
東山界隈 ―妄想煉獄―
夏に咲く百合
晩夏の京都は、熱を逃がしきれずにいた。
日中に焼けた石畳が夜になっても呼吸をつづけ、鴨川の水面をわずかに揺らす風さえも、どこか湿って重たい。
祇園祭の賑わいは過ぎ去ったのに、まだ赤い提灯がいくつか残っていて、まるで消し忘れた記憶のように宙を照らしていた。
西木屋町、その小さなバーは、町家を改装したと聞く。
引き戸を開けると、板の間の冷えと、甘く焦げたような木の匂いがした。
奥まった席に、その男はいる。いつも同じ姿勢で、同じ席に。
かつて「悪い人」と噂された彼は、もう喧嘩も騒ぎも起こさない。
ただ片隅に腰をかけ、酒をひと口ずつ含みながら、黙って時を過ごしている。
誰に頼まれるでもなく、金も受け取らず、それでも用心棒のようにそこにいるだけで、店は不思議と落ち着いていた。
彼の隣に女がいた。
西陣で織りの修業をしていたが、肺を痛めて工房を離れたという。
糸を織るときの粉塵が、体を少しずつ蝕んだのだろう。
白い指先にはまだ繊維の痕がかすかに残っている。
咳をするたびに胸を押さえ、顔を伏せる。けれど、横顔にはいつも淡い笑みが浮かんでいた。
それは誰にも理解されない強さのようで、同時に儚さの印のようでもあった。
二人はほとんど言葉を交わさなかった。
ただ並んで座っているだけで、深い糸で結ばれていることが伝わってきた。
その糸は、私には見えない。
けれど、確かにそこにあるのだと信じざるを得なかった。
私はその光景を眺めるしかなかった。
理解できない愛が目の前にあった。
それは私の中に、裂け目のような寂しさを生み出した。
風に揺れる提灯の赤は、まるでその寂しさを照らし出すために灯っているかのようで、私は目を逸らすことができなかった。
秋のダリア
秋が深まり、西本願寺の大銀杏が黄金に燃え上がる頃、
京都の町は一瞬だけ明るさを取り戻す。
だが、その眩しさが消えるとき、町家の中は急に冷え込み、風は骨に沁みるほど冷たくなった。
彼女はもう工房に戻ることはなかった。
かつては朝から晩まで響いていた機の音──「ギイ、トン、ギイ、トン」という一定の律動は止み、
西陣の町家にただ静けさが沈んでいた。
糸を織ることができなくなった彼女の指先は、白く痩せて、微かな痕跡だけを残していた。
男は、そんな彼女のそばを離れなかった。
昼も夜も、傍らに座り、酒をゆっくりと口に含む。
誰に語るでもなく、嘆くでもなく、ただ沈黙を守り続けていた。
その沈黙は、かつての荒々しさを裏返したかのように、重く、揺るぎなかった。
町には噂が絶えなかった。
「かつては恐れられた男が、病の女に縛られている」
「哀れなことだ」「いい気味だ」──人は好き勝手に言う。
けれど、その座敷の中に漂う気配は、哀れなどではなかった。
二人だけの世界の中で、愛は密やかに燃え続けていたのだ。
私は、外からその光景を見守るしかなかった。
何もできない。
言葉をかけることも、近づくこともできない。
ただ、心の奥で確かに疼く感覚があった。
愛は確かにそこにあった。
しかし、愛はどこへも行けなかった。
私には言葉しかない。
言葉だけが、この二人を繋いでいた証を残すのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
晩秋の風が落葉をさらい、街を黄金色に覆い尽くす。
その絨毯の上を歩きながら、私はただ、裂けるような寂しさを抱えていた。
冬に咲く
大晦日の夜、京都は雪に覆われていた。
知恩院から鳴り響く除夜の鐘が、ひとつ、またひとつと闇を震わせる。
川風に舞う粉雪は提灯の明かりをかすかに反射し、鴨川は白い靄のように揺れていた。
女はすでに息を引き取っていた。
工房に戻ることもなく、布を織りあげることもなく、最後の糸を断ち切られるようにして。
彼女の笑みは記憶の中にしか残っていない。
男は、その夜、鴨川の川べりに立っていた。
片手に酒瓶を持ち、雪を浴びながら、ただ黙って流れを見つめている。
誰も近づけない気配。
その背中は、町を荒らした昔の「悪い男」ではなく、狼のように孤高な影であった。
私は少し離れた場所から、その姿を見つめていた。
声をかけることもできない。
近づけば、その沈黙を壊してしまう気がした。
彼が守り抜いた誇りが、雪の中でゆっくりと凍りついていく。
やがて鐘の音が百八つに近づく頃、彼は酒を最後のひと口、喉に流し込んだ。
白い息が闇に溶ける。
そして、川の向こうに姿を消した。
狼のように、誇りを失わないまま。
私はただ、見届けるしかなかった。
胸の奥に裂けるような寂しさを残しながら。
言葉しか持たない私にできるのは、今ここに刻むことだけだ。
愛はどこへも行かなかった。
確かに、ここにあったのだ。
雪の夜に沈黙する誇りとともに。
ショータイム
与圧された機内は、あまりにも静かだ。
高高度を巡航するこの巨体は、まるで一つの空飛ぶ都市のようで、
分厚い座席に沈む俺は、眼下で何が起きているのかを忘れてしまうほどだ。
機内の気温は一定に保たれ、仲間の笑い声がインターホン越しに行き交う。
コーヒーをすするやつ、無線の雑音に肩をすくめるやつ、
誰もがどこかで「ここは安全だ」と思い込んでいる。
俺もそうだ。この与えられた快適さが、思考を鈍らせる。
窓の外には、白くたなびく雲海が広がる。
その下にあるはずの街、京都、馬町。
俺は地図でその名前を知っているが、そこに住む人々の顔を知ることはない。
知らないからこそ、ためらいは薄い。
「目標は都市の一部であり、敵の軍需を支える場所だ」と。
嘘だ。
任務を正当化する言葉を何度も自分に刻んできた。
だが時折、疑いが顔を出す。
――俺は本当に、何をしているのだろう。
家を焼き、子どもを泣かせ、街を灰に変えるために、
ここまで飛んできたのか?
その疑問が喉の奥に詰まるたび、
快適な空気が逆に重く感じられる。
だが疑惑に沈み続けることは許されない。
現状維持の重力が、俺を元の座席に押し戻す。
ここで疑うことは、命令を拒むことと同義だ。
疑念は燃料タンクに沈む沈殿物のように、
かき混ぜれば爆発の種になる。
だから俺は、疑いを心の底に封じ、
任務を遂行するしかないのだ。
その時。
空を切り裂くように、
鋭い閃光が突き上がってきた。
視界をかすめたその姿に、俺の全身が凍りつく。
秋水。
名前は聞いたことがある。
あいつらが最後に繰り出した切り札。
だが、今見たものは、兵器というより生物の断末魔だった。
あれは血を吐く鳥だ。
機体を裂いて推進剤を燃やし尽くし、
内部を犠牲にしながら、ただ一撃のために駆け上がってくる。
その動きは直線的で、刹那的で、
それでいて恐ろしいほど純粋だった。
俺は銃座を握りしめる。
だが、照準に入ったその影を見ながら、胸の奥で声がする。
――これは本当に敵なのか?
あれは自分の命そのものを爆ぜさせ、
俺たちの「快適さ」を引き裂こうとしている。
それは敵機というより、
人間の絶望と執念がかたちを持った炎に見えた。
思えば、いま身を置くこのBは、
あまりにも快適で、あまりにも正常すぎる。
ここで過ごす時間は、まるで戦争などないかのように流れていく。
だが、アイツは違う。
血を吐きながら、存在の全てを賭けて制空している。
あれが「戦争の真実」ではないのか。
銃座のトリガーを引く指が震える。
撃たなければ死ぬ。
任務を果たすには撃つしかない。
けれど、照準器の向こうにいるものを撃つことは、
俺自身の心の奥で何かを撃ち抜くことでもあった。
ああ、ごめん。
俺はおそらく、この先もこの疑惑と共に生きるのだろう。
快適さに守られたまま都市を焼き払い、
それでも「俺は任務を遂行した」と言い聞かせて。
だが忘れない。
血を吐きながら駆け上がり、
この空を、そして俺の存在を揺らした瞬間を。
それは美しく、恐ろしく、そして確かに――
生きて帰れたら、俺は二度と飛行機には乗らない。
メイルシュトロームの彼方に
京橋の飲み屋街。
赤提灯の下に漂う安酒の匂い。
皿にこびりついた焼き鳥のタレは黒光りしていて、隣の席の男が吐くような笑い声が、俺の耳の奥でいつまでも反響してやまない。
ここにいる連中はみんな無邪気な顔をして飲んでやがる。
だが俺には見えるんだ。
──奴らの背中に貼り付いた影が。
あれは「興味」ってやつの化けの皮だ。
興味は感情じゃない。
あんな甘ったるいもんじゃない。もっと深く、もっと粘ついて、俺たちの首筋に囁きかけてくる衝動だ。
「覗け」「触れろ」「もっと知れ」──そう命じてくる。
そして気がついたら、俺たちは火に手を伸ばし、腐った草を噛み、夜空を追いかけてしまう。
わかってる。興味があったからこそ人間は進歩した。
火を盗み、星を追い、薬を見つけ、鉄を打った。
だが同時に核を撒き散らし、毒をばらまき、己の首を絞めてきた。
恩恵? ああ、恩恵だ。だが俺は疑っている。
もしかすると──興味こそが最大の罠なんじゃないか、と。
ほら、嫌悪ってやつはわかりやすい。
腐った臭いに吐き気を覚える。爛れた肉に目を背ける。
避けろ、逃げろ、それで助かる。
これは正直なセンサーだ。
だが興味は違う。あれは「進め」と囁くが、実際は落とし穴の底に誘っているんじゃないか?
利益誘導? 笑わせる。あれは利益じゃない、ただの賭けだ。
この街だってそうだ。京橋。
時代の残り香が腐ったように充満してる。
古いポスターが壁に貼られたまま、剥がれることもなく。
一見すれば懐かしい温もり? いや、違う。これは興味を餌にした檻だ。
酔っ払いどもは「昔ながらだ」と喜んで飲んでる。
だが実際は──もうずっと同じ匂いに絡め取られて、身動きが取れなくなってるんだ。
俺は疑う。
進歩と呼ばれるものの全部が、興味に操られた虚像じゃないかと。
もし人間に興味がなければ、縄文の火を囲んでただけで、何万年も平和に生きられたんじゃないかと。
進歩と呼ばれるものは、本当に恩恵だったのか?
──いや、わからない。もしかすると俺の頭の中で、興味そのものが「恩恵だ」と刷り込んでるのかもしれない。
飲み屋の奥でテレビが鳴ってる。安いバラエティの笑い声が壁に反響して、俺の神経を削ぐ。
隣の客は、缶チューハイ以下の酒を「うまい」と言って笑っている。
俺には笑えない。
笑うってことは、興味に身を明け渡した証拠だ。
──頼む、もう囁くな。
「もっと知れ」「もっと進め」
それ以上言うな。
俺はもう、十分すぎるほど知ってしまった。
カウンターに残った焼酎のコップを睨みながら、俺は呟く。
「興味なんざ、恩恵でも衝動でもない。俺たちに仕込まれた、最大の罠だ」
ああ、飲みすぎだな。
ロードオーシュ
私はシモーヌだ。
衝動で歩き、欲しいものは手に入れ、興味のないものは見向きもしない。
そうやってこの街の中を、少し高い場所から眺めるように生きてきた。
でも今の私は、もう完全なシモーヌではない。
昨日、クローゼットの中で死んだマルセルが、今日の私に取り憑いている。
小さくて、臆病で、無垢なマルセル。
彼女は、暗く狭い場所で膝を抱えたまま、音のない水面みたいに静かになった。
その最後の温度が、私の胸の奥に沈んでいる。
息をすれば、その冷たさが肺の内側に触れる。
午後、本町を歩いていたら、奇妙な人だかりに出くわした。
商店街の真ん中に、花で囲まれた粗末な棺が置かれ、その中には野犬が横たわっていた。
首には赤い布が巻かれ、足元には誰かが置いた骨付き肉。
僧衣を着た男が、ゆっくりと読経をしている。
私は最初、それを面白半分に覗き込もうとした。
だけど、マルセルが私の中で立ち止まり、
「ちゃんと見て」とでも言うように、その光景を正面から見据えた。
犬の毛はもう風になびかず、瞳は閉じられている。
それでも、棺の周りに集まった人たちは、
まるで家族を送るような顔をしていた。
私の視界の端で、マルセルの眼差しがじっとそれを見つめている。
奔放な私には理解しづらい静けさと、
無垢な彼女だけが知っている悲しみの形。
帰り道、石畳に積もった葉を蹴り飛ばしたとき、
赤茶色の水が跳ねてスカートの裾を濡らした。
いつもの私なら笑って歩き続けるところだ。
けれどマルセルが、その色を犬の毛並みの色と重ねた。
すると足が止まり、胸の奥で、
何かが静かに沈んでいく感覚が広がった。
夜、部屋に戻ると、クローゼットの扉がわずかに開いている。
そこは彼女が去った場所であり、
私の中の彼女が生まれた場所だ。
暗闇の奥からマルセルが私を見ている。
その視線は、昼間の野犬を送る人々の目とよく似ていた。
束縛ではない。
けれど私の衝動を、ほんの少し鈍らせ、
笑いを少しだけ遅らせる。
秋は、この二人を同じ温度に近づける季節だ。
冷たい風が私の奔放を研ぎ澄まし、
マルセルの無垢をさらに透明にする。
やがて私たちは混ざり合い、
奔放な生に、無垢な死が完全に沈殿する日が来る。
その日、笑いはもう高く響かず、
代わりに低く長い余韻だけを残すだろう。
土蜘蛛
――京都スマートモビリティ推進局・非公開記録より
会議室の窓の向こうに、比叡の山並みが淡く霞んでいる。
ガラス越しに見えるそれは、まるで千年の時間を濾した風景のようだった。
私は腕を組み、無言でディスプレイを見つめていた。
映し出されているのは、アシダカグモのように無数の脚で地面を歩く“なにか”――いや、確かにそれは乗り物だった。
御神輿のような構造体を中央に担ぎ、脚が歩を進めるたびに振動を吸収し、静かに、どこか雅に進んでゆく。
「……また“脚”かい」
呆れたように言った。「これ、君の“おみこしバス”の、何番目の試作だ?」
向かいの若者は、緊張を押し隠すように一礼した。
その手には、まだ温もりの残る紙のメモ帳が握られている。
「バージョン23です。ですがこれは“バス”ではありません」
彼の声は熱を帯びていた。
「人を乗せて“歩く”、都市そのものの足です」
私は目を細め、思わず鼻で笑った。
「わかってる。構造も思想も、君の説明は完璧だ。理屈としてはな。」
若者は目を逸らさなかった。
「理屈以上です。リニアや空中モノレールが速くて便利なのは当然です。でも――
彼らは風景を“断ち切る”」
「私がやりたいのは、風景と同じテンポで進む移動体なんです。
五条坂を登る老夫婦の、あの歩幅と。」
私は口元を引き結び、静かに言った。
「……君、東山の人間だろう?」
お互いの目が揺れた。
それは質問ではなかった。記憶の糸を結ぶ、確認だった。
「そうです。今熊野の出です」
彼はゆっくり頷いた。
「坂のある町は、歩く速度が心の速度になります。
石畳に鳴るのは、ただの足音じゃない。町の記憶を踏みしめる音です。」
私は目を伏せたまま、しばらく沈黙していた。
私もまた、古い通りの空気を知っている人間だった。
「……けれど、現実の話をしよう」
「今回の案件には、ドバイのスカイモノレール企業と、
西海岸のスタートアップが絡んでる。
歩くマシン?“ノスタルジーの無駄”って笑われるさ。資金が降りない」
若い技師は一歩前に出た。
迷いはなかった。
「それでも“足のある公共交通”を見せます。
町を担ぐ神輿のように、人を背負って歩くモビリティを。
千年都市に、もう一度“歩幅”を取り戻すために。」
――若い。無鉄砲だ。けれど、正しかった。
椅子に背を預け、息を吐いた。
「……市長が言ってたよ。『京都は過去の都市じゃなく“未来の原型”になれる』ってな」
「いいだろう。四条通での試作を許可する。
市民が拍手したら、その時は……スポンサー抜きで通してやる」
お互い、わずかに微笑んだ。
「ありがとうございます。
足音の似合う都市に、ふさわしい足をつくります。」
その日、京都の空は曇っていた。
だが若い技師の眼差しには、はっきりと道が見えていた――
石畳に残る、都市の未来の足跡をなぞるように。
ガヴァージュ
──奥が焼けただれている。
だけど、それでも私は眼球を閉じられない。
光の文字が管のように差し込まれ、流し込まれる。
画面から零れ落ちる言葉のひとつひとつが、熱を帯びた液体となって私の中へ沈んでいく。
甘くもなく、苦くもなく、ただ化学的な熱。
脳の壁を焼くその感覚は、じわじわと内側を蝕む毒でしかない。
前頭葉は、すでに風船だ。
膨張しすぎて、クモ膜がきしむ音が自分の耳に聞こえる。
胃酸の匂いが血流に流れ込み、鉄錆のような味を漂わせる。
でもまだ、情報は止まらない。
スクロールする指が、まるで私の意思を裏切っているみたいに勝手に動き続ける。
「やめろ」と命じても、筋肉は言うことをきかない。
私は囚われた。
自分の手に。
自分の視覚に。
自分という檻に。
──そして、眼だ。
この眼が、膨れ上がっていく。
最初はただの乾きだった。
瞬きを忘れたせいでレンズが荒れて、ひりつくだけだった。
それがいつのまにか、眼球そのものが肥大していく。
内圧に耐えきれず、眼窩の中で膨張を続ける。
白目は脂肪のように濁り、黄ばんだフォアグラの質感を帯びる。
眼の奥から肉が盛り上がり、視神経は弦のようにぴんと張り詰め、ひとつの音を軋ませ続ける。
「見ろ」「見続けろ」──そう鳴っている。
私は分かっている。
これは異常だ。
これは病だ。
まるでトラホーム、腐蝕の名を思い出す。
まぶたの裏で、細菌の様に野蛮で微小な私が祝祭をあげている。
顕微鏡の下でしか見えない地獄を、私は自分の体の奥で感じている。
痒み、痛み、滲出液。
視界はどんどん濁っていくのに、やめられない。
私はまだ飲み込む。
まだ吸収する。
──「私は騙されない」
そう呟くたびに、笑いが込み上げる。
なぜなら、もうとっくに騙されているから。
自分の舌で確認する前に、情報は胃の奥に沈んでしまう。
味わう暇なんかない。
判断する暇もない。
私はただの飼育された猿。
太らせるためだけに喉を拡げられた存在。
あの映像の中で悲鳴をあげていたガチョウと、何も変わらない。
愛してほしい。
憎んでもいい。
ただ、私の内臓を誰かに抱きしめてほしい。
膨れすぎて苦しい眼球を撫でてほしい。
「もう大丈夫、眠っていい」と囁いてほしい。
麻酔してほしい。
この光の拷問を一瞬でも止めてほしい。
……でも誰も来ない。
だから私はまた指を動かし、スクロールする。
光が流れ込み、眼球が肥大していく。
視界は涙とも膿ともつかぬ液体で曇り、やがて世界はぼやける。
それでも私は飲み込む。
私はやめられない。
私は生きている限り、この情報ガヴァージュに口を開き続ける。
──どうか。
せめて夢の中でだけでも、誰か私を愛で麻酔して。
フォアグラと化した眼の奥で、最後の光が静かに溶けていくその瞬間まで。
斜視
クローゼットの扉を開けたまま、私はしばらく動けずにいた。
夏と秋の境目、湿気を孕んだ京都の夜。
古い鏡台の前に立つと、裸電球の下で自分の顔がぼんやりと浮かんでいる。
アプリで約束した明日の夜、私は円町駅で彼に会う。
黒髪で線の細い美少年。
写真で見たときから、現実の輪郭をしていないように思えた。
肌は白磁のようで、頬の陰影は削ぎ落とされ、顎は彫像の稜線。
人間というより、舞台の上に立たされた仮面のようだった。
私は恋愛が欲しい。
彼は──。
年齢の乖離を、服で少しでも埋めたい。
白いブラウスを取り出す。
柔らかい綿、襟がわずかに開き、胸元を清楚に見せる。
だが、あまりに「無難」で、すぐに畳の上に投げ出した。
黒髪の彼と並んだら、私はただの「背景」になるだろう。
次に手に取ったのは、ベージュのロングスカート。
軽く広がる裾。腰回りのラインは控えめに出る。
けれど合わせ鏡に立ってみると、落ち着きすぎていた。
「お見合い」みたいに見える。
雑踏には、沈んでしまう。
押し入れの隅から黒いワンピースを引きずり出す。
二年前、友人の結婚式の二次会に一度だけ着たもの。
肩口に控えめなフリル。
布地は光を吸うマットな黒で、ラインはすらりと長い。
鏡に映った自分は、少しだけ輪郭が細く見えた。
──これなら、彼と並んでも「人間」として溶け込めるかもしれない。
靴箱を開ける。
エナメルのヒールは虚勢に見える。
スニーカーは砕けすぎている。
選んだのは、低めの黒いパンプス。
アスファルトに控えめな音を刻む程度の存在感。
歩幅を合わせるために、ちょうどいい。
最後に耳元。
小さなシルバーのピアス。
鈍い光で、黒髪の彼に映えるかもしれない。
だが、鏡の中の私は自分の視線を避けていた。
「彼はきっと、私を見ない」
予感はすでに胸に根を下ろしていた。
夜。
円町駅前のロータリーは排気ガスが白く溶け、焼き鳥屋の煙と混じり合う。
学生の笑い声、信号を渡る人のざわめき。
その人波の中で、彼は立っていた。
いた。
黒髪は風に揺れ、頬の線は夜の光を切り取る。
薄いスウェットに細身のスラックス。
無印かユニクロか、どこにでもある服のはずなのに、彼が着ると異様に映えた。
線の細さと衣服の余白が、彼の存在をいっそう不安定に見せていた。
「こんばんは」
彼は小さく会釈をした。
声は低く、膜の向こうから聞こえるように柔らかい。
だがその黒目は、私を見ていなかった。
わずかに逸れ、私の“横”を見て、ふっと頬を緩めた。
その笑みは、私に向けられたものではない。
私の肩口に立つ“何か”に、確かに向けられていた。
私は話題を投げかけ続けた。
好きな食べ物、音楽、学生時代のこと。
返事はいつも短い。
「うん」
「そうだね」
「まあ」
会話は空白ばかりなのに、沈黙はなぜか澄んでいる。
だが私は知っている。
彼が微笑むのは、私の言葉のときではない。
彼の斜視がわずかに解ける瞬間だけ。
──その先に誰かがいる。
「何を見ているの?」
我慢できずに問いかけた。
彼は黒髪を揺らし、少しだけ笑った。
「君じゃないよ」
胸が裂けるようだった。
怖いのではない。
もっと深い、鋭利な違和感。
私は恋を求めてここに来た。
けれど、彼は何かを見ている。
彼に見られることのない私は、すでに「生きていないもの」と同じだった。
別れ際。
ロータリーのバスが発車し、排気が白い靄を作る。
その中で彼は静かに立っている。
女みたいな顔と黒髪。
私を見ず、隣の誰かにだけ微笑む。
──円町の夜風の中、私は悟った。
私は彼にとって「出会い」ではなく、ただの「媒介」なのだ。
彼が欲しているのは私ではない。
私の背後にまとわりつく、見えない何か。
そしてその瞬間、私は初めて「見られていない」ということが、これほど残酷で、美しいものだと知った。
黒羽に触れず
僕の眼は、まっすぐに世界をとらえない。
右と左が、時折ふっとずれる。
その瞬間、視界の裂け目から「何か」が滲み出てくる。
ひと影、影法師、笑う顔。
誰にも見えないそれらを、僕はただ黙って見てきた。
祖父はいつも言っていた。
「東山からカラスがくるんや。人の姿をしとるくせに、心のない化鳥や」
七条通り沿い、七本松から御前まで、祖父はあの界隈で働き、笑い、酒を飲み、怒鳴り、また笑ったという。
けれど今は店のシャッターは下り、道は痩せ細り、若い連中は線路の向こうに消えた。
それでも祖父は声を張り上げて歩いた。
「仏さんに聞かせるんや。まだこの道に命が残っとるとな」
その背中を、幼い僕は見ていた。
痩せて小さくなっていくのに、妙にまっすぐな背骨。
東寺の方角に手を伸ばし、見えぬ仏に叫ぶ姿。
あれは祈りだったのか、恐怖の裏返しだったのか。
祖父はいつも怯えていた。
東山からくるカラスに。
それは人の姿をして、心を持たない。
「ワシは、あの女にひどいことをした」
祖父は時折そう呟いた。
黒髪の女。鳥辺野のカラス。
その記憶と怨念が、祖父を夜ごと震わせていた。
──けれど僕は、祖父と同じようには感じなかった。
僕にとって東山のカラスは、恐怖の象徴ではなく、別の何かだった。
胸の奥をざわつかせる存在。
恋とも呼べぬ、不明瞭な感情。
まだ見ぬ幻影に、どうしようもなく惹かれていた。
僕の眼は斜めにずれる。
まっすぐには捉えられない。
だがその「ずれ」の中に、世界の裂け目が開く。
人の肩口に寄り添う幽霊の群れを、僕はそこに見てきた。
アプリで人に会うのも、そのためだ。
彼らの背後に憑いた影を覗き込み、そこにカラスが紛れていないか確かめる。
女と会っても、僕は女を見ない。
自然と視線は逸れる。
頬が勝手に緩む。
──その先にいるのは、彼女ではない。
彼女の肩越しに漂う誰か。
けれど、求めているものとは違う。
東山のカラス。
お前は本当にいるのか。
祖父が怯え、憎んだ存在は幻だったのか。
それとも僕の眼だけが、まだその影を拾えずにいるのか。
いや、幻でもいい。
僕は幻に恋をしてしまったのだから。
その黒い羽音に、心を絡め取られてしまったのだから。
円町の夜風が吹く。
バスの排気が白く舞い、焼き鳥屋の煙が漂う。
通りすぎる人々は僕に目を向けない。
ただ僕だけが、視線を逸らし、裂け目を覗き込む。
そこに「まだ来ぬもの」を探し続ける。
眼の奥がふたたび外れる。
世界が二重に揺れる。
僕は待った。
──だが、そこにいたのは、ただの幽霊だった。
また外れたか。
いや、これは。
正面橋
正直俺はもう、自分が何をしているのか分からなくなっていた。
一日を通して積み重なった疲れが、骨の奥にまで沈みこんでいる。
呼吸をするのさえ、何かを思い出すように重かった。
それでも川を渡ろうと歩いていたのは、ただ足がそういうふうに動いただけなのかもしれない。
菊浜の酒場に、雨を逃れるように滑り込む。
戸口を開けると、鼻先に広がるのは馴染みの匂い──酒の甘い香り、総菜の胃袋を刺激する香り、床から立ちのぼる湿った木と土の匂い。
不思議と胸の奥を緩めてくれる。
疲れ切った体に、その混ざり合った香りは優しく突き刺さり、ここが「帰れる場所」なのだと教えてくれる。
外の雨に打たれ、どこか心細かった自分を、そっと包み込むような匂いだった。
外は土砂降りに近い雨だった。今日は五山送り火の日。
例年なら胸のどこかにざわめきがあるはずなのに、その夜の俺には何もなかった。
ただ雨が落ちて、傘を持たずに歩いてきた足元がじっとり濡れている。
店主がカウンターの奥で呟いた。
「雨の日は火もかわいそうやな」
そう言って、いつもは後回しにする窓掃除を始めた。
グラスから放たれるガラスをたたく水音が、雨音に混じって単調に響く。
その規則的な音を聞いていると、かえって落ち着いた。
──これでいい。
燃える山を見るには、今の気持ちは弱すぎる。
大文字の炎は強すぎる、俺には重すぎる。
時間の感覚が曖昧になっていた。
雨音と布のこする音に溶け込むように、酔いで心の輪郭がぼやけていく。
外から聞こえるのは、濡れたアスファルトを走る車の水しぶきの音だけ。
酒をひと口あおる。喉を通る液体は、期待ほど熱をくれなかった。
やがて、雨脚が弱まり、そして止んだ。
それを合図にしたかのように、店の隅にいた客たちが顔をほころばせる。
「お、止んだな」
「ありがたいこっちゃ」
笑い声が小さく連なり、それが熱を持って空気に広がっていく。
その温度に押し出されるように、俺は席を立った。
正面橋に出ると、川面に街灯の光が流れ込み、濡れたアスファルトを照らしていた。
七条と五条、両側の光が交錯するこの場所を、俺は好んでいた。
夜風はまだ湿っているが、雨に洗われた空気は幾分か澄んでいる。
八時が近づき、人々が川沿いに集まりはじめていた。
派手な色のスカーフを首に巻いた老婆。
缶ビールを片手に、煙草をくゆらせる爺さん。
夜に備えて化粧を落とし、すっぴんで佇む若い女。
橋の欄干を叩きながら走り回る子供たち。
それぞれの生活と、それぞれの疲れを抱えながらも、皆この夜に同じ方向を見ている。
やがて、火がともった。
遠くの山に赤い点が浮かび、次第に線を描いていく。
「おぉ…」と静かな歓声が、波のように広がる。
東大文字の端っこが、闇夜からわずかに覗いた。
その小さな炎の連なりを、誰からともなく手を合わせる仕草。
「今年もついたね」
「良かった良かった」
そんな声が、夏の鴨川の水音と一緒にすり抜けてゆく。
俺は立ち尽くしたまま、それを見ていた。
火は強すぎると思っていた。
けれど、こうして群衆と一緒に眺めると、不思議なことに胸の奥の疲れがほんの少しほどける気がした。
雨が洗い流した街の匂い、冷えた川風、そして炎。
すべてが一瞬、均衡した。
──あぁ、雨が上がった。
それだけで、もう十分だった。
イコマハジメ
四条大橋に座る男がいる。
名をイコマハジメという。
雨の日も、晴れの日も、京阪を背に小さなキャンバスを広げては、画材で人の姿を追いかけている。
私は悲しみに暮れた帰り道、彼にこう言ったことがある。
「ムンクのような不安を描いてほしい」と。
胸の奥が裂けるような、不安という名の闇を。
夜の街に巣くう沈黙や、孤独をえぐり出す絵を。
だが、イコマハジメの描く「不安」は違っていた。
彼はただ、橋を渡る人々を淡々と写しとるのだ。
足早に通りすぎるサラリーマン。
手をつなぐ親子。
酔いの余韻に笑う若者たち。
そのすべてが、どこか愛らしい。
そこには、私の思い描いた「絶望の深淵」はなかった。
むしろ、世界を愛する余白が、絵の片隅にひっそりと息づいていた。
わずかな笑み。ぎこちない仕草。
それらは彼の線のなかで震え、やさしさのかたちを帯びていく。
なにより可愛い。
私はその絵を見て、深く恥じた。
これまで私は、文章で他人を切り捨てることでしか「不安」を描けないと思い込んでいた。
誰かの弱さや過ちを抉り、そこに恐怖や孤独を仮託することでしか、言葉を立たせられなかったのだ。
だが、イコマハジメの絵は違う。
不安とは、誰かを裁く刃ではなく、誰もが抱えて歩いている日常の影だった。
彼の絵を見た瞬間、私は気づかされた。
本当の不安は、切り捨てるものではなく、共に見つめるものなのだと。
その夜、四条大橋の風は冷たかった。
けれど、イコマハジメの描く人々は、どこか温かかった。
私は言葉を手放し、ただ川の流れとともに、その絵を見つめていた。
他人の不安を初めて見た。
これは、この絵は宝物だ。
スーパーミント
うだる京都。
駅前のビッグカメラの一階。
冷房の風は生ぬるく、
人の往来は川の流れのように絶え間なく、
その片隅にサーティワンが、
光沢のあるショーケースを並べている。
私は、そこに立っていた。
スーパーミント。
若い子が好むには少し苦く、
子どもには刺激が強すぎるそのフレーバーを、
わざわざカップで選んだ。
舌にのせれば、
冷たさよりも先に走るのは、
針のようなミントの鋭利さ。
甘さに混じるほろ苦さは、
誰に言うでもない「強がり」の味。
──あの頃は違った。
──でも今が今なら、これでいい。
かつて恋人に、
あるいは自分自身に向かって投げたセリフを、
もう一度胸の奥で転がす。
京都駅の雑踏の中で、
ひとりの女の哀歌はアイスの冷気に包まれる。
手元のスプーンは小さくて、
掬い取るたびに落ちてしまいそうで。
だがそれでいい。
ロージンバッグの粉を舞わせる野球部員も、
音叉で響きを探す吹奏楽部員も、
サングラスを外して目を光らせるツッパリも、
みなそれぞれのアイテムを持つように、
このおばさんにはスーパーミントがある。
冷たさが喉を抜けるたびに、
“叫ぶ主体”が彼女に憑依する。
そして声にならない叫びは、
観光客のざわめきに、
地下鉄からの熱風に、
ビッグカメラの館内放送に、
かき消されながらも、確かに響いていた。
「今が今なら、これはこれで悪くないのよ」
カップの底をすくいあげる最後のひと舐め。
甘さも苦さも、氷も記憶もすべて飲み干し、
私はひととき、
スーパーミントの冷たさとともに、
強さと脆さをまるごと抱く。
離脱
水曜の昼下がり。
七条通を渡る人の足音が窓の下から昇ってくる。
小走りの革靴の音、ゆるやかな自転車の軋み。
そのどれもが、午前中の私には敵意を帯びて響いた。
光は鋭く、洗濯物の匂いさえ胸を刺す。
鼓動は裏切り者のように速く、
延髄を駆け上がる熱が頭を圧迫し、
視界は濁って揺れていた。
鏡に映る顔は、知らない誰かのものに見える。
眉間は固く、瞳は散り、焦点は漂っていた。
「飲まなきゃ」
心の底で繰り返す声。
午後三時に開く立ち飲み屋、いなせやの白い暖簾が浮かぶ。
それは救いではなく、義務の帳簿のように揺れていた。
酒は嗜好ではなく、やらねばならぬ儀式に変わっていた。
卓上のチップをレイズし続ける手を止められない、
そんな賭けの渦に囚われていた。
けれど午後、ほんの一瞬の切り替わり。
額から滝のような汗が落ちた瞬間、世界が裂けた。
それは予兆もなく降る夕立のよう。
厚い雲が一気に割れ、冷たい雨が身体を打ち抜く。
汗は背中から首筋へと噴き出し、
皮膚は冷水にさらされたように震えた。
自分の輪郭が崩れ、
畳の上へ溶け出していく錯覚にとらわれる。
止まらない汗が、ただ溢れ続ける。
嵐は永遠に続くかと思われた。
全身が流され、抵抗も意味を失う。
やがて嵐は唐突に途切れる。
汗はふっと止まり、
脳を満たしていた圧は音もなく退いていく。
世界は沈黙し、
視界は澄み、
心は雨上がりの空気を吸い込んだ街のように冷えていた。
追い酒の影は霧のように消え、
義務は義務でなくなる。
酒の卓は崩れ去り、
積み上げたチップも跡形もなく消えていた。
鏡に映る顔に、生の焦点が戻る。
眉間の硬さは解け、
瞳は澄み、
頬に血が通う。
午前の戦闘顔はもうどこにもない。
残ったのは空腹。
塩気を求める、ただそれだけの身体の声。
味噌汁と漬け物。
それが無性に食べたい。
窓の外ではアスファルトが濡れている。
路地に残る水溜りに青空が揺れ、
遠くで蝉が鳴き始める。
私は眉間に指を押し当て、
かすかな感触を確かめながら息を吐く。
午前まで、私は世界に追われていた。
だが今は、ただ生きるために食べる女へと帰っている。
東山の午後は静かに冷え、
その静けさが私を抱き留めている。
午前の赤は午後の青へ、
義務の影は無に溶けた。
眠り続けていたら見逃したはずの転調。
起きていてよかった、
汗とともに世界が裏返り、青い静けさとともに私の手元へ戻ってきた。
海面のドリフター
同期入社で女性営業職は、私とあの子だけだった。
だから私はずっと、あの子のそばにいた。
入社したばかりで、名刺交換の仕方さえおぼつかなくて、
会議室のドアをノックする手が小刻みに震えていたあの日から。
クライアントに厳しく詰められて、
答えに詰まった声を私が引き取り、
「次回までに必ず改善します」と頭を下げた瞬間の、あの青ざめた横顔。
夜になれば、オフィスに二人だけ残って、
足りない資料を黙々と埋めたこともあった。
それが当たり前の日々だった。
だからこそ、今が信じられない。
去っていくのは私ではなく、あの子の方だ。
「今までありがとう、もう大丈夫」──
その言葉が、どうしてこんなにも心をざらつかせるのだろう。
本当に、大丈夫なの?
一人で歩いていけるの?
強い風に吹かれたら、また立ち止まってしまうんじゃないの?
声を震わせて、視線を落としたあの日のように。
その不安が、私の胸の奥に静かに巣を作っていく。
私は責めたいわけじゃない。
ただ心配で、ただ悲しいのだ。
守りたいと思う気持ちが、
今では行き場を失って胸の奥で行き止まり、
どうしようもなく私自身を締め付けている。
あの子が笑ってくれることは嬉しいはずなのに、
今目の前にあるその笑顔は、私をひどく切り裂いていく。
旅立ちの表情は、祝福のようでいて、
どこまでも遠い。
私の祈りも、声も、もう届かない場所に行ってしまうみたいだ。
不安と悲しみは、ゆっくりと積み重なっていく。
何もしてあげられないという無力感が、
静かな絶望に姿を変えて、私を抉っていく。
──何であの子は、
私のいない残酷な世界に旅立つのに、
あんなに晴れやかな顔で笑えるんだろう。
深海のアングラー
彼女の優しさは、ずっと私を守ってくれていた。
声が震えたとき、すかさず冗談で場を和ませてくれた。
資料が穴だらけでも、夜遅くまで一緒に埋めてくれた。
その一つ一つが、ありがたくて、救いで、温かかった。
……なのに私は、それをまっすぐに受け取れなかった。
「守られている」という事実は、やがて「守られなければ生きられない私」という烙印になった。
彼女の笑顔は光のように眩しかったけれど、
その光は、私を弱者として照らし出す残酷なスポットライトでもあった。
だからだ。
私はいつからか彼女を羨み、嫉妬し、
その優しさすら疑いの目で見つめるようになった。
「あなたといると安心するの」──その言葉の裏に、
どこか優越の響きを勝手に聴き取ってしまう。
本当はそんなこと一度も言われていないのに。
それでも、私の心は勝手に歪んで絡みつき、
優しさを鎖に変えてしまったのだ。
やがて気づいた。
私は、彼女の評価の一部になってしまっていた。
私の存在は、彼女の自尊心の一部に変えられてしまっていた。
それを思うと、悔しくて悔しくて、
この街そのものを呪ってしまいそうになった。
そして、ある日ふと決めた。
──辞めよう。
その瞬間、胸に巻き付いていた鎖は音もなく崩れ落ちた。
霞がかった視界が晴れ、
街の色が、音が、匂いが、驚くほど鮮明に飛び込んできた。
朝の通勤電車すら、解放の風を運ぶ舟に見えた。
私はやっと、自分の足で歩ける。
たとえ無様でも、彼女に守られない世界で。
そう思うと、不思議なほど笑みがこぼれた。
──残酷なのは、私ではなく世界でもない。
彼女の優しさを歪めてしまった、私自身の心だったのだ。
だから私は決めた。
ずるいことをしてもいい、汚くなっても構わない。
そうして、あの子に並んで──初めて対等に、笑うんだ
カルピス
古川の商店街に足を踏み入れると、
大きな猫が八百屋の軒先で腹を見せてだらけていた。
誰も追い払う者はなく、猫は夏の熱気を吸い込みながら、
目を細めて路地の空気にとけている。
地面にに張りついたようなその姿を見て、
この街の時間もまた、そこに寝そべって動かなくなったのだと感じた。
静けさの中にふと昔の景色が重なる。
人があふれ、声が飛び交っていたころ。
魚屋の氷が白く煙り、パン屋の甘い香りが漂っていたあの頃。
八百屋の軒先にお中元用のカルピスの箱が、
場違いなほどきちんと積み上げられていた。
──カルピス。
子どもの頃、家の流しの下に一升瓶で眠っていた。
暗がりに浮かぶ白地の水玉模様を見つけると、
「夏が来た」と心がはしゃいだ。
氷の音とともに割ってもらう一杯は、
特別な甘さで、ひとつの季節そのものだった。
大人になって、同じような「ささやかな甘さ」を
劇団の稽古場で味わうことになるとは思わなかった。
誰かが夕べ買ってきた半額のパンを分け合うだけで、
一瞬が祭りのように華やいだ。
言葉をぶつけ合って汗を流し、
夜更けに肩を叩き合って笑った。
あの時の空気は、確かに生きていた。
……けれど今や、カルピスは原液のまま冷蔵庫にしまわれる。
いつでも飲める代わりに、
あの「特別な甘さ」はもう戻ってこない。
劇団も、きっと同じかもしれない。
客席が埋まるようになった代わりに、
稽古場に漂っていた雑多な熱気は整理され、
冷たく澄んだルールに置き換わってしまった。
あの混沌の中にしかなかった響きが、
少しずつ失われていった。
金、色恋、名前を刻もうとする焦りが絡むと、途端に脆くなる。
呼吸が乱れ、舞台の上で目を合わせるのが怖くなり、
信じていた仲間が、急に遠く見える。
みんないいやつらだった。
必死で夢を追いかけていただけなのに。
それでも軋みは止められなかった。
私は結局、決めた。
──辞めよう、と。
果物屋の軒先のカルピス箱を見つめながら、
流しの下の暗がりと、稽古場の熱気と、
そして今の静まり返った商店街がひとつにつながっていく。
猫はまだ腹を見せたまま眠っている。
もう誰も撫でてはくれないのに、
それでもアーケードの下でゆっくり呼吸を続けている。
その姿は、去っていく私の背中を肯定しているようにも見えた。
舗道に伸びる影はひとつきり。
私はその影を追いながら、
静かに歩みを進めた。
冷蔵庫の中のカルピスのように、
冷たく澄んだ別れの余韻を胸に抱えて。
黄色い老犬
名古屋から流れてきた爺さんが、いつの間にかこの界隈に馴染んでいた。
背は低く、ヤニで黄色く煤けた帽子をいつもかぶっていて、着古した服を着ていたが、笑みはやわらかく、人の心を解かす力があった。
彼は気さくで、誰にでも声をかけた。
八百屋の荷物を運び、菓子屋の箱を片づけ、子供に飴を配り、夕暮れには酒場の片隅に座り込んで一杯を長く楽しんだ。
あの人が立ち去ったあとには、なぜか温かいものが残る。
誰もが彼を「爺さん」と呼んだ。
私もいつしかその輪の中に加わり、爺さんのいる光景が当たり前のようになっていた。
ある日、五条大橋のたもとで騒ぎがあった。
子供がふざけて欄干に登り、川へ落ちたのだ。
人々が悲鳴をあげるより先に、爺さんは迷いなく飛び込んでいた。
濁った水をかき分け、子供の腕を掴み、力強く引き上げる。
橋の上にいた私たちは、その背中をはっきり見た。
水に濡れたシャツの下から、軍荼利明王が背一面に立ち上がっていた。
炎を背負うその姿は、誰の目にも鮮烈だった。
だが、誰も口にしなかった。
「見ないふり」をすることが、この街のやり方だった。
八百屋の親父は「助けてくれてありがとう」とだけ言い、子供の母親は涙を拭きながら爺さんに頭を下げた。
私も何も言わなかった。
あの刺青が何を意味するかなど、想像することさえ避けた。
それからも爺さんは、変わらずここにいた。
朝は掃除を手伝い、昼は誰かに声をかけ、夕暮れには酒屋の主人に肩を叩かれた。
子供たちは駆け寄って「爺さん、おかえり」と言った。
背中の明王を知っていながら、誰も触れなかった。
その沈黙の中で、爺さんは街の一部になっていた。
彼がいるだけで、日常が少し穏やかになる。
黄色い老犬のように、そこにいるのが自然で、誰もがそれを受け入れていた。
しかしある日、名古屋から数人のチンピラがやってきた。
爺さんを探している、と。
鋭い目つきで店先をのぞき、通りを歩く人間に声をかける。
空気が重くなった。
だが、街の人々は口を揃えて「知らない」と答えた。
菓子屋の婆さんも、魚屋も、八百屋の親父も、子供たちまでも。
皆が爺さんを庇おうとした。
けれど私は、心の奥に恐怖を抱いていた。
もし彼らが暴れれば、この商店街が壊される。
瓦屋根も、古い看板も、灯りに集う子供たちの笑い声さえも。
爺さん一人を庇えば、この街全体が犠牲になるかもしれない。
「爺さんが好きだ」という気持ちと、「街を守らねば」という気持ちがせめぎ合い、私は立ち尽くした。
やがて私は、小さな声で告げていた。
「……あの人なら、あそこに」
チンピラに連れられて商店街を去る時、爺さんは振り返った。
視線が合った。
爺さんは笑っていた。
その眼差しは責めるでもなく、哀しむでもなく、ただ静かに受け入れるものだった。
私の胸は裂けるように痛んだ。
爺さんは歩いていった。
荷物を背負い、軍荼利明王の炎を背に刻んだまま、ゆっくりと。
誰も声をかけなかった。
誰も止めなかった。
それが、この街を守るための「群れの選択」だったのだ。
けれど今も、あの爺さんの笑みが焼きついている。
私は街を守ったのか、それとも自分を守っただけなのか。
答えは出ない。
ただ胸の奥で、黄色い老犬の影が消えないまま、今も息づいている。
それは誇りか、後悔か。
その区別さえ、もはやできない。
誰が為に鐘は鳴る
かかとが泥に沈む。
それでも、打つ。
音は湿った土に吸われ、
どこにも届かない。
だが私は打つ。
なぜか。
退屈を突き破るためだ。
退屈──それは静かな毒だ。
日常の食器の音、夫の呼び声、繰り返される人の顔。
舞台を降りた私の心を、ゆっくり腐らせていった。
私は踊りをやめたかったのではない。
やめられなかったのだ。
拍手も賞賛も、嘲笑さえも消えたあと、
私に残ったのは「叩きつけたい」という衝動だけだった。
音は、私の絶望と同じ。
打てば打つほど、土に飲まれて消えていく。
だがそれでよかった。
無音に沈むその感覚が、私をかろうじて現実につなぎとめた。
世界は崩れていく。
秩序は熱に変わり、熱は冷え、やがて均一の灰になる。
私はそのエントロピーのただ中で、
ただの一拍を叩き込む。
「ここにまだ一人、立っている女がいる」と叫ぶように。
そして私は限界を見た。
音はどこまでも無力だ。
私は泥に沈み、やがてこの川に吸われて消えるだろう。
そう思った瞬間だった。
──水音。
橋の上から子供が落ちた。
目が合った。
浅瀬のはずだ。
しかし子供は起き上がらない。
世界が止まった。
そのとき、水面に影が舞った。
老人だった。
考えなどなかった。
衝動がその身体を放り投げていた。
退屈など微塵もない、ただ純粋な命の跳躍。
水面を裂き、子供を抱き上げるその姿。
私は震えた。
これがパッションだ。
私が十年追い求めても見つけられなかった、
退屈を突き破る“熱”。
秩序を崩す一撃。
エントロピーの果てに燃え上がる炎。
濡れたシャツの下に入墨が透けた。
炎を背負った背中は、私の靴音をすべて吹き飛ばすほど鮮烈だった。
私はスマホを構えた。
震える指で投稿する。
──#五条大橋
──#フラメンコの夜
──#奇跡の瞬間
プレイビューは少ない。
いいねもつかない。
だが、その片隅に映った背中を、
二つの目が見逃さなかった。
暗い部屋。モニターの前。
冷たい声が交わされる。
「アイツだ」
「やっと見つけた」
「……最後の一人」
我谷は緑なりき
二人組のチンピラが俺を探してやがる。
笑っちまうな。
あれはヤクザもんじゃねぇ。
公安だ。
けつの毛まで残さねえ、徹底的なやり口──まったく頭が下がる。
商店街で手帳を出さなかった。
なるほどな、わかってやがる。
善人には理屈より、単純な恐怖を見せりゃ十分だ。
悪くない、いや、あっぱれなやり口だ。
だがよ、俺が怯えたのは奴らじゃねえ。
俺が怯えたのは、この街を手放すことだ。
どこから足がついたか、考えるまでもねえ。
きっと、あの一瞬だ。
泥水の冷たさ、子供の腕の細さ、
そして、見られちまった。
ああ、そうだろうよ。
それでも去れなかった。
俺はこの街が好きだったんだ。
朝の八百屋の声も、魚屋の匂いも、
路地に転がる太った猫も、
夕暮れの一杯に混じる誰彼の愚痴も──
ぜんぶ、愛おしかった。
だから俺は老犬のふりをして座っていた。
ただそれだけのことだ。
若いの、
……選択を間違えるなよ。
これは俺のヘマだ。
街のためにだとか、誰かのためにだとか、
立派な言い訳なんざいらねえ。
お前が立派な男になるために、俺を突き出せ。
ただ、俺が欲に勝てなかっただけだ。
ここに居たいという欲、
この笑みの輪に混ざりたいという欲。
それが俺を縛った。
だから、これは俺のケリだ。
秋風のあとを雪が追い、
季節は廻って、
それでも俺は、一度あの緑を見たかった。
お前が美しいと口にした、
あの東山の新緑を。
だがそれも、もういい。
夢は夢のまま残したほうが鮮やかだ。
ああ、我谷は緑なりき。
風の匂いも、雨の色も、
ぜんぶ、しなやかに溶けちまう。
……あんたは、正しいことをしてくれ。
それだけを伝えたかった。
届いてくれ。
歩くような速さで。
京都タワー
金曜の夕暮れ、京都タワーの灯りがゆっくりと点きはじめる。
その赤い光が雲ににじみ、駅前の広場やロータリーに滲んで落ちてくる。
晩夏の空気はようやく冷気を帯び、汗をにじませた日中の熱をどこかへ追いやってくれる。
街全体が少しほっとしたような、そしてこれから夜に浮かれる準備をしているような、そんな息づかいを感じる。
HUBの喫煙テラスに出ると、ギネスの泡と煙草の煙が入り混じった匂いが漂う。
グラスを手にした人々の笑い声が途切れ途切れに夜風に乗り、氷の音が小さく鳴る。
俺もグラスを受け取り、手のひらに伝わる冷気に、週の終わりを実感する。
煙草に火を点けると、オレンジ色の火花が一瞬だけタワーの光に競り合った。
──四十を過ぎた男が、こんなふうに浮かれるのはどうなんだろう。
若い連中のように、スマホを掲げて「手と飲み物と京都タワー」を撮ってみようかと一瞬思う。
だが、そんな姿をもし誰かに見られたら、きっと顔から火が出るだろう。
俺は写真を撮る勇気がなく、代わりにグラスを口に運ぶ。
喉を通り抜ける冷たいギネスと、胸に広がる解放感。
それだけで十分だと思う。
だが、心の奥で隠しきれない。
今夜は久しぶりに「予定」がある。
そのことが俺をこんなにも浮かれさせ、街のネオンを祝祭のように見せている。
普段ならただの駅前の喧噪が、今夜はまるで劇場の幕開けに感じられるのだ。
観光客がキャリーケースを引き、学生が笑いながら自転車を押し、
仕事帰りのサラリーマンが居酒屋へ急ぐ。
それぞれの金曜日を抱えて、この広場を横切っていく。
俺もその中のひとりに過ぎないのに、胸の鼓動だけが妙に浮き立っている。
──恥ずかしいほどだ。
ただ「誰かが待っている」というだけで、ここまで高揚してしまう。
そのことを悟られたくなくて、煙を吐くふりで笑みを隠し、もう一口グラスを傾ける。
京都タワーの光が、そんな俺の浮かれた心を見透かすように、夜空に瞬いていた。
プライドオブサイレンス
寺町のアーケードをくぐると、四条通の喧騒が背後に遠ざかってゆく。
ほうじ茶の香り、焼き栗の甘さ、観光客の笑い声──
それらすべてを振り切るように、私は裏寺町の細い路地へ沈んだ。
古びた暖簾をくぐれば、秋刀魚の脂がはぜる匂い、
芹のおひたしに染みた出汁の湯気、
そして木のカウンターに吸い込まれるような灯り。
この小さな居酒屋が、今夜の私のハビタブルゾーンだ。
髪を耳にかけながら、私は思わず視線を走らせる。──彼女はもう来ているだろうか。
すでに、彼女は座っていた。
過ぎゆく夏を名残惜しむように、凛とした姿で冷酒を飲んでいる。
盃を持つ指先は白くしなやかで、口元へと運ぶ仕草が美しい。
冷たい琥珀が喉をすべり落ちるのを見た瞬間、
私の胸の奥で、小さな音が弾けた。
外の爽やかな秋風よりも、
その一口の方がはるかに鋭く、涼しく、
私を揺さぶったのだ。
世間では、私たちの「解放」を叫ぶ声がある。
けれど私の気質は、昔から変わらない──
大勢の熱気に近づけば近づくほど、心は冷めていく。
太陽の真下は、私にはまぶしすぎる。
この店のような暗がりで、息をひそめているぐらいがちょうどいい。
群衆の旗に映らない愛を、私は選んできた。
硝子徳利の氷ポケットから響く音をかき混ぜながら、
彼女と秋茄子の煮浸しをつつき合う。
窓の外からは、解放パレードの低い大太鼓の響きが流れ込んでくる。
その音はまるで、「静かにここで息をしていなさい」と
私たちにだけ囁いているかのようだ。
私の解放は祝祭ではない。
見世物でもない。
四条通のざわめきから逃れ、裏寺町の薄暗がりに隠れ、
彼女と盃を合わせ、静かに笑うことだ。
浮世の風は冷たい。
けれど、この小さな居酒屋の隅には、
誰にも奪えない私たちの解放がある。
二重身
冬の大宮は、煤けた冷気が肌にまとわりついていた。
駅ビルの蛍光灯は弱々しく点滅し、吐いた息が白く漂ってはアーケードの闇に呑まれていく。
寂れたシャッター街の端に、まだ灯を保つ「庶民」の暖簾がゆらめいていた。
戸を押し開けると、油の匂いとストーブの熱気が顔にまとわりつき、思わず肩をすくめた。
とりあえず、ハイボールと煮込み。
指先がゆるみ、湯気に混ざった脂の匂いが鼻を突く。
その温もりを突き破るように、シュワシュワを喉へ流し込んだ。
今日も今日とて、カウンターは満員御礼。
隣に座っていたのは、五十前後の男。
安っぽいダウンにガラケー。
その端に、色あせたスパイダーマンのストラップが揺れていた。
気づけば口が勝手に動いていた。
「スパイディ良いっすよね」
男はにやりと笑い、唐突に切り込んできた。
「……クローンサーガ、知ってるか?」
「……え?」
「ピーターとベン・ライリー。どっちが本物か。あれはキャラが苦悩してるように見えて、実際はライターが世界を揺らしていただけなんだ」
串カツを齧りながら、声は妙に滑らかに加速していく。
「クローンとは何か。ヒトデを分断して再生したら、それは“拡張された自己”なのか? 否。自己は割れて増えるもんじゃない。環境が自己を映すんだ」
「え……じゃあ本物は?」
「どっちも本物で、どっちも偽物だ」
「……は?」
俺が呆気に取られる間にも、男は勝手に積み上げていく。
「キャラの苦悩なんて編集会議で決まる。つまり、人生は最初から“神の気まぐれ”に支配されているんだ」
神の気まぐれ? ……何言ってんだこいつ。
「そしてな──脳髄は物を思うにはあらず。物を思うは、むしろこの街だ」
「……え?」
「言葉も、笑いも、欲望も、全部この街が俺たちに考えさせている。俺が串カツを食ってるのも、街がそうさせているんだ」
その時、隣のさらに隣で飲んでいた中年の酔客が笑い声をあげた。
「何言うとんのや! 街が考えさすんやったら、ワシがクビなったんも大宮のせいやんけ!」
カウンターにどっと笑いが広がる。
だが男は酔客を見ようともせず、串を噛み切り、淡々と続けた。
「……でももし街が思うなら、俺がクローンでもオリジナルでも同じだな。さて、俺は誰なんだ?」
俺はつい口を突いて出していた。
「……おっさん、仕事は?」
男はふっと笑い、現実に戻ったように高らかに店員を呼ぶ。
「串カツ、もう一本!」
そしてポケットから名刺を差し出してきた。
《京都大学 医学部 非常勤講師(再生医療倫理学)》
……え?
俺は名刺を見つめたまま、街の煤けた冷気と油の匂いを、もう一度深く吸い込んだ。
笑い声の余韻の中で、大宮の街そのものが、ほんとうに思考しているように思えた。
社会生活の流刑地にて
木屋町の夜は、いつだって湿っている。
鴨川から立ちのぼる水の匂い、焼き鳥屋からあふれる煙、酔っ払いの笑い声。
それらが混ざり合い、通りを覆う街灯の光を曇らせていた。
雑居ビルの二階にあるアニメバーは、その湿気の溜まり場のような場所だった。
階段をのぼると、貼りっぱなしのポスターが端から剥がれ、ガラス戸の隙間から古びた主題歌が漏れている。
中に入れば、壁一面にアニメのポスター、棚には色あせたDVDやセル画のコピー。
カウンターの奥の小さなモニターには、八〇年代のロボットアニメのオープニングがループしていた。
狭い店内の熱気と、薄められた焼酎の匂いに混じって、なぜか安心する気配があった。
僕にとって、ここは“聖域”だった。
人生はうまくいかなかった。
仕事は続かず、人間関係も育たず、誰にも褒めてもらえない日々。
けれど、アニメの知識だけは僕を裏切らなかった。
ここでは、語る言葉に意味があった。
細かな裏話や逸話を披露すれば、たとえ一瞬でも場がこちらを向く。
知識だけが、僕を守ってきた。
だからその夜も、自信を持って口を開いた。
スクリーンに映る戦闘シーンを指差しながら、得意げに語った。
「この回、セルの枚数を減らしたんですよ。予算が尽きて、監督が泣く泣く──」
隣にいた若い男が、グラスを揺らしながら口を挟んだ。
「いや、それ誤解ですよ。セルを減らしたのは次の話数です。アニメーター本人がインタビューで否定してます」
……?
たったそれだけの一言だった。
誰も笑ってはいない。
店の空気は変わらず、別の席では別の話題が続いている。
けれど僕には、店全体の光と音が遠のいたように感じられた。
砦が崩れる音がした。
知識という武器で築いた壁が、一瞬で粉々に砕けた。
負けた──その言葉しか浮かばなかった。
勝負ですらない場なのに、確かに僕は負けた。
自分の人生が、編集ミスのようにぐしゃぐしゃに塗り替えられていく感覚があった。
グラスの氷がカランと鳴り、琥珀色の水面に僕の顔が揺れる。
惨めで、みすぼらしい。
誰にも褒めてもらえず、誰も見ていないのに、なぜこんなに苦しいのか。
その時、不思議な衝動が胸を突き破った。
この人を知りたい。
隣の男の仕草、声、瞳の奥に潜む何かを、全部知りたいと願った。
知識で勝つことよりも、彼の存在そのものを掴み取りたいと渇望した。
それは恋でもなく、羨望でもなく──
もっと原始的で、必死なものだった。
そうだ。
知りたいという思いそのものが、純粋な生命への渇望だったのだ。
敗北の痛みと、生きたいという衝動が、同じ瞬間に胸を焼いていた。
店を出ると、木屋町の湿った空気が冷たく肌を打った。
コンビニの蛍光灯に吸い寄せられるように入り、カップラーメンをひとつ、安い酒を一本買った。
鴨川の風は冷たく、街の灯りは遠かった。
誰にも褒めてもらえない。
それでも、僕は言葉を残すしかない。
敗北と渇望を抱えたまま、眠りにつくしかない。
そしてきっと明日もまた、僕は誰かを知ろうとするのだろう。
擬態
──朝の総務課。
内線が一斉に鳴り、伝票の山が机に置かれる。
「すぐ対応お願いできます?」
「これ、急ぎなんで」
先輩方の声は軽やかで、でも微妙に競い合っている。
僕は笑顔を張り付けたまま、書類を抱え込む。
「はい、承知しました。こちらで処理しておきますね」
声を柔らかく、角を削って返す。
男の響きを抑え込み、丸みを帯びた調子を保つ。
昼前、備品の納品で重いダンボールが届く。
反射的に抱え込んだ僕を見て、周りが「助かるわあ」と笑った。
その一言に救われつつも、
“頼れる男”のポジションに寄りすぎないよう注意する。
「腰に気をつけてくださいね」なんて言葉を添えて、
自分の力を誇示しないようにバランスを取る。
昼休み、女性社員のテーブルは花のように咲く。
話題はスイーツ、子どもの習い事、週末の買い物。
僕は味の薄い相槌を用意して、会話に溶け込む。
「へえ、美味しそうですね」
「なるほど、そんな新店が」
ほんの一言で、場の空気を壊さずに済むなら、
冗談も野心も胸の奥で眠らせておく。
午後の会議。
数字を整理し、報告をまとめるのは僕の役割だ。
だが結論を強く主張すれば、空気がざわつく。
「皆さんのおっしゃる通りですが…」と前置きを添えて、
意見をやんわりと置いていく。
真ん中に立ち、誰の顔色も曇らせないことが、
この水槽で生き延びる術だから。
時計の針が17時を回り、退勤の時間。
パソコンを静かに閉じて、深く礼をして課を出る。
制服姿の店員が帰宅客とすれ違い、
館内のBGMは一日の終わりを告げるように低くなる。
自動ドアを抜け、七条通の風に触れた瞬間──
胸に張り付けた仮面が少し剥がれる。
烏丸七条の交差点。
赤信号に足を止め、西山の稜線が暮れ色に沈むのを見上げる。
ああ、ようやく“俺”に戻った。
声を低く張ってもいい。
歩幅を大きくしてもいい。
誰の視線もない。
京都駅のざわめきに背中を押されながら、
僕は擬態を解き、ただの若い男として、
暮れゆく西山をしばらく見つめていた。
去勢
──3次会。
数珠つなぎで流れ着いたのは、くらがり通りの小さなカラオケバー。
甘ったるい香水とカラオケのエコーが混ざり合い、僕の背広に染み込む。
狭いソファに先輩たちがずらりと並び、気づけば12人中、男は僕ひとり。
「主任、座って座って〜!」
ソファに押し込まれ、グラスを渡される。
心臓はドラムロール、背中には滝のような脂汗。
笑え、僕。
今夜は擬態の域を超え、精神的去勢ショータイムだ。
そして始まった──経理チーム3人の大合唱。
選曲は「恋するフォーチュンクッキー」。
揺れる肩、揺れる二の腕、揺れるソファ。
化粧は熱気で溶けかけ、アイラインは涙のようににじんでいる。
でも笑顔はキラキラ、声はズレてもパワフル。
「みんなをもっと!もっと!知りたーい!」
拳を突き上げるたびに、僕の魂は一枚ずつ剥がされていく。
声が飛ぶ。
「うちの旦那さぁ〜」「そうそう、それでね!」
「この前の旅行の写真見てくれる?」「え、まだ言ってなかったっけ?」
話題はバラバラ、声は重なり、笑い声は天井で反響する。
僕はただ、氷のグラスを手に微笑む。
誰も僕に返事を求めていない。
言葉の川は四方八方に分かれ、僕はその真ん中で溺れないように必死に立っている。
ときおり視線だけがこちらをかすめる。
「ね、主任もそう思うでしょ?」
だがもう話題は三つ先に進んでいる。
「ええ、まあ……」と口にした瞬間、返事は虚空に消える。
「キャハハハハハハ!!わっかんないよねぇ!」
笑顔だけが取り残され、頬の筋肉は痙攣しそうだ。
完全に置いて行かれている。
でも笑え、笑顔だけが、ここで生き残る術だから。
目が座った先輩たちが一斉に叫んだ。
「主任!立て!踊れ!!」
僕は震えるタンバリンを握りしめ、腰を浮かせた。
なんだろう、なんだろう。
屈辱的で、頭の中がぐちゃぐちゃで、
シャツは汗で張り付き、ネクタイは呼吸を阻む縄のよう。
自分がここにいる意味すら見えなくなっていく。
それなのに──気持ちがいい。
笑顔を貼り付けたまま、魂を捧げる舞踊。
「もう自分じゃなくてもいい」と思える瞬間。
恥と疲労とアルコールが溶け合って、
奇妙な快楽に変わっていく。
もしかすると、これこそが精神的去勢の正体かもしれない。
あぁ、壊れてゆく。
マスターは相変わらずカウンターの奥。
グラスを磨き、遠くを見つめ、絶対にこちらに介入しない。
助けてくれよ……ラストオーダーの一言でいいから。
だがその夜、彼はただ黙々と布巾を回すのみ。
──気づけば明け方。
四条通に出た瞬間、夜風の名残が顔を撫でる。
祇園の提灯が赤く揺れ、東山の稜線が赤く染まっていく。
「はあ……俺は、まだ男だ」
深呼吸とともに、汗は風に乾き、
この夜の屈辱と快楽は、祇園の赤に溶けて消えていった。
遠き落日
──ベンチの木肌が湿っている。
成田ニュータウンの公園。
朝から遊ぶ子どもはいない。ブランコは錆びて鎖がきしみ、砂場には草が生え、滑り台には枯葉が積もっている。
ベンチに座る老人は俺ひとり。空を仰ぐが、そこには何もない。雲の切れ間からこぼれる陽光さえ、ただ虚ろに広がっているだけだった。
昔、俺はがむしゃらに空港で働いた。
毎朝まだ暗いうちに起きて、冷たいコンクリートの床を磨き、ターミナルをすり抜けていく旅客の列に目をやった。
誰もが希望の匂いをまとっていた。
パリに行くと言っていた若い女、ハワイだと笑っていた家族連れ、ビジネスクラスの背広の男たち。
彼らは俺の知らない遠い世界へと飛び立っていった。
俺はただ、地上で見送るだけだった。
荷物を積み、案内をし、床を磨き、出発ゲートを過ぎてゆく背中を目に焼きつける。
その繰り返し。
気がつけば、俺の人生そのものが「誰かを遠くへ運ぶための労働」で終わっていた。
だが俺自身は、どこへも行けなかった。
そして今、こうして公園に座っている。
周りに子どもの声はなく、時間が止まったように空っぽな広場。
この街は未来を前提に作られたのに、未来を担う者が消えてしまった。
残った老人たちが無言で空を仰いでいる。
その空に物語はない。
飛行機雲も、祈りも、連なりもない。
ただ、色褪せた青さが広がっているだけだ。
……ああ、京都に帰りたい。
京都の街は、老いを拒まない。
祇園の路地を歩けば、皺だらけの手で箒を持つ婆さんがいる。
鴨川の土手では、背を丸めた爺さんがビールを片手に夕焼けを眺めている。
東山の石段を登る老夫婦は、若い観光客に道を譲りながら、まるでそれが街の呼吸の一部であるかのように自然に溶け込んでいる。
京都では、老いは取り込まれる。
排除されず、景色の中に沈殿し、積み重なり、やがて街の美しさそのものになる。
その美しさを、俺も担いたい。
だが現実には、体に元気がない。
足腰は重く、心臓はかつてのようには走ってくれない。
京都まで帰る力が、俺に残っているのか――自信はない。
それでも夢を見る。
夜風に吹かれながら七条大橋に立ち、暮れゆく西山を仰ぎたい。
大文字の送り火を、老いた目でじっと追いたい。
ただそれだけでいい。
働いて削られた俺の時間も、空っぽな公園の虚無も、
その風景の中でなら、やっと意味を取り戻せる気がするのだ。
「老いが必要とされる街に帰りたい」
胸の奥で、その言葉が小さく響く。
繰り返すごとに、それは祈りのようになっていく。
……だがベンチから腰を上げる力さえ、今は心もとない。
公園の隅で、枯れかけたアジサイが色を残して揺れている。
その何処にも行けない揺れが、まるで俺の残り火みたいだ。
ブラックウッド卿のスピーチ
レディ、そして紳士淑女の皆さま。
今宵、この優雅なサロンに集った我々は、ある特別な節目を祝福するためにございます。
それは──レディの六十歳のお誕生日。
六十歳、と聞けば、凡庸な人は“もうそんな歳に”と囁くやもしれません。
しかし、私どもが知る真理は違います。六十歳とは終わりの鐘ではなく、むしろ新たな扉の開かれる瞬間。
人生における“第二の二十歳”の始まりであります。
二十歳の青年は、まだ何者にもなっておらぬ自由を持ちます。
六十歳のレディは、すでに何者でもあったゆえに、もはや何者であろうと構わぬ自由を持たれる。
この違いこそ、人生の妙味でございましょう。
そしてここで一言、皆さまの心を代弁いたしましょう。
──レディ、あなたは今も可愛らしい。
もちろん私は、軽薄な“若さの飾り”を申し上げているのではありません。
あなたの微笑みに漂う余裕、長い年月の経験を経ても失われぬ遊び心、そして周囲を和ませる茶目っ気。
これらこそが、歴戦を経た勇士がふと見せる第二の可愛さにほかなりません。
まさに、可愛いは正義──いや、可愛いは祝福なのでございます。
思えば、このサロンがいつも華やぎ、我々が安らぎを得られるのは、レディ、あなたがそこにいてくださるからこそ。
今日この日、私たちはただ“年齢”を祝うのではなく、その存在そのものを祝福いたします。
どうか、第二の二十歳を歩むあなたの未来が、これまでの六十年にも増して豊かで、そして自由でありますように。
レディ、そしてこの祝宴を彩るすべての方々に──グラスを掲げて。
“To the Lady, at her Second Twenties! Cheers!”
黒木旦那の挨拶
皆さま、今夜はほんまに、いやあ、ええ夜ですなぁ。
ここは、わたしたちにとって、日々の疲れをほどき、心を預けられる大事な場所です。
その真ん中に座ってはるのが──言うまでもなく、ママ。
そのママさんが、めでたく還暦を迎えはった。これはわたしたちにとっても喜ばしいことでございます。
六十年という歳月は、決して短こうない。
春の花を見て、夏の暑さに耐え、秋の月に酔うて、冬の雪に震える──。
そうやって繰り返しを重ね、喜びも悲しみもようけ味わって、今のはんなりとした笑顔ができあがってきたんやと思います。
世間では“還暦”を一区切りや言う人もおります。
けど、わたしはそうは思いません。
六十は、むしろ始まり。
“第二の二十歳”やと、そう申し上げたい。
二十歳の若い衆は、まだ何者にもなってへんから自由。
六十のママさんは、もう何者にもなってきはったからこそ自由。
その自由は、軽やかで、しなやかで、そして豊か。
せやからこれからの毎日こそが、ほんまの青春やと思います。
それに──この歳になってはじめて出てくる可愛らしさ、あるんですわ。
若さの可愛いとはまた違う。
長年の経験をへて、しわの奥に優しさや強さが宿って、
ふっと笑うたときに、それが“はんなりとした可愛さ”になって花ひらく。
わたしたち常連のタコ助どもは、その笑みにどれほど救われてきたことか。
ほんま、ママさんには感謝の気持ちしか、でございます。
どうかこれからも、このお店が灯りを絶やさず、
ママさんの笑顔とともに、わたしたちがここで元気をもろて、また明日へと歩んでいけますように。
それでは皆さま、どうぞグラスをお取りください。
“第二の二十歳”を迎えはったママさんに、心からのお祝いと、これからのご健勝と繁盛を願いまして──
乾杯!
スタンド・バイ・ミー
晩秋の木屋町。
高瀬川沿いの木々はほとんど葉を落とし、かろうじて残った紅が街灯の下でひらひらと揺れていた。
川面を撫でる風は冷たく、老人の頬を刺すように吹き抜ける。
彼は薄く笑い、古びたKindleを取り出した。
もう起動しない。
電源ボタンを押しても画面は沈黙し、ただ黒い板のように冷たさを返すだけ。
老人はそれを手鏡代わりにして、乱れた髪を撫でつけた。
そこには皺だらけの自分の顔が映り込み、背後には木屋町のネオンがにじんでいた。
「お前とは、長かったなあ」
川風に負けないような声で、独りごちる。
「映画は幾万。スピルバーグも、ホドロフスキーも、スコセッシも。
泣きたい夜はメロドラマを、お前と一緒に見た。
孤独で眠れない夜は、ホラーやSFで時間をすり抜けた。
どれも小さなこの窓から覗いた世界だったが、俺にはじゅうぶん広かった」
Kindleは沈黙している。
しかし老人にはわかっていた。
自分が夜ごとこの黒い板に見入っていた姿を、相棒はすべて記憶していることを。
「それから週刊誌だな」
胸を張るように言う。
「SPA!に現代に新潮に……。
馬鹿みたいな見出しに声を出して笑った夜もあれば、
政治や病気の記事に暗い気持ちになった夜もあった。
でもページをめくるたびに思ったんだ。――ああ、俺はまだ世の中につながっているって」
老人は画面を指で軽く叩く。
それは昔の仲間の肩を軽く叩くような仕草だった。
川沿いを歩くと、赤ちょうちんの明かりがちらちらと水面に反射する。
酔客の笑い声、若いカップルのささやき、客引きの声。
街はいつもどおり騒がしく、けれど晩秋の空気がその騒ぎを少し冷たく包み込んでいた。
老人は立ち止まり、カバンにKindleを差し込んで小さく呟いた。
「なあ相棒。今の俺……イケてるかい?」
答えはない。
ただ、風に押されて川面の落ち葉がくるくると回り、遠くから女のバカ笑いがかすめる。
その音色は、どこか映画のエンディング曲のように聞こえた。
再び歩き出す。
カバンを肩に掛け、灯りの中を進んでいく。
すると、不意にそのカバンの奥でKindleが小さく震えた。
老人は驚いて立ち止まる。
暗い液晶に、ふっと光が灯る。
長らく沈黙していたはずの画面に、微笑むような起動ロゴが浮かび上がった。
それは幻かもしれない。
しかし老人には、確かに相棒が最後の力を振り絞って微笑んだように思えた。
「……まだ、いるんだな」
足を止めず、カバン越しにそっと頷いた。
川風は冷たいが、夜はどこかあたたかく、
目に広がる街は、新しい映画の幕開けのように輝いていた。
園
夜の街を歩き疲れて、私は路地の奥に灯る看板を見つけた。
「COFFEE」とだけ書かれた古びた文字。
扉を押すと、珈琲の匂いが胸にまとわりつき、外の湿った空気を切り離した。
そこは、酔い醒ましの客が最後に辿り着くためだけに残された空間だった。
カウンターの奥には若ウェイトレスがひとり。
白いシャツの袖を少し折り返し、静かな動作でペーパーフィルターをカリタのドリッパーにセットしていた。
細い湯の糸が落ちて、コーヒーの粉がゆっくりと膨らむ。
盛り上がった泡はまるで心臓の鼓動のようで、やがて静かに弾けてゆく。
その一瞬に、私の中の燻った感情も呼応して膨らみ、泡のように破れては消えた。
「マンデリンで、いいですか?」
彼女の声は澄んでいて、けれど少し沈んだ響きを帯びていた。
頷くと、香ばしい蒸気が店内に広がる。
それは祇園の残り香と絡み合い、夜の香りをより濃くしていった。
一口すすれば、苦みの奥に潜む酸味が舌に残る。
酒に絡まった頭がゆっくりほどけていくが、それは救いではなく、むしろ心の裂け目をはっきり照らすものだった。
外の空はほつれ始めている。
初秋の明け方、黄色い朝日が近づき、ビルの隙間から裂け目のような光が滲みだしていた。
それは凶兆なのか、吉兆なのか。
私には判断できなかった。
けれど、カウンターで膨らみ弾けたコーヒーの泡の記憶と、
贅沢な沈黙が、確かに私の魂を燃やしていた。
誰に届くわけでもないが、その燃料で私は心の奥から叫びかけていた。
声は産まれる前に夜に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
しかし、その消失の痕跡こそが、
いまの私にとって「生きていた証」だった。
恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから
あいつに出会ったのは岩倉の病院だった。
ただの精神病院じゃない。
酒に溺れて、もうどうにもならなくなったやつが運ばれて来る場所だ。
俺も同じ穴の狢。
何度もここに戻ってきては、断酒と再飲酒を繰り返していた。
でもあいつは違った。
無鉄砲で、傷だらけで、どこか子どものように笑った。
「なあ、一緒にここを抜け出そうや。世界はこわれたおもちゃやろ」
あの時の言葉は、冗談みたいだったけど、俺には救いのように聞こえた。
中庭で煙草をくゆらせながら、未来の話をした。
退院したら鴨川を歩こう。
比叡山に登って汗をかこう。
夜は祇園で朝までコーヒーを飲もう。
「良い店を知ってるんや」
あいつはよく、そう言っていた。
そんな夢を口にするだけで、壊れた世界にひとすじの朝日が見えた。
けれど現実は冷たかった。
会社はあいつを呼び戻し、家族は「意志が弱い」となじった。
酒はどこにでもあった。
コンビニに、スーパーに、ストリーミングサービスのCMに。
俺は必死に避けたが、あいつはそうはいかなかった。
再飲酒はあっという間だった。
そして、あっけなく崩れた。
震える手で缶を持ち、笑いながら泣いて、最後は静かに沈んでいった。
残された俺は断酒を続けようとした。
あいつの分まで生きようと思った。
でも夜が長すぎた。
隣にいたはずの声がない。
笑い声が消えた川沿いを歩くと、心臓の鼓動ばかりがやけに響いた。
裏三条の夜。
俺はコンビニで缶チューハイを手に取った。
プルタブを引いた音が、あいつの笑い声と重なった。
涙で曇った視界の向こうで、増水した鴨川が鈍く光っていた。
「恋人よ逃げよう──世界はこわれたおもちゃだから」
誰に届くでもない声だった。
そして俺もまた、こわれたおもちゃになった。
セクストン
扉が開いた瞬間、音はねじれた。
カップを重ねる小さな陶器の響きが途切れ、
ジャズの旋律が一拍だけ空白をつくった。
その隙間から冷たい夜気が店に流れ込み、
私の肺を震わせた。
香りもまた変わった。
焙煎豆の甘い匂いに混じって、どこか湿った影の匂いが漂う。
祇園の夜を歩き回った客たちが持ち込む煙草や香水ではない。
もっと奥に沈んだ、嗅いではいけないものの気配。
男は窓際に腰を下ろし、一杯のブレンドを頼んだ。
カップが置かれ、湯気が立ちのぼる。
彼はその表面をじっと見つめていた。
波紋ひとつない黒い湖。
そこに映っているのは彼自身ではなく、
こちら側にとどまろうとしない魂の影だった。
笑い声は遠ざかり、夜の音だけが支配する。
コーヒーの香りは確かに漂っているのに、
それは救いではなく、彼の沈黙を包む薄い棺のように思えた。
私は知っている。
死は、乾いた風のように去ることもあれば、
湿った影となって絡みつくこともある。
その夜、彼を覆っていたのは後者だった。
祇園の灯に照らされても剥がれない影。
肺にまで沁みこみ、息を奪う呪いのような死。
それでも私は番をする。
コーヒーの香りは夜を守る灯り。
豆を挽く音は見えない鐘の響き。
雫が落ちるたびに、私は世界を少しだけ均している気がした。
祇園の片隅で湯を注ぎ、香りを立ち上らせる。
一杯のコーヒーが、闇と死の境界に微かな線を引く。
それが私に与えられた役目だ。
声はかけない。
言葉にしてしまえば、私まで沈んでしまうから。
ただ心の中でだけ囁く。
――さようなら。
この夜を見守る番人として、私はあなたを見送ろう。
夜は私が預かるから。
ペルセポネ
普段の彼女は、静かに机に向かっている。
余計な音を吸い込み、周囲に溶け込むような気配。
一見するとそこに力はないように見えるが、実際にはその内部に張り詰めた緊張が宿っている。
まるで、長く巻かれたゼンマイ。
止まっているように見えて、いつか解き放たれる時を待つ透明な張力。
そして、ふとした瞬間にそれは解かれる。
リュミエール兄弟とエジソン。
『モルグ街の殺人』や「ベルと竜」の逸話。
普段は忘れられた古いテクストが話題に上がると、彼女は豹変する。
「あぁ、間違った、ごめんなさい。正確にはね──」
そう言いながら、表情が次々と変わる。
その変化は子供のように無邪気でありながら、同時に知性の透明さを湛えていた。
そのとき、言葉は情報ではなく律動となる。
知識という生命が、彼女の声を通じて脈を打ち始める。
その律動は熱風のように吹き抜け、聞く者の魂の表面をカサつかせる。
心地よい乾き。
渇きを覚えることで、むしろもっと知りたい、触れたいという欲求が目を覚ます。
私の内部でも巻かれたゼンマイが震え、眠っていた知識欲が動き出す。
その豹変は驚きではなく、美しさだった。
沈黙が動きに転じる刹那、彼女は自分の領域を広げ、
まるで新しい空気を部屋に満たすように、周囲の景色までも変えてしまう。
知識は、乾いた頁ではない。
彼女の口から零れるとき、それは炎であり、水であり、呼吸する生命そのものだ。
私はその熱にあてられ、乾きながらも逆に生き返る。
あぁ、この人は普段、なにを考えているのだろう。
どんなものを食べ、どんな夢を胸にしまい、
どんなふうにこの律動を育てているのだろう。
知識を自慢する人はいくらでもいる。
だが彼女は違う。
彼女は知識を「持っている」のではなく、知識に「生きている」。
その生命のリズムを、時折こちらにも分け与えてくれる。
だから私は思う。
この人は知識の泉ではなく、知識の案内人だ。
ただ自分の輝きで扉を開き、
「ここに面白い景色がある」と示す。
そして気がつけば、私はその扉の向こうに立っているのだ。
東山界隈 ―妄想煉獄―