『やさしいまたたき。』
きみはともだち。1
「アイスコーヒーに氷を入れて、モカアイスクリームを添えて。好きないろのストローで飲もうよ。
ここは地獄。
地獄で素敵な工夫をする。わたしらしい。」
「青空に文句をつけようなんて誰も思わないのに、天気みたいな他人には何か一言言いたくなるなんて。
人間は実に不思議だなと思っている。
こんなにひとりぼっちな時代で、だからこそつながりに飢えている群れの動物が、僕らなんだな。
知能は繋がらない。
知は、受け継ぐことができる。
この頭脳は、自分のためだけにあるんじゃないよ。きっと」
「曇り空がワンタップで青空に桜咲かすスマートフォンをあなたはもっている。
泳ぐ夜の尾鰭をつかまえられるかも。
現実的ではなくてもそれがあなたのひそむまち。」
「にんげんだけれど、たまにねこになっても、たまにおやつをくれるせかいがいい。
にんげんだけれど、たまにいぬになっても、ときどきほめてくれるせかいがいい。
ねこもいぬも、ときおりにんげんみたいな、ものうげなまなざしをむける、せかいがいい。
せかいはこうでなければではなく、こうだったらいいなでまわっているとしんじられる、せかいがいい。」
「1日が過ぎた。
どこかの国々、殺戮の銃弾の一発ときみののどかな日常の寂しい1秒が同じ地球上のことだなんて。
残酷な不思議だ。
今日、青空に燕が気持ち良さそうに2羽飛んでいたような気がする。
このワンシーンをいつか思い出す。ひもとけない地上の現実として」
「雨音がピアノの音色のようだったらけたたましくてかなわない。
雨音が虹色だったならうるさくて空をにらんでしまうだろう。
雨音はいつまでも雨音だから僕はなんだか安心してしまう。
雨音は大海の一雫。
姿をかえてつながる透明。」
2.
「それが本当か、本当に正しいのか。
暴くように確かめたくなるのは、あなたがその物事が本当であっては困り果てるから。
それが正しくあってはあなたの全てが瓦解しかねなないから。
あなたが執着すればするほど、がんじがらめにされたしがらみが手に取るよう視えるよう。
執着は、あなたの羅針盤。
大切なものが見え隠れ。
わたしはあなたがどんな姿かたちをしていようとも、存在の産声を聴く。
それが、もしも本当でも正しくもなかったとしたなら。
あなたはあなたのまま死にゆく。
それが本当で、あなたにとって正しかったなら。
あなたは今際、変わるだろう。
未知のひかりがあなたを抱く。」
「自分自身と同じ気持ちが欲しいのなら、相手をその気にさせること。
自分自身と同じ気持ちを相手が抱いていないことを相手の責任にはしないこと。
相手が自分自身と同じ気持ちを向けてくれないことが理由で、自分自身の想いが揺らぎやがて萎えていくなら、それは自分自身の想いや信念のちからはそのていどだということ。
この世界は叶わぬ想いで底支えられていることに気がつくこと。
あなたの想いは、彼の人の幸せを温めるくらいは、している。」
3.
「使いたいところにお金を使える。使いたくないところにはお金は使わない。
お金の自由度はそのひとの魅力のひとつ。
あなたは。その場所は。誰かの大切なお金を使われるに値するの?」
「そのひとの涙の理由もあなたは、わからないのだから。答えは教えられない。」
4.
「希望なんてなくても、未来はくる」
「希望なんてどこにもないと叱ってくれた、あなたはともだち。どんなに遠くて届かない希望のような、大切なともだち。わたしにとって。」
「よりおおくの能力の長けたひとびとを動かせたとしても、自分自身の能力ひとつひとつが素晴らしいこととは、イコールではなく、また種類が違うこと。
能力の長けたひとびとのそれぞれのちからはそのひと本人のものであること。
タイミングによっては彼らはちからをわけてはくれるけれど、それはタダではないし期限がある。
なぜなら能力に長けたひとびとは浮遊し、舞い上がり留まっていることがないから。」
「手に入れたと思ったらすぐに心の重荷になって逃げるように手放したくなるならそれは愛する資格がそもそも、無いよ。ひとは重いものだから」
「そのひとやものごとの反射的な反応や反響を大いに期待してなされる行為は全て後手だ。
本当の先手は未開の大地で踏み出す一歩に似ている。
予想はある程度できてもその一歩による可能性は未知数である。」
5.
『四月。』
スーツを着ているわかいひと。
初春のちから漲って清廉。
優しい季節があなたの背中を花咲かせる。
あなたの鼓動は未知への可能性を感じ高くも低くも、鳴る。
あなた以外の景色は息をつめて、あなたをそっと見ている。
あなたがどんなに自分の足らなさを恥じていても。
あなたがどのように自分の青さを信じていても。
ふりかえるあの日を、わたしはあなたの清水の流れで思い出す。
がんばって。
6.
「世界において、すでに命は護るものではなく選択するものになっているような気がする。
より合理的に、より経済的に、より正しく、より便利に。
わたしたちは命というものごとがもたらす業を知らずに生きられる時代に生まれている。
わたしたちは本当に人間なのか。
わたしたちの子どもたちはわたしたちをどのようなまなざしで見上げるのだろう。
揺らぐヒューマニズムを、誰も笑えない未来に来ている。」
「誰にも自慢できない人生だけれど、隠したいおうとつを魅力的と言ってくれるひとびとがいる人生だった。
選ぶことと選ばないことによる選択の結果でわかることは、幸運か不運かくらい。
運を命にどう反映させるのか。
結果をどう解釈できるかにより、ひとはそれ自体を幸せと呼んだり不幸だと哀しんだりできるのかもしれない
幸せだと信じていたことが不幸だったり不幸せと落ち込んでいたことが見方を変えれば果敢に助けられていたり。
幸せで済む人生もなければ不幸で潰える人生もない。
幸運と不運の割合は量的だけれども幸福と不幸のバランスは自分の至らなさの証。
生きていられればそれが言えるのだ。
踏み出せない、それにいつも自分自身の言い訳の山を視る。
解釈すらできない山程の幸運と不運が人生にはある。
誰にも自慢できない人生が人の数ほどあり、その個々のおうとつを、わたしは魅力的だと感じる。
不運のさなかで不幸を夢見る必要性は無い。
幸運のさなかで幸せを正しく享受するとき、自分はひとりではないと厳しく思い知らされる。
人生かくも豊かなものか。
ひとは生きることは選べるのにどうやって自分が死ぬかは本当は本人だけは、選ぶことはできないのではないだろうか。
周りのひとびとや状況は代わりにそれを選択してあげられることはあっても、本人は自らの死だけは自分のちからで選べないような、そんな性質のものであるのではないだろうか。
どうだろう?
だから、人生と呼ばれるのかもしれない。
人生には生死もふくめてであるはずなのに、死がそこには無い。
生きることしかできない運命を、それでも生きることができるに懸命に解釈している人間の命は、業である。
業であるものを哀しさと愛おしさが混ざる慈しみのまなざしで視るのも、人間だけである
命は業を引き離せない。
わたしは今も、生きている」
『やさしいまたたき。』