鉢のなか

 夜はしばしば魔物を引き連れてくる。それは枕元に忍び寄り、目を瞑って意識を遠のかそうと試みる私を、ヒソヒソ声で邪魔する。
 過去の失敗、将来の不安、いま現在の後悔。すべての負の感情がないまぜになり、ぐつぐつ煮込まれ、溢れそうになる。遠くでバイクの音。太ももにあたるシーツがぐっしょりと湿って気持ち悪い。首に髪がまとわりついて痒い……たまらず、起き上がる。
 真っ暗闇のなか、スマートフォンを点ける。午前1時23分。寝床に入ってやっと2時間。絶望がゆっくりと胸に広がるが、肝は冷えない。ずっと茹ったままだ。
 汗を吸い切って重くなったブラトップを脱ぎ捨て、窓際を見やる。窓の上。真夜中でも薄っすらと浮かび上がる白の長方形は、騙し騙し使っていた中古のエアコン。今日の夕方、ついに息を引き取った。我が家で4度目の夏を過ごそうかという、まさにその瞬間の惨事であった。希望はなく、電気屋に確認すると取り付け工事は早くて来月の中旬ごろになるとのこと。ここまで容赦がないと、他人事のようにすら思えてくる。
 散々睨んだ置物から目を外し、窓の外へ。網戸すらまどろっこしくて全開にしているそこには、申し訳程度の風鈴をひとつ垂らしている。まだ学生だった頃、近所のアンティークショップで買ったものだ。実家暮らしの若者か、それなりに稼げるようになった社会人しか買えないような、微妙な値段だったことは覚えている。端が波打っていて、池をさかさまにしたみたいなデザインに一目惚れをしたのだった。長らくクローゼットに押し込まれていたのが、今日数年の時を経てのデビューとなる。風のない熱帯夜。当然、涼やかな音など鳴らない。同じくクローゼットから引っ張り出した扇風機も全力稼働しているが、温い空気を掻き回すだけで、歯も立たない状態だ。
 水道水をがぶ飲みし、風呂場で何度めかの行水をして、なんとか寝ようと試みる。極限まで蒸された六畳一間は、まるで地獄の窯のようだ。神様、私が一体何をしたというのですか。ただ目先の金を出し惜しんで型落ちのエアコンを買い、異音のするそれを薄目で使い続けただけではありませんか。
 即興で創った信仰相手に懺悔しながら、浅い呼吸を繰り返しただただ目を瞑る。今日食べたもの、昨日観たアニメなんかを反芻しながら、逃げ場のない亜熱帯からなんとか意識を遠のけた。

 ちゃぷん、と音がする。ちゃぷり、ちゃぷちゃぷ、ちゃぷん。水のたまりが緩やかに揺れる音。
 目を開けると、部屋一面が水影に覆われていた。天井壁床はもちろん、ベッドやクローゼット、描きかけのイラスト、空になったスナック菓子の袋……すべてがきらきら揺蕩う波の模様に沈み、静かな眠りについていた。
 起き上がり、部屋のなかを歩き回る。六畳一間がやけに広い。子供の頃によく遊びに行った田舎のおばあちゃんの家の客間くらいはある。裸足の感触がフローリングからい草に変わり、辺りに畳が広がる。唐草模様のローテーブルに、誰かがかじったスイカ、縁側に放置された、解きかけのナンプレ。これはいつの記憶か、そもそも誰の記憶なのか。わからないまま、果てのない和室を彷徨い歩く。相変わらず水音がどこからか聞こえる。畳を踏みしめる裸足に、いつの間にか生えてきた水草が絡みつく。
 やがて、終点であろう場所に行き着く。おかっぱ頭の女の子達が三人、手鞠をついて遊んでいた。夕焼けのように真っ赤な、朱色の浴衣を着ている。……あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ……。
 その手元が急に暗くなったので、上を見上げる。大きな鯨が一匹、悠然と室内を泳いでいた。……ちょっと待って。ここは淡水なのか海水なのか。変なところに意識が向いてしまう。ふと、くすくすと笑い声が聞こえる。どこからかわからない。女の子達は真っ赤な影になって、鯨よりもずっと早くわたしのなかを泳いでいる……。

 カラスの鳴き声で目を醒ます。窓の外は淡い茜色に染まっていた。スマートフォンを起動する。午前4時50分。
 汗だくの顔をそこらに転がっていたタオルで拭っていると、ふと窓先の風鈴と目が合った。

 朝陽に光るガラスの鉢には、小さな金魚が3匹、優雅に泳いでいた。

鉢のなか

鉢のなか

文披31題 Day2 風鈴にちなんだ掌編

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-02

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