雨のち、
一週間ぶりに帰った家はこもった匂いがした。荷物が入ったままのキャリーバッグを玄関に置き、すぐに窓を開け放つ。苛烈な日光が容赦なく降り注ぎ、部屋の隅にたまった暗がりを照らしてゆく。
手を洗うよりも先におでかけ着のワンピースからよれたTシャツと学生時代のジャージに着替え、作業を開始する。軍手を嵌めた手で頬をパチンとひっぱたいた。
家には一週間前の生活が冷凍保存されたみたいに残っていた。流しには汁が入ったままのカップ麺の容器が積み重なっていたし、ゴミ箱は尿で重くなったシーツがいくつも捨てられ、溢れていた。90リットルのゴミ袋はすぐいっぱいになり、口をいくら結んでも終わりが見えない。机の上に開かれたままの旅行雑誌を、適当にちぎって生活ゴミのなかに紛れさせた。家にはビニール紐がなかった。
実に十年ぶりの旅行だった。そういう意味では解放された、と言っても良いのかもしれない。いままでずっと、家と職場と病院の三角形をぐるぐる行き来していたから。
実際旅は刺激的ではあった。エメラルドの海、熟れた原色のフルーツ、動物園と全然違う、躍動する動物たち……。目にするもの全てが新鮮で、輝いて見えた。同時に、全て遠い世界の情景のようだとも感じていた。自分の手でビザを取り、脚で飛行機に乗り、頭で考えたプランで観光地を回ったのに、どれも画面越しで観るような平坦さがあった。
目立つゴミを一通り片したら、いよいよ本番だ。掃除機をかけ、床を水拭きし、カーペットに粘着ローラを転がす。
いよいよ視界がぼやけ、あらゆる物が二重に見えてくるが冷房は入れない。顎から滴り落ちた汗が、フローリングに垂れる。全身が湿って気持ちが悪い。
覚悟はしていたが、終わりが見えなかった。粘着シートは何回転がしてもびっしりと毛を拾うし、床という床にこびりついた吐瀉物や壁に擦り付けられた血のしみはどんな洗剤を使ってもなかなか落ちなかった。ありとあらゆるところからトイレ用の砂があらわれるどころか、隙間という隙間から様々な「戦利品」が発掘された。虫の死骸、食器用スポンジ、テニスボール、布製のネズミ、各種ねこじゃらし……。私はそれらをひとつひとつ丁寧に暴いていった。
ノムとは梅雨が明けたばかりの日に出会った。その日はちょうど資源ごみの日で、私は雑誌の束をいくつか捨てようとしていた。
ノムはごみ収集所の目の前でのびていた。最初毛皮が風に運ばれてきたのかと思ったくらい平べったく、ぐったりしていた。ゆるく縛っていたのかばらばらに散らばった冊子と、彼の口の端からはみ出たテラテラしたビニールを見るや否や、私はすぐに動物病院を受診した。幸い大事には至らず、以来ずっと、私たちはふたりきりだった。
耳の内側と、目の周りだけが白い雑種だった。ピアノ線みたいなひげをひくひくさせ、いつもやけにのんびりとした声で私を呼んだ。のぉおん、のぉおん。埋葬から一週間経つのに、鼓膜の奥からまだごはんをおねだりする声が聞こえてくる。
掃除の手は止めない。彼の痕跡をすべて消し去ろうと、私は全身全霊で動いた。けれど、どんなに磨いても、外の空気を入れても、掃除機をかけても、においは消えなかった。晩年あらゆる病気を併発した彼のにおい。古い毛と、粘ついた血と、垂れ流しになっていた糞尿と、涙と鼻水。それはいまにも私のお腹に乗って、グルグルと甘えたように喉を鳴らしてきそうな。十年は短いようで、あまりにも長かった。
ついにドーナツ型のクッションに触れる。この中心で耳をぴくぴくさせて、気持ちよさそうに眠っていた彼はもうどこにもいない。やわらかくふわふわなそれを濡らす液体が、私のどこから流れているのか、もうわからなくなってきた。
ねえ、ノム。私もうなんでもできるよ。旅行にも行けるし、お休みしていたアロマも炊けるし、お洒落な家具だって置けるし、なんでも好きにできるんだよ。
でも、まだなんにもしたくないんだよ。最後の方は、正直かなり辛かったのに。もう、このまま眠ってしまいたいくらいには。ねえノム。私、もう……。
雷鳴が轟き、眼を覚ます。いつの間にか外は雲の緞帳が下り、かと思うとザアアアと雨が降り始めた。窓から入ってきた雨粒が床を濡らしてゆく。
雨音とともに、のおおんと、風の唸り声が聞こえた気がした。クッションの中央に伸びていた手が、何かを掴む。ノムの首輪だ。皮膚炎が進行してからは外していたけれど、一緒に埋葬してあげたくて探していた。チリン、と鈴が鳴る。
しばらくすると雨が上がり、雲の切れ目からまた陽ざしが降り注ぎ始めた。
私は立ち上がって窓を閉め、エアコンをつける。灰色の空に、淡い虹色がかかっていた。
雨のち、