『上村松園と麗しき女性たち』展

内容を一部、加筆修正しました(2025年7月10日現在)。



 美人画における着物は、西洋画における画中画。身に着ける者の身体に合わせて生まれる立体的な空間に描かれるのは季節と花の移ろい、その色味の美しさ、枝葉の伸び伸びとした様や蔦の絡まりが描く幾何学的な模様。写し取られる花鳥風月。日本画ならではの情緒。それらの芸術が絵として切り取られる生活の中でモデルが取るポージングによって歪み、布地の折り目に沈み込んで見えないものとなり、パターンに基づく想像を刺激して、画面全体に正確無比な写生を超えた絵画としての膨らみを生み出す。
 美人画を鑑賞していて、しばしばその描写しか目で追っていないことも少なくない筆者において「美人画」は極端な話、着物に関する表現だけでも成り立つジャンル。例えば伊東深水(敬称略)の《春》に認められるモダンさは、構図以上に複雑に作り込まれた着物=画中画を淵源とすると評すべきだと素人ながらに思うし、また美人画と聞いて頭に思い浮かぶ繊細さとは真逆をいく大胆な色彩表現で鑑賞者を圧倒する画家、片岡珠子(敬称略)の迫力も、着られた着物を中心に見れば、美の精神を見失わず、筆を運んだ画家の生き生きとした脈動をその目に焼き付けることができるのだから。




 伊東深水が師事した鏑木清方(敬称略)も美人画の名手であった。その鏑木清方を東に置き、当該ジャンルの双璧として「西の上村松園」と評価された日本画家、上村松園(敬称略)が究める美人画の「美」にも当然、着物の美しさが含まれるが、その一方で上村松園の絵には不思議なくらいに場面(シーン)としての美が宿る。
 例えば《蛍》の曲線美。簡素な着物が目線を誘う身体のフォルムは吊り上げられる蚊帳の柔さへと同調し、さっきまでじっとしていられた場所の変化に驚き、急いで飛び立つ蛍の様子とそれに気付いた人との間で交わされる瞬間的なやり取りに昇華され、いやらしさとは無縁のものとなって、その純然たる美しさが我々の心にしかと届く。
 《折鶴》においての余白の美は、《牡丹雪》におけるストーリー性を抜きには語れない。
 姉妹が揃って折鶴を折る。真剣に、かつ楽しげに折鶴を折る。言葉にすれば何気ない場面でも、上村松園の手に掛かれば鶴の羽を広げる所作までもが美しくなる。綺麗になる。一ミリたりとも動かしてはならないと自戒してしまうほどに完璧な対象の位置関係は、画面にたっぷりと取られる余白から迫るべき表現のポイントだ。「上村松園」という世界の営みがそこに凝縮されている。
 足元に降り積もる雪の厚ささえイメージしてしまう《牡丹雪》も然り。画面の左端に寄せて描かれた二人の女性が身に付けるものから推測できる身分は、なぜそんな天候の時に?という疑問を私たちに抱かせる。絵でも言葉でも語られない事情は画面の左端から見上げられる余白に吸い込まれ、静かに消えていく。あとに残されるのは意匠の美。色彩の美。それに取り囲まれる彼女たちの切実さ。儚さ。前も後ろもない場面(シーン)は、揺るぎない瞬間として誰しもを魅了する。心を鷲掴みにする。
 文句の付けようがない描写ゆえに、その美人画は人形のようだと批判された上村松園は真摯に悩み、よくよく古典にあたり、時代の流れを肌で感じながら自ら「溶鉱炉」と評した芸術の地獄に身を置き続けた。その胸の内にふつふつと沸き立つ情熱を手放さなかった。
 読ませるに近い場面の描き方は必然、夢と現の狭間にあって人に宿し美しさを孕む。山種美術館で開催中の『上村松園と麗しき女性たち』の第2展示会場で鑑賞できた北田克己(敬称略)の《ゆふまどひ》や、京都絵美(敬称略)の《ゆめうつつ》といった平成頃の作品にも筆者は似たような感触を得た。そこに着物はないのに、着物という画面の中の画面が穿ち続けた奥行きからは余りにも豊かなイメージが湧き出ている。あるいは場面(シーン)としての画面が瞬間的な語りを可能にしている。
 彼女にしかできない表現。
 以前なら、このワンフレーズを筆者は片岡珠子の日本画に向けて積極的に使っていただろう。今は違う。上村松園の絵は、上村松園にしか描けない。己を律するように描き、己の全部を出し切って、目の前の一枚を完璧に作った。その高みこそ真に表現。『上村松園と麗しき女性たち』、会期は7月27日まで。興味がある方は是非。

『上村松園と麗しき女性たち』展

『上村松園と麗しき女性たち』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-09

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