分心
土砂降りに迷い込んだ店の中で、流れるジャズのメロディーに、誰にも見えない「分心」と語り合う。
「ジャンゴ、ジャンゴ・ラインハルト……」
「誰それ?さすらいの殺し屋?」
「殺し屋なもんか。確かミュージシャンだったと思う。ギタリストだったかな?」
「そいつの曲なの?」
「いや、違うよ」
古いビルの二階にある中国料理店に、バロック音楽のように端正なモダンジャズが流れる。
ピアノとドラムスに調和したビブラフォンが、硬質な音色で物悲しいメロディを歌う。
土砂降りに追い立てられるようにして入ってきたこの店には窓が無い。
昼の一時からまるで夜のようだ。
薄灯りの中、赤に金の中国提灯が華やかに揺れ、紙で出来た桃の花が桃源郷めかしている。
いくら華やかに彩っても、光を拒むかのような雨粒の気配はコンクリートの壁にも染み入って来る。この店は押し寄せる鉛色の雲に浮かぶ小さなあぶくのようだ。
「大体なんでこんな店でモダンジャズ?胡弓でも流せばいいのに。それにこの曲ジャズにしても憂愁を湛えているじゃないか」
「そりゃジャンゴ・ラインハルトへの追悼の曲だから」
「お前世代の曲じゃないだろ」
「高校生の頃好きだった。流行りの歌には全く興味がなくてね」
「昔からひねくれものだったのか」
リュウが笑うと、私の煉瓦色に染めた唇も自動的に歪む。
そういう仕組みだ。
「お待たせいたしました」
大陸出身者らしい訛りの老婆がセイロを一組差し出した。
濛々とした湯気をたてる餃子や焼売、半月型のマントウを私によく見えるように傾ける。
でんぷん質が温められた甘い香りが漂い、その奥からラードが重たく匂った。
焼売はどれも上新粉の皮の内側から、丁寧につぶされた具が透けて見えていた。
「食べないの?」
「 食べるよ。綺麗だからよく見ておこうと思って。急かさないで」
「写メとればいいのに」
「その風潮には同調できない。何で食べたものをわざわざ喧伝して『いいね』貰わないといけないの。どうせ 腹に入れば同じだ」
「 ほらほらひねくれものだな。このジャンゴ何とかとかいう曲に凝ったときも、そんな調子で周りの子と同調しなかったんだろう?」
「悪い?」
「悪くはないけどさ」
私は焼売を一つ無造作に口に運んだ。
「ああ、旨いな。これは海老か」
「私が働いたお金で頼んだんだよ」
「その分は便宜図ってるだろ。嫌なことは代わってあげもするし、愚痴だって聞いてる。俺たちがいるおかげでお前は普通の人に紛れて生きてられる」
「感謝はしているよ。だけどなんだね、今日は感傷に浸っていたい」
「この曲のせいか?それとも雨のせい?」
「分からない……」
「少し席を外すか?それとも他の奴に代わるか?」
「いや、いいよ。これはこの間クレーム対応を代わってもらったお礼だから」
リュウは皮肉に優しさを一匙足した笑顔を作った。つまりそのように私は微笑んだ。
「お前はさ、俺たちが生まれる前のことをほとんど話さないよな。しゃべりたくないのか?」
「そんなこと聞いて楽しい?孤独に押しつぶされそうだった少女時代のことを聞いて」
「俺は聞きたい。ルカもリオもマリンもそう言ってた」
「何のために」
「それは俺たちにとってお前が二人といない分身だからさ」
「何を聞きたい?」
「あれ、話す気になった?」
私は誰も居ない向かい席の方を眺めたまま口をつぐんだ。
湿気はいよいよ耐え難く、さっき濡らしてしまったサンダルの足が心地悪い。
モダンジャズは終盤の速いサビに差し掛かっている。
「でも何から話せばいい……」
「とりあえずこの曲に凝るに至った経緯とかでいいじゃないの」
「これだけじゃないよ、私は大昔に流行ったスタンダードナンバー全部に関心を向けていた」
「それを話してくれよ」
私は大きく息をついた。
聞こえない雨音がモダンジャズの奥底に響いている。
「私は今ここにあるものに関心を向けられないんだ。心なづむのはもう失われてしまったもの、今存在しないもの、そもそもの始まりは中学生の頃、古い洋楽ばかりを集めたCDを借りてダビングしたことで、友達もいなかったし、一人で……」
了
分心