雑記

 批評精神だけが旺盛で優しさがまったくない人間になりたくない。確かに批評は優れていて鋭いところもあるのだけれど、それだけだった。酷薄な人になりたくない。意識が低くて俗の世界に耽溺している人は、本当に価値がないかのように徹底的に叩きのめしている。すりつぶしてしまえばいいと思っている。山上から俗世間を眺めて彼らは何をやっているのだろうとずっと嘆息しているだけでは、哲学は成立しても文学は成立しないのではないかと思った。自我を隠蔽している作品に付き合うのは疲れる。自我はずっと山上にいるらしい。降りようとする気配はない。ずっと上から眺めている。

 私は臆病な小市民なので、日頃は頭の中では体裁と欲望のことしか考えていない。体裁と欲望に囚われている人たちが、この社会を動かしているのは事実だ。そういう人たちは目先のことにがんじがらめになっている。彼らを上から眺めて俯瞰するような視点には、私は立ちたくないし、立てないだろう。

 死は信仰の入り口であり、精神的支配のツールでもあり、欲望のトリガーにもなりえると言えそうだ。近しい人の死、親族の死は当人に大きな影響を及ぼすのだろう。私の両親はまだ生きている。私はこのあたりの経験は希薄なのだと思う。私は死の観念をさんざん弄んできたし、これからもやるだろう。結局、死に関する議論ってやっぱり貧しいなと思うことが多い。言葉にすると何か陳腐になっていく。自分一人で静かに向き合う方がいいのだろう。死を持ち出して凄むようなやり方だけはしたくない。そういうことをしている人には様々な背景や事情があるのだろうが、やっぱりいやだ。

 結局まな板の上に乗せられたら、自分だってどれだけ見苦しい本性をさらすかはわからない。自分は実際の人生でもそういう経験をしてきたところは少しあるから、あまり強い批評はできないのだと思う。地に足のついた敗北経験が希薄な人は、やはりどこか酷薄なところがある気がした。敗北主義や諦念に満ちた世界観を掲げながら、勝利への飢えが感じられた。そういうのを見ると疲れた。なんとなく自分が攻撃されているようにも思えた。このあたりはまだ言葉にするのがつらいな。またの機会にしよう。

 自分の内面をほとんど言葉にできていないという感じを持っている。しかし、言葉にしようとすると怒りをくらうらしい。すごく我慢して生きてきたので、自分の内面には体裁と欲望が充満している。自分は体裁と欲望しか持ち合わせていないことが、文章を書いていてわかってきた。これを認めるだけでもかなりつらかった。この年になってようやく自分と向き合うことができてきた。愚かだと言われればそうなのだろうけれど、ここまで来るのに長い道のりがあった。簡単に馬鹿にされたくない。

 それにしてもかっときてしまうとだめですね。感情的にならないようにしようとしても、いつも人生の節目で感情にふりまわされてきたように思います。そうして、良くない方向へ進んでいく。やっぱりだめですね。それに、大衆の人々が自分と同じように体裁と欲望に囚われていると考えるのも、自分の思い上がりではないかと読み返して思いました。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-16

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