
百合の君(69)
二年後の明殉元年六月二十三日、かつての盗賊村の欅の下に出海浪親はいた。あれから十一年、屋敷は朽ち果て蝉の声だけが喧しく響いている。浪親は生い茂る草をかき分け、ばあさんの墓に手を合わせた。
その日、浪親はばあさんを呼び出していた。擦り切れた着物に色の褪せた手ぬぐいをかぶったばあさんを見て、浪親はまずいらついた。顔の半分もあろうかというその大きな目が見上げてくるのも、気味が悪かった。
目は口程に物を言うというが、口などよりもはるかに物を言う。ほんの一瞬で、ばあさんが、女で年寄りであるという自分の属性を自覚した上で、さらに自身を弱く小さく見せ、そして弱く小さいことによって優位に立とうとしていることが、浪親には分かった。いつからこうなったのだろう、浪親は思った。昔はもっと強いばあさんだったはずだ。
「天下の大将軍がわしのようなばばあに何の用かの、ぬーむ」
言いながらばあさんは、芝居がかった動作でうつむいた。呼び出されるような覚えがない、全く不思議だ、そう伝えるための動作は、逆にばあさんのやましさを表していた。
「ばあさん、最近商人と親しくしているそうだな」
浪親は、公正な裁き人であろうとした。親しみも反感も、すべて捨てなければならぬ。
「ぬーむ、特別親しくはしておらぬが、お公家衆へのご進物や城の普請でなにかと入用じゃからの」
「賄賂をもらっていると聞いたが」
「賄賂だなんてとんでもないことじゃ、たまに見本をもらうことくらいはあるがの、ぬーむ」
ばあさんの話し方が円滑になってきた。浪親は、甘く見られていると感じた。
「にしては、ずいぶん豪華なものだな」
豪華というのは少し違った。異国の鳥や獣の牙、女や杉の木の絵、青や赤の宝玉などが転がるばあさんの部屋は、副葬品に囲まれた墳墓の石室を連想させたが、この時点では、浪親はばあさんを生かしておくつもりだった。
「ばばあとはいえ婦人の部屋を覗くなど、天下の征夷大将軍が無粋なことをするものじゃの、ぬーむ」
蝉が喧しかった。ぬーむが耳障りになってきた。よく自分はこんな変な喋り方をするばばあと二十年近くも一緒にいたものだ。
「ごまかすな」
「ぬーむ、自分で買う時もあるからの、ぬーむ」
「俺からの禄だけであんな風になるかな」
返事がない。観念したのかと思うと、すすり泣くような声が聞こえた。
「金さえあれば、わしは息子にも捨てられずに済んだのじゃ」
涙を拭くばあさんの指の間から、ぎょろりとその瞳が覗いた。浪親は初めてばあさんの目玉の黄斑に気が付いた。
「事情があるのは、どんな盗人でも一緒だ」
浪親は人を罰すること、自分を正しいと思うことにもう慣れていた。自分が盗賊だったことなどとうに忘れている。ばあさんは泣くのを止めた。
「ぬーむ、浪親殿、ここは人の世じゃ、天の国ではない。甘露ばかりは舐められぬのじゃ、時には泥水も飲まなくてはの、ぬーむ。少し疵があろうと、大事を成し遂げれば人は浪親殿を偉人と称えよう」
蝉はますます鳴き狂っている。これ以上、ぬーむぬーむと言われたら気が狂いそうだ。
「俺は偉人と言われたいのではない、それになりたいのだ」
「ぬーむ、でも喜林殿の奥方には、お手をお出しになった」
「なぜそれを知っている」
「天の下にこのばばの知らぬことはないでの、ぬーむ」
別所来沓の首を持参した時の喜林義郎は不敵だった。まるであの時のばあさんみたいだ。首桶を前にどっかりと座り込み、「将軍、戦の際にはこれからもこの喜林を頼りにしてくだされませ」と言い放った。私が戦のない世を目指していると知ってわざと言ったのだ。しかし、一番腹が立ったのはあやつのその態度ではなく、その場にいた大名や家臣達の目だ。本当に頼もし気に、主を見るかのようにあやつを見ていた。
白浜の毒殺未遂事件が起こったのは、つい先月だ。乳母が代わりに死んで白浜は無事だったが、裏で手を引いていたのは珊瑚、その養父の喜林に違いない。
「そんなはずがないではありませんか」
怪我した足を見せびらかすように、穂乃は柱に手を突いて立っていた。
「いや、あやつは喜林にやられたことを恨んでいる」
「それなら養子になどやらなければよかったではないですか」
まるで妻とは思えない、敵を見るような目だ。
「それが珊瑚のためだ、私とていつ戦で果てるか分からぬ。いつまでも人形遊びの子供でいられては困るのだ」
「あなたが将軍になったら、戦はなくなるとおっしゃったではないですか!」
ババアも女も蝉もガキも、五月蝿くて頭が狂いそうだ!
「そもそも戦をなくすための戦など詭弁です。戦は、それが憎しみでさえあれば、戦自体に対するものでも利用します。あなたは喜林義郎と同じです。あの男は力を見せつけるために戦を必要としていますが、あなたは戦をなくすために戦を必要としているのです。謀反を鎮圧する前に、もっとあなたは家臣と心を通わせなくてはならなかった!」
ジジッと声を残して蝉が飛び立っていった。穂乃が私を愛さないのも珊瑚が裏切ったのも、すべて喜林義郎のせいだ。喜林を殺さねばならぬ。そうしなければ、いつか穂乃と珊瑚を殺してしまう。
「将軍、並作殿からです」
天を指す欅を見上げる浪親に、家来が文を持って現れた。
百合の君(69)