真実と事実
真実と事実という言葉を比較すると、真実の方が高尚な感じがする。事実という言葉は軽視されやすい。真実というものは容易に手に入りにくい尊いものだったり、人生において逃げられない残酷なものであったりするのだろう。真実という言葉を多用する人が、事実という言葉を毛嫌いしたり蔑むのを見てきた。事実は嫌われるらしかった。事実と向き合うことはつらいことが多い。たいてい事実はきまりが悪くて、間抜けで、拍子抜けで、無様で、滑稽であり、そこにあるべきではない姿である。事実は陶酔を冷めさせる効果を持っている。事実と向き合うと、自分がいかに熱くなっていたかがわかることよくある。事実は人を冷めさせる。事実は願望を打ち砕く。真実のように死とか無とか愛とか時間とか、絶対的なものを掲げるやり方ではなく、もっとくだらなくて卑小なやり方で事実は迫ってくる。自分の生が淡々と続いていくことを実感させるために事実は役に立つ。自分のように陶酔したがる人間にとっては、事実は嫌なものだった。事実というものは感覚と相性がいい場合が多い。感覚から受容する情報は事実と親和性が高いようだ。感覚と思考のずれは哲学で延々と続いているテーマだと思う。実際の人生はたいてい矮小でくだらなくて、ストーリーとして語ることは容易ではない。自分もそうだが、多くの人は事実の羅列に絶えられない。事実というものはつらいものだ。できれば渦巻く思考の世界に耽溺している方が楽だ。だから物語が必要になるのだと思う。卑小な事実と直面すると、物語を求めたくなるという心理があるのかもしれない。
真実と事実