百合の君(65)

百合の君(65)

 刈奈羅(かるなら)は雨に煙っていた。狩菜湖(かるなこ)には、津波のような大軍勢が押し寄せている。宮路英勝(みやじえいしょう)は、ちらと隣に立つ主君を見た。来沓(くるとう)のまなざしは、迫りくる困難を貫くかのようだ。しかし、目の前の敵だけ倒しても、とても追いつくものではない。それこそまさに、津波に弓を射るようなものだ。征夷大将軍に逆らうとは、こういうことなのか。
「殿」
 呼びかけると、来沓がその瞳を柔らかくして振り向いた。隙だらけだ。
「御免」
 英勝は来沓の背後に素早く回り込むと、その腕をひねり上げた。
「何をするか!」
 しかし本気で抵抗していない。その甘さのせいで、あの時も今も出海に負けるのだ。
「見怖じするなど、末代までの恥ぞ! 離せ!」
 さらに力を込めると、自分の鼻から落ちた雫が、来沓の首筋に落ちた。これは裏切りではなく、諫言(かんげん)だという気がしてくる。
「将軍に盾突くなど、あってはならないことです」
 英勝は、将軍という言葉を強調した。周りで見ていた兵達が、すがるような目を向けて来る。
「謀反人、別所来沓を捕えよ」
 唇の間から入って来た雨は、わずかにしょっぱかった。兵たちは、ためらっていた。
「どうした? 私は将軍に従っているのだぞ。それとも謀反の兵として死にたいか?」
 来沓は視線を大軍に向けた。ひとり前に出ると、遅れまいと後に続く。
「お前達!」
 来沓の体が大きく波打った。その様子に、兵達の足が止まった。しかし、英勝はもう後戻りできない。体重をかけて来沓を押さえつけると、濡れた籠手が締め付けて来る。
「せめて自害させよ!」
 来沓の声には、憎しみというより恥があった。その顔が振り向くのが怖くて、英勝はさらに強く力を込めた。
「その刃で、私たちを斬るおつもりでしょう」
「斬らん!」
 兵達は顔を見合わせている。英勝はいらついて来た。弱い者はいつもこうだ。いつも傍観しているだけで、自分で動こうとしない。しかし、その弱者を動かせねば、死ぬのは自分だ。
 英勝は最初に足を踏み出した兵に視線を向けると、努めて優しい声を出した。
「そこの者、たすきを持て。謀反人を捕縛したら、帰ってよいぞ」
 兵はまだ躊躇している。
「どうした?」
 まだ踏み出さない。
「妻や子に会いたかろう」
 英勝は微笑んで、頷いた。兵はようやく踏み出した。英勝はその手を取ると、来沓の手首に添えた。兵の手は固かった。導くように上から握ると、兵はそのまま来沓の手首を締め上げた。兵の体が動かないのを見て、ようやく英勝はその手の隙間からたすきを受け取った。
「よくやった、名は?」
「平七と申しやす」
「そうか、将軍には伝えておくぞ」
 来沓を見下ろす。あるはずの感傷はなかった。この雨で濡れた景色のせいかもしれないと英勝は思った。

百合の君(65)

百合の君(65)

あらすじ:かつて別所家は巨大な水運路を有する刈奈羅国を治め、将軍を倒し最も天下に近い大名でしたが、八津代侵攻の際に出海に敗北、その領土を奪われてしまいました。将軍となった出海から刈奈羅を奪還するため、別所来沓は謀反の兵を挙げますが・・・。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-12

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