ネクタイ

ネクタイ

 今日から社会人、昔の大学生は卒業を機に背広をそろえ、ネクタイをしめるようになった。就活するためである。それまでは自由な服装だ。
 入社して5年の彼もその一人、証券会社に入社し、株価の上下に神経を尖らせて今に至っている。株の動向に関しては敏感でもあり、会社経営法を学んだことからかなり正確だ。上場している会社の現在の内情を探り、会社の未来を、世情をかんがみて予測する。そのおかげで、証券会社でも彼は上昇株の一人だ。彼に相談する社員が増えてきた。
 毎日、紺の背広に紺のネクタイをきちんとしめて、デスクの上のモニターとにらめっこである。外国で株が乱交気味の時には、夜遅くまで自分の机にへばりついて、状況観察を続ける。
 「今日も遅くまでかい」
 同僚が声をかけて、彼の後ろを通っていく。
 「たまには、飲みにでもいったら」
 女子社員二人が同僚のあとを追う。今日の海外の値動きを知っとかないと、明日の日本の株の大きな変化がみえないぞ、と思いながら、彼は振り返りもせず、三人を見送った。
 こういった夜遅くまでの作業は月に数回ある。会社に泊まり込みとなり、食事はインスタントものだ。家では妻が一人でキッチンテーブルで食事をとっているのだが、そのことを考えたこともない。
 
 彼が三十になった年の四月、課長に昇進した。大手証券会社では、能力のある者が上に行くのは当たり前ではあるが、かなり早い出世である。もっとも、すごく才能のある奴は、会社を辞めて独立をして株師になっている。
 その日、珍しく、彼は五時に会社をでて家に向かった。三十分電車に乗り、家についたのは六時ちょっと前、呼び鈴を押したが返事がない。買い物にでも行っているのかと、鍵を取り出し、久しぶりにまだ明るいうちに自分の家の玄関の鍵を回した。
 中は薄暗くひんやりとしている。人がいた気配感じられない。
 二階の寝室に行き、電灯をつけて、背広をタンスにかけ、ネクタイをはずす。洋ダンスには似通ったネクタイが数本と背広が三着かかっている。
 背広の奥に見慣れないネクタイが1本あった。
 紺と臙脂の幅広の線の模様だ。どうしたんだっけ。すでに使かわれた跡がある。俺のじゃない。こんなネクタイ締めたことがない。
 そのとき、玄関の開く音がきこえた。
 「あら、あなた、もう帰ってるの」
 家内の声だ。とんとんと階段を上がる音がする。寝室にはいってくると、
 「ずいぶん早いのね」と言った。
 「課長になった」
 そういいながら、紺と臙脂のネクタイを妻の前につきだした。
 「これどうしたんだ」
 妻は「あら、昔あなたが買ったんじゃない、就活につかったんでしょ、すぐ食事の用意するわね」
 下におりていった。
 おかしい、こんなネクタイ買うわけはない、かなり使い込んだものだ。
あいついつもこんな時間から食事の用意をしているのだろうか。どこに行っていたんだろう。
 ネクタイをもったままキッチンに降りると、カレーができあがっていた。鶏肉を加えてはあるが、レトルトカレーだ。それにレタスとトマト。
 「あなた、体でも悪いの、いつも早くて10時は過ぎているじゃない」
 彼はもやもやしながらカレーを食べた。
 妻はさっさと、後かたづけをして、風呂に入っている。そういえば、いつも家に帰ると、妻はすでに食事を終わらせ、風呂に入り、パジャマ姿だ。
 何かあった跡を消しているようにみえる。
 風呂から上がった妻に、このネクタイは何だったかともう一度たずねた。
 彼女は、「知らないわよ、あなたが持っていたものよ、ずいぶん古いものがあったのね」、と笑った。
 「俺こんなの持っていないよ」
 そう言ったのだが、妻は、「忘れっぽくなったのね」、と一言いっただけだった。
 おかしい、彼は居間でテレビを見ている妻に、こんなネクタイしらんぞ、と独り言のように言うと、妻は振り返りもしないで、
 「いらないんなら捨てたら」
 と言った。
 テレビでは刑事ドラマで殺人現場の検証をしている。
 「このネクタイだれのだ」
 彼はいきなり声を高めた。
 おどろいた彼女はふりかえり怪訝な顔で、「あなたのでしょ、いまいいところなんだから」、とまたテレビに目をやった。
 「おまえいつもあんな時間に買い物に行くのか」
 妻は答えずテレビに見入っている。
 「おいこれ誰のネクタイだ」
 「うるさいわね、あなたのでしょ」
 妻の口調がつよくなった。
 彼はいきなり、ネクタイを妻の首に巻いた。
 妻は前のめりになり動かなくなった。
 怖くなった彼は、寝室に行くと背広に着替えなおし、家を出ると鍵を閉め、夜道を駅まで歩いた。どこに行く宛もなく会社にいった。
 守衛が、忘れ物ですかとたずねたが、うん、やり忘れたことがあってね、と自分の部署の部屋にいき、明かりをつけた。
 自分のデスクのコンピューターを立ち上げると、画面に株式の一覧があらわれた。
 かれはやっとほっとして、アメリカの油の会社の株価一覧をながめた。
 そうだ、あいつに男がいる、相手は、きっと会社の部下だ。いつも早く家に帰るやつがいる。独り者なのに時間通りに会社をでる。俺の後ろを通って、必ず振り返り、上目遣いでお先に失礼しますと言って帰る奴だ。
 あいつに違いない。あいつが会社にはいったとき話したら、大学の時に俺の家の近くで下宿していたので、俺の住んでいるあたりをよく知っていると言っていた。
 今日は珍しく遅くまでやることがあると言っていた。隣の情報室にいるかもしれない。
 彼はその部屋にいった。
 壁側にいくつものモニターがつるしてあり、世界の代表的な市場のデータが流れている。彼が画面をにらんでいた。
 やっぱりいた。
 あいつが相手だ。
 彼は自分が占めているネクタイをほどいた。
 後ろから、ネクタイを後輩の首に回し、ぐいと力を入れた。
 後輩はぐったりした。
 あわてて、自分の部署にもどると株式をみた。目には何も見えていない。
 守衛の靴音が廊下から響いてくる。
足音が遠ざかった。
 どこに逃げようか、妻をネクタイで締めて、あいつも締めちまった。
 彼は立ち上がると、すぐに部屋から逃げないと思い、部屋のドアを開けた。
 そこには警察官が立っていた。
 何かを言われたが、彼の頭の中にははいってこなかった。
 手錠をかけられ、警察に連れて行かれた。
 ネクタイで締めたかときかれ、彼はあきらめてうなずいた。
 留置場に入れられ、刑務所に入り、裁判で死刑を言い渡された。
 すぐに刑が執行されることになった。
 執行官が、首に綱の輪をいれて、きゅっとしめた。
 ほら、おまえさんのネクタイだ。
 首にロープがくいこんだ。

 守衛が部屋にはいってきた。
 彼がテーブルの上にうつ伏せになって動かなくなっていた。
 守衛はあわてて、警察に連絡をし、救急車を呼んだ。
 「この人何でこんなに強くネクタイを結んだんだ」
 駆けつけた刑事が守衛にきいた。
 「さあ、いつもきちんとネクタイを締めていますが」
 「誰かはいった様子はないようだ、ネクタイを強く結んで自殺するやつはいないだろう」
 そこに急を聞いて駆けつけてきた、後輩が言った。
 「株が急激に下がって、損失がかなりでていますけど、彼だけの問題じゃなくて、会社自体が大変な時で、先輩にはこれからがんばってもらわなければならないときです」
 やはり急を聞いて近くに住んでいた上司の部長がかけつけてきた。
 「ここのところ毎晩、夜中まで株の情報をにらんでいたので、疲れたのでしょうな」
 「会社の責任があるね」
 刑事が言った。
 そこに妻が到着した。
 「あ、あなた」
 うつぶせのままの彼のところにいった。
 「このネクタイで死んだのですか」
 「そのようです」
 「一週間前、突然早く帰宅したときに、いつもしているネクタイを、誰のネクタイだって言って、おかしかったんです」
 ネクタイって誰が発明したのだろう、いつもゆるゆるに締めている刑事が考えた。
 あのだらしないようなコロンボでさえネクタイをしている。
 なんのためなんだ、最後を締める為なのか
 そう思った刑事はネクタイをはずして、くずかごに放り込んだ。

ネクタイ

ネクタイ

どうしてネクタイを締めるのだろう---

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • ホラー
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-08-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted