ウィロウブルックの木工房へようこそ
第1話 もう一つの世界の工房
僕の人生は、いつだって予想外の連続だった。三十二年間、それなりに真面目に生きてきたつもりだけれど、まさか旋盤事故で死んで異世界に転生するなんて、誰が想像できただろうか。
「村上、また残業か?」
同僚の声が頭の中でこだましている。あの時、僕はガレージで木工をしていた。平日の疲れを癒やすための、ささやかな趣味の時間。旋盤を回して、小さなペン立てを作っている最中だった。集中していたせいで、安全装置の確認を怠った。回転する刃物に袖が巻き込まれて、そして——気がついたら、森の奥で獣の遠吠えに震えていた。
最初に感じたのは恐怖だった。見たことのない巨大な木々が空を覆い、どこからか野獣の唸り声が聞こえてくる。足音を殺しながら必死に森を抜け、小さな村にたどり着いた時には、空腹と疲労で意識が朦朧としていた。
「大丈夫かい、旅人さん?」
声をかけてくれたのは、丸い顔をした中年の男性だった。宿屋の主人だと名乗った彼は、僕の様子を見て心配そうに眉をひそめる。村人たちも集まってきて、口々に心配の声をかけてくれた。
「記憶が曖昧で、どこから来たのかも覚えていないんです」
嘘ではない。この世界での記憶は確かに曖昧だから。主人は「そういうこともあるさ」と優しく微笑んで、僕に温かいスープと簡素な部屋を提供してくれた。
その温かさに、僕は思わず涙がこぼれそうになった。死んだと思っていた僕が、こうして生きている。しかも見知らぬ人たちが、何の見返りも求めずに助けてくれている。
「ありがとうございます。本当に」
震え声で礼を言うと、主人は困ったような顔をして頭を掻いた。
「何言ってるんだい。困った時はお互い様だろう」
三日ほど宿で過ごすうちに、この世界の基本的なことが分かってきた。ここはエルドリアという世界で、魔法やモンスターが存在する。僕がいるのはウィロウブルックという小さな村で、隣国との国境に近い辺境の地だった。
「帰る場所はないのかい?」と主人が尋ねるたび、僕は首を振るしかなかった。元の世界に帰る方法なんて、分からない。それに、もし帰れたとしても、僕はもう死んだことになっているのだろうか。
でも、絶望ばかりしていても仕方がない。この世界で生きていくしかないのだ。幸い、転生した時になぜか持っていた小さな革袋には、金貨と銀貨が入っていた。この世界での通貨らしく、宿代を払っても十分な額が残っている。
そして何より、前世の記憶と技術はそのまま残っていた。木工の知識も健在だった。もしかしたら、この技術で生計を立てられるかもしれない。
「工房を探しているって?」
宿屋で相談すると、主人は興味深そうに聞き返した。村人たちも集まってきて、僕の話に耳を傾けている。
「ええ、木工ができる場所があれば…」
「それなら村の外れに古い工房があるよ」と、髭を生やした老人が口を挟んだ。「前の持ち主が亡くなって、もう二年も空いたままだ」
「でも、よそ者にそんな大切な場所を──」と僕が躊躇すると、主人は首を振った。
「何言ってるんだい。腕のある職人が村に住んでくれるなら、みんな大歓迎だ」
村人たちも頷いて、僕の背中を押してくれる。この温かさに、胸が熱くなった。
翌日、主人に案内された工房は思っていたより立派だった。石造りの建物で、屋根こそ少し傷んでいるものの、中は広々としている。作業台や基本的な道具も残されていて、手入れをすれば十分使えそうだ。
「いくらぐらいですか?」
「そうさね、金貨五枚もあれば十分だろう」
主人の提示した額は、僕の予想より安かった。きっと辺境の土地だから、都市部より相場が安いのだろう。
「本当にいいんですか?こんな貴重な場所を」
「ああ、いいんだよ。それより、また村に職人の音が響くと思うと嬉しいんだ」
主人の言葉に、僕は迷わず購入を決めた。ここで新しい生活を始めよう。このまま人生をやり直せるかもしれない。そんな小さな希望が、胸の奥で温かく輝いていた。
工房の掃除と道具の手入れに一週間かかった。前の持ち主は丁寧に道具を管理していたようで、少し錆びた部分を磨けば十分使える状態だった。のこぎり、かんな、のみ、やすり。どれも見慣れた道具で、手に取ると前世の感覚が蘇ってくる。
最初に作ったのは、簡単な木のスプーンだった。村の森で拾った樫の枝を使って、手慣れた手つきで削っていく。木を削る音が工房に響き、木屑の香りが鼻をくすぐる。
ああ、この感覚。やっぱり僕は木工が好きだった。不安で押しつぶされそうだった心が、少しずつ軽くなっていく。
「きれいに削れましたね」
振り返ると、工房の入り口に女の子が立っていた。茶色い髪を三つ編みにした、十八歳ぐらいの子だった。好奇心旺盛そうな瞳で、僕の手元を見つめている。
「あ、ごめんなさい、勝手に入ってしまって。私、ミラです」
「いえいえ、大丈夫ですよ。僕は…、そうだね。タクミと呼んでください」
本名の村上匠をそのまま名乗るのは不自然だと思い、名前だけ伝えた。ミラは人懐っこい笑顔を浮かべて、スプーンを興味深そうに眺める。
「木でこんなに滑らかなスプーンが作れるんですね。すごいです」
「これは失敗作ですよ。もっと上手な人なら、もっときれいに作れます」
僕の謙遜に、ミラは首をかしげた。そして、少し考え込むような表情になる。
「失敗作?でも、とてもきれいじゃないですか。それに」
彼女は少し頬を赤らめて続けた。
「タクミさんって、とても優しい手をしてるんですね。こんなに丁寧に作られたスプーンなら、きっと使う人も幸せな気持ちになります」
彼女の素直な反応に、僕は少し気恥ずかしくなった。前世でも、自分の作品に自信を持つのは苦手だった。でも、こうして喜んでもらえるのは嬉しい。
その日から、ミラは時々工房を訪れるようになった。木工の過程を見るのが楽しいらしく、僕が作業していると熱心に質問をしてくる。
「どうしてそんなに薄く削れるんですか?」
「コツがあるんです。木の繊維の向きを見極めて、一定の力で…」
説明しながら、僕はかんなで薄い木屑を削り取る。くるりと丸まった木屑を見て、ミラは目を輝かせた。
「わあ、まるで木の花びらみたいです。タクミさんの手って魔法みたい」
彼女の表現に、僕も思わず微笑んだ。確かに、薄く削れた木屑は花びらのようにも見える。
「魔法なんて大げさですよ。ただの技術です」
「でも、普通の木がこんなに美しいものに変わるなんて、やっぱり魔法だと思います」
ミラの純粋な感動に触れて、僕は自分の仕事に対する誇りを思い出した。そうだ、木工は確かに魔法のような技術なのかもしれない。
一週間ほどして、ようやく最初の作品群が完成した。スプーン、フォーク、木のボウル、小さな皿。どれも実用的で、シンプルなデザインのものばかりだ。
「市場で売ってみたらどうですか?」
ミラの提案で、僕は作品を持って村の市場へ向かった。小さな市場だが、野菜や肉、日用品などを売る店が軒を連ねている。僕は端の方に小さな敷物を広げて、作品を並べた。
「これ、いくらで売るつもりですか?」
隣で野菜を売っている老婆が、興味深そうに声をかけてきた。他の商人たちも、僕の作品を珍しそうに眺めている。
「そうですね。スプーンは銅貨五枚、ボウルは銀貨一枚ぐらいで販売しています」
僕の値段設定に、老婆は驚いたような表情を見せた。
「随分安いじゃないか。この出来なら、もっと高く売れるよ」
周りの商人たちも頷いて、口々に僕の作品を褒めてくれる。でも、僕には自信がなかった。前世でも趣味程度だった木工で、そんなに高い値段をつけるなんて申し訳ない気がする。
最初の客は、若い主婦だった。木のスプーンを手に取って、滑らかな表面を指で確かめている。
「手触りがとてもいいですね。これ、本当に銅貨五枚でいいんですか?」
「はい、よろしければ……」
彼女は迷わず購入を決めた。続いて中年の男性がボウルを買い、老人がフォークを選んだ。気がつくと、持参した作品の半分以上が売れていた。
「ありがとうございました」
一人ひとりに丁寧にお礼を言うと、お客さんたちは皆、満足そうな表情で去っていく。その後ろ姿を見送りながら、僕の胸には温かな充実感が広がっていた。
「タクミさんの作品、評判になってますよ」
夕方、ミラが興奮した様子で工房にやってきた。
「評判って、誰にですか?」
「市場で買った人たちが、みんな『こんなにきれいな木工品は初めて見た』って言ってるんです。特に木のボウル、触り心地が全然違うって」
「お母さんも言ってました」と、ミラは嬉しそうに続けた。「『あの職人さんは、きっと木の気持ちが分かるのね』って言いました!」
僕の作品がそんなに評価されているなんて、信じられなかった。確かに、丁寧に作ったつもりだけれど、特別なことをしたわけじゃない。
「村の商人さんも興味を示してるって聞きました。もしかしたら、定期的に買い取ってくれるかもしれません」
ミラの言葉に、僕は少しほっとした。この世界で生活していくためには、収入が必要だ。木工で生計を立てられるなら、これほどありがたいことはない。
翌日、予想通り商人がやってきた。がっしりした体格の中年男性で、鋭い目つきで僕の作品を検分している。
「ほほう、これは確かにいい出来だ。特にこのボウルの内側の仕上げ、手間がかかっているね」
商人は木のボウルを逆さにして、底の部分まで細かくチェックしていた。その真剣な眼差しに、僕は緊張する。
「どこで修行したんだい?都市部の工房か?」
「いえ、独学で…趣味程度のものです」
僕の答えに、商人は眉をひそめた。
「趣味でこの技術?それはないだろう。まあ、出自はどうでもいい。問題は品質と値段だ」
商人は残っていた作品をすべて買い取ると申し出た。提示された金額は、僕が市場で売った価格の二倍近くだった。
「え、そんなに高く買い取っていただけるんですか?」
「当然さ。これだけの品質なら、都市部でもっと高く売れる。定期的に納品してもらえるなら、継続的な取引も考えよう」
商人の言葉に、僕の心は躍った。これで本当に、この世界で職人として生きていけるかもしれない。
商人との契約により、僕の工房経営は軌道に乗り始めた。毎週決まった数の作品を納品し、安定した収入を得られるようになった。ウィロウブルック村での生活も、徐々に馴染んできた。
宿屋の主人は相変わらず親切で、時々夕食をご馳走してくれる。ガリックという鍛冶屋とも知り合いになった。最初はよそ者の僕を警戒していたようだが、仕事に対する姿勢を認めてくれたのか、今では時々工房を訪れて雑談していく。
「木工と鍛冶は似ているところがあるな」
ガリックは僕の作業を見ながら、そんなことを言った。彼は無骨な外見だが、職人としての誇りを持った良い男だった。
「どちらも、素材の性質を理解することから始まる。木には木の、鉄には鉄の扱い方がある」
彼の言葉に、僕は深く頷いた。確かに、木工でも木の性質を理解することが重要だ。繊維の向き、硬さ、乾燥具合。それらを見極めて、適切な技法を選択する。
「でも、タクミの技術は本当に独学なのか?」
ガリックは疑問に思っているようだった。少し困ったような表情で首をひねる。
「信じていただけないかもしれませんが、本当に独学なんです」
前世での経験があることは言えないが、嘘ではない。師匠について習ったわけではないから。
「だとしたら、天性の才能だな。うらやましい限りだ」
ガリックの率直な評価に、僕は照れくさくなった。天性の才能なんて大げさだ。ただ、木工が好きだから続けてきただけのことなのに。
村での生活が一か月を過ぎた頃、工房に変化が起きた。夜遅く作業をしていると、外で何かが倒れる音がした。慌てて外に出ると、工房の入り口近くで人影が倒れている。
フードを深くかぶった人物で、性別も年齢も分からない。でも、規則正しい呼吸をしているところを見ると、気を失っているだけのようだ。
「大丈夫ですか?」
声をかけても反応がない。仕方なく、僕はその人を工房の中に運び入れた。思っていたより軽く、多分女性だろう。疲労で倒れたような感じで、外傷は見当たらない。
毛布をかけて、枕代わりにタオルを折って頭の下に置く。できることはそれぐらいだった。あとは朝まで様子を見るしかない。
その夜、僕は工房の片隅で仮眠を取った。見知らぬ人を一人にしておくのは心配だったし、もし何かあった時にすぐ対応できるように。
朝方、小さな音で目が覚めた。見ると、倒れていた人が起き上がろうとしている。
「気がつかれましたか?大丈夫ですか?」
僕の声に、その人はゆっくりと振り返った。フードが少しずれて、美しい女性の顔が見えた。年齢は二十代半ばぐらいだろうか。整った顔立ちだが、どこか疲れた様子で、警戒するような鋭い瞳をしている。
「ここは?」
「僕の工房です。昨夜、入り口で倒れていらしたので」
女性は素早く周囲を見回し、状況を把握しようとしているようだった。その動きには、どこか軍人のような機敏さがある。でも同時に、安堵したような表情も浮かべた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
丁寧な口調で謝罪する彼女に、僕は首を振った。
「いえいえ、大丈夫です。でも、体調はいかがですか?どこか痛むところは?」
「少し疲れているだけです。すぐに立ち去りますのでお気になさらず──」
そう言って立ち上がろうとした彼女だが、足に力が入らないようでよろめいた。僕は慌てて支えようとするが、彼女は素早く距離を取る。
「大丈夫、心配いりません」
強がっているようだが、明らかに体調が優れない。顔色も悪いし、手も微かに震えている。
「もう少し休んでいかれた方がいいのでは?無理をされると、倒れた時より危険です」
僕の心配そうな表情を見て、彼女は困ったような表情を見せた。何か事情があるのかもしれないが、このまま送り出すのは心配だ。
「お腹は空いていませんか?簡単なものですが、何か作りますよ」
結局、彼女は僕の申し出を受け入れた。簡単なスープと、昨日宿屋で買ったパンを温めて差し出すと、彼女は少し驚いたような表情を見せた。
「ありがとうございます。お名前は?」
「タクミです」
「私は、リラと申します。旅の途中で、少し疲れが出てしまいました」
リラと名乗った彼女は、スープを一口飲んで小さくほっとしたような息を吐いた。どこか上品な仕草で、きっと良家の出身なのだろう。でも、なぜこんな辺境の村に一人で?
「差し支えなければ、どちらへ向かわれるのですか?」
僕の質問に、リラは少し躊躇した後で答えた。
「特に決まった目的地はありません。しばらく、静かな場所で過ごしたいと思っていました」
曖昧な答えだが、それ以上詮索するのは失礼だろう。きっと彼女なりの事情があるのだ。
「でしたら、しばらくこの村にいらっしゃってはいかがですか?ウィロウブルックは小さな村ですが、平和で住みやすいところです」
リラは僕の提案を考え込むように、しばらく黙っていた。その間、彼女の表情には様々な感情が浮かんでは消えていく。
「もしよろしければ」と彼女は言った。「少しの間、こちらでお世話になれませんでしょうか?もちろん、ただでお世話になるつもりはありません。何かお手伝いできることがあれば、なんでも任せてください」
「お手伝い?」
「はい。掃除でも、整理整頓でも。こちらの工房のお仕事について、少し教えていただければ、何かお役に立てるかもしれません」
リラの申し出は意外だった。見たところ、肉体労働には慣れていなさそうなのに。でも、一人で工房を切り盛りするのは確かに大変だ。特に、商人との契約で作品の数も増えているし。
「それでは、しばらくの間ということで、これからよろしくお願いします」
こうして、リラは僕の工房で働くことになった。最初は様子見のつもりだったが、彼女の働きぶりは予想以上だった。器用で、覚えが早く、僕が説明すると すぐに理解してくれる。
村人たちも、リラの存在を温かく受け入れてくれた。「タクミさんのところに、きれいなお嬢さんが来たね」と宿屋の主人は嬉しそうに言った。ミラは特に彼女を気に入ったようで、工房を訪れるたびにリラと楽しそうに話している。
「リラさんって、とてもかっこいいですよね」
ある日、ミラがそんなことを言った。
「かっこいい?」
「はい。なんというか、凛としていて。でも優しくて、頼りになる感じです」
確かに、リラには独特の魅力がある。美しいだけではなく、内面から滲み出る強さのようなものを感じる。でも同時に、どこか影のある表情を見せることもあった。
特に印象的だったのは、彼女が工房の隅で僕の木の指輪を見つけた時のことだった。それは以前、暇つぶしに作った小さな指輪で、特に意味のない装飾品だった。
「これ、とても美しいですね」
リラは指輪を手に取って、じっくりと眺めていた。その瞳には、何か特別な感情が宿っているように見えた。
「ああ、それは失敗作なんです。木の節の部分をうまく処理できなくて完璧に円にできませんでした」
僕の説明を聞いても、リラは指輪から目を離さなかった。
「失敗作。こんなに美しいものが?」
「木目の出方が思った通りにならなくて。もっと均一に仕上げるつもりだったんですが」
でも、リラは首を振った。その表情は、まるで大切な思い出に触れたかのように優しかった。
「いえ、この不規則な木目こそが美しいのです。自然の造形を そのまま活かした芸術品ですね」
彼女の言葉に、僕は驚いた。確かに、偶然できた木目の模様は面白い形をしているが、芸術品なんて大げさな。
「よろしければ、これをいただけませんでしょうか?」
「え?でも、本当に失敗作なんですよ」
「私には、とても大切なものに見えます」
リラの真剣な表情に押し切られて、僕は指輪を彼女に渡した。彼女はそれを大切そうに指にはめて、満足げに微笑んだ。その笑顔は、初めて見る彼女の素の表情のように思えた。
リラが工房で働き始めてから、確かに作業効率は上がった。彼女は細かい仕上げ作業が得意で、やすりがけや表面処理を任せると、僕以上にきれいに仕上げてくれる。
「どこでこんなに器用に?」
僕の質問に、リラは曖昧に微笑んだ。
「昔から手先は器用な方でした。それに、丁寧に教えてくださる師匠が隣にいるから、大して難しくありません」
謙遜しているが、明らかに何かの訓練を受けた手つきだ。でも、詮索するのは野暮だろう。誰にでも話したくない過去はある。
「リラさんの作る指輪、とても人気ですよね」
ミラの言葉で気がついたが、確かにリラが手伝うようになってから、僕たちの作品の評判はさらに上がった。特に彼女が仕上げを担当した小物類は、村の女性たちに大好評だった。
「私は仕上げを手伝っただけです。デザインも技術も、すべてタクミさんのものです」
謙遜するリラだが、彼女の感性と技術が加わったことで、作品の質は確実に向上している。二人で作業していると、まるで長年連れ添った職人同士のように息が合うのが不思議だった。
夕方、作業を終えた後でリラがお茶を入れてくれる。それが日課になっていた。工房の窓から見える夕日を眺めながら、一日の作業を振り返る。穏やかで、幸せなひとときだった。
「タクミさん」
ある夕方、リラが珍しく真剣な表情で僕を見つめた。
「はい?」
「……もし私に隠し事があったとしても、このまま一緒に働かせていただけますでしょうか?」
突然の質問に、僕は戸惑った。
「隠し事?」
「詳しくは言えませんが、私の過去には話せないことがあります。でも、ここでの生活は本当に幸せで。できれば、ずっと続けていきたいのです」
リラの瞳には、不安と希望が入り混じっていた。きっと彼女なりの複雑な事情があるのだろう。でも、この一か月間、彼女が誠実に働いてくれたことは間違いない。
「リラさんがここにいてくれて、僕は本当に助かっています」
僕の答えに、リラの表情がぱっと明るくなった。
「過去のことは気にしません。今のリラさんと一緒に、いい作品を作っていければそれで十分です」
「ありがとうございます」
彼女の小さな声に、深い感謝の気持ちが込められていた。その瞬間、僕は気づいた。リラがここにいることで、工房だけでなく僕自身も変わり始めている。一人で黙々と作業していた日々とは違う、温かな充実感がそこにあった。
その夜、僕は工房で遅くまで作業をしていた。新しいデザインのボウルを試作していると、リラが心配そうに声をかけてきた。
「もう遅いですから、今日はここまでにしましょう」
「後少しで完成なので。リラさんも無理しないで、先に休んでください」
リラは宿屋に部屋を借りているが、遅くまで工房にいることが多い。きっと、この場所が気に入ってくれたのだろう。
「でしたら、私も少し残業を──」
「無理しなくてもいいですよ」
「いえ、手伝わせてください。一人より二人の方が、作業も早く進みます」
結局、僕たちは夜遅くまで一緒に作業した。時々雑談を交えながら、黙々と手を動かす。外は静寂に包まれ、工房には木を削る音と、僕たちの小さな会話だけが響いていた。
「タクミさん」
ふと、リラが作業の手を止めて僕を見つめた。
「どうしました?」
「何かに夢中になる生活って、なんだか楽しいですね」
彼女の素直な言葉に、僕の胸は温かくなった。
「全く同感です。僕もここに来てから作業に没頭して夜更かししている日々が続いています。リラさんが来てからは程々にするようにしていますけど」
「私なんて、お役に立てているかどうか」
「とんでもない。リラさんがいてくれるおかげで、作品の質も上がったし、何よりも──」
僕は少し照れながら続けた。
「何よりも、一人よりは二人の方がもっと楽しく作業ができますよ」
リラは嬉しそうに微笑んで、再び手元に集中し始めた。でも、その頬が少し赤らんでいるのを僕は見逃さなかった。
こんな穏やかな日々がずっと続けばいいのに、と思った。でも、その時の僕は まだ知らなかった。リラの正体も、これから起こる出来事も。この平和な日常が、やがて大きく変わっていくことも。
月が高く昇った頃、ようやく作業を終えた僕たちは、工房の外に出て夜空を見上げた。
「星がきれいですね」
リラが呟くと、僕も同じように空を見上げた。前世では見ることのできなかった、満天の星空がそこにあった。
「こんなにたくさんの星が見えるなんて、初めてです」
「都市部では見られない光景です」
リラの言葉に、僕は少し疑問を感じた。彼女は都市部出身なのだろうか?でも、今はそれを聞くタイミングではない。
「明日も一緒に、いい作品を作りましょう」
「はい」
リラは木の指輪を大切そうに見つめながら答えた。その指輪が月光に照らされて、淡く輝いている。
この出会いが、僕の静かな日常を変えることになるとは、まだ知らなかった。でも、木の指輪を大切そうに身につけたリラの笑顔だけは、確かに本物だった。そして、その笑顔こそが、僕にとって何より大切なものになっていくのだということを、この時の僕はまだ気づいていなかった。
ただ一つ確かなことは、この異世界での新しい人生が、予想していた以上に温かく、希望に満ちているということだった。森で怯えていたあの夜から、僕はこんなにも幸せな日々を手に入れることができた。
木工という技術と、この小さな村と、そして大切な仲間たち。それが僕にとっての新しい世界の全てだった。
第2話 木彫鳥像と指輪
朝の光が工房の窓から差し込む頃、僕は昨日作りかけだった木のボウルの仕上げに取り掛かっていた。リラと共に工房を営むようになって、もう一か月が過ぎた。彼女は僕が起きる前に既に作業台を整え、道具を並べてくれている。その気配りには、いつも感謝していた。
「おはようございます、タクミさん」
振り返ると、リラが銀色の髪を三つ編みにして、いつものように品のある佇まいで立っていた。彼女の青い瞳は落ち着いているが、時々見せる表情の変化が、何か深い過去を物語っているような気がする。僕にはまだ分からない、遠い記憶の影のようなものが。
「おはよう、リラ。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リラは微笑んで、昨日途中まで削っていた木のスプーンを手に取った。その手つきは既に慣れたもので、最初の頃のぎこちなさはもうない。リラの器用さには本当に驚かされる。だが同時に、その手つきには何か軍事的な訓練を受けたかのような正確さがあることに、僕は気づき始めていた。
そのとき、工房の扉が勢いよく開いた。
「タクミさん!おはよう!」
ミラだった。茶色い髪を束ね、いつものように元気いっぱいの笑顔を浮かべている。しかし、リラを見ると少し表情が変わる。憧れのような、でもどこか遠慮がちな態度。二人の間には見えない壁のようなものがまだあった。
「あ、リラさんもおはようございます」
「おはようございます、ミラさん」
リラの返答は丁寧だが、どこか距離を置いているように聞こえる。ミラの方も、リラの美しさと上品さの前で、自分の村娘らしさを恥じているような気がした。
「今日は何の用?」
「そうそう!グレース婆さんが、タクミに頼みがあるって言ってるの」
「グレース婆さん?」
ミラの表情が少し真剣になった。
「村の端に住んでる一人暮らしのお婆さんよ。とても大切なものが壊れちゃったから、直してもらいたいんだって。でも……」
「でも?」
「お金がそんなにないから、お支払いができるかどうか心配してるの」
ミラの言葉に、リラがわずかに眉をひそめた。まるで、お金で価値が決まることに違和感を感じているような表情だった。心配しているように見えるが、気のせいかも知らない。
修理の依頼については正直に言って、予想外だった。僕はまだ村に来て二か月ほどしか経っていない。外人である僕に修理を頼んでくれるということは、少しずつだが信頼を得られているということだろうか。
「分かった。どんなものを直すのか聞いてみよう」
僕の返答に、ミラがほっとした表情を見せた。その隣で、リラが僕を見つめている。その視線には、何か探るような、でも温かいものが込められていた。
しばらくして、小柄で腰の曲がった老婦人が工房を訪れた。グレースは大切そうに布に包んだ何かを抱えている。その手の震えから、どれほど緊張しているかが伝わってきた。
「タクミさん、初めまして。バレンタイン・グレースと申します」
「こちらこそ、はじめまして。ウィロウブルックで木工師を務めているタクミです。よろしければ、先に依頼品をご拝見いただいてもよろしいでしょうか」
グレースは僕とリラを見回して、安心したような表情を浮かべた。特にリラの品のある佇まいを見て、深く頷いているのが印象的だった。
「ありがとうございます。優しそうな方たちですね」
そう言って、彼女は慎重に布を解いた。現れたのは、小さな木彫の鳥像だった。翼を広げた美しい彫刻だったが、片方の翼が根元から折れてしまっている。
「これは……」
僕が息を呑むと、グレースの目に涙が浮かんだ。
「亡くなった主人が作ってくれたんです。結婚十周年の記念品でした」
グレースの声が震えていた。僕はその表情を見て、胸が詰まった。その隣でリラも、いつもの冷静さを失ったような驚きの表情を浮かべている。まるで、そんな深い愛情を込められた物があることに、初めて気づいたような顔だった。
「昨日、掃除をしていて、うっかり落としてしまって……主人との最後の思い出なのに……でも、きっとお高いでしょうし……」
僕は鳥の彫刻を慎重に手に取った。制作者の技術は確かで、羽根の一枚一枚まで丁寧に彫られている。木材はチェリーウッドだろうか。経年で美しい飴色に変化している。
折れた翼の断面を見ると、幸い接着面がきれいだ。適切な木工用接着剤と補強があれば、元通りに直せるはずだ。
その時、僕はリラの表情に変化があることに気づいた。彼女は鳥像を見つめながら、まるで何かを思い出しているような、遠い目をしていた。そして、その唇がかすかに動く。
「こんなにも、大切にされているものが……」
ほとんど聞こえないほど小さな声だった。僕は聞かなかったふりをした。きっと彼女なりに、何か思うところがあるのだろう。
「直せます。僕に任せてください」
僕がそう言うと、グレースの顔が明るくなった。その瞬間、老婆の目に涙が浮かんだ。
「ほ、本当ですか?では、お代を——」
「費用に関しては、まだ大丈夫です。」
僕は微笑んだ。
「一旦、修理に必要な材料を買ったん分だけ請求する形になります。特に今回の件は、壊れたカケラを全部集めていただいたので思ったより安く出るかも知りません」
グレースが驚いた表情を浮かべた瞬間、ミラも目を丸くし、リラは僕を見つめて、まるで信じられないものを見るような表情を浮かべていた。
「ただし、時間をください。急いで直すと、かえって弱くなってしまいます」
「もちろんです。いくらでもお時間をかけてください」
僕は作業台に鳥を置いて、詳しく観察した。リラも興味深そうに見ているが、その視線は複雑だった。まるで、初めて見る光景に戸惑っているような表情だった。
「折れた部分を削り直して、接着面を整える作業が必要です」
僕は作業手順を説明しながら、道具を準備した。先日、村の鍛冶師であるガリックに頼んで作ってもらった小さなノミと鉱石のトカゲの皮で作った紙やすりを順番通りに作業台の上に置いた。そして、最後にモンスターのニカワと漆が入った瓶を棚の中から出した。
異世界で新たな人生を始めた日から、現代の知識を活かすことは大変難しかった。あるものがなくてないはずのものがある世界。想像通りになることより、予想通りにならないことが多い日が続いて来た。
だとしても、じっくり調べる時間はあった。ここには、締切に追われて徹夜する日もなく、無理矢理に依頼品を急かす客もいない。店に寄って来る人々も皆、平凡な日常に報われた田舎の異世界人だけだ。
実に僕が望んだ世界に相応しいと思っている。
「まずは、設計図から始めましょう」
僕は細く削った黒鉛の塊を木の板の間に挟んで鉛筆にして、左手に握った。まだ完成形ではなくて壊れやすかったけど、基礎的な図を描くには使い勝手が良かった。
図を描くところも今まで使った普通の紙ではなく、川で生息している植物のモンスターから得られた茎を薄く裂いて、縦と横に並べ圧力を加えて脱水し、三日間を乾燥させた紙だった。ここでは、《ペッパー》と呼ばれているようで、そのまま紙をペッパーと名付けた。
図を描く作業が終わり、本格的に足りない部分を作る始めると、リラが静かに見守っていることに気づいた。その視線は真剣で、僕の手の動きを一つも見逃すまいとしているようだった。
「なぜ、そこまで丁寧に削るのですか?」
リラが小さな声で尋ねた。その声には、純粋な疑問が込められていた。
「接着面が完璧でないと、また同じところで折れてしまうから。それに——」
僕は手を止めて、グレースを見た。彼女は椅子に座って、心配そうに作業を見守っている。その表情には深い愛情が宿っていた。
「これは、ただの木の鳥じゃない。グレースにとって、亡くなったご主人との思い出そのものなんだ。だから、丁寧に、心を込めて直さなければいけない」
リラの表情が変わった。驚きというより、まったく理解できないという困惑に近い表情だった。まるで、今まで知らない概念に出会ったような戸惑いがそこにあった。
「思い出……それは、何かの価値があるものなのですか?」
彼女の質問は、あまりにも純粋で、そして悲しかった。まるで、誰かを想い、大切にするという感情を知らないような言葉だった。
「そう。物には、それを大切にする人の気持ちが込められている。僕たちは技術だけじゃなく、その気持ちも一緒に直すんだ」
リラは何も言わなかった。ただ、じっと僕を見つめている。その瞳に、何か深い考えが浮かんでいるような気がした。まるで、今まで知らなかった新しい世界を見つけたような表情だった。
ミラがその様子を見て、少し心配そうにリラに歩み寄った。
「リラさん、大丈夫?」
「え?あ、はい……すみません」
リラは慌てたように首を振った。その仕草が、いつもの彼女らしくなく動揺を隠せずにいた。
「ただ、初めて知ることが多くて少し戸惑いました」
ミラの素朴な心配が、リラの心に何かを与えたように見えた。彼女の表情が少しずつ柔らかくなっていく。
木屑の舞う静かな工房に、ノミの音だけが響いていた。
昼頃になって、ようやく鳥の翼が接着できた。僕は慎重にニカワと漆を少しずっつ塗り、正確な位置で翼を固定した。
「よし、できました。後は、くっつけた部分が完全に固まるまで待つだけです」
「大変お疲れ様でした。ありがとうございます」
グレースが涙ぐんでいた。その涙は悲しみではなく、安堵と喜びの涙だった。
「まだ仕上げが残ってるので、明日の夕方にもう一度来てください。色合わせをして、完全に元通りにします」
「本当にありがとうございます。お支払いは——」
「いえ、結構です」
僕は首を振った。
「高い材料を使った訳でもないので今回の依頼は無償でサービスさせていただきます」
グレースは驚いた表情を浮かべた。その隣でミラも目を丸くしている。そして、リラも僕を見つめて、まるで信じられないものを見るような表情を浮かべていた。
「そんな、タクミさんの貴重な時間を提供した費用は支払う必要があります」
「いや、実はですね。僕が来た世界ではこれくらいで費用を請求するとボッタクリだと叩かれますよ。それに——」
僕は鳥の彫刻を見つめた。
「こんな素晴らしい作品を直させてもらえるなんて、僕の方が大変勉強になりました。本当に、僕の工房に来ていただいてありがたいです」
リラが僕を見つめていた。本当に理解できないという困惑があった。彼女の知る世界では、すべてに対価が求められるのだろう。しかし、ここは僕の木工房だ。外の価値観は多少でも通用しなくても問題にならない場所である。
グレースは何度もお辞儀をして、工房を後にした。その後ろ姿には、安心と喜びが満ちていた。
夕暮れの光が工房に差し込んでいた。
僕が片づけをしていると、リラが静かに近づいてきた。
「タクミさん」
「あ、リラさん。今日もお疲れ様でした」僕が軽く挨拶をした。「何か聞きたいことでもありますか?」
「なぜ、お金を受け取らなかったのですか?」
僕は手を止めて、彼女を見た。その表情には、本当に理解できないという困惑と、同時に何かを必死に理解しようとする意志があった。
「先ほどお客様に説明した通りですよ?材料代が発生していないから費用は請求しなかった。ただそれだけです」
「でも、グレースさんは、依頼としてタクミさんの技術と時間を利用しました。それなのに代金は払わず済みました。無償なんてあり得ない契約の形です」
「契約って、大袈裟ですよ」
僕は苦笑した。
「僕なんか、まだまだ学びが必要な素人です。持っている技術は確かにあります。ですが、周りの人より優れていたからと言って、この業界が建てたサービスの基準を勝手に自分に合わせて変えりたくはありません」
リラは長い間、僕を見つめていた。その瞳には、何か複雑な感情が浮かんでいるように見えた。驚きと、困惑と、そして何か新しい発見をしたような光が混じっていた。
「やはり変わった人ですね。考え方がこの世の人間とはだいぶ違います」
「お恥ずかしながら、頑固者だと昔からよく言われます」
リラは慌てたように首を振った。その仕草が、いつもの彼女らしくなく動揺を隠せずにいた。
「そう言う意味ではなく……いえ、何でもありません」
そして、再び作業に戻った。しかし、その動きの中に、以前にはなかった迷いのようなものが混じっているのが僕にも見て取れた。
午後になって、ミラが昼食を持って工房を訪れた。
「お疲れさま!お母さんが作ったサンドイッチ、みんなで食べましょう」
三人で簡単な昼食を取りながら、ミラが村の噂話をしてくれた。しかし、彼女の視線は時折リラに向かい、まだ完全に打ち解けていない様子が見て取れる。
「そうそう、リラさん」
ミラが少し遠慮がちに口を開いた。
「その指輪、すごく綺麗ですね」
リラは右手の薬指にはめた木の指輪を見つめた。それは僕が以前作った練習作品で、彼女がとても気に入って身につけているものだった。
「タクミさんに作っていただいたものです」
「わあ、タクミが作ったの?すごく上手!」
ミラの素直な反応に、僕は少し気恥ずかしくなった。でも、リラが大切そうに指輪を見つめているのを見ると、作ってよかったと思う。
「でも」とミラが続けた。「リラさんの手って本当に綺麗ですよね。お嬢様みたい」
確かに、リラの手は僕やミラのように荒れていない。白く細い指は、まるで貴族の令嬢のようだった。
「私は、まだ修行中ですから手が綺麗なだけです」
リラの答えは控えめだったが、ミラは納得していないような表情を見せた。村の娘らしい直感で、何かを感じ取っているのかもしれない。
「でも、とても上品で素敵です。私も、いつかリラさんみたいになりたいなあ」
ミラの憧れるような視線に、リラは困ったような表情を浮かべた。そして、少し寂しそうにも見えた。
「ミラさんは、ミラさんのままで十分に素敵です」
リラの言葉に、ミラは嬉しそうに頬を赤らめた。その瞬間、二人の間に少しだけ距離が縮まったような気がした。そして僕は気づいた。ミラの存在が、リラに何か大切なことを気づかせているのかもしれない、と。
夕方、工房の整理整頓をしていると、リラが僕の作業机の隅に置いてある小物を見つめているのに気づいた。それは以前作った木の小箱で、特に用途のない装飾品だった。
「これも、タクミさんの作品ですか?」
「ああ、それは失敗作だよ。蓋の合わせが完璧じゃなくて、実用的じゃないんだ」
リラは小箱を手に取って、じっくりと眺めていた。その表情は、まるで大切な宝物を見つけたかのように輝いていた。
「失敗作?こんなに美しいものが?信じられない」
「木目の出方が思った通りにならなくて。もっと均一に仕上げるつもりだったんだけど」
でも、リラは首を振った。その表情は、まるで大切な思い出に触れたかのように優しかった。
「いえ、この不規則な木目こそが美しいのです。自然の造形をそのまま活かしたような感覚です」
彼女は言いかけて、急に口を閉じた。まるで、何か言ってはいけないことを言いそうになったような表情だった。
「リラさん?」
「すみません。つい、夢中になってしまいました」
彼女は小箱を丁寧に元の場所に戻した。しかし、その手がわずかに震えているのが見えた。何か、彼女にとって特別な意味がある物だったのだろうか。
リラが工房で働き始めてから一か月が過ぎ、工房を始めた月より外からの依頼が倍になった。繊細なことから大量の仕事まで人より動く手が速くて予定より早く終わらせることも増えてきた。
「前にも言いましたが、リラさんは本当に上手ですね」
僕の質問に、リラは少し複雑な表情を浮かべた。
この世界では木工はどう言う印象を持っているだろう。ふと、僕はそう思い込んだ。よくメディアから出る異世界の話では男女の役割に決まりがなくて、好きな職業を選ぶように映るが、実際に来てみてそうでもないことに気づいた。
今までの村で出会った騎士や冒険者の中に女性は男性に比べて見れば少ない方だった。ギルドの依頼で村に尋ねた外の人々も殆どが男性で、女性は人外の存在が多かった。この村より大きい都会にはいるだろうけど、権力を持った国王が何を重視するかに寄って世間の常識が変わるだろう。
昔、この世に民主主義が存在していない時とほぼ似ている。あまり愉快な話ではないと、僕は思った。
「タクミさん」
当日の夜、リラが僕に話をかけてきた。
「はい?」
「私と一緒に働いてくださって……本当にありがとうございます」
突然の感謝の言葉にどう反応すれば分からなかったが、僕は内心嬉しかった。
「何を言ってるんですか。僕の方こそ、助かってます」
「いえ、それだけではありません」
リラは指輪を見つめながら続けた。
「ここでの生活で、私は初めて……人を幸せにする仕事があることを知りました」
その言葉には、特別な重みがあった。僕には完全には理解できないが、彼女にとって重要な発見があったことは分かった。
夜の静寂が工房を包んでいた。
その夜、僕は遅くまで翌日の作業の準備をしていた。リラは「少し散歩をしてきます」と言って外に出ていた。最近、夜に一人で外に出ることが多くなったような気がするが、彼女なりの理由があるのだろう。
色合わせのための染料を調合しながら、今日のことを考えていた。グレースの涙、リラの困惑、そして指輪への深い愛着。
この世界に来てから、僕は自分の技術を過小評価していた。でも、今日グレースの笑顔を見て、少しだけ分かったような気がする。
技術の価値は、それを必要とする人が決める。僕の仕事で誰かが幸せになれるなら、それは価値のあることなのかもしれない。
そのとき、工房の外で何かがきらめくのが見えた。窓から外を覗くと、リラが立っていた。
月明かりの下で、彼女の周りに氷の結晶が舞っていた。
手を軽く振ると、空中に美しい氷の花が咲く。それはすぐに消えてしまったが、確かに魔法だった。しかも、かなり高度な魔法のようだった。
僕は息を呑んだ。この世界に来てから、魔法を間近で見るのは初めてだった。そして、リラがただの旅人ではないということも改めて確信した。
でも、なぜ身分を隠しているのだろう。そして、なぜ僕の工房で働きたがっているのだろう。
リラが振り返った。僕と目が合う。
一瞬、時が止まったような気がした。月明かりの下で、彼女の表情に驚きと困惑、そしてわずかな恐怖が浮かんだ。まるで、秘密を知られることを恐れているような表情だった。
僕は静かに窓から離れた。彼女が見られたくないなら、それには理由があるはずだ。もし、彼女が隠したい秘密があるなら、僕はそれを尊重したい。
僕は、ただの職人でいたい。複雑な事情に巻き込まれることなく、静かに木工を続けていたい。
しばらくして、リラが何事もなかったかのように工房に戻ってきた。しかし、その表情にはわずかな緊張が残っていた。
「先に失礼します。お疲れ様です」
「あ、はい。おやすみなさい」
僕は何も見なかったふりをした。彼女の秘密に踏み込むことはしない。それが、僕なりの優しさだった。
でも、心のどこかで思った。
リラは一体何者なのだろう。そして、僕の静かな工房生活は、これからどうなっていくのだろう。
指輪をつけたリラの手が、月明かりの下で静かに光っていた。その指輪を見つめる彼女の表情は、まるで失くした何かを見つけたような、深い安らぎに満ちていた。
翌日の夕方、グレースが約束通り工房を訪れた。僕は一日かけて鳥の色合わせを完璧に仕上げていた。
「あら、まあ……」
グレースが息を呑んだ。その表情は感動で輝いていた。
「まるで新品のようです。いえ、作られた当時よりも美しいかもしれません」
鳥は元通りになっていた。それどころか、僕が表面をわずかに磨き直したことで、木目の美しさが一層際立っている。
「ありがとうございます。主人が生き返ったような気がします」
グレースは鳥を胸に抱いて、静かに涙を流した。その涙は、深い愛情と安堵に満ちていた。その様子を見ていたリラの目にも、いつしか涙が浮かんでいた。
「これで、また主人とお話しできます」
僕は胸が熱くなった。作ってよかった。この気持ちは、お金では買えない。技術だけでは得られない、何か特別なものがあった。
リラも、その光景を静かに見つめていた。その表情には、今まで見たことのない温かさがあった。まるで、初めて人の幸せというものを目の当たりにしたような、戸惑いと感動が混じった表情だった。
ミラは、その場に立って工房の中を眺めていた。彼女は黙って様子を見守っていたが、その表情は複雑だった。グレースの涙と、リラの変化を、敏感に感じ取っているようだった。
「タクミさんの仕事を見ていて、分かりました」
グレースが帰った後、リラが僕のところに来て声をかけた。その声は、いつもより柔らかかった。
「何をですか?」
「壊れた物を直すだけではない。あなたは、人の心も一緒に治しています」
リラは指輪を触りながら僕に告げた。いつもより感情的な仕草に僕は口を閉じて時間を置いた。
「私は今まで、そんな仕事があるとは知りませんでした。破壊する手しか知らなかった私が、救う手があることを教えられました」
その言葉の意味を、僕は完全には理解できなかった。でも、彼女にとって重要な気づきがあったことは分かった。そして、その言葉に込められた重さも。
「あなたのような職人に出会えて、私は……本当に幸せです」
ミラが、二人の会話を静かに聞いていた。その表情には、何かを理解したような、でもまだ完全には理解しきれないような複雑な感情があった。
「リラさん」
ミラが突然口を開いた。二人とも彼女を見る。
「あなたって、本当に不思議な人ですね」
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「最初に会った時、すごく綺麗で上品で、私なんかとは全然違う人だって思ってました。でも——」
ミラは少し照れたように頬を染めながら続けた。
「今日のグレースを見てるリラさんの顔、すごく優しくて。なんだか、普通の女の子みたいでした」
リラは驚いたような表情を浮かべた。
「普通の……女の子?」
「はい。私と同じような、普通の女の子です」
ミラの素朴な言葉が、リラの心に何かを与えたように見えた。彼女の表情が、今まで見たことのないほど柔らかくなった。
「私が……普通の女の子……」
リラは小さくつぶやいた。その声には、まるで初めて自分の新しい一面を発見したような驚きが込められていた。
夜が遅くなるまで僕は何かに気を取られたように深く考え込んだ。リラは何者なのか、なぜ僕の工房にいるのか、そして彼女の魔法の正体は何なのか。
でも、今はそれでいいような気がした。彼女が僕の仕事を理解してくれて、一緒に働いてくれることが嬉しい。そして、彼女の中に何か変化が起きていることも感じられる。そのきっかけを作ったのが、ミラの素直な心だったのかもしれない。
きっと時が来れば、すべてが明らかになるだろう。
指輪をつけたリラの手が、作業台の上で静かに動いている。その姿を見ていると、不思議な安らぎを感じる。彼女もまた、この小さな工房で何かを見つけつつあるのかもしれない。
窓の外では、月が静かに輝いている。村は平和な眠りについているが、僕には分からない。この静かな夜の向こうで、どんな運命が待ち受けているのか。知る方法はいくらでもあっても今は大丈夫だった。
ただ一つ確かなことは、リラと過ごすこの時間が、僕にとってかけがえのないものになりつつあるということだった。彼女の秘密が何であれ、今はただ、この穏やかな時間を大切にしたい。
そんな中で、僕は前世の記憶を端無く思い出していた。
日本にいた頃、会社の同僚たちは僕のことを「村上」と呼んでいた。あの頃の僕は、ただサラリーマンとして毎日を過ごし、特に誰かを幸せにするような仕事をしていたわけではなかった。
でも今、この異世界で「タクミ」と呼ばれる僕は、グレースの涙を見て、リラの心の変化を感じて、ミラの素直な優しさに触れて、何か大切なものを見つけつつある。
前世では人と人とのつながりの温かさを感じる暇がなかった。
木の香りと、森の中から寝息が、月明かりに乗ってが木工房の中を満たしてくれている。心配ことがあっても異世界の生活は久々に撮った有給休暇のように感じる。今日も無事に終わり、明日は更に平凡な朝日が昇るだろうと、僕はそう信じて部屋に戻った。
明日は、また誰がこの工房に尋ねてくるか楽しみだ。
第3話 剣を向ける方向
先日の夜、リラが工房の外で氷の魔法を使っているところを見てから、僕はずっと考え込んでいた。あの時の彼女の手つきは、まるで魔法が体の一部であるかのように自然だった。ただの旅人がそんな高度な魔法を使えるはずがない。
でも、僕は問いただそうとは思わなかった。彼女には隠さなければならない理由があるのだろう。それに、彼女が僕の工房で見せる表情は、あの夜の凛とした魔法使いの姿とは違って、どこか安らかで、まるで本当の自分を見つけているようだった。
朝の光が工房の窓から差し込み、木屑が舞い踊っている。リラはいつものように黙々と棚の整理をしていた。その手つきには無駄がなく、どこか軍人のような規律正しさがある。でも時々、作業を止めて僕が作った木の指輪を見つめ、ほんの少し表情を和らげるのを見ると、胸が温かくなる。
「タクミさん、おはようございます」
リラが振り返ると、朝日が彼女の銀色の髪を照らして、まるで氷の結晶のように輝いていた。
「おはようございます、リラさん。今日もよろしくお願いします」
僕がそう答えた時、工房の扉が勢いよく開かれた。
「タクミ!いるか?」
現れたのは村の鍛冶屋、ガリックだった。四十代半ばの彼は筋肉質で、煤で汚れた革のエプロンを身に着けている。村では数少ない職人の一人だ。
「はい、おはようございます、ガリックさん」
ガリックは工房を見回すと、壁にかけられた工具、隅に置かれた椅子の滑らかな曲線に視線を向けた。
「相変わらず丁寧な仕事だな。道具の一つ一つに、使い手のことを考えた温かさがある」
そして、リラに鋭い視線を向けた。
「こちらが噂の助手か。リラといったな」
「はい」
リラは簡潔に答え、軽く頭を下げた。その仕草を見て、ガリックは少し眉をひそめた。
「タクミ、お前に頼みがある。冒険者用の短剣を作るんだが、柄の部分を木で作ってもらいたい」
唐突な申し出に、僕は木を削る手を止めた。
「短剣の柄、ですか」
「ああ」
ガリックは、煤で汚れた太い指で自分の手のひらを叩いた。
「俺の腕じゃ、金属を叩いて刃を鍛えるのはお手の物だが、どうにも木の細工は粗くなっちまう。だがな、タクミ。冒険者にとって、剣の魂は刃にあるかもしれねえが、命綱は柄にあるんだ」
彼の声は、いつものぶっきらぼうな口調とは違う、真剣な熱を帯びていた。
「ただの木の棒をくっつければいいってもんじゃねえ。考えてもみろ。土砂降りの雨の中、あるいは返り血でぬめった手で剣を振るう。その一瞬、ほんの数ミリでも柄が手の中で滑ったらどうなる?」
僕は息を呑んだ。ガリックの言葉は、工房での穏やかな作業からは想像もつかない、死線上の光景を僕の脳裏に映し出す。
「一瞬の滑りが、命取りになる。受け流すはずだった一撃が体に食い込み、突くはずだった一撃が虚空を切る。だから、柄は手に吸い付くようでなきゃならねえんだ」
彼は続けた。今度は、完成したばかりだという刀身を手に取り、その重心を確かめるように軽く振る。
「それに、バランスだ。刀身の切れ味を殺すも活かすも、柄の数グラムの重さ、その重心の位置次第だ。柄が重すぎれば剣先は踊り、軽すぎれば振り回される。刀身と柄が一体になって初めて、剣は冒険者の腕の延長になる」
それは、僕が前世で趣味の木工道具を作っていた時に考えていたこととよく似ていた。手に馴染むカンナやノミは、まるで自分の体の一部のように動いてくれる。だが、それが人の命を左右する武器となると、その意味の重さは比較にならない。
「責任重大ですね」
僕がそう呟くと、ガリックは初めて少しだけ口元を緩めた。
「ああ、そうだ。だからお前に頼みに来た。お前の作るもんは、ただ形が良いだけじゃねえ。使う人間のこと、その一手一手の動きまで考えて作られてる。俺にはそれが分かる」
人の命に関わる道具を作る。その責任の重さに身が引き締まる思いだった。だが同時に、職人としてそこまでの信頼を寄せられたことに、胸の奥から静かな高揚感が湧き上がってくるのを感じた。
ガリックの言葉に、僕は背筋が伸びた。
「分かりました。僕でよければ、ぜひやらせてください。ただ、僕は武器の柄を作った経験がありません。もしよろしければ、一緒に作業を進めさせていただけませんか? 最高の柄を作るために、ガリックさんの知識も貸していただきたい」
「ほう、面白いことを言うな。普通の職人なら、一人で任せろと言うところだが」
ガリックは興味深そうに笑うと、満足げに頷いた。
「僕は自分の技術を過信しません。特に人の命に関わるものなら、なおさらです」
「なるほど、謙虚だな。いや、真面目すぎるくらいだ。いいだろう。最高の刃には、最高の柄が必要だ。お前となら、それが作れるかもしれねえな」
そう言いながら、ガリックは工房の中を見回した。僕が今まで作った作品を見て、少しずつ表情が変わっていく。
彼が手に取ったのは、先日修理したグレース婆さんの木の鳥だった。
「これは…細工が実に丁寧だな。継ぎ目がほとんど分からない。それに、この羽根の表現…まるで本物の鳥のようだ」
「ありがとうございます。でも、まだまだです」
「まだまだだと?タクミ、お前は自分の腕を過小評価しすぎる」
ガリックは木の鳥を作業台に戻すと、僕をじっと見つめた。
「お前は技術はあるが、自信がなさすぎる。職人にとって、技術と同じくらい大切なのは、自分の作品に対する信念だ」
彼の言葉は、胸の奥に響いた。
「ガリックさんの言う通りです」
いつの間にか、リラが僕たちの会話に加わっていた。
「タクミさんの作品には、技術以上に温かい心が込められています」
リラがそう言いながら、自分の指にはめた木の指輪を見つめた。
「助手の方が主人より物事がよく見えてるな」
ガリックは笑ったが、その笑い声に少し冷たさが混じっているのを僕は感じ取った。
「それで、短剣の柄の件ですが、木材はどのようなものがよろしいでしょうか?」
僕がそう尋ねると、ガリックは炉の火を見つめながら、少し考えるように腕を組んだ。
「そうだな…要望はいくつかある。まず、敵の盾や鎧と打ち合った時の衝撃に耐える『粘り強さ』だ。硬いだけじゃ、いつかポッキリ折れちまうからな」
彼は自分の拳をもう片方の手のひらで受け止め、ぐっと力を込める。
「それから、『水気への耐性』。雨の中だろうが、返り血を浴びようが、木が水を吸って膨れたり、逆に乾燥して縮んだりしちゃ話にならん。常に同じ握り心地を保ってくれなきゃ困る」
「粘りと、寸法安定性ですね」
「そうだ。最後に、これは俺の個人的な好みかもしれんが…握った時にひんやりしない『温かみ』が欲しい。鉄は良くも悪くも冷たいからな。命を預ける相棒の柄くらいは、持ち主の体温に応えてくれるような奴がいい」
粘り、耐水性、そして温かみ。彼の要望は、単なる素材のスペックではなく、極限状況で使う道具への深い理解と愛情に満ちていた。僕は頭の中で、知っている木材の特性を一つ一つ吟味する。ウォールナットは衝撃吸収に優れるが、少し重いかもしれない。アッシュは軽くて丈夫だが、水気には弱い。マホガニーは加工しやすいが、冒険者の道具としては少し繊細すぎる。
「…それでしたら、やはり『オーク(樫)』が良いかと思います。特に、ウィロウブルックの北の森で、ゆっくり時間をかけて育ったものが手に入れば最高ですが」
「ほう、オークか。ありきたりなようで、奥が深いな。なぜそれがいい?」
ガリックの問いに、僕は自分の考えを整理しながら答えた。
「オークは木目が緻密で、繊維が複雑に絡み合っているので、打ち合いの衝撃を芯でしなやかに受け流してくれます。そして何より、タンニンという成分を豊富に含んでいるので、水気や腐食に滅法強いんです。船やウイスキーの樽に使われるくらいですから」
「タンニン、だと?聞いたこともねえな」
「ええ。それに、オークにはもう一つ良い点があります」
僕は自分の手のひらを見つめた。
「使い込むほどに、持ち主の手の脂を吸って、表面が滑らかでありながらも滑りにくい、独特の風合いに育っていくんです。冷たい木の塊が、長い時間をかけて、持ち主だけに応えてくれる温かい相棒になる。ガリックさんがお望みのものに、一番近いんじゃないでしょうか」
僕の言葉に、ガリックは目を丸くして、やがて腹の底から「かっかっか」と笑った。
「木が育つ、ねえ!なるほどな!俺たち鍛冶屋は、鉄が錆びて朽ちるのをどう防ぐかしか考えねえが、お前らは逆か。持ち主と一緒に歳を重ねて強くなる、か。面白い!実に面白い!」
彼はひとしきり笑った後、改めて感心したように僕を見た。
「タクミ、お前さん、一体どこでそんな知識を仕入れたんだ? そこらの木こりや大工でも、木材の性質をそこまで語れる奴はそういねえぞ。まるで、何十年も木と向き合ってきた古強者の職人みてえだ」
「前世…いえ、以前の経験で、少しばかり」
僕は慌てて言葉を濁した。危うく、口が滑るところだった。
「前世?」
ガリックは訝しげに首を傾げたが、やがてニヤリと笑った。
「はは、面白い冗談を言う。まあいい、お前のその『前世』とやらの知識、存分に貸してもらうとしようじゃねえか」
彼は深くは追求せず、僕の肩を力強く叩いた。その手は熱く、職人としての信頼がずっしりと伝わってきた。
「それより、実際に作業してみよう」
僕たちは工房を出て、ガリックの鍛冶場に向かった。リラも一緒についてきた。
鍛冶場は僕の工房とは正反対の空間だった。炉の熱気と金属を叩く音、火花が散る光景は、まさに職人の戦場といった感じだ。
「これが今回作る短剣の刀身だ」
ガリックが作業台に置いたのは、美しく研ぎ澄まされた刀身だった。
「素晴らしい出来ですね」
「三十年鍛冶屋をやってきた集大成だ。だからこそ、柄も妥協したくない」
ガリックは刀身を手に取り、重心や長さを確認しながら説明してくれた。
「タクミさん」
リラが僕に近づいて、小声で言った。
「この刀身、ただの武器ではありませんね」
「え?」
「金属の成分が普通とは違います。魔法の力を込めやすい合金が使われているようです」
「魔法剣?」
「おそらく。柄にも魔力を流しやすい材質を使った方がいいかもしれません」
リラの助言は的確だった。だが、同時に新たな疑問が生まれた。
「よし、仕様は決まった。材料を選びに行こう」
材木置き場で、リラが指し示したのは、木目が美しく、重量も適度な樫の木材だった。
「この木がいいですね」
「どうしてそう思うんですか?」
「木目が均一で、乾燥も十分。魔力の伝導率も良さそうです」
またも魔法に関する専門的な発言だった。
「リラ、お前、何者だ?」
突然、ガリックが鋭い声で言った。
「ただの旅人です」
「ただの旅人が魔法武器について、そこまで詳しいわけがない。それに、その立ち振る舞い…軍人の匂いがする」
「ガリックさん」
僕は割って入った。
「僕は、リラさんを信頼しています。彼女には何か事情があるのかもしれませんが、今は詮索するべきではないと思います」
「タクミ、お前は人を信じすぎる」
「でも、僕たちがするべきことは、良い武器を作ることです」
僕の言葉に、ガリックは少し表情を和らげた。
「まあ、それもそうだな。職人は作品で語るべきだ」
材料を工房に運び、いよいよ制作開始だ。僕は樫の木を慎重に加工し始めた。
「すごいですね、タクミさん」
リラが僕の隣で、感嘆の声を上げた。ふと見ると、彼女の銀色の髪に、僕が以前練習で作った木の髪飾りが挿されているのが見えた。木目が不揃いで、自分としては失敗作のつもりだったが、彼女はそれを毎日大切そうにつけてくれている。
「木が、まるで生き物のように形を変えていきます」
「リラさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」
僕の言葉に、リラは微笑んだ。その笑顔は、いつもより温かみがあった。作業が進むにつれて、僕は前世では感じたことのない充実感を覚えた。
ちょうどその時、工房の扉が勢いよく開かれた。
「タクミさんー!大変よ!」
現れたのはミラだった。息を切らしながら、僕たちの方に駆け寄ってきた。
「ミラさん、どうしました?」
「村の宿屋に、すごい人が来てるの!勇者よ、勇者!」
ミラの言葉に、リラの表情が一瞬強張った。
「勇者?」
「そう!金色の髪で、立派な鎧を着た、すごくかっこいい人!」
ミラの言葉に、僕は思わず遠い目をしてしまった。
金色の髪、立派な鎧、そしてイケメン。なるほど、見事なまでに勇者のテンプレートをなぞった出で立ちだ。前世で読んだ小説やプレイしたゲームの主人公も、大体そんな感じだった。まさか、この世界でその「様式美」をリアルに拝むことになるとは思わなかったが。
…なんて、のんきなことを考えている場合じゃない。問題はその次だ。
僕が内心で一人ごちたのと、ミラの言葉が続いたのはほぼ同時だった。
「魔王軍の幹部を追ってるんですって。なんでも、このあたりに逃げ込んだかもしれないって…あ、そういえばリラさん!」
話の矛先が急に変わった。ミラが、まるで今思い出したかのように、ぱっとリラの方を向く。
「その髪飾り、やっぱりタクミが作った物ですよね?この前、アンナちゃんがつけてたのと同じデザインだ!リラさん、すごく似合っています!」
ミラの無邪気な言葉に、リラは少し頬を染めて「ありがとう」と小さく呟いた。彼女のその反応に少しだけ安堵したのも束の間、ミラの言葉がさらに続く。
「氷の魔法を使う女性の魔族が、この近辺で目撃されたって、宿屋の主人が言ってたわ!」
氷の魔法。その言葉が、工房の穏やかな空気を鋭いガラス片のように切り裂いた。僕は二日前の夜の出来事を思い出す。月明かりの下で、美しい氷の結晶を舞わせていたリラの姿を。
僕の視線が、無意識にリラへと向かう。彼女は平静を装っているが、その顔色は明らかに蒼白になっていた。
「リラ」
ガリックがリラを呼んだ。
「お前、氷の魔法は使えるか?」
「いえ、使えません」
リラは即座に否定した。だが、その声は少し震えているように聞こえた。その瞬間、リラの手が震え、指輪にかけた親指に力がこもった。
――嘘をつくたびに、この指輪が、彼の温もりが、私の心を焼く。
「……ごめんなさい」
声なき謝罪が唇の裏で震えていた。
「まあ、勇者が来てくれたなら安心です」
ミラは屈託なく笑った。
「情報収集してるみたいですが。そのうち、ここにも来ると思います」
リラの顔色が蒼白になった。
「大丈夫ですよ、リラさん」
僕は彼女にそっと声をかけた。
「よし、作業を続けよう」
ガリックが、まるで場を仕切り直すように声をかけた。
「勇者が来ようと来まいと、俺たちは職人だ。目の前の仕事に集中するのが一番だ」
「……そうですね」
その言葉に、僕は我に返った。リラのこと、勇者のこと、考え始めればきりがない。だが、今この手の中にあるのは、人の命を預かることになる樫の木だ。雑念を振り払い、僕は再び木と向き合った。
工房の空気が変わる。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、僕の呼吸と、木を削る音だけが響き渡る。
まずは、切り出し小刀で大まかな形を削り出していく。サク、サク、という小気味良い音が、一定のリズムを刻む。刃先が木の繊維を断ち切る微かな感触が、指先から伝わってきた。ガリックに教わった刀身の重心、冒険者の手の大きさ、そしてリラが言っていた「魔力の流れ」。そのすべてを頭の中で立体的に組み立て、寸分の狂いもなく木に写し取っていく。
形が整ってきたところで、今度は豆カンナに持ち替えた。これは僕が前世の知識を元に、ガリックに頼んで作ってもらった特注品だ。シュル、シュルル…と、息を吐くような音を立てて、カンナからリボンのように透き通るほど薄い木屑が生まれては、床に舞い落ちる。何度も、何度も、柄を自分の手に握りしめては、フィット感を確かめた。人差し指が自然に収まる緩やかな窪み。力を込めた時に支えとなる、小指側の絶妙な膨らみ。ただ握りやすいだけじゃない。まるで、柄そのものが「こう握ってくれ」と語りかけてくるような、そんな形を目指した。
工房の隅で、リラが息を呑んで僕の作業を見つめているのが分かった。彼女の不安を少しでも和らげたい。その一心で、僕はさらに集中力を高めた。
仕上げは、鉱石トカゲの皮で作った紙やすりだ。最初は粗い番手で、次に細かい番手で、表面を磨き上げていく。最初はざらついていた樫の木肌が、磨くほどに艶を帯び、光を柔らかく反射し始めた。指の腹でそっと撫でると、まるで赤子の肌のように滑らかで、それでいて木の持つ確かな温もりが伝わってくる。木目が美しく浮かび上がり、一本の樫の木が、唯一無二の作品へと生まれ変わる瞬間だった。
窓から差し込む光が、白からオレンジ色へと変わる頃、柄はついに完成した。
「……できた」
僕が呟くと、ずっと黙って見守っていたガリックが、ゆっくりと近づいてきた。彼は完成した柄を無言で受け取ると、その重さを確かめるように手のひらに乗せ、あらゆる角度から光に透かして木目を検分した。そして、刀身の茎(なかご)に、柄を慎重に合わせる。
コツン、と硬い音がしたかと思うと、柄はまるで最初からそこにあったかのように、寸分の隙間もなく刀身に吸い付いた。
「完璧だ」
ガリックが、心の底から感嘆の声を上げた。彼は短剣を手に取ると、軽く数回、空を切る。刃が風を切る音と、彼の腕の動きが完全に一体化していた。
「重心も握り心地も申し分ない。これなら、どんな状況でも持ち主の期待に応えてくれるだろう」
その時、工房の扉が、控えめに、しかし確かな強さで三度ノックされた。
コン、コン、コン。
その音だけで、工房に満ちていた安堵の空気がピンと張り詰める。僕とガリックは顔を見合わせ、リラの肩が微かに強張ったのを僕は見逃さなかった。
「……どうぞ」
僕が声を絞り出すと、扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、夕陽を背負った一人の青年だった。ミラの言っていた通り、陽光を溶かしたような金色の髪、そして磨き上げられた白銀の鎧が、工房の薄暗がりの中で眩しいほどの光を放っている。腰に佩いた剣の柄頭には、青い宝石が埋め込まれ、伝説から抜け出してきたかのような神々しさがあった。
だが、僕の目を引いたのは、その装飾よりも、彼の佇まいだった。ただそこにいるだけで、周囲の空気を支配するような、圧倒的な存在感。英雄、という言葉がこれほど似合う人間を、僕は前世でも今世でも見たことがなかった。
彼は工房の中へ静かに入ってくると、まず壁にかけられた僕の工具に、そして隅に置かれた椅子へと視線を滑らせた。それは品定めするような厳しい目ではなく、純粋に良いものを見つけた時の、職人の目に近かった。
「……素晴らしい仕事だ。道具の一つ一つが、使い手のことを考えて作られているのが分かる。木が喜んでいるようだ」
彼の最初の言葉は、意外にも穏やかな称賛だった。
「ありがとうございます」
「私は勇者アルトと申します。あなたが、この工房の主、タクミさんですね」
彼は僕に向き直り、丁寧に名乗った。その所作には一点の隙もない。
「は、はい。僕がタクミです」
「そして、そちらの方が…」
アルトの視線が、僕の隣に立つリラへと移る。その瞬間、彼の瞳の奥に宿っていた穏やかな光が、すっと消えた。まるで、獲物を見つけた鷹のように、鋭く、冷たい光に変わる。
「こちらは、助手の…リラさんです」
僕が紹介し終えるか終えないかのうちに、アルトは一歩、リラとの距離を詰めた。
「リラ、ですか」
名前を反芻する彼の声は、先ほどとは打って変わって低く、硬質的だった。彼はリラの顔を、髪の色を、その佇まいを、まるで査定するようにじっと見つめている。リラはその視線に射抜かれながらも、必死に平静を装い、小さく頷いた。
「美しい方ですね」
その言葉は、もはや社交辞令には聞こえなかった。美しいからこそ、疑っている。そう言わんばかりの響きがあった。
「どちらのご出身で?」
「……北の、小さな村です」
リラの声はか細く、かろうじて言葉の形を保っていた。
「北、ですか」
アルトはそう呟くと、再び沈黙した。工房の中には、彼の鎧が動くたびに立てる、微かなかすれ音だけが響く。それはまるで、これから始まる尋問の序曲のようだった。僕は、リラの背中を守るように、半歩前に出た。
「あの、アルトさん。僕たちに何かご用でしょうか?」
僕が空気を変えようと口を挟むと、アルトは視線をリラから外さないまま、答えた。
「ええ。実は、魔王軍の幹部を追っているのです。氷の魔法を使う、女性の魔族が、このあたりに潜伏しているという確かな情報がありまして」
彼は言葉の一つ一つを、まるで楔を打ち込むように、ゆっくりと、はっきりと口にした。
「……そのような方は、見かけていませんが」
「そうですか」
アルトは初めて僕の方に顔を向けたが、その瞳は笑っていなかった。そして、彼は再び、まるで逃がさないとでも言うように、リラへと視線を戻す。
「最後の質問です、リラさん。あなたは、魔法が使えますか?」
その問いは、静かだったが、抜身の剣よりも鋭く、僕たちの心臓に突き立てられた。
「……いえ、使えません」
リラが絞り出した答えに、工房の温度が、さらに数度下がったような気がした。
「そうですか。それでは、失礼ながら、魔法を使えないことを証明していただけますか?」
アルトの要求に、工房の空気が緊張に包まれた。
「あの、アルトさん」
僕は勇気を振り絞って言った。
「疑いだけで人を尋問するのは、いかがなものでしょうか?」
「タクミさん」
アルトは僕を見た。その目には、少し冷たい光が宿っている。
「魔王軍の幹部は、多くの人を殺している危険な存在です。慎重になりすぎるということはありません」
「それは分かりますが」
「では、なぜリラさんを庇うのですか?」
「後ろめたいことなどありません。ただ、リラさんは僕の大切な助手です。根拠もなく疑われるのを見過ごすことはできません」
「根拠がない?」
アルトは笑った。だが、その笑みには温かさがなかった。
「氷の魔法を使う女性の魔族。美しい外見。そして、正体を隠そうとする態度。十分すぎる根拠ではありませんか?」
確かに、状況証拠は揃っている。だが、僕は引き下がるわけにはいかなかった。
「それでも、証拠というには不十分です」
「タクミさん、あなたは魔王軍がどれほど危険な存在か理解していない」
アルトの声に、かすかな苦しみが混じった。
「……僕は昔、魔族を信じた。結果、村ひとつが消えた」
アルトの告白に、工房の空気が変わった。
「正しいかどうかじゃない。僕はもう、間違えられないんだ」
アルトの手が剣の柄に伸びた。だが、その手は微かに震えていた。
「アルトさん」
僕はアルトの痛みを感じ取りながら、それでも言った。
「でも、僕が信じるのは、今ここにいるリラさんです」
僕はリラの方を見た。彼女の瞳には、恐怖と感謝、そして戸惑いが入り混じっている。
「リラさんは、グレース婆さんの木の鳥を修理している時、涙を流していました。他人の思い出を大切にして、心から喜んでくれる人が、本当に悪い人でしょうか?」
アルトの手が剣の柄を握った。鞘から刃がほんの少し見えた瞬間。
「待ってください!」
僕は咄嗟に作業台から木製の道具箱を手に取り、それをアルトとの間に投げ出した。箱は床に落ち、中から木工道具がばら撒かれた。飛び散った木くずの中、僕はリラをかばって立ち塞がった。
「感情に惑わされてはいけません」
アルトの声が震えていた。剣を半分ほど抜いたまま、彼は自分の剣身に映った自分の目を見つめた。
「また…誰かを、間違って裁くところだった」
そう呟いたアルトの顔には、ほんの一瞬、自嘲の笑みが浮かんだ。
「感情?」
僕は首を振った。
「あの時のリラさんの涙は、本物でした。演技では流せない涙です」
「なぜそう言い切れるのですか?」
「なぜなら僕は、人が本当に何かを大切にする時の表情を知っているからです」
その時、工房の扉が開き、ミラが顔を出した。
「タクミさん、勇者様がいるって聞いて…」
ミラは工房の緊張した雰囲気に気づき、少し戸惑った。
「いえ、ミラさん。丁度良いところに来てくれました」
僕はミラを手招きした。
「リラさんについて、何かお話しいただけますか?」
ミラは屈託なく答えた。
「リラさんはとても優しい人ですよ。私が転んで怪我した時、手当てしてくれたし」
ミラの証言が続く中、僕は作業台の上に置かれた短剣に目をやった。そして、さっきミラが言った言葉を思い出した。
「アルトさん、少しお待ちください」
僕はリラの髪を指した。そこには、木目が不揃いで、僕としては失敗作のつもりだった木の髪飾りが挿されている。
「これは、僕が村の子どもに作ってやったものと、まったく同じ意匠です」
確かに、彼女の髪に僕の作った髪飾りが挿されている。
「リラさんは、ずっとそれを大事にしてくれていました」
リラがその髪飾りをそっと手に取った。
「これは、私が自分で選んだ鎖です」
リラは髪飾りを外し、手のひらに乗せた。
「この木細工に封じられているのは、魔法じゃなくて、私の願いなんです」
リラの瞳に深い慟哭が宿った。それは涙では表現しきれない、魂の底からの祈りだった。
「……あんたが作ったのか?」
アルトの声が、少し和らいだ。
「はい。彼女は僕の失敗作でさえ、宝物のように大切にしてくれます」
アルトはしばらく沈黙した。そして、ガリックが作った短剣に目をやった。
「……ガリック殿。その短剣、見事な出来栄えだ。作り手の魂がこもっている。そして、その柄を作ったのはタクミ殿、あなたですね」
「は、はい」
「これほど誠実な仕事をする職人が、命を懸けて庇う人間だ」
アルトは深いため息をついた。
「……分かった。今回はあなたの『作品』と『言葉』を信じよう」
アルトはゆっくりと剣を鞘へと戻した。カチリ、と硬質な音が工房に響く。それは、かつて仲間を失った日に抜いたままだった彼の後悔が、ようやく鞘に納まった音のようにも聞こえた。彼の肩から、見えない重荷が少しだけ下りたのを、そこにいた誰もが感じ取った。
「だが、もし万が一、この村に何かあれば、その時は私がこの剣で裁きを下す。それでいいか?」
その声には、先ほどまでの刺々しさは消えていた。
「ありがとうございます」
アルトが立ち上がると、工房の緊張が解けた。
「それでは、我々はこれで失礼します」
アルトが去った後、リラは大きくため息をついた。
「ありがとうございました、タクミさん」
「当然です」
ガリックが僕の肩を叩いた。
「タクミ。今日の短剣の柄は、お前が今まで作ったものの中で一番良い出来だ」
ガリックは短剣の柄を撫でながら続けた。
「守るものができた職人の手は、強くなるもんだ」
僕は頬が熱くなるのを感じた。
「大切な人を守りたいと思った時、人は変わるものなんですね」
「大切な人、か」
ガリックが意味深に呟いた。
「タクミさん」
リラが僕に近づいてきた。そっとタクミの作業台の上のカンナ屑を指でつまみ、丸める。そして、それを自分の手のひらに乗せて、大切そうに見つめた。
「いつか……この工房が、本当に私の居場所だと胸を張って言えるようになった時、全てをお話しします。それまで……」
「待ってます」
僕は即座に答えた。
「ありがとうございます」
リラの瞳に感謝の光が宿り、頬を一筋の雫が伝った。それは氷が溶けて水になるように、静かで温かだった。
昨日とはまた違う夜になり、工房に戻って一人になると、僕は今日みんなで作った短剣をもう一度手に取った。樫の木の柄は、僕の手のはずなのに、どこか温かい。
この世界には、勇者がいて、魔法がある。物語のような奇跡が、すぐ隣にある。
転生したばかりの頃は、そんな途方もない力の前で、木を削ることしかできない自分がひどく無力に思えた。
だが、今日分かった。
勇者の剣が罪を断つなら、僕の手は、誰かの涙を拭うものを作れる。魔法が凍てついた心を生むなら、僕の手は、木に温もりを宿して心を溶かすことができる。
力が全てを解決するわけじゃない。世界を救うことだけが正義じゃない。たった一人、目の前の誰かを守り、その人が安らかに眠れる場所を作ること。それも、この世界で生きていくための、一つの戦い方であり、一つの「奇跡」なのだ。
窓の外では、月が静かに輝いている。僕の工房で、リラが眠っている。
それは、僕がこの手で起こした、ささやかで、かけがえのない奇跡の始まりだった。
ウィロウブルックの木工房へようこそ