ハム
一人の女と無数の少年たちが屋敷で呑気に暮らしていた。彼ら少年らはその女の作り物であった。
ある日、泥棒が入った。屋敷が広いので入り込んだ泥棒はすぐ迷子になった。彼が盗もうとしたのは美しい少年の童貞である。
果たして彼は屋敷に住む一人の少年の童貞を奪った。廊下で見かけた少年に微笑み、トイレに連れ込み、抱き寄せた。自らの陰茎を少年の肛門に挿し込んだわけではなく、手指で少年の股間に暫らくのあいだ触れ続けた。彼は幸福そうであった。
その夜は星がいっぱい見えたため屋敷じゅうの他の少年はわくわくしていた。言葉にできないほどの感情に駆られたので身振り手振りで気持ちを表明する。空じゅうに撒かれた星々のように自分たちからも何かを生み出せたらと思う。そのため口々に大声で歌い、屋敷はそのたびに震える。興奮が高まると愚かな彼らは無闇に泣いたり涙を流して怒ったりする。そうしても星のような光るものは出てこず、むしゃくしゃした彼らの中には自分の体や顔をひっかく者もあり、肉体や身の回りの物に破損が生じた。
変質者は少年の性器に触れた自らの手指をしみじみと嗅ぎながら回廊を歩き、響き渡る少年の声にうっとりする。男はところどころに悪臭を落としていく。その匂いを嗅いで少年たちからいよいよ落ち着きが削がれていく。日頃安寧を求めている彼らであるが今は叫び暴れ物を壊す。皮ふや壁の絵などをはがしながらも、辛うじてたった一人そこに住む女だけは壊しはしなかった。彼らにとってその女は大切なものだったのである。
その女はその女自身であるために在った。少年らは女と出会うために存在した。彼らの目にはその夜、彼女の姿が入らなかった。臭い屋敷を出て髪を乱し騒ぐ彼らの周りを風が巻くように吹き、辺りは性欲を孕み世界全体が射精しているようだった。少年たちが次々と空気のように外へ出ては各々服を脱ぎ勃起して射精する。さらに自身をも脱いでは射精する、楽しそうにめくるめいているそれらを女は残念そうに窓辺からため息をついて眺めやる。
(かれらはいったい何をしているのだろうか……)
女は幾つかの遊びを彼らと共有することがあるが、今夜の射精ごっこにはついて行く気にならず、一人ココアを汲み飲んでいた。今は彼らがとても騒がしくなっているので、女は何となく怖くて彼らに近づく気にならない。あとで行動の意味について詳しく訊こうと思う、訊く意欲が湧いた場合は。自分は何をしているかと自問すると、女はココアを飲み干すと、焦げのついたハムを噛む、これが美味く、その味は寂しさや疎外感やハム自体の味かと思う。幾つかの味わいに浸りながら確かに苛立っていた。
少年たちは日常、彼女の下僕のようだった。家財の一部のような彼らは彼女の顔色を窺いサービスする、便利なものだった。炊き上がった米はしゃもじでかき混ぜるとふっくらする、その手間を炊飯器の方でしてくれたら良いと女が思えば、少年らの一人がその作業をしてくれた。ろくな絵を描きもしないのに少年たちにポーズをとらせたり、女の意識が朦朧とするまで延々と彼らに踊らせたりした。色々と無理なことをさせるのであるが、彼らはその通りこなしてくれるし、そしてまた不気味なほどけろりとしている。
(私は彼らにあんまり無理をさせ続けたし、また彼らも自らに無理を強いてきた節があるから、とうとう壊れてしまったのかな)
いつも彼女の身近にいて室内に揃っていたはずの彼らが今は星に光る野外に盗まれている。その寂しさに女は外を呪う。外で好き勝手に奇行することが彼らの肉体と精神の連結性を回復する儀式なのかも知れないとも思う。
多数の少年は屋敷の中で眠っている。それも回復の営みなのかも知れなかった。少年らは目覚めては一人また一人と外へ浮き足立って行く。
(本当のところ、かれらはいったい何を考えているのだろう)
女は問う言葉がなぜか口から出ない、ある種の吃音者だったので。少年らも黙ったまま、ほぼ何も考えずに外へ行こうとする。女はその人形のような硬い脚を掴み、一緒に美味しいハムを食べようと申し出る。たんに「食べる?」と訊いた。その少年はハムだけをもらって走り去る。エサだけを取って行く魚がいるなと思った女は、少年の背中へ手近な道具を投げつける。罰として爪きりを投げつけたのだが、少年の足は速いから届くことはなく、軽い小さな爪きりはこんこんと跳ねて落ちる。女はすっと廊下を走り爪きりを拾うとまた彼に投げつける。投擲と落下と駆け寄り、それを繰り返し、やがて爪きりは戸外の雪の上に落ちた。白い爪きりなので探しても見つからない。女は寒さに負けて屋敷へ引っ込む。くしゃみをすると、眠っていた他の少年たちが眼球を揃えて女を見る。何人かの駆けていく少年らと、駆けた後に息が上がっている女とを見て、彼らは走る意欲をかきたてられ、動き出して外へ出て行く。彼らは自分がこんなに速く走れるのだなと楽しく思う。
彼らが多く速いので女は支配を諦めて傍観した。ハムを貪りながら、自身を支配しかねていると思った。自己を制御しきれていない無力感が、少年らへの過剰な支配欲になっていると思う。またそれぞれの少年らも彼ら自身を自らの感覚によく合うよう御することができずにいるため、代わりに他者である女主からよく支配されようとしているようだった。しかしいま彼らの目に映るのはハムやら星空やらであり、しかもそれは何より彼ら自身の感動に即したふるまいである。女のことは見飽きたし、彼女からの支配にも興を感じなくなっている。
(残念である)
女は手指についたハムの脂を舐め、ゆったりとした動作で残りのハムを冷蔵庫にしまう。近くにある店で試しにと思い買ったハムは予想以上に美味しく、それは収穫だった。また過度な貪りを自ら慎むことに成功したことも成果だと思われた。だが今夜は失ったものも大きい。肉体的、精神的な収穫がハムと自制心なら、同じく肉体的、精神的な喪失は少年たちからの好奇心や忠誠心だった。けれども彼ら自身もまた彼女のように、各々が彼ら自身を獲得した。本能を有する肉体と精神との間に強い連動を得たのである。しかしそれでも彼らは自制心までは獲得し損ねていた。だから怪我が多いのである。
(所詮やつらは未だ動物なのである。しかし同時に彼らは人間なのだ。私もまたそうである)
泥棒から性的な悪戯をされ清純をずたずたにされた一人の少年は、トイレの個室でぼんやりしていた。窓の外で他の少年たちが狂ったように踊っている、その真似をしたら彼の肉体は壊れるだろうと思った。意味も分らず性器を手指でもまれても、彼の陰茎は硬くも太くもならなかった、代わりに体全体がこちこちに固まり、今もぎくしゃくしている。彼は肩掛け水筒から温かい汁を細いストローで吸って飲む。
見るからに人形のようだった少年らは各々めくるめいている、雪原で発狂しながら回転し、自らを射精し弧を描いて夜空へ吸い寄せられ、木や屋根の上から飛び立つ彼らの体は、しかし出口も目的も持たず地上へぽとぽとと落下する。雪の中に突き刺さり埋まるともう見つからない。
童貞を失った少年と、ハムを食べた後の女主人は、別々の窓辺から彼らを見て哀れに思う。
女は嘆じる。(あんなふうに動いたらきっと体が壊れるだろうに、やはりまだ心と体の相互交流がずれているようだ)まるでただの風のように見えたのである。空っぽの意欲や強すぎる情動によってだけ動く紙袋のように見えた。(あるいはあれは私を始めとした外なる力に対する怒りの表明なのかも知れない、彼らには性交や踊りや泳ぎ方が足りないのだろうか)彼女も自らが屋内にある紙袋のように感じられた。
トイレの中で少年の水筒は空になる。朝になり、草原で自慰の時間が過ぎ、少年たちの目や体は疲れ果てている。外へ出し足りない彼らの泡は、あてどなく卵を求める精子として各々の腹の中で渦巻いている。彼ら自身の精虫が腹の中で狂ったように泳ぎ回り、腸の内壁をつついている。女は消化したハムとココアを排泄しようとトイレへ行く。屋敷のトイレはじき少年たちで混み合うだろうから、その前にひとり用足しを済ませようと便器に座って排泄した。大便をしたら血が出た。
やがて屋敷じゅうのトイレは無数の少年たちで混んだ。そこでの会話はこうである、「昨日は楽しかったね」「新鮮な気分を得られたね」など。個室の一つには汚染された少年がまだ潜んでいて、夜間に変質者からどういう意義や経緯で何をされたのか意味が分らず、またどこかしら残念な事物と出会ったような感じだけがあった。変質者の悪口を他の少年たちと共有するという手立てもあるが、しかし変質者から選択された自分自身を恥じるような心地で沈黙し、どういう言葉によってその変質的の行為を批判すれば良いのか分らなかった。彼は気持ち悪いとも思わず気持ちよいとも感じず、何か妙な気分におちいっただけで、殆ど何も感じなかったのである。何かを感じたと呼べるほどの体感と言語表現の分化はまだだった。少年たちの群の中へ、その汚れた少年もぼんやりと出てきた。経た出来事は言葉にならず言葉を探すこともしなかった。そのぶん静かに吃音も深まり、以来彼は小さすぎる音を立てて戸の開け閉めをしたり、また小さすぎる音を立てて歩いたり小さすぎる声で話したりしたので、他から「猫のようだね」と言われた。
屋敷から女が消えた。姿が見えなくなったのである。すると芯を失って少年たちはうろたえた。彼らはまだ各々が彼ら自身の主ではなかったのである。
泥棒はもうその屋敷から出ていた、窓からの光が彼に外へと通じる方向を知らせたのである。屋敷内で少年たちは支配者としての雌しべを失い、おろおろしている。女は書き置きを残さなかった。
これは反省の機会を与えられたのかも知れないと、少年たちは身を寄せ合って自問した。また一人一人になって内省した。感傷に流されしくしく泣いたりする。踊り狂ってたいへんに疲れていたため、大体はそのまま夕方まで眠った。
うち体力が豊かな少年は、お天道さんが出ている間は野や海辺を散策する。ちらちらと女の姿を探しながら、雪が解けたところを駆けたり、落ちている爪きりを踏んだり、ごみの中を覗き込んだりした。
果たして方々で女のパーツが幾つか見つかった。夜間、女主人は分解の憂き目に遭っていたのである。
被汚染者の少年が呟いた。「この辺りに変な人が徘徊しているから、それに彼女はやられたのかも」
次の夜も星が多かった。女は少年たちの手で情熱的に組み立てられ、肉体も意識も活動性も復活した。被汚染者は言う、「やはり僕みたいに変質者の魔の手にかかったのでしょう」。女主人は否む、「いいや、それは君の思い込みで、実際は風に八つ裂きにされたのだ」。それに対して被汚染者、「それは少し残念なことです」。などと言説を交換する。
かれらの気分が塞いだり浮き上がったりした後、夜に星の光が昨日とは別の温かさに感じられるから、変質者から汚辱の災難に遭った少年を中心に彼らは、猫を探しに出かけた。猫が好きだったのである。
女は(またか)と思いながら彼らの出てゆくさまを見ていた。女の諸部分は全てが見つかったわけではなく、まだどこかに羽や乳房が落ちているはずだった。だがそれが見つからず、少年たちは日が落ちたからと探すのを止めた。女は乳房を失ったぶん身軽になり、また羽を喪失したぶん身重になった。彼女の腹部は海辺に捨てられていた。そのため海水か何かで膨らんでいる。それは動く海水だった。女はハムの残りを全て食べた。フライパンで軽く焼いてから食べた。
女が持っていた女性的部分の欠損は、少年らに美を惜しむような乞うような思いを惹起した。彼らは女に外出と捜索の許可を願い出た。
「なんだか今夜も星がきらきらしてふわふわしたような気持ちがするので、そこらをぶらぶらしながら乳房や羽や美しい猫などを探しに行っていいですか」と、数人の少年が訊きに来る。女はハムを力なく噛みながら彼らに許可を与え、皮肉も交えた。「君らは発情期の猫みたいなことを言うし、するね」彼女は彼らのふるまいが充分には人間的でないと言おうとしたのであるが、少年らはそれを皮肉や批判だと気付かない、彼らにとって猫や乳房や羽は非常に良いものだったのである。さらに女の持つハムを欲しがった。女は彼らの口々にハムをやりながら「きらきらした星がふわふわ飛ぶからといって、何も君らまでふわふわきらきらしなくても良いだろうに」と述べる。だが彼らは外へふわふわしに行った。となり町やとなりのとなりの町々で美しい猫を見かけると、手に手に持ってきたカメラを構えては、それらの猫々を写真に収めるのだった。
とうとう乳房と羽は見つからなかった。どこかへ揃って飛んで行ったかと思われた。撮影した猫はどれも目ばかりが異様に光っていた。その写真は彼らの間では価値があった。
ある日、少年たちは女の魅力が確かに減じていることに気づいた。彼ら自身にとって主観的に女主人の魅力が減じているのである。各々その理由を自省してみると、やはり彼女に乳房がないためだった。
「残念なことだ」
星の多く見えたあの日、一夜にして女が分解され、その諸要素を継ぎ合わせても完全にはならず、とうとう乳房と羽が失われたままであることは周知されていたが、そのために彼らからその女に対する好意まで減っていることは彼ら自身にとって意外だった。
「僕らは、どうも、即物的のようである」
理想的な人物を設けずにはいられないほど彼らは意志や心が不安定だった。彼らは自身の即物的な性質を認め、しかし女の不完全さを認められず、女の乳房を丹念に探した。
女の膨れていた腹からは、海水でできた生身の男児や女児が幾つか出た。出産ののち、それらはすくすくと育つのである。少年たちが子育てを助けた。乳母を複数連れてきて乳飲み子らに乳を与えてもらい、それらの乳母に少年らは恋心などを寄せた。屋敷の中は全く生殖用の巣となり、女主人は退屈した。彼女からは一般的の母性的愛情なるものがその乳飲み子らに対しほぼ内発しなかったのである。だが子供たちは生きることに熱心で、その声は日々盛んに女の頭の中へ響き渡る。果たして女は頭痛を感じた。汚染された少年はぼんやりした、他の少年たちや子供たちからも離れていた。彼が思うにきっと子供たちにとって必要なのは全うな大人であり、不完全なものである彼自身は子らからよく距離を置くことが適当だと思われた。
他の少年たちはそれぞれ遠くの郷の人々と文通していた。家族とは別に友人がいたのである。汚染された少年はそういう相手はいなかった。彼が過保護にした猫はえさの食べすぎで太ったり非常に柔らかな体になり死んだりする。ある朝、彼は屋敷の前のポストにメス鳥が入っていることに気づいた。
メス鳥はポストの中で卵を産み、その卵には雛とともに手紙が入っていた。汚染された少年にとって、その小汚い手紙が自分宛のように思われた。紙は血や液でぬめり湿っていてしわくちゃで字も読みにくく、紙を乾かして伸ばしても読めなかった。鳥に事の次第を訊いてみると何かチーチー言っている。よく聞くと海の向こうで一組の乳房が見つかったと言う。
少年たちにはそれこそ女の失われた乳房だと思われ、屋敷じゅうの少年らが船に乗れるだけ乗りこみ大陸へ渡ろうと海に出る。途中、渦巻いた潮に飲まれ命を落とし、彼らのパーツが山のように砂浜に打ち上げられた。
以降も少年たちを乗せた船は繰り返し大陸を目指して出航する。けれど、どの船もみな海に飲み込まれ、打ち上げられた少年らの部品の洗濯と修理作業が日々続き、果たして屋敷の中が磯臭くなった。
(いっそ空を飛べたらいいのに)
女は今の自らにある扁平な胸について、これはこれで良いとも思いつつ、そういう受け入れ方をしながら、窓辺で美しい猫が撮られた写真を眺め、少年らに希望される自身の胸の思い出と、失われた羽の感覚を思い出す。かつて、ぱたぱたと空を飛び、そのさいおでこや太ももに風が当たると寒かったなと。
少年たちは沢山いるのに一人も羽のついた者はいない。生まれ育った子らにも羽は生えていなかった。
(残念である)
ポストに暮らすことに決めたと言うメス鳥は、暇な時には屋敷の窓辺まで来て、女主人を相手に世相について囁くのだった。鳥は、女主人の乳房と羽を今もっているであろう者が別の女であり、その女は大陸に建つ城の主であるという。女は鳥の小さな脳髄に自分の知らない情報が詰まっていることが不思議だった。鳥はその女主より行動範囲が広いのである。鳥いわく城主の女は凡その人々と同じくらい、自分を最も正しい者の一人だと思っている傲慢者で、美々しい少年らを家来にしている点でも屋敷の女に似ているという。それを聞いて女主人は嫌な感じを覚え、その城主の女に電子メールを送った。
『こんにちは、はじめまして。突然ですが私は東の島国に住む者です。実は、先日ふらふら外を歩いていましたら、強い風によって体が分解し、そのさい胸のパーツと背中の羽を失くしました。それ以来あんまり気分が晴れません、肉やたんぱく質を摂るようにしたら気分は回復してきましたが、肉体自体が元に戻るわけではなく、どうしても胸と羽が足りません、鳥などを食べても自分のものになりません。今日、そちらに私の胸と羽があると聞き、連絡をさしあげました。妙な鳥から聞いた話なので、いささか信用できずにいますが、本当のことなのでしょうか。もしそうなら返してほしいのです。返信を待っています』
返事はすぐに来た。『こんにちは。こちらは西の大陸のお城に住む者です。その鳥が言ったことは当たっています。たしか先月のことでした、私もこちらの砂浜をふらふらと歩いていたら、ぷっくりしたものが目に映り、それは一組の美しい乳房が流れ着いたもののようで、普段じぶんはあんまりそういう、ごみ拾いみたいなことはしないですが、とてもきれいなものでしたから、拾って洗って身につけました。今はこれをとても気に入っています。羽も拾って洗って飾ってあります』
『返信ありがとうございます。そうですか、それはたぶんきっと私の胸と羽だと思いますから、返してもらえませんか。まず、本当に自分のものなのか確認したいので、その胸と羽の画像をこちらに送ってください。手間や時間をかけさせてすみません。よろしくお願いします』
画像が送られて来た。それは屋敷の女の胸と羽そのものだった。
『ああ、確かにこれは私のパーツです。ぜひ国際便などでその実物をこちらに送ってください。送料や謝礼はかならず払いますから』
それに対する城の女からの返事。『うーんさてはて。そうすることが道理のようですけれども、私にとってはこの胸がもうだいぶ気に入ってしまっています。この胸の肉があることがすでに私の習慣になっています。なので申し訳ありませんが諦めてください』
『そこをなんとか、羽だけでも』
『しつこい』
それきり城の女は屋敷女からのメールを受け付けなかった。屋敷の女は忌々しい思いにかられた。
(なんて傲慢な人だろう、欲張りというか身勝手という点でも、私とどっこいどっこいである、いけ好かない)
かたや城の主であり自身は屋敷の主であるという違いからも両者の資産規模の差が感じられ、彼我の人間自体の価値や所有権の強さ確かさにも隔たりがあるように思われて、屋敷の彼女は憤りを感じた。遠方の隣人に対する反発心や譲れないものを感じた。あちらもこちらも女であれば、きっと女であることを止そうとはせず、自らが思うような女でありつづけることについて妥協はできそうもなかった。だから乳房を返さないつもりなのであろう。女にとって女であることはとうとう生きることそのものなのである。
そして男の存在意義は女と出会うことであり、果たして屋敷の少年たちは彼らの女主の部屋にふらふらと来た。半分が寝ぼけているのであるが、女主は彼らを改造しようと決めていた。女らしいパーツを強い心で得るという欲望を、遠い城主の女から吸い込んだので、少年らを手段として自らのパーツを奪い返そうと思う。要するに「海の向こうにある大陸の城まで飛んでいき憎らしい相手からその胸肉と羽をかっぱらって来い」という趣旨であった。片っ端から彼らを改造し、肩甲骨や腕の関節に無理やり鳥獣の羽をつけようとすると、少年たちの血が盛んに流れ出し、悲鳴は外まで聞こえた。ぎゃあだの痛いだの怖いだのと。
彼女は物事に好き嫌いはあるが自他ともに認める常識人だとも自分で思いこんでいるため、他人に対してはそういう改良じみたことはしないが、屋敷内の少年たちに対しては過度な支配を及ぼすことにためらいがなかった。彼ら少年たちにもまた被支配欲があり、しかし加工されることについては痛そうだ思い、怯えた結果、屋敷の中や外を駆け回って泣いた。
何日間か女主人は手術道具を持って屋敷内を巡り、少年らは手術下手な女から見つからないようびくびくと逃げる。
ただ一人変質者から性的虐待を受けた少年がぼんやりと静観していた。その場にいてもどこにいてもくつろぐことのない彼は硬くなって座り、寝る時も身は硬く、動く時もぎくしゃくと硬く動いた。彼は女主人から逃げずに捕まり、みるみる改造された。されるがままだったが、羽を植えつけられても一向に飛ぶ気にならず、意欲が湧かなかった。羽ばたいても自然の風を捉えられない。羽も飛行も根付かない彼は、一人の出来損ないの人間のような人形として一人自ら鍵をかけた部屋の中に入り、猫や猫の写真と一緒に眠る。
女主は孤独に陥った。一切の人望を失ったのである。
(ざまのないことだ)
窓辺で彼女は自身を冷たく笑う。不完全な自分はやはり人望もないのだということを確認する一人遊びの完了である。年に一度は大々的に行うことであり、その繰り返しが彼女の交際範囲の縮小に寄与していた。
唯一残った人間関係と言ってよいであろう屋敷の少年たちとの仲を犠牲にするほど、自身の胸の肉や羽は特に必要なものではなかった。単に彼女は海の向こうの城の城主とやらがいけ好かない女だから苛々したまでである。
「この頃、あの人、へんだよね」、少年たちは浜辺で女主人の批評をした。「おっぱいが、なくなって以来、おかしくなってるようだ」「更年期による心理の障害なのだろうか」
その日の海は静かだった。ほとんど凪いでいる。波打ちぎわに泡のような小波がひそひそと寄せては、砂にしみじみと吸い込まれていく。少年らは屋敷から海辺へぱらぱらと向かい、たどたどしく歩いていって、砂の上に置いたパイプ椅子に座り沖を見つめた。海の向こうにあるという女の乳房に思いを馳せながら。
ふと、少年の一人が重心を後ろに引き、椅子が傾いた。彼の足は宙に浮き、四本ある椅子の脚のうち後ろの二本だけが砂に刺さっている。
(ああ、こけそうだ)
近くにいる少年たちも本人もそう思った。彼はそのまま椅子ごと後ろに倒れるだろうと思われたが、少年は両脚を意外なほど長い間ばたばたさせ、やがて空を飛んだ。
(どういうことだろうか)
他の少年たちは疑問に感じた。すると分かったことがある。どうやら砂の上で椅子に座ったまま後ろへ倒れこむと、地面へ倒れる前に両脚が羽のようになり、後頭部からは嘴が生え、椅子の二本脚は鳥の足に変わり、果たしてその少年と椅子の全体が一羽の鳥になり後方上空へ飛び立つのである。そういう仕組みなのだった。
(自然とは不思議な面を持つものだ。これなら大陸にも飛んで行けるかも知れない)
少年たちは幾分感動し、自分と椅子と砂浜の法則を理解し次々と椅子に座り、後ろへ倒れこむと鳥になって飛ぶ。
その様子を屋敷の窓辺から女が眺めていた。
(なにやらへんなことをしているな……)
外科手術は痛そうだし痛いから嫌がる彼らだが、彼ら男性はとうとう女という女の補助的な生き物なのである。彼らは住み慣れた巣にいる女の幸福のためにその身を尽くし、また新たに出会う女のためにも飛翔に励むのだった。情熱的である彼らに女主人は共感せず隔絶を感じた。
(残念ながら彼らは半ば鳥獣である。つい最近までの私のように理性の少ない羽人間か)
彼女は人間性を求めたのである。だが鳥になった少年たちは海の向こうへ群れて飛んでいく。女が与えた羽ではなく彼ら自身が見出した羽であることが女主の気分を損ねた。彼女は彼らの自由が嫌いだったのである。
屋敷には少年が一人もいなくなり、子供たちも巣立った。女は空腹を感じたので箱の中から肉を出して半分だけ食べ、あとは暇になったので廊下の掃き掃除をする。殆どの回廊が清められると、彼女は自身や環境を御することができていると感じた。
それから昼下がりに女は椅子を持って雪の上を海辺へ向かって歩いていく。風はない。波打ちぎわに座り、少年らがしたように後ろに倒れこみながらじたばたすると全身が鳥のようになって飛んだ。
(思うがままの事態だ)
やってみたかったのである。予定した通りに事が運んで彼女の気力が充実した。海の向こうに住むという女城主の頭に糞をかけに行こうかと思った。けれど南の方へ向かった。そちらの方が温暖な気候だと思ったからである。彼女は寒いのが嫌いだった。
女は湯が湧いている所を見つけ、そこに降りていって湯に浸かり、旅籠に一泊して疲れを充分に落としてから屋敷に帰った。少年の何人かも帰ってきていた。女はあくる日も海辺から空を飛んでは少年たちと方々の湯船に降り立って浸かる。
そんな行楽が習慣化したある日、女は湯のそばで美々しい男を見かけ、それに触れると心地よく、嗅いでみても味をみても快美であるから、その男を一時買い、彼の子種を得た。
果たしてどうなるかなと思ったが、果たして女は懐妊し、そのまま飲み食いし眠るうち胸には乳房が立ち現れる。屋敷の少年らは殆ど全員が大陸から帰ってきて、ほこほことその乳を見て触れて喜ぶ。彼らは大陸の女城主と遊び飽きると、何も持たず帰ってきたのである。
屋敷の女主から自生する乳房を見て喜んだ彼らは、寡黙なのであえて言葉には出さないものの、各胸の内で「懐かしい乳房が復活したものである」と寿いだ。彼らはきっと乳房を好むのだったし、それから銘々息荒く各々の寝床で横転した。可憐な自慰をしたのである。
女主人は妊娠によって心がしばしば乱れた、ある日に少年らへ男の拉致を命じた。湯の近辺で見つかった美々しい男が一人屋敷に連れてこられ、彼は空飛ぶ少年たちにびっくりし、また屋敷の中に少年が大勢いることにびっくりした。女は一つのお守りとしてその男がどこにも行かないよう釘を刺した。安産祈願である。何体もの男が拉致されては釘を刺された。
それが習慣になり、女は少年らに命じて方々から男を持ってこさせ屋敷の内壁に美々しい男たちの標本を作った。孕んでいる女は嗅覚が鋭敏化し、男たちの死臭が鼻につくとそれらの標本を全て焼き捨てた。
拉致をする際、少年らは特に人目を忍ぶということをしなかったので、自然と通報する者が現れ、女主人は治安員に逮捕された。彼女は美々しい男の子種に基づいた子を拘留中に出産した。それが良い子に育つようにと、他者の客観的の判断で別の人に育てられた。少年たちは保護され、分解された。無数の少年らを他者や世間はもてあましたのである。彼らは無言なので実際たんなる人形のように見なされた。
「本当は分解などされたくはないのですよ」と少年の一人が恨み言を述べると、分解する係の人は手を止め、少年らを組み立て直した。そして道徳や勅語を彼らに言い聞かせた。拉致もしてはいけないのである。女が禁固刑に服している間、少年らは彼女に栗を運んだ。栗は食べ物である。女が寂しがっていると思ったからだ。女はその栗を貰って少し喜んだ。
彼女の禁固刑は数十年だった。その間に少年らのしていた事は、ただ栗の運搬ばかりではない。彼らは女主人の乳房のみと会いに大陸にまで決死の思いで飛んで行き、そこに住む美しい女城主のもとでしばしば遊んだ。女というものだけが彼らの動機となったのである。
その城は大陸の寒い地方に建っていた。秋にはその城に住む少年らと、屋敷から飛んでくる少年らが協力して栗を拾った。女城主もついて行った。それは冬の間に食べる栗だ。小道を女城主と少年らは袋と火バサミを持って歩く。いがぐりを挟んではぽいぽいと袋に入れる。恐ろしい熊が近づいて来ないよう、彼ら少年らは涼やかな声で歌った。
女城主はそうしていると気分が良かった。客観的に仲間が多くいるように見えるためだ。そこいらの民はその女城主を好いておらず、白っぽい城に住むその女がまるで寒気を招き寄せているような気がして好かなかった。彼女は人に嫌われることを好かなかったので、身近な少年たちや遠くから飛んできた少年らに好かれることを幸福だと感じる。
その女城主は海辺で拾った乳房を耳あてに使っていた。そうすると顔の両脇が温かいし、他人の罵りや悪口を聞かずに済んだ。羽は城の少年たちの玩具になっている。栗拾いの後、彼女は城の奥で横になった。それからまんじりとする。色々の少年たちが城のあちこちで健康そうに遊んでいる。それは賑やかだが彼女の耳は乳房で充分に塞がっているので何も聞こえない。
時計のない城なのでどのくらい寝たのか知らなかった。良い匂いとともに彼女が目覚めると、屋敷から来た少年たちが栗を焼いて食べている。冬がまだ終わらないのに全ての栗が彼らに食べられ、城の主と少年らは激しく怒った。屋敷の少年たちはどこ吹く風という様子で口をとんがらせ、歯間から栗の欠片を小指の爪で取り除いてはぼんやりとした目でげっぷした。罰として羽をむしられ、城を追われた。彼らは特に後悔することはなかったが、栗ばかり食べ過ぎて宿便になった。その腹の痛みは激しかったので、後悔や罪悪感が湧いてきた。
(もう、あんなことはしません)
彼らは目を閉じて口の中で何者かにそう約束し、城の近くの店でトイレを借り、半日がかりでようやく排泄をする。その際はけっこうな量の血が出た。痛い思いをしたので彼らは自らに栗の食べすぎ等を戒め、城に戻る。女主と少年らに謝罪し、再び飲み食いしながら遊んで暮らす。
たまに彼らは栗を持って港へ行き、そこから船で島国へ渡り、しばしば難破しつつ獄中の女主に栗とともに水を届けた。便秘にならないように水分も添えたのである。女は文庫本を読んでいた。特に変わった様子はなかった。ただ栗と水も良いがハムも食べたいと言う。少年らはその要求を聞いては覚えすぐに忘れた。忘れまいと思う事と忘れまいとする内容を忘れる事がひとまとまりの習慣となった。
彼らはその女がなぜ禁固刑を食らっているのかも忘れている。見知らぬ男どもを拉致し釘付けにして死なせたためであるが、彼らを実際に拉致したのは少年たちであり、屋敷の壁に釘づけにする作業も少年たちがやったものの、拉致する際に男を眠らせたせいもあって一連の作業は人が相手だという感じを少年らに与えなかった。人形が人形の自由を奪ったまでのことのように感じられた。よって女も少年も罪の意識はなかったのである。
実際には男どもは眠らされていなかったし、釘が刺さってもしばらくは起きて生きていたのである、屋敷で驚きの声も挙げたのであるが、少年らと女はそうした人間的の情緒表現に応じるための面が眠っていて、男らがいくらその苦しい情緒を表現してもそれに対し感応することが少なかった。ただ一人被汚染者の少年だけがその男どもの悲鳴に興味深く耳を澄ませた。
ハム