
百合の君(66)
引っ立てられて来た男は、陣幕をくぐるなり浪親を睨んだ。この目だ、と浪親は思った。彗星のように敵を射る瞳は、一騎打ちの時と何も変わっていない。変わらねばならんのだ、心の中で叫ぶと同時に、笑みがこぼれそうになるのを抑えた。
一方、来沓を引っ張って来た男は、村で会った時とは別人だった。甲冑から雨雫が垂れ、覗いた顔には血の気がない。まるで自分が罪人であるかのように、その男はひざまづいた。
「別所来沓、この宮路英勝が捕えました」
その声もわずかではあるが、震えていた。浪親は、冷たい雨のせいだと思うことにした。春の雨は、花の美しさに耐えかねて降っているのだ、そんな詩を思い出した。
「そちのおかげで戦にならずに済んだ。褒美をやらんとな」
「滅相もございません」
「なぜ戦がこの世からなくならぬか、分かるか?」
声は、浪親自身が思っていたよりもはっきりと出た。雨のおかげかもしれない、と彼は思った。雨と濁った空の色が、心と言葉の距離を埋めてくれているのかもしれない。焦る必要はない。将軍の威厳をもって、ゆっくり話せばいい。
「私が戦のない世を目指しているのは、そちも知っておろう。何故なくならぬのか、考えたことはないか?」
少し間があって、英勝の声がした。
「それは、将軍に逆らう者がいるからではございませんか?」
その答えは自分で気に入ったらしく、英勝の声はやや精彩を帯びた。
「この別所来沓の父、沓塵が先の将軍を害し奉るようなことがなければ、世は乱れずとも済んだはずです」
来沓が猿轡の隙間から、怒鳴り声を漏らした。
「それは確かに事実だが、まだ根本には至っていない」
浪親は下唇をわずかに噛んだ。それは駆けだそうとして第一歩を踏み出す時の力の込め方だった。まさに、浪親は今までとは違う一歩を踏み出そうとしていた。
浪親は、罪人のようだと思った英勝が主を裏切る時と全く同じ決心を必要としていた。帝の言葉が蘇った。
「人は自分が正しいと思った時には道を誤っているくせに、自分が正しいと思わねば何もできない」
そう言った帝に自分の正しさを認めさせようとすれば、人の道に悖ることもせねばならない。それは矛盾であるがゆえに、真実に近いように思われた。人を超えようとしているのだ。論理や倫理の荒れ地を拓き、平地と成すくらいのことはせねばなるまい。
「戦で得をする者がいるからだ。武士は戦で敵の領地を奪う。得をするから戦をするのだ」
「仰せの通りにございます」
「主を裏切って、将軍に仕官しようなどという輩がいるから、戦はなくならぬ」
浪親は英勝を見る目から感情を排した。
「この者を斬首せよ」
英勝の首は真っすぐに落ちた。それを見て、浪親はやっと穂乃のおとぎ話を思い出した。猫が鼠を食べる前の世に戻す。単純なことだ。そもそも余計な葛藤などいらぬのだ。
英勝の死体を始末させると、改めて浪親は来沓を見た。目の前で側近の首が斬られたというのに、まったく怖気づく様子はない。今度は漏れて来る笑みをそのまま顔に出した。そして、猿轡を外させた。
「そちは立派な武人であるのに、運と家臣に恵まれぬのう」
来沓は何も言わない。ただ肩を上下させながら、浪親を睨んでいる。その背から、雨が蒸発するのが見えるようだ。
「まあよい。さて、そちはなぜ私に背いたのだ?」
「恐れながら、将軍のおっしゃる戦のない世は、若き侍の未来を摘むものにございます」
来沓と浪親の間だけ、雨が晴れたような声だった。
「私はまだ十九にございます。これから武士としての力を示し世に認められていくべきところでありましたが、将軍は私からその機会を奪ってしまわれた」
丁寧な言葉遣いの中に、十分な憎しみが込められていた。思わず浪親はそれを躱した。
「平らかな世のためだ、仕方なかろう」
来沓の唇は紫に染まっていた。
「十年以上戦って武士の頂点に立たれた将軍はそうお考えになるかもしれません。しかし、私はいままで鍛え上げた武芸をどうすればよいのです? 鍬を振るために使えと仰せですか」
あの決闘での感覚は、ずっと浪親の心の底に流れている。あの若さと力に満ちた白い歯が、雲間に差す光のように覗いていた。あの時のように、砕けよとばかりに噛みしめた様を、また見てみたいと浪親は思った。来沓に見せびらかすように、浪親は己の掌を見た。
「そちはまだ若いから知らぬのだ。戦が起これば家を失い家族を亡くすものが出る。私は将軍としてその者らを守らねばならぬ」
「俺の世を乱すな、そう言っているようにしか聞こえませぬ」
言いかけた浪親に慌てて進み出たのは義郎だった。
「将軍、殺せばこの者の言い分を認めたのと同じです。私にお任せください。この者の無念、同じ武人として私にはよく分かりまする」
またこの男か、浪親は唇を噛んだ。いつも邪魔をするのはこの男だ。人質交換と称し穂乃をさらった卑怯者。この赤い瞳を見ると胸が掻き乱され誰も彼も皆殺しにしてしまいたくなる。
「しかし、こやつがまた謀反を起こした時にはどうされる、喜林殿が首を差し出すとでもおっしゃるか」
「私の首でも構いませんが、その時には喜林だけで別所を討ち取り、将軍にこの者の首を献上いたします」
浪親は、手近な復讐を思いついた。
「よかろう、穂乃にも赤子ができたばかりだ、無益な殺生はしとうない」
雨は義郎をも濡らしていた。浪親は満足を覚えた。
「よし、八津代に帰るぞ」
百合の君(66)