じ方向を見ている。

やがて、火がともった。
遠くの山に赤い点が浮かび、次第に線を描いていく。
「おぉ…」と静かな歓声が、波のように広がる。
東大文字の端っこが、闇夜からわずかに覗いた。
その小さな炎の連なりを、誰からともなく手を合わせる仕草。
「今年もついたね」
「良かった良かった」
そんな声が、夏の鴨川の水音と一緒にすり抜けてゆく。

俺は立ち尽くしたまま、それを見ていた。
火は強すぎると思っていた。
けれど、こうして群衆と一緒に眺めると、不思議なことに胸の奥の疲れがほんの少しほどける気がした。
雨が洗い流した街の匂い、冷えた川風、そして炎。
すべてが一瞬、均衡した。

──あぁ、雨が上がった。
それだけで、もう十分だった。

イコマハジメ

四条大橋に座る男がいる。
名をイコマハジメという。
雨の日も、晴れの日も、京阪を背に小さなキャンバスを広げては、画材で人の姿を追いかけている。

私は悲しみに暮れた帰り道、彼にこう言ったことがある。
「ムンクのような不安を描いてほしい」と。
胸の奥が裂けるような、不安という名の闇を。
夜の街に巣くう沈黙や、孤独をえぐり出す絵を。

だが、イコマハジメの描く「不安」は違っていた。
彼はただ、橋を渡る人々を淡々と写しとるのだ。
足早に通りすぎるサラリーマン。
手をつなぐ親子。
酔いの余韻に笑う若者たち。
そのすべてが、どこか愛らしい。

そこには、私の思い描いた「絶望の深淵」はなかった。
むしろ、世界を愛する余白が、絵の片隅にひっそりと息づいていた。
わずかな笑み。ぎこちない仕草。
それらは彼の線のなかで震え、やさしさのかたちを帯びていく。
なにより可愛い。

私はその絵を見て、深く恥じた。
これまで私は、文章で他人を切り捨てることでしか「不安」を描けないと思い込んでいた。
誰かの弱さや過ちを抉り、そこに恐怖や孤独を仮託することでしか、言葉を立たせられなかったのだ。

だが、イコマハジメの絵は違う。
不安とは、誰かを裁く刃ではなく、誰もが抱えて歩いている日常の影だった。
彼の絵を見た瞬間、私は気づかされた。
本当の不安は、切り捨てるものではなく、共に見つめるものなのだと。

その夜、四条大橋の風は冷たかった。
けれど、イコマハジメの描く人々は、どこか温かかった。
私は言葉を手放し、ただ川の流れとともに、その絵を見つめていた。

他人の不安を初めて見た。
これは、この絵は宝物だ。

スーパーミント

うだる京都。
駅前のビッグカメラの一階。
冷房の風は生ぬるく、
人の往来は川の流れのように絶え間なく、
その片隅にサーティワンが、
光沢のあるショーケースを並べている。

私は、そこに立っていた。
スーパーミント。
若い子が好むには少し苦く、
子どもには刺激が強すぎるそのフレーバーを、
わざわざカップで選んだ。

舌にのせれば、
冷たさよりも先に走るのは、
針のようなミントの鋭利さ。
甘さに混じるほろ苦さは、
誰に言うでもない「強がり」の味。

──あの頃は違った。
──でも今が今なら、これでいい。

かつて恋人に、
あるいは自分自身に向かって投げたセリフを、
もう一度胸の奥で転がす。
京都駅の雑踏の中で、
ひとりの女の哀歌はアイスの冷気に包まれる。

手元のスプーンは小さくて、
掬い取るたびに落ちてしまいそうで。
だがそれでいい。
ロージンバッグの粉を舞わせる野球部員も、
音叉で響きを探す吹奏楽部員も、
サングラスを外して目を光らせるツッパリも、
みなそれぞれのアイテムを持つように、
このおばさんにはスーパーミントがある。

冷たさが喉を抜けるたびに、
“叫ぶ主体”が彼女に憑依する。
そして声にならない叫びは、
観光客のざわめきに、
地下鉄からの熱風に、
ビッグカメラの館内放送に、
かき消されながらも、確かに響いていた。

「今が今なら、これはこれで悪くないのよ」

カップの底をすくいあげる最後のひと舐め。
甘さも苦さも、氷も記憶もすべて飲み干し、
私はひととき、
スーパーミントの冷たさとともに、
強さと脆さをまるごと抱く。

離脱

水曜の昼下がり。
七条通を渡る人の足音が窓の下から昇ってくる。
小走りの革靴の音、ゆるやかな自転車の軋み。
そのどれもが、午前中の私には敵意を帯びて響いた。

光は鋭く、洗濯物の匂いさえ胸を刺す。
鼓動は裏切り者のように速く、
延髄を駆け上がる熱が頭を圧迫し、
視界は濁って揺れていた。
鏡に映る顔は、知らない誰かのものに見える。
眉間は固く、瞳は散り、焦点は漂っていた。

「飲まなきゃ」
心の底で繰り返す声。
午後三時に開く立ち飲み屋、いなせやの白い暖簾が浮かぶ。
それは救いではなく、義務の帳簿のように揺れていた。
酒は嗜好ではなく、やらねばならぬ儀式に変わっていた。
卓上のチップをレイズし続ける手を止められない、
そんな賭けの渦に囚われていた。


けれど午後、ほんの一瞬の切り替わり。
額から滝のような汗が落ちた瞬間、世界が裂けた。
それは予兆もなく降る夕立のよう。
厚い雲が一気に割れ、冷たい雨が身体を打ち抜く。
汗は背中から首筋へと噴き出し、
皮膚は冷水にさらされたように震えた。
自分の輪郭が崩れ、
畳の上へ溶け出していく錯覚にとらわれる。

止まらない汗が、ただ溢れ続ける。
嵐は永遠に続くかと思われた。
全身が流され、抵抗も意味を失う。

やがて嵐は唐突に途切れる。
汗はふっと止まり、
脳を満たしていた圧は音もなく退いていく。
世界は沈黙し、
視界は澄み、
心は雨上がりの空気を吸い込んだ街のように冷えていた。

追い酒の影は霧のように消え、
義務は義務でなくなる。
酒の卓は崩れ去り、
積み上げたチップも跡形もなく消えていた。

鏡に映る顔に、生の焦点が戻る。
眉間の硬さは解け、
瞳は澄み、
頬に血が通う。
午前の戦闘顔はもうどこにもない。

残ったのは空腹。
塩気を求める、ただそれだけの身体の声。
味噌汁と漬け物。
それが無性に食べたい。

窓の外ではアスファルトが濡れている。
路地に残る水溜りに青空が揺れ、
遠くで蝉が鳴き始める。
私は眉間に指を押し当て、
かすかな感触を確かめながら息を吐く。

午前まで、私は世界に追われていた。
だが今は、ただ生きるために食べる女へと帰っている。
東山の午後は静かに冷え、
その静けさが私を抱き留めている。


午前の赤は午後の青へ、
義務の影は無に溶けた。
眠り続けていたら見逃したはずの転調。


起きていてよかった、
汗とともに世界が裏返り、青い静けさとともに私の手元へ戻ってきた。

海面のドリフター

同期入社で女性営業職は、私とあの子だけだった。
だから私はずっと、あの子のそばにいた。
入社したばかりで、名刺交換の仕方さえおぼつかなくて、
会議室のドアをノックする手が小刻みに震えていたあの日から。
クライアントに厳しく詰められて、
答えに詰まった声を私が引き取り、
「次回までに必ず改善します」と頭を下げた瞬間の、あの青ざめた横顔。
夜になれば、オフィスに二人だけ残って、
足りない資料を黙々と埋めたこともあった。
それが当たり前の日々だった。

だからこそ、今が信じられない。
去っていくのは私ではなく、あの子の方だ。
「今までありがとう、もう大丈夫」──
その言葉が、どうしてこんなにも心をざらつかせるのだろう。

本当に、大丈夫なの?
一人で歩いていけるの?
強い風に吹かれたら、また立ち止まってしまうんじゃないの?
声を震わせて、視線を落としたあの日のように。
その不安が、私の胸の奥に静かに巣を作っていく。

私は責めたいわけじゃない。
ただ心配で、ただ悲しいのだ。
守りたいと思う気持ちが、
今では行き場を失って胸の奥で行き止まり、
どうしようもなく私自身を締め付けている。

あの子が笑ってくれることは嬉しいはずなのに、
今目の前にあるその笑顔は、私をひどく切り裂いていく。
旅立ちの表情は、祝福のようでいて、
どこまでも遠い。
私の祈りも、声も、もう届かない場所に行ってしまうみたいだ。

不安と悲しみは、ゆっくりと積み重なっていく。
何もしてあげられないという無力感が、
静かな絶望に姿を変えて、私を抉っていく。

──何であの子は、
私のいない残酷な世界に旅立つのに、
あんなに晴れやかな顔で笑えるんだろう。

深海のアングラー

彼女の優しさは、ずっと私を守ってくれていた。
声が震えたとき、すかさず冗談で場を和ませてくれた。
資料が穴だらけでも、夜遅くまで一緒に埋めてくれた。
その一つ一つが、ありがたくて、救いで、温かかった。

……なのに私は、それをまっすぐに受け取れなかった。
「守られている」という事実は、やがて「守られなければ生きられない私」という烙印になった。
彼女の笑顔は光のように眩しかったけれど、
その光は、私を弱者として照らし出す残酷なスポットライトでもあった。

だからだ。
私はいつからか彼女を羨み、嫉妬し、
その優しさすら疑いの目で見つめるようになった。
「あなたといると安心するの」──その言葉の裏に、
どこか優越の響きを勝手に聴き取ってしまう。
本当はそんなこと一度も言われていないのに。
それでも、私の心は勝手に歪んで絡みつき、
優しさを鎖に変えてしまったのだ。

やがて気づいた。
私は、彼女の評価の一部になってしまっていた。
私の存在は、彼女の自尊心の一部に変えられてしまっていた。
それを思うと、悔しくて悔しくて、
この街そのものを呪ってしまいそうになった。

そして、ある日ふと決めた。
──辞めよう。

その瞬間、胸に巻き付いていた鎖は音もなく崩れ落ちた。
霞がかった視界が晴れ、
街の色が、音が、匂いが、驚くほど鮮明に飛び込んできた。
朝の通勤電車すら、解放の風を運ぶ舟に見えた。

私はやっと、自分の足で歩ける。
たとえ無様でも、彼女に守られない世界で。
そう思うと、不思議なほど笑みがこぼれた。

──残酷なのは、私ではなく世界でもない。
彼女の優しさを歪めてしまった、私自身の心だったのだ。

だから私は決めた。
ずるいことをしてもいい、汚くなっても構わない。
そうして、あの子に並んで──初めて対等に、笑うんだ

カルピス

古川の商店街に足を踏み入れると、
大きな猫が八百屋の軒先で腹を見せてだらけていた。
誰も追い払う者はなく、猫は夏の熱気を吸い込みながら、
目を細めて路地の空気にとけている。
地面にに張りついたようなその姿を見て、
この街の時間もまた、そこに寝そべって動かなくなったのだと感じた。

静けさの中にふと昔の景色が重なる。
人があふれ、声が飛び交っていたころ。
魚屋の氷が白く煙り、パン屋の甘い香りが漂っていたあの頃。
八百屋の軒先にお中元用のカルピスの箱が、
場違いなほどきちんと積み上げられていた。

──カルピス。
子どもの頃、家の流しの下に一升瓶で眠っていた。
暗がりに浮かぶ白地の水玉模様を見つけると、
「夏が来た」と心がはしゃいだ。
氷の音とともに割ってもらう一杯は、
特別な甘さで、ひとつの季節そのものだった。



大人になって、同じような「ささやかな甘さ」を
劇団の稽古場で味わうことになるとは思わなかった。
誰かが夕べ買ってきた半額のパンを分け合うだけで、
一瞬が祭りのように華やいだ。
言葉をぶつけ合って汗を流し、
夜更けに肩を叩き合って笑った。
あの時の空気は、確かに生きていた。

……けれど今や、カルピスは原液のまま冷蔵庫にしまわれる。
いつでも飲める代わりに、
あの「特別な甘さ」はもう戻ってこない。
劇団も、きっと同じかもしれない。
客席が埋まるようになった代わりに、
稽古場に漂っていた雑多な熱気は整理され、
冷たく澄んだルールに置き換わってしまった。
あの混沌の中にしかなかった響きが、
少しずつ失われていった。

金、色恋、名前を刻もうとする焦りが絡むと、途端に脆くなる。
呼吸が乱れ、舞台の上で目を合わせるのが怖くなり、
信じていた仲間が、急に遠く見える。
みんないいやつらだった。
必死で夢を追いかけていただけなのに。
それでも軋みは止められなかった。

私は結局、決めた。
──辞めよう、と。

果物屋の軒先のカルピス箱を見つめながら、
流しの下の暗がりと、稽古場の熱気と、
そして今の静まり返った商店街がひとつにつながっていく。

猫はまだ腹を見せたまま眠っている。
もう誰も撫でてはくれないのに、
それでもアーケードの下でゆっくり呼吸を続けている。
その姿は、去っていく私の背中を肯定しているようにも見えた。

舗道に伸びる影はひとつきり。
私はその影を追いながら、
静かに歩みを進めた。
冷蔵庫の中のカルピスのように、
冷たく澄んだ別れの余韻を胸に抱えて。

黄色い老犬

名古屋から流れてきた爺さんが、いつの間にかこの界隈に馴染んでいた。
背は低く、ヤニで黄色く煤けた帽子をいつもかぶっていて、着古した服を着ていたが、笑みはやわらかく、人の心を解かす力があった。
彼は気さくで、誰にでも声をかけた。
八百屋の荷物を運び、菓子屋の箱を片づけ、子供に飴を配り、夕暮れには酒場の片隅に座り込んで一杯を長く楽しんだ。
あの人が立ち去ったあとには、なぜか温かいものが残る。
誰もが彼を「爺さん」と呼んだ。
私もいつしかその輪の中に加わり、爺さんのいる光景が当たり前のようになっていた。

ある日、五条大橋のたもとで騒ぎがあった。
子供がふざけて欄干に登り、川へ落ちたのだ。
人々が悲鳴をあげるより先に、爺さんは迷いなく飛び込んでいた。
濁った水をかき分け、子供の腕を掴み、力強く引き上げる。
橋の上にいた私たちは、その背中をはっきり見た。
水に濡れたシャツの下から、軍荼利明王が背一面に立ち上がっていた。
炎を背負うその姿は、誰の目にも鮮烈だった。

だが、誰も口にしなかった。
「見ないふり」をすることが、この街のやり方だった。
八百屋の親父は「助けてくれてありがとう」とだけ言い、子供の母親は涙を拭きながら爺さんに頭を下げた。
私も何も言わなかった。
あの刺青が何を意味するかなど、想像することさえ避けた。

それからも爺さんは、変わらずここにいた。
朝は掃除を手伝い、昼は誰かに声をかけ、夕暮れには酒屋の主人に肩を叩かれた。
子供たちは駆け寄って「爺さん、おかえり」と言った。
背中の明王を知っていながら、誰も触れなかった。
その沈黙の中で、爺さんは街の一部になっていた。
彼がいるだけで、日常が少し穏やかになる。
黄色い老犬のように、そこにいるのが自然で、誰もがそれを受け入れていた。

しかしある日、名古屋から数人のチンピラがやってきた。
爺さんを探している、と。
鋭い目つきで店先をのぞき、通りを歩く人間に声をかける。
空気が重くなった。
だが、街の人々は口を揃えて「知らない」と答えた。
菓子屋の婆さんも、魚屋も、八百屋の親父も、子供たちまでも。
皆が爺さんを庇おうとした。

けれど私は、心の奥に恐怖を抱いていた。
もし彼らが暴れれば、この商店街が壊される。
瓦屋根も、古い看板も、灯りに集う子供たちの笑い声さえも。
爺さん一人を庇えば、この街全体が犠牲になるかもしれない。
「爺さんが好きだ」という気持ちと、「街を守らねば」という気持ちがせめぎ合い、私は立ち尽くした。

やがて私は、小さな声で告げていた。
「……あの人なら、あそこに」



チンピラに連れられて商店街を去る時、爺さんは振り返った。
視線が合った。

爺さんは笑っていた。

その眼差しは責めるでもなく、哀しむでもなく、ただ静かに受け入れるものだった。
私の胸は裂けるように痛んだ。

爺さんは歩いていった。
荷物を背負い、軍荼利明王の炎を背に刻んだまま、ゆっくりと。
誰も声をかけなかった。
誰も止めなかった。
それが、この街を守るための「群れの選択」だったのだ。

けれど今も、あの爺さんの笑みが焼きついている。
私は街を守ったのか、それとも自分を守っただけなのか。
答えは出ない。
ただ胸の奥で、黄色い老犬の影が消えないまま、今も息づいている。
それは誇りか、後悔か。
その区別さえ、もはやできない。

誰が為に鐘は鳴る

かかとが泥に沈む。
それでも、打つ。

音は湿った土に吸われ、
どこにも届かない。
だが私は打つ。

なぜか。
退屈を突き破るためだ。

退屈──それは静かな毒だ。
日常の食器の音、夫の呼び声、繰り返される人の顔。
舞台を降りた私の心を、ゆっくり腐らせていった。

私は踊りをやめたかったのではない。
やめられなかったのだ。
拍手も賞賛も、嘲笑さえも消えたあと、
私に残ったのは「叩きつけたい」という衝動だけだった。

音は、私の絶望と同じ。
打てば打つほど、土に飲まれて消えていく。
だがそれでよかった。
無音に沈むその感覚が、私をかろうじて現実につなぎとめた。

世界は崩れていく。
秩序は熱に変わり、熱は冷え、やがて均一の灰になる。
私はそのエントロピーのただ中で、
ただの一拍を叩き込む。
「ここにまだ一人、立っている女がいる」と叫ぶように。

そして私は限界を見た。
音はどこまでも無力だ。
私は泥に沈み、やがてこの川に吸われて消えるだろう。
そう思った瞬間だった。

──水音。

橋の上から子供が落ちた。
目が合った。
浅瀬のはずだ。
しかし子供は起き上がらない。

世界が止まった。
そのとき、水面に影が舞った。

老人だった。

考えなどなかった。
衝動がその身体を放り投げていた。
退屈など微塵もない、ただ純粋な命の跳躍。
水面を裂き、子供を抱き上げるその姿。

私は震えた。
これがパッションだ。
私が十年追い求めても見つけられなかった、
退屈を突き破る“熱”。
秩序を崩す一撃。
エントロピーの果てに燃え上がる炎。

濡れたシャツの下に入墨が透けた。
炎を背負った背中は、私の靴音をすべて吹き飛ばすほど鮮烈だった。

私はスマホを構えた。
震える指で投稿する。

──#五条大橋
──#フラメンコの夜
──#奇跡の瞬間

プレイビューは少ない。
いいねもつかない。
だが、その片隅に映った背中を、
二つの目が見逃さなかった。

暗い部屋。モニターの前。
冷たい声が交わされる。

「アイツだ」
「やっと見つけた」
「……最後の一人」

我谷は緑なりき

二人組のチンピラが俺を探してやがる。
笑っちまうな。
あれはヤクザもんじゃねぇ。
公安だ。
けつの毛まで残さねえ、徹底的なやり口──まったく頭が下がる。

商店街で手帳を出さなかった。
なるほどな、わかってやがる。
善人には理屈より、単純な恐怖を見せりゃ十分だ。
悪くない、いや、あっぱれなやり口だ。

だがよ、俺が怯えたのは奴らじゃねえ。
俺が怯えたのは、この街を手放すことだ。
どこから足がついたか、考えるまでもねえ。
きっと、あの一瞬だ。
泥水の冷たさ、子供の腕の細さ、
そして、見られちまった。
ああ、そうだろうよ。

それでも去れなかった。
俺はこの街が好きだったんだ。
朝の八百屋の声も、魚屋の匂いも、
路地に転がる太った猫も、
夕暮れの一杯に混じる誰彼の愚痴も──
ぜんぶ、愛おしかった。
だから俺は老犬のふりをして座っていた。
ただそれだけのことだ。

若いの、
……選択を間違えるなよ。
これは俺のヘマだ。
街のためにだとか、誰かのためにだとか、
立派な言い訳なんざいらねえ。

お前が立派な男になるために、俺を突き出せ。

ただ、俺が欲に勝てなかっただけだ。
ここに居たいという欲、
この笑みの輪に混ざりたいという欲。
それが俺を縛った。
だから、これは俺のケリだ。

秋風のあとを雪が追い、
季節は廻って、
それでも俺は、一度あの緑を見たかった。
お前が美しいと口にした、
あの東山の新緑を。
だがそれも、もういい。
夢は夢のまま残したほうが鮮やかだ。

ああ、我谷は緑なりき。
風の匂いも、雨の色も、
ぜんぶ、しなやかに溶けちまう。

……あんたは、正しいことをしてくれ。
それだけを伝えたかった。
届いてくれ。

歩くような速さで。

京都タワー

金曜の夕暮れ、京都タワーの灯りがゆっくりと点きはじめる。
その赤い光が雲ににじみ、駅前の広場やロータリーに滲んで落ちてくる。
晩夏の空気はようやく冷気を帯び、汗をにじませた日中の熱をどこかへ追いやってくれる。
街全体が少しほっとしたような、そしてこれから夜に浮かれる準備をしているような、そんな息づかいを感じる。

HUBの喫煙テラスに出ると、ギネスの泡と煙草の煙が入り混じった匂いが漂う。
グラスを手にした人々の笑い声が途切れ途切れに夜風に乗り、氷の音が小さく鳴る。
俺もグラスを受け取り、手のひらに伝わる冷気に、週の終わりを実感する。
煙草に火を点けると、オレンジ色の火花が一瞬だけタワーの光に競り合った。

──四十を過ぎた男が、こんなふうに浮かれるのはどうなんだろう。
若い連中のように、スマホを掲げて「手と飲み物と京都タワー」を撮ってみようかと一瞬思う。
だが、そんな姿をもし誰かに見られたら、きっと顔から火が出るだろう。
俺は写真を撮る勇気がなく、代わりにグラスを口に運ぶ。
喉を通り抜ける冷たいギネスと、胸に広がる解放感。
それだけで十分だと思う。

だが、心の奥で隠しきれない。
今夜は久しぶりに「予定」がある。
そのことが俺をこんなにも浮かれさせ、街のネオンを祝祭のように見せている。
普段ならただの駅前の喧噪が、今夜はまるで劇場の幕開けに感じられるのだ。

観光客がキャリーケースを引き、学生が笑いながら自転車を押し、
仕事帰りのサラリーマンが居酒屋へ急ぐ。
それぞれの金曜日を抱えて、この広場を横切っていく。
俺もその中のひとりに過ぎないのに、胸の鼓動だけが妙に浮き立っている。

──恥ずかしいほどだ。
ただ「誰かが待っている」というだけで、ここまで高揚してしまう。
そのことを悟られたくなくて、煙を吐くふりで笑みを隠し、もう一口グラスを傾ける。
京都タワーの光が、そんな俺の浮かれた心を見透かすように、夜空に瞬いていた。

プライドオブサイレンス

寺町のアーケードをくぐると、四条通の喧騒が背後に遠ざかってゆく。
ほうじ茶の香り、焼き栗の甘さ、観光客の笑い声──
それらすべてを振り切るように、私は裏寺町の細い路地へ沈んだ。

古びた暖簾をくぐれば、秋刀魚の脂がはぜる匂い、
芹のおひたしに染みた出汁の湯気、
そして木のカウンターに吸い込まれるような灯り。
この小さな居酒屋が、今夜の私のハビタブルゾーンだ。
髪を耳にかけながら、私は思わず視線を走らせる。──彼女はもう来ているだろうか。

すでに、彼女は座っていた。
過ぎゆく夏を名残惜しむように、凛とした姿で冷酒を飲んでいる。
盃を持つ指先は白くしなやかで、口元へと運ぶ仕草が美しい。
冷たい琥珀が喉をすべり落ちるのを見た瞬間、
私の胸の奥で、小さな音が弾けた。
外の爽やかな秋風よりも、
その一口の方がはるかに鋭く、涼しく、
私を揺さぶったのだ。



世間では、私たちの「解放」を叫ぶ声がある。
けれど私の気質は、昔から変わらない──
大勢の熱気に近づけば近づくほど、心は冷めていく。

太陽の真下は、私にはまぶしすぎる。
この店のような暗がりで、息をひそめているぐらいがちょうどいい。

群衆の旗に映らない愛を、私は選んできた。



硝子徳利の氷ポケットから響く音をかき混ぜながら、
彼女と秋茄子の煮浸しをつつき合う。
窓の外からは、解放パレードの低い大太鼓の響きが流れ込んでくる。
その音はまるで、「静かにここで息をしていなさい」と
私たちにだけ囁いているかのようだ。

私の解放は祝祭ではない。
見世物でもない。
四条通のざわめきから逃れ、裏寺町の薄暗がりに隠れ、
彼女と盃を合わせ、静かに笑うことだ。

浮世の風は冷たい。
けれど、この小さな居酒屋の隅には、
誰にも奪えない私たちの解放がある。

二重身

冬の大宮は、煤けた冷気が肌にまとわりついていた。
駅ビルの蛍光灯は弱々しく点滅し、吐いた息が白く漂ってはアーケードの闇に呑まれていく。
寂れたシャッター街の端に、まだ灯を保つ「庶民」の暖簾がゆらめいていた。

戸を押し開けると、油の匂いとストーブの熱気が顔にまとわりつき、思わず肩をすくめた。
とりあえず、ハイボールと煮込み。
指先がゆるみ、湯気に混ざった脂の匂いが鼻を突く。
その温もりを突き破るように、シュワシュワを喉へ流し込んだ。

今日も今日とて、カウンターは満員御礼。
隣に座っていたのは、五十前後の男。
安っぽいダウンにガラケー。
その端に、色あせたスパイダーマンのストラップが揺れていた。

気づけば口が勝手に動いていた。
「スパイディ良いっすよね」

男はにやりと笑い、唐突に切り込んできた。
「……クローンサーガ、知ってるか?」

「……え?」

「ピーターとベン・ライリー。どっちが本物か。あれはキャラが苦悩してるように見えて、実際はライターが世界を揺らしていただけなんだ」
串カツを齧りながら、声は妙に滑らかに加速していく。

「クローンとは何か。ヒトデを分断して再生したら、それは“拡張された自己”なのか? 否。自己は割れて増えるもんじゃない。環境が自己を映すんだ」

「え……じゃあ本物は?」
「どっちも本物で、どっちも偽物だ」
「……は?」

俺が呆気に取られる間にも、男は勝手に積み上げていく。
「キャラの苦悩なんて編集会議で決まる。つまり、人生は最初から“神の気まぐれ”に支配されているんだ」

神の気まぐれ? ……何言ってんだこいつ。

「そしてな──脳髄は物を思うにはあらず。物を思うは、むしろこの街だ」

「……え?」

「言葉も、笑いも、欲望も、全部この街が俺たちに考えさせている。俺が串カツを食ってるのも、街がそうさせているんだ」

その時、隣のさらに隣で飲んでいた中年の酔客が笑い声をあげた。
「何言うとんのや! 街が考えさすんやったら、ワシがクビなったんも大宮のせいやんけ!」

カウンターにどっと笑いが広がる。
だが男は酔客を見ようともせず、串を噛み切り、淡々と続けた。
「……でももし街が思うなら、俺がクローンでもオリジナルでも同じだな。さて、俺は誰なんだ?」

俺はつい口を突いて出していた。
「……おっさん、仕事は?」

男はふっと笑い、現実に戻ったように高らかに店員を呼ぶ。
「串カツ、もう一本!」

そしてポケットから名刺を差し出してきた。
《京都大学 医学部 非常勤講師(再生医療倫理学)》

……え?

俺は名刺を見つめたまま、街の煤けた冷気と油の匂いを、もう一度深く吸い込んだ。
笑い声の余韻の中で、大宮の街そのものが、ほんとうに思考しているように思えた。

社会生活の流刑地にて

木屋町の夜は、いつだって湿っている。
鴨川から立ちのぼる水の匂い、焼き鳥屋からあふれる煙、酔っ払いの笑い声。
それらが混ざり合い、通りを覆う街灯の光を曇らせていた。
雑居ビルの二階にあるアニメバーは、その湿気の溜まり場のような場所だった。
階段をのぼると、貼りっぱなしのポスターが端から剥がれ、ガラス戸の隙間から古びた主題歌が漏れている。

中に入れば、壁一面にアニメのポスター、棚には色あせたDVDやセル画のコピー。
カウンターの奥の小さなモニターには、八〇年代のロボットアニメのオープニングがループしていた。
狭い店内の熱気と、薄められた焼酎の匂いに混じって、なぜか安心する気配があった。

僕にとって、ここは“聖域”だった。
人生はうまくいかなかった。
仕事は続かず、人間関係も育たず、誰にも褒めてもらえない日々。
けれど、アニメの知識だけは僕を裏切らなかった。
ここでは、語る言葉に意味があった。
細かな裏話や逸話を披露すれば、たとえ一瞬でも場がこちらを向く。
知識だけが、僕を守ってきた。

だからその夜も、自信を持って口を開いた。
スクリーンに映る戦闘シーンを指差しながら、得意げに語った。
「この回、セルの枚数を減らしたんですよ。予算が尽きて、監督が泣く泣く──」

隣にいた若い男が、グラスを揺らしながら口を挟んだ。
「いや、それ誤解ですよ。セルを減らしたのは次の話数です。アニメーター本人がインタビューで否定してます」

……?

たったそれだけの一言だった。
誰も笑ってはいない。
店の空気は変わらず、別の席では別の話題が続いている。
けれど僕には、店全体の光と音が遠のいたように感じられた。

砦が崩れる音がした。
知識という武器で築いた壁が、一瞬で粉々に砕けた。
負けた──その言葉しか浮かばなかった。
勝負ですらない場なのに、確かに僕は負けた。
自分の人生が、編集ミスのようにぐしゃぐしゃに塗り替えられていく感覚があった。

グラスの氷がカランと鳴り、琥珀色の水面に僕の顔が揺れる。
惨めで、みすぼらしい。
誰にも褒めてもらえず、誰も見ていないのに、なぜこんなに苦しいのか。

その時、不思議な衝動が胸を突き破った。
この人を知りたい。
隣の男の仕草、声、瞳の奥に潜む何かを、全部知りたいと願った。
知識で勝つことよりも、彼の存在そのものを掴み取りたいと渇望した。
それは恋でもなく、羨望でもなく──
もっと原始的で、必死なものだった。

そうだ。
知りたいという思いそのものが、純粋な生命への渇望だったのだ。
敗北の痛みと、生きたいという衝動が、同じ瞬間に胸を焼いていた。

店を出ると、木屋町の湿った空気が冷たく肌を打った。
コンビニの蛍光灯に吸い寄せられるように入り、カップラーメンをひとつ、安い酒を一本買った。
鴨川の風は冷たく、街の灯りは遠かった。

誰にも褒めてもらえない。
それでも、僕は言葉を残すしかない。
敗北と渇望を抱えたまま、眠りにつくしかない。
そしてきっと明日もまた、僕は誰かを知ろうとするのだろう。

擬態

──朝の総務課。
内線が一斉に鳴り、伝票の山が机に置かれる。
「すぐ対応お願いできます?」
「これ、急ぎなんで」
先輩方の声は軽やかで、でも微妙に競い合っている。
僕は笑顔を張り付けたまま、書類を抱え込む。

「はい、承知しました。こちらで処理しておきますね」
声を柔らかく、角を削って返す。
男の響きを抑え込み、丸みを帯びた調子を保つ。

昼前、備品の納品で重いダンボールが届く。
反射的に抱え込んだ僕を見て、周りが「助かるわあ」と笑った。
その一言に救われつつも、
“頼れる男”のポジションに寄りすぎないよう注意する。
「腰に気をつけてくださいね」なんて言葉を添えて、
自分の力を誇示しないようにバランスを取る。

昼休み、女性社員のテーブルは花のように咲く。
話題はスイーツ、子どもの習い事、週末の買い物。
僕は味の薄い相槌を用意して、会話に溶け込む。
「へえ、美味しそうですね」
「なるほど、そんな新店が」
ほんの一言で、場の空気を壊さずに済むなら、
冗談も野心も胸の奥で眠らせておく。

午後の会議。
数字を整理し、報告をまとめるのは僕の役割だ。
だが結論を強く主張すれば、空気がざわつく。
「皆さんのおっしゃる通りですが…」と前置きを添えて、
意見をやんわりと置いていく。
真ん中に立ち、誰の顔色も曇らせないことが、
この水槽で生き延びる術だから。

時計の針が17時を回り、退勤の時間。
パソコンを静かに閉じて、深く礼をして課を出る。
制服姿の店員が帰宅客とすれ違い、
館内のBGMは一日の終わりを告げるように低くなる。

自動ドアを抜け、七条通の風に触れた瞬間──
胸に張り付けた仮面が少し剥がれる。
烏丸七条の交差点。
赤信号に足を止め、西山の稜線が暮れ色に沈むのを見上げる。

ああ、ようやく“俺”に戻った。
声を低く張ってもいい。
歩幅を大きくしてもいい。
誰の視線もない。

京都駅のざわめきに背中を押されながら、
僕は擬態を解き、ただの若い男として、
暮れゆく西山をしばらく見つめていた。

去勢

──3次会。
数珠つなぎで流れ着いたのは、くらがり通りの小さなカラオケバー。
甘ったるい香水とカラオケのエコーが混ざり合い、僕の背広に染み込む。
狭いソファに先輩たちがずらりと並び、気づけば12人中、男は僕ひとり。

「主任、座って座って〜!」
ソファに押し込まれ、グラスを渡される。
心臓はドラムロール、背中には滝のような脂汗。
笑え、僕。
今夜は擬態の域を超え、精神的去勢ショータイムだ。

そして始まった──経理チーム3人の大合唱。
選曲は「恋するフォーチュンクッキー」。
揺れる肩、揺れる二の腕、揺れるソファ。
化粧は熱気で溶けかけ、アイラインは涙のようににじんでいる。
でも笑顔はキラキラ、声はズレてもパワフル。

「みんなをもっと!もっと!知りたーい!」
拳を突き上げるたびに、僕の魂は一枚ずつ剥がされていく。

声が飛ぶ。
「うちの旦那さぁ〜」「そうそう、それでね!」
「この前の旅行の写真見てくれる?」「え、まだ言ってなかったっけ?」
話題はバラバラ、声は重なり、笑い声は天井で反響する。

僕はただ、氷のグラスを手に微笑む。
誰も僕に返事を求めていない。
言葉の川は四方八方に分かれ、僕はその真ん中で溺れないように必死に立っている。

ときおり視線だけがこちらをかすめる。
「ね、主任もそう思うでしょ?」
だがもう話題は三つ先に進んでいる。
「ええ、まあ……」と口にした瞬間、返事は虚空に消える。
「キャハハハハハハ!!わっかんないよねぇ!」
笑顔だけが取り残され、頬の筋肉は痙攣しそうだ。

完全に置いて行かれている。
でも笑え、笑顔だけが、ここで生き残る術だから。


目が座った先輩たちが一斉に叫んだ。
「主任!立て!踊れ!!」
僕は震えるタンバリンを握りしめ、腰を浮かせた。

なんだろう、なんだろう。
屈辱的で、頭の中がぐちゃぐちゃで、
シャツは汗で張り付き、ネクタイは呼吸を阻む縄のよう。
自分がここにいる意味すら見えなくなっていく。

それなのに──気持ちがいい。

笑顔を貼り付けたまま、魂を捧げる舞踊。
「もう自分じゃなくてもいい」と思える瞬間。
恥と疲労とアルコールが溶け合って、
奇妙な快楽に変わっていく。
もしかすると、これこそが精神的去勢の正体かもしれない。
あぁ、壊れてゆく。

マスターは相変わらずカウンターの奥。
グラスを磨き、遠くを見つめ、絶対にこちらに介入しない。
助けてくれよ……ラストオーダーの一言でいいから。
だがその夜、彼はただ黙々と布巾を回すのみ。

──気づけば明け方。
四条通に出た瞬間、夜風の名残が顔を撫でる。
祇園の提灯が赤く揺れ、東山の稜線が赤く染まっていく。
「はあ……俺は、まだ男だ」
深呼吸とともに、汗は風に乾き、
この夜の屈辱と快楽は、祇園の赤に溶けて消えていった。

遠き落日

──ベンチの木肌が湿っている。
成田ニュータウンの公園。
朝から遊ぶ子どもはいない。ブランコは錆びて鎖がきしみ、砂場には草が生え、滑り台には枯葉が積もっている。
ベンチに座る老人は俺ひとり。空を仰ぐが、そこには何もない。雲の切れ間からこぼれる陽光さえ、ただ虚ろに広がっているだけだった。

昔、俺はがむしゃらに空港で働いた。
毎朝まだ暗いうちに起きて、冷たいコンクリートの床を磨き、ターミナルをすり抜けていく旅客の列に目をやった。
誰もが希望の匂いをまとっていた。
パリに行くと言っていた若い女、ハワイだと笑っていた家族連れ、ビジネスクラスの背広の男たち。
彼らは俺の知らない遠い世界へと飛び立っていった。

俺はただ、地上で見送るだけだった。
荷物を積み、案内をし、床を磨き、出発ゲートを過ぎてゆく背中を目に焼きつける。
その繰り返し。
気がつけば、俺の人生そのものが「誰かを遠くへ運ぶための労働」で終わっていた。
だが俺自身は、どこへも行けなかった。

そして今、こうして公園に座っている。
周りに子どもの声はなく、時間が止まったように空っぽな広場。
この街は未来を前提に作られたのに、未来を担う者が消えてしまった。
残った老人たちが無言で空を仰いでいる。
その空に物語はない。
飛行機雲も、祈りも、連なりもない。
ただ、色褪せた青さが広がっているだけだ。

……ああ、京都に帰りたい。

京都の街は、老いを拒まない。
祇園の路地を歩けば、皺だらけの手で箒を持つ婆さんがいる。
鴨川の土手では、背を丸めた爺さんがビールを片手に夕焼けを眺めている。
東山の石段を登る老夫婦は、若い観光客に道を譲りながら、まるでそれが街の呼吸の一部であるかのように自然に溶け込んでいる。
京都では、老いは取り込まれる。
排除されず、景色の中に沈殿し、積み重なり、やがて街の美しさそのものになる。

その美しさを、俺も担いたい。
だが現実には、体に元気がない。
足腰は重く、心臓はかつてのようには走ってくれない。
京都まで帰る力が、俺に残っているのか――自信はない。

それでも夢を見る。
夜風に吹かれながら七条大橋に立ち、暮れゆく西山を仰ぎたい。
大文字の送り火を、老いた目でじっと追いたい。
ただそれだけでいい。
働いて削られた俺の時間も、空っぽな公園の虚無も、
その風景の中でなら、やっと意味を取り戻せる気がするのだ。

「老いが必要とされる街に帰りたい」
胸の奥で、その言葉が小さく響く。
繰り返すごとに、それは祈りのようになっていく。

……だがベンチから腰を上げる力さえ、今は心もとない。
公園の隅で、枯れかけたアジサイが色を残して揺れている。
その何処にも行けない揺れが、まるで俺の残り火みたいだ。

ブラックウッド卿のスピーチ

レディ、そして紳士淑女の皆さま。
今宵、この優雅なサロンに集った我々は、ある特別な節目を祝福するためにございます。
それは──レディの六十歳のお誕生日。

六十歳、と聞けば、凡庸な人は“もうそんな歳に”と囁くやもしれません。
しかし、私どもが知る真理は違います。六十歳とは終わりの鐘ではなく、むしろ新たな扉の開かれる瞬間。
人生における“第二の二十歳”の始まりであります。

二十歳の青年は、まだ何者にもなっておらぬ自由を持ちます。
六十歳のレディは、すでに何者でもあったゆえに、もはや何者であろうと構わぬ自由を持たれる。
この違いこそ、人生の妙味でございましょう。

そしてここで一言、皆さまの心を代弁いたしましょう。
──レディ、あなたは今も可愛らしい。
もちろん私は、軽薄な“若さの飾り”を申し上げているのではありません。
あなたの微笑みに漂う余裕、長い年月の経験を経ても失われぬ遊び心、そして周囲を和ませる茶目っ気。
これらこそが、歴戦を経た勇士がふと見せる第二の可愛さにほかなりません。
まさに、可愛いは正義──いや、可愛いは祝福なのでございます。

思えば、このサロンがいつも華やぎ、我々が安らぎを得られるのは、レディ、あなたがそこにいてくださるからこそ。
今日この日、私たちはただ“年齢”を祝うのではなく、その存在そのものを祝福いたします。

どうか、第二の二十歳を歩むあなたの未来が、これまでの六十年にも増して豊かで、そして自由でありますように。
レディ、そしてこの祝宴を彩るすべての方々に──グラスを掲げて。

“To the Lady, at her Second Twenties! Cheers!”

黒木旦那の挨拶

皆さま、今夜はほんまに、いやあ、ええ夜ですなぁ。
ここは、わたしたちにとって、日々の疲れをほどき、心を預けられる大事な場所です。
その真ん中に座ってはるのが──言うまでもなく、ママ。
そのママさんが、めでたく還暦を迎えはった。これはわたしたちにとっても喜ばしいことでございます。

六十年という歳月は、決して短こうない。
春の花を見て、夏の暑さに耐え、秋の月に酔うて、冬の雪に震える──。
そうやって繰り返しを重ね、喜びも悲しみもようけ味わって、今のはんなりとした笑顔ができあがってきたんやと思います。

世間では“還暦”を一区切りや言う人もおります。
けど、わたしはそうは思いません。
六十は、むしろ始まり。
“第二の二十歳”やと、そう申し上げたい。

二十歳の若い衆は、まだ何者にもなってへんから自由。
六十のママさんは、もう何者にもなってきはったからこそ自由。
その自由は、軽やかで、しなやかで、そして豊か。
せやからこれからの毎日こそが、ほんまの青春やと思います。

それに──この歳になってはじめて出てくる可愛らしさ、あるんですわ。
若さの可愛いとはまた違う。
長年の経験をへて、しわの奥に優しさや強さが宿って、
ふっと笑うたときに、それが“はんなりとした可愛さ”になって花ひらく。
わたしたち常連のタコ助どもは、その笑みにどれほど救われてきたことか。
ほんま、ママさんには感謝の気持ちしか、でございます。

どうかこれからも、このお店が灯りを絶やさず、
ママさんの笑顔とともに、わたしたちがここで元気をもろて、また明日へと歩んでいけますように。

それでは皆さま、どうぞグラスをお取りください。
“第二の二十歳”を迎えはったママさんに、心からのお祝いと、これからのご健勝と繁盛を願いまして──

乾杯!

スタンド・バイ・ミー

晩秋の木屋町。
高瀬川沿いの木々はほとんど葉を落とし、かろうじて残った紅が街灯の下でひらひらと揺れていた。
川面を撫でる風は冷たく、老人の頬を刺すように吹き抜ける。
彼は薄く笑い、古びたKindleを取り出した。

もう起動しない。
電源ボタンを押しても画面は沈黙し、ただ黒い板のように冷たさを返すだけ。
老人はそれを手鏡代わりにして、乱れた髪を撫でつけた。
そこには皺だらけの自分の顔が映り込み、背後には木屋町のネオンがにじんでいた。

「お前とは、長かったなあ」
川風に負けないような声で、独りごちる。

「映画は幾万。スピルバーグも、ホドロフスキーも、スコセッシも。
 泣きたい夜はメロドラマを、お前と一緒に見た。
 孤独で眠れない夜は、ホラーやSFで時間をすり抜けた。
 どれも小さなこの窓から覗いた世界だったが、俺にはじゅうぶん広かった」

Kindleは沈黙している。
しかし老人にはわかっていた。
自分が夜ごとこの黒い板に見入っていた姿を、相棒はすべて記憶していることを。

「それから週刊誌だな」
胸を張るように言う。
「SPA!に現代に新潮に……。
 馬鹿みたいな見出しに声を出して笑った夜もあれば、
 政治や病気の記事に暗い気持ちになった夜もあった。
 でもページをめくるたびに思ったんだ。――ああ、俺はまだ世の中につながっているって」

老人は画面を指で軽く叩く。
それは昔の仲間の肩を軽く叩くような仕草だった。

川沿いを歩くと、赤ちょうちんの明かりがちらちらと水面に反射する。
酔客の笑い声、若いカップルのささやき、客引きの声。
街はいつもどおり騒がしく、けれど晩秋の空気がその騒ぎを少し冷たく包み込んでいた。

老人は立ち止まり、カバンにKindleを差し込んで小さく呟いた。
「なあ相棒。今の俺……イケてるかい?」

答えはない。
ただ、風に押されて川面の落ち葉がくるくると回り、遠くから女のバカ笑いがかすめる。
その音色は、どこか映画のエンディング曲のように聞こえた。

再び歩き出す。
カバンを肩に掛け、灯りの中を進んでいく。
すると、不意にそのカバンの奥でKindleが小さく震えた。
老人は驚いて立ち止まる。

暗い液晶に、ふっと光が灯る。
長らく沈黙していたはずの画面に、微笑むような起動ロゴが浮かび上がった。
それは幻かもしれない。
しかし老人には、確かに相棒が最後の力を振り絞って微笑んだように思えた。

「……まだ、いるんだな」
足を止めず、カバン越しにそっと頷いた。


川風は冷たいが、夜はどこかあたたかく、
目に広がる街は、新しい映画の幕開けのように輝いていた。

夜の街を歩き疲れて、私は路地の奥に灯る看板を見つけた。
「COFFEE」とだけ書かれた古びた文字。
扉を押すと、珈琲の匂いが胸にまとわりつき、外の湿った空気を切り離した。

そこは、酔い醒ましの客が最後に辿り着くためだけに残された空間だった。
カウンターの奥には若ウェイトレスがひとり。
白いシャツの袖を少し折り返し、静かな動作でペーパーフィルターをカリタのドリッパーにセットしていた。

細い湯の糸が落ちて、コーヒーの粉がゆっくりと膨らむ。
盛り上がった泡はまるで心臓の鼓動のようで、やがて静かに弾けてゆく。
その一瞬に、私の中の燻った感情も呼応して膨らみ、泡のように破れては消えた。

「マンデリンで、いいですか?」
彼女の声は澄んでいて、けれど少し沈んだ響きを帯びていた。
頷くと、香ばしい蒸気が店内に広がる。
それは祇園の残り香と絡み合い、夜の香りをより濃くしていった。

一口すすれば、苦みの奥に潜む酸味が舌に残る。
酒に絡まった頭がゆっくりほどけていくが、それは救いではなく、むしろ心の裂け目をはっきり照らすものだった。

外の空はほつれ始めている。
初秋の明け方、黄色い朝日が近づき、ビルの隙間から裂け目のような光が滲みだしていた。
それは凶兆なのか、吉兆なのか。
私には判断できなかった。

けれど、カウンターで膨らみ弾けたコーヒーの泡の記憶と、
贅沢な沈黙が、確かに私の魂を燃やしていた。
誰に届くわけでもないが、その燃料で私は心の奥から叫びかけていた。

声は産まれる前に夜に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
しかし、その消失の痕跡こそが、
いまの私にとって「生きていた証」だった。

恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから

あいつに出会ったのは岩倉の病院だった。
ただの精神病院じゃない。
酒に溺れて、もうどうにもならなくなったやつが運ばれて来る場所だ。
俺も同じ穴の狢。
何度もここに戻ってきては、断酒と再飲酒を繰り返していた。

でもあいつは違った。
無鉄砲で、傷だらけで、どこか子どものように笑った。
「なあ、一緒にここを抜け出そうや。世界はこわれたおもちゃやろ」
あの時の言葉は、冗談みたいだったけど、俺には救いのように聞こえた。

中庭で煙草をくゆらせながら、未来の話をした。
退院したら鴨川を歩こう。
比叡山に登って汗をかこう。
夜は祇園で朝までコーヒーを飲もう。
「良い店を知ってるんや」
あいつはよく、そう言っていた。
そんな夢を口にするだけで、壊れた世界にひとすじの朝日が見えた。

けれど現実は冷たかった。
会社はあいつを呼び戻し、家族は「意志が弱い」となじった。
酒はどこにでもあった。
コンビニに、スーパーに、ストリーミングサービスのCMに。
俺は必死に避けたが、あいつはそうはいかなかった。

再飲酒はあっという間だった。
そして、あっけなく崩れた。
震える手で缶を持ち、笑いながら泣いて、最後は静かに沈んでいった。


残された俺は断酒を続けようとした。
あいつの分まで生きようと思った。
でも夜が長すぎた。
隣にいたはずの声がない。
笑い声が消えた川沿いを歩くと、心臓の鼓動ばかりがやけに響いた。


裏三条の夜。
俺はコンビニで缶チューハイを手に取った。
プルタブを引いた音が、あいつの笑い声と重なった。
涙で曇った視界の向こうで、増水した鴨川が鈍く光っていた。

「恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから」

誰に届くでもない声だった。
そして俺もまた、こわれたおもちゃになった。

セクストン

扉が開いた瞬間、音はねじれた。
カップを重ねる小さな陶器の響きが途切れ、
ジャズの旋律が一拍だけ空白をつくった。
その隙間から冷たい夜気が店に流れ込み、
私の肺を震わせた。

香りもまた変わった。
焙煎豆の甘い匂いに混じって、どこか湿った影の匂いが漂う。
祇園の夜を歩き回った客たちが持ち込む煙草や香水ではない。
もっと奥に沈んだ、嗅いではいけないものの気配。

男は窓際に腰を下ろし、一杯のブレンドを頼んだ。
カップが置かれ、湯気が立ちのぼる。
彼はその表面をじっと見つめていた。
波紋ひとつない黒い湖。
そこに映っているのは彼自身ではなく、
こちら側にとどまろうとしない魂の影だった。

笑い声は遠ざかり、夜の音だけが支配する。
コーヒーの香りは確かに漂っているのに、
それは救いではなく、彼の沈黙を包む薄い棺のように思えた。

私は知っている。
死は、乾いた風のように去ることもあれば、
湿った影となって絡みつくこともある。
その夜、彼を覆っていたのは後者だった。
祇園の灯に照らされても剥がれない影。
肺にまで沁みこみ、息を奪う呪いのような死。

それでも私は番をする。
コーヒーの香りは夜を守る灯り。
豆を挽く音は見えない鐘の響き。
雫が落ちるたびに、私は世界を少しだけ均している気がした。
祇園の片隅で湯を注ぎ、香りを立ち上らせる。
一杯のコーヒーが、闇と死の境界に微かな線を引く。
それが私に与えられた役目だ。

声はかけない。
言葉にしてしまえば、私まで沈んでしまうから。

ただ心の中でだけ囁く。

――さようなら。
この夜を見守る番人として、私はあなたを見送ろう。

夜は私が預かるから。

ペルセポネ

普段の彼女は、静かに机に向かっている。
余計な音を吸い込み、周囲に溶け込むような気配。
一見するとそこに力はないように見えるが、実際にはその内部に張り詰めた緊張が宿っている。
まるで、長く巻かれたゼンマイ。
止まっているように見えて、いつか解き放たれる時を待つ透明な張力。

そして、ふとした瞬間にそれは解かれる。

リュミエール兄弟とエジソン。
『モルグ街の殺人』や「ベルと竜」の逸話。
普段は忘れられた古いテクストが話題に上がると、彼女は豹変する。

「あぁ、間違った、ごめんなさい。正確にはね──」
そう言いながら、表情が次々と変わる。
その変化は子供のように無邪気でありながら、同時に知性の透明さを湛えていた。
そのとき、言葉は情報ではなく律動となる。
知識という生命が、彼女の声を通じて脈を打ち始める。

その律動は熱風のように吹き抜け、聞く者の魂の表面をカサつかせる。
心地よい乾き。
渇きを覚えることで、むしろもっと知りたい、触れたいという欲求が目を覚ます。
私の内部でも巻かれたゼンマイが震え、眠っていた知識欲が動き出す。

その豹変は驚きではなく、美しさだった。
沈黙が動きに転じる刹那、彼女は自分の領域を広げ、
まるで新しい空気を部屋に満たすように、周囲の景色までも変えてしまう。

知識は、乾いた頁ではない。
彼女の口から零れるとき、それは炎であり、水であり、呼吸する生命そのものだ。
私はその熱にあてられ、乾きながらも逆に生き返る。

あぁ、この人は普段、なにを考えているのだろう。
どんなものを食べ、どんな夢を胸にしまい、
どんなふうにこの律動を育てているのだろう。

知識を自慢する人はいくらでもいる。
だが彼女は違う。
彼女は知識を「持っている」のではなく、知識に「生きている」。
その生命のリズムを、時折こちらにも分け与えてくれる。

だから私は思う。
この人は知識の泉ではなく、知識の案内人だ。
ただ自分の輝きで扉を開き、
「ここに面白い景色がある」と示す。
そして気がつけば、私はその扉の向こうに立っているのだ。

レンゲソウ

小さい方の松原橋に立つと、決まって胸の奥がざわめく。
高瀬川の流れは浅く細いが、その音には人の記憶を呼び起こすような力がある。
石垣に擦れる水音、軋むように渡る風、遠くから響く河原町の声。
すべてが混じり合い、夜の底をさらに深くする。

桜の夜、橋の上で見つけた娘の姿は、未だに脳裏に焼き付いて離れない。
川沿いの格子戸から漏れる灯りに浮かんだ横顔は、
言葉より先に、ただ美しいと直感させた。
ふとした振り返り、その一瞬に映った瞳の澄みようは、
町の光に染められる前の、野に咲く花そのものだった。

俺は、その美しさを独り占めにしたかった。
誰の眼にも触れさせず、あの川霧のような儚さを、自分だけの秘密にしておきたかった。
だが、それは叶わなかった。
スカウトとしての俺の性なのか、あるいは愚かさか、
彼女を祇園の華に仕立て上げることを選んでしまったのだ。

今では、艶やかなドレスに包まれ、笑みを絶やさず、
杯を差し出すたびに男たちを酔わせる。
その姿は誰もが「美しい」と口にする。
確かにそうだろう。だが、それは舞台に立つ女の美であって、
あの橋の上で灯りに照らされる前の、あの一瞬の美しさとは違う。

俺は夜ごとに考える。
果たしてこれで良かったのか。
救いだったのか、堕落だったのか。
彼女を夜の光の下に置いたことは、誉れなのか、それとも罪なのか。
答えは、川の流れと同じように掴めぬまま、
ただ時ばかりが過ぎていく。

橋の欄干にもたれ、煙草に火をつける。
煙が風に散るたびに、
彼女を初めて見た夜の気配が甦る。
胸の奥が疼き、言葉にならぬ思いが沈んでいく。

やがて、川面に映る灯りを見つめながら、
誰にも聞かれぬよう小さく呟く。

――やはり野に咲け蓮華草。
あの美しさは、俺だけが知っている。

バイスティック

四条河原町。
午後の陽は真上から突き刺さり、舗道に落ちる影は短く濃い。
私はタバコをくわえたまま、駅前にたたずんでいた。
ハイブランドの袋を提げた観光客が横を通り過ぎ、スマホを握りしめた若者が信号を無視して駆けていく。
この街はいつも雑音と欲望でできている。

ふと視線をずらすと、白いTシャツを揃えた連中が、交差点の角に立っていた。
段ボールの募金箱を持ち、揃って声を張り上げている。
「こんにちは!私達は、学生団体サルワです!」
「お願いします! 世界の子どもたちに小学校を!」
「よろしくお願いします!」
張り裂けそうな声。だがその目は泳いでいる。

私はタバコの煙を吐き出しながら笑った。
——二十歳を過ぎた若造どもが、雁首そろえて「世界」だって?
おめでたいにも程がある。
その時間でタイミーでもすれば、十倍の金が稼げるだろうに。
あんたらの「活動」とやらは、罪悪感を切り売りして小銭を拾うだけだ。

いや、わかってる。
私だって、何もしてないくせに口だけで世界を笑ってる。
その自覚があるからこそ、余計に彼らが白々しく見えるのだ。

汗を光らせ、真面目ぶった顔で募金を呼びかける。
だけど帰り道はどうせカフェに寄って、アイスラテでも飲みながら「今日もがんばったね」って笑うんだろう。
世界の子どもたちより、自分たちの「充実感」を救っているにすぎない。

タバコの火が短くなって指先を熱した。
投げ捨てようとした瞬間、募金箱にチャリンと硬貨が落ちる音が聞こえた。
乾いた、軽い音。
あれは救済の音じゃない。ただの自己満足の証拠音だ。

私は立ち上がり、ヒールの音を響かせながら信号を渡った。
募金箱を抱えた若者たちの前を通り過ぎるとき、ひとりが私をまっすぐ見た。
その視線に、一瞬だけ胸の奥がざわめいた。
——あぁ、私だってかつては、あんな目をしていたのかもしれない。
誰かに褒めてもらえると信じて、無償の善意を夢見ていた時代があったのかもしれない。

だがもう遅い。
やさぐれた私の世界には、硬貨の乾いた音しか響かない。

四条河原町の雑踏に、募金の声がかき消され、私はただ煙草の匂いをまとって歩き去った。

祇園会館

久しぶりにあの二人と顔を合わせた。
木屋町の立ち飲み屋。
クーラーは壊れたままで、天井から落ちる水滴を銀のボウルで受けている。
テレビの音よりも、水滴が落ちるリズムのほうが耳に残り、
それが昔の映写機の回転音に重なって聞こえてきた。

グラスを傾けたとき、ひとりが笑いながら言った。
「結局な、映画は――火事とゲロと、良い女と、ボロボロになる男や」

俺たちは声を合わせて笑った。
だが、その笑いはかつての溜まり場、祇園会館の暗がりを呼び覚ました。


あの夜の三本立て。
最初は『戦国自衛隊』。侍と迷彩服が同じ画面でぶつかる荒唐無稽、
観客は爆笑したり唸ったり、あちこちで感想を口走る。
次は『エイリアン』。暗闇のスクリーンに卵が割れる瞬間、
場内のざわめきは一瞬にして凍りつき、
吐息だけが聞こえた。
そして最後に『ドラゴン危機一発』。
拳が飛ぶたびに、場内の誰かが「いけっ!」と声を上げ、
拍手さえ起こった。

ロビーには塩ポップコーン。
紙袋の油じみた手触り。
俺はカバンの底に隠した缶ビールをそっと開け、
プシュッという小さな音が映写機の唸りに紛れた。
ビールの苦味が、汗ばむ場内の空気と混じり合って喉を落ちていく。

観客層は本当に雑多だった。
前の席には大学生のカップル、
後ろには仕事帰りの背広姿の男、
端のほうでは観光客がパンフレットを膝に置き、
角の座席では酔っぱらった中年がいびきをかいている。
場内には常に小声の会話と笑い声、咳払い、袋を破る音。
それらすべてが祇園会館の音響の一部だった。

座席は固く、革は裂け、黄色いスポンジが覗き、
尻は痛み、背中は蒸れ、汗が首筋をつたう。
だが誰も文句を言わなかった。
映画を三本観るために、その不快さは受け入れるしかなかった。

映写機の唸りが低く鳴り、時にフィルムが波打って画面が歪む。
観客は小さくざわめき、
やがてまた沈黙に戻る。
その不完全さこそが、映画を生きた体験に変えていた。


上映が終わって外に出ると、祇園の街は深夜で、
四条通りは人通りも途絶え、
八坂神社からの静かな雑踏だけが夜を流していた。
屋台からは焼き鳥の匂いが漂い、
スナックの看板がまだ赤々と灯っていた。
俺の手にはポップコーンの塩が残る、
胸の中には座席の軋みと映写機の唸りがまだ響いている。

木屋町の立ち飲み屋。
天井から落ちる水滴の音を聞きながら、
俺たちはグラスを傾ける。
祇園会館はもうない。
だが、あの雑多な闇――
火事とゲロと良い女と、ボロボロになる男。
学生、観光客、サラリーマン、酔っぱらいが一堂に肩を並べて観た夜――
そのエンドロールは、今も俺たちの中で揺れている。

インプロ

ぼく…思うんですよね……。
気がつけば、口から出ていた。
ママは焼酎を補充する手を止め、片方の眉を上げる。
「また出たわ、哲学者」
カウンター十席ほどの小さなバー。
二階に上がる細い階段の下は、夏の終わりの湿気を含んだ夜風がまとわりついていた。

バイト帰りのぼくは、さっきまで立っていたドトールの白いシャツの上にパーカー。
マニュアル通りにコーヒーを淹れ、同じように折りたたまれた笑顔をお客に配る。
あそこは均質な世界だった。
接客用語も音楽も、温度も香りも、すべて調整された「正解」で埋め尽くされている。
けれど、この二階にあるバーはまったく違った。

カウンター中央の鍋からは、出汁の匂いが立ち上る。名物のおでん。
牛すじ、大根、卵、厚揚げ。グツグツと煮立つ音はBGM、白い湯気は舞台照明。
隣の席のサラリーマンが煙草に火をつける。
観光で迷い込んだ学生風のカップルはメニューも見ずに梅酒を頼む。
十人いれば十通りの役割が生まれる。ここでは「無色透明」ではいられない。

「人生って、映画館の座席みたいに、どれを選んでも尻は痛いんじゃないかって」
言葉を続けると、ママがくすりと笑った。
常連の中年客が串からしらたきをすする音と同時に、「じゃあ立ち見はどうなんだ?」と突っ込む。
場がどっと笑いに包まれる。僕が言いたかったことよりも、そのタイミングそのものが“芝居”として機能していた。

思えば、ここには「強制的なキャスティング」がある。
客は登場人物、ただ座っているだけで役が割り当てられる。
ママは演出家、目線とひと言で芝居の流れを操る。
無口な中年は「謎めいた旅人」になり、笑い上戸の女性は「魅惑のトリックスター」になる。
今日のぼくは「悩める哲学者」。
それは不自由だが、同時に心地よい。
自分で役を選ばなくていい。
バイトでは「常に笑顔の店員」を演じさせられるけれど、この場所では役が夜ごとに変わり、物語が生まれる。

小さな扇風機がカタカタと回り、外から入り込む夜風が湯気を揺らす。
夏の終わり、蝉の声が弱まり、秋を告げる虫の声が聞こえる。
それでも二階のこの空間は熱気に包まれ、季節の境界線を溶かしてしまう。

おでん鍋の匂いに、他人の笑い声や煙草の匂いが混じる。
バイト先では決して許されない雑多さだ。
そして僕は思う。
この二階のバーは、酒屋ではなく人屋だ。
酒を売っているのではない。人間同士が“上映”される場を提供しているのだ。
夏の終わりの湿った夜気と、鍋から立ちのぼる出汁の匂い、そのすべてが「上映作品」の一部だ。
けれど、この雑多さこそが「人屋」の真骨頂。
酒を売るのではなく、人と人を出汁にして、夜ごとの即興劇を煮込んでいる。

ママが大根を一切れ、僕の皿にそっと置いた。
「哲学者さん、これで幕引きね」
湯気に包まれながら口に運ぶと、舌に熱がしみわたる。
マニュアルには決して載っていない、汗と笑いと塩気の味。
その瞬間、この夜のエンドロールが始まった。

九十九里

もし俺たちが本当に逃げ出せていたなら。
九十九里の浜辺に小さな小屋を建て、潮風に吹かれながら暮らしていたなら。

朝は潮の引いた干潟に降りて、裸足で泥に足を沈め、黙々と貝を掘る。
砂の感触に手が痺れ、潮の匂いが肺を満たす。
俺は貝を手に掲げて、振り返る。
そこにはあいつがいる。
子どものように笑って、手ぬぐいを額に巻き、腰を曲げながら波に足を浸している。
朝を染める陽光の赤が、彼の頬を染めている。
それは、俺が知っているどんな酒の酔いよりも鮮やかな色だった。

昼は、通りすがりの観光客に呼び止められる。
「自転車のチェーンが外れてしまって」
俺たちは笑いながら直してやる。
「ありがとう」と手渡された缶ジュースを、並んで飲む。
炭酸の泡が喉を突き抜けるたびに、あいつは肩を揺らして笑った。
都会で浴びせられた嘲笑や軽蔑の眼差しは、ここにはない。
ただ、浜風と波の音と、俺たち二人の呼吸だけがある。

夜になれば、波打ち際に座り、砂に腰を下ろす。
海は闇に溶け、空には星が散らばる。
焚き火を囲んで、小さな鍋に貝を放り込み、湯気に潮の香りが立ちのぼる。
あいつは空を見上げ、俺に向かって言う。
「世界はこわれたおもちゃや。けどな、こわれても遊べるんや」
その言葉に、俺はただ頷く。
二人で酒を分け合い、一口飲む。
その瞬間、世界が俺たちを祝福したように思えた。
潮騒は遠い拍手のように鳴り、星々はグラスの中で泡立つシャンパンのように瞬いた。

――そうしたかった。
心から。
逃げ出して、誰にも邪魔されず、ただ二人で生きていきたかった。

けれど現実は違った。


俺は残された。

目の前に九十九里の浜辺が広がった。
焚き火の炎、波打ち際の闇、星の瞬き。
あいつはそこに座っていた。
「おかえり」
そう言って笑い、俺にグラスを差し出す。

涙で曇った視界の向こうで、俺はあいつと並んで酒を飲む。
一口飲むと、世界が確かに祝福した。
苦くて、甘くて、涙のようにしょっぱい。
こわれたおもちゃのような世界の中で、それだけが本物の味だった。

現実では叶わなかった。
だが走馬灯の中で飲む一杯は、永遠に壊れない。
九十九里の風が頬を撫でる。
幻の中で、俺は恋人と並んでいる。
そしてその笑い声は、決して消えることなく、波の音に混じって響き続けるのだった。
会いたい。
空腹に似た魂の渇望。
忘れられないよ。

残響

西木屋町のバーに足を踏み入れた瞬間、薄暗い照明に煙草の煙がたゆたっていた。
赤いランプの光がグラスに反射し、氷の角をゆっくりと溶かしている。
カウンターには三人の客。
スピーカーから漏れるカラオケのイントロに、場の空気は少しざわめいていた。

その声が響いたのは、ちょうど俺が席についた時だった。
先客の女――背筋を伸ばし、グラスを置いた手の先まで美しいと感じさせる人だった。
選んだ曲は「おジャ魔女カーニバル」
俺の世代なら、一度は耳にした魔法の歌。
こんな場末のバーで、誰も期待していないタイミングで、そのメロディが流れるとは思わなかった。

最初のフレーズが放たれた瞬間、胸の奥が震えた。
彼女の声は歌手ではない、完璧でもない。
けれど、震えを含んだ声が逆に生々しくて、どこか魂の擦過音のように聞こえた。
酔いのせいか、あるいは心の奥にしまいこんでいたものを引きずり出すせいか、
「お空にひびけピリカピリララ」と繰り返すたび、俺のなかの何かが顔を出す。

あの頃、俺は信じていた。
世界はまだ明るく、努力すれば報われると思っていた。
将来に不安を感じても、それはただの通過点で、笑って乗り越えられると信じていた。
けれど大人になり、仕事に追われ、裏切りを重ね、疲れ果てた今、
信じる力なんてどこかに置き忘れてしまった。

西木屋町の細い路地を抜け、このバーにたどり着いたのも、
ただ現実から逃げ出したい夜だった。
夢も希望も減っていき、残るのは諦めと惰性ばかり。
けれど今、目の前で歌う彼女の声が、
そんな俺の中にまだ小さな余熱が残っていることを教えてくれる。

歌が終わる。
マイクがカチリと鳴り、静寂が訪れる。
拍手がまばらに起こった。
彼女は少しだけ照れ笑いを浮かべ、グラスを手に取った。
琥珀色の液体が氷を揺らし、その表情をかすかに照らす。

俺はただ黙ってウイスキーを口に含んだ。
焼けるような熱さが喉を通り、胸に広がる。
それなのに、なぜか優しかった。
涙が浮かんでいたのを、氷の冷たさで誤魔化す。


でも、それは確かに救いだった。

西木屋町の夜、高瀬川に濡れる路地裏。
誰も知らない場所で、誰にも知られないまま、
俺は一人の美しい人が歌う魔法の歌に癒された。
ありがとう。

思えば遠くへ来たもんだ

京都東山の麓に暮らしはじめて、もう六年になる。
阿弥陀ヶ峰の稜線は、毎朝窓から見上げるたびに変わらないのに、不思議とこちらの心持ちによって違う色を帯びて迫ってくる。
曇天の日は灰色の布団のように、夏の日は燃える緑の幕のように。山はいつも、ただ黙って私を抱いてくれていた。

いとこの葬式で久しぶりに関東に戻った。
子どものころから馴染んだ町並みは、あまりにも開けすぎていた。ビルの谷間、風が吹き抜けていく歩道、コンビニのネオン。
そこに懐かしさを探そうとしたが、見つかるのはむしろ「帰りたい」という衝動だった。どこへ? そう、私がいま身を置く東山へ。



吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず


寺山修司が「望郷」を歌ったとき、ニュアンスは胸を突くものだった。
だが帰郷の日は空虚に通り過ぎた。
理屈や文学ではもう足りないのだ。
詩の彼方ではなく、目に見える山、踏みしめる石畳、そこで呼吸を繰り返している自分にこそ帰りたい。
あぁ、帰りたい──その思いばかりが募った。

新幹線を降り、206のバスに揺られて、七条大橋の欄干が見えたときだった。
胸の奥で固く結ばれていたものがほどけ、魂が安堵していくのをはっきり感じた。
遠くに灯るサカタニの明かりよりも、川を渡る風の湿り気よりも、確かなもの。
あぁ、私はここに帰ってきたのだ、と。

その夜、夢を見た。
別れた女房が私を抱いていた。
夢の中では歳月も痛みもすべて削ぎ落とされ、ただ互いの温もりだけがあった。
目覚めてみれば、当然そこに彼女はいない。
ただ窓の外に、阿弥陀ヶ峰の大きな影があるばかりだ。

私は思う。
人は本当に帰るべき場所に帰ったとき、過去の喪失までもが、夢というかたちで一時的に取り戻されるのかもしれない。
哀しみは消えないが、山はそのすべてを抱いて沈黙してくれる。
六年の歳月は無駄ではなかった。
私はいま、この山のふもとで、夢の続きを生きているのだ。


思えば遠くへ来たもんだ──

でかいウルトラマン

夜の気配がまだ街に沈殿していた。
寝返りを打つたびに、窓の外からいつもとは違う白さが目にしみる。
夜明け前の青白さではない。
もっと濃く、もっと硬質で、肌を焼くような光だ。

カーテンを押し開けた瞬間、息が詰まった。
阿弥陀ヶ峰の向こう、稜線が割れるように光が溢れ出し、地平を染めていた。
それは太陽ではない。
光は形を持ち、輪郭を描き、世界の奥底から押し上げられるように膨れ上がっていく。

轟音が大地を叩いた。
鴨川の水が一瞬ざわめき、窓ガラスはひび割れそうなほど震えた。
鳥が一斉に羽ばたき、夜を置き去りにして逃げ去る。
そして――それは現れた。
光が押し寄せた瞬間、熱風が頬を舐めた。
眉毛が一瞬で焦げ、焦げた匂いが鼻腔に突き刺さる。
息を呑む間もなく、皮膚がざらつくような圧力に全身が包まれた。
ただ立っているだけで、光そのものが圧力になっている。

――いや、待て。
阿弥陀ヶ峰は東にあって、その背後に比叡山がある。
稜線をなぞるように目を走らせた僕は、ぞっとした。
あれは、比叡山の稜線をほぼ飲み込む高さだ。
全高、五百メートル近い。
京都タワーの三倍、スカイツリーに匹敵する影が、いま山の向こうから立ち上がっている。

あれは、光でできているようで、輪郭は揺らいでいる。
だが確かに腕を持ち、頭を持ち、脚で大地を踏みしめていた。
その足元では町並みが縮尺模型のように小さく見える。
四条通の灯りも、鴨川を走る水の線も、すべてはただの模様にすぎなかった。

歩幅を想像する。
人の一歩が七十センチなら、巨人の一歩は百五十メートルを超える。
たった数十歩で京都盆地を横切り、南へ進めば伏見稲荷を踏み越え、北へ進めば鞍馬の山をまたぐだろう。
質量を考えるとさらに背筋が冷えた。
もし人間と同じ密度を持つ生き物だとすれば、その体積は数千万立方メートル、重さにしておよそ 1.5億トン。
片足にかかる荷重は山ひとつを押し潰すに等しく、大地そのものが悲鳴をあげても不思議ではなかった。

それでも巨人は沈まない。
光の柱のように、ただ静かにそこに在る。

僕の心臓は鼓動を速め、同時に冷たい何かが背骨を這い降りていく。
巨人は何も語らない。
怒りも、慈愛も、敵意すら示さない。
ただ「ある」という事実だけで、世界を圧していた。

その圧倒的な存在感の前で、人間の善悪は無意味になっていく。
僕は理解していた。
この光の巨人にとって、僕の生も死も、ただ風に舞う塵ほどの差しかない。

それでも、僕は目を逸らせなかった。
あれに意味を与えたい。
神、審判、救済――どれでもいい。
この圧力を前に、意味を与えなければ、自分の精神は一瞬で砕け散るだろう。

目が覚めた。
寝汗が熱い。

眉毛の焦げた匂いの残響が、まだ残っている。
それは夢の中の出来事だと分かっていても、確かに嗅いだ記憶が僕の中で生々しく続いていた。
比叡の稜線と同じ高さに迫る巨影――あの光の圧力を、僕は忘れることができない。

そして、忘れられないからこそ胸の奥に奇妙な熱が宿る。
恐怖に震えながらも、僕は思うのだ。
もう一度あの巨人に会いたい、と。
理屈を超えた存在に触れるたび、人は壊れる。
それでも――壊れる瞬間を追憶にできるなら、僕はまた夢を見たい。



朝になって、僕はそのまま外へ出た。
サカタニを渡り、東山通を抜け、新日枝神宮で立ち止まる。
見慣れたはずの阿弥陀ヶ峰が、朝日に染まり、稜線をくっきり浮かび上がらせていた。
そこには巨人などいない。
ただの山。
ただの空。

僕の眼差しは、夢の続きを探していた。
あの光の匂いを、あの焦げつく熱を、もう一度。
胸の奥のワクワクを押し隠せず、僕は稜線を凝視した。

リリー

病室の窓から差し込む午後の光は、やわらかすぎて現実を遠ざけていた。
ベージュのカーテン越しにゆらぐ光が、彼女の顔を白く照らし、あらゆる陰影を消していく。
世界が静止したように思えた。
ただ機械の規則的な音が、その沈黙にひとつのリズムを刻んでいた。

彼は椅子に腰を下ろし、私の枕元に伸ばした手を握る。
細く痩せた指。血の気が引いたような冷たさ。
それでもまだ、温もりは残っている。
その温もりだけが、この場を現実にとどめていた。

「もうすこし」
かすれた声が、ほとんど風のように耳をかすめる。
その声に反射的に水を差し出すと、唇がわずかに濡れ、私は力を込めるようにして微笑んだ。
笑顔というより、安堵の表情だった。
その安堵を見ただけで、私の胸は裂けるように痛んだ。

思い返せば、あの日の誓いはあまりにも抽象的だった。
「死がふたりを分かつまで」──
口にしたその言葉は、祝祭の光に満たされた約束に過ぎなかった。
だがいま、それは鉄のような重みを持って、私の呼吸に刻まれている。

あと少し。
ほんの少しだけでも、この時間が延びてほしい。
あと一拍でも、一息でも。
そんな切実な願いが、胸の奥で擦れて音を立てていた。

窓の外、晩秋の雲が低くたれ込めている。
木々の葉は風に舞い、病院の庭を覆うように散っていた。
外の世界は確実に冬へ向かっているのに、この病室だけは「もうすこしあと少し」と囁き続けていた。

自分に言い聞かせる。
──これは絶望ではない。
──これは名残だ。

名残は呪いだ。
残して、奪って、なお心を引き裂く。
けれど名残があるから、人は前に進める。
私の名残はあなたの名残の一部になる。
花が散るから種は飛ぶように。
声が途切れるから耳に焼きつくように。

「もうすこしあと少し」
それは祈りでも希望でもなく、ただ呪詛の言葉だった。

やがて光が傾き、カーテンの隙間から細い陽が差す。
まぶたは静かに、呼吸は細く、かすかに──そして途絶えそうだ。

私は声を上げなかった。
彼はただ手を握り続けた。
消えていく温もりを、最後の最後まで確かめた。

死がふたりを分かつまで。
その時は確かに訪れた。
けれど約束は、ここにあった。

時計の針が進む音に合わせて、
「もうすこし、あと少し」と心が呟いていた。
それは、心の残響のようでもあり、私自身の願いのかすれ声でもあった。

そして彼は立ち上がった。
彼女は夏に咲く百合。
私は秋咲きのアザミ。

呪われろ、私の愛したあなた。
彼女の居なくなった世界に呪われてしまえ。

ライジングヘル

正面大橋を自転車で駆け抜けるとき、いつも胸の奥がざわついた。
夕陽に照らされて朱色に染まる川面、背後から近づいてくる軽トラ。
東山側の信号機が鳴り出すと、心臓の鼓動とリズムが重なり合う。
その瞬間、思うのだ。
「俺には何もない」

学校では存在感が薄い。
部活も長続きせず、家に帰ればレンタルビデオとマンガとCDだけが友達。
サブカルに潜り込むようにして過ごす日々。
アイデンティティを見失ったまま、ただ橋を走る。

けれど、イヤホンから流れるホルモンの音が俺を突き動かしていた。
荒々しいギターと、爆発するシャウト。
それなのに、サビ直前にふと差し込まれる切ない旋律は、
まるで暮れかけた夕焼けが河原に落とす光のようだった。
笑えるはずのリフに、なぜか涙が滲む。

「もういっそ、俺に生まれたなら君をぶっ生き返す」
歌詞を口の中で繰り返すと、橋の上を吹き抜ける風がやけにあたたかかった。
それは暴力的な言葉に見えて、実は一番の優しさだった。
やり直せない人生を、笑い飛ばしながらでも「立ち上がろう」と言ってくれる声。

そのとき俺は気づく。
自分の中にはまだ“優しさ”が燃えていることを。
涙のシミも、後悔のシミも、消せないまま染み込んでいる。
けれど、そのシミこそが自分の証なのだ。

正面大橋を走る自転車のタイヤが、アスファルトを刻む音。
そのリズムに合わせて、心の奥で新しい声が鳴る。

――走れ。
疾走する切なさは、ただの逃避じゃない。
それは、何者でもなかった自分を“何者か”に変えるエンジンだ。


今の俺、結構イケてる。
こんな瞬間こそ、誰かにに見られていたら良いのに。

キャバーン

あの夜、私はサカタニの前で立ち止まった。
二階からギターの音が漏れていた。
ビートルズだ、とすぐにわかった。
普段なら素通りする。
だけどその夜だけは、どうしても足が動かなくなった。

父のせいだ。
去年、あの人が死んだ。
日曜の午後になると、窓辺に腰を下ろして煙草をくゆらせながら、ビートルズのレコードをかけていた。
私はその時間が苦手だった。
部屋に立ち込める煙、古臭い英語の歌。
父は何も話さず、ただ盤を回し続けていた。
あの沈黙に、私はどうしても耐えられなかった。
けれど──あの人がもういない今となっては、その沈黙すら懐かしい。

階段を上がって二階の扉を押し開けた。
そこは狭くて、熱気に包まれた小さな箱だった。
カウンターに並ぶのはほとんどおじさんばかり。
新酒の香りと笑い声、そしてビートルズを鳴らすバンド。
「A Hard Day’s Night」が始まると、酒で赤く染まった顔が一斉に輝きを取り戻す。
誰もがかつての少年に戻ったように、手を叩き、声を合わせていた。

私はその光景に胸を突かれた。
“おじさんって、あんな楽しそうに笑うんだ”
頬を真っ赤にして肩を組み、拍を踏みながら笑う姿は、まるで少年に戻ったみたいだった。
気づけば、その笑い声とリズムが私の心にも入り込み、重さなんて吹き飛ばしていく。
音楽が前へ前へと押し出すトルクとなって。

やがてアンコール。
ギターのアルペジオが静かに鳴り、「Golden Slumbers」が始まった。
息をのんだ。
その曲は父が何度も聴いていた。煙の向こうで目を細めていた姿が蘇る。
「Carry That Weight」へと移ると、酔ったおじさんたちが肩をくみ、声を張り上げた。
掠れた声、震える声。けれど、それは確かに生きてきた人間の声だった。
私はたまらなくなって、涙をこぼした。

最後に「The End」。
――And in the end, the love you take is equal to the love you make.
フレーズが胸の奥を貫いた。
苦手だと思っていた歌が、いつの間にか大切な歌に変わっていた。
父の沈黙も、煙草の匂いも、全部この音楽に溶けて、私の中に戻ってきた。

演奏が終わっても、私はしばらく席を立てなかった。
世代も立場も関係なく、すべての魂が音楽に抱かれてひとつになった。

パパを連れてきたかった…

外に出ると、七条京阪の夜風が頬を冷ます。
涙の跡が乾いていく感触が、なぜかやさしかった。

辻斬られる

いやぁ、こまったこまった。
俺はただ、平穏無事に定年まで小さく働ければそれでよかったんだ。
それなのに、ある日いきなり部長に呼ばれて言われたんだ。

「今年の時代まつりの清少納言、スカウトしてこい」

……は?
俺に?
俺は営業でもなくて、企画部の隅っこで資料コピーと数字合わせしてるだけのおっさんだぞ?
センスも無ければ、コミュ力もゼロ。
なのに「お前は京都生まれで街に顔が利くから」って。
いやいや、顔なんて利かねえよ、常連の喫茶店と立ち飲み屋しか行かないんだから。

それでも命令は命令だ。
サラリーマンは断れない。
だから、俺は東山三条の小さな喫茶店に通うことにした。
角の席、観葉植物の影。ここなら通りを歩く人も見えるし、なんとなく“張り込みっぽい”雰囲気も出せる。
店内はジャズが流れ、ランプの赤い光がカップの氷を照らしている。
俺はただ黙って、アイスコーヒーを頼む。

でもなぁ、人間ってほんとに難しい。
視線ってのはどうにもならないんだ。
窓の外を眺めているつもりが、気づけば隣の若い子に向いていたらしい。
ノートPCを叩くカタカタ音が雨粒みたいに心地よくて、つい耳を澄ませていたら、目線までそっちに引き込まれてしまった。
いやぁ、こまったこまった。

彼女は、明らかに警戒していた。
そりゃそうだ。中年男が観葉植物の陰からじっとしていたら、普通は怪しい。
「すみません、あなたを見ていたんじゃなくて、清少納言を探してまして……」なんて言えるわけがない。
コミュ力怪物の部長だって、「清少納言タイプの子」って無茶苦茶なオーダーしかできなかったんだから。

それでも俺は、日を改めて通った。
一度目は声が出なくて、二度目はタイミングを失って、三度目はもうコーヒーがぬるくなるまで指先を汗で濡らして座っていただけ。
上司からは「どうなってる?」と電話が来る。
「進捗は?」と聞かれるたび、胃がキリキリ痛んだ。
いやぁ、ほんと、こまったこまった。

そしてある日、カップを持ち上げた瞬間、彼女と目が合った。
その刹那、彼女はスッと目を逸らした。
その反応に、俺は悟った。
――俺は人をスカウトするどころか、人を怯えさせることしかできないんだ。

清少納言役の面影は、通りに現れなかった。
いや、最初から無理だったんだ。
あれは年に一度の行列で見かけた幻みたいな存在。
それを追いかけて、この喫茶店でジロジロしてた俺こそが場違いだったんだ。

結局、俺は喫茶店に行くのをやめた。
観葉植物の影の席は、きっとまた誰かの“普通の居場所”に戻ったんだろう。
俺にとっては“清少納言観測所”だったが、隣の彼女にとっては“厄介なおじさんの定位置”でしかなかった。

まったく、俺ってほんとに損な役回りばかりだ。
でもまあ、こうして「清少納言を探してます」なんて馬鹿げた言い訳を胸の中で繰り返してるうちは、まだ人生も少しは楽しいのかもしれない。

いやぁ、こまったこまった。

棚卸

祇園四条から少し外れたケーキ屋。
彼女は冷凍庫から戻るたび、同じ所作を繰り返す。
ドアを押し開け、冷気を背負いながら歩いてくると、まず眼鏡を外す。
吐息はまだ白く、頬には氷の粒をかすかに纏ったような赤みが残っている。
カーディガンの端を指で摘み、レンズに浮かんだ結露を拭う。
柔らかい布目が曇りを吸い取り、濁った世界をひとつずつ澄ませていく。

私はその仕草を、いつも見てしまう。
ほんの数秒のことなのに、なぜか胸が静かにざわめくのだ。
彼女にとっては日常の作業にすぎない。
けれど私には、それが何か大切なものに触れているように見える。

レンズを拭き終えたあと、彼女は決まって少しだけ目を伏せる。
その視線は、斜め下へと落ちていく。
けれど、そこには机も床も、何もない。
彼女の目は「斜め下のない世界」をじっと見ているのだ。

まなざしは不思議に遠い。
哀しみの色を含みながらも、涙に濡れてはいない。
焦点は合っていないのに、見ているものは確かにあるように見える。
――あぁ、この人は、誰も知らない場所を覗いている。
そう思うと、私は息を飲む。

職場の空気はいつもざわついている。
インカムが鳴り、氷がバットに落ち、台車の車輪が床を擦る。
けれどその数秒だけ、彼女の視線がつくりだす空間は、すべての音から切り離されている。
無音のポケット。
世界のなかにぽっかりと空いた、透明な避難所のように。

私は彼女のまなざしを見つめながら、思わず問いかけたくなる。
「そこに何があるの?」
けれど声には出さない。
もし聞いてしまえば、その世界は壊れてしまう気がするからだ。

彼女はやがて眼鏡をかけ直し、現実に戻ってくる。
視線はもう私たちと同じ床を、同じ棚を、同じ作業を追っている。
けれど私は知っている。
彼女の目はほんの一瞬、斜め下のない世界を旅していたのだ、と。

その旅路を誰も知らない。
知っているのは、彼女と、こっそりそれを見ていた私だけ。
だからこそ、あの数秒が、私にはどうしようもなく愛おしい。

カレピー

器用じゃなかった。
いや、器用どころか、愚直で、鈍くて、馬鹿みたいに直線しか走れない。
それでも、体の奥に埋め込まれた重たい歯車は止まることを知らず、
一度回り出せば、誰も、俺自身すら止められなかった。

振り返れば、いつだって感情が先にあった。
母の叫びが耳に残り、血の匂いが鼻の奥を焼き付け、
あのときの痛みだけが、俺を走らせた。
「自由」だとか「未来」だとか、後から言葉をくっつけただけだ。
本当は、過去の断片が勝手に抽象化され、
歯車をさらに加速させていっただけなんだ。

だけど、その歯車の隙間には、たしかに柔らかなものも挟まっていた。
笑顔、温もり、憧れた外の世界の青。
それらは、細くしなやかなヘアピンのように繊細で、
俺の中で小さく光っていた。
だが、歯車は容赦しない。
挟まれた瞬間、感動も懺悔も、愛情すらも砕け散った。
歯車はその破片を振り払いながら、ただ前へと進む。

不器用だった。
もっと器用に立ち回れたなら、誰かを救えたかもしれない。
もっと器用に笑えたなら、あの人の手を離さずに済んだかもしれない。
だが俺にはそんな器用さはなかった。
俺の魂は「動く」ことしか知らず、
「選ぶ」ことや「守る」ことを学ぶ前に、歯車は軋んで回り続けた。

街は俺を必要とした。
だから俺は走った。
だけど時代は俺を優しく抱かなかった。
俺の不器用さは、やがて「狂気」と呼ばれ、
俺の魂のトルクは、やがて「破滅」と呼ばれた。

それでも構わなかった。
俺には止まるという選択肢がなかったからだ。
止まることは、裏切ることと同じだったからだ。

最後に残ったものは何だろう。
砕けたヘアピンの破片だろうか。
粉々になって、指で触れれば痛いくらいの細片が、
どこかでまだ転がっている。
誰かがそれを拾い、胸ポケットにしまってくれるのなら、
俺の不器用さも、ほんの少しは報われるのかもしれない。

俺の歯車は止まった。
だが耳を澄ませば、まだ軋む音が遠くで鳴っている気がする。
きっとそれは、俺が砕いたものの残響だ。
そしてその残響は、俺を笑いもせず、褒めもせず、
ただ「生きていた」という証拠として、
どこかで細く、長く、響き続けるのだろう。

俺は不器用だった。
だが、そうある事であることしか、俺にはできなかった。

タイムアフタータイム

救いようが無い。
あたしの目の前で、あいつはまた歯車みたいに回ってる。
止まらない、止まれない。
笑っちゃうくらい不器用に、直線だけを走ってさ。

「自由」だの「未来」だの、声を張り上げてるけど、
そんなの、女の世界では三歳児でもわかるっての。
大事なのは口じゃなくて手だ。
掴んで、離さないこと。それだけ。
でもあんたは掴んだ瞬間に、また歯車に巻き込んで砕いちまう。

ばっかじゃないの。

あたしらの世界じゃ、もっとしたたかに笑って、
欲しいものは言葉で引き寄せるのさ。
愛だとか夢だとか、そんな面倒な言葉をぶら下げなくても、
嘘と、渇いた街あれば充分だったのに。

でもあんたは違う。
痛みを燃料にして、魂のトルクだかなんだか知らないけど、
世界を回すつもりで回り続けて、
気がついたら、隣にいたはずの女も、友達も、
全部すり減らして飛ばしてしまう。

ほんと、不器用な男だね。
ロックにもなれない、ただの轟音。
でもね、あたしは笑いながらも目を離せないんだ。
だって、あんたの歯車が軋む音は、
胸に響くんだよ。

あんたは不器用で、ばっかみたいで、
三歳児でも理解できることがわからなくて、
それでもあたしの記憶に刻まれる。
シンディが擦れて歌う
「Time After Time」みたいにさ。

今日は京都駅前、北口の広場。
ツリーなんかはまだ早いけど、街の光はもう賑やかで、観光客の笑い声がガラスに跳ね返ってる。
あんたはその雑踏の中で、まるで世界の重心が自分に集まってるみたいに、まっすぐ立ってた。
バッグを引く外国人、タクシーの列、若いカップルのぴったりしたコート。
その裏で、あんたの歯車だけは黙って軋んでる。

タバコの先をほんのり黒くして、煙のベール越しにあんたを眺める。
煙草の火は小さいけど、やっぱりあったかい。
口紅はもう擦れてる。鏡の前で直す手間も面倒くさい。
それでも鏡の前の小さな時間で、世の女は自分を整えて街へ出る。
あんたはその時間を知らんやろ。
知らんまま、あんたは走って、歯車に指を挟んでしまう。


今日は、秋の気配が少しずつ街を包んでる。
人々は冷気をまとって浮かれてるけど、影はどこか薄い。
死に生きた魂を、引きずってる。
あの人はもういない。写真の中でしか笑わない。
あたしのポケットの中には、砕けたヘアピンの小さな破片みたいな記憶だけが残ってる。
指で触れば痛い。けど、触らずにはいられない。


拒絶してるのに、ここに立ってる。
それが魂の証拠。証拠を見せつけるみたいに、夜の空気に煙を吐く。

「ばっかじゃないの」って笑う、その笑いは刃にもならない。
あたしは笑って、あたしの履き古したブーツで石畳を蹴る。
人はそれを「歩く」と呼ぶけど、あたしにとっては逃げでも戻りでもない。
ただ、足が次の一歩を踏み出すだけ。北の灯りに戻る気も、南に沈む気もない。
ただ音がある。歯車がある。
影がある。
胸の奥に低く鳴るベースのようなあいつがいる。

喧噪の中で、ふと思う。
あんたの歯車がもし止まったら、世界はどうなるんやろ。
止まったら、あんたはただの男。
止まることが裏切りなら、止まらんことは罪やろうか。
多分、どっちでも。
答えはあたしの手にはない。

それでも、ここにいる。
死んだ女の影を引きずって、秋の光を背にして。
煙が喉をくすぐって、口元が苦くなる。
あんたの轟音は耳から離れん。
離れんから、あたしはまだ笑う。ばっかやなって、あんたを呟いて、でも足は動く。

最後にもう一度言うてやるわ。
ばっかじゃないの。

スティング

東京に来て三か月。
ゲイであることは、この街ではもう特別じゃなかった。
誰も驚かないし、誰も詮索しない。
むしろ僕の京都弁と、間を置くしゃべり方のほうが、よほど珍しがられる。
なんや、結局僕を異邦人にしてるのは、ゲイであることやなく“京都”なんやな、って思った。

ゴールデン街に足を踏み入れると、空気が一変する。
狭い路地にぎゅっと詰め込まれた数百軒の酒場。
看板は小さくて、手書きのネオンや木の板にペンキで塗っただけのものもある。
ビルというより、まるで古い長屋を切り刻んで並べたような作り。
二階へ続く急な階段の横には赤い提灯が垂れて、煙草の煙と酒の匂いが風に混じって漂ってくる。

路地は人一人がやっとすれ違えるくらいで、壁には歴史のしみが残っている。
「小説家の卵」「アングラ劇団の俳優」「サラリーマンの逃げ場」──
そんな人たちの声がごちゃ混ぜになって、夜の空に抜けていく。

僕は小さな木の扉を押した。
十人も座ればいっぱいになるカウンターだけの店。
壁際には古いポスター、ポラロイド写真、常連が書き残したメッセージカード。
頭上には埃をかぶったレコードのジャケットが無造作に飾られている。

バーテンがこちらを見て、氷をトングでつまみながら言った。
「ひとり?」
「はい、ひとりで」
そのやりとりだけで、狭い空間の温度が少し変わった気がする。

マスターが kinobi にアンゴスチュラビターズを2ダッシュ。
澄んだ音を響かせる。
衝突音。
カウンターに視線が集まった。
古びたポスターの色褪せ、
埃をまとったランプシェードの黄ばみまで、
一瞬にして解き放っていく鐘の音だった。

音は広がり、空気を震わせる。
バーテンの指先、隣の男の吐く煙、
壁に貼られたポラロイドの記憶、
そのすべてが粒子みたいに散らばって、
境界を失った。

ちょうどそのとき、スピーカーから流れてきたのはスティングだった。
“Englishman in New York”
ニューヨークで生きる異邦人の歌。
不思議なことに、僕の胸にもぴたりと重なった。

隣に座った作業服姿の男が、ふと僕に顔を向ける。
粗野な感じが割と好みだ。
「イントネーション関西ですね、国はどこだい?」
「京都です」
その言葉を出した瞬間、店の中に柔らかいざわめきが走った。
思えばこの街では、誰も僕がゲイであることには興味を示さない。
けれど“京都”という一言で、僕はこの場所に異質な輪郭を持った。

バーテンは無言でボトルを取り出し、透明の液体をグラスに注ぐ。
煙草の煙が天井にたゆたって、黄色いランプの光を霞ませる。
壁に映る影がゆらゆらと揺れて、時間の流れがゆっくりに感じられる。

ゴールデン街の狭い路地の向こうから、笑い声やピアノの音がかすかに届く。
窓のないこの小さな酒場は、外界から切り離された水槽みたいで、
中にいる誰もが少しずつ自分の「異邦性」を持ち込んでいる。

──不思議なもんや、この街は歩きやすい。
明日はどこに行こか。
二丁目の奥か、それともまたこの路地に戻ってこようか。

スティングの残響が夜を揺らす。
その旋律に、僕の影は少しずつ東京に馴染んでいった。
“A gentleman will walk but never run”か。

自画像

京都市美術館の石段をのぼるたび、私は背中に湿った風を感じた。
初夏の空は群青に近く、汗ばむ肌にまとわりつく。
「エゴン・シーレ展」と大きく刷られた垂れ幕がはためき、炎天下にゆらゆら揺れている。
その字面を見るだけで、胸の奥で硬い何かが軋んだ。
婚約破棄の報せを、まだ誰にも言えないまま私はここに来ていた。
左手の指輪を外してから、指の根元がやけに軽く、無防備に晒されている。
空っぽの痕跡を風がなぞるたび、ひりつくような痛みが走る。
身から出た錆、ただそれだけ。

展示室に入ると、空気がひんやりと変わった。
そこには痩せこけた男の裸体が立ち尽くしていた。
キャンバスの中のシーレ自身。
頬骨は刃物のように突き出し、膝は今にも折れそうで、それでも真っすぐに私を見返してくる。
線は細いのに鋭く、骨をえぐり出すような筆致で、肉よりも痛みを描いているようだった。
ナルシストのようなポーズなのに、その瞳は自己嫌悪で満ちている。
その矛盾が、絵の中で濁った毒のように滲んでいた。

私は立ち尽くした。
呼吸は浅く、胸の奥がざらつく。
鏡に映った自分を見つめるようで、逃げたくても逃げられない。
私はこの数か月、同じように鏡の中で自分を憎み、同時に自分にすがって生き延びてきた。
誰かの愛に守られるはずだった未来は消え、私は自分だけを相手にしてここに立っている。

シーレの絵の前に立つと、彼の声が聞こえた気がした。
「まだ立っている」
絵の中の痩せた男がそう告げている。
いや、もしかすると私自身の声だったのかもしれない。
この街の中で、まだ立っている。
骨ばった心のまま、ひりつく皮膚を晒しながら。
毒を抱えたままでも、立っているという事実だけが、今の私の唯一の誇りだった。

別の部屋に進むと、裸体の女たちがこちらを挑発するように横たわっていた。
赤茶けた肌、極端に長い四肢、視線は観客を見透かすようだ。
彼女たちは美しいのか、醜いのか。
私はそのあいだに立ち尽くし、自分の体を意識した。
孤独な寝室でシーツに沈む夜、指先に触れる体温の記憶を呼び起こす。
それはまだ生々しい、消えない熱の断片。
絵の女たちと自分が重なり合い、私は目を閉じる。

やがて展示室を出る頃、掌が汗で湿って震えていた。
けれども、その震えを私は隠さなかった。
むしろそれを抱えて、外に続く木漏れ日の中へ歩き出した。
疎水の水音が遠くで響き、街の雑踏のざわめきが混じる。
私は小さく口の端を上げ、声にならぬ声で呟いた。

「ありがとう」

毒を抱えたまま、私はまだ立っている。

ムリーリョ

夕刻前、上野駅の改札を抜けると、すでに夜の街はざわめきに満ちていた。
「出会いカフェどうですか!」「飲み放題千円、今だけ!」
チラシを握った若い呼び込みたちの声が、交差点の赤信号の上で絡まり合う。
キャバクラ、ガールズバー、格安マッサージ──。
薄汚れたビラが地面に散り、踏まれるたびに湿った音を立てた。
人波は雑多で、欲望と孤独がごった返している。
私はその群れをかき分け、美術館へ続く並木道に足を向けた。

石段に差し掛かる頃、喧騒が少しずつ後ろに遠ざかっていく。
街灯に照らされた葉の影が足元に揺れ、歩幅とともにゆらめいた。
私は深呼吸をした。肺の奥にまだ酒と煙草の残り香がまとわりついていたが、夜風が少しずつ洗い流していく。
過去の不正と裏切り、別れの言葉。
胸の中に沈殿したものは簡単に消えはしない。
それでも私は、光を見に来た。

展示室に足を踏み入れた瞬間、空気が冷ややかに変わる。
ざわめきも、呼び込みの声も、すべての音が扉の向こうに隔てられる。
白百合の香りを幻のように感じた。
そして視界いっぱいに浮かび上がったのは、群青の天を背にした聖母。
ムリーリョ《無原罪のおやどり》。
光をまとい、純白の衣をひるがえし、月を足元に従えたその姿は、絵画であることを忘れさせるほどだった。
あぁ、何もかも捨ててこの人に仕えたい。

胸の奥で固く凝り固まっていた塊が、かすかにひび割れる。
赦されたいと思っていたわけではない。
だが、その眼差しに射抜かれたとき、長いあいだ抱えてきた毒がざわめいた。
羞恥と自己嫌悪、それでも光に触れたいという矛盾した欲求が、私の血の中をめぐる。

そのとき、すぐ横にいた老婆が小さく十字を切った。
しわだらけの指が空中に描いた印は、淡い光の残像を残したように見えた。
その仕草を目にした瞬間、私は思わず背筋を伸ばしていた。
赦しを乞うよりも早く、赦しはすでにここに在る。
そう悟った瞬間、胸の重さが溶けていく。
息が深く吸える。視界が澄みわたる。
涙がにじみ、頬を熱くした。

「立て」
確かに声がした。
聖母の声か、老婆の声か、それとも内から響く自分の声か。
私は毒を抱えたまま、光の下に立っていた。
それだけで心臓は烈しく脈打ち、口の端に笑みが浮かぶ。

展示室を出ると、再び夜の喧騒が迎えにきた。
だが、耳に入る声はさっきよりも遠く柔らかい。
「出会いカフェ!」「飲み放題!」──同じ言葉のはずなのに、響きはどこか別物に聞こえた。
老婆の十字の残像と聖母の眼差しが、街の喧噪をひとつ上の層から包んでいるように感じられた。

私は立ち止まり、空を見上げた。
街灯にかき消されながらも、雲間から月がのぞいていた。
胸の奥で、もう一度だけ呟いた。

「ありがとう」

私は私のままで、光の下にまだ立っている。

ぶらんこ

閉館直前、京セラ美術館。
絵の前で、私は鼻で笑った。
ドレスを翻す若い貴婦人、無防備に蹴り上げた足、宙に舞う小さな靴。
木漏れ日の下で口をあけて見上げる若い男。
そして背後から、そのすべてを知らぬ顔で押す老人。

──ばかばかしい。
こんなものが美術史に残るなんて。
荘厳な宗教画の隣に並ぶのも不釣り合いだ。
欲望とお遊びの瞬間を、ただ華麗に切り取っただけじゃないか。

だが、隣に立っていた老婆がふと小さくため息をついた。
しわだらけの指先が胸の前にそっと重なり、両目には光がにじんでいる。
私は思わず顔を向けた。

老婆は絵を見つめたまま、かすれた声で呟いた。
「若いってね……ほんとうに馬鹿で、ほんとうに愛おしいのよ」

その瞬間、私は言葉を失った。
彼女の眼差しは絵の奥に別の景色を見ている。
無邪気に足を蹴り上げる娘の姿に、
きっとかつての自分を重ねているのだろう。
恋人に見上げられ、世界のすべてが光に包まれていたあの瞬間を。

何を書いたんだ、書きたかったんだ。

私にとっては欲望の茶番。
だが彼女にとっては、失われた青春の記憶が蘇る祈りだった。
涙が頬を伝うその横顔は、若き日の彼女が確かにそこに立っている証のように見えた。

私は再びキャンバスを見つめ直した。
フラゴナールの筆が描いたピンクのドレスは、風に舞うたびに白く輝き、
枝葉の間から降り注ぐ光は、ただの装飾ではなく祝福のように感じられる。
今まで笑っていた場面が、急に尊いものに変わる。

ばかばかしさは、ばかばかしいまま。
だがそこには確かに人間の無垢な瞬間が宿っている。
欲望も、茶番も、振り返れば「若さの祝祭」だったのだ。

私は胸の奥に小さな火がともるのを覚えた。
老婆の涙に照らされて、絵はただの戯画ではなく「生きてきた証」に変わっていた。
彼女の視線とフラゴナールの色彩が重なり、
私はもう一度、しっかりとその光景を目に焼き付けた。
「ありがとう」

ムンク

私は闇に育てられた。
母を奪った病室の冷気。
妹の寝息が止まるのを聞いたあの夜の静寂。
孤独に軋む胸、暗闇の中で膨れあがる不安。
それらすべてを、私は画布に叩きつけてきた。

私は《叫び》を描いた。
顔を押さえ、世界そのものが悲鳴を上げる瞬間を。
それは私自身の声だった。
あの慟哭こそが、私の存在証明だった。
だが、叫び続けても、夜は去らなかった。
色は濁り、線は裂け、絵筆は私を削り取るばかりだった。

それでも太陽は昇った。
毎朝、容赦なく。
私の絶望を笑うかのように。
死を抱いた私の寝台をも照らし、
腐臭すら金色に塗り替えるように。
私は目を背けた。
だが、背けてもなお、光は網膜に焼き付いた。

私は太陽を憎んだ。
その無慈悲を。
人の涙も祈りも顧みないその傲慢を。
だが同時に、私は光に縋っていた。
暗闇に飲まれそうな夜ごとに、
「どうか朝よ、来い」と唇が勝手に動いていた。
憎むほどに、私は太陽を求めていたのだ。

私は悟った。
太陽を愛さねばならぬ。
でなければ私が描いてきた慟哭は、
ただの無意味な呻きで終わってしまう。
私の闇も、病も、孤独も、
すべては光の中で燃え尽き、灰となり、
やがて光そのものに還らねばならぬ。

私は筆を握る。
手は震えている。
だが震えごと描く。
放射線が画布を突き破り、
私の眼球を灼き、心臓を貫く。
光の奔流を追いきれず、私は目を閉じそうになる。
だが閉じてはならぬ。
私は最後まで人間として立っていたい。
立ったまま、光に焼かれたい。

太陽よ。
どうか私を燃やし尽くせ。
この骨を、血を、恐怖を。
私をお前の放射に溶かしてくれ。
私は叫びではなく、賛歌で終わりたい。
慟哭ではなく、光の中で笑みを残したい。

私は愛している。
憎むほどに、切実に。
あなたなしに、私は終われない。
あなたの光なしに、私の画業は完結しない。

光はすべてを平等に照らす。
死者も、生者も、罪人も、聖者も。
その冷酷さを、私は愛する。
その無差別の祝福を、私は愛する。

私は描き続ける。
太陽を。
太陽を。
太陽を。
この身が灰となるまで。
私の慟哭を飲み込み、燃やし尽くすまで。
私はあなたを描き続ける。
私はあなたを愛している。

爪と金髪と

七条大橋に立つと、風が川面を走り抜けていった。
夏の熱気をわずかに残した夜の空気は、もう秋の気配を孕んでいる。
湿度は軽く、虫の声が透きとおるように響き、空には雲の切れ間から白い月がのぞいていた。
川沿いの街灯は揺れる水面に影を落とし、砕けた光が流れに溶けてゆく。

私は欄干に両手を置き、息を深く吸った。
胸の奥には、この夏のあいだに言えなかった言葉、吐き出せなかった声が堆積していた。
叫びたい。
だが、それは怒りでも恨みでもなく、どうしても伝えたかった想いだった。

「君と生きたい」

声は夜風に流され、鴨川の水音に吸い込まれた。
振り返る人は誰もいない。
ただ橋を渡る足音と、遠くを走る電車の音が夜に重なっている。
その中で、私の声は小さく、頼りなく、しかし確かに響いた。

私はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「君と生きたい。君をわらわせたい」
言葉にするたび、胸の奥の叫びは少しずつ形を変えていく。
満たされない慟哭が、誰かへの祈りへと変わっていく。
それは川面を渡る風と似ていた。
一度吹き抜ければ形を留めないが、確かに頬を撫で、心臓を震わせる。

夏の終わりを告げる七条の夜は、思いがけず爽やかだった。
虫の声が澄み渡り、川の匂いが懐かしさを運んでくる。
季節の変わり目は、人の心にも余白を与えるのだろうか。
慟哭はまだ完全には消えていない。
それでも、その空白に涼しい風が吹き込み、心臓をゆっくりと鎮めていった。

欄干に身を預け、私は目を閉じた。
闇の中で、何度も同じ言葉を繰り返す。
「君と生きたい。君をわらわせたい」
それはもはや叫びではなく、歌のようだった。
夜が終わるまでに届かなくてもいい。
この街の空気に、川の流れに、虫の声に、そして月に溶けていけばそれでいい。

私は静かに笑った。
風が頬を撫で、涙を乾かしていった。
七条の夜は、夏を見送りながら、私の言葉を抱き込み、静かに流していった。

ツンドラ

──僕は歩いている。
石畳は冷えていて、靴底がきしむたび、胸の奥の罪悪感をこすりあげる。
内ポケットのナイフの存在を、何度も確かめてしまう。
指が刃に触れてはいない。それでも重さが、心臓の鼓動を狂わせる。

なぜだ。
なぜこんなものを持ち歩いている? 理由は簡単だ。
金がない。
未来もない。
学費、部屋代、飯。
ひとつも支払えない。
目の前の誰かを倒せば、解決する。
僕の脳裏に、ささやく声がある。
──一度だけでいい。
終われば、おまえは自由になる。

だが、別の声がすぐに追いかけてくる。
──いや、すべては終わらない。
罪は終わらない。
おまえが川を渡ろうと、鐘を聞こうと、沈黙はつきまとう。

鴨川が近づく。
水の音がする。小さな波が石を撫で、夜を冷やす。
赦しか? そうだろうか? いや、赦しではない。
音はただ流れ、誰を裁きも救いもしない。
僕は赦されたいのだろうか。
それとも未遂の罰を望んでいるのだろうか。

鴨川にかかる橋の上で立ち止まる。
赤い影が水に映っている。
揺れて歪んで、血の色に似ている。
僕の未来が、こんなふうにねじれて沈んでいくのだと思う。
なぜだか笑いたくなる。
泣きたくなる。
どちらもできない。
喉の奥で、声がせり上がってくるが、出せば最後、取り返せなくなる気がする。

刹那。
黒い外套の老人とすれ違った。
痩せた頬、深い皺、乾いた眼差し。
ほんの一瞬、彼の目が僕に触れた。
死神だ、見透かされた。まだ何もしていないのに。まだ誰も傷つけていないのに。僕はすでに罪人として歩いている。
胸の奥に冷たい刃が刺さるようだ。
ナイフではない。
心そのものが刃だ。

鐘が鳴る。
遠く、低く、重く。
五時か、知恩院か。
音は夜を震わせ、僕の膝を震わせる。
ナイフがポケットから落ちた。
石畳に当たる鋼の音が、周囲の沈黙を破った。
その音で僕は崩れ落ちた。
両手で顔を覆い、震える。

「赦されたいのか」
老人の声がした。
低い、湿った声。
僕は答えられない。
声を出せば、すべてが現実になってしまう。
だからただ肩を震わせ、石畳を濡らす。
「赦されたいなら、罪を犯す前に赦しを乞え。人はそうして初めて救われる」

そう言い残して、老人は去った。足音は雪のように消えていく。僕は一人残され、両手で顔を覆い、呼吸だけを聞いていた。
川は黙って流れていた。
朝日は揺れていた。
夜は沈黙していた。
その沈黙の中で、僕の魂は揺れていた。

マンインザミラー

──僕は美しいと言われる。
けれど、この顔も、この体も、与えられたものではない。
魂を削るような鍛錬を重ねてきた。
食事を制御し、眠気に抗い、全てを整え、
鏡の前で幾千時間を費やしてきた。

生まれつき与えられた美しさなら、どんなに楽だったろう。
けれど僕の美は、積み重ねと引き換えの産物だ。
だからこそ誰にも奪わせたくない。
そして誰よりも脆い。

舞台に立つ。
観客の前に。
白拍子のように、衣装は流れ、照明が肌を照らす。
彼らは沈黙して僕を見つめている。
拍手でもなく、歓声でもなく。
沈黙だ。
その沈黙が、僕の努力を試している。

──おまえは本当に美しいのか。
──努力がなければ、ただの男にすぎないのではないか。

胸の奥で、声が交錯する。
僕は笑みを保ちながら、舞い続ける。
腕を伸ばし、指先を揺らす。
その一挙手一投足が、僕を肯定するか否かを決める。
だから止まれない。
止まれば、すべてが崩れる。

汗が滴り落ちる。
それも努力の証だと信じたい。
だが観客は知らない。
見えているのは仕上げられた結果だけだ。
積み上げた時間も、崩れ落ちそうな恐怖も、彼らには見えない。

鐘が鳴る。
遠く東山から、重く、長く。
その響きが胸を震わせる。
僕は足を止めそうになる。
だが止まれば、努力が無に帰す。
だから抗う。
舞う。
美しさを努力で掴み取った男として。

──報われたい。
──それでも、僕は自由でありたい。

沈黙の中、僕は舞い続ける。
それが僕の慟哭だ。

夢1

気がつけば、街は変わっていた。
昨日まで観光客が土産物を提げて歩いていた石畳は、今や鉄と光に支配されている。
白川のせせらぎの音が、無数のサイレンの隙間に埋もれ、舞妓の下駄の響きに代わって車輪の軋みが木霊する。

赤いランプが連なり、祇園の格子戸を血のように染め上げる。
瓦屋根に反射するその光は、まるで都市全体が心臓の内部に転じたかのようだ。
──アンリミテッド・アンビュランス。
いすゞ・ガーラ三十二連結。救急車でもなく、病院でもなく、もはや「都市そのもの」だった。

その背骨は紅く脈打ち、石畳の上に巨大な心電図を描く。
それは命の証明であると同時に、「ここがまだ人間の都市である」という最後の点滅信号でもあった。
ばかばかしいほどに過剰で、同時に荘厳。
笑うべきか、涙するべきか分からぬほどの光景。
──夢なのか。現実なのか。
蝶の羽音のように揺らぐ意識の中で、俺はただ走っていた。

車内の廊下は、狭い。
蛍光灯が瞬き、シナプス直結のパネルが焼ける匂いが漂う。
俺は駆ける。脳に直接流れ込むのは、生命の鼓動。
電子化された心拍波形ではなく、脈打つ血流の震えそのもの。
それは蝶の羽ばたきのように軽やかで、しかし痛烈に「生」を訴えてくる。
痛みは快楽と紙一重。
神経を焼く感覚は、むしろ「ここが現実だ」と言い張るかのようだった。

だが、現実は一瞬で反転する。
その上空に、別の脈動が現れたのだ。
最初はただの黒い点。
ひとつ、ふたつ、やがて十、百。
無数の黒点が編隊を組み、夜空を覆い尽くしていく。
──京橋から放たれた無人兵器群。

彼らは冷酷な数式でしか動かない。
救うという命令はない。
あるのは制圧、削除、最適化。
そのアルゴリズムは迷わない。
空に浮かぶ黒雲は、東山を掻き消し、八坂の塔の影を飲み込み、清水の舞台を煤で塗りつぶした。
それはもはや「夜空」ではなかった。
無慈悲が形を持った、理性の暗黒そのものだった。

その羽音は低い。
風の音に似ていながら、一定のリズムを刻み、やがて心臓の鼓動すら上書きしてしまう。
俺の耳の奥で、脈動と羽音が混じり合い、現実と夢が解け合っていく。
「ここは夢か? それとも現か?」
問いは声になる前に喉に引っかかり、ただ胸を焼くだけだった。

俺は立ち止まった。
瓦礫の隙間から掬い上げた少年を抱く。
その体は小さく、しかし熱を持っていた。
確かに命がある。
その温もりは、機械のノイズも、編隊の影も否定する。
だが──救えば、俺は再び死地に赴くことになる。
救わなければ、自分が人間でなくなる。

「俺は……何をやってるんだ」
呟きは誰に届くでもなく、ただ機械の羽音にかき消された。
だが、俺の腕の中で鼓動だけが確かだった。

蝶が飛んだ。
赤光と黒影の間を、ひらひらと。
その羽ばたきは夢の兆しか、現実の証か。
蝶が俺を夢見ているのか、俺が蝶を夢見ているのか。
答えはどこにもない。

ただひとつ確かなことがある。
──俺はまだ人間であり、少年を抱き上げている。
その事実だけが、夜空を黒く染める無慈悲の群れに抗う唯一の「魂」だった。

夢2

$ ./transform --seq full --override-safety

轟音が走った。
三十二台のガーラを繋ぐ接合部が一斉に震え、金属の悲鳴と油圧の唸りが夜気を切り裂く。
静謐だった古都は、一瞬で巨大工場の心臓部に変わった。

最初に響いたのは圧縮空気の爆ぜる音だ。
シュウゥゥッ!と白い霧が吹き出し、沿道の古い格子戸を曇らせる。
続いてピストンが伸縮を繰り返し、鉄骨が膨張するように車体が持ち上がる。
そのたびに石畳が振動し、町屋の瓦が微かに揺れた。

「外科モジュール展開!」
「血液透析ユニット稼働確認!」
「NICUシールド起動準備!」

同僚の声がインカム越しに飛び交う。
声が一つ重なるたび、俺の胸も高鳴る。
サイボーグ医師たちのリンクが同期し、思考が脈打つように流れ込んでくる。
恐怖もある、だがそれ以上に昂揚感があった。
俺たちは今、夢と現実の境で「命を積み上げる砦」を組み立てている。

車体の外板が左右に裂け、内部から銀色のアームが次々とせり出す。
折り畳まれていた無影灯が首をもたげ、夜空を真昼のように白く照らす。
手術用モジュールが展開するたびに、蒸気が立ちのぼり、まるで地獄から聖堂を召喚しているようだった。

「……酸素カートリッジ供給ライン、異常なし!」
「透析モジュール、全系統クリア!」
「中枢ホログラム、リンクオン!」

報告の連鎖は、儀式の詠唱のようだった。
俺は喉の奥で笑う。
バカバカしいほどだ。
観光バス三十二台が、病院であり戦場であり神殿にまで変貌する。
だが俺たちの現場は、そういう場所だ。
笑うしかないほど過剰で、それでも必要な砦。

同僚のひとり、義眼の女医が俺を振り返った。
赤い虹彩に火花のような光が宿っている。
「……やれるぞ」
その一言で、俺の胸も焼けた。
リンクが繋がる。シナプスが灼ける。
高揚は伝染し、俺たちは一つの有機体のように動き始める。

三十二台が完全展開した瞬間、祇園は姿を変えた。
石畳は搬送路に、花見小路はICUの動線に、八坂の塔は観測塔に。
街全体が命を積み上げる機械仕掛けの砦となった。
赤い背骨が夜に光を走らせ、その光に合わせて沿道の人々が頭を垂れる。
無言の敬礼。
誰も声を出さない。
だがその沈黙の重みこそが、俺たちの心をさらに熱くした。

蒸気に包まれた巨体を見上げ、俺は呟いた。
「……俺達のジグラッドだ」

かつて王が天を目指して積んだ塔。
だがこれは違う。
俺たちの砦は、天ではなく命へ届くために積み上げられた。
最後の人間の都市を支える背骨。命を繋ぐ最後の砦。

サイレンが再び鳴り始める。
不協和音の中で、俺は確かに感じていた。
ここにいる全員の呼吸と鼓動が、重なり合って巨大な塔を築いていることを。
この昂揚こそが俺たちの現場、そして人間の証だ。

夢3

ジグラッドは光った。
赤い背骨はただの車列ではない。
それは都市の延髄、東山に脈打つ巨大な心臓。
三十二台の車体は互いに呼吸を合わせ、蒸気を吐き、血管のようなチューブで結ばれる。
この街は変じた。
俺たちの魂の座。

サイボーグ医師たちは語る。

──ここにトリアージはない。
なぜか?
すべて救うからだ。

死にかけた者を選り分けることはしない。
泣き叫ぶ者を放り出すことはしない。
未来を諦めることはしない。
我らの職務は選別ではない。
我らの職務は、ただ一つ──救うことだ。

選別は死者の仕事だ。
我らは生の側に立つ。

小脳が灼ける。
リンクが軋む。
脳に脳が触れ、痛覚が流れ込み、苦痛が共有される。
だがそれでよい。
痛みは昂揚、苦痛は歓喜。
他者の叫びは我らの燃料。
命の火は、炎でしか支えられない。

──見よ、この背骨を。
光を帯びた赤いラインは、ただのランプではない。
それは人類の心電図、まだ絶えていない鼓動。
車体からせり出すアームは、ただの金属ではない。
それは救うために進化した指、我らが失った肉体の延長。
祇園を覆う白煙は、ただの排気ではない。
それは息、都市がまだ呼吸している証。

同僚が呟く。
「酸素流量、確保」
「透析ユニット、稼働安定」
「新生児シールド、クリア」
冷たい報告が、祈りの詠唱に聞こえた。

──今この砦は機能している。
光を放ち、音を奏で、命を繋いでいる。
この背骨が折れるその時、人間の都市は終わる。
だが今日ではない。
今ではない。

だからここにトリアージはない。
なぜか?
すべて救うからだ。

サイボーグ医師たちの眼は紅に輝く。
かつての人間の眼ではない。
だがその奥にあるのは、数式ではなく熱。
アルゴリズムではなく意志。
電源が途切れても、なお消えないもの。

我らは狂気のうちに正気を見出す。
合理の果てに不合理を抱きしめる。
数値が「不可能」と告げても、手を伸ばす。
息が絶えるまで、手を離さない。

なぜか?

我らは人間だからだ。
鉄で補強されようと、人間であることをやめはしない。
救う者であることをやめはしない。

ここにトリアージはない。
なぜか?
すべて救うからだ。

夢4

ひとつ、ふたつ。群れが集まり、線を描き、曲線を描き、やがて渦になる。
渦は渦を飲み込み、個々の羽音は低周波のうなりへと変わっていく。
空気が振動する。胸骨がその振動を拒めないほどに低く、重く。

彼らは来た。
無数の小さな機体が、京橋から吐き出されるように集まり、螺旋を描いて一つの塊になる。
近くで見ると、ひとつひとつは粗末な箱にも等しい。だが数が一つになったとき、それは有機的な肉塊のようにうごめいた。
金属の羽が互いに干渉して生むノイズは、まるで古いラジオのノイズを増幅したように低く、都市の骨まで震わせた。

「……蠅の王だな」
誰かが、ささやいた。
それは呟きではなく、投げ捨てられた名前だった。
群れを見下ろす目の端に、皮肉と怯えが混じる。
蠅の王──無差別を体現する存在の名。
そこには神でも王でもなく、ただの腐敗と貪欲が宿る。

塊は脈を打った。
中心に黒い核ができ、そこに磁場のような圧力が生まれる。
小さなブザー音が一斉に同期し、やがてその同期は破裂へと転じる。
紫の稲妻が一点に凝縮する。
電磁が空間を圧縮し、見えない刃を形成する。

「EMP波形、変則・高強度」
誰かが情報を吐く。だがその情報はただの空気の振動で、回路は既に温度を失いはじめている。
祇園の灯が、少しずつ息を吸って吐くように暗くなる。
赤い背骨のランプが、ワンテンポ遅れて明滅する。

中心が光った。
光は眩く、しかし音を持たないほどに近い。鳴るのは振動ではなく「消滅の前触れ」だった。
空間が割れ、時間がすっと薄くなる。
電子の流れが刈り取られる瞬間、世界の輪郭が柔らかく揺れる。

──EMPブラスト。

それは爆発ではなかった。爆発は音を伴い物を吹き飛ばす。これは違う。
全ての電気が、一斉に呼吸を止めるように消えた。
光は瞬き、モニターのラインは一斉に崩れ、サイレンは途切れて落ち、表示は灰色の点に還元される。
赤い背骨は痙攣し、体内で流れていた人工の血が一瞬で固まったかのように光を失う。
三十二台の脈が、同時に止まった。

インカム越しの声が、紙片のように消えた。
「リンク、全断」──言葉だけが残る。応答はない。
表示装置が死ぬと、数字は約束を裏切る。最低限のログだけが、どこかで燃え残った。

暗闇。
闇はただの闇ではない。音を吸い込み、距離を縮め、皮膚の感触だけを拡大する。
俺は少年を抱きしめた。胸に触れると、微かに温度がある。血だ。鼓動だ。生だ。
機械の声も、表示も、人工の安心も消えた場所で、肉だけが真実を述べる。

沿道の人間たちの顔が、暗がりの中でもうっすらと見えた。
スマホの薄い光、懐中電灯の一筋、口元に落ちる息。
誰もが目を見開き、そして目をそらす。
「蠅の王……」誰かがもう一度呟く。今回はもっと小さく、もっと遠く。
言葉は祈りにも、呪いにも聞こえた。

金属の擦れる音、割れたプラスチックの落ちる音。
だが電気のない世界では、その種の音が過剰に大きく聞こえる。
手術室の引き出しが床に滑り落ちると、三秒が十秒に引き伸ばされた気がした。
義手の関節がきしむ。
液晶の反射が消えて、人工網膜の残像だけがふわりと漂う。

「どうする」──短い問い。
「やるしかない」──応答。
会話はドライに、そして速く。
説明はいらない。
働くのだ。

俺の手の中で少年の胸が、また一度大きく上下する。
鼓動は細く、だが確かだ。測定器はなくても、俺は指先で分かる。脈拍の弱さが、俺の指に伝播する。
血を止め、気道を確保し、体温を保つ。計器はない。計算はできない。あるのは手と知恵と、汗。

「酸素バッグ手動」「圧迫止血で」「交代、二分」──言葉は短く、必要最低限。
手術灯はない。だから沿道の人々がスマホを掲げる。スマホの小さな光が、赤い背骨が失った光の代わりになる。
見知らぬ者の手が、見知らぬ者の傷を支える。誰も命のランクを測らない。
ここにはトリアージはない。

蠅の王は上空で微かにうごめく。だがその巨体が投げかける影は、もうただの影だ。
祇園の石畳に落ちた影は、やがて手の動きの光景へと溶けてゆく。
人が手を動かし、生命を紡ぐ音だけが、暗闇の中で確かに鳴っている。

「ここにトリアージはない」──誰が言ったのか分からない。だがその言葉は、男たち女たちの手に火をつけた。
「なぜかって?」と、別の声が続ける。
「全部救うからだよ」

闇は変わらない。だが闇の中にも秩序が生まれる。手と声が輪を作り、互いを支える。
蠅の王は、空に留まってもはや指図することはできぬ。動物のようにその名だけを残し、我々は地上で命を繋ぐ。

夜は長い。だが手は止まらない。包帯、注射、人工呼吸、懐中電灯の束。
蠅の王は上空でその黒い殻を震わせている。だが今、祇園で鳴っているのは救命の鼓動だ。

そして、俺は知る。
機械が支配する夜であろうと、最後に生き残るのは計測値でも最適化でもない。
それは、汗で滑る指先と、誰かの名を呼ぶ声だ。

──蠅の王は黒く、だが俺たちは働く。
暗闇の中で、命を繋ぐ。

痛み

4月12日
朝からお腹が痛い。
痛みがくるたびに、人間は直線的な構造なんだと思い出す。
食べ物が入って、消化されて、出ていく。
一本の管でできている。
それを少しでも忘れると、すぐに体が思い出させてくる。

教室に座っていても、黒板の文字よりも腸の動きの方がリアルだ。
友達の笑い声や先生の説明は、壁を通り抜ける風みたいに薄くなる。
私の現実はお腹にある。
直線の途中で詰まったり、捻じれたりするだけで、世界はぜんぶ止まる。

4月14日
夜にまた痛くなった。
布団に丸くなりながら、管を想像する。
口から肛門まで、ひとつの道。
血管もリンパもまた、別の直線。
背骨も、神経も、直線に近い。
人間は曲線に見えるけれど、中身はほとんど直線の集合体じゃないか。

じゃあ私が曲がって見えるのは、皮膚のせいだ。
鏡に映る自分は複雑そうで、でも中身は単純。
お腹が痛いと、その単純さを思い知らされる。

4月17日
友達とカフェで話した。
彼女は恋人の話をしていたけれど、私は途中から、
「恋も直線かもしれない」と思ってしまった。
始まりと終わりがある。
途中で曲がり角があっても、流れは一方向だ。
戻れない。
胃から腸へ戻れないのと同じ。
愛だって、消化管みたいにただ進んでいくだけなのかもしれない。

そう思うと少し悲しくなった。
でも彼女には言えなかった。

4月20日
講義中にまた痛みが来た。
先生の声が遠のく。
板書の文字がゆらゆら揺れる。
私はただ直線のことを考えていた。
この痛みは、未来に向かっているのか。
それとも私を押し戻しているのか。
分からない。

でも確かなのは、管は前にしか進めないということだ。
時間も、恋も、人生も、体の仕組みと同じように。
私は痛むたびに、その真実を学ばされる。

4月22日
夕方、鴨川を歩いた。
川も直線だ。
蛇行していても、流れは一方向。
水は一度も止まらない。
お腹を押さえながら、私は川と同じだと思った。

風が冷たくて、涙が出そうになった。
でも泣いたのかどうか、自分でもよく分からない。
ただ痛みと涙の区別がつかなくなっていた。

4月25日
また痛み。
日記を書きながら、ふと思う。
私が直線を考えるのは、ほんとうは痛みのせいじゃないのかもしれない。
時間を、人生を、どうにか形にして理解したいから、
一番身近な「体」を借りているだけなのかもしれない。

でも、もしそうだとしても。
お腹が痛くなるたび、私は直線を信じる。
信じるしかない。
管は前へ。川は前へ。時間は前へ。
私も前へ。

痛みが、今日もそのことを教えてくれる。

スケアクロウ

夜の石畳は冷たく、靴音が一歩ごとに沈んでいく。
風はないのに、闇が流れている。
格子戸の隙間からもれる灯りは途絶え、八坂の塔も黒い影だけを残している。
そんな場所で、私はふいに足を止めた。

──カラスの女がいた。

屋根の上、あるいは空そのものの裂け目から現れたように、彼女は立っていた。
全身を覆う黒衣は夜よりも深く、羽毛のように光を吸い込んでいた。
ただひとつ、目だけが湿り、わずかな光を跳ね返していた。
私は見上げ、そして、何もできなくなった。

声を出そうとした。
喉が固まった。
笑おうとした。
唇が動かない。
逃げようとした。
足が石に縫いとめられた。

「自由だ」と私は思い出そうとした。
人間は自由だ。
選べるはずだ。
歩くか、止まるか。
呼ぶか、黙るか。
しかしその視線の前では、すべての可能性が無意味になっていく。
彼女は私を赦しもしない。罰しもしない。
ただ「在る」だけで、私の自由は宙吊りにされた。

胸が痛む。
鼓動が早まるたびに、私は自分の存在を疑い出す。
「私は本当に、ここにいるのだろうか」
カラスの女の影は、私の存在を写し取ってしまうようだった。
私は観光客でも、学生でも、娘でもなく、ただ一匹の獲物のように見られていた。

鐘が鳴った。
どこからともなく、低く、長く。
知恩院かもしれない。
あるいは私の心臓が、外の鐘の音に似せて悲鳴を上げたのかもしれない。
その響きは私の膝を震わせ、石畳に涙を落とした。

泣きたいわけではない。
赦されたいわけでもない。
ただ、この凝視から逃れられない不安が、形を変えて水になっただけだ。
私は泣きながらも、不敵に笑おうとした。
せめて、彼女の目に挑むように。
だが笑いは声にも形にもならず、ただ喉の奥でひび割れて消えた。

カラスの女は動かない。
私も動けない。
ふたりの沈黙のあいだに、東山の夜が広がっていく。
その沈黙は、愛でもなく、敵意でもなく、ただ無限に続く「在る」の重さだった。

やがて羽音がした。
本物のカラスが群れを成して空を裂き、女の姿を飲み込んだ。
私はようやく膝を折り、冷たい石に手をついた。
残されたのは私の震えと、涙の跡だけだった。

私は知った。
人は自由だ。
だが自由であるがゆえに、時として、何もできなくなる。
その事実を、私は東山の夜に刻みつけられたのだ。

チャレンジャー号

教室は、鉛筆の匂いと牛乳瓶の気配で、やわらかく温まっていた。
黒板の前に転がり込んだ視聴覚台車。灰色のベルトで縛られたテレビは、小さな祭壇に見えた。
カーテンが半ば閉ざされ、教室全体が薄い青の水の中に沈む。
先生がリモコンを掲げ、「さあ、みんなで応援しましょう」と言ったとき、私たちの手のひらは拍手のために用意された器になった。

十、九、八――。
カウントダウンは祈りの拍子。
白い柱が地面から立ち上がり、空の底を押し上げる。
テレビの中の空は、現実の空よりも澄んでいて、雲は新しい紙の匂いがした。
期待という名の音が、生徒の喉の奥でふくらんで、まだ言葉にならない。

――そのとき、花は咲いた。

花火のようで、花火ではない。
白い枝が左右にひらき、幹はほどけ、息継ぎのない拍手が空気の中で途切れた。
教室の空気は、いっせいに座ったまま立ち上がれなくなり、椅子の脚が床に擦る小さな音だけが、現実に錨を打った。
先生は「消して!」と言いながら、スイッチの場所を見失った。
消すべきものが、もう目に、耳に、心に、写ってしまっていたからだ。

それは、科学の未来ではなかった。
それは、祭の成功でも、失敗でもなかった。
それはただ、「人は死ぬ」という事実が、青天の中央に白い花として顕れた瞬間だった。

アナウンサーは「事故」という言葉に避難した。
大人たちは「原因」を探す旅に出て、因果は名札をつけられ、会議室に並べられるだろう。
けれど七歳の私に届いたのは、もっと単純な、もっと冷たい三つの声だった。
――人は死ぬ。
――夢も死ぬ。
――科学も死ぬ。
その声は、鉛筆より重く、消しゴムでは消えない線を机の木目に引いた。

給食のざわめきは、夕方には祈りの静けさに変わった。
ランドセルの留め金がやけに大きく鳴り、家に帰る道の街路樹は、緑でありながら喪服の列に見えた。
夕餉の湯気は立ちのぼり、かきたま汁の香りは、いつもどおり家族の形を作った。
だが、テレビ台の下に落ちていた埃の小片が、白い雲の残骸に見えた。
世界の浮かれは、薄紙一枚の向こう側にあり、その結果にはすでに指の跡がついていた。

夜、夢を見た。
広い原っぱに、私ひとりだけが立っていた。
友だちも、先生も、両親も、みんな、戦争で死に絶えていた。
風は止み、音は止み、空には昼間の白い裂け目がそのまま貼りついている。
「戦争」という言葉は、教科書から抜け出し、靴紐のように私の足首に絡んだ。
解けない結び目。
私は歩く。
誰もいないベンチ、誰も持たない旗、誰も振らない手。
踏みしめる草は湿っていて、音のない音が灰になって舞い、口の中が少しだけ苦くなった。

そこには敵も味方もいなかった。
あるのは、結果だけ。
人は死ぬ。ただそれだけ。
その無造作な総括の前で、私の小さな心は、初めて世界に対してまっすぐになった気がした。
まっすぐであることは、残酷さにとてもよく似ている。

夢の中の空の端に、扉があった。
誰が置いたのか分からない、薄い木の扉。
私は近づき、手をかける。
蝶番が小さく泣いて、扉はやおら、内側に開いた。
そこは水の部屋で、壁は譜面、床は波。
人魚の椅子があり、誰かがそこに座って、横顔だけこちらに向けていた。
泣いているようにも、笑っているようにも見え、どちらにしても、美しかった。
悲しみが、美の衣をまとって立つとき、人は言葉を失う。七歳でも、それは分かった。

もう一枚、扉。
薔薇の部屋。
棘の香りがかぐわしく、過剰な装飾が壁面を浸食し、線は線であることに酔い、模様は模様であることに溺れていた。
“好き”が増えすぎると、意味は薄くなる――その薄さが、かえって異常の輪郭を澄ませる。
私は思った。
これは異常性のデッサンだ。
誰かの情念が、シール帳のページみたいに貼り重ねられ、波打ち、もう閉じられない厚みになったノート。
私も胸の奥に、一冊、似たノートを持っている。
だから私のリアリティは、ここでは崩れない。
内側は、内側と通じるから。

最後の扉の向こうに、玉座があった。
黒い布が床に滝のように流れ、背凭れは夜の形をしている。
椅子は誰かを待つあいだに、待つこと自体が主となり、やがて主の不在を即位させてしまったようだった。
私は手を伸ばし、肘掛けに触れた。
冷たく、しかし確かな脈があった。
遠くでサイレンが鳴り、見えない戦争が部屋の天井を撫でていく。
声がした。
「ここは私の世界、私の玉座」

それは、未来の私の声だった。
「座れば、呪いは形になる。花は咲き、棘は正直で、笑いは音になる。忘れられない痕跡となって、世界に残る」
呪いは、救いにとてもよく似ている。
刈り取られないこと。
ただ、それだけで、ひとは生き延びることもある。
けれど、刈り取られることは、世界が優しい顔で差し出す秩序でもある。

私は首を振った。
座らない、と小さく言った。
それは永遠の拒絶ではなく、七歳の一時停止。
私は胸のノートの最後のページに、鉛筆で薄く書きつける――いまは座らない。
ページは破らない。
いつか、その上から濃いインクで別の言葉を書くかもしれない。
それでも今は、座らない私を、私自身に示しておく。

扉は逆順に閉じ、蝶番の涙は乾いた。
水の部屋の人魚は小さく手を振り、薔薇の部屋の棘は香りだけを残して退いた。
目が覚めると、朝だった。


教室の窓の外、現実の空は、何事もなかったように青い。
けれど私は知っている。
青には薄い白の骨が通っていて、赤い世界の浮かれは、その骨の上で踊っている。

私は自由帳を開き、空に咲いた白い花を描いた。
幹はほどけ、枝は左右に伸び、下には小さな映写機。
先生の手、友だちの耳、私の目。
描きながら、私は心のどこかで数えている。
あの日、私の中に増えた扉の枚数を。
言葉を覚えるたびに一枚、悲しみを言語化するたびに二枚、扉は静かに増える。
増えすぎた扉は、時おり影を床に落とし、私の靴のつま先を試す。
私は影を踏み、影は私を踏み返す。
互いの内側は、互いの靴音でわずかに傷つき、傷こそが現実の音になる。

私は知る。
世界は、刈り取りの上手な微笑を持つこと。
そして、笑いながら顕現する自由が、ときに呪いの冠をかぶって現れること。
どちらも真実で、どちらも片方だけでは足りないこと。
だから私は事由帳に書く。
白い花の咲いた空のことを。
拍手のために準備された手のひらが、凍った瞬間の温度を忘れないように。
音が灰になる夢の味を、舌の奥の小さな記憶が乾かないように。
七歳の私が見た「ただそれだけ」を、世界の浮かれに透かして読む術を、なくさないように。

絵を描くことは、蝶番に油をさすことだ。
いつか開けるために。
いつか、開けないままで終えるために。
どちらにしても、扉は私のもので、玉座は私の影だ。
人は死ぬ――ただそれだけの真実を、空に咲いた白い花のかたちで、私は今日も持ち歩いている。

シニガミ

おい、ここんとこ「死にてぇ」だの「もういいや」だの、軽々しく言うガキが増えたもんだ。
おれらの頃はな、「金がねぇ」「メシくわせろ」くらいしか言わなかった。
るせぇ世の中だ。


さて、今夜はだ、
そういうガキが保健室で横になったら足元に立つって噂の話をすんだ。噺の名は『死神』。
古典だ。
が、今日はな、ちょいとばかし、破滅的にしてやる。
覚悟しとけよ。


そいつは凪って名の、どこにでもいるガキでよ。
テストは赤、部活は補欠、彼女は存在確認できず、人生ってのはもう「やり直し」のボタンがどっかにあるんじゃねえかと思ってる。
で、保健室のベッドに倒れ込むわけだ。
足元に、黒い奴が立っていやがる。
いつもの奴だ。
死神だ。
「おい坊主、テメェ、死にてえのか?」
「……そうかも、です」
「“かも”って、ずいぶんとあいまいだな。花見の終わった飛鳥山かお前はよ」

死神ってのは職務に忠実だが、案外世ちがらいツッコミは得意でよ。
「最近の若えのは“希死念慮”なんて言葉を覚えやがって、やれ哲学だ、やれ自己表現だって。んなもん、肩書きつけてるだけで、中身は金歯のじじぃが酒飲んで寝るアパートの一室みてぇなもんだ」
凪は首をすくめる。
「じゃ、どうすりゃいいんですか」
「灯りをともせ」

死神が言う「灯り」ってのはよ、単純で残酷だ。
人の頭の上や胸のあたりにポツンと灯る、豆電球みてえなもんだ。
勉強ができるやつは机の上がやかましく、恋がうまくいってるやつは胸の辺りがぼんやり暖かい。
灯のくせに見た目はほんのりしてやがる。
が、しょぼくても光ってりゃ歩ける。歩けりゃなんとかなる。
そんなもんだ。

俺は、死神の言葉どおり、嘘でもいいから「俺はまだ灯りがある」と口にするようになる。
嘘の灯りだ。
「嘘の灯りって、意味あるんですか?」
「あるさ。嘘で暖を取ってりゃ、誰かがあたりに来るかしれねえだろ?」
「だがな、気をつけろよ、与える満足に酔うと自分の灯りが消えちまうぜ」


俺は保健室から出ると、妙な能力がついた。
人の灯りが見えるんだ。
教室の片隅のやつの頭上に、小さな電球。運動場で孤立してるやつは豆電球がチカチカ。
そして、消えかけのやつがいる。
ぼんやりした黒。
死神のまねごとをして、その子の枕元で小さな呪文を唱える。
「アジャラカモクレン、延長願、テケレッツノ」
すると、消えかけの灯が一瞬、点く。
仮の光だ。
だが、ほら、息を吹き返す。
命は延びる。
保健室での噂は瞬く間に広まり、灯は「延長係」としてちょっとした人気者になる。
放課後、クラスの連中がちょっとした延命を所望しに来る。
「ちょっとだけ光よこせよ」と。
俺は小銭の代わりに、笑顔をもらう。


だがよ、人の灯りってぇのはな、大川の水みてぇに無尽蔵ってわけにゃいかねぇんだ。
放っときゃ枯れちまう井戸水みてぇなもんで、油注いでやらなきゃ消えちまうんだよ。

灯の配給をしてると、自分の配電が削られていくのが分かる。
人の延命ばっかりやっていると、自分の胸の灯りの配線が抜けていく。昼は誰かのために灯を持ち歩き、夜は自分の影を確かめる。
影が深くなる。
「俺は誰のために光を配ってるんだ?」
孤独は潮の満ち引きみたいに、返り血のように染みてくる。
俺はある夜、保健室で一人、嗚咽する。


死神が足元にすっと立つ。
「へっ、そんなもんよ。仮設の灯りなんざ、燃え尽きるに決まってらぁ。配りすぎりゃ、お前さんがすっ裸になるだけだ。」

「……助けたかったんです」

「助けるってのはな、金貸すのとおんなじでさ。そんときゃありがてぇって顔して受け取りやがるが、利子はきっちりつく。
そのぶん踏み倒されて、ツケは全部テメェの首に縄かけて戻ってくんだぜ。」


「裏方を増やせ。てめぇだけに灯りを預けんじゃねえ」
俺は笑う。
「俺、裏方の人間なんて知らねえよ」
「いるさ。お前さんのまわりにゃあ、五人も六人も、灯り分けてくれるやつがちゃんといやがる。
気づいてねぇだけよ。」


仲間を探す。
落語部の連中、顧問、購買のオバちゃん、誰でもいい。だが、分けろと頼む手が震える。
「自分の灯りを分けてくれ」って言うと、人は妙に目をそらす。
誰もが自分の灯を守りたい。
分ける余裕がない、てぇな顔だ。
世の中、ギリギリで回ってるからな。
灯を分け合う余裕なんて、政策のスローガンだけだ。

やがて凪は、分けるどころか盗っ人みてぇに他人の灯をかき集める。
夜な夜な人気(ひとけ)のねぇ路地で、置き忘れられた笑顔の残り火を、こそこそと拾い歩くんだ。

人の灯は集まると不道徳を持つ。
灯が集まり過ぎれば、それは熱を帯びる。
熱は焼く。
焼けたところには消し炭しか残らねえ。


文化祭の夜だ。
落語部は高座を準備して、演目は『死神』。
俺は舞台袖で、延長係としてライトを操作する。
客席はまぁまぁだ。
だが、学校の電気設備は古い。
負荷の増大で、確実にどっかで切れる。
俺は袖で、照明卓に手をかける。
上手をちょいと上げる。
瞬間、ブチッ——っと切れやがる。
校舎全体の空気が沈む。
回路が落ちた。
非常灯だけが赤く脈打つ。
その暗闇の中で、客のスマホが一斉に点く。
光が小さい星みてぇに客席を埋める。
俺は目を見開く。
自分で配った灯じゃねえ、誰のでもない、勝手に生まれた灯りだ。
観客の手から出た光が、舞台と客席の境をあいまいにする。だがその光は、冷たくて、意味不明だ。
まぁだけどこれはこれで、気持ちがいいもんだね。


そのとき、自分がやってきたことを見た。
人の灯を集めて脆い共同体を作り、仮の安心を膨らませ、とうとう自分の胸を空っぽにしていた。集まった光は一瞬の温もりをくれたが、それは熱の暴走になり、配線を焼き切った。

死神がふっと笑った。
その笑い顔はよ、もう人間と変わりゃしねぇんだ。
「お前がやったんだぜ。自分を飢えさせてまで、他人の温もりをむしゃむしゃ喰らった。
へっ、たいした根性じゃねぇか。」
膝を抱えて笑う。
嗚咽混じりの笑いだ。周囲の光は儚く、すぐにまた消える。


結局な、俺は舞台に上がる。
裏方の延長係が演者の声になる。
高座の部長が喋る。
声は震えてるが、笑いは来る。客席の光がパチパチ、と消えたり点いたりする。誰も救われちゃいねえ。だが、誰かが――あの瞬間だけでも、笑った。

終幕の拍手、ざわめき、電気が復旧して蛍光灯が白く光る。現実が照らされる。
袖に戻る。
胸の中は風が吹いてる。
死神はすっと立って、俺に向かって言う。
「もう、これでお前さんは自由だ」

俺は首をひねる。
「自由って、一体どういうことだ?」

「好きに死にな。いや、好きに生きな。どっちでもかまいやしねぇ。
結局な、誰もお前を抱えてはくれやしねぇんだ。
抱えられるのは、お前自身の軽さだけって寸法よ。」


聞いとけよ。
破滅ってのは特別なやつが味わうもんじゃねえ。
世間の片隅で、誰かがチンとした仮の灯りを売ってるうちは、破滅はいつだって、無料で配られてる。
笑いや仮設の温もりを否定はしねえ。が、覚えとけ。人の灯りばかりを集めて生きてると、いつか自分の胸のスイッチが外れる。そんときゃ真っ暗だ。真っ暗の中で聞こえるのは、自分の笑い声だけだ。笑ってりゃ、少しは気が紛れる。だがその笑いは冷たい。凍える笑いだ。
だけど、それが一番強いんだねぇ。

お後がよろしいようで。

キマイラ

その日、鴨川のほとりにて、我が目は曇れた。
それは天より落ちた塵のためにあらず、
また鳥の糞のためにあらず、
むしろ人々の声の積み重なりのゆえであった。

父の叱責と、友の嘲りと、恋人のため息とが、
幾重にも折り重なりて眼の裏に沈殿し、
我が視線は己をも他者をも照らすこと能わず。
眼は白き幕と化し、他人の記憶を投影するのみとなった。
されば我は、自らに属さぬ夢を歩む者であった。

東山の路地をさまようとき、ひとつの影が現れた。
その顔は移ろい、母のごとくなり、友のごとくなり、
また死者の貌を宿しては消えた。
影は言った──恐るるなかれ、我は汝を導かん、と。

しかし我は胸をかきむしりて答えた。
「導くなかれ。
 愛したものを壊したは己の手である。
 心は燃え、口は渇き、
 触れしものを悉く灰に変えた。
 影よ、汝も我が慟哭を知るや。」

その声に続いて、川の底より囁きがあがった。
それは名を持たぬ悪しきもの、
我を花婿として迎えんとする声であった。
「汝はもはや単独にあらず。
 汝は混じり合い、誰かの一部とならん。」

我は酔いに似た揺らぎに包まれ、
胸は焼け、愛の火は己を呑み、
渇望は罪と化して我を沈めた。
我は叫ばずにはいられなかった。
愛したゆえに堕ちた。
愛したゆえに血を吐いた。
その慟哭は夜を裂き、己の胸をも裂いた。

祝宴は立ち飲み屋の奥で始まった。
灯りは赤く、杯の中に光は揺れ、
壁に影は踊り、笑いと泣きとが区別なくあふれ出た。
花嫁は幻の名を持ち、幻の姿をもって我を慰めた。
我はその幻を抱き締め、己の慟哭を押し殺した。

そのとき我は知った。
我はキマイラであると。
愛の断片、罪の断片、他人の断片、
すべてを縫い合わされた存在であると。
父の声も友の声も恋人の声も、
死者の息も生者の叫びも、
そして我が渇望と忌避のすべてが、
我が肉に縫い込まれていると。

救済は永遠にはあらず。
一時の和合はやがて闇にほどけ、
杯の光は消え、
残るは断片と慟哭のみであった。

されど東山はなお我を歩ませた。
昼の光の下においても、夜の酒の影の下においても、
我は他人の声を抱き、己の声を失い、
混合の中に立ち続ける。

そして我は知った。
これもまた道であると。
闇を越え、声を織り、愛を抱え、罪を背負い、
キマイラとして歩むこと、
これもまた主の定めし旅路であると。
「主よ、我を裁かず、ただ見よ。
 胸は燃え、愛は我を裂けど、
 それでも我は歩もう。
 東山の夜を、最後の慟哭を、汝に捧げん。」

ブラックウッド

京都という町は、実に器用に“古さ”を商売にしている。
だが、古さといっても、それは考古学的なものではなく、演劇的なものだ。
寺院は舞台装置、町家は大道具。そこに住む人々は、日常を演じながら観光客に向かってさりげなく“本物の京都”をアピールする。
ロンドンのピカデリーで、燕尾服を着た紳士が馬車を待つ真似をして観光客に写真を撮らせるようなものだ。実に愛らしく、実に滑稽である。

京都人の誇り高さは、英国人の階級意識に似ている。
「千年の都に住んでおりますの」と、奥ゆかしくも確信犯的な微笑みを浮かべる。
だが、実際のところはどうだろう。
その誇りの裏で、洗濯物は狭いベランダに干され、錆びついた自転車が軒先を占拠する。
英国紳士が銀のティーポットを磨きながら、実は背広の内ポケットに未払いの請求書を詰め込んでいるのと同じことだ。

さらに面白いのは、京都人が“国際都市”を名乗るときだ。
新幹線の駅前にはガラス張りのホテルが林立し、祇園のカフェでは外国人観光客が抹茶ラテを片手に自撮り棒を振る。
しかし、一歩裏路地へ入れば、看板の電球は半分切れ、スナックでは演歌が流れ、常連は「観光公害」への愚痴を肴に焼酎を啜っている。
グローバルとローカルを同じ舞台に並べるのは、まるでシェイクスピア劇の一幕だ。
舞台の上では国王が高らかに演説し、その背後で道化がこっそり観客にウィンクしている。

観光客にとって、京都は夢の都だ。
祇園の灯籠、嵐山の紅葉、鴨川の流れ。どれも絵葉書にふさわしい。
だが、住民にとっての京都は、極めて現実的で、極めて息苦しい。
観光シーズンのバスは常に満員、道は渋滞、町家の保存は補助金頼み。
住民が「もうたくさんだ」とつぶやきながらも、観光客に微笑みを返すのは、英国の執事が“かしこまりました、旦那様”と答えながら、心の中で給金の安さを呪っているのと大差ない。

要するに、京都とは「二重生活」の町なのだ。
観光客は能舞台の正面で拍手を送り、住民は橋掛かりを渡りながら、裏手で本音を吐く。
観光客がそのギャップに気づかず「また京都に行きたい」と言うとき、京都の勝ちである。
そして、観光客がそのギャップに気づいて「二度と行くか」と言うときも、やはり京都の勝ちである。
なぜなら、どちらにしても「京都」という物語の一部を担わせられたのだから。

京都の美徳とは、したたかさである。
英国が“紳士の国”を演じつつ、実際には泥臭い政治と金融で生き残ってきたように、
京都もまた、千年の都”を演じながら、裏ではしたたかに銭勘定を続けている。
だから私は京都を笑い、同時に敬意を抱く。
皮肉を込めて褒めるのが、紳士の礼儀というものだろう。

褐色

襖の向こうに女がいる。
何人なのか、どこの誰なのか、私は知らない。
名を問うこともなければ、答えを得ようとも思わない。
ただ、そこに人の気配がある、という事実だけが夜を支配している。

呼吸は浅く、時に深く。
布のこすれる音が微かにして、静けさを切り裂く。
それは人間の生を保証するはずの音なのに、
私の耳にはむしろ「交わらない距離」を際立たせるものとして響く。
近いようで遠い。遠いようで近い。
その曖昧さが、孤独をいっそう濃くする。

畳に横たわり、天井を見上げる。
闇の中で、木目は影となり、影は裂け目となる。
そこから夜が滴り落ちるようで、
私はしばしば目を閉じ、耳を澄ませる。
すると、隣室の女の存在は、気配ではなく「圧」として胸にかかる。
まるで誰かがすぐ傍に立っているようで、
しかしその姿を決して見ることはできない。

孤独は、誰もいない時よりも、
誰かが隣にいる時にいっそう輪郭を濃くする。
襖の向こうの女は、私を慰めない。
むしろ私の孤独を鏡のように映し返し、
それを二倍にも三倍にも増幅する。

私は呼吸を整えようとする。
しかし、隣の息づかいと自分の息づかいが微妙にずれる。
合わせようとすれば逃げ、逃げようとすれば重なる。
その小さな不一致に、
「人は決して一つにはなれない」という事実を突きつけられる。

夜が深まるにつれて、襖は厚みを増す。
昼間なら、ただの板切れにすぎないのに、
暗闇の中では、無限に延びる壁のように感じられる。
孤独は建築物となり、
私はその小さな一室に閉じ込められている囚人のようだった。

朝方、女は去った。
気配が薄まり、足音が床に残り、
やがてそれすら消えた。
私は布団に横たわりながら、
彼女が本当にそこにいたのか、夢であったのかを確かめる術を持たない。
残されたのは、湿った畳の匂いと、
「確かに誰かが隣にいたのに、結局は誰もいなかった」という感覚だけだった。

孤独は、光でもなく、闇でもなく、
その中間にある褐色の色を帯びている。
それは朝の前触れのようでもあり、
決して朝を迎えない停滞のようでもあった。
私はその色の中で、自分の小さな存在を確かめ、
誰とも混ざらない自分の声を、
胸の奥で小さく聞き取ろうとした。

孤独とは、誰もいない夜よりも、
むしろ誰かが隣にいる夜に、最も鮮明になる。
私はそのことを知った。
そして知ったまま、再び眠りに落ちていった。

秋の鴨川ほど、心地よい季節はない。
夏の熱気は遠ざかり、冬の冷気はまだ訪れていない。
水面に映る光はやわらかく、風は頬を撫でるたびに、肺の奥まで澄んだ空気を満たしてくれる。
川縁には並んで座る学生たち、散歩する老夫婦、ひとりでギターを抱えた若者。
その光景に混じり、並んで腰を下ろしていた。

ジーナは鞄から缶コーヒーを取り出し、彼の手に押しつける。
トミーは笑って受け取るけれど、その笑みは細く、影を含んでいた。
建設現場での仕事は減り、日雇いの呼び出しも途絶えることが多くなった。
財布の中身は軽く、未来の話をすればするほど、言葉は空気に溶けてしまう。

「大丈夫」
ジーナは言う。
その声は強がりではなく、祈りに近かった。
鴨川の流れに同調させるように、口に出すたび、自分を騙し、自分を縛る。
愛しているから支える。
愛しているから諦めない。
その「愛しさ」が、彼女の時間や夢をひとつずつ壊していく。

けれど秋風の中で、その壊れゆく感覚さえも、甘美に思えた。
紅葉が始まった木々は、緑と赤と黄を混ぜ合わせ、散りゆく前のもっとも美しい姿を見せている。
ジーナは思う——もしかしたら愛も紅葉と同じなのかもしれない、と。
散りゆくことが約束されているからこそ、今が鮮烈で、胸を焦がす。

「ジーナ」
トミーが呼ぶ。
彼の声は少し震えていた。
未来への不安か、それとも自分を求める熱か。
ジーナはただ頷き、彼の手を握る。
指先から伝わる温もりは確かに現実で、
それがたとえ呪いであっても、彼女にとっては祝福だった。

鴨川の流れは途絶えない。
秋の光に揺れる水面を眺めながら、ジーナは思う。
——愛しさがなにかを壊していく。
それでも私は愛してしまう。
この街が変わり続けても、紅葉が散りゆいても、
いまここで彼と生きていることが、すべてなのだ、と。

やがて日が落ち、東山の稜線が朱に染まる。
ジーナの横顔もその光に照らされ、沈黙の中に輝いていた。

ガラ

晩秋。
高瀬川の水面は、風に震えながらもどこか濁っていた。
河岸に積まれた木材の匂いと、石畳に染み付いた魚の臭気が混ざり合い、川沿いの東九条は一日じゅう湿ったような気配を纏っていた。汽車の音が遠くで響き、街は近代と貧困とを同じ呼吸で呑み込んでいた。

その町を震わせる女がいた。
木刀を引きずり、酒の匂いを身にまとい、酔ったまま路地を闊歩する。誰もが嘲りと畏怖を込めて彼女を「ガラ」と呼んだ。

ある夜、橋の下で笑った馬鹿を、ガラは一撃で黙らせた。
腕を打ち砕いた感触が掌から骨髄へ走り、魂を突き抜けた。
酔いは一瞬で裂け、世界は澄み渡った。呻き声、裂けた骨、少年の息を呑む音──すべてが彼女の耳に残響した。

「私は弱い、だから力いっぱい振るえる。だから私は強い。」

そう呟きながら、彼女は高瀬川に視線を落とした。
細く流れる水は、どこまでも柔らかい。
石を削り、木を揺らすが、決して刃のようにはならない。
その柔らかさが、時に人を救い、時に人を押し流す。
彼女の木刀もまた、その川のようだった。

しかし、時代は移ろう。
デモクラシーの声は新聞紙の上で踊り、思想家の舌が街角で響き、労働者の叫びが工場から溢れた。
女の木刀は、いつしかただの酒臭い杖と化し、町を震わせる力を失っていった。酔い潰れて川縁に座り込む女を、人々はもう英雄とは呼ばなかった。

老いの予感は、木刀の重さとして訪れた。
握る指は震え、朝には肩が痛み、振り下ろす力は日に日に鈍った。
高瀬川の水面に映る己の影は、かつて町を震わせた異形の女ではなく、ただの酒に沈んだ老人の貌でしかなかった。

けれど、彼女は手を離さなかった。
木刀を杖にし、足を引きずりながら東九条を歩いた。
川風が吹けば、落ち葉が水面を滑り、柔らかく揺れながら遠くへ流れていった。
人々は彼女を笑ったが、その背中には確かに「覚悟」の重みが残っていた。

「私は弱い」
──老いた唇がまたそう呟く。
だがその言葉のあとに続くのは、もはや力の誇示ではない。
「だからこそ、まだ歩ける。だからこそ、まだ生きている。」

東九条の冬は近い。
高瀬川は相変わらず柔らかく流れ、彼女の木刀はその音を杖先に響かせていた。
町を震わせた女はもういない。
だが「柔らかい刃」は、老いを抱いたまま、この町のどこかで今も歩いている。

スカボロウフェア

また失恋した。
胸の奥が空洞になったようで、歩くたびに自分の体がきしむのが分かる。
理由は、毎回同じではない。
けれど結末だけはいつも同じだ。
相手が去り、僕だけが取り残される。
人ごみに紛れても、机に突っ伏しても、心の穴は埋まらない。
だから僕は東山界隈を歩いていた。

あの子へのプレゼントを探すつもりで出かけた。
けれど渡す相手はいなくなった。
それでも、まだ探したい気がした。
「誰かに贈るはずだったもの」を。
贈れなくてもいい、ただそこに存在するだけで心に触れる何かを。

気づけば、道具屋の格子戸を押していた。

中は薄暗く、立ち込めた埃の匂いが鼻をくすぐった。
棚には削れた鉋、歯の折れた鋸、煤で黒ずんだ徳利。
木箱には帳面が束ねられたまま眠り、字の滲みからは書き手の汗と生活の重さが匂うようだった。
奥の隅には壊れた蓄音機のラッパが、開いた口を閉じられないまま置かれている。
錆びたトランペットは横たわり、もう誰も吹くことはないと諦めたように沈黙していた。

誰がどう見ても、役に立たない物ばかりだ。
だが、僕は思った。

──誰かに役立つ何かが、ここにはまだあるのかもしれない。

その直感は、胸の奥に突然落ちてきて、ビンと響いた。
それは、まるで忘れていた旋律に触れたような衝撃だった。
錆びや欠けを抱えたまま、なおそこに留まり続けるものたち。
役目を終えても、次の誰かの手に渡れば、また別の命を帯びるのではないか。
欠けた鍋の蓋は鉢植えの皿になり、折れた鋸は壁飾りになるかもしれない。
過去からこぼれ落ちたものが、未来にもう一度繋がる。
そう思うだけで、胸の内に小さな炎が灯った。

僕は弱い。
だからこうした場所に救われる。
弱さを抱えたものたちが、弱さゆえに再び誰かを支える姿を想像すると、涙が込み上げた。
新品にはない傷や煤、誰かの時間の痕跡を背負いながらも、「まだ役立てる」と主張する存在。
それが僕自身と重なった。
失恋を繰り返す僕も、まだ誰かにとっての何かになれるかもしれない。

外に出れば、東山の風が川面を撫でていた。
高瀬川には落ち葉が浮かび、柔らかく揺れながら遠くへ運ばれていく。
石垣の影には水のきらめきがゆらぎ、行き交う人々の声が混じり合う。
失恋の痛みも、落ち葉のように流されていくのだろうか。
いや、完全には流されない。
沈殿しながらも、川底に堆積して形を変えていく。
その堆積がやがて肥やしになり、また何かを育てる。

「プレゼントを探しに来たのにな……」
小さく呟いて、自分で笑った。
もう渡す相手はいないのに、まだ「贈り物」を探している自分がおかしかった。

だが足は自然と店の奥へ戻っていた。
木箱の隅に、小さな玩具があった。
錆びたぜんまいを回せば、もしかするとまだ歩けるかもしれない。
それを手に取ると、心の奥に温かいものが広がった。
壊れかけていても、完全には死んでいない。
その姿が、僕の心をそのまま映していた。

道具屋を出ると、夜風が頬を撫でた。
川沿いの灯が水面に揺れ、通りの人影が長く伸びていた。
東山界隈の夜は、いつもより柔らかく呼吸しているように感じた。
あの子にはもう渡せない。
けれど、この町と僕の中には、まだ「役立つもの」が生きている。

失恋は、また繰り返すだろう。
けれど、ビンときた感覚だけは確かに残る。
それは静かな残響となって、川面の間に漂っていた。

川は、その気配を包み込み、ひっそりと夜を深めていった。

サウンド・オブ・サイレンス

また失恋したと、あの人は言うのだろう。
でもそれは間違いだ。失恋じゃない。
私が切り捨てただけだ。
それを「失恋」と呼ぶのは、彼の最後の防御だ。
被害者のふりをするための小道具。
哀れみを誘って、自分の惨めさを芸術に変えようとする、その常套手段。

弱い。
そう繰り返す。
でもそれは本当の弱さじゃない。
ただの怠惰。
意志の放棄。
「僕は弱い」と言えば誰かが慰めてくれると信じている。
「僕は弱い」と言えば責任から逃れられると知っている。
その言葉は、彼にとって武器だった。
盾であり、甘い毒だった。

最初はそれも愛嬌に見えた。
不器用なところが人間らしくて、可笑しくて、放っておけなかった。
でも次第に、その弱さの演技の裏に、醜い怠惰と自己愛が透けて見えてきた。
弱さを掲げることで、人を縛ろうとする支配欲。
あの人は「弱者」という仮面をかぶった加害者だった。

夜更け、机に突っ伏して眠る姿を何度も見た。
酒を飲んだわけでもないのに、すべてを放り投げて寝入る。
その顔には「心配してほしい」と大きく書いてある。
私は最初、毛布を掛けてやった。
二度目もそうした。
でも三度目には、掛ける気も失せた。
眠っているのではない。あれは演じていた。
「放っておけない僕」を演じて、私の時間と心を奪っていた。

彼はよく「自分は空洞だ」と言った。
違う。
空洞ではなかった。
ただ腐っていた。
空洞はまだ何かを受け入れられる。
でも彼はもう何も受け入れられない。
濁った水たまりのように停滞して、ただ臭気を放っていた。
そこに触れる者は皆、汚れるだけ。
彼の「弱さ」とは、つまり他人を汚す力のことだった。

今もどこかで詩のように「失恋」を語っているのだろう。
落ち葉を川に重ね、「沈んでも肥やしになる」なんて言葉を紡いでいるかもしれない。
でも現実は違う。
落ち葉は腐る。
黒く溶け、川底で泥になる。
肥やしにはならない。
ただ濁流を淀ませ、人の足を汚す。
それが彼の存在のすべてだ。

人は役に立たなくなれば、ただの負担になる。
物なら燃やされる。人なら避けられる。
誰もそこに詩を見出さない。
「町に溶ける」「残響になる」──そう言えば響きはいい。
でも実際には、ただの汚れだ。
石畳に立とうと、川を眺めようと、そこにあるのは孤独な影だけ。
彼が消えても、町は何も変わらない。
いや、むしろ清浄になる。
腐臭がひとつ減るのだから。

だから私は去った。
情けも愛も、腐る前に切り落とすしかなかった。
哀れみで延命させてしまえば、私まで同じ濁りに沈む。
あの人はもう「人間」ではなかった。
ただ腐敗を撒き散らす装置だった。
私はようやく、その事実を認めただけだ。

それでも彼は言うだろう。
「僕は弱い」
「また失恋した」
その言葉を繰り返しながら、自分の腐敗をまだ誰かに抱え込ませようとする。

けれど現実はただ一つ。

──もう誰も、彼には振り向かない。
──いや、振り向いた者から順に、確実に離れていくだろう。
腐敗を前にして、笑顔で留まれる者などいないのだから。

あいにくの雨で

土曜日。
朝から空を見上げてばかりいた。
厚い雲が西本願寺の屋根の向こうに広がり、時折、重たい影が流れていく。
天気予報では午後から雨。
何度スマホを見ても結果は変わらず、祭りの準備をする町内の人たちの顔にも、わずかな不安がにじんでいた。

それでも僕らは広場にテントを張り、大鍋を据え、ガスの火を灯した。
立ちのぼる湯気に混じって、異国の香りが漂いはじめる。
ガランガルの鮮やかな芳香、唐辛子の鋭い赤、ココナッツミルクのやわらかな甘さ。
その匂いは、濡れた地面を乾かすように強く、曇天の下でかすかな灯りのように広がっていった。

僕は裏方として、皿やスプーンを並べ、追加の材料をチェックする。
空模様が気になって何度も顔を上げる。
雲は低く垂れこめ、風は湿り気を帯びていた。
「降らないでほしい」と願いながら、心のどこかで「きっと降る」と覚悟していた。

やがて広場に人の流れができはじめた。
町内のおじいさんおばあさんが、杖を手に傘を差しながらやってくる。
おそるおそる皿を受け取り、一口食べて顔をほころばせる。
「美味しいわぁ」
その声は、鍋をかき混ぜる手に熱を伝え、僕の胸にも沁みこんできた。

ゲームコーナーから子どもたちが列に加わる。
一口食べては水を求め、舌を出して「辛い!」と笑う。
けれどその後に必ず「でも美味しい!」と声を張り上げる。
小さな額ににじむ汗が、スパイスの熱を何よりも雄弁に物語っていた。

町内の壮年の男性が、腕を組んでこちらを眺めながらぽつりと言う。
「まあまあやな」
その一言は、何より重かった。
町とホテルを隔てていた壁が、静かに、しかし確かに揺らぎはじめた気がした。

その時だった。
空から最初の雨粒が落ちてきた。
テントの屋根に音が広がり、やがて一定のリズムを刻みはじめる。
あいにくの雨。
誰もがそう思っただろう。
けれど、その音に合わせるように笑い声が大きくなり、傘を差しながらカレーを食べる人々の姿は、むしろいきいきとして見えた。

雨は分断を洗い流した。
濡れた石畳の上で、観光と生活の境界は曖昧になり、ただ人と人が同じ場所に集っていた。
湯気は雨粒に打たれてかすみ、それでも香りは強く広がり続けた。
大きな箱の中に閉じ込められていた人々は、もうそこにはいなかった。
鍋をかき混ぜ、声を張り、町の人と笑い合う仲間としてそこに立っていた。
この一瞬だけ、ただそう思いたい。
この街では幻想は意味を持たない。
だからこそ“一瞬の交わり”が美しい。

僕は裏方として、濡れた皿を拭き、鍋の補給を繰り返していた。
直接「ありがとう」と声をかけられることはない。
けれど耳に届く言葉のひとつひとつが、僕にとっても確かな温度となって胸に残った。
雨に濡れた笑顔、汗をにじませた子どもの顔。
その温もりが、スパイスの熱よりも深く、僕の心を震わせた。

人格は日常。
箱で分断されている。
だけど、あいにくの雨で――いま、ここで溶け合った。

テントの隅で皿を運びながら、僕はその人の温度をかみしめていた。
それは涙に似た熱となって、雨と一緒に頬を濡らしていた。

感動の税率

 あの日、東福寺に行こうとしていた。
 修学旅行の自由行動の日。
 地図を見ながら京阪電車に乗ったけれど、
 特急が東福寺には止まらないことを知らなかった。

 気づいた時には、車内のアナウンスがもう過ぎていて、
 降りるべき駅の名前が遠ざかっていった。
 友達と顔を見合わせて笑って、
 結局、次の七条京阪で降りた。
 十一月の風が冷たかった。
 線路沿いを東福寺の方向に歩いていくと、
 車の音と、焼けた醤油の匂いがした。

 ──その時、見つけたのが「なか卯」だった。

 宮城にはなかった店。
 看板の文字を見ても読み方が分からなくて、
 「なかう?」「なかうさぎ?」「うなか?」と笑いながら歩いた。
 赤い光が夕暮れの中にぼんやり滲んでいて、
 自動ドアの隙間から湯気が逃げていた。

 中に入ると、出汁の香りがした。
 旅の途中の、知らない街の、知らない匂い。
 わたしは親子丼を頼んだ。
 湯気の向こうで卵がふるえて、
 鶏肉が出汁に沈んでいた。
 スプーンを入れた瞬間、卵がとろけて、
 口に入れると少し甘くて、
 体の奥がじんわりと熱くなった。

 「うまい!!!」
 声が出た。
 ほんとうに出た。
 友達が笑ったけど、それでも止められなかった。
 たった三百円のどんぶりが、
 世界でいちばん確かな幸福だった。

 ──あの夜、感動にはまだ税がかからなかった。
 比較も、値段も、撮影もない。
 ただ、口の中で世界がひらく音を聴いていた。

 それから十数年が経って、
 いま私は京都で暮らしている。
 三条から丹波橋、朝の通勤で七条京阪を通るたびに、
 ときどきあの道を思い出す。
 同じ場所に、まだ「なか卯」はある。
 看板も新しくなって、
 綺麗になったけれど、
 あのときの湯気の匂いは、風の中にまだ少し残っている。

 今はもう、「うまい!!!」とは思わない。
 考えるほうが先に立つ。
 「この値段で、この味なら悪くない」
 「チェーンの割にはおいしいよね」
 そうやって感動を割り算して、
 頭の中で支払いを済ませてしまう。

 きっとこれが、大人になるということ。
 感動にも、いつの間にか税がかかる。
 驚くことにさえ、免許がいる。
 でも、たまにあの道を通ると、
 七条の風の中から、昔の自分の声が聞こえる気がする。

 “うまい!!!”
 あのときの私が、まだ湯気の中で叫んでいる。
 あの声が、私を生かしている気がする。

 だから今日も、
 感動の税を払えるうちは、生きていていいと思う。

東山界隈 ―妄想煉獄―

東山界隈 ―妄想煉獄―

京都東山を中心に…交わらない視線と妄想を。 京都/鴨川/東山/感情小説/静かな話/湿度/孤独

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-23

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 夏に咲く百合
  2. 秋のダリア
  3. 冬に咲く
  4. ショータイム
  5. メイルシュトロームの彼方に
  6. ロードオーシュ
  7. 土蜘蛛
  8. ガヴァージュ
  9. 斜視
  10. 黒羽に触れず
  11. 正面橋
  12. イコマハジメ
  13. スーパーミント
  14. 離脱
  15. 海面のドリフター
  16. 深海のアングラー
  17. カルピス
  18. 黄色い老犬
  19. 誰が為に鐘は鳴る
  20. 我谷は緑なりき
  21. 京都タワー
  22. プライドオブサイレンス
  23. 二重身
  24. 社会生活の流刑地にて
  25. 擬態
  26. 去勢
  27. 遠き落日
  28. ブラックウッド卿のスピーチ
  29. 黒木旦那の挨拶
  30. スタンド・バイ・ミー
  31. 恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから
  32. セクストン
  33. ペルセポネ
  34. レンゲソウ
  35. バイスティック
  36. 祇園会館
  37. インプロ
  38. 九十九里
  39. 残響
  40. 思えば遠くへ来たもんだ
  41. でかいウルトラマン
  42. リリー
  43. ライジングヘル
  44. キャバーン
  45. 辻斬られる
  46. 棚卸
  47. カレピー
  48. タイムアフタータイム
  49. スティング
  50. 自画像
  51. ムリーリョ
  52. ぶらんこ
  53. ムンク
  54. 爪と金髪と
  55. ツンドラ
  56. マンインザミラー
  57. 夢1
  58. 夢2
  59. 夢3
  60. 夢4
  61. 痛み
  62. スケアクロウ
  63. チャレンジャー号
  64. シニガミ
  65. キマイラ
  66. ブラックウッド
  67. 褐色
  68. ガラ
  69. スカボロウフェア
  70. サウンド・オブ・サイレンス
  71. あいにくの雨で
  72. 感動の税率