自他

 怒りの対象が明確になって攻撃してやろうとするときに言葉がたくさん出てくるのではないかと思うことがある。それは、おまえが貧しい人間だからと言われればそれまでだけれど、言語的思考と闘争心が近いところにあるのはわりと当たっている気がする。言葉はなんとも厄介なものだ。言葉で善や愛を語ろうとすること自体、不可能なことなのかもしれない。言葉で考えている限り、闘争からは逃れられないのかもしれない。言葉で誠実さを追い求めようとするのは苦しいことだと思う。言葉で考えつつ優しさにとどまろうとすることが可能だろうか。そんなことをすると心身に負荷がかかってしまうのかもしれない。文学というのはそういうところがあると思う。真意に迫ろうとするほどに、闘争心も活発になってしまう。言葉自体が闘争心の方へ誘ってしまう。いや、闘争心が前提にあってその後に言語的思考が発動するとしたなら、絶望的だ。闘争心を支えにして善や愛を語ることになってしまう。近代文学や哲学は、言語的思考によって言語的思考を超えようとする運動だったのかもしれない。

 またえらそうなことを書いてしまった。昔ほど本を読む気力もなくなってきた。最近ゲームの実況動画を見ることが増えてしまった。20代前半の頃から、自分にとって衝撃的経験があってそこから読書遍歴が始まってしまい、忙しい中でもおそらく常人よりも本を読んできてしまった。本を読んで頭がよくなるとはとても言えない。悪くなっているのかもしれない。本を読まなかった人生もあったのかなと思ったりするが、まあ無理だっただろうな。あのころ衝撃を受けたときの自分は、読書を求めていたのだ。このあたりはまだうまく言葉にできてない。

 やっぱりまだ感情が収まってくれないな。あそこまで言われる筋合いはないと思う。私は自分が働いていた頃の心情をまだほとんど言語化できていないのだと思う。あのとき何を考えて何を思っていたのか、自分でも整理がついていない。人生で最も混沌としていて充実していた時期だったのだろう。ものすごくつらくて苦しい時期でもあった。少しずつ言葉にしていけたらいいと思う。

 文学を読むほどに精神が豊かになるとも限らないことがわかってきた。私と同じような読書家で、ものすごく酷薄な批評ばかりしている人がいたからだ。私も似たようなものかもしれないけれど。それでもあの人とは違うと思う。あの人には優しさがまったくなかった。壊れた経験をしたことがないのだろうと思う。作品から深い感銘を受けた経験はあるが、それだけだからずっと自分一人の閉じた世界の中にい続けているように見える。自分が一人だけだから、容赦なく他人を攻撃できるのだろう。壊れたことがないのだと思う。壊れてしまうと自他の区別があいまいになってしまうから。壊れたことのない人が文学に傾倒する場合もあるんだなということを、あの人を見て私は知った。ずっと自分が一人だけだと思っているから、他人と自分が違うことで苦しんでいる。私は壊れてしまった人間がやむなくすがりついてしまうのが文学だと思っていたけれど、そうでもないみたいだ。ずっと自己充足し続けている人もいるのだ。文学に傾倒する人は、自他境界が曖昧になり壊れるという経験が前提にあると思っていた。しかし、そうではない。自己充足しながら、どうしてみんな自分のように感動することができないのだろうと嘆いている人もいる。別にそこまではいいけれど、なぜかそういう人が自分以外の人間が愚かだという結論に持っていこうとする。それは多分違うと思う。彼には壊れた人特有の優しさがまったくないので、私からするとものすごく無慈悲で酷薄に見えた。私はあなたのサンドバッグにはなりたくない。他を探してください。新たなサンドバッグを見つけて、どうして彼はこんなことを思っているんだろう、どうしてこんなくだらないことを考えているんだろうとか言っていればいいじゃないですか。
 
 こっちが我慢して忖度していることに気づかないのだから、もう嫌になってしまった。本当に何を言ってもいいと思っている。自分が気に入らない対象は完膚なきまでに叩きのめにすればいいと思っている。死に追いやってしまえばいいと思っている。まああなたにとっては、それも小説のいい材料になるのでしょう。人は皆死に向かっていくのだとか言って。死から逃れられない、死を書くことこそが重要だとか言って。人生を外側から眺めて、結局皆死んでいくのにどうして必死に生きていくのだろう、みたいなのばっかりじゃないか。俗人を馬鹿にしすぎだよ。

自他

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-13

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