この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

この物語は、復讐に囚われた少年が、偶然出会った少女との関係を通じて真の家族の意味を学ぶ現代心理小説です。

主人公の炭咲は、幼い頃に父親の野望によって母と妹を失い、事故の影響で両腕が木炭と化してしまいました。十四歳まで復讐だけを生きる目的として孤独に過ごしてきた彼の前に、ある日突然現れた少女。彼女もまた、誰かに捨てられた子供でした。炭咲は彼女に「ステラ」(捨てられた子という意味)と名付けます。
この作品では、超自然的な要素を含みながらも、人間の内面的な成長と家族の絆を中心に据えて物語を展開しています。炭を操る能力や神の存在といった幻想的な要素は、登場人物の心理状態や精神的な変化を象徴的に表現する装置として機能しています。

特に、血のつながりを超えた家族愛、失うことの痛み、そして再生への希望というテーマを通じて、現代社会に生きる私たちが抱える孤独感や疎外感、そして人とのつながりの大切さを描きたいと考えました。

炭咲とステラ、そして各務アリマとの三人の関係は、現代の家族のあり方を問い直す契機となるでしょう。束の間の幸せと深い絶望、そして最終的な救済へと向かう物語の流れを通じて、読者の皆様に何かを感じ取っていただければ幸いです。

文学的な深みと現代的な感覚を併せ持つ作品として、幅広い読者層に訴えかける普遍的なテーマを扱っています。純粋に読書を楽しむ場である星空文庫で、静かに物語と向き合っていただければと思います。

第1話

 昨夜から曇った空は、春を告げる三月だというのに街の上に雪を降らせていた。その雪は灰色よりも(あわ)く、白よりも濁った色をしていた。寒さが(ただよ)う朝の空気は、街中に少しずつ積もる雪とともに人の肺を痛めた。

 普段なら街を一望(いちぼう)できる坂道を、いつもの調子で歩いていた。しかし雪のせいで駅にたどり着くまでの時間が倍近くかかっている。そのため、僕は時間に間に合うかどうか心配になってきた。念のためスマートフォンから乗換アプリを開いて、次の電車の到着時間を確認した。

 突然の降雪で数分の遅延が発生しているようだった。僕は深く息を吸って吐き出した。仕方がない、と思いながら雪に覆われた街を眺めた。

 前方には高層ビルが林立(りんりつ)し、地平線の彼方まで続いている。振り返ると、同じくらいの距離に巨大な桜の木が東京の中心部にそびえていた。あの桜は、百年前の大洪水の時代に各地で小さな苗木として発見されたもので、いまだに原産地がわからない日本固有の落葉樹である。

 今年の春も例年と同じように、巨木から咲く数百万の花びらによって、都心から半径十キロ圏内には花粉飛散警報が出される予定だ。そう予想していた割に、なぜか三月に入ってもまだ積雪注意報が出されている。春を楽しみにしている人々には気の毒な話かもしれない。受験生である僕にとっては、残念ながら試験当日の朝に雪が降っている時点で邪魔に感じるだけだった。

 「いらっしゃいませ——」

 眠そうなアルバイト店員の声を背中に聞きながら、僕は早速おにぎりコーナーに向かった。最近、唯一の楽しみといっても過言ではないほど、朝と昼に『大きな鮭はらみおにぎり』を食べることに夢中になっている。

 他のおにぎりと違って、大きな鮭はらみおにぎりは三日連続で食べても全く飽きなかった。魅力はその充実した味にあった。初めて一口かじった時、舌先に伝わる鮭はらみの脂ともっちりしたお米の食感に驚き、噛めば噛むほど濃くなる味にさらに驚かされる。ここに加えて、おにぎりでのどが詰まった時に牛乳をごくごくと飲み干すのが重要なポイントだ。少し塩味が中和された状態でもう一度おにぎりを口に入れることで、口の中からのどの奥まで滑らかに流れ込み、胃に到達した時の満足感が全身に広がる。

 もちろん、今の話はあくまで個人的な好みに過ぎない。しかし、牛乳は米の味を水のように流してしまわず、炭酸飲料のように味を消してしまうこともなく、本来持つ甘みを引き出す力がある。

 他のメニューでは味わえない食感を味わってしまった以上、僕の体は毎食この組み合わせしか受け付けなくなってしまった。さらに、普段は百九十二円だった大きな鮭はらみおにぎりが、今月に入ってから割引セールの影響で九十九円に値下げされている。これだけの理由があれば、大きな鮭はらみおにぎりと牛乳を選ぶ理由は十分だった。

 「ポイントカードと袋はいりますか?」

 「いえ、いりません。お会計はSuicaで」

 僕はレジで会計中の客を通り過ぎ、正面に見えるおにぎりコーナーに目を向けた。コンビニに入った瞬間から、これから買うおにぎりを大きく一口かじる想像をして、口の端からよだれが垂れそうになった。早く食べたい気持ちで胸が()った。

 しかし、おにぎりコーナーは空っぽだった。大丈夫だ、とまだ整理されていない在庫の箱を眺めながら、僕は希望を抱いた。アルバイト店員に気づかれないよう青い箱に目を向けて中身を確認する。ちらっと見た限り、『大きな鮭はらみおにぎり』の品出しはまだのようだ。仕方がない、と失望しながら、残っていた卵入りサンドイッチを一つ手に取ってかごに入れた。

 「パゥパあぁ——」

 牛乳を買いに向かった先で、ある少女がドリンクコーナーのガラスに顔を押し付けて中を眺めていた。親らしい大人の姿は周りには見当たらなかった。

 僕は少女の隣に行き、しばらく様子を見た。ボロボロになった服装で、靴も履いていない素足は赤紫色に腫れ上がっている。頬はあかぎれを起こし、爪は血の気を失って白く濁り、足は霜焼(しもや)けで浮腫(むく)んでいた。

 まだ薄暗い夜明けの時間帯に、子供が一人でコンビニの中を自由に歩き回っている。上着を着ている僕でさえ、寒さが骨に染みる天気だ。さすがに女の子一人で、保護者もなくコンビニをさまようのはおかしな状況だ。

 したがって、疑う余地もなく、この子は十中八九、親に見放された捨て子——つまり、ノバナだ。僕は声を殺して一人でつぶやいた。

 長く見つめていたせいか、僕の視線に気づいたその子と目が合った。青緑色で薄く輝く珍しい瞳を持っている。だめだ、と僕は自分に言い聞かせた。せっかく休みをもらって準備したガーデンズ学園の受験だ。余計な仕事を増やしては本末(ほんまつ)転倒(てんとう)である。でも、なぜかさっきから僕に興味を持ったようにノバナが距離を縮めてくるような気がした。

 「すみません、何か問題でもありますでしょうか?」

 レジに立っていた若いアルバイト店員が、在庫のチェックリストを手に持ち、僕の方に近づいてきた。制服のネームプレートには『星野』と書かれている。

 「ノバナが店内にいます。かなり前からいたようですが、何か対応した方がいいでしょうか?」

 「あれ?ネコちゃんだ。ネコちゃん、また来たの?これ以上はうちも面倒見られないって言ったじゃない。まだ勤務時間中だから食べ物をすぐにはあげられないよ」と星野さんは慣れた様子で野良猫に話しかけるようにノバナに声をかけた。

 僕はその反応を見て、腹の底から湧き上がる怒りを抑えて、用心深く子供の様子を観察した。

 服装以外にもノバナの栄養不足が際立っていた。体はあばら骨が薄い布の上からでも見えるほど痩せている。寒さと乾燥で唇が割れて荒れていた。一日中、まともな食事をした様子もない。それだけではない。足元には適切な治療のタイミングを逃して自然に治った青あざがくっきりと残っている。他にも親から暴力を受けたと思われる傷跡もいくつか見受けられた。

 素人でも一目でわかるくらい助けが必要な子だが、周りから簡単に手を差し伸べられなかった理由は、おそらく鼻をつく臭いが原因だと思われる。数日間洗っていない髪に汚れと雪が混じって、触れただけで汚れが移ってしまいそうだった。とはいえ、このまま放置するには痛ましい有様だ。

 「お知り合いのノバナのようですね」

 「ええ、まあ。三日前から私がシフトに入っている時間帯に寄ってくるノバナです。二日前は店長がいる間にも来て、店の中を走り回って大騒ぎでした。店長が警察(バベル)に通報する寸前に捕まえて見逃してあげたのに、どうしましょう。監視カメラに映っているからもうすぐ店長が来ると思います」

 「バベルよりは、施設に通報すれば無料で引き取ってくれると思いますが」

 「やりましたよ。初日からずっと東京庭園管理(T G C)センターに何度も通報しましたが、毎回満員だからと言って断られました。このまま放置するのは可哀想だし、しばらくはシフトが終わる時間に合わせて食べ物だけあげていました」と星野さんは心配そうな顔をしてノバナを見つめた。

 すでに半分は関わってしまっている状況だった。しかし、今手を差し伸べるとすれば、正式にこの問題に関わることになる。仕方がない、と口癖のように心の中でつぶやいた。

 僕は連絡先から『小泉』を検索して通話ボタンを押した。

 「もしもし、だれですか?」

 「朝早くからすみません、小泉さん。東京支部のユニットⅡの三に所属している炭咲(たんさき)です。急で申し訳ありません。五分だけお時間をいただけますでしょうか」

 「炭咲くん?あれ、今日は休みじゃなかったっけ?どうしたの、こんな時間に。何かあった?」

 まだ寝ぼけている様子なので詳細な説明は後にして、現場の説明から始めた。「実はノバナを発見して電話しました。年齢は多く見ても十歳未満で、性別は女の子です。少なくとも一週間以上は放置されているノバナです」

 「能力(トゲ)の大きさや種類は?」

 「外見上は特に見当たりません。推測ですが、親からの愛情不足と栄養不足が原因で、まだ発現していない状態かと思われます。他の班が処分する前に、小泉さんの班で回収していただけませんか?」と僕は返答を待ちながら、店員に小声でここの住所を聞き、小泉さんに伝えた。

 「ありがとう、教えてもらった住所で場所が特定できた。今から出発する前提で四十分ほどかかるかな」少し沈黙が二人の間に流れた。「よく考えてみれば、そうだ。今日はガーデンズ学園の共通テストがある日だよね?仕事して大丈夫?遅れてない?」

 特に仕事をしたわけではないので小泉さんには問題ないとごまかしておいて、コンビニまで安全運転をお願いした。言われなくても気をつけるよ、と軽くたしなめられた。

 「あの、すみません。まだ勤務時間中なので私はこれで大丈夫でしょうか?」

 「電話が長くなってすみませんでした。もうすぐTGCの関係者がこちらに来る予定です。それまでこの子を預かっていただけますか?」

 協力してくれたものの、業務に支障が出て困った顔をしている。気持ちはわかるが、せめて子供の前では見せてほしくない表情だった。星野さんは小泉さんの情報をメモした紙を受け取り、ノバナをスタッフ専用の休憩室に連れて行った。星野さんがノバナを休憩室に連れて行く前に、僕は自分の赤いマフラーをノバナに巻いてあげた。

 気がつけば自分一人になっていて、内心すっきりしないものを感じつつも、次の電車に遅れると受付時間に間に合わなくなってしまう。後は小泉さんの対応を信じて、急いで駅に向かって走った。

第2話

 「ガーデンズ学園に訪問してくれた受験生の皆さんは、各自の受験番号を確認し、先生の案内に従って入場をお願いいたします」

 電車の遅れで、僕は骨抜きにされたような状態でガーデンズ学園の最寄り駅に到着した。狭い車内で缶詰のように圧迫され、時間ぎりぎりまで満員電車に揺られたせいで、駅に降りてから歩く気力すらなくなっていた。

 しかし、地獄はまだ先にあった。

 駅の改札口からガーデンズ学園までの広場は、蟻の行列のような人波で混雑していて、前へ進むのもひと苦労だった。

 僕が判断に迷っている間、後ろに並んだ三人家族の会話が耳に入った。

 「すごいな、相変わらずここは人が多いね。先にここで記念写真でも撮ろうか?」

 「正気なの?嫌よ、絶対撮りたくない。撮りたければ、お父さん一人で撮ってよ」

 「冷たいな。どうせここから校門まで、途中で止まれないぞ」

 「それでも嫌です。もういい、お母さんと先に行くね」

 母娘(おやこ)は父親を残して改札口を通った。仲の良い家族だ、と思いながら、僕も何気なく三人家族の後について駅を出た。

 外は予想以上に混雑していた。足を踏み入れる隙がないほど受験生とその家族で混んでいる。意思を持って歩こうとしても、ただ流れに身を任せて前に向かうしかない。気がつけば、僕もガーデンズ学園の校門に向かってのろのろと進んでいた。

 「ガーデンズ学園は毎年行方不明になる受験生をリスト化して公開しろ!進学を悪用して罪のない学生たちを誘拐する行為はやめろ!」

 息を抜いている僕に、見知らぬ中年女性が紙のチラシを手渡しした。紙には過去に共通テストを受けた学生の顔写真と名前が載っている。裏には連絡先と謎のマークが印刷されていた。

 「君も気をつけてね。ガーデンズ学園は一人で来た受験生を狙っているから」

 深刻な表情で僕を見つめる女性からは、子供を失った悲しみが滲み出ていた。みんなが受験生を応援するこの場で、この人たちは警告の言葉を囁いている。その気持ちを理解できる僕は、渡されたチラシを捨てずに、鞄の中にしまった。

 ガーデンズ学園が失踪事件に関わっているという話は、最近ネット上で炎上している有名な都市伝説の一つだ。ほとんどの人は古い噂話だと笑い飛ばすが、実際にここ二年の間、かなりの人数がガーデンズ学園に関連して行方不明になっている。

 TGCの問い合わせ窓口にも、毎年この時期になると似たような捜索願が届く。普通の能力を持った一般生徒から、将来を嘱望(しょくぼう)されていた特殊能力(トゲ)を持つ受験生まで、様々な子供たちが同じ日に姿を消している。

 依頼はいつも失敗で終わる。そして、失踪者の両親に頭を下げて謝罪する。まるで犯人の代わりに謝るように、何度も繰り返して謝り、すべての恨みを全く無関係な僕たちが受け継いだ。

 当時を振り返ると、あれは犯人を捜すレベルではなかった。本当に神の手が子供たちを隠したように、受験生の遺留品も犯人の痕跡も、どこにも残っていなかった。

 ある日、僕は仕事帰りの道で奇妙な錯覚に襲われた。最初からこの世に存在しなかった相手を探しているのではないか、という忌まわしい現実を想像した。その影響で、三月は憂鬱になる日が多い。

 バベルはこの件について、未だに公式なコメントを出していない。結局、責任を負う人のいない世界で、被害者だけがあの日に縛られて、心から苦しんでいる。

 「あれ?なんで赤ちゃん一人でここに来たの?パパとママはどこ?」

 鼻に馴染んだ匂いを感じると同時に、スマホが鳴り始めた。父親(あいつ)からの電話だった。僕は着信名を確認して、そのまま終了ボタンを押した。電話が切れて数秒後、メッセージが届いた。

 『試験が終わったら電話すること。近いうちに本社まで来ること。断る場合は来月から実家に戻ること』

 僕は目的がはっきりとした短いメッセージを無関心に見つめた。まだ施設にいた頃、月に一回の研究目的での採血が嫌で、父親の言いなりにならず、反抗的な態度を取った時期があった。反抗といっても、注射針が火傷の跡に刺される痛みが嫌だからやめてほしいと頼んだだけだった。

 父親は僕の願いにこう答えた。

 「お前にしかできないことを他人に押し付けるな」

 それを聞いた僕は自分を責めた。「馬鹿、お父さんはみんなを助ける仕事をしている大人だ。きっと、何か大きな計画があるんだ」

 言うまでもなく、父親に大義名分に基づいた計画なんて初めからなかった。七年前の火事でママと華栄(カエ)が亡くなったのも、元をただせば、あいつの野望が引き起こした事件だった。結局、骨の髄まで自分のことしか考えない勝手な人間である。

 最近の連絡も今まで通り同じ理由があると思われる。既に他の女性と再婚して苗字も緑埜に変えた人だ。何の目的もなく、過去の汚点を人前に晒すほど、あいつは自分の損になる行動を取らない。きっと今回も僕の能力(トゲ)が目当てで間違いないだろう。

 「パッ、ハ!」

 僕を呼ぶような幼い女の子の声が聞こえてくる。振り返ると、コンビニで顔を合わせたノバナが、もみじのような小さな手で僕のズボンを引っ張っていた。瞳の色、見覚えのある傷跡、僕があげたマフラーまで、すべてついさっきコンビニで会ったノバナだった。

 小泉さんに連絡を取ろうとしても、彼女が来るまで待つには時間がなく、間もなく共通テストが始まってしまう。さらに困ったことに、ノバナのみすぼらしい格好を見て、人々がざわめいている。下手をすれば通報されて、今年の共通テストを諦める事態になりかねない。僕は急いでノバナに自分の上着を着せ、れた髪は余った包帯で軽く拭いてあげた。

 「あの、すみません。もしかして炭咲(たんさき)千春(ちはる)君ですか?」

 ノバナの影を慕って、顔の小さな女の子が声をかけてきた。僕の名前を知っている人は職場の人以外に少ない。しかも、僕よりも身長の高い女の子だ。どこかですれ違ったとしても忘れないような印象がある。

 「やっぱりさっちゃんだよね!久しぶり、元気だった?背は昔から伸びてないね。牛乳は相変わらず嫌い?」

 彼女は馴れ馴れしく、人の弱みをさりげなく突いてきた。

 「好き嫌いはダメだよ。ちゃんと飲まないと背は永遠に百五十センチのまま大人になるよ?」

 あの呼び方を聞いて思い出した。昔、同じ施設にいた同期が、確かに僕を「さっちゃん」と呼んでいた。名前は小麦だったような気がする。

 「あのね、一人だけ喋らせておいて反応くらいしてよ。ほら、見て。すごいでしょう。この一年間、頑張ってバストアップしたのよ?すごいでしょ。身長も百六十センチを超えて、最近はバレー部にも入ったからね」

 彼女は自分の体を誇らしげに見せながら、深々と頭を下げる。ここまで親しい関係だったかと、違和感を覚えた。一応、周りの視線を意識して軽く後頭部に手のひらを乗せてあげた。小麦はそれでも嬉しそうに笑顔を見せる。それを隣で見上げていたノバナが、小麦の笑顔を真似して同じような表情を作った。

 「ええ、この子ってなんでこんなに可愛いの?ねえ、さっちゃんのお知り合い?名前を教えて」

 無邪気にはしゃぐ小麦を無視して、僕は小泉さんにノバナの所在について連絡を入れた。また同じ状況に置かれた自分が情けないと思うが。また同じ状況に置かれた自分が情けないとは思うが、今の状況では子供と一緒に試験場まで入る方法しか頭に浮かばなかった。

 「パッ、パッ!」

 ノバナが両手を広げて抱っこを求めた。冷静に考えれば、学園の中には大人の先生たちが常駐している。せめて共通テストの間だけでも子供を預けることができるかもしれない。

 「お前も運がいいな」

 僕は冗談半分で言った。

 「お願いだから、連れて行くから大人しくしてくれよ」

 実際、子連れの受験生は僕以外にも何人かいるようで安心した。これで受験は問題なさそうだ。

 「あと、お前もそろそろ急いだ方がいいんじゃないか?もう校門が閉まるぞ」

 それだけ言い残して、僕はノバナと共に試験場に向かう行列に足を踏み出した。

 「ちょっと、ちょっと。久しぶりに会った幼馴染(おさななじみ)に『お前』呼ばわりは冷たくない?」

 とぼやきつつも、朝九時を知らせるチャイムが園内に響いた時。折よく校門が重い音を立てて閉ざされるところで、睨むように見つめている小麦の顔を後にして、急ぎ足で園内へ歩いた。

 校門を通ってからは、皆が平凡で目立たない様子で誰一人文句を言わず、じりじりと前方に向かって歩いている。無意識的に秩序(ちつじょ)を守ろうとする姿は、同じ道の上にいる人として絶景だった。ただ、遅れた人々の絶叫が容赦なく皆の足元で踏みにじられる光景は、多少歪んだ一面を人前に見せつける。運に見放された外側の人は、また来年の春か、もしくは秋入学を目指すしかない。

 「でも、会えてよかったと思う」

 小麦は歩く速度を僕に合わせて肩を並べた。

 「おはよう。さっきは私がいきなり声をかけて驚かせてしまってごめんね。改めて自己紹介させて。私は久城家の娘、久城(くぼ)美縁(こむぎ)です。みんなにはムギと呼ばれているから、好きに呼んでもいいよ」

 「おい、やめとけ」

 僕はノバナに自己紹介をしようとする美縁を止めた。

 「偶然知り合ったノバナに無責任なことはするな」

 「その割にはノバナちゃんが随分さっちゃんに懐いているね。マフラーも当然ながらさっちゃんの私物だし、今時のツンデレキャラ?」

 美縁に頭を撫でられる前に、スムーズに横に避けた。それを見ていたノバナも僕と同じ方向に頭を動かす。さっきから僕と美縁の行動をそのまま真似するような様子に不安を感じ始めた。気のせいかもしれない。

 「パッパ、パッパ!」

 ノバナが片手で僕の服の襟を掴み、どこかを強い意志を持って指さした。先頭に立った人の背中に遮られ、視野が確保できない状況にも関わらず、ノバナは前へ進みたいと駄々をこねる。

 何度も子供を落ち着かせようとしても言うことを聞かなかった。だからといって、子供が泣き出すまで我慢するには、自分の体力が持たないような気がした。僕は深くため息をついて、ノバナを下に降ろした。親代わりになりたいわけではない。最低限の人間関係で求められる礼儀を教えるだけだ。

 「子供だからといって、自分勝手な行動は許されない。分かったか?欲しいものがあるときは、まずお願いをすること。また、周りに迷惑をかけてはいけないから、わがままはほどほどにすること」

 僕は一文字ずつ丁寧に自分の名前をノバナに教えることにした。

 「あと、僕の名前は炭咲千春だ。た・ん・さ・き、ち・は・る。しばらくお前の面倒を見る人だ。名前くらいは覚えなさい」

 ノバナは真面目に僕の話を聞いているふりをして、自由に動ける状態になった途端、注意された内容を完全に忘れて、猫のような動きで人込みの間を走り回り始めた。出会って僅か一時間で、子育ての壁を感じる僕である。案外、子供という生き物は自分に素直なのかもしれない。

 「元気いっぱいな身のこなしだね。追いかけなくても大丈夫?」

 美縁がスマホでSNSの記事を見せてくれた。

 「そういえば、今年の受験生の中で花魁(おいらん)も紛れ込んだみたい。ほら、これを見て。今もファンの人が写真をアップしているよ」

 どうでもいい、と思った。僕は風になびく赤いマフラーを目で追いかけていて、彼女の声は意識の端を素通りしていった。

 「すまん、今なんて言った?」

 「君って本当に自己中心的な男だね。昔と少しも変わっていない。せめて人が話すときはちゃんと聞いてよ」

 美縁が拗ねた声で言った。

 「でも、久しぶりに会えて楽しかった。次は一緒に入学式で会えるといいね、チハル君」

 初めて下の名前で呼ばれたとき、頭の片隅から小さな違和感が膨らんできた。その正体を探ろうとして顔を横に振り向くと、美縁の声の余韻も消えて、元からそこには誰もいなかったような静寂だけが残り、背の低い見知らぬ女の人が僕を見下ろしていた。僕は息を呑んだ。

 「皆さん、ご覧ください。新吉原の花魁が受験生として試験場を通っています」

 誰かが叫び、人々がざわめき始めた。噂の人物――世間で最も話題となっている花魁の突然の登場である。興奮した群衆が一斉に彼女を見ようと一カ所に押し寄せた。このままでは人の流れに押し流され、群衆に押し潰される恐れがある。足元が不安定になり、前後左右から受ける圧迫で身動きが取れなくなった。押し込まれる時間が長くなるにつれ、息苦しさが増していく。それでも倒れないよう、必死に体勢を保とうとした。

 「パッ?」

 ノバナが空いた隙間からモグラのように姿を現した。手には何故か初めて見る高級な生地(きじ)を持ちつつ、僕を呆然と見上げている。

 「えへへ、パッパ」

 僕と目が合った瞬間、満面の笑みを浮かべた。

 へらへらと笑っている場合ではない。僕は一刻も早くここから抜け出さないと、呼吸ができなくて気を失いそうだった。まさに阿鼻叫喚といえる現場の状況で、わずかな時間差で生と死に分かれる。

 気がつくと、ノバナは僕の冷ややかな態度が気に入らなかった様子だった。大いに不満そうな表情で、赤いマフラーを僕の手首に結び付け、思いきり下へ引き寄せた。

 僕はその弱い外力で、体のバランスを崩して地面に倒れ込んだ。自分の体がかなり危険な位置に挟まれていることは分かっていたが、無防備なところへいきなり加えられた子供が引っ張る力によって、体勢が崩れるとは思わなかった。

 「いい加減にしろ。今はお前の遊びに付き合う暇がない」

 ノバナに怒鳴る前に、体の変化に気づいた。

 呼吸が、だいぶ楽になった。まだ人波の中にいる状況だが、上の方に比べれば足元の方はまだ背の小さい僕でも動けるほど隙間がある。この子はそれを知った上で僕を下に引っ張り出したのだ。

 勘のいい子だ、と僕はノバナの頭を撫でた。

 「あり——」

 大丈夫だと思ったのも(つか)()、圧迫に苦しむ人々が生きるために前の人を蹴ったり激しく押し合ったりし始めた。ここも安全ではないと判断し、うつ伏せの状態でノバナの後について移動した。ノバナはまた楽しそうに地面を這いつくばって、ゆっくり前方に進んだ。

 移動しながら、何度も人々の足元に背中と手の甲を踏まれた。痛みはなかった。着ている制服が擦り切れることも気にしない。脚の森の中から通り抜ける、ただそれだけを考えて両手足を激しく動かした。

 「申し訳ありませんが、安全のために距離を取って歩いてください」

 人々が自然と作った人垣に囲まれて、花魁道中が行われていた。中央を歩く花魁が外八文字(そとはちもんじ)の歩きを披露し、その豪華絢爛な姿に周りの視線が釘付けになっている。周囲の人々と同じように、僕も彼女の醸し出す洗練された雰囲気に魅了されていた。

 椿柄の入った豪華な着物、地面に引きずるほど長い裾、黒塗りの高下駄(たかげた)に映える白い素足――伝統的な花魁の装いが、この場に幻想的な美しさを作り出していた。

 「誰か、この子の保護者をご存じでしょうか?」

 その美しい光景に見入っていると、突然係員の声が響いた。慌てて振り返ると、ノバナが花魁の歩く道を遮るように走り回っていた。花魁も困ったような表情を浮かべ、周りの観客たちもざわめき始めた。僕は恥ずかしさで顔が燃えるように熱くなった。

 「おい!」

 叫んでもノバナは気づかず、代わりに周りの人から嫌な顔で睨まれた。それに対して言い訳もできないから、思わず大きく舌打ちをした。

 一方、ノバナは僕の立場など全く考えていない様子だった。花魁の着物の裾に隠れてみたり、慌てて追いかけてくる係員たちから逃げ回ったりと、まるで遊園地にでもいるかのような無邪気さだった。

 あれほど楽しそうに遊んでいる様子を見ると、無理に止めるのは可哀想に思えてしまう。だが、このまま放っておくわけにもいかない。保護者として何とかしなければと思いながら、暴走したノバナをしばらく見守った。そして、考えを巡らせた末、一つの方法を思いついた。

 「迷惑ばかりかけないで、いい加減こっちに来い。ステラ」

 周りのざわめきが一瞬で静まった。とはいえ、肝心のノバナは、まだ花魁の側で遊んでいる。まだ自分の名前だと自覚していない様子で、もう一度子供に向かって名前を呼んだ。

 「ス——テ——ラ」

 僕が名前で子供を呼ぶ間際に、ただの野花(のばな)に過ぎなかった子供は特に反応を示さなかった。

 「ステラ!今、お前のことを呼んでいる」

 その名を三度目で呼ぶ瞬間、僕の懐に駆け込み、捨てられた花は僕の(ステラ)になった。

 「パパ、ステラ?」

 ステラがずっと口癖にしていた単語は、本当は父親(パパ)のことだったようだ。ステラという名前を授けられたノバナは、嬉しい顔をして大人しく僕を待ってくれた。

 「愛らしいお名前でございますこと。お名前の由来をお聞かせいただいてもよろしゅうございますか?」

 絵日傘(えひがさ)の影から、花園にも稀な若い美人が一息届く距離まで歩み寄った。髪も黒くふさふさとし、白い肌と琥珀色(こはくいろ)の瞳が調和する顔立ちは、言葉を失うほど美の完成形に近かった。僕は一瞬前のことは忘れたかのように、名前の由来を目の前の女性に教えた。

 「捨てられた野花だから『ステラ』です。特に意味はありません」

 「あら?ご自身でお名前をお付けになったのですか?それも野のお花に?もしやこのままお屋敷にお連れして育てるおつもりでしたら、それはお止めになった方がよろしいかと存じます」

 意外な返答を聞いた花魁は、ステラの顔色を(うかが)った。僕は体を起こしながら服についた埃を軽く払った。

 「TGC所属の炭咲千春と申します。子供は共通テストが終わり次第、施設の方に送る予定です」

 ポケットから身分証明書を出して花魁に見せる。

 「今朝、家の近くで知り合ったノバナです。訳があってノバナの方から僕を追いかけてきた状況です」

 「にわかには信じがたいお話でございますが、とりあえず承知いたしました」

 花魁は手に持っていた小さな草履バッグからハンカチを取り出して唾をつけた。

 「もともと、ノバナという子どもたちは親御さんの香りがお体に染み付いている花童なのでございます。いつ、どちらにおいでになっても必ずお会いしに参りますので、もしかすると、炭咲さんを実の親御さんとしてお慕いしているのかもしれませんね」

 花魁は、汚れたステラの顔をハンカチで拭き、持っていたヘアバンドを使って髪も整えてくれた。たったの五分で、見すぼらしかったステラが別人のように美しく変身した。

 「女は愛らしさが武器でございますからね。常にお美しさを磨いておかないと、大切なときにご自分のお身をお守りできませんわよ」

 ステラにアドバイスを残す花魁だった。

 周りの目に気づくまで、僕は呆然とした表情で二人を眺めていた。

 「共通テスト管理局から、ガーデンズ学園の共通テストを受験する皆さんへお願いと、ご案内を申し上げます。館内での喫煙、客席内でのご飲食、及び同じ受験生への録音、録画、写真撮影はご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。また、試験場の出入りをする際に、携帯電話など音の出る電子機器は、必ず電源をお切りください」

 構内に若い女性の声でアナウンスが流された。それに気づいた人は、僕を含めて、アナウンスを聞きつつ、ポケットからスマホを出した。圏外、と画面の右上に表示されている。いよいよ共通テストが始まるのかと思い、周りの反応を見回した。ほとんどの人が慌てて困ったような表情をして、壊れてもいない携帯を叩き始めた。

 「ただいまより選別テストを十分間、実行させていただきます」

 再びチャイムが鳴り、選別テストという謎のテストが始まった。

 「周りの人や構内の施設に害を与えないよう、ご注意ください」

一瞬の静寂の後、アナウンスが校内に響き渡った。

 「間もなく選別テストが終了されます。構内にいる受験生の皆様は、その場で次の案内まで少々お待ちください」

 その瞬間、僕とステラ以外の全員が一斉に地面に倒れた。まるで見えない力に操られたかのようだった。

 この異常な状況に戸惑いながらも、僕は横たわった人たちの様子を確認した。呼吸は安定している。死んではいない。ただ深い眠りについているだけのようだった。安堵と同時に、なぜ僕とステラだけが無事なのかという疑問が頭をもたげた。

 僕は身の危険を感じてステラを抱き上げた。見渡す限り、半径二百メートル以内に意識のある人はいない。誰も起きない静寂の中で、次のアナウンスを待つしかなかった。

 やがて深い霧が白いベールのように地上を覆い始めた。視界が確保できない状況は、さらに不安を煽った。考えてみれば、テストが始まった時点から監視官の先生やスタッフが現場にいないことも不自然だった。

 ますます怪しい状況の中、僕は警戒しながら校門の方に向かった。もうテストの合否は重要ではない。僕とステラだけが残されたこの状況は、どう考えても異常だった。

 「パパ、あれ」

 ステラが指差した霧の向こうから、人の形をした何かの影が薄く姿を現した。人影を確認した僕は、他にも生存者がいたのだ——そう思った僕たちは、前方に向かって足を運んだ。

 だが一歩踏み出したその時、視界の先に一点の紅い光が尾を引いて街角を駆け抜け、煌めいて消えていった。急に気温が下がったかのように、全身に鳥肌が立った。一点だった光は二点に増え、同時に錆びた刃物がぎしぎしと軋む嫌な音が響いた。

 僕の心臓は、これまで経験したことのないスピードで鼓動しはじめた。幻覚でも夢の中でもない。現実の恐怖を目の当たりにした僕は、その場に凍りついて動けなくなった。

 突然、霧の中から奇妙な鳴き声が聞こえた。それとともに、視野を妨げていた厚い霧が薄くなり、その向こうに人ではない何かの輪郭が浮かび上がった。

 「パパ、あれ、何?」

 ステラの質問に、僕はなにも答えられなかった。麦わらで造られた普通の案山子が、肉眼で視認できるほどの距離にじっと立ったまま、ぽかんと僕の方を見つめていた。ボロボロになった紳士服を着ている。背中には大きな刃物を担いでいる。その姿 を見た瞬間、『庭師』という言葉が頭に浮かんだ。

 庭師?——なぜそんな言葉が浮かんだのだろう。薄れた記憶の奥から、過去の一場面を必死に掴み取ろうとした。
 
 断片的に、誰かの声が聞こえる。

 『未だに陽の炎を抑える力は庭師には…』

 そうだ。誰かが崩れた棚の下から僕を引き出して命を救ってくれた時の記憶だった。

 だが、かちんかちんと時計の針が動く音が記憶にノイズを入れた。案山子の内部からの音だった。その耳障りな音は、心臓の音よりも繰り返し頭の中に響いた。

 霧が消えた園内は暖かかったが、もはや軽やかな空気はなかった。すべてが静止し、辺りは死のような静寂に包まれている。

 僕は深呼吸をして、再び目の前の案山子を見据えた。うつろな両目は(かわ)きで周辺の光を吸い込み、しばし視線を交わしただけで、体が金縛(かなしば)りにあったように動けなくなった。

 立ち尽くしていると、ステラが頬をつねった。僕は何とも言い難い思いを抱えて目を瞑った。重い緊張に満ちた雰囲気に疲れと悪寒が体を走る。

 案山子を刺激するような大きな動きは避けた方がいい。僕はそう判断した。飾り物に近い無生物に対して、人間の常識が通用するとは思えない。

 しかし、相手が動かない限り、僕から先に仕掛けるのは危険すぎる。

 「パパ?」

 しまった。慌ててステラの口を押さえたが、既に案山子はハサミを背負ったまま姿を消していた。

 案山子の次の動きを警戒していた時、一瞬の隙を突いて刃物が僕の首筋に迫った。僕は半ば反射的に左腕で刃を受け流した。首を斬られる寸前で、腕に深い裂傷を負う程度で済んだ。

 僕はステラの目をマフラーで隠し、次の攻撃に備えた。案山子の振り下ろしたハサミを腕で受け止めた時、手応えは感じられなかった。麦わらの体で自由自在に振り回すには、ハサミの重さは軽くない。つまり、相手の動きには物理的な常識が通用しないということだ。

 正面から案山子の攻撃に立ち向かえば、生身の体が無残に切り刻まれるだろう。僕は両腕を前に構えた。

 後方から風を切る音が聞こえ、右側に身を避けた。足音はしないが、鉄の鈍い音で案山子の動きを察知できた。僕は体のバランスを崩した隙を狙い、案山子を蹴り倒した。そのままハサミを両手で掴む。

 一番邪魔になる武器を奪い取る考えだった。しかし、貧弱な麦わらの手に持たれているハサミを奪うことは困難だった。持ち運ぶ力が足りないわけではなく、最初から僕の手には負えない物のように動かなかった。

 僕が動揺している間に、案山子が隙に乗じてハサミの片方で攻め込んだ。重傷は避けたものの、出血を伴う切り傷を負った。今の状態で長期戦になれば、生身の僕に勝ち目はない。

 その時、腹部の奥に錆びたハサミが深く突き刺さった。何を考える間もなく、内臓を貫く激痛と共に、口から血が溢れ出た。痛みが脳を支配し、意識が遠のいていく。

 「おい、くそバケモノ。ようやく捕まえたぞ」

 両腕の包帯から黒い煙が静かに這い出し、人の肉が焼ける臭いが霧の中を取り囲んだ。

 血管を駆け巡る熱が、溶けた鉛のように体の奥深くまで染み渡る。やがて、既に負っている傷口が一斉に疼き始めた。火傷の痛みが、神経を通じて脳に鋭い信号を送り続ける。

 やがて奇跡が起こった。炭化してしまった腕の奥深くから、生命の赤い炎が宿る。その炎は希望の光のように見えた。新しい細胞が次々と生まれ、破壊された組織を修復しようと懸命に働いた。

 だが、その希望は束の間だった。同じ赤い炎が、今度は破壊の牙を剥く。生まれたばかりの細胞を、容赦なく燃やし尽くしていく。まるで左手が右手を食らうように、回復した端から破壊されていく。

 これは救済ではない。永遠の拷問(ごうもん)だった。

 外部からの傷に反応して、この地獄のような破壊と再生が僕の意思とは無関係に体内で繰り返される。止めることも、逃れることもできない。これが、一人で生き残った僕のトゲであり、呪いだった。

 一時的に体を動かせるようになっても、それは死刑囚に与えられた最後の散歩のようなものだ。炭化した腕の周りにある正常な細胞は、絶え間ない炎症に晒され、やがて焼かれた跡を残して壊死していく運命から逃れられない。

結局、回復の速度は破壊の速度に追いつかない。この能力は僕を生かし続けるが、決して救ってはくれない。永遠に死の淵で苦しみ続けることを強いられた、生ける屍として。

 もう後がない。これが最後のチャンスだった。僕は案山子の顔面を片手で掴み、麦わらが破れるまで力を込めた。

 「死ねえええ!」

 炭化した手のひらから爆発を起こし、麦わらに火の粉を放った。焼かれた顔は灰になった。有効なダメージを与えたと思うものの、案山子が僕の腹に刺さったハサミを抜き取った。

 大量の血が臓器の一部と共に腹から噴き出した。炭化した腕の燃焼も加速された。もはや痛みを感じる傷のレベルではなくなっている。しかし、これでバケモノを倒すための条件は満たされた。

 案山子は不気味な剣舞を踊るような動きで、ハサミを僕の首に向けて振り回した。首を狙って来るハサミを炭化した腕で弾いた後、神速で相手の下に潜り込み、燃え上がる拳で腹を突き抜いた。

 火は抑えようもなく麦わらの体に広がった。僕は息を切らしながら、一つ一つの(わら)が黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。

 僕は息を切らしながら、一つ一つの藁が黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。地面に落ちた僕の肉片は黒い燃えかすになっている。

 「もう大丈夫だ。驚かせてごめんね」

 周りに散らばった案山子の残骸を片付けた後、身を隠していたステラに優しく声をかけた。

 だが、まだ炭化した腕の奥から火の息が噴き出る状態では、ステラに危険が及ぶ恐れがある。僕は遠く離れた場所から、彼女の様子を見守った。

 「パパ?」

 「違う。まだ人を間違えてどうする。僕は一時的に君の保護役に徹するだけで父親ではない」

 「うう、パパ——!」

 ぐずつき、泣き出したステラは僕の懐に飛び込んだ。小さな体でも、父親を頼りにしてくれているようだ。僕は両腕を上げ、ステラが落ち着くまでしばらく待った。そして、早く自分の血で汚れた服を着替えたいと思った。

 「危険です!後ろに気をつけてください!」

 オペレーターの切迫した声が響いた。何かの勘違いだろうと思うものの、僕は不安な胸騒ぎを覚えた。突然、止まっていた時計の針がまた動き出す音が耳元に聞こえてくるような気がした。

 「アブナ…い、キヲツケ…て」

 振り向くまでもなく、後ろにある不吉な声の正体について薄々勘づいた。

 「パパ、あれ、ある」

 アンティークな懐中時計を中心に、一本一本の麦わらが絡み合い、少しずつ人の形を作り上げた。蛇が地を這う音が人の精神を悶々とさせる。

 僕はステラから離れて懐中時計に手を伸ばした。壊すつもりだった。しかし、予想外のところで邪魔が入り、動きを封じられた。相手は、気を失った受験生の一人、いや二人以上が、上半身だけ動かして僕の炭化した腕を掴んだ。

 悲鳴も唸りも出さない人々は、火傷の痛みも我慢してまで麦わらの本体には行かせなかった。腕だけでなく、足と腰も動きが取れない状態になった。

 この状況に違和感を覚えた。僕は目を凝らして人々の体にくっ付いた「何か」を掴み取った。蜘蛛の糸に似ている細長い麦わらの織糸が、人の身体を糸操り人形として操作している。案山子の能力か、それとも自然の成り行きか。一体僕は何者と戦っているのか、混乱を感じる。

 「キヲツケ…て——おニイチャン」

 「てめぇの口で言うセリフではないだろう」

 程なくして、もやもやとする記憶の隅から、あの夜の記憶が蘇ってきた。僕が命乞いで掴んだ足首は、七歳の子供の力では手に余るほど大きな存在だった。切ない嘆きは笑い事として扱われ、小さな手の甲に炎で熱した杖先で焦がされる。その記憶が僕の血を再び沸かしている。

 「まさか、てめぇも七年前に、あの場にいたのか?」

 父親が見捨てた僕の家族が火災で亡くなって以来、僕は今日に至るまで真犯人を探す毎日を過ごした。孤軍奮闘の覚悟でTGCでバイトしながら、七年前の放火事件の情報を集めた。そして今、その手掛かりを手に入れたことで感情が高ぶり、絶句してしまった。

 喜びとも恐れともつかぬ感情に腕が震え、脳内ではエンドルフィンが滝のごとく量に分泌されている。

 僕は思い切り舌を噛んだ。思ったより口の中から大量の血が出た。出血に続いて、傷口から勝手に再生と回復が始まった。炭化した腕の火力は段々高まり、腕を掴んだ人々が次々と目を覚まして、焼け爛れた肉体の苦痛で悲鳴を上げた。これで邪魔者は消えた。

 「バケモノだ。た、助けて」

 僕は我慢できないほど嬉しくて、満面の笑みを浮かべた。それを隣で目撃したある一人の受験生が僕を恐れ嫌がり、案山子がいるところまで這いずった。

 「私を、助けてください」

 そう言った後、生まれ変わる途中の案山子に体を丸ごと飲み込まれた。

 一人が飲み込まれてから、何人かの受験生が麦わらの中に吸い込まれた。案山子が人を飲み込むたびに、麦わらの形はより一層人間らしい姿になった。顔は男性のもの、身体は女性のものを借りている。そして残った最後の男の子を口の中に放り込み、太い舌で唇を舐め回した。

 「おはようございます。自分、あの方の花園を守護する案山子と申します。樹の一族であるあなた様にご挨拶を申し上げます」

 知能を持った案山子が人のように自己紹介の言葉を述べる。中途半端な人間の声で自分を語る格好が不自然で不愉快だった。

 「早速ご提案したいことがありますが、お二人様をあの方の花園から排除、いいえ、収穫してもよろしいでしょうか。できれば今すぐお願いしたいです」

 「図々しい顔で人を排除すると言い放つバケモノの話を聞く人はいないぞ。それより、てめぇは何者だ。なぜ、あの夜の華栄が話した言葉を知っている」

 「自分が、でございますか?とんでもございません」

 案山子が顔を横に傾けてこう言った。

 「まず一つ、案山子である自分は一人が全てであり、全てが一人であります。二つ、あれは庭師様があの方から授けられた聖火で、あなた様のような樹の一族をあの方の花園から浄化した聖なる行為です。三つ、あの方から盗まれた樹の一族は、あなた様が二人目です。よって、順次に収穫させていただきます」

 僕は黙って話を聞いた後、口を開いた。

 「てめぇは、バベルの所属なのか?それともどこかの研究所で作られた実験体なのか?」

 「自分は汚れないあの方の庭に属する存在でありながら、忠実な僕であります。どうか今後の収穫祭にご協力をお願いします」

 「ああ、やはりバベルだったのか。それで十分だ」

 僕は最後に大きく拍手を叩いて火の粉を起こした。

 「とりあえず、てめぇもあの夜僕が感じたように、藁にもすがる気持ちを味わわせてあげる」

 炭化した腕から響く清い鉄の音が校内に響き渡り、拍手を打った手のひらから火花が散った。身体中の細胞が焼かれる痛覚が神経に伝わり、血流が一瞬で脳まで駆け巡る。

 僕は手で前髪を持ち上げて、軽く後ろに流した。前方から案山子が駆け込んでいる。僕から相当離れていない場所に錆びたハサミが落とされている。僕はすかさずハサミを拾い上げて、近寄る案山子を斬るつもりで大きく横に振り回した。

 案山子は地面を軽く蹴り、華麗な足さばきでハサミの攻撃範囲外に避けた。

 「失礼、これは取り返していただきます」

 空中から慣れた手付きでハサミのハンドルに指を入れ、僕からハサミを抜き取って反対側に着地した。相手の動きに体が反応したけど、捕まえることはできなかった。

 体勢を立て直した案山子は、ハサミの刃を開いて二刀流として構えた。そして、案山子が僕から目を離して集中していないことに気づき、また違和感を覚えた。ハサミの刃は僕の方に向いているが、もう片方の刃の向きは定まっていない。

 注意喚起の目的とは言え、獣に近い案山子が人間の観点で動くはずがなかった。何か大事なことを忘れたような嫌な予感がする。

 「樹の一族を二人も同時に収穫できる日は珍しいです」

 ハサミが案山子の手を離れ、素早くステラの方へ向かった。高ぶった胸が一瞬でぎくっとした。今までずっと一人だった人生の中で、大切な人が敵の標的になるとは思わなかった。

 「ステラ、逃げろ!」

 僕の叫びにステラは笑顔で返事した。もう手遅れだった。間もなくあの小さい心臓に錆びた刃物が刺され、僕は絶望に落ちてしまう。あの夜と同じ恐怖を感じるだろうと思いながら、息を切らしてステラの方に走った。

 「パパ、逃げる?」

 片方の刃物が何者かによって弾かれ、空中で大きく回転した後、先の部分から地面に突き刺さった。皆が眠りに落ちている中で、他にも意識を取り戻した人がいた。僕は感謝を込めて手を振った。

 それを見たステラは元気そうにこちらに向かって手を振り返してくれた。

 「愛らしいお嬢さんに物騒なものをちらつかせるあなた様は、父親としていかがなものでしょうか」

 ステラの命を助けてくれた人は、同じ受験生の花魁だった。着物の裾が太ももまで大きく裂けていること以外は、それまでと変わらず元気そうに立っている。

 「すみません、おかげさまで助かりました。ありがとうございます」

 「まともにお勝ちになれるお相手でもないのに、なぜ喧嘩をお売りになっていらっしゃいますの?まずはお嬢さんのご安全をお考えくださいませ」

 「いや、まさか先に子供が狙われるとは思いませんでした。しかも、この子は僕とは無関係な他人です」

 「この愚か者が!お言葉の意図をお考えになってお話しなさいませ。敵からすれば、一番弱いお方から狙うのが道理でございましょう」

 言われてみれば筋が通る理屈だった。

 「何をぼんやりしていらっしゃいますの?さっさとお嬢さんのご安全を最優先になさいませ!」

 花魁に叱られる際も、僕の目は案山子を追っていた。これで相手の動きを予測できないことはよく理解した。遠距離でステラを狙おうとしても、花魁がそばにいる限り安全だ。

 地面に刺さったハサミの片方は、案山子より僕の方が近い距離にあった。案山子の心臓部にある懐中時計を潰すまでは時間が必要だった。案山子が油断するタイミングで火力を最大に上げた状態で案山子の体を燃やし尽くす。

 頭の中で案山子の動きをシミュレーションしてみた。目で見てから反応していては遅い。相手の動きを予想して一撃を与えないと、一生案山子にやられっぱなしになることは確かだ。

 僕は案山子が地面に刺さったハサミに目を向けた時を狙って、一歩目の踏み込みから全速で駆け出した。倒れた人々を飛び越え、案山子との距離を一息に詰める。そして、炎を込めた炭化した腕を相手の腹部に叩き込む。ここまでが僕が考えた作戦だった。

 「あなた様であれば、そう来ると思いました」

 電光石火の速さで、いつの間にか案山子の手元には二つの刃物が一つになり、僕の首を締め付ける寸前まで近寄っていた。さっきみたいに、ハサミの刃が合わさる部分に腕を入れようとしても、先に首が刃に触れてしまう。一方、速度がつき始めた足を止めても、加速した体はそのまま前へ進むだろう。

 「悪くなかった」

 僕の首はあっさりと錆びついたハサミの刃を受け入れ、綺麗に斬られて体から分離された。

 『君は生きろ。陽の計画に君の死はまだ先のことである』

 七年前の記憶が小さい点になるまで切り刻まれ、意識の底まで深く沈んだ亡霊の呪いを呼び寄せる。天地が逆転する間にモザイクの欠片が集まった走馬灯が僕の脳裏で駆け巡る。

 いよいよ幕が降りる時間だ。

 ステラには本当に悪いことをした。生への未練なのか、あるいは虚しい死に対する後悔なのかは知らない。いずれにしても、僕には最後の祈りすら許されていないだろう。

 万が一の奇跡が起きて、もう一度やり直せるチャンスが与えられる場合は、一生懸命ステラの親を探してあげよう。

 そんな情けない後悔を呟きつつ、僕は闇に落ちた。

第3話

 何もない空間に僕一人が立っている。漆黒の天井に不慣れな光が漂い、暗い色の壁が周りの灯りを吸い込んだ部屋。その代わりのように、扉の隙間を縁取る赤い燐光(りんこう)が部屋の陰に混じって、ほのかに輝きながら波静かに揺蕩(たゆと)っている。

 朦朧とした意識の中で、ふいに目の前の景色により黒い影が光を遮った。扉の前で執拗に部屋の中に入ろうとして、やがて断念したように姿を潜めた。

 心の中で生じる不安にドアノブを握り締めた途端、手のひらが焼かれる痛みを感じ、すぐ手を放した。肌は黒く硬張り、だんだんと血の気が引いていく。かすかな不安が心をよぎった。

 しばらくして火の面影が立ち上がり、絶えず部屋の中に消えない懸念を放り込む。蟻のように心と体を虫食みながら、由来も知らない脅威が胸を揺れ動かした。

 憂いに沈んだ心は、いても立ってもいられぬような感情で満たされ、心臓の鼓動は高まっていく。自らの頭脳の延長上に新しい幻覚を築き、そこに偽りの息を吹き込んだ。

 暗澹(あんたん)たる気持ちと共に差し迫った危険を感じる。感情が沸き立つ際に、目の前の扉を潰す勢いで体をぶつけた。だが、確かにそこにあった扉は、僕の体が触れた途端に石の壁へと変貌し、同時に背後から軋む音が聞こえた。振り返ると、さっきまで何もなかった場所に、錆に侵された白いドアが音もなく現れていた。僕は後ろに現れたドアまで全力で走り、消える前にノブを回してドアを開けた。

 ドアの向こうの世界は、どんよりした空模様の下に雪が積もった荒野が広がっていた。厚い雪雲が群れを組んで移動する羊のように次々と空を覆い、僕が開けたドア以外に他の足跡は見えなかった。雲の底の平面が白く染まった荒野と平行して遠ざかり、果てしなく続く地平線との間に、一条の鉛色(なまりいろ)の空をくっきりと残している。

 僕は何気なくドアの向こうにある世界に足を踏み入れ、当てもなく歩き回った。
不自然だ──足元から違和感を感じ、目線を向けると、汚れた素足が周りの雪を次第に濃い黒に染めていた。

 慌ててドアまで戻ろうとした。しかし、振り返るたびに足跡の黒い汚れは広がり続けている。最初は細い一本の線だったものが、時間が経つにつれて幅を増し、やがて隣り合う足跡同士が繋がり始めた。黒い染みは雪原を侵食するように広がり、ついには一面の黒い海となって、地面の白さを完全に飲み込んでしまった。

 「────」

 何かしらの音が、空ろな荒野に渡って聞こえた。哀れな小羊が親羊を呼びかけているようだった。僕は二回目の泣き声を聞いてから、それが人の赤ん坊の泣き声だと気付いた。赤ん坊の命が危ない──そう判断した僕の足は、頭の中で躊躇(ちゅうちょ)する暇もなく、必死に声が聞こえる場所まで地面を踏み荒らした。

 広い空が地平線に沈むように近づいた頃、半径百メートルほどの小さな窪地(くぼち)が現れた。泣き声は穴の中心から聞こえてくる。しかし、窪地の底は雪に覆われたせいで、下手に動くと地上に帰ってこれない危険があった。

 案の定、僕が躊躇(ためら)していたとき、また赤ん坊が声を高めて泣き始めた。今はとにかく赤ん坊を救い出すことが最優先だ──そう思い、窪地の内側がゆるやかな長い傾斜であることを確認し、下まで滑り降りた。

 底の地面は上と違って、雪の下が柔らかい物で埋まっていた。足を一歩踏み出すたびに膝が嵌まり、あたかも沼の中を歩むような錯覚を生じさせた。

 「アァ──」

 赤ん坊は窪地の中心部に近くなるほど、金切り声と呻き声の混乱した音で僕の耳を切り裂き、段々ひどく泣き出した。耳を防いでも脳みそまで入ってくる声は人を狂わせる。いくらそうだとしても、赤ん坊を一人にすることはできなかった。

 ようやく泣き声の元まで辿り着いたと思った途端、一線を超えて周りが静かに沈んだ。僕はあたふたとその辺を駆け回って赤ん坊の跡を探した。でも、赤ん坊はどこからも見つけることはできなかった。まさかここまで探って何も出てこないとは思わなかった。

 再び赤ん坊の泣き声が窪地の真ん中から聞こえた。今度は小さな声で泣いている。もしかすると僕が見逃したかもしれない──そう思いつつ、足元を素手で掘り出した。

 地面を掘り出して、僕は奇妙な既視感(きしかん)に襲われた。今まで散々踏み付けていた物は、ただの地面ではなく、数え切れない人形のパーツだったのである。ここでまた若干の違和感を覚え始めた。そして自らの手で自分の心臓に触れ、疲れない鼓動の音を確かめた。

 今の自分は死んでいるのか?──そんな疑問を抱いた僕に、足下から幼い女の子が顔を出して声をかけてきた。

 「パパ」

 眼球を失くしたその顔は、感情すら近寄れない清い笑顔をして、禍々しく口だけで「パパ」と呼び出した。危険を感じた時には既に壊れた人形たちに囲まれ、壊れた手で脚を掴まれていた。急いでその場から離れようと体を動かせば動かすほど、僕の体は下へ、下へ、下へと徐々に陥り、周りの人形たちと一緒に地下へ葬られてゆく。

 「パパ」

 その虚空のどこかで、僕をいらだたせるような呼び声が微かに耳に刺さった。それを皮切りに、捨てられたものどもがそれぞれの口で哭泣(こっきゅう)し、(おぼろ)げな僕の記憶にパパの言葉が刻まれるまで呼びかけ続けた。

 意識が遠のく前に見上げた空は、また飽きもせず雪を地上に散らした。雪はうずたかく積もり始め、僕は朦朧とした眼で、光が点になるまでじっとそれを見つめた。

 「お父さま、私は、ここにいます」

 誰かが自暴自棄になった僕を人形の墓場から引き出した。顔も知らないその娘は、潤んだ声で僕を「お父さま」と呼んでくれた。しかし、僕の心は安堵よりも困惑に支配されていた。なぜこの少女が僕を知っているのか、なぜ「お父さま」と呼ぶのか。涙ぐんだ少女の眼には複雑な感情が隠されているように見える。僕は恐る恐る手を伸ばして涙を拭いてあげた。

 「君は……、誰だ?」

 僕が女の子の名前を聞こうとした寸前に、目が覚めた。

 意識はまだ夢の中に取り残され、現実と非現実が混ざり合っている感じがする。僕は闇に目が慣れるまで時間を待ちながら、手探りで周囲を確認した。指先から、しっとりと畳をきちんと敷きつめた平坦な部屋の床が伝わってくる。どうやら僕は荒野に積もった雪の中でも、受験生で溢れた道上でもなく、初めての場所に誰かによって運ばれたようだ。

 隣に誰かがいる──そう思った時、小さな寝言を聞き、その辺りは避けてゆっくりと壁に手が当たるまで這いずった。しばらく行くと、ふいに柔らかな人肌が手のひらに触れ、無意識的にそれを二回、揉み続けた。

 「…嫌だ、まだやりたいの?もう今日は無理だってば」

 「いや、あの、その」

 思わぬハプニングに舌を噛んでしまった。僕は頭の中が真っ白になって、今の状況にどう謝罪すればいいか、考えてもさっぱり分からなくなった。とにかく、このままでは誤解を招きそうだから、相手の胸から手を離して身体を後ろに引いた。

 「逃げても今はもう遅いの、もう起きちゃったから」

 お互い何も見えない闇の中で、相手は僕の顔を両手で捕まえて懐に引き寄せた。暖かい体温が伝わってくると共に、僕の掌は少しずつ汗ばみ、鼻先に触れ合う人肌の香りが全身に宿って僕の感覚をくすぐっている。

 流石にこれ以上は後になって気まずい状況になりそうだ──そう思って離れようとしても、相手の太股に挟まれて身体に力が入らなかった。動けば動くほど二人の間には荒い息づかいが響き、首を抱かれてハグをされてからは顔の距離もどんどん近くなった。

 危険だ──そう思った僕は必死に首に力を入れて、相手の顔から離れようと耐え続けた。

 「パパ、起きた?」

 部屋の外からステラの元気な声が聞こえた。子供が自由に歩き回れる場所は、僕が持っている情報の中ではTGCの施設しかない。とはいえ、TGCが運営する施設は必ず男女に分けて部屋を割り当てている。しかも、窓がない部屋は聞いたことがない。

 「あらら、もう降参?」

 僕が少し気を取られた隙に、体がひっくり返され、僕と彼女の位置が逆転していた。そのまま僕の上に馬乗りになった彼女は、暗闇の中でニヤリと不気味な笑みを浮かべた。抵抗しようとしても膝で両腕を押さえられて身動きが取れない。顔が近づくたびに髪からシャンプーの香りが漂い、この異常な状況との落差に僕は混乱した。

 「あの、人違いだと思います」

 僕はなるべく落ち着いた声で相手に話しかけた。

 それを聞いた彼女が驚いて悲鳴を上げた。「あんた、誰?」

 「炭咲千春と言います。まだ十四歳です」

 「聞いていないことは教えなくてもいい。それより、姉さんたち!ここに変態侵入者がいるわよ。はやくおいで」

 できるだけ会話で今の状況を乗り越えたいと思った僕の希望は無残に却下された。部屋の引き戸が開かれ、五、六人くらいの子供たちが中に入った。皆、小学生と変わらない身体つきをしている。中でも僕が誤って触れてしまった女の子は、気が強くて同じ年頃に見えた。

 一応、言い訳は通じないと判断して、早速土下座をした。

 「大変失礼いたしました」

 「よろしいの、よろしいの。お部屋に一緒にお通しした私どもにも責がございますから」

 そう言われても、僕を軽蔑する視線はまだ消えていない。そんな中、ステラはさっきから僕の隣に来て、理由は分からないが一緒に土下座をしている。

 「ご紹介させていただきますわ。こちらは、今回の共通テストでお顔を合わせた若い方とお嬢さん。お名前は、炭咲さんとおっしゃいましたわね?お嬢さんはステラちゃんとお呼びするそうですから、どうぞ仲良くしてくださいまし」

 返答の代わりに相手から軽く舌打ちされた。孤高(ここう)を保つ女の怒りで部屋の中に(しも)が降りそうだ。あの状態だと、容易く許されそうにない。

 「それから、炭咲さん?ようこそ、新吉原へいらっしゃいまし。ご挨拶代わりに、これをお納めくださいな」

 小学生ほどの年頃に見える女の子からタオルと着替えの浴衣を渡された僕は、呆然とした顔で目の前にいる女の子たちを眺めた。それぞれ異なる顔立ちで、国籍も身長も違う女の子たちに囲まれた状況は慣れない光景だった。どうして自分がここにいるかは後で聞くことにして、先に部屋の中に視線を向けた。

 四十畳の部屋にクローゼットと幾つかの鏡台が壁に並んで置いてあった。化粧品は同じ商品を使っているようだ。それ以外は特に何もない部屋で、強いて言えば窓がない部分が不思議だった。大人がいない部屋で子供同士で生活している環境は少し変わっているとも言えるだろう。

 「パパ、パパ。もう大丈夫?」

 ステラが元気そうな声で僕の懐を抱きしめた。さっきの女と同じ香りがステラの髪から漂う。僕は時計を見るために周りを振り向いた。

 「何かお探しでも?」

 「いや、何でもないです」──時計がない部屋にまた驚く僕だった。

 茶髪の女の子が軽く手を叩いた。「よろしいけれど。奈緒美ちゃん、炭咲さんをお風呂場までご案内してくれる?お姉さんが戻るまでにお食事の支度をしますから、あなたにもお手伝いしてもらえると嬉しい」

 「何で(うち)が?」と聞きたい顔で奈緒美は僕を睨みつけた。

 「先ほどの一件で、お互いに誤解を解く必要があるのではなくて?」

 「別にそれは、あの変態が勝手にナオミの──」

 「必要が、あるのではなくて?」

 微妙に語気を強めて言う相手に、奈緒美が渋々大人しく席から立った。顔だけ見ると、僕と関わることを明らかに嫌がっている。僕も一瞬気まずそうな表情をしたが、相手と目が合って笑顔に切り替えた。

 先日、案山子との戦いで首を斬られた後の記憶がないことを含めて、まだ新吉原について把握し切れていない情報が多くあった。苦手でも、今はここの住民と感情的に対立するより、優先的に情報収集を考えて、友好的な関係を築く必要がある。

 「ステラもパパと行く!」

 かなり力が入った自己表現だ。僕が寝ている間にお姉さんたちにひらがなから教えてもらったようで、言葉の使い方が前より豊かになっている。あるいは、元々優れた頭脳を持って生まれた子供だったのかもしれない。

 僕はステラの頭を撫でながら、「ステラは必要ない」と言った。

 「パパ、ステラはいらない?パパ、ステラのこと嫌い?」

 子供を相手にして言葉が足りなかった──浅はかだった自分の行動を後悔してももう遅かった。すでにステラは、僕の話に心が痛むような顔でしくしく泣き始めている。

 「すまん、すまん。その意味じゃない。ええと、僕と一緒に行ってもステラはやることがないから、部屋に残った方がいい、という意味だった」

 ついでに大事なことを言い忘れた。「ステラのことは好きだから泣かないで」

 別に最後の話は、意味を持って話したわけではない。手前で待っている奈緒美から口の形で『最低』だと言われる前に伝えようと、頭の中で考えていたセリフだった。

 「ステラもパパが好き。ステラはパパと一緒にいたい。だから、一緒に行く」

 結局、ステラを含めて三人で部屋を出た。僕が引き戸を閉じた後から、何故か部屋の中が騒がしくなった。そして、隣にいた奈緒美がため息をついた。何はともあれ、僕は奈緒美の後について広い廊下を歩いた。

 「パパ、ステラのこと見てね」

 余程一晩深く熟睡していたのか、ステラが元気を取り戻した。窓も人も、何もない廊下の上を走り回る姿が、まるで普通の子供のようだった。

 ノバナになった子供は大体、現実を否定して鬱に落ちる。僕も過去にTGCの施設に入った初日はトイレに閉じこもって、食事もせずに三日を過ごした。

 施設の生活はたいして一般家庭と変わりはなかった。優しい先生たちと健康な食事は子供に良い環境を提供してくれた。しかしながら、子供たちの成長は小学校五年生で止まったまま、普通の思春期を迎える子供ノバナはいなかった。

 そう、ちょうど部屋にいた女の子たちも、僕が知るノバナと同じ雰囲気がする。

 「子供まで連れて新吉原には何しに来たの?」

 先に奈緒美から質問が入った。

 「特に理由はありません」

 僕は本当のことを話した。「ガーデンズ学園で気を失ってから記憶がないです。目を覚ました時も、ここが新吉原だと知りませんでした」

 僕の記憶は、ガーデンズ学園で案山子と争って、最後は首を斬られた部分で止まっている。首が元に戻った理由も、新吉原に入った経緯も、僕には分からないことだった。

 「あら、そう?間違いなく、お姉さんが外で作った新しい彼氏だと思った」
奈緒美が残念そうにため息をついた。「なあんだ。つまらない男だね。新吉原の花魁と二人きりでいる間に何もしなかったの?私にやったように積極的にすればよかったのに」

 「本当に申し訳ございませんでした。あれは事故だと思ってください」

 「まあ、別に謝らなくてもいいよ」

 と言って次の話に移り変わった。

 「でも、普通に考えても変だと思わない?受験生しかいない共通テストの当日に、テロを起こして何の得になるかしら。今回の騒ぎで共通テストは秋まで延期になったし、結局その場にいた学生がそのまま被害を受けたからね」

 「テロって、何の話ですか?」

 自分が知らない話に、物事の詳細を尋ねた。

 「今回の件は、七年前と同じく案山子の仕業ではなかったのですか?」

 「七年前に何かあったの?それと、畑もいない都内で案山子が何であるの?」

 奈緒美は共通テストの当日に起きたテロの記事が投稿されているサイトを見せてくれた。

 「ほら、ここにちゃんと『東京都内でテロ事件が発生』と書いているでしょう。私はお姉さんの話を聞いてネット上の記事を調べた。その他は知らない」

 奈緒美の話は嘘ではなかった。本当にテロの話ばかりがメディアに記事化されている。どこにも案山子の正体やバベルに関する記事は、元々起きていない事件のように、検索にも引っかからなかった。僕はあり得る可能性を広げるために、奈緒美に他のことを訊いてみた。

 「テロを起こした真犯人について、花魁さんから何か聞いていませんか?」

 奈緒美は僕の質問にすぐには答えなかった。少し間を置いてから、鋭い視線を向ける。

 「それを聞いて、あなたに何ができるの?まさか復讐でもするつもり?」

 「いや、それは……」

 「あなたがここに来る前の人生に興味はないし、知りたくもない。でも、姉さんと一度関わった以上、これからの人生で変な真似はさせないわ。ステラちゃんも、うちにとって大事な存在になったから、あなたにはなるべく安全な生き方を選んでほしい。うちが何を言いたいか分かる?」

 僕は黙って頷き、ステラの手をそっと握った。奈緒美に協力を求めることはもう難しそうだ。仕方がない。また一人で今までの出来事を頭の中で整理することにした。

 バベルとガーデンズ学園が裏で結託(けったく)している。花魁は案山子を僕と一緒に目撃したのに、なぜか身内の人にまで嘘をついている。案山子が起こした殺戮(さつりく)の現場は、謎のテロリストの仕業に変わっている。一体どこから手をつければいいのか分からず、解決すべき課題が増えて軽い頭痛を感じた。

 それでも、ステラが無事でよかった。そう思いながら歩いていると、僕の足が温泉の前に着いた。

 入口には赤い暖簾(のれん)だけが掛けられている。

 「それじゃ、うちは帰るから、終わったら中にある内線を使って部屋に電話して。多分、誰か一人は迎えに来ると思うわ」

 奈緒美は手を上げて言った。

 「じゃあね」

 「ちょっ、ちょっと待ってください。ステラと一緒に女湯には入れないです。ここに男湯はないですか?」

 慌てた僕はまた舌を噛んだ。

 「はあ?あのね、うちらの中に男子はいないよ?ここはうちらのプライベートスペースだから、男性用の施設はない。今は誰も風呂場を使わないから、安心してさっさと入りなさい」

 奈緒美は不愉快そうな顔つきで僕を睨んだ。

 僕はその顔に何とも言えなかった。

 ステラが先に風呂場の扉を開けて中に入った後、僕は念のため外で丁寧にノックをし、「お邪魔します」と声をかけてから引き戸を開けた。

 中に入って目にした風呂場は、思ったより快適で広かった。洗面台には数多くのスキンケア用品と、名前も知らない道具が並んでいる。あまり詳しく見ても失礼だから、足を他の場所に向けた。

 脱衣場の床を歩いて適当にロッカーの前に立った僕は、ステラが先に浴衣を脱いで風呂に入るまで待った。いくらステラが僕をパパだと思い込んでも、僕は赤の他人である。問題になりそうな部分は事前に避けた方が賢明だった。

 しばらく時間が経つと、ステラの笑い声が浴場から響いてきた。僕は静かに散らかされたステラの浴衣を拾い、扉から一番近いロッカーに服を入れておいた。そして、いよいよ僕も服を脱いでお風呂に入る準備をした。

「これ、誰の服だろう」

 今更になって、着ている服が私物ではないことに気づき、ショックで体が固まった。普通に考えて、当日着た服は案山子との戦いでボロボロになったはずだ。

 忘れよう。僕はいつものように記憶を忘却の彼方に追いやり、バスタオルを腰に巻いて風呂場の扉を開いた。

 風呂場も脱衣場と同じくらいの広さで作られていた。特に熱い湯とぬるい湯があり、アヒルの口から温泉のお湯が流れ、熱さと特有の匂いが肌と鼻に伝わってきた。先に入ったステラは水風呂の中で、一人で水遊びを楽しんでいる。

 それを見届けながら、僕は蒸気があふれるお湯に入る前に、簡単にシャワーを浴びることにした。体のあちこちに刻まれた傷跡には、時を経て黒紅色に変わった血の痕が、まるで呪いの印のように肌に焼きついていた。痛みはなくても汚い痕跡だから、石鹸の泡で跡を残さず水に洗い流した。

 顔を洗って鏡に映った自分の顔を眺めた。首が斬られる感触は確かにあった。いわゆる「確定死亡」の状態に一度落ちた僕にとって、目の前の現実は違和感に満ちている。本物の僕は死んで、鏡の中にいる男が体を乗っ取った可能性もある。

 自分の顔をあらゆる方向から確かめる中で、首の辺りに黒い一線を見つけた。水垢で見にくい鏡を水で洗い流して、黒い部分に目を凝らした。傷跡は首輪のように後ろまで繋がっている。試しに石鹸で洗っても傷は取れなかった。

「なるほど、そういうことか」

 僕は冷たい水で泡を流して、アヒル天国と名付けられた湯船に足を入れた。ついでに隣に置いてある湯桶を顔にかぶせ、体を寝かせたまま目を閉じた。

 首にある瘢痕(はんこん)は、一見して木炭化の症状に見える。七年前に火傷を負った時も、両腕に同じ跡があった。詳しい理由は知らないが、細胞の再生力が体の中で木炭化を活性化させるようだ。症状自体は、言わば白血病(はっけつびょう)に似ている。ただし、僕の場合は手術でも治らない期限付きの人生で、木炭化が首まで広がったせいで、その期限も昨日よりも短くなっている状態だ。

 「期限が短くなっただけで、やることは同じだ」

 独り言をつぶやいて、緊張した心を温泉の湯に委ねた。

 まだ体を動かせるうちに、ステラの親に連絡してみなければならない。これから先の困難を考えると、手はいくらあっても足りない気がする。テロの影響で共通テストが延期になり、しばらくは予定が立たない今、余った時間をステラのために使うことは大した問題にはならない。急ぐ必要はない。僕の体が壊れるまで、まだ時間はあるはずだ。

 風呂に入ってからも、なかなか落ち着かず、いろいろな雑念が頭の中を去来する間に、誰かの気配を感じた。多分、ステラだろうと僕は単純に思った。

 「ステラには少し熱いから、体を深くまで浸からない方がいいよ」

 「はい、パパ。気をつけるわ」

 穏やかな口調で返事が返ってきた。

 ステラが年上の人に敬語を使える子だったのか。一瞬、変な違和感を感じた。特に僕にだけは、他の人よりも親しげに近寄ろうとする甘えん坊が、いきなり敬語で僕との間に距離を取ろうとする行為は辻褄が合わない。遊んでもらった吉原の女の子たちから敬語を教えてもらった可能性はもちろんある。が、その可能性はゼロに近い。

 「えへへ、パパみーつけた!パパも、かくれんぼする?」

 かぶっていた湯桶が誰かに取られ、明るいステラが僕に顔を押し付けた。急な出来事に驚いた僕は、反射的に体を起こした。

「いたいよぉぉぉ!パパのばか〜!」

 額同士がぶつかり、床に尻もちをついたステラが涙を流した。慌ててステラを慰めようと体を起こすと、めまいがしてそのまま意識が飛んだ。温かいお湯の中で体が一度深く沈み、浴槽のタイルが背中に当たった。

 気を取り戻した時は、風呂場の外で寝ていた。時間はそれほど経っていない感覚だった。そして、花魁と目が合った。

 「す、すみません。お世話になりました」

 正確には、太ももを枕として貸してくれた花魁と向き合った。彼女は目を閉じていた。さすがに迷惑をかけたと思い、その場で土下座をして謝った。花魁は何も反応してくれなかった。一人で言い訳をぶつぶつ述べていると、これは誰のために行っている謝罪なのかと疑問が湧き始めた頃、後ろでくすくすと笑い声が聞こえた。

 「炭咲、裸で何してるの?」

 声の正体は赤髪の少女だった。彼女はウーロン茶に氷を入れたグラスを三つ、トレーに載せて戻ってきた。僕は恥ずかしそうに頬が少女の髪色より赤くなり、そそくさと床に落ちたタオルで下半身を隠して座り直した。

 初対面の人に恥ずかしいものを見せてしまい、顔も上げられなかった。挨拶をするタイミングを逃し、床だけを見つめて、何を言うべきか考え込んでいた。

 「恥ずかしがることないのよ。あたしは悪くないと思うけれど。そこら辺の男なんかより、ずっと頼もしいお体だったもの。だから炭咲、もっと自分に自信を持ちなさいよ」

 未だに笑みを浮かべて褒め続ける彼女である。

 「誤解です。これには事情がありまして、奈緒美さんがここに男湯はないから、女湯に入ってもいいと言ったので——」

 顔を上げて女の子と目が合った瞬間、過去にすれ違った人々の瞳を思い出した。短い人生の中でも、数少ない人間関係の中で、大抵の人々は僕にとって普段忘れがちな存在である。しかし彼女の瞳からは、どこか既視感を覚えた。

 「ひょっとして花魁さんですか?」

 「あら?どうして分かったの?あたしの素顔、まだ見せてないでしょう?」

 花魁は感心して言った。

 「今まで最初から気づいた人はいなかったのに、もしかして炭咲は探知系の能力も持ってるの?」

 「昔から人は瞳の色で覚えました。でも、実際口に出すまでは半信半疑でした」
僕は後ろに跪いて、大人バージョンの花魁を見つめた。

 「あれは、本物の人ではなく、人形だったんですね」

 人形と呼ばれる『あれ』は、各務(カガミ)コーポレーションが医療目的で開発した人型の着ぐるみである。普通の着ぐるみと違って、シリコンや着用者の髪の毛で作られるため、本物に驚くほど高い完成度。初期バージョンまでは、成長が止まった人や子供の体を持った人をターゲットにして人形を宣伝したが、次第に高額になり、今は限られた顧客や専門業者を対象にしている。

 花魁の人形も、本物の花魁が大人になった時を想像できる外見を持っている。モデルはかなり最新バージョンで、背面にファスナーがあった。

 「花魁を近くで見た感想はいかがですか?」

 「感想ですか?ええと、言わないとダメですよね」

 困った顔をした僕は、もう一度目の前の小さな花魁を見上げた。

 「普通に可愛くて綺麗な方だと思います」

 「でしょう?あたしもそう思うの。だからこっちの体はあまり好きじゃないのよ」

 花魁の反応に驚き、早めに追加の説明を並べた。

 「あの、違います。今の話はあくまでも生身の方でした」

 「え?あたしのこと?」

 「はい。顔がもともと可愛いから、人形の方も可愛いと言われると思います」

 花魁の目がまた大きくなった。二回目だ。

 「生身のあたしが可愛いって、変な愛情表現ね」

 床に座り込んだ彼女の微笑は、他の誰もが初めて見る清々しさだった。

 「失礼しました。あの、生身という表現は決して裸の意味ではなく、人形ではない状態のことです。本当です」

 僕は花魁の反応を見て、最後の話はしない方がよかったと後悔した。

 「炭咲は変わった人ね。聞いていて気持ちよかったわ。ありがとう」

 花魁は持っていたウーロン茶を僕に差し出した。

 「飲んで。話はステラを連れてきてからにしましょう」

 一人だけ残された僕は、人形と距離を取ってウーロン茶を飲みながら、二人が戻るまでじっと待った。時計もない場所で一分はかなり長い時間に感じる。暇つぶしに飲み干したコップから氷を出して口の中に入れた。

 「ね、ちょっとあたしのところに来てもらえる?相談したいことがあるの」

 足を運んだところでは、拗ねているステラに花魁が手こずっていた。床には、花魁がステラをなだめようと出したおもちゃが散らかっている。ステラは部屋の隅で背を向けていた。僕の足音にちらっとこちらを見つつ、再び壁の方に顔を隠した。だいたいの状況は分かった。

 拗ねた原因は僕にある。だから、おもちゃでもお菓子でも通用しなかったのに違いない。

 「ステラちゃん、聞いてくれる?ステラちゃんが大好きなパパがステラちゃんに話があるみたい」

 片手はステラの背中を撫でて、もう一方の手は僕に手招きした。

 「炭咲、そうでしょう?」

 僕は素早く花魁の隣に正座して、次の反応を待った。

 「本当に?」

 ステラが大きな絆創膏(ばんそうこう)を貼ったおでこを小さな手で隠して、僕の方を振り向いてくれた。拗ねた子供の瞳には涙が滲んでいる。

 僕は反省を込めた言葉で頭を下げた。

 「本当にごめんなさい。僕が気を抜いたせいで、ステラを傷つけました」

 『嘘つき。本当は謝りたくないくせに、なぜ謝っている。ただの自己満足だろう?』

 この声は、僕が持つ心の呵責から生まれた、もう一つの僕の声だ。あの夜、謝るべき対象に謝れなかった記憶が足枷となり、僕は、あの夜から、毎晩同じ時間になるたびに一人で、ずっと謝罪の言葉を述べ続けてきた。そして、それは以前に思っていたほど難しいことではなくなっていた。そのはずだった。

 「パパもここ痛い?」

 ステラが僕の額を撫でてくれた。

 「パパにもあげる」

 ステラは手のひらからつぶれた絆創膏を僕にくれた。動物のキャラクターが描かれた可愛い絆創膏だった。

 「パパもステラも一緒だね!」

 ステラは絆創膏のテープを剥がして、僕の額に貼り付けてくれた。

 「先に痛みに共感するのか」

 僕の話にステラが小首をかしげる。

 「何でもない。絆創膏はありがとう。おかげで気が楽になった」

 何も知らないステラは僕パパに抱きついて、幸せそうに笑った。やはり、バスタオルでは済まない。服が必要だと判断した僕は、花魁にお願いして着替えてくるまでステラを任せた。

 「着替えならここにあるわ。フリーサイズだから体に合うと思う」

 事前に用意された服は、黒地の格子柄が入った浴衣だった。フリーサイズでも僕には手と足が余って、紐を使って体に固定した。着てから気づいたが、柄の模様がステラが着た浴衣と同じ種類だった。

 「うん、やっぱりあたしの目に狂いはなかったわ。ステラちゃんと二人で並んでみる?すごく可愛くてお似合いよ」

 「この服、かなり高級品に見えますが、僕たちがもらっても大丈夫ですか?」

 「全然大丈夫。むしろ着る男がいなくて捨てるところだったの。それより、炭咲はスマホ持ってない?あたしが二人の写真を代わりに撮ってあげるから、持ってきなさい、早く!」

 花魁に急かされるというより、絶えず追われた僕は、キャビネットからスマートフォンを出して花魁に手渡した。だが、昨日から充電していないせいで電源はとっくに切れていた。どうしようもない状態で、花魁が謎のどこからか電源アダプターを持ってきて充電に成功し、念願だった僕たち二人の写真を撮る願いを叶えてみせた。

 「ここまでする必要がありますか?」

 花魁は綺麗に撮れた写真を選んで、液晶画面を僕の前に出した。

 「あるわ、きっと。時間が経っても写真は残るからね」

 細い眉毛の先が微かに震える。

 「たいしたことではないけれど、たまには今の記憶が止まった時間を動かす力になる日が来るわ」

 「偽のパパ役の僕が、勝手に名前を付けて、勝手に家族ごっこを続けるとしても、別れの結末が決まっている関係を写真で残してもしょうがないと思いませんか?幼い頃の記憶なんて、一年経てば忘れてしまいます」

 僕は思わず思ったことをそのまま口に出した。

 「すみません、失言でした。今の話を聞かなかったことにしてください」

 花魁が笑窪を右頬に作り、丁寧な仕草で目を伏せた。

 「でもね、あなたたち二人の関係が本当の親子関係でないことくらい、とうに気づいているわ。でも、それが何だというの。血のつながりがあっても子を捨てる親は、この世に星の数ほどいる。あたしの親も、そうだった。あたしが可愛く振る舞うから父親が手を出したのだと、そんな理不尽な言いがかりをつけて、最後は新吉原に売り飛ばした。皮肉なことに、その過去が売りとなって、あたしは人気ナンバーワンの座を手に入れたけれど。
 ノバナは歳を取らない体を持つ、永遠に若く美しい花だとよく言われる。けれど実際は、親に捨てられ、生まれた瞬間から見放され、金のために身を売られた子供たちばかり。皮肉なものね。あたしたちは八歳から十歳の間で時が止まったまま、獣のような欲望に満ちた夜を美しく彩るための道具として、花魁という仮面をつけて、人生の大半を商品として『一人で』で過ごしている。
 だから、炭咲。あなたとステラちゃんの関係が本物であろうと偽物であろうと、あたしの目にはかけがえのない親子に映っていることが、何よりも大切なの。どんなに辛い時が来ても、今この瞬間を心に刻んで、一人でも乗り越えられる力を……あたしは、そっと預けておきたい。これは償いなのかしら。いえ、きっと違う。これは……あたしの、とても小さくて、とても愚かで、でも、誰よりも真実な……祈りに近い想いだわ」

 愛を知らないまま時が止まった小さな体で、夜ごと大人たちに愛されなければならない彼女を見て、僕は何も言えなくなった。年を重ねても変わらない姿で、大人の欲望という名の愛情を受け続けている。表面上は大切にされているけれど、その愛情がおかしいことを、彼女が一番感じ取っている。

 彼女が「祈りに近い想い」と言った時、胸の奥で鈍い痛みが静かに広がった。その言葉の重さが心の奥に染み込み、彼女の瞳に宿る諦めと、それでも消えない何かが僕の心臓まで響いた。何か言おうとしても適切な言葉を選べず、ただ彼女の次の言葉を待っていた。

 「は〜い、この話はここで終了。写真は何も削除していないから、後でも見ててね」

 花魁の気まぐれはここで終わらなかった。

 「まだあれをするまで数日は残っているのに、なんでこんなにセンシティブに反応してるのかしら。うふふっ、変よね」

 より一層反応しづらくなった僕は、間抜けな顔で固まった。

 「嘘、嘘。冗談よ、ジョーダン。あれをするノバナはいないって突っ込まないと困るわ。女を困らせないでよ、ステラちゃんのおパパさん」

 知らなかった。成長が止まるという意味を知った僕は、ステラの方に目を向けた。今はまだ体と精神年齢が同じでも、僕と同じ歳になっても体は過去に取り残されたまま、一人の人生が紡がれていく。周りは変わって自分の体だけは変わらない。そう思うと、彼女たちの心境が分かるような気がした。

 「ところで、炭咲。もうお互い裸で触れ合った仲だし、いちいち敬語をつけて距離を取るよりは、そろそろ名前で呼ばない?」

 言いながら膝を抱いて、ステラと顔を合わせた。

 「ステラもうちを名前で呼んでもいいよ」

 「名前?ステラも呼ぶ!」

 「うふふっ、分かったわ。それじゃあ、教えるね。あたしの名前は——」

 花魁は末っ子を愛しがるようににこりと笑い、はきはきした声でひらがなを一文字ずつ話した。

 「パパ、ステラのお腹ぺこぺこ」

 元気いっぱいなステラも、いよいよ疲れ切った顔で大人しくなった。

 「お腹すいたのね。じゃあ、お食事しに行きましょうか?」

 僕には、どこのことか分からなかった。食べ物のある場所といえば、コンビニしか思い浮かばない。ステラと一緒に店で食事をした記憶もないのだから、彼女が期待しているのも、おそらくコンビニだろう。

 「花魁さん、新吉原にもコンビニはありますか?」

 僕は隣にいるステラの頭をそっと撫でた。拗ねさせてしまったことへの謝罪の気持ちを込めて。

 「名前を教えてまだ五分も経ってないのに、忘れた?それともただの意地悪なイタズラ?」

 まだ下の名前で人を呼ぶことにあまり慣れていない僕は、頭の中で二十回ほど発音の練習をした。あくまで舌を噛まないためである。

 「こひな、どうか食事の件をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 僕の反応に満足したこひなは、不機嫌そうな表情から満ち足りた表情を見せた。

 「二人の前にいるあたしを誰だと思ってるの?あたしと友達になった記念に、今まで味わったことのない料理を食べさせてあげる。今頃、食事の準備は終わってるはずだから、部屋に戻りましょう」

 上機嫌なこひなの後について、僕とステラは女湯から出て部屋に向かった。

第4話

 部屋に戻ると、すでに宴会の準備が整っていた。畳用のテーブルには、こひなが約束した通り、見たこともない豪華な料理が次々と並んでいる。サーモンの刺身、色とりどりの前菜の盛り合わせ、香ばしい鶏肉の炙り焼き——炊き立てのご飯に合う料理ばかりで、何から手をつけていいか迷うほどだった。

 僕はテーブルの端に座り、オレンジジュースを一口すすりながら壁にもたれかかった。ステラは皆に囲まれて思う存分可愛がられている。あの様子なら、僕がいなくても周りが面倒を見てくれるだろう。

 先に食事を始めることにした。まず、味噌焼きのステーキを皿に取る。表面に薄く焼き色がついて、中は美しいピンク色——見ただけで美味しさが伝わってくる。わさびだけを少し載せて口に運ぶと、柔らかな肉質が口の中でとろけた。

 「美味しい」

 それだけで十分だった。堪らない食欲に任せて、もう一切れ取り分ける。

 「パパ、ステラのおくち、ひりひりする!」

 次に食べる料理をサーモンと大トロの間で迷っている僕に、ステラが涙をぽろぽろ流しながら抱きついた。僕は何が起こったのか分からずに、ステラの鼻から垂れる鼻水を優しく拭いてあげた。

 「この匂いは……ステラ、もしかしてわさび入りのお寿司食べちゃった?」

 ツンとした辛いわさびの匂いが、ステラの口から漂っている。さすがにわさびはまだ早すぎるだろう。苦しそうなステラを楽にしてあげるため、オレンジジュースを飲ませた。

 「もうやだ!ステラ、お寿司きらい」

 僕が差し出したサーモンの刺身にも、ステラは顔を横に向けた。わさびが入っていない寿司さえ、『(あつもの)に懲りて(なます)を吹く』のように拒否して、僕の懐に顔を埋める。ステーキも舌で味わっただけで、すぐに口を閉じてしまった。

 本当に、困ったものだ。

 「姉さん、急用で今日の定期検査をずらしたいって、さっき先生から連絡があったのよ。どうしましょう」

 何かの報告を聞きながら、こひなが一升瓶の日本酒を持って隣の席に座った。『千光』のラベルがある黒い瓶を開けて、檜の枡に立てられた枝垂桜のグラスに酒を注ぐ。馨しいアルコールの香りが部屋に広がり、嗅いだだけで酔いそうになった。落ち込んでいたステラも匂いに興味を示し、好奇心に満ちた瞳でテーブルに上がろうとする。

 「無理を言って約束を取ったのは私たちですもの、来週でも構わないとお伝えしておきますわ」

 こひなは枡を天井に向かって持ち上げた。

 「みんな、席に着いて乾杯しましょう。今日は私たちの食事会に初めてお客様をお迎えしたのですから、もっと楽しくいただきましょう——乾杯!」

 賑やかな雰囲気の中、僕は皿の上のサラダを一口食べた。元気になったステラは、謝りに来た姉さんたちに追われて部屋の中を逃げ回っている。他の人たちはカラオケ機器の前で仲良く歌を歌っている。とても楽しそうで混沌としたディナーパーティーだと、ジュースを飲みながら思った。

 「首、まだ痛む?」

 こひなが話しかけてくると、日本酒の香りがほのかに漂った。目は半分恍惚感に浸り、力の抜けた体をテーブルに寄せかけて、僕に向かって優しく微笑んでいる。色白の頬が紅潮するまで、かなり酔いが回っていた。この状態では、まともな会話は難しいだろう。氷を入れた水をこひなに渡す。

 「あら、気にしてくれるの?優しいのね——」

 こひなは冷たい水を一気に飲み干すと、そのままテーブルに突っ伏した。やってしまった。軽く肩を揺さぶったが、反応がない。耳を傾けると、すでに深い眠りに落ちて寝言を呟いている。
 
 僕は視線を宙に泳がせながら、どうしたものかと考えた。隣で無防備に眠るこひなの姿に、なんだか胸がざわつく。部屋の隅に置いてある本のことを考えてみたり、ステラに教えてあげる文字の練習について頭を巡らせたりしながら、テーブルの向こう側に目を向けたり、天井を見上げたりして、なるべく自然に振る舞おうと努めた。

 「お姉さまに馴れ馴れしく触らないで」

 酔っ払っていても怒った顔は変わらない奈緒美が、いつの間にか同じテーブルの前に座っていた。

 「今、居眠りしているお姉さまを狙っただろう。このド変態野郎」

 酔っ払いに真面目に説明しても、まともな会話はできない。昔、バイト先の食事会で小泉さんが酒を飲み過ぎて酔っ払ったことがある。あの時の小泉さんは、悔しそうな顔で同じ愚痴を一時間も繰り返していた。未だに小泉さんから聞いた男の名前を忘れられない。

 「奈緒美さん、これは誤解です。あくまで倒れたこひなの様子を見ただけです」

 「はあ?そんじゃ、誤解だって言えば、あたしの胸を揉んだことがチャラになると思うの?」

 「声が大きいです。それと胸の件は、奈緒美が別に謝らなくてもいいと言ったでしょう」

 「いいえ、あたしは言ってないわ。嘘までつくなんて、本当に悪い子ね。そうよ、土下座よ。今すぐ、あたしに土下座しなさい。土下座で誠意を見せなさい」

 「分かりました。土下座しますので、どうか落ち着いてください」

 土下座を要求し続けた奈緒美の声が、だんだん曇ってきた。涙を見せまいとするかのように、切なく俯く。

 「ナオミの胸は小さいから、揉んでも感触がしない?」

 何も言っていない、と言い返そうとして止めた。そもそも、突き詰めて言えば、この部屋にいる皆が平気で酒を飲んでパーティーを楽しんでいる。見た目は子供でも、精神年齢はその年齢に相応しく熟した、普通の大人として目に映った。ただ、瓶ごと飲む姿は、何度見ても慣れない光景だ。

 「全部、君のせいだよ」

 今度は奈緒美から突然責められた。

 「あなたが私たちの平凡な日々を壊したのよ。なぜ来たの?なぜ私たちにあなたの世界を見せたの?永遠に知らない方がよかったのに」 

僕の世界が奈緒美の大切な日常を壊した——そう言われても、素直に納得がいかなかった。壊した理由も方法も覚えていない。テーブルの上のおにぎりを一つ手に取る。中には鮭の腹身が入っていた。

 「奈緒美ちゃん、嫉妬は程々になさい」

 こひなの声に驚いて、ご飯が喉に詰まった。寝落ちたと思ったこひなが、テーブルに伏せたまま、ぼんやりした横顔で奈緒美を睨んでいる。酔っていた目は元通りに生き生きとして、脳裏に深い印象を残した。

 「うええええ、お姉ちゃんに嫌われちゃった。悲しい、悲しくて死んじゃいそう——」

 奈緒美が堰を切ったように両手で顔を覆い隠し、抑えきれない感情に号泣した。

 今の言葉は、僕が聞いても空しく、冷たく響いた。

 「泣かないの、泣かないでね」

 ついでに眠りから起きたステラも啜り泣きを始める。それに狼狽えて、僕はステラの背中を撫でて落ち着かせた。

 「うちもそれ欲しい」

 奈緒美は僕の左手を自分の頭に乗せて、自ら撫でる真似をした。どうしようもない状況で、隣にいたこひなは無愛想に口を結んでいたが、眼差しに微かな笑みを交えていた。「女たらしめ」という目だった。

 結局、他の女の子たちが来て奈緒美をトイレまで連れて行き、ステラは二度寝に落ちた。これで、ようやく僕のテーブルに平和が訪れた。

 「悪くは思わないでちょうだい?」

 こひなが話を切り出した。

 「みんなは今まで、四角い部屋にある四角い布団で寝起きして、目を覚ましたら四角い鏡に映る自分の顔を見ながら、慣れた手つきで昨日と同じ化粧を施して毎日を生きてきたの。ところがある日、四角ではなく三角や丸の人生を持った炭咲とステラちゃんが、私たちの世界を訪れた」

 彼女はジュースの入ったグラスの縁を人差し指でそっと撫でた。

 「その日、華奢なみんなの世界は否定され、壊れてしまったのよ」

 微弱な振動がグラスに伝わり、細い笛の音が鳴りつつ、罅が入った。単純に指先で撫でただけで、グラスが元の形を忘れてしまった。

 「女の子は認めたくない時、主体となる存在に憧れて、そのうち嫉妬してしまうものよ。奈緒美ちゃんを除いて、他の姉妹たちが炭咲を歓迎しても名前は教えない理由も、きっとそれが原因だと思うわ」

 話が終わった後も、相変わらずこひなは黙然とテーブルの向こうを眺めていたし、僕も何となくそんな彼女を眺めていた。目が合うと照れ隠しに笑い合ったりしたが、どこか寂しさを感じる気がした。

 「複雑ですね、女の子は」

 僕は食べ終わったおにぎりを皿に置いた。

 「そうね。でも、それが女の子よ」

 気だるそうな口調で話を終わらせたこひなの頬に、苦笑いがかすめた。

 「こひなは強い女性だと思います」

 「あたしが?」

 こひなは疑問を呈した。

 「カカシと戦った時のことを話している?」

 僕はしばらく沈黙して、それから取って付けたように咳払いをした。

 「こひなの話の通りなら、僕は皆さんにとって気まずい相手です。同じノバナである他人のステラがパパと呼ぶ僕の存在は、相対的に『剥奪』された感情を呼び起こすトリガーになると思います。それを、こひなは気にせずに僕と会話を続けている。もちろん、隠している本音は違うかもしれませんが、少なくとも僕にはそう見えます」

 手に入らない憧れの対象は『夢』とは呼べない。眺めるだけで辛い思いをさせる『悪夢』である。奈緒美が抱いた苦情は、感染しやすい風邪のウイルスに似ている。症状は同じでも、治るタイミングは皆それぞれ違う。その中で、こひなは比較的よく耐える姿を見せている。今までの人生は知らないが、同じノバナとして尊敬できる心構えを持った人だ。

 「あたし、今、炭咲からすごく褒められたのね?な、なんか照れちゃう……ありがとう」

 照れるこひなは珍しかったが、小さくぼそぼそと次の話題に移った。

 「そうだ、炭咲もあたしたちと一緒に共通テストの準備をしない?週明けの月曜日か火曜日に予定が空いていればの話だけど。場所は新宿にある知り合いのカフェに連絡してお願いする。どう?来られる?」

 そう言えば、こひなは昨日、ガーデンズ学園の受験生として参加していた。ガーデンズ学園の入学条件に年齢と身分の制限はないとはいえ、新吉原の娘が共通テストを受けることは、社会的にぎりぎり論外中の論外として扱われる。当時、花魁の登場がSNS上で盛り上がった理由も、今まで裏社会の住民がガーデンズ学園に現れた実例がなかったからだ。

 「一人で勉強しました?」

 「常連さんの秘書にお願いして、色々手伝ってもらったの。共通テストの対策用の参考書も買ってもらったり、白花(シロバナ)を第一志望に決めて面接の練習もしたのよ。案外、テストの成績は他の受験生に比べて高い点数をもらえたと思うわ」

 久しぶりに話し相手を見つけたように、こひなはペラペラと僕の志望した花道を聞き出した。

 「赤花(アカバナ)です。実技試験がメインで行われる花道で、白花よりハードルが低いです」

 「赤花だったんだ。トゲの種類を聞いたら、失礼?」

 僕は自分の両腕を前に出して見せた。

 「特別なトゲではありません。ただの再生力がチートレベルの体を持っています。ただ、ここには事情が——」

 「ある」と言う直前に、大量の鼻血が畳に流れ落ちて、話が途中で止まった。昨日、無理して体を動かしたせいで副反応が出始めたのだ。テーブルにある紙ナプキンで応急処置をして、携帯の連絡先から香月の名前を検索したが、突然電波の受信状態が圏外と表示された。

 「よくあることですので、心配しないでください。血はすぐ止まります」

 相手を安心させて、小鼻をつまんで圧迫した。

 出血は中々収まらなかった。鼻に詰めた紙ナプキンが血で赤く染まり、その先からは小さな血の雫が畳の上に滴り落ちた。

 「ここ、電話が使える場所はありませんか?」

 僕は慌てるこひなに向けて聞いた。

 「外部と繋がる通信機器が必要です。ネットに繋がったパソコンでも大丈夫です」

 「内線はあるけど、新吉原の半径百メートル以内は通信妨害がかけられているから、外との通信は繋がっていない」

 こひなはすぐに理性を取り戻して、対案を出した。

 「裏の通路があるわ。でも急がなきゃ。ほら、ついてきて!」

 眠りに落ちたステラを部屋に残し、僕はこひなと一緒に廊下を駆け抜けた。止まらない鼻血が廊下に点々と滴り落ちても、もはや気を遣っている余裕はない。壁に囲まれた迷路のような通路の先には、ブロンズ製の時計針式フロアインジケーターとエレベーターの扉があった。

 ガラス張りの外扉と蛇腹式の内扉で二重になった扉を手で押し開けて乗り込むと、こひなが何も書かれていないボタンを素早く押してレバーハンドルを操作した。

 二人を乗せた古いエレベーターは孤高な節操を守り、錆びた機械音とともに下降した。扉の外は木造の壁になって、下の階にあるものは見えなかった。ついにこひながレバーハンドルを下ろして、黒い廊下がある階でエレベーターを停止させた。ここも上で見た廊下と構造的な違いはなかった。

 「さっき連絡しようとした人は、東京都内にいる?それとも関西の方?」

 僕は鼻を押さえて答えた。

 「花園大学医学部附属病院にいます」

 「名前は?」

 「小児科の香月(こうずき)モネと言います」

 名前の情報を聞いたこひなは、今度は後ろにある東京地図から病院がある文京区を指で押して、再びレバーハンドルを上に上げた。

 「多少は揺れるから、しっかり掴まって」

 鉄がぶつかる音が、耳を塞いでも奥まで差し込まれるように聞こえてくる。不安定な状態の中で、僕は片手で安全バーを握り、なるべく壁側に体を密着させた。体感的に五分ほど移動した後、完全にエレベーターが停止してから、外扉の向こうにもう一つの扉が現れた。

 どこかで見覚えのあるドアだった。僕は恐る恐るドアを軽くノックした。

 「午後は休診だ」

 ドアを開け放つと、下着姿の香月がいる診察室が現れた。新吉原から病院までの所要時間は分からないが、五分で来られる距離ではないことだけはよく知っている。なお、午後の休診日は火曜日だ。新吉原に泊まる間、外では三日が経っている。

 「突然お邪魔してしまって、ほんまに申し訳ありません。(わたくし)、新吉原で働いておりますこひなと申します。こちらの炭咲様のお体に異変が起きて、急いで参りました」

 こひなが丁寧な仕草で頭を下げて謝罪を申し込んだ。

 「お手数をおかけしますが、休診やのに申し訳ないんですけど、一度だけ診てもらえませんでしょうか」

 「おい、ちょっと待て。鍵をかけたはずなんだが、どうやって入った?」

 気まずい挨拶を交わして、鼻の状態を遠くから見せてあげた。さすがに状態の深刻さを見極めた香月は、ハンガーラックから白衣を取り出して机の前に座り、刺々しい顔つきで僕を叱る仕草を構えて待った。

 「えらい怒られそうやね。昔からの知り合いなの?」

 「僕の叔母(おば)さんです。本来なら自分で何とかしたいところですが、今は仕方がありませんね」

 「家族やのに、なんでそんなこと言うの?」

 静かな口調で、ほとんど関心もないかのように淡々と言葉を告げた。

 「借りを作りたくないからです」

 こひなは一時間後に迎えに来ると言い残して、ドアを閉じた。人の気配が消え、ドアの小さなガラス窓から人々の影が見え始めた。今更、自分が乗ってきたアレの正体が気になる。

 「何突っ立ってるんだ。さっさとこっちに座れ」

 厳しい言い方に恐れをなし、文句を言うまでもなく香月の言葉に従って、患者用の丸い椅子に座った。香月はさっそく引き出しの中から鼻血ストッパーを取り出し、赤く腫れた鼻の穴に差し込み、小型の冷蔵庫から氷嚢を出して首の後ろに乗せてくれた。続いて鼻血をサンプル容器に入れて、机の上にある顕微鏡で観察をした。

 「あの火災、お前がやったのか?」

 顕微鏡から目を離して、ペンライトで僕の眼球を右と左の順で確認した。

 「それとも偶然が重なった事故?」

 僕は鼻が詰まった声で言い返した。

 「信じないと思いますが、当日の朝、園内に怪しい者が侵入しました。これはあの時の戦いで無理をして出来た傷です」

 「つまりお前は無関係ってことか?」

 「……よく分からないです。最後に首を斬られて死んだので、記憶がないです」

 「嘘じゃなさそうだな。首の周りの新しい木炭の傷は、七年前のと似てる。俺はてっきりお前がやらかしたと思ったんだが。ああ、薬は左の引き出しの二段目だ。水と一緒に飲め」

 「ありがとうございます」

 お礼を言って、引き出しの中からお薬を探した。まだ販売されていない試作品をピルパックから二個だけ取り出し、お水と一緒に飲み込んだ。お薬の効果は、胃袋の中で消化液に溶けるまでの五分後に現れる。

 「成子、お疲れ」彼女は受話器を取りながら言った。「第七研究室に連絡して、共有ラボのシート確認してくれ。今から一時間後だ」

 電話の向こうからの返事を聞きながら、香月は疲れた様子で頷いた。

 「空いてるか?そうか、ありがとう。じゃあ予約を頼む。駅前のパン屋、新作出るらしいから今度奢る。ああ、じゃあな」

 受話器を置くと、香月は深いため息をついた。そして僕の方を振り返る

 「それを大人しく着てついて来なさい。まだ、さっきのお姉ちゃんが来るまで時間があるでしょう?今日こそ精密検査をさせる」

 そう言いながら、ハンガーから私服のコートを僕の方に投げてきた。

 逃げ場はない。僕は受け取ったコートを着て、顔はポケットの中にあったマスクで隠した。女性服で個人的には違和感を感じても、人の目には身長の小さい子供が姉のコートを着ているように見える。これで正体がばれる恐れはなくなった。

 僕と香月は病院の廊下に出て、人目につかない道を選んで反対側にある研究棟に向かった。エスカレーターは避けて、階段から二階にあるビルの連絡橋まで上がって行った。前回ここに来た時はまだ工事中で利用できなかった連絡橋が、今日はセキュリティカードを所持した関係者なら自由に出入りできるように変わっていた。僕は同行者として訪問シートに名前を書いて、一時的に使える出入りカードを発行してもらった。

 「どこに向かってますか?ドクター香月」

 迫力ある声の持ち主が、独特な呼び方で香月を呼び止めた。密かに後ろから、二人がいるところまで歩いて来る人々の存在を把握した。

 「おはようございます、虎徹(こてつ)先生。後にいる龍崎(りゅうざき)もお疲れ」

 「ハロー、今日の午後は休診じゃないんだっけ。研究棟には何か用件でもある?」

 子供のような雰囲気で挨拶をする男は、龍崎の名前で呼ばれた。

 「ああ、分かった。樹の一族に関した研究会が今日だったよね?」

 香月は揺れない声で、僕を後ろに隠した。

 「いいえ、研究会は先週行いました。今日は別件で訪れる予定です」

 それを聞いた虎徹という名前を持った男は、強く香月を壁に押し付けた。

 「誰ですか、この子は。またお金のない患者さんを診た場合は首になると警告したはずです。念のためにお聞きしますが、そのことを忘れましたか?」

 威圧的な雰囲気にひるまず、堂々と相手の顔に向かって顎を上げた。

 「研究目的であれば、たとえ身元不明の患者でも特殊患者診療録(SCC)に登録して診療する方針は、今年の経営会議で審査まで終わった方針ですが、虎徹先生はそれをご存知ないようですね。それとも知った上で、俺の邪魔をするおつもりでしょうか。文句があればご自分で病院長に言ってください。許可は得ております」

 「そう来ると思いました。SCCはまだ小児科に限った方針であり、他の部署には許可が降りていない状態です。これについてはどう説明してくれますか?」

「私の部署は、診察した患者のデータを研究目的で使用する条件で、先ほどの話と同じく病院長に合意を取っています。それとも他に何か別の理由で、また邪魔をするつもりですか」

 香月は自分より背の高い虎徹を、萎んだように眼球周囲に皺を寄せて睨み付けた。

 「前にも同じ理由でお断りしましたが、虎徹先生。そんなに俺が好きなら、正式に付き合ってあげますよ」

 「調子に乗るな、外道め。お前の家系はいつも出過ぎた真似をして人を困らせる。上の香月は結局のところ、犬死に同然の死に方で亡くなった。お前も近いうちに後を追うだろう。だが、この病院に恥をかかせる真似は許せない。数年前にお前の姉が犯した犯罪で、どれほどの同僚が同じ犯罪者扱いされたか、もう一度思い出させてやろうか?」

 香月が言った。

 「虎徹先生、それ以上は口にしない方がいいですよ」

 「はは、私に命令でもするつもりか?」

 「まさか。俺も虎徹さんには若死にしてもらって構わない主義だが、病院には迷惑をかけたくないだけです」

 香月は疲れた表情を浮かべながら、僕の頭に手を置いた。そして虎徹の方へ数歩近づき、声のトーンを落とす。

 「あなたがどれだけ俺を嫌ってるかは分かりますが──」

 香月の声は低く、普段の投げやりな口調に冷たい嘲笑が混じっていた。虎徹を見上げる目は、疲労の奥に軽蔑の光を宿している。

 「でも、俺は別に構わない。ただ、大人の都合で子供を巻き込むって、医者としてどうなんだろうね、虎徹」

 彼女の言葉は途中から敬語を捨て、相手を見下すような調子に変わっていた。まるで相手が自分より格下の存在であることを、わざわざ言葉遣いで示しているかのようだった。

 「落ち着け、春くん。お前がここで騒いでも、俺が面倒なだけだ」

 香月は疲れた表情で僕を見下ろした。

 血が頭に上る感覚で身体が熱くなる。拳が砕けるほど勝手に力が入った。僕はマスクを外して、母親の元同僚の顔を目に刻んだ。

 ここは、かつて両親が働いた病院であり、今回で二度目の訪問だった。先日は、他の病院から赴任されたばかりの母親と一緒に病院内を散歩した覚えがある。目の前の男は、その時にすれ違った爺さんと顔が似ている。鋭い目つきと油断を見せない鉄のような性格を、メガネの裏側に隠した人物だ。

 「何だ、その目は。親から礼儀というものを教わっていないのか?」

 世間では母親が起こした事件だと知らされているが、事実上は別の人だと僕は推測している。証拠はない。あくまで被害者である僕の視点でそう思っているだけで、それだけで犯人と決めつけるのは良くないと思うが、心証的には黒に傾く。

 「待てよ。この子の顔、どこかで見た覚えがある」

 じっと二人を後ろで見守っていた龍崎と呼ばれる医者が口を挟んできた。

 「そうそう!思い出したよ!君は緑埜家の坊やだね!以前、緑埜さんとお話しした時に息子さんのことを聞いたことがあるんだ。えーっと、名前は確か――」

 龍崎の声は明るく弾んでいて、まるで久しぶりに会った友達を見つけたかのような喜びが込められていた。

 「初めまして、炭咲千春と申します。父親からどんな話を聞いたか知りませんが、六年前に家族としての縁を切った状態で、最近まで顔を合わせたこともありません」

 「なるほど、教えてくれてありがとう。話は分かった。緑埜さんのところも色々と事情があるみたいですね。それにしても、苗字だけでなく名前も、元々は千春ではなかったですよね?僕の記憶では、亡くなった香月の名前が『千春』だったような気がします」

 黙って話を聞いていた虎徹が舌打ちをし、軽蔑を込めて呟いた。

 未だに母親への異常な執着に囚われているのか。相変わらず哀れな家族だ」

 「てめえ、今何て言った」

 頭に血が上った。気がついたときには、自分より背の高い虎徹に向かって突進していた。低い姿勢から踏み込んで、渾身の蹴りを腹部に叩き込む。虎徹がよろめいたところを、素早く足を払った。

 倒れた虎徹の胸ぐらを掴み、拳を振り上げる。

 「歯を数えるのが好きか?」

 僕は冷たく微笑んで言った。殴りかかる寸前のことだった。
 
 「そこまでにしろ」

 隣にいた香月が疲れ切った声で割り込んだ。白衣のポケットに手を突っ込んだまま、面倒臭そうに溜息をついている。いつものことだった。

 「俺の患者にするつもりか?」

 僕は握りしめた拳をそっと緩めた。風船から空気が抜けるみたいに、怒りが静かに消えていく。周りを見渡すと、いつの間にか多くの人たちが集まっている。奇妙な静寂があった。我に返った僕は、地面に倒れた虎徹に手を差し伸べた。

 「大怪我はしていないようで何よりです。弁償はいくらでもしますので、俺宛てに請求してください」

 その声は平坦で、感情が読み取れない。天気予報を読み上げるアナウンサーのようだった。そして、視線を周囲に向けて唖然とした龍崎に一口を溢した。

 「龍崎、悪いが、後のことは頼む」

 龍崎はただ口をぽかんと開けて立っていた。突然現れた宇宙人と遭遇した人のようだった。

「じゃあ、よろしく」

 龍崎は軽やかに手を振った。コンビニでお釣りを受け取るときのような、あまりにも日常的な仕草だった。何事もなかったかのように僕たちは人の目が集まった場所から離れ、隣のビルに向かう連絡橋のゲートを通った。

 特に警備に通報された様子はなかった。共有ラボに着くまで、僕と香月の間には気まずい空気が流れていたが、足音は引き続き廊下に響いた。何かを言いかけたようでもあったが、結局はすべての検査が終わるまで口を閉ざしたまま、互いの沈黙を見守った。

 「最近、何かいいことでもあったか?」

 カルテの内容を確認した香月からの質問だった。

 「特に何もないと思います」

 ふとステラの顔が浮かんだ。

 「三日前から、僕をパパだと慕っているノバナの面倒を見ています」

 香月はカルテを机の上に置いて、かけていたメガネを布で拭いた。

 「どうかしました?」

 「カルテの結果、春くんはどう思う?」

 「……去年よりは平均値に近い数値でしょうか?」

 「ああ、見た通りだ。木炭化が進行した割合に対して、体の成長もある程度進んでいる。血液中の樹の一族を攻撃していた白血球の数値も下がって、去年より健康な状態だ」

再びメガネをかけた香月がカルテをめくって話を続けた。

 「話が変わるけど、まだ聖次郎(せいじろう)のことを恨んでいる?」

 香月が遠慮がちに訊いてきた。診察室の白い壁に囲まれた空間で、その名前を口にするのは、古い傷口を再び開くような行為だった。

 聖次郎は、父親が緑埜家の女と結婚し婿養子となる前の旧姓だ。僕の昔の苗字でもある。炭咲は、僕が施設に入って一年が経った時に院長が勝手に付けてくれた苗字だ。火事から生き残った意味として付けてくれたらしい。名前だけは自分で決めたいと言って、母の名前を戸籍に載せた。

 「はあ、あいつはママと華栄を殺した真犯人です。しかも実の息子を実験体として扱って、最後は見捨てた人間以下の奴です。まだ恨んでいるかと聞きましたよね。答えは、はい、まだ恨んでいます。一生恨み続けると思います」

 しばらく視線を天井に向けて小さく息を漏らした。もう一度あいつのことを想像すると血が沸いてきた。

 「あいつが何を企んでいるか知りませんが、最近は僕の携帯に電話をかけてきます。また、しょぼい研究の実績のために僕が必要なのでしょう」

 「なるほど、分かった」

 香月はそれだけ言い残して口を閉じた。何かほろ苦い気持ちで僕の顔をなにげなく眺めて、頬を手で慰めてくれた。しかし僕はその優しさを受け取ることができず、ただ棚の研究備品がガラス越しに放つ冷たい光を見つめ続けていた。

 「俺の診察室に戻るまでの間、一緒に暮らしているノバナという人について話してくれないか」

 「ステラのことですか?特に研究のネタにはならないと思いますが」

 香月が僕の鼻を軽く掴んだ。

 「医療報告書という名の退屈な書類に囲まれた生活を送っていると、時折まったく違う種類の話を聞きたくなる。俺は今まさにそんな気分だ」

 僕は、ラボから出て同じ建物の一階にあるカフェで、香月が奢ってくれたカフェラテをテイクアウトしてベンチに座った。久しぶりに香月と仕事以外の話ができて、少しテンションが上がった。

 ステラを最初に遭遇した時から、カカシとの戦いで新吉原の花魁と出会えたことまで、すべて話した。香月は話の中でもカカシに関して特に興味を持った。具体的にどのような動きをして、心臓の代わりに懐中時計を原動力にした生物なのか機械なのかなどについても説明を求められた。論理的に説明できない部分は、適当に話を誤魔化した。

 会話を交わしてからだいぶ時間が経った頃、院内にアナウンスが流れた。

 「コード名、ブルー。繰り返します。コード名、ブルー。コード名、ブルー」

 「炭咲!」

 二階の連絡橋から僕の名前を叫ぶ声が一階まで響く。顔を仰いでみると、二階で顔だけ出したこひながいた。人形も着ていない生身の姿で、何か急用があって訪ねてきたのかも知らない。

 「ステラが黒いスーツの男たちに連れ去られたわ。今一階に向かってるから、絶対に逃がしちゃダメよ!」

 話を聞いてから、注意深く一階にいる一人一人に目を配った。車椅子に乗った患者と後ろで押してくれる保護者や看護師、または休憩に入ったスタッフがそれぞれの位置に立っている。怪しそうな人物はまだ見当たらないと思った頃、黒いスーツを着た大人たちが人群れに身を隠して僕がいるフロアに姿を現した。

 僕はまだ半分くらい残っているカフェラテを持ちながら、先方に歩いている男性に声をかけた。

 「こんにちは、カラスが昼間から病院に何の要件ですか?」

 僕の挨拶にカラスたちは動揺した。やはり僕の顔を知っている。となると、誰かに指図されて僕がいる病院まで来たか、あるいは偶然すれ違った可能性もゼロではない。何よりもステラを拉致した根拠がない状況で、下手に手を出せなかった。もう少し時間稼ぎをしつつ、情報を得る必要があった。

 「パパ!ステラ、ここにいる」

 呼びかけるステラの声と同時に、とある老人が尋常ではない動きで影から大きな袋を取り出した。

 「炭咲、その叔父さんが犯人よ!捕まえなさい」

 確信を得た時点では、影がステラの体を完全に呑み込んだ後だった。

 目的を達成したカラスは地面に手をついて、徐々に影の中へ沈んだ。僕は邪魔をするカラスたちを倒して、犯人の首筋を掴めた。

 「大人しくステラを影から吐き出せ。そうすれば灰にならずに済ませてあげる」

 微動だにも許せない口調で相手を見下ろした。首やその露わとなった肌が、焼けて赤く染まってゆく。しかし、カラスがいかに震えようとも、両腕、両脚とも微動だにもさせなかった。

 「ぐはっ...」血を吐きながらも、老人は苦笑いを浮かべた。「なるほど、噂に違わぬな。敵と見なした者には容赦せぬ坊ちゃんじゃ」

 言い終わった老人は、体を砂のように変えて影の中に溶け込んだ。

 カラスは僕のことを認知していて、それでもステラを優先した。つまり、僕の存在を知った依頼主が、あえてステラを攫ったということになる。誰の指示で来たのか、およそ見当がついた僕は、入口の回転ドアに向かって木製のベンチを投げつけた。

 普通は物が割れる音に恐怖を感じ、怖がって体をすくめるものだ。だが現在、その場に立ったまま僕の動きを警戒している人々が八人いる。混乱の中で冷静さを保った一人が、残り七人を指揮して僕を取り囲もうとした。あの人がこのグループのリーダーだ。

 「相手は一人だ。油断せずに一気に取り囲めろ」

 リーダーの指示に従い、七人のカラスが各自のトゲを構えて僕に向かってきた。

 最初の一人が右側から刃を振り上げた。僕は半歩後ろに下がり、二人目の左からの攻撃を腰を捻って避けた。しかし三人目の足払いを完全には避けきれず、バランスを崩した瞬間、四人目のトゲが左の二の腕を浅く切り裂いた。

 血が滴り落ち、木炭化した腕の表面で小さな火花が散った。五人目と六人目が同時に正面から襲いかかる。僕は右に転がって回避したが、七人目が既に回り込んでいた。その刃が右肩を掠め、新たな傷口が開いた。

 傷から流れる血は木炭の表面で蒸発し、薄い煙を立ち上らせた。体の組織が破壊され、同時に修復される奇妙な感覚が繰り返された。やがて両腕全体に炎が宿り、オレンジ色の光が周囲を照らし始めた。

 七人のカラスは一瞬動きを止め、炎の明るさに目を細めた。

 「一人だけ本拠地を吐け。そいつだけは灰にしないでやる」

 僕の言葉は静かに空気の中に放たれ、淡々と空気そのものを焼いて消した。カラスたちの瞳には、暖炉の奥で燃える人影が写っている。両手を包んで踊る炎を見て、僕の話が比喩ではないことを理解した様子だった。この少年の前では、沈黙は焼死を意味するのだと。

 接近系のトゲは僕の手のひらに触れてから、一分も経たない間に焼かれて灰になった。遠距離の相手は、腕から爆発を起こして距離を詰め、武器となるトゲを焼き尽くした。トゲは灰になり、トゲに触れた体の一部は焦げた傷跡を負った。一人ずつトゲが壊れる場面を後ろで見守るカラスは、灰になる仲間たちの悲鳴に怯えながらも、自ら前に出て参戦はしなかった。

 「時間だ」

 警告はした。僕は地面に散らばった、まだ温もりを残す灰を一握り掌に掬った。ほんの数分前まで呼吸をしていた人の灰は、風に連れ去られそうになったが、結局は僕の指の隙間に留まった。僕はその奇妙な質感を確かめるように掌を見つめてから、リーダーらしい男に向かって、静かに手を打ち合わせた。

 火の種と可燃性の灰が外部の衝撃でスパークを起こして、重い轟音が巻き上がり、点火した途端に爆発を起こした。爆発の衝撃で、僕は病院の外まで放り出され、アスファルトの地面に落ちてから二回ほど転んだ。

 耳元から金属音の耳鳴りが段々と車のクラクションに変わって聞こえた。ぼろぼろになった口の中は、血まみれの歯が何本か転がっている。

 生きていれば問題ない。病院の入口までの階段を徐に上がった。階段に一歩を踏み出す際に、胸から腹まで見えた肋骨に赤い肉が一筋ずつ付いた。最後に顎の骨が元の場所に戻って、自由に口を閉じられるようになった。

 僕は壊れた回転ドアを通って病院のロビーに入った。そして、真っ先にカラスのリーダーを探した。気絶した人々の中で、一人の男性が目に入った。男性は下半身を地面に引きずって、背中いっぱいに肘を足代わりにして動いていた。

 下に落ちた灰を素足で踏みにじりながら、ゆっくりとその男に近づいた。一歩、また一歩と歩くたび、灰は足の下で細かく砕け、風に舞い上がった。男は僕の足音を聞きつけて振り返り、その瞬間、動きを完全に止めた。

 胸の奥で何かが疼いた。怒りとも憐れみともつかない、鈍い感情だった。早く終わらせたい。男の震える背中を見ていると、苦いものが喉の奥に残る。
 
 圧力をかけるでもなく、ただ静かに。僕は、無言のまま男の左脚をつま先で押さえつけた。

 「本拠地を言いなさい」

 淡々と一言告げる。声に感情は込めなかった。

 「分かった。お、おれが全部話すから命は――」

 男の顔は青ざめ、額に汗の粒が浮かんだ。その震え声が途中で途切れ、男の体が煙のように姿を消した。背後から殺気を感じた。反射的に身を横に逸らして背中への刃を避けようとしたが、一歩先で倒れている看護師の姿を見て、咄嗟に攻撃を受け入れた。激痛は一瞬で消え、大量の血が背中を伝って流れ落ち、青い刀身を濡らした血は赤黒く凝固していった。

 「大量虐殺を起こした素町人の分際で、一抹の良心を残して何が変わる」

 爆発を生き延びたカラスは荒い息を吐き、血走った目を見開いている。額の深い傷が痛むのか、刀の柄を握る手がわずかに震えていた。相手がどのような能力者なのか完全には把握できていないが、それでも僕の方が優位に立っていることに変わりはない。

 一瞬の躊躇も、攫われたステラの命取りになりかねない。この戦いを早く片付けて、ステラの居場所を一刻も早く突き止めなければならない。体力も限界が近い。決着をつけるためには、ここでカラスを完全に無力化する必要があった。

 「カラスにだけは、人聞きの悪いことを言ってもらいたくないな。それを言うならお互い様じゃないか?僕だって、仕事でカラスのせいで散々な目に遭った」

 「たとえ同じ目的で動いているとしても、人殺しのバケモノと私たちを同様に扱われることは論外だ」

 「論外?僕が体で刀を防ごうとしなかったら、看護師さんが代わりにやられたと思うけど、これはどう説明しますか?」

 「君に詳細まで教える義理も義務もない」

 言い切ったカラスが呼吸を整え、身を低く構えて突撃の姿勢に移った。相手は刃物を持ったプロだ。距離を置いても、長いリーチとトゲの活用範囲が僕には不利に働く。

 一か八かの賭けに出るしかない。僕はカラスの懐に飛び込み、襲いかかる攻撃を左肩で受け止めた。その一瞬の隙を突いて武器を奪い取り、襟首を掴んで全身で相手に密着した。肌に焼けるような痛みを感じたカラスは、必死に僕から逃れようともがき始めた。まるで狂ったように身を捩らせながら、絶叫を上げ続けた。

 「子供をどこに連れて行ったか教えてください」

 「……分かった、分かったから放してくれ」

 「本拠地はどこにありますか?」

 「と、虎ノ門だ。とらの――」

 微かな声で駅名だけを言い残して、カラスは気を完全に失った。虎ノ門にはバベル直下の機関があり、あいつが勤めている緑埜家の本社も位置している。疑いを明確にする目的で、倒れたカラスの上着から業務用で使われている携帯を探した。

 画面ロックを解除し、連絡用のアプリを開いてメッセージの全文をざっと読み下した。マネージャー以上のグループチャットから現状の報告を求める連絡が届いていた。僕は倒れたカラスの『高橋』に代わって、「始末しました。本社に戻ります」と返答した。

 電源を切ってスマホを握ったまま息を長く吐いた。突然の本社からの出向に複雑な気分に惑わされた。僕が立てた計画に、今日このタイミングで父親と対面することは描いていなかった。まして、その人が僕の計画を見通した可能性は低くない。が、ステラと僕の関係を疑うほど、人との関係より目に見える結果を重視するタイプだった。

 僕は目を瞑って、頭の中で今までの出来事をまとめた。メッセージの内容を見る限り、虎ノ門の本社からカラスを病院に派遣するまでは約一時間かかった。ステラは病院に来るまで新吉原にいて、僕が病院にいることを知った後に追いかけて来た。冷静に考えれば考えるほど、ステラが発見されて、また攫われるまでの間が短すぎる。

 何もかもが辻褄の合わない状況に、妙な感心を覚えてしまう。僕は七年前にあいつに見捨てられた時と同じような、心細さと冷たい無力感に襲われた。しかし、いくら理屈を並べ立てても、答えは見つからないままだ。

 院内では、意識を取り戻した人々が金切り声で助けを求める一方で、通報を受けて現場に駆けつけた関係者たちが一階のロビーに押し寄せ、大変な混雑となっていた。

 僕は誰にも気づかれないうちに、倒れたカラスからスーツを脱がせて肩にかけた。サイズの大きい部分は折り込んで内側に入れて着る。靴も必要だったので、床に転がっているスリッパを拾って履いた。

 「炭咲?」

 こひなが人込みの中で僕の名前を呼んでいた。新吉原にはあとで忘れ物を取りに戻る予定だ。その時にこひなに今までの経緯を話して謝罪しようと心に決めて、聞こえてくる声に耳を塞ぎ、病院から立ち去った。

 垂れ落ちる鼻血を汚れたスーツの袖で拭いながら、僕は最寄りの駅に着くまで、決して振り返ることはなかった。

第5話

 東京の空から舞い散る雪が地面に薄く積もり、通りすがる人々の足音に踏み固められている。冷たい冬風に晒された鼻は赤く腫れ、マスクもせずに歩く僕の鼻水は止まらない。着込んだ服も東京の厳しい寒さには歯が立たない。

 それでも、僕の胸の奥で燃え続ける炭火のような感情は、決して消えることがなかった。乾いた薪に宿る火のように、僕の体を内側から温め続けている。

 改札を通り抜けてしばらく経つと、浅草行きの電車が滑り込んできた。車内には家族連れの乗客や、大きなキャリーバッグを持った観光客の姿があった。季節に合わない薄着の僕を見て、外国人観光客は不安そうに席を移動する。

 気にすることはない。僕はスーツのポケットに手を入れ、中身を確認した。会社の社員証とハンカチ、そして社員証の裏に挟まれた一万円札。非常用として、別のポケットにそっと移しておく。

 スマートフォンの電源ボタンを押すと、画面には韓国アイドルの写真が映し出された。時刻は午後二時を示している。そろそろ目的地の虎ノ門駅に到着する時間だ。

 「この電車は浅草行きです。まもなく虎ノ門、虎ノ門です。電車とホームの間が広く空いているところがあります。足元にご注意ください。出口は左側です」

 虎ノ門には二度と来ないと心に決めていた。それでも、ステラのためなら仕方がない。自分で立てた掟を破ってでも、ここに来る必要があった。

 地下の不快な臭いと薄暗い照明に包まれたホームから、改札口を目指して歩き始める。虎ノ門駅の構内は迷路のように複雑で、工事中の仮設壁が本来の通路を塞いでいた。壁に貼られた案内図を見ても、どの方向に向かえばいいのか分からない。

 結局、どの道も一つに繋がっていることに気づいた僕は、カラスに追跡されないよう駅員にスマートフォンを預けて、真っ直ぐ前方の通路を歩いてエスカレーターに乗った。地鳴りのような低い振動が、スリッパ越しにじわりと足の裏を侵食してきた。

 地上に出ると、文部科学省の重厚な建物が右手に見えた。公園を挟んで向こう側には、東京ミドリエビルディングがそびえ立っている。昼過ぎのロビーには低い話し声が絶えず流れており、コーヒーを片手に持った営業マンたちが角側に立って、誰かを待っているようだった。

 僕は手前にあるインフォメーションセンターで、セキュリティカードに記載された部署の所在階を確認し、エレベーターに乗って七階のボタンを押した。エレベーターは静かに上昇していく。その間、僕は壁に映る自分の姿を眺めていた。

 七階に着くと、扉が開いて僕は一人でその階に降り立った。他に誰も降りる人はいなかった。廊下には微かに空調の音が響いている。壁に貼られたオフィスレイアウト図を見つけて、対外資産管理本部の位置を確認する。レイアウト図は親切で分かりやすいイラストで各エリアを案内しており、この階には二つの部署がそれぞれの縄張りを主張するように領域を分け合っていた。キッチンやラウンジ、仮眠室といった設備も、まるで小さな村のように部署ごとに配置されている。

 フロア全体を見渡してみると、この階だけで優に百人は超える人々が、それぞれの小さな宇宙で働いているのだろうと思った。そのことが僕には少し不思議に感じられた。

 「何のご用件でしょうか」

 真面目そうな印象の女性が、落ち着いた声で話しかけてきた。僕より背が高い。スーツの着こなしがきちんとしていて、声には事務的な響きがあった。僕は素直にポケットからセキュリティカードを取り出し、拾った物を返しに来たのだと伝えた。

 「それは高橋さんの物ですね。本人が戻り次第、私からお渡しします。申し遅れました、中村と申します。高橋さんと同じ部署の者です」

 中村はセキュリティカードを受け取ると、表裏を丁寧に確認した。彼女の仕草には職業的な慎重さが感じられた。

 「失礼ですが、これをどちらで拾われたか教えていただけますか?」

 「花園大学医学部附属病院です」

 「かなり遠いところからわざわざ…」
 
 口調に微妙な変化が生じた。疑念というほどではないが、何かを測りかねているような響きがあった。

 「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 「あなた方には『緑埜家の坊ちゃん』と呼ばれているようですが、お分かりになりますか?」

 中村の表情が一瞬で変わった。それは僕が正しい場所に来たことを物語っていた。

 僕は迷いなく相手の膝裏を蹴り上げ、右手で首を掴んで押し倒した。重心を失った中村は抵抗する間もなく床に倒れた。それと同時に僕は彼女の喉を押さえ続けた。これで助けを呼ぶことは困難になるだろう。

 「フクロウと呼ばれる老人が連れ去った女の子を探しています。白い髪で、小学一年生くらいの年齢。言葉遣いが幼い子です。知っていますよね?どこに隠していますか?」

 彼女の瞳が動揺で揺れている。素直に答えそうな気配を感じて、僕は喉への圧力を緩めた。

 「侵入者発生! アカバナの男性一人です!」

 解放された中村が、すぐさま大声で仲間を呼んだ。僕は騙されたのだと思ったが、もうそれは問題ではなかった。事態は既に次の段階に移っていた。

 僕は中村の声に反応して駆けつけてきた「カラス」たちと、一人ずつ目を合わせた。どこかで見覚えのある光景が、再びこの場に再現されている。全員で四十人ほどが、エレベーター前に集結している。年齢も性別も様々な人々が、僕一人を止めるために、それぞれ武器を手に攻撃の構えを取った。

 見た限りでは、ステラはここにいない。だからといって、「退いてください」とお願いしても、素直に応じてくれる雰囲気ではなかった。

 「これから行われる全ての暴力行為と施設の破損は、皆さんの副社長であり、かつて聖次郎と呼ばれた道田という男と僕との間のプライベートな問題を解決するために必要な手段です。
 それゆえ、敵意を持って僕を止めようとする人は、緑埜さんに賛同しているものと判断し、灰にして差し上げます。恐怖を感じる方は逃げていただいて構いません。緑埜と違い、僕は弱者をいじめる趣味はありませんから」

 僕のこの警告めいた忠告を聞いて、カラスたちは露骨に嘲笑した。それはちょうど子供が大人の真似事をしているのを見るような、そんな笑いだった。僕も一緒に笑いながら、中村から取り戻した高橋のセキュリティカードを、皆の前に投げつけた。カードは静かに床に落ちて、小さな音を立てた。

 「先に灰になった高橋さんに、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます」

 挑発に釣られたカラスたちが、一斉に僕に向かって怒りを爆発させた。

 まずは人数を減らす必要がある。最初に突進してきた二人のトゲを灰に変え、例の方法で拍手を打った。金属と金属がぶつかり合う音が響き渡り、窓側の強化ガラスに亀裂が入る。

 一度目の拍手で同じ傷を負った体は、病院のロビーにいた時よりも速いスピードで再生を始めた。同時に、両腕の木炭化も加速していく。

 命を削る能力トゲと呪いによって、僕は徐々に死に向かっている。どのみち死ぬ運命の体だ。予定された死に対して、特に悲しみや悔しさといった感情は湧かない。ただ一つの希望として、父親の緑埜が大切にしている社会的名誉と築き上げてきたキャリアに大打撃を与えることができれば、それで満足して死ねるだろう。

 「同じことを繰り返すのも疲れますが、皆さんの仲間が拉致した女の子を探しています。白い髪で、小学一年生くらいの小さな子です。言葉遣いが幼く、よく泣きます。ご存知の方はいらっしゃいますか?」

 考えないようにしていたが、実は最近、一つの重大な懸念があった。ステラの存在についてだ。

 今まで街中で出会った数多くのノバナたちを、自分の手で施設に送り届けてきた。しかし、強い信頼関係を築けた子供は、ステラが初めてだった。

 普通のノバナは、警戒心を解くことなく、別れるまで無言か無関心を貫く。ところが、ステラは違った。僕を「パパ」と呼んで家族として認識してくれた。

 あの声を初めて聞いた時、僕は暗い微笑を浮かべた。僕のような人間には、人の親になる資格など所詮ない。俗念(ぞくねん)にまみれた、人格者からは程遠い存在だと思っていた。

 けれど、ステラと出会ってからは何かが変わった。家族の死を迎えるにふさわしい人生を送ってきた僕が、本来存在しないはずの親心を感じるようになった。この感情は、一生懸命に守りたいという気持ちとして現れた。

 説明は難しい。理解も不可能だった。ただ、僕の中で何かが静かに変化していることだけは確かだった。

 「パパ」と呼ばれた時から、色を失った僕の世界は、たった一人の子供を守るための世界に作り替えられた。ステラから存在意義を授けられたのだ。

 いずれ遅かれ早かれ別れる関係だと、僕も自覚している。あまり深く関わらない方が、別れた後の互いの生活への影響は少ないはずだった。

 「もう一度お聞きします。女の子は、どこにいますか?」

 僕は不機嫌な声で問いかけた。
 
 頭の中では冷静に判断しようとしても、心はステラを求めている。どうやら僕は、情愛中毒に陥ってしまったようだ。理性と感情の間で、何かが静かに軋んでいた。

 「少しお待ちください。秘書室の熊捕からお電話が入りました。出てもよろしいでしょうか」

 四十人の中で五人だけが意識を保ち、状況を見守っている。秘書室は副社長の直下にある部署だ。もしかすると、緑埜からの連絡かも知らない。

 「その電話、僕が出てもいいですか?」

 手に持っていた誰かの肉片を放り投げて、内線電話に耳を傾けた。

 「炭咲様」

 中性的で穏やかな声がスピーカーの向こうから聞こえてきた。

 「お久しぶりです。秘書室の熊捕(くまとり)でございます。先日は色々とお世話になりました。本日は本社にお越しいただき、ありがとうございます」

 熊捕は、本題に入る前から礼儀正しい口調で会話の主導権を握った。初対面の時からそうだった。緑埜の代理人として、あらゆる書類を手際よく処理し、退院した僕を施設に送り込んだ張本人だ。とにかく僕には気の毒な人だった。
 
 熊捕という名前も、古風でしかしどこか人工的な響きがある。僕にはいつも、誰かが慎重に選んだ偽名のような印象を与えていた。

 「お手数をおかけして申し訳ございません。今からお迎えに参りますので、一緒に執務室までお越しいただけますでしょうか。緑埜副社長がお待ちしております」

 「花園大学医学部附属病院から女の子が一人攫われました。福社長の緑埜さんの命令ですか? それとも単なるビジネス犯罪ですか?」

 「ご用件については承知いたしました。恐れ入りますが、通話では共有できる部分が限られておりますので、直接お会いしてからお伝えします。五分後にそちらへ参ります。少々お待ちください」

 それだけ言い残して、熊捕の方から一方的に電話を切った。

 「この階に男子トイレはどこにありますか?」

 僕は受話器を置いて、一人で男子トイレに向かった。

 戦いで汚れた顔を冷たい水で洗い流し、トイレットペーパーで丁寧に拭き取る。洗面台の鏡に映った自分の姿は、髪の色が極限まで抜けて真っ白に変わり、長さもかなり伸びていた。なんとも無様な格好だった。

 臨機応変に、水で前髪やサイドの髪を後ろに撫でつけてオールバックにする。それで少しはマシに見えた。

 身なりを整えてトイレを出ようとした瞬間、僕は口から大量の血を噴き出すように吐いた。激しく咳き込み、痰が詰まる苦しさと共に、ひどいめまいがしてうずくまった。短時間にトゲを使い回した反動が始まったのだ。

 内臓がついに限界を超えて悲鳴を上げているような気がする。とにかく、外にいる人々に気づかれないうちに、香月からもらった薬を喉に押し込んだ。

 まだ耐えられる。僕は乱れた髪をもう一度後ろに撫でつけながら、血で汚れた口の周りを水できれいに洗い流した。鏡に映った自分の顔は、さっきとは様変わりしていた。顔色は青白く、目の下に黒い隈ができ、鼻や歯からは血が流れている。

 自分の病弱な姿に呆れた。僕はできる限り血を拭き取り、深呼吸を繰り返した。唇は強く噛んで赤くし、頬は軽く叩いて血色を良くする。痛みも苦しさも、どこか他人事の他人事のように捉えながら冷静さを取り戻した。

 「大丈夫だ。少し計画が早まっただけだ。しっかりしろ」

 僕は声に出して、自分の決意を固めた。

 トイレを出ると、カラスたちが三々五々、群れを作って人が出てくるのを待っていた。僕は待機していた女性のカラスにヘアゴムを二個借りて、後ろ髪をポニーテールに結んだ。

 「お待ちしておりました。執務室までは私がご案内させていただきます」

 熊捕がエレベーターから降りて、廊下から僕に挨拶をした。相変わらず背の高い人だと思う。熊捕は身長百八十センチの元日本代表クライミング選手だった。スーツの上からでも、引き締まった筋肉が見て取れた。

 当時四十歳だった熊捕は、今年で五十歳になったというのに、体つきを見ると三十代に負けないほど鍛えられている。漢字の通り、本当に(クマ)のようだ。

 「前より背が伸びたような気がします。最近、筋トレでもされていますか?」

 熊捕が何気なく気づいたことを口にした。

 「失礼しました。この階に着いてから、逞しい気迫を感じ取って、つい思ったことを口に出してしまいました。どうぞ、気にせずお乗りください」

 ノバナの僕が成長するはずはない。そう思って、エレベーターの鏡から自分の横顔を落ち着きなく眺めた。僕の目にはまだ何の変化も見当たらず、今も相変わらず小さな体に過ぎなかった。

 「ドアを閉めさせていただきます。眩暈がする可能性がありますので、手すりにおつかまりください」

 二人を乗せたエレベーターは、静かに三十階まで上がり続けた。途中から、東京市内が一望できるガラス張りの壁が現れ、気まずい雰囲気から逃れることができた。

 まだ冬の季節に染まった街は、上空から見ても白一色だった。東の方角には、新吉原と思われる高層建築群も見える。東京タワーより低くても、東京に住む数万人の欲望を吸い取るその場所の存在感は、一度目に入れば、どこにいても見つけ出せる。

 お礼とお詫びを言わなければならない人がいる時は、なおさらだった。

 到着しました。足元にお気をつけください」

 電子チャイム音とともにエレベーターの扉が開いた。地上から離れた高層階には、のどかで美しい風景と壮大な建築物が広がっていた。窓の向こうの庭園には、寒木瓜や椿をはじめとした冬の花が色鮮やかに咲き誇っている。

 内部は天井が高く、白い大理石の柱が空間を支えている。窓からは地平線の彼方まで見渡すことができた。建築に興味がなくても、これほど重厚な素材で建てられたビルなら、耐震工事にかなりの費用がかかっただろうと思われる。

 「炭咲様、執務室はこちらです」

 熊捕に案内されて、僕は緑埜のいるところまで歩いていった。廊下の壁には骨董品やヨーロッパの古い絵画が並んでいたけれど、どれも僕の心を動かすものではなかった。

 でも、ある絵の前で僕の足は自然に止まった。三人家族を描いた水彩画だった。父親と緑埜家の奥さん、それから小さな女の子。不思議なことに、その絵だけが照明の光を受けて、まるで内側から光を放っているように見えた。家族が寄り添って過ごす穏やかな時間を切り取った、静かで幸福な絵だった。

 僕はしばらくその絵を見つめていた。なぜかはわからないけれど、その絵は僕の中の何かに触れたのだった。

「どうかなさいましたか?」

 油絵の中に描いている父親は偽善者の面に笑みを浮かべ、正面の僕を見つめていた。あの顔と向き合うまでに七年もかかった。子を捨て、家族を犠牲にしてまで仕事に夢中だった男にとって、この絵は家族への欺瞞に満ちた行為にしか思えない。人付き合いの悪い僕が人を評価できる立場ではないが、父親に関しては断言できる。あれは家族を作ってはいけない男だ。

「行きます」

 もう一度、幸せそうな絵画に視線を向けてから僕は答えた。

 熊捕は執務室の前で二回ノックし、扉を開けた。室内は中央に長い応接テーブルがあり、壁際には本棚が並んでいる。曇り空のようなブルーグレーの床と洒落た家具は、どれも高級品に見えた。

 「お前はそこに座れ。熊捕、お茶を用意しろ。お菓子も一緒に頼む」

 「承知いたしました。京都のお土産をお持ちします」

 「いや、それは既に各務家の娘に渡したから残っていない。この間の出張で買ってきた温泉饅頭がある。それを出せばいい」

 この人は望み通りに出世したのだ、と僕は思った。昔から毎日を書斎に閉じこもり、家族に背を向けて研究だけに時間を費やした人だった。週末の家族旅行は時間の無駄だと言って、家で小さなケーキやケンタッキーを注文して食べた記憶しかない。家族写真は古いデジタルカメラで撮って家のプリンターで印刷し、小さなアルバムに保管していた。骨の髄まで自分のことしか考えない人間——それが僕の元父親だった。

「何をぼんやりしている。座らないのか?」

単刀直入(たんとうちょくにゅう)に聞きます。二時間前に病院から連れ去った女の子は、今どこにいますか?」

 緑埜はテーブル前のソファに腰を下ろした。「座れと言っただろう。話はその後だ」

 高圧的な口調に、反論も交渉の余地も許されなかった。僕はステラの話をする気持ちを抑えて、大人しく一番離れた席に座った。

 「炭咲様にはウーロン茶をご用意しました。饅頭と一緒にどうぞ」

 熊捕がテーブルにお茶とピンクと緑色の饅頭を置いた。

 「お話が終わりましたら、呼んでください」

 事務室の空気が急に重くなった。饅頭を味見するよりも早く、ステラを連れて家に帰りたいと思った。

そういえば、今住んでいる部屋にステラと二人で暮らすことについて考えを巡らせていた頃、向こうから六年ぶりに話しかけてきた。何かに背中を押されたように、口を開く。六年間の沈黙を破って。

 「お前はいつまでそうやって逃げているつもりだ。そろそろ本家に帰って来い」

 声は低く、抑制されている。その奥には長い間押し殺してきた何かがある。僕に対する苛立ちか、それとも諦めか。あるいは、もっと複雑な感情なのかもしれない。

 父親はしばらく沈黙が続いて、今度は少し違う口調で言った。
 
 「芙美にも会わせてやりたいんだ」

 緑埜(みどりえ)芙美(ふみ)。僕は一度もあの女を母親と思ったことはなかった。でも、そのことを口に出すつもりはない。そんなことを言っても、何も変わらないということを知っている。

 僕は熱いウーロン茶を一口で飲み干して軽く息を吐いた。

 「言いたいことはそれだけですか?何か勘違いをされているようですが、僕はステラの居場所を聞きに来ました。他に話すことはありません」

 父親は眉間に皺を寄せて、無言で目を閉じたまま、別の角度から話を切り出した。

 「質問を変えよう。これからあの子をどうするつもりだ」

 その声には、最初の厳しさとは違う何かがあった。実用的な、現実的な響きだった。

 「まさか君が一生面倒を見るつもりじゃないだろうな。まだ未成年なんだぞ」

 どの口でそれを言うのか。僕はそう思うだけで、沈黙で言い返した。心の中では答えを知っていた。僕はステラを手放すつもりはない。それがどんなに馬鹿げたことだと思われようとも。

 「やはりあなたが依頼主でしたか。なるほど、教えてくれてありがとうございます。あの子は今どこにいますか?」

 「実の父親に向かって、その呼び方はなんだ。僕はお前をそんな風に育てた覚えはない」

 「当然です。あなたのお金で育てられた息子は、七年前に起きた東京大火災で死にました。今この場いる(ぼく)は、失った家族を取り戻しにきたただの他人です」
 
 「貴様!」
 
 僕は何も答えず、ただ机の上の空っぽのコップを眺めていた。その透明な底に、何か答えがあるかのように。

「ステラはどこにいますか?」

 僕は事務的に尋ねたが、返ってきたのは怒鳴り声だけだった。七年経っても、この人は何も変わっていなかった。

 「ステラの居場所を教えていただけないなら、ここで失礼します。お忙しい中、ありがとうございました」

 「この恩知らずが!」
 
 父親がテーブルを叩きながら声を吐き出した。

 「お前だけが被害者だと思っているのか?あの夜に千春と華栄が亡くなったのは、君にも責任がある」

 七年という長い時間をかけても消し去ることのできなかった罪悪感が、地面に垂れた影のように僕の肩に戻ってきた。

「いい加減、あの二人の死を他人のせいにするのはやめろ。過去に取り憑かれていても、亡くなった二人は蘇らない。生きている人間は前に進むのが、この世の道理だ」

 道理という言葉が胸に深く刺さった。この人は一体何を理解しているというのだろう。優れた言葉に己の身を隠して、大人らしい振る舞いを見せても、それは過ちを美しく装飾しているようにしか思えない。緑埜家の娘は、この男の何を見て再婚を決めたのだろう。僕にはそれが解らなかった。

 家族は死んでも家族だ。それは変えようのない事実だった。無視しようとしても、忘れようとしても、魂に刻まれた関係について他人からああだこうだと言われると、僕の中の何かが静かに怒りを燃やし始める。それは深い井戸の底で燃える炎のような、抑制された怒りだった。

 「十分説明したから、お前も理解したと思うが——」

 父親は携帯を取り出して誰かに電話をかけた。

 「今日、お前の妹が本社を訪れる予定だ。この際、顔を合わせて挨拶しておけ」

 なんて、おぞましい想像だろう。僕は歯を食いしばり、ソファに背中を預けて天井を見上げた。照明に照らされたコンクリートの壁が、色のついた泥のように見えた。

 キリのない会話に疲れて、僕は軽い酔いのような眩暈を覚えた。一方、父親という男は革張りの椅子に座り直すと、机の上の内線電話を取り上げて熊捕に連絡を入れた。

 「優香(ユカ)に連絡して、今どの辺りにいるか確認してくれ」

 「お客様の方はいかがいたしますか?」

 スピーカーモードで通話の内容が部屋の中に広がった。

 「契約を果たすまでは帰らないとおっしゃっています」

 「各務家に借りを作る良い機会だ。私が契約書を持って直接会いに行くまで、ゲストルームには誰も近づけるな。用事が終わってからそちらに向かう」

 内線を切ると、席を立って机の引き出しを開け、何かを探し始めた。

 「最近、お前が仕事を休んでいることは知っている。多い金額ではないが、しばらくこれで生活できるだろう。受け取れ」

 また自分の分を越えたお節介で、人を見くびっている。歳を取っても変わらない作り物の表情が、心配するふりをして百パーセントの嘘を湛えている。一方で、相変わらず昔のままでいてくれて安心した。

 僕は封筒を開けて中身を確認した。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚入っていた。今まで通り、お金で二人の関係を何とか誤魔化すつもりだろう。ますます人を失望させる思考回路を持った男だ。他の人なら多少のお世辞も言えるが、「こいつにだけは借りを作りたくない」と思う自分がいた。「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けると、ストレスで病気になる」と呆れている自分もいた。
結局、お金の入った封筒はテーブルの上に置いて、最後にステラの所在を聞いた。

 僕は封筒を開けて中身を確認した。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚入っていた。

 いつものパターンだった。お金で何とかしようとする。この男はいつもそうだった。問題が起きると、まずお金を出す。それで解決したような気になる。まるでお金さえあれば、人の心も時間も買えると信じているかのように。

 僕は封筒をテーブルの上に戻した。

 「こんなもので何とかなると思っているんですか」

 父親は何も答えなかった。でも、その顔には困惑の色が浮かんでいた。お金で解決できない問題があるということが、この人には理解できないだろう。本当に、気が合わない人間だ。

 「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けると、ストレスで病気になりそうです」

 僕は率直に言った。もう隠すつもりはなかった。

 「最後に聞きます。ステラはどこにいますか」

 長い沈黙が流れた。時計の針の音だけが、静かに時を刻んでいた。

 「またその話か?君は、たかが実験体の女の子が実の家族よりも大事だと言いたいのか?諦めろ。アレはもうお前の手を離れている」

 「実験体って何ですか?初耳です。あの子は僕が街で救ったノバナです」

 「これを読んでみろ。お前が救ったという女の子は、各務家の娘が作り出した禁断の子供だ。これが第三者にバベルに通報された場合、お前は一朝にして重罪犯になる」

 父親の手には契約書があった。既に社内稟議も通っているようだった。

 僕はその契約書を読んだ。

 『花と巨樹の遺伝子情報を組み合わせて改良品種に成功した新しい花に関する全ての研究資料を、ミドリエ製薬会社に提供する』

 新しい花の詳細には、性別の『女』だけが表記されていた。名前も特徴も記載されていない。まるでステラが物のように扱われている。

 契約内容を見ると、一方的にミドリエ側が得をする条件ばかりだった。常識的に考えて、こんな契約が成立するはずがない。立派な会社を経営している代表が、自ら機密情報をライバル会社に渡すなど、現実的ではない。

 契約相手の会社名には『株式会社各務コーポレーション』とあった。担当者の名前欄は空白になっている。

 熊捕との内線での会話から推測すると、各務家の代理人は今、この建物のゲストルームにいる。自分で確かめるしかない。

 僕はそう決めた。

 「分かりました。僕もその場に同席させてください」

 「却下する。一般人が契約に口を挟まれては困る。君は優香が着くまでここで待て」

 「何か勘違いしていませんか?はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です。最後に、緑埜の娘と僕を二人きりにしても本当に問題ないとお思いですか?もし僕が『実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体にしたことがある』と真実を伝えたら——」

 「何か勘違いしていませんか?」

 僕は穏やかに言った。まるで天気の話をするように。

 「はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です」

 父親は黙っていた。僕は続けた。

 「緑埜の娘と僕を二人きりにしても本当に問題ないとお思いですか?」

 僕は微笑んだ。とても自然な微笑みだった。

 「もし僕が彼女に話したらどうなるでしょうね。実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体にしたことがある、と」

 父親の顔に影が落ちた。当たりだったようだ。

 「そんな話を聞いたら、あなたの娘はどう思うでしょうか。きっと興味深く思うでしょうね」

 僕は椅子に深く腰を下ろした。

 「さて、どうしますか?」

 最後の言葉でブチ切れた父親に、頬を殴られた。口の中から血の味がする。最後は荒い息を吸い込み、もう一度同じ頬を手のひらで叩いた。久しぶりの痛みだった。昔はたまに怒られるたびに、掃除道具で手のひらやふくらはぎを叩かれた。あの頃は痛みよりも恐怖が強く、父親から逃げ回った記憶がある。

 最後の言葉で父親の中の何かが音を立てて壊れた。長い間抑えていた何かが、一気に噴き出した。僕の頬に平手打ちが飛んできた。口の中に血の味が広がる。鉄のような、懐かしい味だった。父親は荒い息を吸い込んでいる。そして、もう一度同じ頬を叩いた。久しぶりの痛みだった。しかし、不思議と痛くなかった。昔に比べれば、ずっと軽い。

 昔はもっと酷かった時もあった。怒られるたびに、掃除道具で手のひらやふくらはぎを叩かれた。あの頃は痛みよりも恐怖の方が強くて、僕は父親から逃げ回っていた。

 「終わりましたか?」

 僕は頬を手で拭いながら言った。

 「随分弱くなりましたね」

 「黙れ。その生意気な口をきくのはやめろ。私の我慢も限界だ。何のために、誰のために、私があのプロジェクトに参加したと思ってるんだ?」

 とうとう怒りが頂点に達し、父親の顔は怒りで歪み、全身に震えが走った。

 「結局、家族みんなを道連れにして、残ったのは僕一人だけじゃないですか。誰のためなんて、もうその言葉は聞きたくない。卑怯ですよ、そういう言い方は。子供だった僕が親に逆らって拒否できたと本気で思ってるんですか?父さんに責任があるとは考えないんですか?正直に言ってくださいよ。俺は失敗して逃げた、俺は家族を犠牲にしてここまで来たって、妹の前ではっきり言ってみてください」

 「黙れと言ったはずだ!」

 もう一発殴られたところで、二人の関係がこれ以上悪化することも改善されることもなかった。根深いところで互いを憎悪し合い、いつしか腐敗した悪臭が立ち込めていることにも気づかず、今なお引きずっている関係——それが僕たちの現実だった。

 傷だらけの二人の間で、冷酷な内線電話が鳴り止まない。しつこく響く音に、最後はケーブルを引きちぎって壁に投げつけた。飛び散った欠片が身体に突き刺さり、小さな切り傷を作った。

 「気が済むまで殴ってもらっても構いません。ただし、その後は必ず僕も一緒に、各務家の代理人がいる部屋に連れて行ってください」

 父親は血色を失った作り物のような表情で答えた。

 「お前と口論するのにももう疲れた。勝手にしろ。だが、お前はあくまで熊捕の代理で参加することを忘れるな。独断で妨害するようなら、会社として個人のお前を相手に訴訟を起こす。返事は?」

 僕は約束を交わして、ソファに身を沈め直し、頬の血を拭った。ステラを取り戻すまで、もう少しの辛抱だ。離ればなれになってからまだ一日も経っていないのに、三日間は過ぎたような感覚がする。次に顔を合わせる時にステラがお腹を空かせているだろうと思い、熊捕から譲り受けた土産をポケットに忍ばせた。小豆味と苺味だった。

この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

復讐に囚われた十四歳の少年・炭咲。両腕を木炭に変えられ、炎を操る異能を得た彼の前に現れた少女。「パパ」と呼びかける彼女もまた、捨てられた子供だった。炭咲は彼女に「ステラ」(捨てられた子という意味)と名付ける。 製薬会社の重役・各務アリマとの七日間の契約を通じて、三人は束の間の家族となる。しかし、真の絆が芽生えた時、悲劇が彼らを襲う。 血のつながりを超えた家族愛、失うことの痛み、そして再生への希望。現代社会に生きる私たちが抱える孤独感と、人とのつながりの大切さを描いた現代心理小説。 炭を操る能力や神の存在といった幻想的な要素は、登場人物の心理状態を象徴的に表現する装置として機能し、文学的な深みと現代的な感覚を併せ持つ作品です。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-07-05

Copyrighted
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  1. 第1話
  2. 第2話
  3. 第3話
  4. 第4話
  5. 第5話