
【暁紅】
みすぼらしい男が、真夜中過ぎの薄暗い教会で、一人黙々と祈っている。焼けた肌に酷い隈のある目をし、荒れ放題の伸びきった薄金色の髪に、何日も洗っていないボロボロの服を着た男だ。整然と並ぶ椅子やきれいに片付けられた書物と対照的で、彼は場違いに見えた。
そこに、物音一つ立てずに影から忍び寄る者がいた。ゆっくりと、気づかれないように、気配は近づく。しかし、腰に手をあて、シャツの下に隠れていた銃を取り出し、視線もやらずに気配の潜む影へと銃口を向けた。
「殺すんなら、外でやってくれ。ここを汚したくないだろう?」
にやりと笑ってから男は暗闇に話し出す。承諾したように、気配はぬるりと暗闇から姿を現した。黒いマントに身を包み、長い黒髪が片目ごと顔を隠して、胸元と口元だけが闇の中に浮いているようだった。それを見て、男は少しだけ驚いたように肩をすくめた。
「……おぉ?」
銃を下ろして男が楽しそうに笑った。
「化け物かとは思ったが、教会に悪魔たぁ……俺もやっと死ぬのかねぇ?」
「……驚か……ないのか?」
「はぁ?」
無表情にほんのり驚きの色を混じらせる青年に、男は無関心そうに軽くあしらって返す。
「何を驚けってんだ。悪魔じゃなくて死神か? なら、願ったり叶ったりだ」
「いや、私は悪魔では……」
躊躇いがちに青年が闇から抜け出る。長い前髪に見えたものは眼帯で、青年は片目を失っている様子だった。若く見えたが、そうでもないようだ。年齢不詳の整った顔立ちと尖った耳に加え、猫のような瞳孔をした金色の瞳が青年が明らかに人間ではないことを示している。青年は男が座る教壇前の通路に近づいた。近づくと、磯と汗と香水の混じった異臭が鼻をついた。
「凄まじい臭いがする」
「俺か? まぁ、長らく風呂に入ってないな」
「よくそんな状態で教会に来たな」
「悪ぃかよ。神は、誰でもいつでも、大歓迎だろ?」
知ったような口調で男は肩をすくめる。青年はマントで口元を覆って、辟易した様子だった。
「で、お前さんよ。もしかして吸血鬼か? 俺の血でも狙って来たってか?」
「……私も、ここによく来るんだ」
天高くに飾られた十字架を見上げて、青年が月明かりに目を細める。
「夜になると、ここは誰も来なくて、静かで、安心するんだ」
「吸血鬼が、教会にねぇ……。噂じゃ十字架とか聖水とか、あと太陽とか銀だったか、そういうのがダメなんだろ?」
男の近くにある、月明かりの届かないギリギリのあたりにある長椅子に座って、青年は腕を組む。
「まぁ、ダメだな」
特徴のある尖った犬歯を見せて、青年がぎこちなく苦笑いする。吸血鬼だと認めたようなものだ。男も呆れて笑い返す。
「お前さん、物好きだな」
「よくある話だ。太陽は天敵でも、それを受けて輝く月の光なら問題なく、聖なる言葉には縛られても十字架には縛られない。有名だろう?」
「あぁ、はいはい、そうだっけ」
男は深く考え込まずに頭をかいて青年に背を向けて十字架を仰いだ。
「お前さん、よかったら俺を殺してくれや。吸血鬼なんだろ?」
男が自らの首に親指を立てて、とんでもなく明るく笑う。青年は淡々と彼を見つめ返していた。
「あぁ、そうだが……ここには食事に来たわけではない。言っただろう。私もよくここに来ると」
吸血鬼の青年も男と同じく十字架を仰ぎ見る。
「他人に頼らなければ死ねないのなら、やめておけ」
「…………」
淡々と話す吸血鬼に、男は驚きこそするものの、大きく口を開いて笑って見せる。
「これが、一人じゃ死ねねぇんだわ」
「……」
じとりと刺さる軽蔑の眼差しをものともせず、男はもう一度十字架を仰ぐ。
「首吊ったと思ったらすり抜けるわ、溺れ死のうと思っても何日も死ねないわ、心臓や頭を刺しても死ねないわで、どうにもならないんだわ、これが」
言葉の割に軽々しく喋る男のちぐはぐさに、吸血鬼もさすがに疑問を持たずにいられなかった。
「……不死身、なのか?」
「そういう呪いらしい」
月明かりに、日に焼けた茶色の瞳が揺れる。
「だから、頼む。お前さんなら、俺を殺せるかもしれねぇだろ?」
「……」
吸血鬼は嫌そうにマントで顔を覆った。
「……吸血はしないぞ。そんな、悪臭漂う男の血など、喰えるものか」
「大げさな。そこまで臭くないだろう?」
そう笑って男が着ているボロボロのベストをはためかせると途端、吸血鬼は思わずえずいて踞った。
「……そんなに臭うか?」
「あぁ……凄まじく!!」
心底気持ち悪そうにする吸血鬼に、男の方が申し訳ないとばかりに眉を下げた。
「……すまねぇ」
「なぜ、そんなに死にたがる?」
「お、協力してくれるならなんでも話すぜ。俺だけ生き残っちまったからさ。船も、仲間も、木っ端微塵。宝も、思い出も、全部、綺麗さっぱり海の藻屑よ」
男のあっけらかんとした言い種に、吸血鬼が驚きを顕にして目を見開く。それを見て男はより一層眉を下げた。
「笑ってくれや。何もかも失って、死ぬにも死ねねぇ惨めな男をよ」
「…………海賊なのか?」
「ま、賊じゃあねぇが、そんなもんだ」
男は帽子とともに傍らに置いてあった空き瓶を望遠鏡のように覗いてみせてから、にやりと笑った。驚いて見つめていた吸血鬼は、目を見開いて、それから呟くように問う。
「……あの、船を使って……海の先、世界のどこへでも、行くのだろう……?」
「お、なんだなんだ、海が好きか?」
満月のような金色の目を宝石のように輝かせて吸血鬼は一度大きく頷いた。
「海賊でも漁師でもいい。海の向こうの世界を教えてくれ。海の向こうにも、同じように陸が続くのだろう?」
「生憎、俺は船はもう持ってねぇ」
「私は海を渡れない。話だけでいい。聞かせてはくれないか?」
「…………お前……」
幼く笑う吸血鬼の純粋な好奇心に、男は思わず苦笑いをした。
「……それくらい、いくらでも話してやるよ。そのかわり、俺が死ねるように協力してくれ。頼む」
「あぁ、構わない。そうと決まれば話してくれ。この港町から、向かいの港町が見えるだろう? まずはそこの話をしてくれ」
「なんだ。それなら……」
そんな近場の話で良いのか。そうは思うも、男は話し出す。ここは確かに港町で、海峡の向こうとこっちで頻繁に渡し船が出ていて、晴れの日にはくっきりと向かいの港町が目視できるので、そう遠くないのだ。それでも知っていることを話してやると、吸血鬼は子供のようにわくわくして耳を傾ける。それがなんだかおかしくて、楽しくて、男も調子に乗って喋り倒した。いつの間にか空は青み帯び、日が昇ろうとしていた。
吸血鬼は名残惜しそうに空を睨んだ。
「まだ、話が終わっていないというのに!」
「ははっ、また話してやるよ」
「また……今夜、ここで会えるだろうか……」
「いいぜ。俺もお前さんにゃ協力してもらいたいしな」
「……できれば、その悪臭を拭ってきてほしい」
「俺ぁ、一文無しだ。川にでも入るしかねぇぞ」
「お前……本当に何も持っていないのか」
「あぁ、何も。死にたい奴が、何か持つはずないだろ」
けらけらと何事もなさそうに男が笑うので、吸血鬼は呆れたようにため息をつく。
「……この町の南にある図書館を訪ねろ。レヴェンテからの紹介だと話せば、風呂くらい入れてくれるだろう」
「……それ、お前の名前?」
「あぁ、私はレヴェンテ。ダネシュティ家の血筋だ」
「血筋? なんだ、いきなり血筋の話なんざ」
「……そうだった。人間は血筋を紹介しないんだったな」
「そうさなぁ、お偉い貴族でもなけりゃ血筋の話なんかしねぇな」
「分かっている。長年の習慣だ。気にするな」
「ははぁ? なるほどなぁ……面白い。お前達吸血鬼は、自己紹介に血筋を話すわけか。なるほど、血を喰ってるだけあって、血にうるさそうだ。吸血鬼らしい」
「……否定はしない。そういうお前はなんだ」
「さぁ、適当に呼んでくれや」
「失礼だぞ。私は名乗った。お前も名乗れ」
「だから、俺ぁ名前がねぇんだ。そうだな」
自分の手にある空き瓶を見つめて、そのラベルを見せつけて男はこう言った。
「バシレオスだ」
それは、王冠を被るライオンの描かれたラベルの、酒の名前だった。唖然として言葉もでない吸血鬼だったが、一度出かけた言葉を飲み込んで、男を睨みつけるように見直した。
「……なら、バシレオス。まずは南の図書館を訪ねろ。私の名はレヴェンテだ。私は日中は動けない。太陽のあるうちは、そこを頼ってくれ」
闇に消えていく吸血鬼を見送って、男はどさりと床に体を投げ出した。朝日の差し込み始めた冷たい教会の床で、彼は死んだように眠りについた。
翌日の日の入り頃。レヴェンテと名乗った青年吸血鬼は、話していた南の図書館へと赴いていた。案の定、そこには昨日の男がいた。
「よっ!」
男はすっかり清潔になり、身なりも整った。整ってはいるが、白いシャツは胸元も開けて、茶色い革のベストも前は閉じられていない。加えて、ボロボロの臭う帽子はまだ持っている。延びっぱなしの傷んだ髪もまとめられてはいるが切られていない。爪ほどの大きさのいくつかの白いものが編み込まれた一束の髪があり、帽子とともに、何か思い入れでもあるのだろうと、レヴェンテはあまり深く問いたださなかった。
「色々とよくしてもらった。お前さん、あそこのお偉いさんか? ずいぶん手厚いもてなしをしてくれたぜ?」
「あとで説明する」
レヴェンテの案内で、二人は図書館の敷地内にある建物に入っていく。一見、普通のアパートのようだ。半地下のある一部屋に入るなり、帽子とコートを脱いでポールハンガーにかけながら、レヴェンテは一度だけ男を見るも、少しの笑みだけして、部屋の奥へと先に言ってしまう。男も後を追った。
「お前さんが吸血鬼だと、あそこの奴らは知っているのか?」
「数名はな。私もあそこに深入りしているわけじゃない。ここを……借りるための口実だ」
「ふぅん?」
二人してリビングへと移動する。質素な作りの家だった。レヴェンテがグラスを片手にやってくる。もう片手にはワインではなさそうな瓶が握られていた。
「毒殺でもしてくれるのかい?」
「まさか」
レヴェンテはバシレオスを椅子に座らせるとグラスを手渡す。
「普通の死に方は効かないのだろう? 私の眷属になってしまえばいい。眷属であっても、太陽の光には抗えない。肉体は灰となり、魂は霧散し、何もかもが塵と化し消える。眷属は私の命令には逆らえない。たっぷり話をしてもらうぞ。死ぬのはその後だ」
「……ははっ、化け物はやることが違え」
バシレオスは怖がるどころか歓迎とばかりにグラスを掲げた。
何が入っているのか分からない瓶から、ゆっくりと少量の何かが注がれる。どす黒い色の液体で、薬草のような香りがした。
レヴェンテが己の指を齧った。一瞬、レヴェンテの瞳が赤く光ったように見えたのは見間違いか。決して浅くはない指の傷口から、一滴、二滴と、血が落ち、グラスの中の液体と混ざる。
「飲め」
どう見ても不味そうなそれは、ある意味毒殺だなとバシレオスは思う。ワインをテイスティングするように眺めてから、バシレオスは一気にそれを飲み干した。思いの外、不味くなかった。
「…………」
レヴェンテがグラスを受け取る。バシレオスはじっと動かない。
しばらくして、彼は考えるように一度目線を動かした。またしばらくして、彼はレヴェンテを見返す。
「……何か、変わったか……?」
「……」
レヴェンテも同様に小首を傾げる。
「“跪け”」
「……あ? なんだ?」
「な、失敗した……? あり得ない。私の血が拒まれた……?」
「あぁ、くそが!!」
レヴェンテの言葉に、初めてバシレオスが乱暴に声を荒げて叫んだ。あまりに大声なものだから、レヴェンテが心底怯えたように離れて体を縮こませていた。
「あ、すまねぇ……悪い、驚かせた」
バツの悪そうに苦笑いをして、バシレオスが席を立つ。
「そんな驚くこたぁねぇだろ」
手を差し伸べるとレヴェンテは首を振って自ら立ち上がる。バシレオスは頭をかいてうろうろと歩き回った。
「あぁ、どうして……俺だけ生き残ったかねぇ……」
苛立ちと悔しさの滲む声だった。レヴェンテはしばし彼の背中を見つめながら考えていた。
「なぁ、吸血鬼なんだろ? 直接噛み殺してくれはくれねぇか?」
振り返ったバシレオスの髪に揺れる、白いビーズのようなものに自然と目がいった。改めてレヴェンテはバシレオスを見返す。
「刃物で死ねないなら同様だ。それに、私はまだお前から話が聞きたい」
「あぁ……結局死ねねぇのかよ……」
「直接、その体に私の血を与えてしまえば、あるいは」
「やってくれ!」
がしりと肩を掴んでバシレオスが必死に叫ぶ。レヴェンテは呆れたため息で返事した。
「その前に、話だ」
「あぁ、くそ……っ!」
「……よかったら、話してくれないか。何があったのか」
淡々と、不思議そうに、レヴェンテは考え事をしながら話しかける。バシレオスも元いた椅子に座り直し、頭を垂れた。
「経緯と、ついでに旅の話も聞きたい」
「親身なようで自分の欲望に忠実だな……」
レヴェンテの言葉にバシレオスは笑うも、事なげにレヴェンテは肩をすくめた。
バシレオスの話はこうだった。
彼は、ある島の出身だった。貧しい故郷のため、彼は数人の仲間とともに一攫千金を狙い海に出た。別に海賊になりたいわけではなかった。島から出るために船に乗っただけだった。
航海術は既に身につけていた。並の冒険者として、体力や知識も申し分もなかった。
その内に仲間が増え、船も大きくなった。その間に何度も故郷へ仕送りをした。
一度故郷へ戻ろう。そう舵をきった矢先、海の化け物に捕まったという。
「海の巨大な化け物といえば、クラーケンか」
「分からねぇ」
頭を垂れたまま、バシレオスは言葉を綴り続ける。
「あんなとこに島なんてなかった。恐らく、その島みてぇなやつが、化け物だった。上陸しようと提案したのは、俺だ。俺のせいなんだ。……上陸しちまって、船が一瞬で壊され、気がついたら俺だけ海に浮いていた。周りに、仲間の……体の一部が浮いててよぉ……」
そこで一度言葉が途切れてから、ゆっくりとバシレオスは続きを語った。
彼はそのまま海面を漂った。溺れ死ぬこともない。飢えて死ぬわけでもない。肉体には苦痛すらない。何度も海洋生物に襲われ、それでも死ねずにここに流れ着いたという。
「……この帽子も、船長のものなんだ。俺のものじゃねぇ」
バシレオスはそこで話を止めると、椅子から立ち上がり、部屋から出ていこうとする。
「すまねぇな、辛気臭い話でよ。世話になった。俺ぁ、また路頭に戻る。俺だけこんな温たけぇ場所にいられねぇだろ」
控えめな音がして、ゆっくり、しっかりとドアの閉まる音が響く。レヴェンテは去っていく男の後を見つめながら、いくらか考え込んでいた。
「私の血が効かない人間か……」
バシレオスの話を反芻しながらレヴェンテは静かに呟いた。
バシレオスの後を追うか、レヴェンテは戸惑っていた。これ以上彼の死にたがりに付き合う理由はないのだが、己の血が効かなかった人間という点が大いに気になった。そんな人間を野放しにして良いものか。加えて、旅話への好奇心も拭えない。
気づけば、足は教会のある港の方へと向かっていた。遠くでまだ灯りの残る酒場から笑い声が漏れていた。潮の匂いに混じって、焼いた魚や安い酒の香りが風に乗って漂ってくる。
レヴェンテは、無意識に右の眼窩を手で覆った。その手が、肩が、震える。少し焦った様子でレヴェンテはその場から闇に消え、港の奥へと向かう。
港の外れに据えられた灯台が、遠くから何度も辺りを照らす。波は絶え間なく波止場の地面を舐め、海鳴りは獣の寝息のように潜むだ。レヴェンテはその光から逃げるように物陰の闇に溶け込み、海鳴りの中に足音を潜める。
船着場は船員たちが忙しなく互いの仕事に追われている。そこに潜む化け物のことなど、誰も気づかない。
「私は……何を、しているんだ」
レヴェンテは自嘲気味に笑った。
もう一度右目に触れる。触れてもそこには何もない。失った右目の奥には、焼けつく記憶がまだ鮮明に棲みついている。あの夜の、自分を囲んだ人間達の息遣いと、体中を貫く銀の痛み……。
「お前さん、大丈夫か?」
はっとして顔を上げたレヴェンテの背後に、バシレオスがいた。緊張に少し息を荒げて、レヴェンテが戸惑いを見せる。バシレオスは飲みかけのグラスを指で回し、琥珀色の液体をゆるやかに揺らした。酒精の香りが、潮の匂いと混ざって鼻をくすぐる。
「なんだなんだ、その顔は。まさか、俺が怖いってか」
からかうバシレオスの問いに、レヴェンテは答えなかった。代わりに、片方だけの金の瞳が、港の向こうに灯る灯火を追っている。そこは、人間の暮らす区画だった。笑い声も歌も、時おり風に乗って届く。それにすら怯えた様子を見せるレヴェンテに、バシレオスは近づく。レヴェンテは数歩後退り、蹲った。
「おいおい、大丈夫か?」
「…………怖いんだ……」
しばらくして、レヴェンテは吐き出すように言った。
「私は……人間が、怖いんだ。集団で、追いかけて、銀を打ち込んでくる人間が。私も、お前のように簡単には死ねない。それなのに、人間を喰わなくては生きていけない。けれど、人間は、死ねない私をどこまでも追いかけて傷つける」
バシレオスも隣にしゃがみ、レヴェンテの肩に、そっと触れた。そこまで怯えるなら人間の自分から逃げるかと思ったが、レヴェンテはそうしない。
弱々しく告げるレヴェンテの肩を抱いてやると、控えめな溜息と同時に、血腥い臭いも届いてくる。
「だから、ああやって、眷属を作って、居場所を作ってるのに」
「あの図書館の誰かが眷属ってわけか」
「あぁ……普通の人間なら、簡単なんだ」
「でも、俺ぁ、そうはいかなかった」
「あぁ」
塞ぎ込むレヴェンテを見かねてか、バシレオスはふと呟いた。
「……やっぱり、俺とお前さん、利害が一致するわなぁ」
「どういう、ことだ?」
「ん? だってよ、お前さんの血で俺を殺せるなら、俺はそれを望む。お前さんが人間の血が必要なら、俺がそうなろう」
「……」
「ちゃあんと、風呂は入ったぜ」
真剣なバシレオスに、レヴェンテの方が思わず吹き出した。
「ふ……死にたがりが」
レヴェンテが肩の手を取って、代わりにバシレオスの首に触れる。レヴェンテは言葉を選びなが首筋を見つめた。
「私も、眷属にならなかったお前の……お前なら、吸血も、もしかしたら酷く苦しむかもしれない」
「俺ぁ、死ななければ痛みもねぇんだわ。むしろ痛みがあるなら大歓迎だ。その方が生きてる心地がする」
「そうか」
レヴェンテの細い瞳孔はより細くなり、金色の虹彩が赤みを帯び、血色に染まる。
化け物。
バシレオスは本能的に身構えたと遅れて自覚する。レヴェンテが思い切り肩口に噛みついた。衝撃はあれど、やはり痛みが感じられない。麻酔でもかかっているかのように、鈍い間隔だけが伝わってくる。
これで、やっと死ねるのか。
バシレオスはぼんやりと思い出に思いを馳せていると、離れたレヴェンテがじっとこちらを睨んていると気がついた。
「ははっ、そうやって見ると、お前さんも化け物だな」
口元を血だらけにし、見開いた赤い目で凝視して、荒く肩で呼吸をしている。
「……ありがとうな。これでやっと死ねるかねぇ……」
仰向けにその場で横たわって、バシレオスは天を仰ぐ。星々を眺める視界に、レヴェンテが入ってくる。
「お前は何者だ、バシレオス!」
胸ぐらを掴まれ、叩き起こされる。レヴェンテの表情は出会った時のものに戻っていた。
「間違いなく、お前は人間だ。その血は人間のものだ。なのに、やはり私の血が効かない。苦しみもしない」
「だから、呪いだって。そのせいなんだろう……?」
今回も死ねないかと、バシレオスは内心意気消沈していた。鈍い痛みのような違和感だけが感覚として残っている。それだけの変化くらいしかない。
「いや、それだけならまだ良い。お前の血が……私のものにならない。人間の血は、私のものになるはずだ。それが、ならない」
「ちょっと待て。どういうことだ?」
レヴェンテも戸惑った様子で口元を押さえる。
「……吐きそうだ」
よろめくレヴェンテを支えると、彼は首を振った。何かを言いかけて、レヴェンテはみるみる間に闇夜に姿を消した。
支えていたはずの手が、虚空を掴む。バシレオスは傍らの置きっぱなしのグラスを手に取ると、事態を把握しようと、もう一度彼の言葉を頭の中で繰り返す。
「俺は……人間じゃなくなったのか……?」
虚空への問いに答えるように、溶けた氷がカランと音を立てた。
数日後の夜。夜空は澄み渡る満天の星空で、柔らかい風は暖かい。教会には蝋燭の光がいくつかゆらめき、潮風がわずかに吹き込んでいた。外の喧騒はすでに遠く、石造りの壁は優しく沈黙している。
バシレオスは、いつものように長椅子の列を抜け、教壇の前で膝をついた。背は大きいのに、祈る姿はやけに小さく見えた。
「俺ぁ、死ねないのがお前達への懺悔なのか? 答えてくれよ、神様」
見上げる天井には、古びた聖人の絵が薄暗く浮かんでいる。答えない天の姿は、気候に反して冷たく感じられた。
「ごめんな………みんな、ごめんな………」
声が次第に震え、蝋燭の火がそれに合わせるように揺れた。
「エレン、パーシー。お前らが生きてたらなぁ……。エレナは、受け取った金の正体を知って泣いてたぜ。クアン、コライ……お前さん達にゃ……苦労をかけたなぁ……なんで……俺も……死ななかったかなぁ……。せめて、生き残るなら俺じゃねぇのによ……」
言葉は祈りのようで呟きでもあり、嘆きのようでもあった。
その時、教壇横の影がゆらめいた。闇の奥から、一つの金色が光を返す。
「懲りずに懺悔か、バシレオス」
バシレオスは驚いて振り向き、そして笑みを浮かべて立ち上がった。
「レヴェンテ! あれから大丈夫だったか?!」
レヴェンテは一瞬だけ目を瞬かせ、ゆっくりと首を傾げた。
「私の心配をしてくれるのか……?」
「そりゃあそうさ。具合悪そうにしてたろ。俺を吸血して、なんか具合悪くなっちまったからよ。そりゃあ気にするさ!」
「私は化け物だ。何故……?」
「お前さん、なんでそう卑屈になるんだ。そんなに人間が嫌いかよ」
「あぁ、嫌いだし、怖い。……この右目も、人間にやられたんだ」
「そ…………そう、なのか」
バシレオスは言葉を選びかねて、視線を彷徨わせた。
「お前さん、人間が怖えって言うわりに……俺のこたぁ最初から怖くねぇんだな?」
「一人だったしな。一人なら、問題ない。そうでなければ、私も飢えてしまう」
「それもそうか」
闇夜の中、レヴェンテは以前と同様に明かりの届かないギリギリの席に座る。
「おそらく、お前の死ねない呪いは、その血に宿っている。私と同じく、血を操る者の仕業だろう。そのせいで、私はお前を眷属にできなかったし、私の血にもならなかった」
「くそったれ……結局、この呪いを解かないことにゃ、俺は死ねないのかよ……」
項垂れるバシレオスの姿を、レヴェンテはじっと観察するように見つめていた。
「さぁ、私もその呪いについて調べてきた。今度はお前も旅の話を聞かせろ」
唐突にレヴェンテが明るい声を出す。あまりにもそれが場違いに無邪気な声色だったもので、バシレオスは思わず笑い出した。
「ははは、お前さん、本当に欲望に忠実だな……!」
バシレオスは涙の跡を袖で拭った。
「いいだろう。何が聞きたい?」
「お前の乗っていた船の話だ。どうやって船で旅をする。知識ならあるが、実際の話を聞きたい」
「分かった、分かった。そんな期待した目で見るんじゃねえよ」
ぶっきらぼうに返すが、口元はわずかに緩んでいる。
「そんじゃ、まず航海の基本でも話すかね」
「星と方角の話なら、私も知っている。昼間はどうしてる?」
「おう、それはな……」
バシレオスの話は、まるで劇を見ているかのような話しぶりの時もあれば、静かに物語の一部を眺めているような時もあった。
嵐の日に妖精が帆の上を跳ね回っていたこと。甲板で恋を育み、やがて結婚した仲間たちのこと。バシレオスの声が波のように上下し、レヴェンテの片目は灯火のごとく輝いた。バシレオスが教会を訪ねる度にレヴェンテが旅の話をしつこくせがむから、次第に夜の教会は、懺悔の場から旅の物語を運ぶ港へと変わっていった。
「ある海域に行くとな、夕日を浴びて海原が紫に見えるんだ。太陽の反射もあって、そりゃあきれいにな、海がそう見えるんだ」
目を細め、瞼の裏に描かれる水平線を眺めるその顔は、過去を掘り返しても苦しそうではなかった。むしろ、何か温いものを思い出しているようだった。
「……見てみたいな」
「ははっ、お前も一度見りゃいいさ。あの時のアーロンのやつ……あぁ、でっかい図体のわりに臆病な奴がいてな。そいつがもう、いちいち感動しいでな。紫だ、初めて見たって、大騒ぎだったんだぜ」
羨ましい、自分は見れないと、レヴェンテは言葉を飲み込んで頷いた。
またある時は、海の精についての話だった。
「海の精にも俺達人間に友好的な奴らもいてな。一緒に泳いで船を先導してくれるんだ。波間に白い尾がひらめくと、幸運の印だって言われてんだぜ」
「その類は、船を沈め人間を喰うものじゃないのか?」
「もしかしたら、そういう化け物だったのかもな。たまたまそん時ゃ仲間に妖精がいてな。飛び回れて、子供みたいに小さいやつなんだが、そいつが歌うと向こうも歌うんだ」
またある時は、宝を話をした。
「地図にねぇ島を見つけた時にゃ感動だぜ。交易品も、そうやって仕入れてくのさ。島の連中がくれる香辛料やら布やら……そういった物はどれも珍しいからな」
「なるほど。そうして懐を満たすのか」
「懐も心も、だな。コライっつー頭のキレる奴がいてな。計算がすげぇ速ぇの。あいつがいなかったら買えなかったものは多いだろうなぁ」
バシレオスはベストの胸ポケットから古びた懐中時計を取り出し、掌の上で転がした。ろうそくと月明かりに照らされた金属の表面は、擦り傷だらけなのに妙に輝いて見えた。
「この懐中時計はそん時に買いつけた、俺の宝だ」
金の鎖に繋がれたそれの、潮風に晒されてきたのだろう縁の細工の隙間には青緑の錆がわずかにあり、繊細な透かし彫りが施された蓋は、内側に光を覗かせ、海の泡のように細かな輝きを返す。文字盤は貝特有の艶を湛え、角度によって紫や緑がかすかに揺らめいた。確かに、高級そうな懐中時計だ。
バシレオスはその蓋を開け、中の針を見つめ、また閉じた。レヴェンテがそれをじっと見つめるので、バシレオスは苦笑いをしてわざと高く明るい声を出した。
「よし、海でも見に行くか!」
景気よく話すバシレオスだが、レヴェンテはまだ懐中時計から目を離さない。居心地悪そうにバシレオスは懐中時計をしまうと、レヴェンテの肩を叩いた。
「欲しいのか、これ?」
意地悪そうに笑ってバシレオスがきいてくる。レヴェンテは首を振って、海を見に行こうと促した。
夜の港は、波と風だけが動いていた。バシレオスは桟橋の端に腰をおろし、レヴェンテを手招きする。レヴェンテは何度か首を振ってから、橋まで行かず、その場で満天の星空を仰ぐ。夜風を受けながら、レヴェンテがゆっくりと口を開いた。
「……その呪いは、何年前の話なんだ?」
「十五年前だ」
バシレオスも星々を眺めながら答える。
「十五年……俺は死に場所を探し続けてんだ。お前さんだけだ。俺の血が呪われてるって分かった奴は」
視線はゆっくりと地面に落ち、己の足元を見つめてバシレオスは呟いた。
「それが分かったところで、呪いの解き方も分からねぇし、死ねるわけじゃねぇんだよなぁ……」
波音がバシレオスの呟きを隠す。ゆったりと岸壁に寄せては返す波は、暗闇に飛沫だけを返し、また闇に溶けていく。
レヴェンテは夜空を仰ぎながら、少しだけ視線をバシレオスへ向けた。
「……十五年も、死ねず……か」
「あぁ、笑っちまうだろ」
バシレオスは小さく笑うが、その笑みは潮に溶けてすぐに消えていく。
「……死ななくてはいけないのか?」
「ばか言え! 俺は……俺のせいで仲間はみんな沈んじまったんだぞ!」
「仲間は、お前も死ぬことを望んでいるのか?」
「…………」
バシレオスは答えない。苛立ちと怒りを込めた拳が、代わりに気持ちを代弁し、虚空を切った。
レヴェンテはふと見下ろした海面が、月を映して波打つその様が、彼の懐中時計の金属光沢に似て見えた。
「……お前の持っている懐中時計、動かないんだろ?」
「なんだよ、それが気になって見てたのか?」
バシレオスはもう一度懐中時計を取り出して、蓋を開けて見せてくれる。
「ほら、止まったままだ」
目の前に差し出された懐中時計は、いつかの時刻を示したまま動かない。
「直さないのか?」
「直さなくていいんだ」
「……仲間のためを思うなら、それは直すべきだ」
レヴェンテの言葉に、バシレオスは懐中時計をしまい込む。
「……お前さん、首突っ込みすぎだろ……」
バシレオスが低く唸るように問う。
「人間が怖いとか嫌いだとか言ってるわりに、俺のことにゃずいぶん親身になってくれるじゃねぇか」
思わず歩き出し、胸ぐらでも掴もうと伸ばされた手は、レヴェンテに触れる前に降ろされた。レヴェンテも己の右目に触れながら話す。
「私も……人間は嫌いだ。集団だと、とても怖い。けれど、バシレオス、お前と話をして……私は人間が……人間全てが怖いとは、思わなくなってきた。お前のおかげで、私はひとりきりではなくなった」
その言葉に、バシレオスは目を瞬かせ、小さく笑った。
「お人好しだなぁ」
「お前が私を変えたんだ、バシレオス。目を失い、故郷から追放され、私はひとりだった。それをお前が変えた」
「だから俺も変われって? むちゃ言うな」
「懐中時計も、お前の時も、無理やりにでも針を進めろ」
「あぁ?」
「時を止め、永遠を生きることほど、苦痛なものはない」
他人事のように聞こえたレヴェンテの言葉を、バシレオスは鼻で笑った。
「詩人みてぇなこと言うなぁ」
「私は追放されてからこの百五十年、苦痛しかなかった」
レヴェンテは吐き捨てるように言うと、それ以上は何も言わず背を向け、星明かりを背に教会の方へ歩き出した。闇に消えていく背中を眺めながら、バシレオスは低く呟いた。
「今更、どうしろってんだ。仲間を失った俺の気持ちは、分からねぇだろ……。絶望しかねぇんだよ。大切な仲間を……俺を海に出してくれた恩人を、託され預かった命を……俺が、判断を誤った。俺のせいで、みんな……」
絶望を覆うように大きな波が波止場を打ちつけ、大きな飛沫が舞い、波と風とが遠ざかる。
夜の海は途方もない奈落の底のように真っ暗で、引く波の音は、闇に引きずり込むようにバシレオスの心を誘った。
懐中時計の一件以来、ほぼ毎日のように顔を突き合わせていたレヴェンテが忽然と姿を消した。バシレオスも、レヴェンテ頼みでは死ねないと、もう構うことはなかった。
その日暮らしの日銭でどうにかして死ぬ手立てを考えた。レヴェンテの話では、自分の血が呪われているようだった。失血死ならばと思いつくも、何時間垂れ流しにしようが何も変わらなかった。
海に混ざり消えてゆく己の血。吸血鬼のレヴェンテでさえ、これをものにできなかった。
「……どうすりゃいいんだ……」
思い返せばレヴェンテといた日々は、昔のことを思い出しても心が苦しむことが和らいだ。楽しかった、笑い合った日々が、今でも脳裏に鮮明に思い出される。
「あぁ、そうか……パーシーとは、喧嘩別れしちまったままだ……」
記憶の反芻の中、急に思い出した場面にはっとする。バシレオスは自分の頭を何度か叩いて、港の桟橋に両手をついた。
「なんで死ぬ直前に喧嘩なんかしちまった……」
思い返しても、どっちが飯当番だとか、どうでも良すぎる些細な喧嘩だったはずだ。その後どうだった? いつもならすぐ元通りで、一時的に口を利かなくなることはあった。あの時はどうだった?
「……あぁ、くそったれ」
どれだけ思い起こしても、それ以上は思い出されなかった。バシレオスはしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
「……謝りてぇな……。あいつの倅にゃ、悪いことをした……俺があの島に行こうなんて……言わなけりゃあ……!」
本当に、何故、独り身の自分だけが生き残った。愛する家族を残して死んだ奴。故郷の仲間を残して死んだ奴。他にもっと、自分以外に生きてる価値のある奴がいただろう!
バシレオスは心の中で激しく叫ぶと、ふらつく足取りで歩き出す。港の夜は、海鳴りと鎖の軋む音だけが響き、濡れた木製の桟橋を踏むたび、靴底に冷たさが染みた。
足は、自然と教会に向かっていた。教会の扉を押し開けると、潮風を閉め出すはずの内部まで、かすかに潮の匂いが染みついていた。
バシレオスはゆっくりと頭を上げた。教会の中はこんなにも暗かったか? あるはずのろうそくの灯りも乏しく、壁の十字架や絵の聖人も輪郭を溶かし、煤けた影となって自分を見下ろしているように見える。長椅子の並ぶ通路が長く、教壇までが遠く感じる。重い足でかろうじて進むと、かすかにろうそくの芯が焦げる臭いがした。光はあるのに、暖かさがない。
拒まれている。
そう感じた瞬間、足が勝手に止まった。教壇の奥のステンドグラスは、夜闇のせいで色を失い、吸い込むような闇の板に見えた。そこに描かれたはずの聖人からも目を逸らされているように見えた。
膝を折ろうとしたが、石床は冷たく硬い。まるで「お前の懺悔は無意味だ」と突き放してくるようだ。
「……あ、あぁ……」
バシレオスは周囲を見渡した。こんなにもこの教会は広かったか?
耳の奥で、波音がやけに強く聞こえる。いや、これは波ではない。自分の鼓動だ。
誰もいないはずなのに、あちこちから視線を感じる。懺悔室の格子の奥、暗がりの向こう、長椅子の影、至る所に誰かが潜んでいる気がしてならない。だが、口を開けば、きっと、そこから飛び出すのは化け物ではなく亡霊の幻で、それは必ず自分を拒絶するだろう、そんな確信があった。
「……くっ!」
思わず、言葉を遮るよう奥歯を噛みしめる。
つらい。
何故、自分だけ生かされた。
バシレオスは絶望の中、もはや生きる気力を失いつつあった。
「懲りずに懺悔か、バシレオス」
不意を突く声が、耳に届く。嫌でも毎日聞いていた声だ。バシレオスははっとして我に返った。
「レヴェ……」
「いや、ダニエル・ハワード」
バシレオスがあからさまに目を見開いて閉口し、それからもう一度はっとしたように自分のベストの胸ポケットを弄った。
そこにあるはずのものがなく焦る様子のバシレオスの眼の前に、懐中時計がすとんと現れた。
驚いたバシレオスが気が抜けたように膝をつく。彼が自分を見上げて黙るので、レヴェンテは悪戯っ子のように微笑んだ。
「そうだろう? お前の名前だ」
懐中時計を鎖で少し揺らしながら、レヴェンテは勝ち誇ったように牙を見せて笑う。
「なぁ、ダニエル。その呪いを解こうと、また海に出たいと思わないのか。お前は十分、贖罪をした。エレナの伴侶は、受け取った金の正体を知って泣いていた。クアン、コライの家族も金の正体を知って泣いていた」
「ちょ、ちょっと待て。なんでお前さんがそこまで知ってんだ?!」
懐中時計を取られないように引っ張りあげ、その手中に収めて、レヴェンテはゆっくりと歩き出す。
「パーシーの息子はもう一人前に成長して立派に稼いでいる。ミミの故郷は、妖精達らしく、お前の像を作って飾っていた」
「この野郎……! 信じねぇぞ。お前がいなかったのは、たった一週間だろう。一週間でミミの故郷にも、エレナの故郷にも行けるわけねぇだろ!」
レヴェンテの胸ぐらを掴んでバシレオスが怒る。構わずレヴェンテは続ける。
「……アーロンの祖母はさすがに亡くなっていたが、同じ墓にきちんとアーロンの名前も刻まれていて、花も添えられていた。カレヴァの孫も元気だ。ラウルとサクの子供達は結婚していて、お前達の写真が家に飾ってあった。……私は、橋も船も使えない。陸続きの所しか分からなかったが、確認しただけでも、誰もお前を恨んではいなかった」
「……お前……勝手に!」
凄むバシレオスがレヴェンテから懐中時計を奪い取る。だが、レヴェンテは気にせずしれっと言い返す。
「見つかっていない。私が夜闇で見つかるわけがない。金の話は手紙を出した。もう、いいだろう。お前の十五年は、もう救われた」
レヴェンテの服の裾を掴んで、何かを言いたげにするも、バシレオスは言葉を紡げない。目を見開いて、俯いて、バシレオスは服を掴む手に力を込めた。
「人間の十五年はどれくらいだ? お前の話にあったパーシーの息子は、まだ幼なかった。それが、もう一人前に仕事をしている。人間には、大きい年数なのだろう? お前にも大きいはずだ。何故、進もうとしない」
疑問を投げかけるレヴェンテの服を掴んだまま、バシレオスは何かを言いたげにしながらも、何も言わず、代わりに大粒の涙を流しながら、なんとか目線を上げた。
「俺ぁ……とんでもねぇ過ちを犯したんだ。仲間の命を危険にさらして……それなのに、俺だけのうのうと生きてられねぇだろ。俺だけ……許されるわけねぇだろ……」
「ならば、呪いを解くために、海に出ろ。お前は何のために海に出た。仲間達と故郷のためだろうが」
レヴェンテが喝を飛ばす。バシレオスは面食らったように目を見開いて、それから顔を歪ませた。
「俺だけ……生きてて良いのかねぇ……はは、悔しいなぁ……」
泣き笑いしながら、バシレオスは袖で乱暴に目を拭った。
「……はぁ、すまねぇ、もう泣かねぇ」
深呼吸をしてから、バシレオスはレヴェンテに向き直る。
「なぁ、レヴェンテ。この呪いを解くあてはあるのかい?」
レヴェンテは懐中時計を指して、わずかに首を傾げた。
「可能性は、その遺品だな。お前のその懐中時計も、その髪の白い飾りも、船長の帽子も……どれも遺品なのだろう? それらがお前の呪いを助長させている可能性はないか?」
「そうは言っても、捨てられねぇしなぁ」
「まぁ、呪いそのものを解く鍵とは、断定できないしな」
「血に関する呪いなら、お前さんみたいな吸血鬼絡みか、他の吸血する化け物どもの可能性もあるよな」
「その辺りについて、私は詳しい。一通りの情報は提供しよう」
レヴェンテの言葉に、バシレオスは思わずレヴェンテの手を取った。
「な」
「そうだ! せっかくなんだ。一緒に船に乗らないか?」
「……え?」
呆気にとられたレヴェンテをよそに、バシレオスは続ける。
「お前さんのおかげで呪いの本質が分かったんだ。レヴェンテがいてくれた方が、呪いに近づける!」
「私は乗らない」
「何故だ。せっかくここまで打ち解けたっていうのに!」
「乗れないんだ。私は流れる水の上を渡れない」
「流れる水……?」
「あぁ。完全に地下に埋まっている水なら問題ないが、橋や……ましてや船など……。吸血鬼の私には無理だ」
バシレオスは舌打ちし、レヴェンテも思考を巡らせて視線を伏せた。
「どうにもならねぇのかよ……」
「ハンカチなど、何かに掴まり……渡れるという話は聞いたことがあるが、真偽は分からない」
「なら、港の桟橋で試そう!」
「水は……すまない、水は本当に苦手なんだ」
「怖いってか? 小さい子供だって最初は水が苦手だ。慣れてみればそんなことねぇぜ」
尻込みするレヴェンテの手を引いて、バシレオスは笑う。
「私は水に濡れたら動けないんだ。だから、私は泳げない」
「溺れたら俺が助けてやる!」
「でも……」
「海に、船に乗りたいんだろ? そんで、知らない世界を知りたいんだろ?」
バシレオスの提案に、レヴェンテはこくこくと頷いた。
「なら、共に行こう」
「でも、それなら……これ以上……人間嫌いで、水嫌いも克服したら、ダニエル、私は何者になるんだ?」
バシレオスはにやりと笑い、胸ポケットの懐中時計を軽く叩いた。
「ははっ! そんな吸血鬼がいてもいいじゃねぇか! 俺は海の男バシレオスだ。呪いを解いた暁には、本名で呼んでくれ、レヴェンテ」
何か吹っ切れたように明るく笑うバシレオスの笑顔を見て、レヴェンテも控えめに微笑み返す。それはまるで、夜明けの海のように、二人とも輝いて見えた。
【暁紅】
船が難破し、次々と仲間が海に飲まれ裂かれ消えていく。それでも、どうか、助かってほしい。そう願った仲間達の思いが、彼を呪ったのだとしたら。
その願いを、その血に授かってしまっていたとしたら。
奇しくも王の名を授かる男の船に、この吸血鬼は、きっと良い風を運ぶだろう。
2023.10原案 2025.8掲載