百合の君(68)

百合の君(68)

 守隆(まもる)は荒和三年の七月に生まれた。出海浪親(いずみなみちか)上噛島(かみがみしま)城の主になる数か月前のことだ。
 生まれた時のことなどもちろん覚えていないが、守隆には元々別の名があった。しかし、父の主となった出海のまもりとなるよう、守隆と改名された。
 川照見(かわてるみ)家代々の主だからといって、なぜ父がそこまで出海に忠誠を尽くすのか彼は知らない。しかし、主たるべき珊瑚(さんご)はその器ではないように思われた。好む遊びは人形や折り紙など女子(おなご)がするようなことばかりで、剣の稽古をすると弱すぎて合わせるのが大変だった。
 最近、一緒に相撲を取ったことがある。将軍もご覧になっていたので守隆はどうするべきか迷った。わざと負けるべきなのか、それとも主人を投げて自分の強さを見せるべきなのか。主人の突進は、ほとんど守隆の体に負荷を与えなかった。なのでわざと負けるのは不自然と思い、かといって豪快に投げ飛ばすわけにもいかないので、守隆は足をそっと掬った。
 将軍が顔を背けた時の、その苦々しい表情。守隆は自分が失敗したと思った。
 守隆は主人があまり好きではなかったが、影は体が好きだからくっついているわけではない。そうせずには存在しえないからくっついている訳で、守隆も珊瑚のそば以外に居場所がないから共にいる。
 しかし、弟を見に行って帰ってきた時の主人は違っていた。(くび)り殺しそうな目で、人形を見ていた。その目は美しかった。怒りの、いや悲しみの炎が世界を燃やし尽くそうとしていた。引き締めた唇は、二匹の虫が互いに押し潰そうとしているようだった。その目も口も、血でさらに赤く染めて差し上げたい。忠義とはこのような気持ちのことをいうのだ、と守隆は思った。嬉しかった。そしてその美しい主人のために赤く染まる自分の手を想像した。珊瑚の唇から零れる血を受けて、真っ赤に染まる自分の手・・・。

 天妄元年六月九日、朝から雨が降って湿った空気が鬱陶(うっとう)しかった。少年は俯いていた。袖から伸びた腕は白く滑らかだった。長い睫毛が前髪から覗いていた。雨が屋根を叩き、伝う音がふたりを世界から孤立させていた。風が吹けばまだ良かったのかもしれない。しかし空気はただ這いまわり、まとわりついてきた。
「今日は、お前にいい知らせがある」
 父は珍しく機嫌が良かった。珊瑚は正面からまともに浪親の顔を見て、それがずいぶん久しぶりの、いや、初めてのことだと気が付いた。
喜林(きばやし)殿がお前の面倒を見てくださるそうだ」
 珊瑚の頭に、手のひらに、汗が噴き出た。
「お前を養子に欲しいと言ってきている。喜林殿は天下一の猛将だ。あの方に鍛えてもらうのは、お前にとっても良い事だろう」
 雨垂れの音が続いていた。珊瑚は、とうとうこの時がきたと思った。弟が生まれた日から、いや母が古実鳴に行ってから、いつかこうなるような気がしていた。
「すぐに支度をせい、一月後には古実鳴に出立だ」
 とっさに口と手が動いたが、言葉は出なかった。父が立ち上がり、背中を見せて、涙が出た。
 それから珊瑚は、半刻ほど泣いた。父と母のことを思い、もう会えないかとさらに泣いた。それでも声は挙げなかった。ひたすらこぼれる涙を拭っていた。

 すれ違う者達はみな、憐れむような視線を送ってきた。汗ばんだ足裏が、歩くたびに嫌な感触だった。ようやく辿り着いた部屋は散乱していた。
「私は、白浜(しらはま)が憎い」
 声に泣いた跡が残っていたので、珊瑚は一呼吸おいてから続けた。
「きっと喜林が養子に欲しがっているなんて、嘘だ。父上は私がいらなくなったのだ」
 守隆は深く頭を下げた。
「かくなる上は、白浜様に亡き者になっていただくしかありませぬ」
 その声は力強かった。主のために人を殺すという侍としての喜びが、彼を興奮させていた。
「いや、それはだめだ」
 珊瑚の声はまだ震えていたが、悲しみを吐き出して心は落ち着きを取り戻しつつあった。もし弟を殺せば、上嚙島城に留まることはできるだろう。しかし、父の愛は永久に失われる。母の愛までなくすかもしれない。
「しかし、喜林などに行っては、珊瑚様は殺されてしまいます」
「大丈夫だ、喜林様は私の実の父と言われている。きっと優しくしてくださる」
 自分でいった言葉に、珊瑚は傷ついた。初めて喜林義郎を父と認めた。それは出海浪親が父であるという事を、否定するように思われた。
 守隆は頭を下げたまま、黙っていた。その肩が震えているのを見て、珊瑚はまた涙が出そうになったが、こらえた。
 雨音が一層激しくなった。彼が生まれた時から降り続いている雨は、止む気配すらみせない。

     *

百合の君(68)

百合の君(68)

あらすじ:母がさらわれて来た時にはすでにお腹にいたので、珊瑚が出海浪親の実子ではないというのは、皆の知るところでした。珊瑚の実父が誰かと言うことは、それまで上噛島城で大きな話題になったことはありませんでしたが、彼と同じ色の瞳を持つ喜林義郎という男の出現により、急に取りざたされるようになったのです。噂は、もちろん浪親の耳にも入ります。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-02

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