『感想集2』
2つめの感想集です。
まだ追加予定です。
あるていどたまったら3つ目にいきます。
最近、視聴したTV番組の感想をつらつら書きます。
もしも再放送しましたら見てみてください!
NHKさんが多めかもしれません。
感想1
〇こころの時代 闘うガンディー 非暴力思想を支えた聖典5
常識的な状況のときは常識的な振る舞いをしたほうが目立たず生き残る確率は上がるし、世界も自分自身もこれこれは常識的とすらわざわざ意識的に感じなくても、現に常識的な状況のときは常識的に振る舞う人びとのほうがずっと多い。
非常識的な状況のときに逸脱する人間は時代によりけり殺されている。
非常識的な状況の場合ほとんどの人びとは同調圧力に服従する。
その中で不服従を貫くならかなり強い哲学的な思想や宗教的な思想が自分自身の中に無いと非常識に服従することになる。
非常識な状況のときは非常識的な圧力がかかっていることは多く常識的にほぼ全員振る舞えない。
全員が共有できた、かつての常識が通用しない。
だからこそ、非常識的な状況だからだ。
非常識的な状況でそれほど逸脱せず、同調圧力に服従せず、かつての常識的にも振る舞わず(振る舞えず)、そのときひとはどのようにしたらよいのか。
そのとき自分自身の信じる哲学や宗教、物語が自分一人のものであってはいけない。
なぜなら一人だけに個別ケースで通用するなら哲学や宗教、物語として脆弱だからだ。
常識的ではない新しい哲学や宗教、物語がその時代で非常識的な状況に苦しむ人びとに必要になるのではないか。
非常識的な状況を乗りこえるようなブラッシュアップをむかえる思想や、新しい知見を得られるような哲学や宗教、物語が理想だと個人的に思う。
ガンディーの非暴力不服従は仕組みとして理にかなっている。(もちろんガンディーは仕組みとして思想したわけではなく活動家として目の前の現実を良きものに変えようと自他ともに革命したのだと思う)
誰にでもできるわけではないが、ガンディーの人格と優れた教養と経験値、見識の広さが、インドという発展途上の場とイギリス占領下の時代の流れと、合致したように見える。
ガンディーが指導者として(良い意味合いで、政治家ではないと個人的に思う)非暴力不服従を徹底してできているなら、そこから学ぶ民衆は大変に多いと思う。
ガンディーの指導は、ヒンドゥー教というマジョリティの立場からヒンドゥー教の暗闇である不可触民の課題を織り込み、自分たちの国は自分たちで護ろうというインド統一の目的のもと、民衆を動かす新しい強い物語であり、カースト制度という歴史であり文化であり宗教である制度を否定はせず、さらに解釈を改めてブラッシュアップした哲学的思想になっているとわたしは感じた。
非暴力も意志がいるけれど、不服従はかなりの強い哲学がいると思う。(ガンディー自身も、従い学ぶほうも、迷いながらの旅路ではないだろうか。だからこそバガヴァッド・ギーターをよりどころにしているのかもしれない。)
イギリス占領下のインドでは国政、経済、法律、宗教などの面々から見ても、これは服従したほうがマシだろうと思う民衆がいてもなんら不思議はないと感じた。
ガンディーを見ていて、歴史を動かすのは政治家という役割の人びとが多いのかもしれないけれど、歴史に長く遺るもの(受け継がれるもの)は哲学や思想や物語のほうなのかなとわたしは思った。
あまりまとまってはいないけれど、番組第5回の初見の感想を羅列した。
おもしろかった。
感想2
〇100de名著 サン=テグジュペリ 人間の大地 第3回 砂漠に落っこちる
番組第3回は、砂漠で遭難し生存の危機におちいったサン=テグジュペリが、極限状態のなかで前提を覆すような思想の転換をするシーンの数々が描写されている。
この場合の前提は死ぬということである。
(人間は3日水分を摂れないと死んでしまうため砂漠で遭難したサン=テグジュペリには生存のタイムリミットがある。)
砂漠にて脱水と寒さに耐え4日目を過ごすサン=テグジュペリの目は人間とラクダの足跡を見つける。
リビアのベドウィン(砂漠の民。アラビア語を使いイスラム教を信仰しているひと)はサン=テグジュペリ(キリスト教)に水を分け与えサン=テグジュペリは遭難から助かった。
サン=テグジュペリはベドウィンの彼に神を見る。
ベドウィンはサン=テグジュペリにとって個人の枠を超えた人間への信頼を与えてくれたと映る。
わたしはこのシーンが今回、特に好きだった。
死ぬというタイムリミットがある状況でも、サン=テグジュペリの思想は流れるように詩を味わうよう、美しい。
彼は生死の境目を綱渡りする冒険家としてこそ、輝く性質を持っているような気がする。
わたし個人的には、だめかもしれないというときこそ、発想の転換というのか、視点を自分個人の枠だけに向けずに、自分自身だけにとらわれない柔軟さを発揮して、自分以外の他者への責任感にまなざしがある人びとは、大変に人間として生き残るちからが強いと思っている。
サン=テグジュペリは砂漠のなか人間に呼びかけ人間を見出し、人間として生き残っている。
人間の仕事を為している。
サン=テグジュペリの幸運と、幸運の解釈のしかたは素晴らしいのひとことに尽きる、第3回だった。
感想3
〇泣くな赤鬼 レターボックスサイズ
野球部の先生と教え子の、すれ違いながら別れたその後、教え子の病をきっかけにそれぞれの人生が再び交錯するストーリー。
2時間ほどの映画。
先生と教え子の2人のまなざしは学校時代はそれぞれの人生観、正しさはあるけれどもひたすら平行線を進む。
けれども、教え子の病をきっかけに2人それぞれのまなざしが向かい合う新たな関係性が構築されいき、2人の家族や友人も関係し合いながら物語が展開していく。
病にふせる教え子が人生最後にしたいことが大好きな野球だった。
教え子は学生時代野球から離れても、自分自身の最後の願いと赤鬼と呼ばれる先生からは、彼は逃げることは無かった。
先生である赤鬼は教え子の最後の願いを叶え支えることで、教師としての新たな役割、存在意義を獲得し教え子が亡くなったあとも一歩を踏み出せている。
わたしが個人的に好きなシーンは大人に成長し病におかされた教え子が、かつての旧友とベンチで語り合う光景。
友人は自分のせいで野球を辞めたのではないかと教え子に問うが、教え子は笑って「違う。俺は自分で勝負をおりたんだ」と言う。
この教え子の言葉はわたしには味わい深く感じられる。
教え子は課せられた努力をすることは確かに性質的に難しかったのかもしれない。
けれど、それは得手不得手の話であり、本来の彼は、ひとりきりで野球をしていたわけではなく、チーム皆で野球をしていたいと思ったからこそ、甲子園という夢に引き寄せられた人物のひとりであったのかもしれず、赤鬼が勧めるような熾烈な競争意識よりも大切なもの、大切な野球観を彼なりに見ていたのかもしれないとわたしは想像した。
ただ、赤鬼が野球部内で勧める指導である競争意識も教え子のことを赤鬼なりに考えてのことであり、野球の技術力が高い教え子に本気で向き合おうとした証でもあり、そこの2人の平行線が歯痒く切ない物語であるけれども、だからこそラストシーンの赤鬼の何とも言えない表情は視聴者の胸にくる熱さがある。
終わりをむかえる者も始まる者も、残された者たちも、どの人生も、なぜだかひとりきりになることができない関わりの不思議さを感じさせてくれる映画だった。
感想4
〇BS世界のドキュメンタリー 「ヒトラーの本棚 ナチズムの源を読み解く」
ヒトラーの蔵書を専門家たちが研究し、なぜナチズムがあの時代に発達してしまったのか、ヒトラーの考えの土壌を読み解くドキュメンタリー番組を視聴した。
最後まで興味深く見たからこそ番組のあらすじや詳細はあえて記述せず本編に譲る。
ここからは番組を視聴した、わたしの個人的な意見を記したい。
ヒトラーの蔵書を研究した専門家のひとりがこう言っていた。
ヒトラーの蔵書は彼自身が個人的に集めたものもあるが、政治の世界に足を踏み入れ始めたときや総統になってから、ドイツの知識人や財界人など社交的な場の重鎮たちがヒトラーへ捧げた本たちも数多くあったそう。
わたしは、ヒトラーという人格を産み出した土壌は本棚ではないと感じる。(ヒトラーを読み解くヒントにはなる)
ヒトラーへ捧げられた本たちがどのような意図をもち、いかような背景があり、どんな人びとから贈られたのかということを考えることは、避けては通れないのではないのかとわたしは思う。
本自体に罪はなく、本を贈られた意図と背景、ヒトラーが本を読み解くちからいかんが、時代のうねりとあいまって、ヒトラーという人格を世界に産み出してしまったのではないかと、番組を視聴してわたしは個人的に感じた。
本は不思議だ。
伝えてくれるものは膨大な知識や情報だけではなく、本を読む自分自身の新たな世界観への扉であり、簡単には色褪せない本と本との時代をこえた邂逅を読者は視るチャンスであり、著者以外の人間に読まれるための本は基本的に優しさと希望がつまっていると、わたしは思っている。
わたしは本を読むとき、ひとそれぞれ様々な読み方があってよいとも思うけれど、本は不思議だという素朴な驚きを無視して読まれることはなるべくなら避けてほしいと、ちいさく思う。
ヒトラーは蔵書をどのような読み方をしたのか、そしてその後ドイツは世界的にどうなっていったのかは、ぜひ本編を視聴してみて確かめてほしい。
番組は1時間ほどのドキュメンタリー。
NHK BSなので再放送などあったら見てみてほしい。
『感想集2』