
百合の君(71)
賞残二年、川照見盛継は十五の少年だった。彼は主君、出海真砂秀と共に将軍家の仇である別所討伐のために出陣した。しかし、敵の力は圧倒的だった。波が引くように逃げ出す出海の兵を追いかけるようにして、沓塵は自ら本陣に突っ込んできた。その時のことを思い出すと、盛継は今でも歯ぎしりをする。
ここであいつさえ倒せば、我らの逆転勝利だ。未熟でそんな技量もないくせに、意気込みだけは立派な若武者は思い、鉄砲水のような勢いで迫って来る敵に向かって馬を走らせた。真っ黒な甲冑から長い髭を伸ばした影のようなあの男を槍で突いた瞬間、盛継は落馬して兜の下の冷たい瞳を見上げていた。何が起こったのか全く分からなかった。ただ、沓塵の後ろで、高く昇った夏の太陽が冷えびえと輝いていた。全身が氷りついた。
槍が振り下ろされるまさにその瞬間、目の前に立ちはだかった者がいた。その白い甲冑に黄金の模様は、他でもない主君の出海真砂秀だ。盛継は立ち上がる事すらできないまま、まるで遠い世界で起こっている事のように二人の戦いを眺めていた。
別所軍が撤退して、真砂秀が手を差し伸べて来た。その時になってようやく、盛継は失態を自覚した。主の手を取らず、そのまま土下座した。
「申し訳ございませんでした!」
真砂秀は手を伸ばしたまま、笑った。
「まさかお前を守るために、戦うことになるとはな」
「腹を切ってお詫びいたします!」
「そんなことはせずともよい」
頭を上げると、父のような優しい微笑みがあった。
「お前は将来、強い侍になって私の子を守れ。その時まで、もらったお前の命、お前に預ける」
差し出された手を握ると、血で濡れていた。それは自分の腕を流れる血と混じって垂れた。
明殉元年夏、盛継は上嚙島城までの途上で空を仰いだ。あの時沓塵の後ろから冷たく見下ろしていた太陽は熱く、大きさまで違っているような気がした。しかし、久しぶりに賞残二年から地続きの時間が流れていることを感じてもいた。
真砂秀が亡くなってからの時間は、完全に孤立していた。ただその日その日を生存しているというだけで、前後の脈絡もない細切れの時間だった。再び出海の下で働くことができたというのに、裏切り者として死ぬ。名は惜しいが、しかし、それも忠義のためには仕方のない事だ。
珊瑚様も、立派な君主になられるであろう。
ふとそんな思いが頭をよぎった。浪親様も、今の珊瑚様と同様、昔は絵を見たり描いたりするのが好きで、剣術の稽古はさぼってばかりいたのだ。花村清道の絵が見たいばかりに、何かと口実をつけてお父上の下に参上していた。
あの宴会で花村清道と会った時、絶対に浪親様は重く用いるだろうと、私は、私だけは予見していた。
幼い頃よりお仕えした私が、盗賊としての最初の子分である並作殿と謀反の末に死ぬというのは、出海再建ための地ならしのようなものかもしれぬ。
盛継の追憶は、乱暴に中断された。嵐のような土煙が、草木もなぎ倒さんばかりの地響きを伴って近づいてきた。考えるまでもない、敵の軍勢だ。しかし、どこの軍だろう。
目をこらした盛継は、驚きと喜びと恐れに、身を八つ裂きにされそうになった。
喜林の旗印だ。大将自ら先頭に立ち、幟旗のように國切丸を掲げている。あんなでかい物を片手で持ち上げるなんて、人間ではない。鬼だ。
盛継は恐れる心を抑えた。あやつさえ倒せば、出海の天下は安泰だ。百合の君さえ排除できればよかったが、とんだおまけが付いたものだ。
盛継は、再び天を仰いだ。これも、真砂秀様のお導きに違いない。胸のお守りに手を当て、土煙に向かって馬を走らせる。
「いざ勝負!」
しかし盛継の剣撃は、義郎に軽く受け止められた。國切丸は、輝く鉄の壁と言ってよかった。反動だけ残し、びくともしないその壁に、驚く自分の顔が映っている。情けない、奥歯を噛みしめると、ジャリッと砂を噛む音が口中に響く。
「腰巾着が、血迷うたか!」
義郎が刀を払うと、盛継どころか乗っていた馬までのけぞった。一瞬迫って来た地面を見て、冷や汗をかく。
盛継は敵を睨みつけた。身長は決して高くない。しかし、黒々とした髪が全身にまとった毛皮と共に逆立ち、燃えるように赤い瞳から発散される殺気と相まって、何倍も大きく見える。
しかし、盛継は思った。それでも人間だ。斬って斃れぬはずはない。柄を握り直し、深呼吸をする。國切丸は長い。距離を取ったら敵の間合いだ。
盛継は馬の腹を蹴って、一気に距離を縮めた。
「隣で見ていた天下が、欲しくなったか!」
頭上に迫る一撃を、かろうじて防ぐ。まるで流星を受け止めたようだ。骨が折れ、肩に激痛が走る。正面、盛継は喜林義郎の赤い瞳を見た。珊瑚と同じ、血のような赤。盛継は自分の運命を受け入れた。
「仕方がなかったのだ!」
有るべき手ごたえはなく、盛継は空を斬る己の剣を見た。夏の日差しに輝いて、それ自体が熱を、この大音声を発しているようだった。
「仕方のないことしか出来ぬ者が、私に敵うと思うたか!」
盛継は離れゆく己の胴体を見た。狼の毛皮をまとった怪物と対峙するその姿は、首がないことを差し引いても立派な武者だった。
百合の君(71)