円環の渡守
仕事はいつも唐突にやって来る。深夜二時過ぎ、玄関扉を開けるとアプローチに小さな木箱が置いてあった。中には、手のひらサイズの赤い靴と、折り畳まれたA4のコピー用紙。私はその依頼状にすばやく目を通し、深く呼吸をした。三回瞬きをしたあと、早速仕事に取りかかる。
壁を覆う藁のカーテンから、今回は細く柔らかい束を選ぶ。炊いた香にくぐらせて軽くほぐしたら、指に通して編み始める。
仕事場は西側のテーブルときまっていた。粗末な木の椅子の上で背中を丸め、手元の蝋燭のみを頼りに指を動かし、規則正しい編み目を生んでゆく。指先に影が落ち、藁の輪郭がぼやける。ここで、必要以上に部屋を明るくするのはご法度だ。この仕事は常に、暗がりと共にある。
時折、窓の外から何かの遠吠えや、リンリンと虫が鳴くような声が窓から聞こえて来るけれど、それらに耳を貸すこともしない。この仕事に一番必要なのは集中力。次に必要なのは、やっぱり根気だった。
この川辺の小屋に住み始めたのは、いまから三年前のことだ。先代の仕事を弟子でもなんでもない私が継いだのは、ただ単にここに一番出入りしていたからである。先代……祖母の家だったここは常に静けさに満ちていて、学校の騒がしさに耐えられなかった子供にはぴったりの避難先だった。
木造の小屋は湿気を含んで全体的にふやけており、独特のこもったにおいがしていた。私はそのにおいが好きだった。森の奥に生えた朽ちかけた老木のうろの中のような。静けさとつめたさに満ちたにおい。
黙々と指を動かし続ける。乾いた藁は薄い皮膚を傷つけ、うっすらと血が滲んでいる。川辺の夜は常に寒く、蝋燭だけでは手がかじかみ、こわごわとした動きしかできない。それでも止まることなく、ただ編み目をつないでゆく。寸分のずれも許されない。
仕事には、いくつかの厳格なルールがあった。一つ、灯りは最低限であること。一つ、編み終わるまで、決して音を立ててはいけないこと。一つ、どんな声がしても、窓の外は見ないこと。どれかひとつでも破ったら、また最初からだ。
祖母はこの仕事を、何十年も続けてきたらしい。私がここに通い始めた頃にはもう業界の第一人者だった。誰もが彼女の手さばきに静かに感嘆し、その正確さを称えた。……といっても、多くは葬儀のときにやってきた仕事仲間たちの評判で、普段はまったくそういった話はのぼってこなかった。子供ながらに、本当にこの、ささやかな手仕事で暮らしていけるのか不思議だったくらいには。
彼女は無口な人だった。沈黙を要される仕事の時以外でも喋ることは少なかった。仕事がないときは、川側の窓辺にあるカウチソファに寝そべり、古い洋書を読むか、毛糸を編むかをしていた。私は祖母の傍にもたれかかって、学校の宿題をよくしていた。ごんぎつね、赤いろうそくと人魚、モチモチの木……。もしかしたら、これらの物語を祖母に聞かせている時が一番、この家が賑やかだった時間かもしれない。音読が終わると、祖母はゆっくりとした動作で連絡帳にサインを書いた。普段あれだけ機敏に手先を動かしているとは思えないくらい、震えた文字だった。
蝋燭が短くなっていくにつれて、ますます夜が更けていく。わたしは変わらず、指を動かし続けた。藁に指をかけ、輪っかを作り、結ぶ。また指をかけ、結ぶ……こうして切れ目のない円が編まれてゆく。
窓の外から聞こえていた遠吠えや虫の鳴き声はどんどん遠ざかり、いつの間にか聞こえなくなる。あとはもう、せせらぎばかりだ。鼓膜のもっと深い場所を、さらさらとした水音がずっと流れている。それは、耳を塞いでも聞こえて来る。深い穴の底に、ひとり取り残された心地だ。
手を休めることなく、今日の依頼品を思い返す。赤い靴。やっと歩き始めたくらいの子どもが履きそうな、本当に小さなエナメルシューズだった。だから、今回の「輪」は、比較的小さいもので済んだ。
依頼品は大中小さまざまだ。靴、おくるみ、入れ歯、キセル、指輪、本。木箱に入る全てのものが対象だった。それらがぴったりおさまる浮き輪を藁で編むのが、私の仕事だった。
赤い靴の少女はビー玉を喉に詰まらせたと、依頼状には書いてあった。プレゼントに貰ったあの靴を大事にしていて、いつも履いていた。ただ、土で汚したくなく、いつも家の中で踊っていたらしい。事実、彼女の宝物は履き慣れた靴特有の艶やたわみはあっても、まったく汚れていなかった。赤ん坊の舌みたいな、濡れた赤色をしていた。浮き輪の向こう側に、三つ編みの女の子が見える。彼女はスカートがめくれるのも構わずに、全身を使って舞う。その足元で、真っ赤なエナメルシューズが宝石のように輝く。鼓膜の下をせせらぎの他に軽快なステップ音が満たしてゆく。
手元に目を落とす。古ぼけた苔色のハンドウォーマーが、私の手をしっかりと包んでいた。これは祖母がとうとう藁を編めなくなったときに私にくれたものだ。ふわふわと繊維がはみ出て、編み目はほつれ、ところどころ肌が露出してしまっている。それでも大切な私の仕事道具だ。
これを私に託したとき、彼女は既に寝たきりで、ほとんど目が見えなくなっていた。あまりにも長い間暗闇に居続けたせいだと、みんなが噂していた。
「いいこと」
祖母の声が蘇る。それはまるでこのせせらぎのような、意識しないと聞こえないような、それでいてずっとこの世に在り続けるような、そんな響きだった。
「常に、わたし達は流れと共に在る。そのことだけを、忘れないで」
そう言って、祖母は私の胸元で指を動かした。それは、何度も連絡帳に書いてくれた、孫への精一杯の励ましだった。その翌日、彼女は息を引き取った。
蝋燭が燃え尽き空が白んで来る頃。終わりは必然的にやってきた。私はついに藁から手を離し、出来上がった作品を机の上に置いた。小さな円がいくつも連なったてできた浮き輪は、見事な正円を描いていた。こうして私は、また一つ仕事を終えた。
外に出ると、辺りは朝日でほのかに染まりつつあった。常にもやで覆われている川辺も、この時間だけは清々しい空気が流れている。
玄関から五歩歩き、水面に浮き輪を浮かべる。ぷかぷかと揺れる「器」に、そっと赤い靴を載せた。それは新しいベッドに安心したかのように、ゆったり身を委ねてくれた。……これでもう、安心だ。私はそっと息を吐いた。この仕事をはじめてしばらく経つけれど、いまだにこの瞬間は緊張する。
浮き輪を押し、川に放つ。小さな棺は迷うことなく、まっすぐと流れた。私は立ち上がって遠くを見つめる。川の果ては相変わらず濃い霧がかかっていて、見渡すことができない。その向こう側に、ゆっくりと浮き輪が吸い込まれる。完全に見えなくなるまで、私はそれを見送る。
しばらくしてお腹が空いていたことを思い出し、あくびをしながら家のなかに入る。昨日街で買ったパンでも温めよう。
玄関扉を押す手に、ふと庇から朝露が滴り落ちる。深緑色のアームウォーマーが、水を吸い込む苔のように、またじっとりと潤った。
円環の渡守