彼岸花

ひと月前に比べるとかなり涼しくなってきました。夜中に外に出てみると、思いのほか肌寒いことに困惑してしまいます。闇夜を散歩しようと思っても、私の家の周りには闇なんてほとんどありません。どこもかしこも街灯で照らし出されていて、昼間よりも妙な明るさを感じたりします。暗さを求めて公園の方まで来ました。池の周辺には、少し木が茂ったところがあり、その辺は光も届かないらしく、鬱蒼とした雰囲気をちょっとだけ味わうこともできます。なんの変哲もない日常を送っていると、少しくらい冒険をしたいという欲も湧いてくるようです。若干の高揚した気分を抑えながら、木に囲まれた暗がりの方へ勇気を出して向かっていきます。そろそろ葉も木から落ち始める時期です。林の中に入っていくと、土の上に落ちて枯れ果てて固まった葉を踏みつぶしていきながら、前へと進んでいきます。葉を踏み鳴らすときのぱりっとした感触は少し心地よかったりします。右手に池を臨みながら、転びはしないかと感じ歩きつつ足元に不安を抱いてます。虫がよく鳴いています。ここで、何かいい比喩でも思いつけば、情緒的に虫の音色を表現できて様になる文章ができあがりそうなものですが、あいにくこのできの悪い頭からは、豊饒な語彙を期待するのは無理なようです。かっこをつけて、難しいことを書くくらいなら、素直に虫の音色に感嘆した方が潔いし、その方が文章としても立派なのでしょう。などといいつつ、自分の無知に居直った態度もまた見苦しいものです。もうやめましょう。よけいな思考に精を出すから、虫の鳴き声にも闇夜の景色にも没頭できないではないか。


 自然を堪能するという行為は、ある程度自分の中で渦巻く思考に疲弊した後にはじめて可能になるのではないか。自身の内面と対峙することにうんざりして疲れ切った後に、ふと外側の世界に注意を向けたとき、そのときこそ周囲の雑草や川や並木道と溶け合うような心持を抱くことができるのではないでしょうか。思えば、子供の頃からまったく実りのない無駄なことばかり考えてきたのですが、それはすべてこうして自然と向き合うための準備だったのかもしれません。そのように考えれば、自分のこれまでの空虚な人生にも何か意義があったと思えてきます。自分の思考が植物たちと混ざり合えるのかもしれない。儚い稚拙な願望ですが、勝手に自分で思い込む分には罪はないでしょう。


 そんなくだらないことを考えているのも飽きてきたようで、しばらく意識があるかないかのような状態で林の中を散策しているうちに、光が恋しくなってきました。林から抜け出て、いつものように並木道を散歩することにしました。街灯が煌々と道路と私を照らし出してくれています。日中は自然の光を浴び、夜は人工の光を浴びている現代人。いつでもどこでも光が照らし出してくれる。光が導いてくれる。ここまで光だらけになると、光のありがたさも薄れてしまうのかもしれません。そうして歩いているうちに、ふと道から外れた雑草の固まりのさらに奥の方に彼岸花が寄り集まって咲いているのに気がつきました。街灯の光がようやく届くくらいのところで、物憂げに佇んでいます。かすかに照らし出された色調は闇と溶け合っており、花の周囲だけ特殊な静謐さに満たされているようです。なんとなく、寺院の奥の方に並ぶ仏像を連想させます。暗がりの中で花びらの色彩が薄い光を浴びる姿を見ていると、人の世界と植物の世界が、現在と過去が、混ざり合う気持ちを抱きながら、まったく心の方は波打たないのです。これほどもの言いたげな雰囲気を醸し出している花も珍しいのかもしれません。花というものは、自身が見られることを過剰に意識しているのか、色彩に反してどこか寡黙な感じを漂わせているものです。彼岸花も例外ではないのですが、それでも沈黙を強いられてきた者の、はかりしれぬ苦しみが、より込められている気をさせてくるところがあります。自ら選びとった高貴な沈黙ではなく、どこか痛ましさの漂う沈黙。花は黙するものではあるが、虫の鳴き声にあわせて咲くあの花は、他の花とは異なる沈黙を生きているようです。


 人間同士の営みが複雑に絡み合い交錯していながら、奇跡的にも大きな破綻をもたらさないのは、呪いの賜物なのではないか。そんなことを、花を前にしながらふと感じました。不吉なことを考えているのにも関わらず、妙に心の中は落ち着いています。澄んだ心境の中で、独り花を見るのはいいものです。

彼岸花

彼岸花

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-20

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