
夜に生きた
【プロローグ】記憶されざる者達
『xx年xx月xx日。
総合病院Aにて、保管されていた資料を発見。研究対象Sの詳細を紐解く上で重要な資料だ。持ち出し許可は下りなかったため、まずは情報の整理から始めるとする。』
『xx年xx月xx日。
研究対象Sの他に研究対象Kの記録も新たに見つかる。膨大な資料が眠っていた。誰も見つけなかったのは意図的か、もしくは偶然か。』
スチールラックの並んだ埃臭い部屋の中、積み重なる数冊のノートを前に、一人の女性がゆっくりとそれに触れた。表紙をめくると、ふわりと埃が舞った。
女性は指先で古びたノートの表紙をなぞる。そこには名前も日付もない。だが、ページをめくった時、かすかな鉄の錆びたような臭いがした。これは血の香りだと気づいた途端、記憶の奥で懐かしい声が確かに響いた気がした。
「俺、ユイのことは絶対忘れたくねぇなぁ……」
幻聴だったのか、周りには誰もいない。女性はもう一度ノートのページをめくる。紙の端は焦げたように黒ずみ、幾つかのページは破られている。 けれど、そこに綴られた文字は綺麗に整っていて、深い哀しみと微かな祈りを感じさせた。
「あぁ……」
女性はぽつりと呟いた。
「あなた達はこんなにも……、こんなにも抗っていたのですね……」
パラリ、パラリと紙の擦れる音が規則正しく早まっていく。少し息の上がったような指先は、そうしてやがて静かになった。手元には、一つの描き込まれた絵。鉛筆ひとつで描いた絵は、誰かの似顔絵だった。
女性の指先が絵の中の人物の頬をなぞる。指が紙を滑り、右下に描かれた名前をなぞった。
「カイ……」
薄暗い部屋の中で、女性は静かに肩を揺らした。かすかな嗚咽に混じって、何度も深呼吸をする音が部屋に響く。
一度、大きく息を吸い込んだ音がして、ばさりと紙の束をまとめる音がし、部屋の明かりは落とされた。
これは、吸血鬼、食人鬼と呼ばれたモンスターの記録。
そして、彼らが生きた断片の記録。
どれだけ彼らに忘れられても、どれだけ彼らを忘れようとも、これは、確かに彼らが存在していた証。彼らは確かに、この街の夜に生きていた。
【第一章】夜の路地にて
長い睫毛に囲まれた赤い目を細めて、金髪の男は目の前の男性を睨むように見つめる。隣には白衣の男性が一人。二人は恐れるように、だが面白がるように金髪の男を見返す。
その男は、色素の薄い風貌で目の前の二人より彫りが深い。儚げに見える彼は暗がりの中で幻のように浮かび闇に溶けてしまいそうに見えた。
数十秒と、彼らは動かない。そのうち白衣でも金髪でもない方の男が沈黙に耐えかねて喋りだした。
「で、結局なんなのさ、何が分かるのさ?」
夜の病棟の一室。常夜灯だけをつけた部屋で男3人が顔を突き合わせている。暗がりの中で金髪の男が頭を横に振るのを見て、白衣の男が部屋の電気をつけた。
「……暗くなくても、分かるものだが……」
「暗い方が正確だろう? さすがに俺もお前の特徴を覚えたよ」
金髪と白衣の二人がなんとはなしに会話を交わす。もう一人の男は刺青の入った手で頭をがしがしと掻き乱ししびれを切らして声を荒らげた。
「で、分かったなら教えろよ、結局なんだってんだ」
刺青の男は嫌そうにするも、金髪は端正な顔を歪ませて呆れた様子で見返す。
「君の見立ては概ね当たっている。薬の種類だけ、見直しだ」
「はぁ? なんだお前、見ただけで何が分かるっていうんだ」
「こいつの診断は正確さ。俺が保証する」
白衣の男が宥めるように言うも、刺青の男は抗議をやめない。ついに金髪の胸ぐらを掴もうとしたが、バチンと強く乾いた音がしてそれは弾き飛ばされた。
「いっ……!」
弾かれた手を押さえるも、手の甲が見る見る間に内出血を起こしていく。
「……ぐぉぉ……」
刺青の男が唸る。どう見ても指の一つがありえない方向に曲がっている。
咄嗟に白衣の男は金髪の方を見返すが、金髪の男は部屋のドア付近でひらりと手を振ると病棟の暗闇に姿を消した。
彼の名を誰も知らない。便宜上、彼はS(エス)と呼ばれている。この病院に付属する研究機関に雇われている非常勤の研究員らしいが、基本的に研究所にもいなければ病院にもいない。たまに顔を出し、患者のカルテと血液だけで診断を下してしまう。医師免許はないので、あくまでアドバイスだけだが、これが百発百中の精度なのだ。稀に見逃された病気を見つけ出すので、医師達の間では本当は医師なのではないかと噂されるほどだ。
彼はとある医師が見つけ出してきた人物だった。
「君、癌の臭いがする」
夜の繁華街のガールズバーでの事だった。何人かと共に夜の街に繰り出した際、女の子達に囲まれた席で、彼はボーイとしてやってきて、ぽつりとそう告げたのだ。
何を不謹慎な。そう罵倒する者もいたし、笑いに変える者もいた。彼が指摘したのは店の女の子だった。
それから数週間後にその女の子が診察にやってきて、本当に癌だと判明したのだ。早期発見だったため、治療して完治できた事。それをきっかけにSを研究所で雇うようになったらしい。
彼は自己紹介で自分を吸血鬼だと言った。その時は誰もが笑った。近くの繁華街にはモンスターが住み着いていると、噂こそ周知の事実だがその実誰も姿を見たものはいない。それが世間一般の認知度だ。それがどうして、こんなにも身近にモンスターがいよう。周りは科学者だらけだ。誰もが訝しがった。しかし、病名は分からなくとも何件もSは疾患部位を言い当てるので、そのうち誰もが信じるようになっていった。
Sは神出鬼没だった。たまに現れるとその機を逃すまいと各所から膨大な依頼が舞い込んでくる。彼とは雇用の関係にあるとは聞いているが、それも詳細は不明だ。
その日も、彼は黙々と与えられた試料を処理し、適切な判断を下し、必要な用件が終わり次第、研究所の中から姿を消す。追加の依頼を持ってきた研究員が、惜しむ声をあげる事がちらほらあった。
職務が終わる夜明け前、Sは必ず静まり返った病棟の入り口にいた。
ふと、Sが顔を上げる。彼の反応より遅れて奥から白衣の男が荷物を持ってやってきた。Sは何度目かの顔馴染みとなった医師から保冷バッグを受け取った。中身は保存された血液だった。
「報酬だ。ここ最近、この辺りでモンスターがうろついていると聞く。気をつけてくれ」
保冷バッグの中身を確かめるSにそう告げると、彼はきょとんとした顔をしてみせた。白衣の男ははっとして笑った。
「そういや、お前もモンスターだったな」
「……何を今更」
「忘れるんだ、お前があまりにモンスターのイメージからかけ離れてるから。きちんと話が通じるし、博学で仕事も助かってる。意味の分からない変死体を、俺も仕事柄知ってる。まさに化け物の所業だ。お前はそんな奴らとは違うだろう?」
「……」
白衣の男が好意的に接するも、Sはしらけた様子で軽いため息をついた。
「もうお前は立派にここの研究員だろう? 今後も頼むよ」
差し出された手を一瞥して、Sは怪訝な顔で呆れたようだった。
「それでも、私はモンスターだ」
好意的なはずの握手は、思いのほか軽かった。
帰路につく間、Sは白衣の男の言葉を反芻していた。ネオンの明かりに照らされた路地裏は、繁華街のメイン通りが近いせいかごみ溜の形相だ。忙しなく喧しい街だが、モンスターの自分が潜むにはうってつけの街だ。誰もが他人で、他人を気にしない。人間が一人消えようが、悲しむ者は少ない。
Sは静かに歩きながら、行き交う人々を眺めていた。
少し前までは、これらを喰っていた。今は、殺人の手間が省けて簡単に食料が手に入るようになった。これはこれで合理的だが、どことなく牙が疼く。久しく人間をその牙で喰っていない。あの充足感は、吸血でしか味わえない。
思考が見る見る間に血に染まってゆく。Sはその場でひたすらに深呼吸をし、手元の保存血液を一つ、鷲掴みにした。
──その時だった。
耳に聞き慣れない音が届く。肉の裂ける音、それに、短い悲鳴。
Sはすぐに足を止め、音の方角へと向き直る。生暖かい風が吹き抜けた気がした。
近い。近くだ。
彼が足早に駆けつけると、狭い裏路地の袋小路、一人の若い男が誰かを抱きしめるように抱え込んでいた。
痩せていながらも、異様な筋肉の張りが目立つ腕。振り返った顔のギラついた眼差しよりも先に血まみれの口元が目に入った。まるで飢えた獣のようだった。
「君も、喰う側か」
Sが静かに声をかけると、男は顔を歪めた。
「……チッ、見られたか」
短く吐き捨てると、男は遺体を放り出して立ち上がる。警戒心のこもった目がSを射抜く。
「お前、血の匂いが強いな。吸血鬼だな?」
「そういう君は、食人鬼か」
「だから何だ。てめぇにこれを譲る気はねぇぞ」
男は敵意がむき出しだ。遺体は女のようで、腹を食い破られ臓物を散らかしている。食人鬼と思われる男は二十歳前後の若い男で、短い髪のせいで額に浮き上がる血管が余計に怒りを露わにした。引き裂いたであろう両手と口元は、鋭い爪と歯があった。
「生憎、その女は好みの味ではなさそうだ。あまり酒気を帯びた人間は不味いだろう」
「知らねぇよ。この辺の女はそんなんばっかだろうが」
獲物を横取りされないようにと伸ばされた両手があまりにも細い。食い物に困っているのかと思うが、それにしても硬そうな腕だと、Sはなんとなく見つめていた。
「あっち行けよ、邪魔だ」
「食人鬼は皆、君のような体格なのか?」
「はぁ?」
「人間ならば、なんとも不味そうな種族だな」
「てめぇ、ケンカ売ってるだろ」
気にせず近づいてくる吸血鬼に、食人鬼の男が嫌そうに後ずさる。Sは視界を遮るように手で顔を覆ってから、何度か首を振った。
「君はモンスターになったばかりか。とても血が初々しい」
面白そうに呟く吸血鬼の言葉に、二人して数秒の沈黙を作ってしまった。やがて、食人鬼の男が舌打ちして背を向けた。
「気持ち悪ぃな。俺の血なんかやらねぇぞ。モンスターがモンスターを喰うなんて聞いたことがねぇ」
「すまない。久しく人間を口にしていないもので……君が羨ましく思えてしまった」
「はぁ? 喰ってねぇのかよ、おっさん」
食人鬼の言葉に、Sは一瞬言葉を返せなかった。面食らったSをよそに、食人鬼の男は遺体の腕を引っ張り上げて、彼の前に差し出した。
「喰えよ、おっさん。死んでちゃ意味ねぇかもしんねぇけどよ」
「…………」
「なんか言えよ、おっさん!」
面食らったまま黙り込む吸血鬼に、食人鬼の男は怒鳴るも、ついには破顔した相手に驚いて今度は食人鬼の方が閉口した。
「はは、悪かった。恵んでくれなくとも渇いてはいない。それに、おっさんなどと呼ばれたのは久方ぶりだ」
「……お、おう……?」
「いや、なに。優しい青年だな。名はなんと言う」
「はぁ?」
「私はセリアンだ。近くの総合病院で世話になっている。この繁華街は私の根城でな」
Sもといセリアンの快い握手を、食人鬼の男はパシリと軽くはねのけた。
「あのなぁ、宣戦布告なのか、それ。お前、意味不明すぎねぇ?」
男の狼狽えたような威勢の良い反撃を、セリアンは何度かぱちくりと瞬きをして返すので、男は頭を抱えてため息をついた。
「俺の根城って、宣戦布告だろ? ここで人間を喰うなってか?」
「そういうわけではない。ここを私はよく知っている。君はまだ若いだろう? 案内しよう」
そう言って招待しようとするセリアンの手を、男はもう一度払い除けた。
『セリアンと出会ったのは、獲物の取り合いをしてた時だ。街に来たてでよく分からなかったから、セリアンが街を案内してくれたのは助かった。』
『出会った頃のセリアンは、病院だかの血をもらってたみたいだけど、ずっと飢えてるように見えた。そりゃあ牙を使わない食事なんて、味気ねぇだろう。』
『久しく吸血していないと、心が蝕まれていく。
これは、忘れてはならない現象だろう。』
【第二章】喰うこと、生きること
気がついた時には、人間を喰っていた。
気の向くままに人間を襲って喰って、息を潜めて眠りについた。
自分は元は田舎にいた。田舎暮らしでは食人鬼の存在は大きすぎて、人間が一人消えると大問題になった。逃げるようにやってきた都会の繁華街は、喰うにも潜むにも困らなかったが、単純に住む場所に追われた。人間に紛れて生きる以上、何かと金が入り用になる。夜間の方が羽振りは良い。接客は向かなかった。単純作業は向いていたが、そこでも食の誘惑に勝てなかった。最終的に職を転々とするしかなくなっていた。
そんな折、吸血鬼セリアンと出会った。セリアンはこの街に慣れているようで、最初は拠点争いになるかと、その言い様が癪に障った。なんとも掴みどころのないおっさんだった。
繁華街に住み着くようになって、食事に困らなかった。男より女が硬くなくて喰いやすい。たばこは苦くなるから苦手だが、酒に浸かった肉はむしろ美味いと思った。若い方が瑞々しいし、病のある肉は変にえぐみがあるけど癖になる。何にせよ、喰えればなんでもよかった。
最高だ。当たり外れの振り幅こそ大きいが、ここは喰いっぱくれる事がない。
「逃げんじゃねぇよ」
未成年そうな男を捕まえて、その喉仏を潰すように両手に力を込める。鈍い音がして血反吐を吐く男を、食人鬼の男はにやりと笑って楽しそうにした。元は人間のようだった爪が鋭利に変化し、男の腹を掻っさばく。勢いで巻き散らかした臓物を拾い上げ、食人鬼は選り好みするようにいくつかの部位を切り離した。
骨までしゃぶりつくように、食人鬼は指先についた血を舐め取る。咀嚼し、嚥下し、胃に落ちた感覚に安堵する。何度も繰り返してきた行為だ。昂る気持ちと、表現しがたい安堵感と達成感。それらに包まれて満腹を感じる。そのはずだった。なのに、なぜか今日は違う。
満たされない。満たされてくれない。
胃の奥に棘のような何かが刺さっているようで、腹が、心が、感覚が気持ち悪い。
「……味が薄い?」
呟いた声は、夜の空気に溶けて誰の耳にも届かない。けれど、食人鬼は必死に誰かに問いかけるように、何度も何度も味を確かめるよう呟いた。
「硬かった? 違う。薄かった? 違う。不味かった? 違う………」
喰い千切った遺体を見下ろしていると、視界がぐるぐると回っているような気がしてきた。
──これは、本当に喰っていい相手だったのか?
ふと頭をよぎった言葉に怖くなった。なんて事を考えてるんだ。喰っちゃだめな人間ってなんだよ。未成年か? 未成年だから思ったのか?
いくつかの疑問に答えの出ないまま、耳が新たな危険を察知した。例の吸血鬼の足音だった。
「また会ったな」
「また、おっさんかよ……」
独特な静かな足音で、嫌でも覚えてしまう。食人鬼は嫌そうに目を細めたが、セリアンは気にする様子もなく、血の匂いに目を細めた。
「肝臓を喰ったのか?」
「わかるのかよ」
「臭いでな。血の中にアルコール分が濃く残っている。肝臓はそういうものを吸収する」
セリアンは淡々と語りながら、ポケットから何かを取り出した。それは保存された血液のパックだった。中身を確認すると、ほんの一口分だけを開封して唇に触れる。
「……ふむ、不味いな」
「お前、喰わねぇくせに味にうるせぇんだな」
「食事とはそういうものだろう? 我々は理性がある。選り好みを知っているのは、生きる以上の理性があるからだ」
「理性ねぇ……」
食人鬼はうんざりしたように地面にしゃがみこむ。あまりに軽やかに話すセリアンに、かすかに怒りすら覚えた。
「喰わねぇと死ぬんだぞ。モンスターだって人間と同じで喰わなきゃ生きていけねぇんだ。選り好みとか理性とか、言ってられねぇだろ」
「では、提案だ、青年。あのビルの所有者達を、私は喰ってしまって良いと考えている。掃討するには骨が折れる。私もそこまで大喰らいではなくてな。どうだ、共に掃除をしてくれないか?」
「はぁ?」
唐突な吸血鬼の提案に、食人鬼は素っ頓狂な声を上げた。
「私はこの街が住みやすくて好きなのだが、犯罪者の街にされては人間の質が落ちる。ただでさえ酒臭い街だ。治安を守る意味でも、あの者達を私は狩ってしまいたい」
吸血鬼は声色こそ淡々と話すが、言葉尻は楽しそうに話す。食人鬼はなんだか楽しそうにする吸血鬼の姿につられて笑ってしまった。
「なんだよ、おっさんも人間襲ってんじゃねぇかよ」
「牙が疼くのは自然な事だ」
「おっさんもモンスターだなぁ」
「セリアンだ。そろそろ君の名前を聞いても?」
「そういや、前にも名前を聞いたな。忘れてたや。俺は、カイだ」
「カイか。では、カイよ。少し狩る者達の話をしようか。いくつかの人間は知っている。トップの男は素晴らしい血肉の持ち主だ。君も気に入るだろう」
「お前の喰った後なんて嫌だぞ」
「そこは譲り合いだ」
「さぁな? 早いもの勝ちだろうが」
「ふふ、君にもやはり選り好みはあるのだな」
「な、なんだよ」
楽しそうに笑う姿があまりにも楽しそうで、カイはなんだか恥ずかしさを覚えて俯いた。
セリアンの言っていたビルとその所有者とは、とある組織団体の事を指していた。麻薬の密売にも関わっているようで、関係のある人間達の中には薬物中毒に罹っている者も散見された。
「ダメだ、こいつも薬漬けだ。見ろよ、この肝。酷ぇ濁り方してる」
「なかなかに下っ端では良い人間は見当たらないな」
遺体のそばでしゃがんで様子を見ていたカイが、モンスター特有の爪で、玩具箱から玩具を出すような仕草で臓物を見せてくる。セリアンは呆れた様子で口元を押さえた。
「見せなくていい。見たくない」
「おっさん、グロいの苦手?」
「腐った人間を見ると、食事が不味くなる」
「まぁ、それもそうだな」
ぽいと肝臓を放り投げて、肉体の内側を漁るように探るも、カイは諦めたのか遺体を放り投げてその場から立ち上がった。
またある時は、男女の差で見解が違った。
「俺、これは持って帰って保存する!」
嬉々としてカイは若い女の死体を背負って笑顔を見せる。
「まだ絶えて時が浅い。一口分けてくれ」
「おま、女は甘ったるくて苦手だって言ってたろ。俺のだ、やんねぇぞ!」
「O型だろう。その若さならさらりとした甘さで食後酒に良い。口直しに欲しい」
「酒かよ。相変わらず美食家だなぁ」
言いながらもまだ温かい背中の女を降ろしてみる。二十歳そこそこの、少し痩せた女だ。
「そういう君も、保存とはなかなか拘るじゃないか」
「あんたの影響だ。選り好みできるってのは、高尚な趣味だってな」
「ふふ、君が味の違いが分かるようになって、私も嬉しい」
「きめぇよ」
悪態をつくも、カイは楽しそうに笑った。
そうして夜な夜な二人が組織の人間を狩っている噂は、当然のように表社会にも伝わった。そこで、カイとセリアンは研究員ユイと出会うことになる。
『xx年xx月xx日。
研究対象K。種族、食人鬼。名、カイ。年齢、20歳。外見、我々とほぼ同様。痩せ型。知能、健常。モンスター特有の怪力は健在。人間の肉を好み食す。爪の変化あり。会話可能。月齢による変化、なし。
研究対象S。種族、吸血鬼。名、セリアン。年齢、不明。外見、特徴的な金髪と肌の色。健常体型。知能、健常。モンスター特有の怪力は健在。人間の血を好み食す。吸血の際に変化するのか不明。会話可能。月齢による変化、なし。
引き続き、経過観察。』
【第三章】観察者の手記
『xx年xx月xx日
連続殺人事件の調査過程において、目撃情報の多くが特定のビル周辺に集中していることを確認。
被害者はいずれも組織犯罪に関わっていた可能性が高く、薬物使用歴や暴力団との関係性が認められる人物ばかりである。
だが、遺体の損傷状況はいずれも異常。解剖所見より、人体の一部が食いちぎられた痕跡、あるいは血液を抜かれたような形跡がある。
加害者は、モンスターである可能性が極めて高い。』
私がその現場に足を踏み入れたのは、深夜0時を回った頃だった。
通報者は不明。現場近くで発見された遺体は、頭部を失っており、血液もほとんど残っていなかった。所持品から身元を割り出すことはできたが、犯罪歴のある人物だった。
現場検証の過程で、死後の加工が不自然に感じられたため、私はひとりで現場周辺の調査を続けていた。対象エリアは、境界エリア。この繁華街は三つのエリアに分かれる。表の顔である命の安全が保証されたエリアと、一般人は決して立ち入らない廃墟を閉じ込めた危険エリア。境界エリアはまさにその境界だ。
その中でも一際人通りの少ない裏路地、ネオンサインの明かりも届かないような狭い一角で、私は彼らに出会った。
『記録:xx年xx月xx日
研究対象Sおよび研究対象Kと、初の直接接触。
場所は現場周辺の裏路地。以下に詳細を記す。』
最初に現れたのは、研究対象K。若い男性の姿で、全身に血痕をつけていた。目の前の遺体に腰を下ろし、素手で臓器を引きずり出していた。
私の足音に反応し、動物のように振り返った彼は、明らかに警戒心を露わにした。攻撃の意志はなかったようだが、距離を取ってこちらを睨んでいた。
その直後、研究対象Sが現れる。
金髪に赤目。容姿は整っており、一見では人間と変わらない。血の匂いに一切動じる様子がなかった。彼は私に目を向けたあと、Kと視線を交わし、何か短く会話を交わしたようだった。詳細は聞き取れなかったが、明らかに旧知の関係性が見受けられた。
「てめぇ、何者だ?」
研究対象Kが低く問うた。私は名乗り、研究所から来た者であることを告げた。
研究対象S──セリアンは、私の所属と立場を聞くと少し目を細めたが、敵意は示さなかった。
「研究者がこんなところに来るとは珍しいな」
彼はそう言った。彼らの会話内容からも、二人は明確に人間を喰っていることを隠す様子はなく、また、私がそれを責めることを想定していないようでもあった。
『所見:
研究対象SおよびKは共に自我がはっきりしており、捕食行為についての倫理観は人間とは明確に異なる。また、彼らは私の職業的立場を知った上で、自らを偽る素振りを一切見せなかった。
このことから、両対象はモンスターの本能的行為に対し「生物的本能」と認識していると考えられる。』
やりとりの最中、研究対象K──カイが私をじっと見つめる場面があった。
「研究所の人間って、そんなに暇かよ」
彼はそう言ったが、その声音には軽い苛立ちと、微かな好奇心が混じっていた。
私が彼に対して中立の立場であること、そして彼らに危害を加える意図がないことを伝えると、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
その後、私は簡易的な質問と観察を行い、その場を離れる許可を得た。
現場を離れる前に、カイが「あんた、名前は?」と尋ねてきた。
「ユイです」と答えると、彼はふんと鼻を鳴らし、「変な名前」と呟いたが、それ以上は何も言わなかった。
『xx年xx月xx日:接触後、記録
研究対象Kは、過去に家族を持っていた可能性を示唆する発言あり。ただし、記憶の断絶が多く、詳細な説明はなし。
記憶喪失の原因は不明。モンスター特有の特徴か、個体差によるものか、現時点では断定できない。
研究対象Sとの関係性は、同族的な協力関係に近いが、主従関係・上下関係は曖昧。SはKに対し、しばしば過保護な振る舞いを見せる。
今後、関係性の変化と記憶に関する情報に注目が必要。』
最後に、私が提出した報告書の末尾には、こう書き添えている。
『備考:
研究対象Sは、記憶喪失に関する質問に対して沈黙を貫いた。ただし、明確な反応が見られたことから、彼が既に何かを知っている、あるいは経験済みである可能性が高い。
本件については、継続観察とする。』
【第四章】理性の枷
研究室の机の上には、血液サンプルと解体された臓器の写真が並んでいる。ユイはPC画面に視線を移し、次の検体データと照らし合わせるように、目を細める。
「血液中のグルコース濃度の偏差値が高いですね。これは……インスリン抵抗性の指標が……」
「……まるで“星の民”の頃の医術の話をしているようだ」
「さすがですね、ご存知でしたか。もしかしてと思っていましたが、あなたは星の民の末裔ですか?」
「さてね。末裔どころか本人かもしれない。二世紀も生きていると、色々と曖昧だ」
「ご冗談を。ここ十数年の機械操作もお手の物じゃないですか」
「知識や理性があるのなら、楽しまなければ」
「星の民らしい発言ですね。彼らはとても文明が進んでいたとお聞きします」
「特に、月について」
「はい、彼らが月齢と内分泌の関係性を研究していた記録が残っています。現代でも追いついていない部分が多いんですよ。特に遺伝子学的には──」
「──おい!」
唐突な声とガタッと椅子の揺れる音に、ユイとセリアンが一瞬手を止めた。二人して視線がカイに向く。当人は椅子から立ち上がって、苛立ちよりも諦めに近い表情をして大きなため息をついた。
「……また出たよ。そういう昔話。誰が分かるかっつの!」
カイは腕を組んで天井を仰ぐ。
「あぁあ、クソ! こんなこと、どうでも良かったはずなのに! 全部興味ねぇし、知らねぇし、どうでもいいって思ってたのに。お前ら二人だけで盛り上がりやがってよ。すげぇムカつく……」
怒鳴りながら、次第にカイは二人から目を逸らして俯いた。最後はか細く愚痴るように呟くものだから、セリアンは静かに微笑んだ。カイが、どことなく拗ねた小さな子供のように見えたのだ。
「君、変わったな」
「……うるせぇ」
「悪いことではない」
「……分かるように喋ってくれよ」
「努力しよう」とセリアンが言った直後、ユイがくすっと笑った。
「努力する気、ない顔してますよ」
「心外だな、その気はあるぞ。ただ──」
言いながら、セリアンはユイへ、続いてカイへ手を伸ばすと、無言で彼らの頭をぽんと撫でた。
二人とも最初は面食らったように目を丸くしたが、やがてカイは不愉快そうに、ユイは静かに受け入れた。
「すぐそれだ」
「……やめてください。そうやって“若い者扱い”するのは」
「すまない。だが、研究にひたむきな君を見ると、どうにもな」
「娘でも見るような気分ですか?」
「かもな」
「やめてください。気が散ります」
そう言いながらも、ユイの手元は止まらない。セリアンもまた何事もなかったかのように、自身の手帳に何か書き留める。
カイはそれをじっと眺めていたが、ふっと鼻を鳴らすと椅子に座りなおした。
「……じゃあ、俺もなんか役に立てることある?」
「そうですね。次の採血、協力してもらいますよ」
「げっ……」
ユイのその一言に、カイはわざとらしく肩を落とした。
「またかよ。そんなに血が好きなら自分で抜けよ」
「抜けません。あなたの血ですし」
「そりゃそうだけどよ……」
ぶつぶつと文句を言いつつも、カイは元々観念しているのか逃げる様子はない。
しばらくセリアンとユイのやりとりを暇そうに眺めていたカイだったが、セリアンが去り際、もう一度カイの頭を撫でようとするので、カイは余計に居心地悪そうに眉間にシワを寄せた。
「さ、こちらへ」
先ほどまでセリアンの座っていた席へとカイは座り直す。ユイはいつものように無駄なく準備を進める。カイも言われなくとも腕を差し出し、ユイがゴムバンドでカイの腕を縛る。次第に血管が露わになる。人間のそれと違い、様々な太さの血管が異様にいくつも浮かんでくる。クモの巣のようなそれをアルコール脱脂綿でひと撫でして、見慣れたように一本の血管を選び出す。
「……前より血がさらさらしていますね。食生活を見直しましたか?」
「いや……特に……」
「酒の量、減らしました?」
「……まあ、ちょっとだけ。おっさんに言われてな」
「ふふ、それは良い傾向です」
ユイの笑みが柔らかくなる。針を刺す手つきも、痛みを感じさせないほどに熟練されていた。採血が進む間、カイは落ち着かない様子で視線を彷徨わせていたが、やがておずおずと声を発した。
「……あのさ、俺──」
話しかけたはいいが、カイは言葉をつまらせる。ユイはちらりとカイを見上げたが、言葉を遮ることはせず、そのまま静かに作業を続けた。針を抜き、止血を確認しながら口を開く。
「……あまり酒気帯びた肉ばかりでは、いくらモンスターとはいえ健康を害しますよ。それに、あなたの調理の腕前がどれほどか知りませんが、血糖値が異常です。ケトアシドーシスを起こしていないのが不思議なくらいです」
「はぁ……?」
想定外の切り返しにカイは面食らったような声を漏らす。ユイは椅子に座りなおすと、包帯の端を整えながら言葉を重ねた。
「研究対象とはいえ、あなたとは長く付き合っていきたいのです。自分の体を大事にしてください」
「お、おう!」
ぴしりと背筋を伸ばして返事をするカイ。その反応があまりにも子供のように真っ直ぐで、ユイは思わず小さく笑った。
「分かれば良いのですよ」
微笑むユイに、カイもつられて笑う。が、すぐにカイは視線を泳がせて口をもごもごと動かした。
「……あのさ、俺……なんか、こう……こういう、ちゃんと健康とか……考えたことなかったからよ。なんつーか…………なんつーか…………くそ、分かんねぇ」
形だけ巻かれた包帯の上を、カイは爪先でカリカリと掻くように触る。何か言いたげにもう一度ユイに向き直ったものの、カイは何も言わずに席を立ち、足早に部屋を出て行った。
その背を見送りながら、ユイは血液の入った試験管を所定のボックスに収めると、静かに独り言を漏らした。
「……あれで精一杯なんですね」
じっと見据える視線は、年下の男を見つめる視線でもなければ、モンスターを見る視線でもない。淡々と研究者の眼がカイの挙動を捉え、彼女は再び手慣れたいつもの作業へと戻っていった。
一方、わずかな戸惑いを連れて、カイは研究所の白い廊下を抜けると、自動ドアがその背中を押し出すように開き、よろめくように外へ出た。
日が落ち始めた夕刻。繁華街の雑踏が音を増し、ネオンの予兆が街にじわりと滲んでくる。
住み慣れた、繁華街の中心へ。
足元を行き交うサラリーマン、買い物帰りの女、高校生、酔っ払い、車椅子の老人、数えきれない誰かの生活。
時折、セリアンのように金髪の人が見受けられた。セリアンみたいに、色白じゃない。けれど、どこか儚げな金髪は、おとぎ話のように聞いた昔話の中の登場人物のように、夜空の星のようにキラキラと輝いて見えた。
「……歴史なんて知らねぇよ……」
昔は皆髪色が暗かったらしい。金髪は迫害されたとかなんとか。よく知らない。知ってても、きっとそれどころじゃなかった。モンスターとして生きている自分にとって、この街はただの食料庫だ。喰って、逃げて、隠れて、束の間に眠り、また追われて逃げて……。
けれど、今は違う。こんなにも喧騒が心地よい。人の波の中に立っている自分が、かき消されない。なぜかほんの少しだけ、温かい場所にいる気がした。
あの夜、初めてセリアンと肩を並べて「狩り」をした時のことを思い出す。自分と違って、妙に上品で、理屈っぽくて、だけどどこか懐っこくて抜けていて……気づけば、並んで歩くことにあまり抵抗がなくなっていた。
「あのビルの所有者達を掃除しよう」と笑った顔は、今思い出しても悪い顔をしていた。あのおっさんもそんな顔するんだなと、普段の淡々とした表情からは想像もつかない。だけど、今なら分かる。あいつは淡々と話す割に、けっこう自ら首を突っ込む。いろんなことを楽しんでたりする。
「食事とは理性の行為だ」と語ったのも、結局は同じことなのかもしれない。人生に彩りを。そんな事をあいつなら言いそうだ。今なら、あの時の言葉の真意が、なんとなく分かる気がした。
それに、ユイだ。自分より少し年上の女で、無駄がなく、冷静で、それでいてなんとなく優しいし、いつだって自分達モンスターにも平等だ。
「あなたとは長く付き合っていきたい」と言ったあの声は、妙に心に残っていた。
誰かと“長く”過ごすなんて、これまで一度も考えたことがなかった。
喰って喰われる、ただそれだけの繰り返しに、明日なんて要らなかった。
──なのに。
「……くそ、なんだってんだ」
ぼそりと吐いた声が喧騒に飲まれる。道の片隅、人気のないベンチに腰を落とす。自らを抱きしめるようにして、カイは蹲った。
なんなんだ、この気色悪ぃ感覚は。
やっと見つけた安全な場所からむりやり引きずり出されるような感覚がまとわりついて消えない。光と音と匂いが渦を巻くこの街で、やけに自分の呼吸音だけが鮮明に聞こえる。感覚も鈍い。
夜の風が通り抜けても、冷たさが分からない。
ふと、視界の隅に金髪の男が現れた。
「何を考えている?」
目の前に突如セリアンの顔が現れ、思わず仰け反った拍子に、カイはベンチから派手に転がり落ちた。
「……びっ……くりした……!」
「私の方こそ驚いた。何度も呼びかけただろう」
呆れたように手を差し伸べてくるセリアンの手を取りながら、カイは違和感に気づく。
「な……よ、よだれ……?!」
口元からつうっと、よだれが垂れていた。しかも、結構な量だ。
反射的に袖で拭い、服の染みを見てぞっとする。
「腹が減ったのなら、食事に出かけるといい。さすがにそのままではユイに会えないだろう」
その名前を聞いた瞬間、カイの体がびくりと大袈裟に強張った。
「……あ、ああ。そ、そうだな」
ひきつった笑顔を浮かべるカイに、セリアンは何も言及しない。少しの間を置いて、セリアンは「約束の時間に遅れるな」とだけ言って立ち去ってしまった。
その背中が角の向こうに消えるまで、カイはずっと立ち尽くしていた。
──俺は今、何を考えてた?
思い返す。
セリアンに声をかけられる直前まで、自分は2人のことを考えていた。セリアンとの出会い、ユイとの出会い。そうだ、今夜ユイに会うんだ。その顔や声、動き、ふとした仕草。笑った時の目尻。そういうものを、ずっと、頭の中で想像していた。
それで、よだれ?
俺は……ユイを、喰いたいのか?
背筋にぞわっとした寒気が走った。
ゾッとした。自分の中にある、本能の底に沈んだ欲望の声が、じわじわと浮かび上がってくる。
──いや、違う。違うはずだ。
確かに、女の肉は好きだ。ちぎりやすいし、程よく淡白で旨味がある。だけど……ユイは違う。違うはずなんだ。
喰いたい。喰いたくない。
その差は、確かにあるはずだ。
セリアンが言っていた。選り好みができることが、理性だと。
──ユイは、喰いたくない。
そう言い聞かせる。何度も、言い聞かせる。
けれど、一度染みついた唾液の跡が胸元に残ったまま、無言で訴えてくる。まるで自分の中の何かが、勝手に反応した証のように。
「もう……考えてても大丈夫だよ……な……?」
ベンチに腰を下ろし直しながら、カイは再び自分の口元に手をやった。指先には、もう何もついていなかった。
『ユイを食い物に見てないのに、よだれが止まらなくなった時があった。自分で気色悪ぃのをすげぇ覚える。あんなの、二度とごめんだ。』
『思えば、あの日が分岐点だったのだろう。ユイと出会い、まだ季節は一巡していない。早すぎる結末だ。私は既に地に落ちた星だ。せめて、カイは呼応することなく、いてくれるだろうか。』
【第五章】衝動の果て
繁華街の奥、危険エリアと呼ばれる場所は、陽の光も差さなければおおよそ人間の住めるような場所ではない。廃ビルの地下施設にある、そのまた奥。壁は煤け、床は血と脂で滑るほどに濡れていた。薄暗い照明が明滅し、腐臭と薬品の刺激臭が交じる。空気が、重力すらやけに重い。人間のための場所ではない。声を発すれば、それに反応して何かが蠢くような恐怖が脳を支配した。
その最奥、監禁室に似た狭い空間で、異様な”食事”が行われていた。
ぶちぶちと肉が裂ける音がする。腱が弾け、骨が砕ける。叫び声すら出ないほどに潰された喉から、泡混じりの息が漏れる。床にはすでに四人分ほどの血が広がっていたが、被害者の数はもっと多かった。
鉄枷に縛られた一人の男が、信じられないという顔で首を左右に振っていた。自分の目の前で、仲間が、一人、また一人と喰われていく──それも、肉を切り分けるなどという生易しいものではない。生きたまま、手足をもぎ取られ、喉笛を食い破られ、内臓が引きずり出されていく。
「助けて……たの……む……!」
その懇願が誰に向けられたものか、本人にも分からない。ただ、この地獄から目を逸らしたかった。目を逸らせば、あるいは自分はまだ生き延びられるかもしれないと。
「まだ喋れるのか。丈夫だな」
低く、落ち着いた声が響く。
金色の髪が一房、赤黒い血に濡れながら揺れた。背筋の伸びた長身の男──セリアンが、まるで医師のように冷静な手つきで相手の腕を掴み、そっと脇腹に触れる。骨と筋膜をなぞるように丁寧に、鋭利な爪先が突き刺さり、無慈悲に肉を裂いていく。
男は眼を見開いて絶叫した。いや、叫んだはずだった。けれど、その喉はすでに潰されて空気が代わりに掠れて消える。肺が波打つように揺れ、苦悶の震えを繰り返す。
「この内臓……臓器不全の兆候があるな。アルコール性肝炎か、あるいは──」
喋りながら、セリアンは心臓の拍動を確認するように軽く触れ、舌で傷口に軽く触れた。次の瞬間、彼らの間に男の内臓が噴き出した。セリアンが引き裂いたのだ。
血と肉片が飛び散る。男の体は痙攣を繰り返し、やがて静かに動かなくなった。壁に叩きつけるようにしてその死体を放り捨てると、セリアンは血塗れの手元でほとんど汚れていない口元をハンカチで拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「……えげつねぇなぁ……」
場の端に立っていたカイが、鼻を鳴らすように笑う。その視線の奥にあったのは、好奇心とも、恐怖ともつかない、別の感情だった。
「……なぁ、おっさん。いつからこんなことしてんだ?」
「こんなこと、とは?」
セリアンは涼しげな顔で問い返す。血塗れの姿でも、全く感情の起伏はない。
「人間を殺す事だよ。さっきあんなに吸血してたのに、そいつは全然喰ってねぇじゃん」
「これはいい。吸血に値しない」
「へぇ。だったら、あの女の子は?」
カイの視線の先には、小さな体がうずくまっていた。殴られ、蹴られ、酷く痩せた少女。彼女のすぐ傍に、先ほどまで少女を殴っていた男の死体が転がっている。首の皮膚が裂け、奥の喉が露出していた。
「彼女は……」
言葉を区切り、セリアンは少女に膝をつき、静かに手を添える。その瞼がかすかに開き、青あざだらけの顔が俯く。唇が、震えながら動いた。
「……ごめ、なさ…………め……なさい……」
「大丈夫だ。すぐに、楽になる」
そう言って、セリアンが軽く口を開ける。唇はみちりと軋む音を立てて耳まで裂けていく。音に顔を上げた少女は、衰弱のせいか、声すら発さない。少女の首元に覆いかぶさるようにセリアンの頭だったものが影を作る。
「あ……」
優しく包み込むような腕の包容とは裏腹に、セリアンの上下に裂かれた頭部だったものががっしりと喉を掴みこんだ。
「ちょ、おい……!」
言いかけて、カイは閉口した。血の匂いとは別の、甘ったるい香りが急にしてきたからだ。見やれば、セリアンに噛まれた首からじわりと広がるように、腕の、頬の、いたるところの少女のあざが消えていく。
「……すげぇ…………」
カイは思わず呟いた。少女の黒ずんでいた肌に、再び血の色が戻る。腫れていた頬も、すべて元通りに。
セリアンはゆっくりと少女から口を離すと、離れていた顎が閉じ、裂けた肌が何事もなかったかのように結合していく。最後に軽く口づけるように優しく首元に触れて離れていったセリアンは、己の口元を指先で触り、何故か不満げだった。
「すげぇ……おっさん、すげぇな……この子の傷が治った!」
少女はぼうっとセリアンを見つめて、惹かれるように少女は自ら立ち上がろうとし、そうして頭から崩れるように転倒した。慌ててカイが駆け寄るもむなしく、少女は顔面を強打する。
「は? はぁ?」
少女の体が黒く変色し、まるで炭化するように崩れていく。数秒で灰のように砕け、それはただの煤と成り果てた。
「失敗か……」
「お前……何殺してんだよ! 助けるって言っただろ!」
「他者の血でも与えてやれば、少しは治ると思ったんだがな」
「はぁ?!」
セリアンの言葉の意味を疑い、カイが素っ頓狂な声を上げる。
「あのな、人間は血液型ってのがあるんだぞ! 混ぜたらいけねえって知ってるだろ!」
「血液型くらい、私の中で操作できる」
「おま………まじかよ……」
「問題はそこではない。見ろ、彼女の髪は、私と似ているだろう? 星色の髪だ」
「はぁ……?」
無表情だが、心なしか悲しげにセリアンが語る。
「この子は、私と血が近い。叶えば……傷も癒え、吸血鬼として、血族に生まれ変わる……はずだった」
「血族? あぁ……なんか、前に説明してくれた……?」
セリアンの言葉に、カイが眉間にしわを寄せる。朧気な記憶を遡るも、あんまり覚えていない。セリアンが代わりに説明する。
「私の場合は、血だ。人間に血を分け与え、血族を作る。同じ、吸血鬼としてな」
「すげぇ……」
「そのためには元になる血液が大量に必要だ」
「だからあっちのおっさんの血は、あんだけ吸い尽くしてたのか」
「君もできるはずだ。モンスターとは、そういうものだ」
「俺も血か?」
「さぁな。君の場合、腕がもげても食事をすれば生えてくるだろう。もしかしたら、君の肉がそれかもしれないな」
「人間が俺の肉なんて喰えるのかよ」
バカバカしいとカイが笑う。けれど、まんざら間違いでもない気もして、言ってからカイはもう一度考え込む。
「あんたは、けっこう血族を作ってきてるんだ?」
「どうだったかな……」
ふとしたカイの質問に、セリアンは曖昧に答える。答えたくない質問なのかと、ちょっと思う。そういえば、セリアンの事を何も知らない。
「あんたはさ、ずっとこの街に住んでるんだろ? ならもっと吸血鬼に出会ってもいいはずだろ。俺、ずっとこの辺に住んでるけど、吸血鬼なんか見たことねぇぞ」
「……」
答える代わりにセリアンが微笑む。あ、聞いちゃいけねぇ話題かとカイは思った。
「……君は、生前の記憶はあるか?」
答える代わりにセリアンは問う。一瞬、質問の意味が分からなかった。
「モンスターとなる前の、人間としての生を終えるまでの記憶だ」
「……俺……やっぱ……元は人間……だったのか……?」
セリアンの言葉にカイが狼狽える。
「モンスターは、みな、元は人間だ」
懐かしそうに呟くセリアンの言葉に、カイは信じられないと困惑した。
セリアンの話を整理するとこうだ。
モンスターはみな、元は人間で、彼の場合は血を分けることで血族を作るという。
なんとなく、自分は元々人間だったんじゃないかと思う節はある。小さい頃の記憶、母の記憶。朧気な家族の記憶は、ただの夢か妄想だと思っていたが、本当にそうだったのかもしれなかった。
セリアンは、自分がまだまだ新しいモンスターだと言う。誰かにモンスターにされたのなら、自分をそうした親となる存在もいるはずだなと、ふと思う。
セリアンは、他の種族がどうやって血族を作るかまでは知らないそうだ。
彼の場合は衝動的に牙が疼くという。月がどうのと話していたが、それもよく分からなかった。
「君も、いずれ分かる。理性と、抗えない衝動と、その矛盾に」
何かを含んだセリアンの言葉は、難しすぎてよく分からなかった。
平穏な日々なんて続かない。
頭のどこかで、あの時のセリアンと血族の話をしていた事を思い出しながら、よくやく感覚が現実に引き戻されていく。どこか脳の深部が熱を帯びているように思考がぐらつく。さっきからずっと、腹の奥が焼けるように熱い。腕の感覚がなくなってきている。
──なんだこれ?
急激に息を吸い、荒くなる。呼吸が苦しい。視界が滲む。
この感覚は覚えがある。苦しいより苦しくて、悲しいより悲しい。幼い頃、親と離れ離れになって、広い世界でひとりぼっちになってしまった、あの恐怖と迷い。
「カイ!」
突然の声が響く。何度も肩を揺さぶられて、やっと我に返ったようだ。知らぬ間に右腕がとてつもなく軋む。左腕が打撲したように痛い。腹の奥が焼けるように熱い。
「な…………」
気づけば目の前に、水面が沸騰するように焼けた皮膚が膨れ上がり、破裂し、噴き出した血と臓物にまみれた、不自然に蹲るように丸まった人間だった残骸がある。
これは、なんだ。
「……あ……」
足元に、砕けた骨。掴みすぎて爪が剥がれた自分の手。焼けた臭い。口の中には鉄の味が広がっている。
「ようやく、声が届いたか……」
強く握られていたのか、セリアンが掴んでいた跡が少し痛い。明らかに安堵のため息をつく彼の姿は、見慣れない姿だった。
「何をしたか覚えているか?」
セリアンが問う。辺りを見回して、記憶を遡る。
「…………」
「ここに来た記憶はあるか?」
セリアンの問いに、思考が止まる。自分の体が無意識に小刻みに震えているのが分かる。拳の中には、ちぎれた何かが握られている。臓腑の一部か、それとも──もはや判別できない。
頭の奥が、じんじんと鈍く疼く。
──何を、した?
恐る恐る、自分の爪を見た。血が爪の間に黒く固まり、皮膚が裂けたまま乾いていた。歯が痛む。顎がだるい。ついさっきまで、全力で咀嚼していた証拠だった。
「……っぐ……!」
喉の奥からこみ上げるものを抑えきれず、カイはその場に蹲った。胃の内容物を吐き出すように、地面に何度もえづく。だが、吐き出されるのは血の混じった唾液だけ。胃には、もう何も残っていなかった。
セリアンがゆっくりとカイの背中をさすってやる。珍しく弱々しい顔で、すがるように顔を向けるも、セリアンは相変わらず淡々とした表情で、むしろ冷酷にも見えた。
「まだ未成熟のはずだが、ここまで呼応するとはな……」
「なんの、話……だよ……」
カイは、荒い呼吸の合間に、搾り出すように問いかけた。
「月齢と衝動の関係だ。私が、たまに牙が疼くと言うだろう?」
セリアンの言葉を聞きながら、なんとか気持ちと体を落ち着かせて、カイは地べたに座り込んだ。
「あぁ、人間を喰ってねぇと……やっぱ保存血液じゃ、物足りねぇんだろ?」
なんとか落ち着いてきて、最後に大きく深呼吸をしてから、カイはあぐらを組み直す。セリアンは続ける。
「牙が疼く……私はそれを渇きと呼んでいる。君の場合、飢えと呼ぶ方が適切かもしれないな。抗いようのない、モンスター特有の衝動だ」
「それと月が何の関係があるんだ?」
セリアンはカイの問いに即答せず、代わりに懐から古い紙片を取り出した。細かな知らない言語の文字と、月の満ち欠けの図が記されていた。血で汚れているが、確かにそこには月の姿があった。「星の民は、かつてこう記していた。──『新月は安寧をもたらし、満月は鼓動を煽る。理性は月を制し檻となり、欲望は月に呼応し──獣となる』」
「……獣……」
「『旧き血は月に怯え、星と大地を喰らいつくす』」
セリアンが一通り話し終えると、カイは不機嫌に口を曲げた。
「だから、そういうの分かんねぇって。分かるように説明しろよ」
以前にユイとセリアンが盛り上がっていた時の拗ね方とは違う。明らかに怯えて、恐怖におののいている。
「頼む。俺にも分かるように説明してくれ」
カイの真剣な眼差しを受け、セリアンは少し考えてから腕を組んだ。
「さすがにここからは、ユイを交えて話そう。その方が話が早そうだ」
「ま、待てよ。ユイに今から会いに行くのか?」
戸惑い狼狽えるカイを、セリアンは当たり前だと不思議がる。
「……今の俺、こんな……血だらけで……」
「着替えてからでいい。研究員のユイと、この話は共有しておいた方が良さそうだからな。忘れないうちに、話しておきたい」
「そうじゃなくて!」
恥ずかしそうに俯いて、カイは自分の脚を抱え込む。
「今の俺じゃ……あいつに見せたら、きっと……俺を研究対象じゃなくて、ただの“化け物”として見ちまうだろ。……そんなの、嫌だ」
「ならば、隠せばいい」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単なことだ、カイ」
セリアンが手を差し伸べる。
「君が君であると決めるのは、君自身だろう」
その手を取って、カイは心もとなさそうに頷いた。
『ユイに、知られたくない』
『(解読不明。なぐり書きのうち、数カ所に血痕あり)』
【第六章】星の記録
曇り硝子のはめ込まれた分厚い扉が静かに閉まる。静寂に包まれた研究所の一室。窓はなく、壁に沿って積まれた本と資料の山が空気を吸い込んだように重苦しい気配を滲ませている。
ユイは前触れもなく呼び出された。いつもの調査室でも、実験台のある地下でもない、小さな談話用の個室。だが、その簡素さが却って意味深に思えるほど、セリアンの表情はいつもと違っていた。
「何か……あったんですか?」
ユイは椅子に腰掛けながらも、すぐに立ち上がれるよう身構えていた。対するカイは背もたれにだらしなく体を預けているが、その目には混乱と不安の色が拭えない。
セリアンは無言で、古びたノートや紙切れの束を机に広げた。文字の羅列されたもの、手描きの絵、知らない言語の本の写し……。いくつかには赤黒く変色した血痕が滲んでいる。
一度深く瞼を閉じたセリアンが向けた視線は、異様に落ち着いていて、静かで、なおさら不穏だった。
「この際、すべて話しておこうと思う」
セリアンはそう告げて机の上に並べた紙切れやノートは、どれも使い古されたもので、そのどれもに血痕が散見された。
ユイが、そのうちの一つに反応する。月齢の描かれた図録だ。セリアンが続ける。
「私の命綱なのでな。譲渡はできないが、写しなら好きにしてくれ」
まずは、血族の話をしよう。そう言って話し始めたセリアンは、淡々とモンスターの話をしてくれた。
血族とは、己の一部を分け与えることで己の分身のような存在を作り上げることだ。吸血鬼セリアンの場合は血を、真偽がはっきりしないが食人鬼カイの場合は血肉を、相手の人間の体内に埋め込むことで成立する。
つまり、モンスターは元々人間であり、カイが時折幼少期の話をしているのは、生前の人間の頃の話で間違いなさそうだった。
『新月は安寧をもたらし、満月は鼓動を煽る。理性は月を制し檻となり、欲望は月に呼応し獣となる。旧き血は月に怯え、星と地を喰らいつくす』
伝承の一節だと、セリアンは語った。
ユイが、セリアンのように色白で金髪の人種を、昔、星の民と呼んでいたと教えてくれた。カイがセリアンは間違いなくそうだろうと指摘するが、セリアンは笑いながら分からんと吐き捨てるように、だが明るく告げた。
「私には、その記憶がない」
さすがに二世紀も生きていると分からなくなる、とでも言うかとユイは思ったが、セリアンは珍しく笑い話にしなかった。
「何故だと思う?」
セリアンが問う。カイは首をかしげ、ユイは手元の資料を見返した。
「単におっさんの物忘れが激しいんじゃねぇの?」
ユイは意見せずに聞いている。
「血族を作ろうとする際、己の何かを相手に埋める。血は、肉は、己の記憶だ。私は……何を忘れたか、覚えていない」
自分の掌を見返し、それが彼の上着の胸ポケットに触れる。
「ご冗談かと思っていました。二世紀というのも……もしかして冗談では……ないのですか……?」
セリアンは答えない。答えられなかったのかもしれない。
「待てよ。分かんねぇ。血族って、人間からモンスターを作るってことだろ? それでお前は記憶をなくしてるってこと……?」
「ああ、そうだ」
「で、それが月に関係してるっていうんだ?」
「あぁ」
理解に苦しむカイに代わりユイが口を開く。
「モンスターになってからの期間が長いほど、満月による影響が大きくなり、血族を作るという衝動にかられやすい……そうですね?」
セリアンが頷く。ユイが続ける。
「モンスターとなれば、寿命は長くなるのでしょうか?」
「どうだろうな……」
曖昧な答え方しかしないセリアンの様子を察して、ユイは別の話題を探した。
「血族を作れば作るほど、自分の記憶が欠落していき…………最終的には、理性もなくすのでしょうか」
呟かれた疑問に、セリアンは答えなかった。
「……例え私が君達を忘れようとも、君達が私を覚えていてくれたら、私は確かにここにいた」
「な…………なんだよ、急に」
カイは理解が追いつかないまま、唐突なセリアンの語りに、思わずたじろぐ。セリアンは構わず続けた。
「モンスターとして長く生きるほど、満月の影響を受けやすい。月の満ちる度に、私は少なからず何かを忘れている。月に呼応……血族の衝動が加われば、尚の事だ。いつまで君達を覚えていられるか分からない」
「なんだよ……それ……」
戸惑うカイにセリアンは続ける。
「衝動は、時に耐え難い。けれど、だからこそ、理性で制し、己であろうとする」
ユイは、静かに聞いている。カイが、また難し なってきたとごちた。
「理性があるからどうのって……選り好みのことじゃねぇのかよ……」
「あぁ、それもある。喰いたい、喰いたくないの単なる食事の好みだけではなく、喰うべきでない、それも選択肢だろう?」
「まぁ、そうだな……」
「君はどうしたい、カイ? 月に身を任せ、記憶をなくし、食人鬼としての本能とともに生きるのも、一つの道だ。衝動に抗い、思い出を反芻し、理性とともに茨の道を進むでもいいだろう」
セリアンの問いに、カイはすぐに答えられなかった。セリアンは手元の手帳を撫でた。
「手遅れになる前に、思いを決めるといい」
自分自身に言い聞かせるような台詞に、カイはセリアンの手帳、そして広げられた彼の見せてくれた断片的な資料を見つめて呟いた。
「これだけしか、おっさんの思い出は……もうないのかよ」
手帳に挟めば収まってしまう程度の紙切れ達。それを悲しむカイを見やりながら、ユイは二人に向き直る。
「二人とも、もしよければ日記をつけませんか?」
ユイの言葉に、セリアンは悲しく笑う。
「既に、いくらかは記している」
「さすがです。カイさん、あなたも日記を書くようにしてみてください」
「えぇ……俺、文を書くの苦手だぜ?」
嫌そうに、そしてバツの悪そうにカイがごちる。ユイは慌てず訂正する。
「メモでも絵でも、なんでもいいんです。今思い出せることがあれば、過去のこともなるべく書き出してください。忘れないためには、書き記すことが有効です」
セリアンは手元の手帳に視線を落とし、カイもそれをちらりと見てからユイに視線を戻す。
「……全部、見せねぇといけねぇか?」
カイの質問にユイは微笑む。
「いいえ、私に言い辛い事もあるでしょう。それは見せなくてかまいません。けれど、自分のために書いておくことをおすすめします」
「……ユイの事も書いて、いい?」
おずおずと聞いてくるカイに、ユイは小さく驚いて、それから優しく微笑んだ。
「はい、もちろんです。思いのままに、記録をつけてください。きっとあなたの役に立つでしょう」
ユイはセリアンに向き直り、これらの写しの許可をもらい、いくらか写真に収めた。
突然呼び出して悪かったと、セリアンが謝る。カイもつられて謝ると、ユイは快く受け入れてくれた。
「話は以上だ。また何かあれば話そう。呼び出して、すまなかった」
セリアンが持ち物を片付ける。立ち上がり、去ろうとするセリアンを、ユイは止めなかった。
足早に部屋をあとにする。無言で先を行くセリアンを、黙ったまま追いかける違和感が気持ち悪い。静寂に耐えかねて、カイが口を開いた。
「な、なぁ」
声は小さく震えていた。今にも掴みかかりそうな勢いとは裏腹に、その視線はどこか怯えていた。
「さっきの……、俺が……さっきの、なんかやらかしたんだろ? あの、変な、人間を団子みてぇにして固めたような……あれ、俺の仕業だったんだろ?」
言葉を繋ぎながら、自分で確信に近づいていくカイ。自分の胸に手を当て、怯えるように問い続けた。
「……俺、覚えてねぇんだよ。まじで何も。あんたが来てユイと話そうって……それまで、何してたんだ……ぼやけてて……」
セリアンは腕を組み、必死に言葉を繋ぐカイの次の言葉を黙って聞いている。
「さっきの話、本当なら……俺も血族ってやつを作ろうとしてたのか? それで……それで記憶が飛んでるんだとしたら……!」
感情が爆ぜるように、カイはセリアンの肩を掴み揺さぶった。
「どうやったらそんなの避けられんだよ!? なぁ、俺らは人間を喰ってる。人間のそばじゃなきゃ生きていけねぇ。なのに人間のそばにいちゃ、またこんな事起こすんだろ? なんでこんな目に遭わなくちゃならねぇ。俺は元は人間だったんだろ? 誰だよ、俺のことこんな風にしたの! なんで……こんな……記憶をなくすなんて………ひでぇよ…………」
セリアンはゆっくりとカイの手を外し、深く息をついた。
「……君は早熟だな。月に呼応するのなら、本来はもっと年を経てからのはずだ。今の君では……起きないはずだった」
「じゃあ、なんでだよ……俺、人間を喰いすぎたのか? だからこんなことに……?」
「すまない。私もそこまでは……分からない」
言いながら、セリアンは視線を窓のない天井に向けた。
不意に、遠くのネオンの明かりが壁に淡く反射し、揺らいでいた。まるで夜空のように、星の代わりに瞬く人工の光だ。
その灯りがちらちらと、カイの顔に影を落とす。彼は強く唇を噛みしめた。
「……俺、もうダメなんじゃねぇかなぁ……」
ぼそりと呟く声が届く。
「悪ぃ、一人にしてくれ……」
逃げるように踵を返し研究所をあとにするカイを、セリアンは呼び止めなかった。夜の街のネオンの中へ溶けていく背中を、ただ静かに見送った。
雑踏と、喧騒の日常。住み慣れた街を遠くに眺めながら、セリアンは酷く長いため息をつく。
カイが記憶を失った。ああやって徐々に、長い年月の中、自分はいくつもの大切な記憶を失っていったのだろう。
忘れた記憶は戻らない。書き留めなかった記憶は、もう二度と戻らない。
セリアンは胸元のポケットに手を入れ、そっとペンダントを取り出す。磨かれた銀のロケットペンダントだ。開くと、中にはモノクロの写真があった。
柔らかく微笑む女性。その顔はどこか懐かしいのに、誰だったのか分からない。
「君は……誰なんだ……」
小さく呟いてから、セリアンは写真の顔に指を添えた。
このペンダントだけが、自分の最も古い記憶だ。とうの昔に忘れてしまった、大切な何か。これは、その唯一の証だ。
改めて見れば見るほど、精巧な透かし模様の入ったペンダントだ。星の民の話をしたせいか、記憶がないにも関わらず、これは星の民が残した貴重な遺産なのかと思ってしまう。
閉じれば、星空を宿したような宵闇色の天然石が嵌められている。まるでその石がわずかに残る記憶にさえ蓋をするかのように、写真を覆い隠した。
『xx年xx月xx日
本日、研究所第3会議室にて研究対象Sより自発的な供述があった。以下、要点を記す。
・吸血鬼を含む「モンスター」と呼称される存在は、自身の血肉等を媒介にして人間個体を変異させる能力を持つ。これを“血族化”と呼ぶ。
・血族化に伴い、供与者側(モンスター)の記憶に断片的な欠落が生じる可能性があると判明。
・血族化は無自覚に行われる場合もあり、衝動的である。特に満月期においてその傾向が強まるという。
・モンスターは人間時代の記憶を一部保有しており、その保有率は個体差が激しい。
・研究対象Sは、自身の過去に関する記憶の大多数を喪失している模様。原因は複数回の血族化によるものである可能性が高いと証言した。
追記:xx年xx月xx日
研究対象Kにも記憶の空白を確認。Kにも何らかの“血族化未遂”が行われた可能性がある。
自我の崩壊や暴走行動の兆候が認められたため、継続的な観察と記録が必要である。
追記:xx年xx月xx日
研究対象Sに、古い記憶があると判明。所持品のペンダントが関係しているとの自白あり。別紙にて記録』
『忘れる前に、記しておきたかった。名前も、関係も分からぬ君は、私の一番古い記憶だ。これ以上、私は君を忘れない。』
【第七章】月にふれる
取り憑かれたように、ユイは文献を漁った。
各地の伝承。古代の文明について。星の民とは一体何者だったのか。寝る間も惜しんでユイは資料を、知識を集め漁った。
分厚い本や積み重なった資料の紙の束を前に、朝日が差し込み始めた研究室の自席で、ユイはしょぼしょぼと目を瞬きし、睡魔に負けるように瞼を閉じた。
『月に連れ去られし者は死して尚も我々を求め──』
『我々と異形の狭間にあたる月の徒にも月の呼応を──』
夢の中でも資料を整理しながら、ユイははっと目を覚ます。
「……あっ……」
何かとてつもなく最高なアイディアを思いついた気がしたのに、夢から覚めたら忘れてしまった。
「はぁ……」
少し休もう、とユイは追加のコーヒーを作りに席を立った。
満月を研究しなければ。
そう思い立ち、ユイは月齢に合わせて思い思いの場所で調査を続けた。
その間にもカイやセリアンとも会合し、彼らの記憶の変化についても並行して記録を続けていった。
ある夕方、ユイが繁華街の危険エリアに足を踏み入れた。前もってカイ達に護衛の依頼をしていたが、日が落ちても二人は姿を現さなかった。
廃屋の並ぶ路地を慎重に進んでいく。パキッと足元で音がする。割れた窓ガラスの破片だ。両脇のビルは窓が割れ、屋内にも蔦が絡みつき、見たことのない太ったトカゲか痩せたネズミのような何かが蠢く様子が見えた。
目的の建物は、思ったより早く見つかった。看板があったであろう釘の跡だけ残った杭がある。その奥に少し広い庭は草木一つ生えていない砂利道だ。点々と枯れた草木の残骸や何かでべとついた砂利が見受けられた。
建物は2階建の簡素なものだ。
ユイはバッグに入れてきたスタンガンを持ち出す。分厚いジャケットの下には護身用の銃も仕込んできた。
薄暮の中まだ仄かに明るい外の光がうっすらと室内に光を与えるも、調査するには暗すぎる。ユイはジャケットから小型の懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。光から逃げていく虫達が一瞬見えた。屋内の床は、埃にまみれた小動物の風化した死骸がちらほらとあった。
廊下の突き当たりを左へ。下へ続く階段はなさそうだ。右には、上への階段がある。手入れがされていないだけで、建物自体の崩壊の可能性は全くなさそうだった。
ユイは一つ一つの部屋を確かめていく。何かしら事務仕事をしていたであろう部屋は、ホコリやクモの巣はあれど、出しっぱなしの書類もそのままに時を止めたように生活感があった。
紙の束の綴じ方が古い。自分も含め、こういった仕事はPCを使うはずなのにどこにも見当たらない。まるで、直前まで日常の書類仕事をしていたのに何かがあって緊急避難をして、そのまま使われなくなった……そんな風に見えた。
実は、この繁華街は元々もっと栄えていて、ここ危険エリアも通常の繁華街エリアと同じく栄えていた歴史がある。探していた建物の詳しい住所までは判別しなかったが、幸いすんなりと見つけられた。これは、ユイが今いる研究所ができる前、その前進となる研究機関があったとされる建物だ。古い文献ならここにある。そう思いこちらに探しに来たのだった。
懸命に資料探しをしているうちに、夜はすっかり更けていた。建物の一階には、めぼしい資料はなさそうだった。
ふぅ、と短い息をついて、しゃがんでいたせいで凝り固まった体を動かす。立ち上がり大きく伸びをして、一度荷物を整理しようと机の上に視線を落とした瞬間だった。
机を挟んだ向こう、ちょうど懐中電灯の光を避けた暗闇の中に、誰かいる。
ユイは息を呑んだ。こんな至近距離で気がつかなかった。
一瞬で血の気が引いた。じっと、それは目を見開いてこちらを凝視していることはわかった。
目が合う。目が離せない。
「……っ!」
言葉より早く、ユイは懐から銃を取り出し相手に向けた。それは一瞬の瞬きの間にガタンと強い物音をあげて真上の天井へとくっついた。
人間じゃない、モンスターだ!
反射的に銃口を天井へ向ける。懐中電灯は机に置いたままになっている。光は天井まではあまり届かない。上から何か液体が垂れ下がってくる。
逃げなければ……逃げなければ!
冷静に出口までの避難ルートを考える。まずはこの部屋から出る。その後廊下を走るより建物裏手に出てしまった方が良い。
ユイは閃光弾を放つと一目散に目的の窓まで走り出した。
ガタンとまた大きく音がして、地震のように建物が揺れる。後ろを振り返る余裕はなかった。
「逃げ、なぁ……よぉ……」
言葉が途切れ途切れに聞こえる。正体のモンスターのものと思われる。
ユイはひびの入った窓ガラスを勢いよく割ると、そこから脇目も振らず外へと逃げ出した。
「にげ、う、なぁよぉぉ!」
「はぁ、はぁ、はぁ!」
声が近づいてくる。とにかく走った。裏手から路地を抜け、廃れた細い通りに出る。バリバリとガラスを割る音がして、モンスターが建物の中を移動して先回りしようとしているのが聞いてとれた。
「こっちね……!」
ならばとユイは違う道を走る。うまく撒けたと思ったが、それは横から猛烈な勢いで近づいてくる。
息が、肺が痛い。全速力は続かない。いくつかの比較的新しい建物に囲まれた場所で、それは目の前に飛び出してきた。
「ひっ……!」
思わずでそうになった悲鳴を引っ込める。それは口からだらだらと血のような赤黒い唾液を垂らしながら、曲がった背中で腕をだらんとさせ、酷く充血した目を見開いて、何度もこちらを見て頷いてくる。
「逃げる、なぁよぉ……」
同じ言葉を何度繰り返して、そしておかしそうに笑ってはまた何度も頷いている。
ユイは銃を構え、後ずさりそうになった足を踏み込んで留める。
「逃ぃ……?」
ふと、目の前のモンスターが天を仰ぐ。気になるが、目線は外せない。
「あぁうぇ……?」
言葉にならない何かを発しながら、モンスターが首を傾げているのが見えた次の瞬間。
「え……」
目の前が暗くなった。いや、目の前に、また誰かが現れたのだ。
長い金髪が風に揺れる。ふわりと目の前で揺れた金髪の向こう、色白の細い指先が開かれるのが見えた。その爪が異様に長く、ぽたりぽたりと、爪から血が伝い落ちるのがわかった。
一瞬、セリアンかと思った。頭が理解に追いつかないまま、どさりと音がしてその向こうにいるモンスターが倒れたと分かる。目の前の人物が振り返った。
とてもきれいな人だと思った。満月の月明かりの下、ほとんど白く見える瞳が満月と同じ金色に輝いて見えた。時代錯誤の白い民族衣装のような服をまとい、振り返ればその人が女性だと気がついた。
長い爪がユイの髪に触れる。血なまぐさい臭いと不釣り合いにきれいな指先がゆるりとユイの胸元まで落ちていく。
殺されるのか?
そう感じたが、目の前の人物はユイから視線を外し、少し訝しく様子を見せて忽然と姿を消した。それは、夢だったのかと思うほど、一度の瞬きで消えたのだ。
「ユイ!」
唐突に叫び声がする。
なんだったのかと、ユイは事態を把握できないまま、聞き慣れた声に振り向いた。
「大丈夫か、ユイ!」
セリアンだった。彼は慌てた様子で駆けつける。その速さが異常で、彼がモンスターなのだと改めて感じた。さっきの人物も、もしかしてそうかと、後から頭が働いてくる。
セリアンはユイの足元に倒れているモンスターに気づいたからか、急に辺りを警戒した。
「遅れてすまない。襲われたのか」
状況を把握しようと辺りを見回しているようだが、それにしてもセリアンの様子がおかしい。
普段から彼は落ち着いているが、今夜は警戒のせいか、神経が立っている様子だ。
「ここに長く留まらない方が良い。来てくれ、カイの事で話がある」
そう言われ握り引くセリアンの手は、傷つき血にまみれていた。
「どうしたのですか?」
我ながらかろうじて冷静を保っている声色だとユイは思う。
手を引き走るより速いと、セリアンは強引にユイを引き寄せると、幼子を抱きかかえるようにユイを抱き上げ、思い切り地を蹴った。
「え、えぇ?!」
風を切るように世界が移ろう。映画を早送りしているように景色がものすごいスピードで変わっていく。
モンスターとは、本来これだけの脚力を持つのかとユイは一瞬たりとも逃すまいと状況を見渡す。セリアンが口を開く。
「カイが月に呼応してしまった。研究員の君なら、カイのことが分かるだろう?」
境界エリアの一角で、セリアンは急に足を止める。衝撃にユイは平衡感覚が狂ったようにくらくらする頭で地面に降り立つと、そこにある情景にユイは再び息を呑んだ。
「何が起きたのですか……?!」
カイが横たわっている。傍らに、先ほど追いかけられたような目を見開いたまま死んでいるモンスターがいる。カイは、胴体を引き裂かれた状態だった。
「カイ!」
慌てて駆け寄るユイがジャケットから急いで布切れを取り出し、ジャケットを脱げば自分の着ているシャツも切り裂いてカイの応急処置を始めた。
「心配ない。モンスターはこの程度では死なない」
「どういう意味ですか?」
ユイが作業を止めずにセリアンを睨む。こんな状態で一人にしたのかと思うが、カイがつらそうに呼吸を繰り返しているのが分かった。まだ生きている!
「カイ!」
「あぅ……、くっ……」
「喋らないで」
荒く肩で息をして、目をきつく閉じたままカイが痛みに呻く。切羽詰まったカイ達を、のんきに眺めながらセリアンはどうしたのもかと腕を組み直す。ユイはジャケットを漁りながら話す。
「私の知り合いが近くの総合病院にいます。ここから電話をかけて」
「ユイ、落ち着いてくれ。この程度では死なないんだ」
セリアンがもう一度諭すように言う。何を馬鹿なことをとユイが返すも、セリアンはもう一度繰り返す。
「大丈夫だ。死にはしない。だから、カイについて教えてほしい。彼は吸血鬼ではないんだ」
「……はい?」
「カイは食人鬼だ。君はモンスターの研究者だろう? 食人鬼の回復方法を知っているだろうか?」
「……」
ユイは唖然とした。明らかにセリアンの言動がおかしい。
「カイは……食人鬼で、失った肉体は人間を喰らう事で治ると……」
衝撃を飲み込めないままユイは質問に答える。前にセリアンのメモで知った知識だ。彼がその記憶を失っている。
「なるほど。それならば……まずは君を研究所まで送っていこう。カイの食事を、君に見せるわけにはいかない」
どうやって動けない状態のカイが食事をするのか。喉まで出かけた言葉を、ユイは飲み込む。有無を言わせないセリアンの腕に担がれると、ユイはあっという間に研究所まで運ばれてしまった。
カイが再びユイの前に姿を現したのは、半月ほど経ってからのことだった。
ユイの姿を見るなり、カイは約束の時間に行けなかったこと、ユイがモンスターに襲われた時にそばにいられなかったことを猛省した。
事の顛末は、二人から聞き出すことができた。
その夜、ユイが襲われたモンスターと同様の類に、カイとセリアンも遭遇していたという。
何度も同じ言葉を繰り返し、執拗に人間を追いかけ喰い続けていた。意思疎通はできず、獲物となる人間の取り合いをして、カイは敗北したのだという。
資料をまとめながらユイは思う。
奇しくも、あれは満月の夜だった。あのモンスターは言葉こそ発するが会話ができない。それに、あの金髪の女性は夢だったのだろうか。
いくつかの憶測だけが頭を巡る。答えの出せないまま、時間だけが過ぎ去っていった。
それから何度、満月の夜を過ごしたか分からない。繁華街の栄えたエリアは、警察沙汰と喧騒はあれどあくまで人間同士のやりとりしか起きなかった。貧困層の住む境界エリアでは、度々変死体が発見されたが、例のモンスターには遭遇しなかった。やはり、危険エリアでないとあのモンスターはいないのかと、ユイの中で一つの仮説が立っていた。
カイ達に護衛を頼み、改めて危険エリアに足を踏み入れる。例の建物に近づくことをセリアンは嫌がる様子を見せた。
「私はここで見張っておこう。カイ、ユイを頼む」
建物の中に入ることを拒んだセリアンは、そう言って2人を見送った。彼は理由を話そうとしなかった。ユイも深く問いたださなかった。
「そのジャケット、ユイに似合わねぇ」
カイが呟く。ユイの着ているジャケットは特殊な作業服で、あちこちにポケットがあり、機能性に特化しているせいでデザイン性はない。
「迷彩も、このダサいデザインも」
「そういう服なのです」
ユイが真面目に返すので、カイは頭を掻いて不服そうに視線を落とした。
カツンと、小石を蹴ったようで廊下の先の闇へと音ともに消えていく。
「研究、どれくらい進んでんだ?」
カイは足で雑にユイの行く先の足元の小石や死骸などをどかしながら話しかける。
「俺、ユイの役に立ててるのが嬉しいんだ」
独り言のようにつぶやかれた言葉を、ユイは邪魔せず聞き耳を立てた。
「ずーっとひとりだったし、子供の頃も、なんつーか、スリとかやってたなぁって、なんとなく覚えてんだ。誰かを殴ったりして、ろくでもねぇなって。俺、最悪だろ?」
カイは惨めに笑う。ユイは「そんな事はありません」と優しく笑った。
「あなたは何度か私に、殺してしまった人間の話をしてくれましたね。対象の人間とあなたの行動は、義賊のような振る舞いが多く見られました」
「ぎぞく?」
「そうです。強い者から奪い、弱い者に分け与える。きっと、あなたは心根が優しいのでしょうね」
「そう、かなぁ……」
照れくさそうにカイが笑う。ユイは足を止めてカイに向き直った。
「私が提案した日記からも、あなたの真っ直ぐな心は伝わってきます。子どもを助けた事も、悪人しか襲わないところも」
「モンスターになってなきゃ、ユイと……もっと一緒にいられたのか……なんて」
「モンスターであったからこそ、私たちは出会えたのですよ」
「……そっか。それなら、モンスターも悪くねぇな……」
嬉しそうにカイが笑う。二人してもう一度歩き出す。
こんなに薄暗い、懐中電灯の光しかない空間で、瓦礫と廃屋の中なのに、カイはユイと二人きりの事に、何とも言えない気持ちになっていた。
「俺、ユイのことは絶対忘れたくねぇなぁ……」
そう呟いて、カイは照れくさそうにはにかんだ。
夜が満ちていく。黙々と作業を進めるユイの隣で、カイは手持ち無沙汰にユイの周りをうろえろしながら終わりを待った。
雲の切れ間から、満月がゆっくりと顔を出した。崩れかけた建物の奥、鉄骨と瓦礫の影のなかで、カイはふと足を止める。見事な満月の月明かりが、暗闇の中とても明るく見えた。
「……どうしました?」
じっと空を見上げたままのカイに、ふとユイは声をかける。けれど、カイはじっと見つめたまま答えなかった。まるで、風の音しか聞こえないような沈黙が、その場を満たしていく。ひゅうと風が吹き抜ける。瓦礫の隙間で何かが軋み、小石が転がる音が響いた。
「カイ……?」
その背が、微かに震えていた。ゆっくりとカイがユイに振り向く。その眼が、赤く染まっている。普段の、どこか困ったように笑う彼の表情ではない。異常に見開かれた眼が、まっすぐにユイを射抜いた。
「……う、あ……」
歯を噛み合わせる音が聞こえる。いや、歯を打ち鳴らしている。まるで獣だ。カイの全身が、小刻みに震えはじめていた。
「カイ……カイ、聞こえますか?」
返事はない。わずかに口が開く。そこから、乾いた唸り声が漏れた。
次の瞬間だった。
「……っ!」
ユイが叫ぶ間もなく、カイは獣のように跳んだ。足音もなく、音速のように距離を詰める。ユイはとっさに脇へ跳んだ。背中をかすめる風。爪が空を裂いた。布が裂ける音と、腕に走る熱。切られた。
「カイ!」
転がるように廊下の奥へ逃げるユイ。その間にも、後ろから地面を引っ掻くような爪音が迫る。カイの瞳は、完全に獲物を見る者のものに変わっていた。
だめだ、もう、止められない……!
走りながら、ユイは冷静に出口の方向を探る。階段の先、窓。逃げ場はある。だが──
「う……っ!」
瓦礫につまずいた。直後、背後から気配が跳ねる。
どす、と重い音がした。ユイの身体が床に叩きつけられるように倒れた。銃は遠くに転がり、手が伸びない。視界の端、カイの顔が迫る。だらだらと涎を流しながら、今にも噛みつかんとする口が開く。理性はもう、そこにはなかった。
「やめて……カイ!」
その叫びが届くことはなかった。
──いや、届いた。カイの動きが、一瞬止まった。けれど、開かれた口が、歯が、止まる様子はない。
これが……深く足を踏み入れた研究者の末路か。
現実の危機とは乖離して、どこか客観的にユイは自分の状況を振り返る。
カイは完全に理性を手放してしまっている。セリアンの言葉を借りるなら、月に呼応してしまった状態なのだろう。
思わずユイは目を瞑った。
そのときだった。
「カイ、下がれ!!」
重い声とともに、突風のような何かがカイを吹き飛ばした。鉄骨に叩きつけられた音が響き、壁が崩れかける。吹き込む風の先に、セリアンがいた。
「ユイ、離れていろ!」
「セリアン……!」
ユイが起き上がると、セリアンはカイの前に立ちはだかった。片腕をだらりと垂らし、もう片方の手は血に濡れている。
「カイ、目を覚ませ!」
「ぐぅ、あぁあ!!」
返事の代わりに咆哮が返る。唸り声とともに、再び飛びかかろうとするカイ。セリアンの拳が、その顔面を真横から殴りつけた。
ごきり、と骨の軋む音がした。カイは壁に叩きつけられ、崩れた柱の中に倒れ込む。だが、カイはすぐに立ち上がると、ふらつきながらもこちらに向かってくる。目線は、まっすぐにユイを捉えていた。
「ユイを……喰うな」
セリアンの低い声が、空気を裂いた。
それでも、カイは歯を鳴らしながらゆっくりと歩み寄ろうとする。
再び爪を開き、カイが飛びかかろうとした。
「ぐうぅぅぅううううっ!!」
セリアンが、真正面からぶつかるようにその体を押さえ込んだ。地面に倒れ込む二人。衝撃でたちこめた砂埃の中、セリアンの肩がざくりと裂けているのが見えた。カイは尚も暴れ手足をばたつかせ、何度もセリアンを切りつけようとする。それを組み伏せるようにして、セリアンは叫ぶ。
「気を保て、カイ!」
「はぁなぁせぇえ!」
「ユイを忘れるな!!」
その叫びとともに、カイが急にぐらりと動きを止めた。
息が、荒い。顔を歪め、カイは苦悶の表情を浮かべていた。
「うっ……く……ぁ……」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
二人して息が上がっていた。セリアンは強く握っていたカイの腕を離すと、傷だらけの手をかばうようにして抱える。カイはその場に崩れるように膝をつき倒れると、仰向けになり、肩で息をしながら、きつく目を閉じた。
「……いっ……てぇ…………」
掠れた声でカイがそう呟いた。それを聞いて、ユイが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
セリアンが振り返る。彼の胸から腹にかけて血が滲み、ぼたぼたと血が滴り落ちている。
「今すぐ手当てを!」
ユイは思わず手を差し伸べようとするが、セリアンは両手でそれを制止する。
「やめてくれ」
「二人とも傷が!」
「カイなら大丈夫だ。眠っただけだ。私も……今、近づかないでくれ」
セリアンが何度も深く呼吸している。緊張しているような、苛立っているようなその様子を見てユイははっとする。
「私は……吸血鬼だ」
震える手が、上着から一つの保存血液を取り出す。うまく扱えないのか、セリアンは一度地に膝をついた。
今、手助けをしてはならない。ユイはそう直感していた。吸血鬼のセリアンは人間の血で傷を回復する。そのために彼は保存血液を手にしている。何に耐えているのか、ユイには分かってしまった。
保存血液のパックを噛みちぎってセリアンは何度も深く息を吸う。
見る見る間に治っていく手の傷に驚いて、ユイはセリアンから目が離せなくなっていた。
彼はまだ肩で息をしながら、辛そうに何かに耐えている。
「ユイ、ここから一人で帰れるだろうか。送ってやれずにすまない。なるべく早く、帰ってくれ。頼む」
赤い目が何度もきつく閉じられ、セリアンが空の保存血液を握りしめる。
「大丈夫だ。モンスターはこの程度では死なない」
そう言われ逃げるように去った廃屋。ユイは後ろ髪を引かれながらも、その場を去るしかできなかった。
『ユイに知られてしまった。俺はどうしたらいい?』
『カイが月に呼応してしまった。私も負けそうになった。ユイは研究者だ。私達の理解者だ。手を出してはならない。ユイを忘れるな。』
【第八章】灰に還る約束
カイは、自分の暴走の記憶があまり残らなかった。ユイを襲ったことを覚えていない。ならば、書き留めない方が良い。カイは申し訳なさそうにしていたものの、大事なかったと認識していた。
その日もいつものように、カイはセリアンとともにユイへ記録を共有しに行く日だった。
セリアンの整然とした日記も、カイの殴り書きのメモも、どちらもユイは喜んでくれた。それが、カイにとってモチベーションにもなっていた。
書いた紙の数えるのも億劫なほど日常になっていたその日に、違和感を覚えたのは初めてだった。
「どれくらい書いた?」
毎度のこと、質はともあれ書いた量でカイはセリアンと競い合った。書けば書くほど、ユイが喜んでくれるからだ。
「今回、報告に時間があいたろ? だから、ほら、俺はこれだけ書いてきたぜ!」
これみよがしに見せつけるカイの紙の束を見ながら、セリアンは感心したように適当な相槌をうつが、からかいも褒めもしない。
「そうか」
「お、……おう……」
普段なら、セリアンは未熟だとからかうか、やたらと子供扱いして褒めてくるのに、今日のセリアンはどことなく気が立っているように見えた。妙な警戒が強い。何が彼をそうさせるのか。カイも辺りに神経を尖らせた。
「おう、持ってきたぜ」
手慣れた様子である一室に入っていく。勝手知る様子でカイは部屋の椅子に座るもセリアンは立ったまま動かない。興味深そうに部屋を見渡す彼の姿は、やはり見慣れない。絶対何かあったはずだ。カイは内心そう思いながらユイの登場を待った。
数分の後、ユイは幾つかの書類を抱えながらやってきた。相変わらず忙しそうにしている。
カイはユイの持ち込んだ紙の資料を一緒に机に並べながら、セリアンとともに持ち込んだ備忘録をユイに渡した。
「今回はこれくらい」
少なくてごめんと、カイは謝る。ユイは慌ててそれを否定しながら二人に微笑んだ。
「ありがとうございます。大変……助かります」
二人の手書きの資料に目を通しながらユイが告げる。嬉しそうにカイは笑うが、隣のセリアンがじっと自分とユイを交互に見つめながら無言を貫く姿に、やはり違和感が拭えない。
「あんた、今日……どうした……?」
ふとカイが問うと、セリアンはカイに微笑んで腕を組んだ。
「よく分からないが、君は私にこれを渡したかったのか?」
そう言うが早いか、セリアンはユイに近づき彼女の首を強引に掴み上げた。
「てめ、何し……!」
「甘そうな女だ。私はあまり女の血は好まないが」
優しく微笑むセリアンの姿があまりにも行動と不釣り合いで、カイは状況を理解できないまま、反射的にセリアンの腕を掴んだ。
「何しやがる。離せよ、おっさん」
怒気の孕んだ声だった。ミシッ……とセリアンの腕の骨が軋む。セリアンはそれでもユイから手を離さない。ユイが小さく呻く声がした。カイの怒りが沸点に達した。
「離せっつってんだよ!」
乱暴にセリアンの腕を払おうとするも、それは頑なにユイから離れない。
「獲物の取り合いか、カイ?」
「ふざけんな!」
思い切り千切るつもりで腕を掴んだ。さすがにセリアンの手がユイの首から離れる。
ユイが後ろで激しく咳き込んだ。カイはユイを背中に隠し、セリアンと距離を取る。セリアンの手は爪を長くし、そこにはユイの血がついていた。
「て……めぇ……!」
怒りが抑えられそうにない。カイは殴りかかろうとして、机に乗り上げる。セリアンも構わず応戦した。
床に倒れた椅子が鳴く。壁に掲げられた記録表が破られて舞い落ちる。カイとセリアンの身体が、研究室という密室の中でぶつかり合うたび、鉄と血の匂いが濃くなっていく。ユイが咳き込みながら机の下に身を隠すのを尻目に、二人は戦いを加速させた。
「君と私の仲ではないか」
「てめぇ……っ、ふざけやがって……!」
カイが吼えるように叫ぶ。握った拳がセリアンの頬を打つ。衝撃で脇のPCが弾け飛び、モニターが火花を散らした。
「カイ、君は──」
セリアンの言葉が途中で掻き消える。彼の脚が棚を蹴り、積まれていた資料が宙を舞う。紙は燃えない雪のようにひらひらと舞い落ち、その上に血が滴り落ちていく。
「ユイを襲った理由、てめぇの口で説明してみろよ!」
「なるほど、ユイと言うのか」
「てめぇ、まじで忘れやがったな!!」
カイの足元で、何かが割れた。見れば、床に落ちた血液保存パックだった。ゴム製の袋は踏み潰され、中身がべっとりと床を濡らしている。
「保存血液が……!」
ユイが思わず叫ぶ。だがその声も、二人の怒号に飲まれていく。棚の脇に倒れていたスチールラックが、カイの視線に入った。
「……いい加減に、しろよなぁ!」
カイは勢いのまま、ラックの脚部を掴んでセリアンに向けて思い切り突き飛ばす。狭い室内だ。セリアンは回避しきれず、もろにラックの衝撃を受け、下敷きになった。
「……カイ……っ」
「動くんじゃねぇ」
荒い息のまま、カイはその上からさらに重しになるように崩れかけた書棚を乗せる。セリアンの身体が押し潰され、鉄骨が呻く。
「う……がっ……」
中から聞こえるのは、骨が砕ける音だった。バキ、バキ、と一つ一つが異様に響く。セリアンの肋骨が、ラックの重みで順番に砕けていく音だった。
「……く……ッ……」
セリアンがうめき声をあげる。口から血を吐き、明らかに胴体のあるべき空間がラックで塞がっている。
「限度が……すぎる……」
「そりゃあ、てめぇだろうが」
この程度でモンスターは死なない。二人ともそれが分かっていた。だから、これはとどめにならない。
細かく息をしながら、セリアンが右手だけをわずかに持ち上げた。
「……助けてくれ、カイ……」
その声は、確かに懇願の響きを帯びていた。ラックがセリアンを阻み、まるで檻の中の獣のようだった。
カイは数歩後ずさる。床には、保存血液がすべてこぼれ、破れたパックが転がっている。もう、使い物にはならない。
その場にいる人間は、ユイだけだ。
「……お前、まだユイを狙ってるよな」
カイの低い威嚇に、セリアンは辛そうに微笑むだけで何も答えない。ただ、わずかに視線をユイに向け、そして首を横に振った。
嘘だ。今、ユイを狙っただろう。
セリアンの手がわずかにユイに伸びる。自我は失っていない。けれど、ユイのことは完全に忘れている。
どうする。どうしたらいい!?
「カイ、助けてくれ」
セリアンが言葉の後に咳き込む。いくらか吐血して、彼はぜーぜーと荒く息をする。
「…………誰だ……」
ふと、セリアンの雰囲気が変わった。
「……誰なんだ……」
自分自身に絶望するように、セリアンはかろうじて動く右手で自分の顔を覆った。
酷く動揺した様子で、セリアンは血に濡れる口元に触れる。
「分からない……。君は……、……誰だ……」
警戒してカイを見つめるセリアンの姿に、カイの脳裏に、かつてセリアンと交わした言葉が蘇った──
「もし、私が完全に君達のことを忘れ、忘れたことすら忘れてしまっていたら、私は……ユイ、君を喰おうとし、カイ、君を敵だと見なすだろう」
研究室での一幕だ。セリアンが丁寧に封された手紙をユイに渡し、カイにも微笑んだ。
「その時は、私にとどめを刺してほしい」
「何言ってんだ、おっさんのくせに。そうならないように、今こうしてユイに協力してんだろうが」
「えぇ、そうですよ。あなたがいくら忘れようとも、私があなたの記憶を記録しています。いつでも読み返して、あなたでいられるように、私はお手伝いしますよ」
「……頼もしいな」
──ふと思い出された一幕。その時にもらった手紙に書かれた文を思い出す。
『もし、私がすべてを忘れているのなら、私にとどめを刺してほしい。私の、吸血鬼の殺し方を記しておこう。』
「私は何を…………ここは……」
ユイとカイ、二人が顔を見合わせた。二人とも同時に思い出していたのだ、セリアンが残していた備忘録の一節を。
「おっさん……まさか……忘れたのか。俺も……?」
荒く息をしながらも、セリアンは何かを言いかけて吐血する。血を流すたびに、彼は記憶を失っているようにも見えた。
「……君も、喰う側か……」
「おっさん……?」
「私は、き……みと、争っ……た、のか……」
喉をつまらせながらセリアンが呟く。
「き……みの、名……は?」
言葉がでてこない。カイは初めて会った時を思い出す。記録が正しければ、当時同じようなやりとりをしていたはずだった。
「そんな……早く、忘れるのかよ……」
ユイとカイは再び顔を見合わせると、ユイが首を横に振った。
思わずカイは息を呑む。込み上げる思いを呑み込み、カイはゆっくりとセリアンに近づくと、自分の腕を見た。今の戦いで傷だらけだ。カイは自らの前腕に噛みつくと、勢いよく歯で喰い千切る。ぼたぼたと赤黒い血が溢れ始めた。
「俺の血を飲めよ」
「……なに、を」
「あんたが俺に教えたんだろうが。俺の血を飲め。あんたを助けるためだ。もしもの時はこうしろって、あんたが教えてくれたんだろうが。信じろ、セリアン」
セリアンはゆっくりと、腕の傷口を見つめる。その目に、ほんの一瞬だけ迷いの光が浮かんだ。
セリアンの捕食は顎を外すような捕食だ。きっと腕ごともがれるだろう。カイは覚悟してセリアンに近づく。セリアンは近づいたカイの腕を右手で受け取り、もう一度カイを見返して、まるで人間の接吻のよう、静かに腕に唇を寄せた。
「……すまない」
そう呟いて噛みついた牙は、思い切り噛みちぎるようなものでもなければ、貪欲に屠るわけでもなく、あまりにも優しく、控えめだった。
「……おっさん……」
セリアンが一度、大きく目を見開いた。それから一度カイを見上げるも、セリアンはゆっくりと目を閉じた。彼の身体が徐々に黒く染まっていく。陶器が割れるように肌にヒビが入っていく。皮膚が炭のように崩れ、血も赤みを失い、カイの腕を握る指がぱらぱらと崩れ落ちていく。
「セリアン……」
ユイが思わず呟いた。
そこにはセリアンの跡形もない。薄く灰になったシルエットだけがうっすらと残されただけだった。
『モンスターはモンスターを喰うと拒否反応を起こすようにできている。それは、私達モンスターに組み込まれた共喰いの禁忌だ。
もし、私がすべてを忘れているのなら、私にとどめを刺してほしい。私の、吸血鬼の殺し方を記しておこう。
私に、この牙で、モンスターの血を飲ませることだ。
モンスターの種類は問わない。私に吸血するよう、仕向けてほしい。
カイ、君は食人鬼だ。君の場合も、もしかしたらモンスターの肉を喰えば、同じことになるのかもしれない。
モンスターは死ねば骨も残らない。私は炭のように崩れ、散るだろう。
君達にこのようなお願いをして心苦しいが、どうか私の願いを聞いてもらえないだろうか。
カイ、君には希望がある。どうしても我々は月に記憶を奪われる。ユイとともに記憶を記録し、君が君でいられるよう、記憶を留めてほしい。
カイ、ユイ。
君達の未来にどうか、平穏を。』
【エピローグ】記し継ぐもの
『xx年xx月xx日。
研究対象Sに関する記録、終了。
研究対象Kに関する記録、継続中。
カイ本人からの提出資料、現在までに累計93点。言語化が不完全なものを除いても86点の価値ある記録が存在する。
セリアン・Sの死後、Kの行動には明確な変化が見られた。』
ユイは、いつものように記録棚に資料を整理していた。セリアンの残した日記は、もう彼が持ち込むことはない。無地の紙束の隅に、うっすらと血がにじんだ跡がある。カイが最期に殴り書いた覚書も、文字こそ荒いが、強い意志が紙を貫いているようだった。
あれから幾度か、満月を見送った。そのたび、カイは無言で空を見上げ、しばらくの間ユイのそばにいた。何も言わず、何も求めず、ただ夜の月を眺めていた。
『xx年xx月xx日。
研究対象K、月齢に対する応答は依然観測されるが、制御可能な範囲にある。
本日、研究対象Kより個人的な要請があった。被写体としての協力を求められたため、了承。記録外資料として、撮影データ1点を補完資料として保存。』
「ユイの写真、撮ってもいいか?」
そう言ったときのカイは、いつになく真剣だった。照れ隠しのように笑っていたが、指先は少しだけ震えていた。
二人で小さなカメラの前に立ち、ユイはただ静かに並んだ。シャッター音は一度きりだった。その一枚を受け取ったカイは、何度も何度も光に透かして見ていた。まるで宝物のようにそれを懐にしまい込んで笑っていた。
それから半年も経たないある日、カイは新たな記録を携えてやってきた。分厚い紙束だった。ノートではない。あちこちの切れ端に、カイの字が走り書きされていた。
「ユイに渡せる、最後の記録だ」
ユイが顔を上げたとき、カイはいつものように笑っていたが、その笑顔の端にわずかな陰があった。
「……俺さ、もう、ユイと一緒にいちゃダメな気がすんだよ」
そう言いながら、カイは記録の束を机に置いた。
ふとしたときに言葉が出ない、自分の名前が曖昧になる、といった不安定さを、カイは簡潔に、けれど真剣に語った。
「記憶が、どんどん曖昧になってる。……でもな」
と、カイはユイの方へ向き直った。
「ユイのことは、絶対に、ちゃんと、覚えてる。……だから、大丈夫だ」
言い終えると、カイは振り返ることなく部屋を後にした。背中が遠ざかるにつれて、ユイは一度だけ声をかけかけたが、言葉にならなかった。そのまま、彼の姿は繁華街の夜の闇へと吸い込まれるように消えていった。
ユイはそのまま静かに、研究室の灯りを落とした。窓の外では、雲間から丸い月が覗いていた。
『xx年xx月xx日。
研究対象K、行方不明。
記録は全て保存済み。再発見の可能性は不明。
だが、彼がこの街のどこかで生きていると、私は信じている。』
ユイは最後の一枚に、そう記した。
机の上には、写真が一枚置かれている。そこには、真っ直ぐに前を見つめる青年と、少し戸惑ったように微笑む自分が写っていた。
これは、吸血鬼と、食人鬼と呼ばれたモンスターの記録。そして、それを記録し続けた人間の手による記録。どれだけ忘れられても、どれだけ失われても、これは確かに生きた者たちの、ささやかな灯の記録。
彼らは、確かにこの街の夜に生きていた。
夜に生きた