東山界隈 ― 湿度の中の人々 ―

東山界隈 ― 湿度の中の人々 ―

七条大橋たもとの包丁草

七条大橋のたもとに、誰も気づかないような小さな河川敷の陸地がある。
秋は芋のような葉っぱがひらひらして、夏は…包丁草。

正式な名前は知らない。調べる気もない。
でも、包丁草って勝手に呼んでる。なんか…そういう感じの葉っぱ。
尖ってて、深緑で、刃物みたいな線が入ってる。

あたしはそこに、毎朝と放課後、通るたびにちょっとだけ座ってる。
座るっていうか、立ち止まるって感じ。
ちょっとだけ、何も考えない時間。
誰にも知られてない、あたしだけの場所だった。

去年のある日。
白いシャツ着た観光客の男が、その場所に降りてた。
缶コーヒー片手に、スマホでパシャパシャ写真撮って。

心の中でちっちゃい自分が、ものすごい声で叫んでた。

やめろ、そこは、そこは、あたしのとこや。
誰のもんでもないけど、誰のものにもしたくないんや。

…それ以来、なんとなく、行くのを避けた。
見ると悲しくなりそうで。
その男がまたいたら、って思っただけで、腹の中がぎゅってなる。

でも、今年の夏。

包丁草がぼうぼうに生い茂った。
誰も踏み入れない。座れない。
観光客の姿も、とうとう見なかった。

それが、もう、嬉しくて嬉しくてしかたなかった。

誰にも言えないことって、ある。
しかもそれが、自分でもちょっと気持ち悪いくらい嬉しいときって、
もっと言えない。

包丁草の中に立って、風で揺れる葉の音を聞いた。
ざわざわざわ。
あたしの心が笑ってた。

誰かに見られる喜びより、
見られないままでいる幸せって、あるんだと思う。

猫のいない坂

うちのおばあちゃんが言うには、
昔はこのへんにも猫がいっぱいおったんやて。
でも、いまはおらん。

一匹も。
見たことない。

八坂さんの方まで歩いても、
軒下にも、路地にも、
猫の声はせえへん。

「なんでやろ?」って聞いたら、
おばあちゃんはちょっと黙ってから、
「みんな、三味線になったんかもなあ」って笑った。

ぼくはその日から、
三味線がちょっと怖くなった。

お稽古事でお姉ちゃんが通ってるお師匠さんの部屋の、
柱に立てかけてある三味線。
胴のとこを、じっと見ると、
なにかの目玉が閉じてるみたいに思えるときがある。

祇園こうぶっていうとこでは、
夜になるとお姉さんたちがその三味線を鳴らしてるらしい。
ぼくはまだ見たことないけど、
その音に猫が入ってるんやと思うと、
耳をふさぎたくなる。

東山の坂を下って、
また上って、
それでも猫はおらん。

鳴かへん。
眠らへん。
死んだあとも、音になってしまう。

ぼくは、
なんか、
この町がこわい。

でも、
たぶんそれは、ぼくだけなんやと思う。

目玉の奥で斬る

東山三条の小さな喫茶店で、彼はいつも決まった席に座っていた。
カウンターの角、観葉植物の影。
木暮香澄はその視線に、もう何度も体をなぞられていた。

眼鏡の奥にこもる目は、礼儀正しく、執拗だった。
瞬きの間に評価し、すれ違いざまに保管する。
だが彼は言葉を発しない。ただ、じっと見る。
まるで寺の地蔵のように。

香澄はノートPCを広げた。
指が沈黙を破る。キーボードが、彼の存在を言葉で汚していく。

「彼の視線は、水の濁りだ。
 一度入ったら、抜けられないヌルヌルの底に引きずり込まれる。」

文は進む。
彼は何も変わらない。
しかし香澄の中では、既に彼は“斬られて”いた。

「その目は、神のふりをした犬の目だ。
 下から覗き上げて、媚びて、歯を隠す。」

カフェの中はジャズとアイスコーヒーの汗ばみ。
彼はカップを持ち上げ、香澄の方を向いた。
その瞬間、香澄はそっと目を逸らした。
言葉はまだ止まらない。

「彼は私を見ているのではない。
 若さという物体を、棚に並べている。」

次の日も、その次の日も彼はいた。
そして、ある日突然、いなくなった。

空いた椅子は、ただそこに在る。
香澄は打鍵の指を止めた。
肩が、少しだけ軽くなっていた。
けれど、奇妙な空虚さが胸に溜まる。

――自分は、見られることで完成していたのではないか。
そんな疑念が、湿った夏の空気と共に喉に貼りついた。

その夜、彼女は全ての文章を消去した。
「作品」ではなく、ただの呪詛だったことに気づいてしまったからだ。

それでも翌日、また彼女は喫茶店に向かった。
パソコンは持たず、小さな文庫本だけを手にして。
カウンターの角に空席はあったが、彼女は奥の窓辺に座った。

彼を斬ったことに満足していない。
でも、斬らずに済ますほど、世界を赦しているわけでもない。

香澄はページをめくりながら、
目の奥で、また別の誰かを斬る準備をしていた。

灰皿のあった朝

シゲさんは、毎朝7時すぎに来る。
チューハイ、新聞、セッターのソフトパック。
何も言わなくても私がレジに立ってるときは、目だけで会釈して、
ぴしっとお金を出して、
「今日も頼むわ」と、まるで薬を受け取るみたいにタバコを受け取って帰る。

店の前にあった灰皿で、新聞をめくって、
チューハイをちびちびやりながら、タバコに火をつける。
真夏でも、真冬でも。
その姿が、いつの間にか「朝の風景」になってた。

でもある日、その灰皿がなくなった。
本部の方針ってやつで、
「健康志向」「イメージアップ」とか、そんな理由だったと思う。

次の日も、シゲさんは来た。
でも、手にした新聞を眺めながら、灰皿がなくなった場所をじっと見て、
一言も何も言わずに、そのまま帰っていった。

それが最後だった。

別に、仲が良かったわけじゃない。
でも――
なんていうか、
こっちが勝手に「見守られてる」ような気持ちでいたのかもしれない。

灰皿がなくなった場所に貼られた禁煙ポスターが、
妙にうるさく見える日がある。

健康? たぶん、そうなんだろう。
でも、シゲさんのあのタバコは、
あの人が、今日もここに生きてるっていう、
誰にも知らせないサインだったような気がする。

今日も朝の京女ラッシュが過ぎて、
新しいお客さんが変な総菜パンとコーヒーを買っていく。
私も、新しい顔を覚えていく。

だけど、
灰皿のあったあの場所だけは、
シゲさんの椅子のままだと思ってる。

松原

夜の松原橋を渡っていると、
前方からすごい勢いの自転車が迫ってきた。

風の音がざっと流れて、
すれ違いざま、その子の顔が見えた。

頬が赤くて、目が笑ってて、
でも何よりも、あの“もこもこの服”が、全部を物語っていた。
舞妓だった。

いや、正確には「元の姿を封印した舞妓」だった。

もっこもこのフード付きパーカーに、分厚いレギンス、そしてダサかわいいスニーカー。
全速力。
もう、本当に、笑ってしまうくらい自由で、素だった。

ああ、明日休みなんやな。
その瞬間、ぜんぶ理解できた。

茶屋で何十人もの大人に気を使って、
お座敷で笑顔を貼り付けて、
言葉遣いも、姿勢も、歩き方も、
全部ぜんぶ「つくらなあかん」日常の中で、
今この瞬間だけ、彼女は「自分」に戻ってるんや。

爆走する自転車。
爆走する秋の夜風。
そして、それを見送る自分のなかに、
どうしようもないくらい、
羨ましさと、微笑ましさと、少しの寂しさが混ざって流れていった。

あのスピードの中で、
彼女は何を感じてたんやろう。
誰にも会わず、誰にも止められず、
ただ風を切るあの顔を、
俺は、たぶんずっと忘れへんと思う。

臭くない人なら

ヒールが足に食い込む感覚に、もう痛いとも思わなくなったのはいつからだろう。
祇園の交差点の角。
キャッチ禁止って書かれた看板の前で、
私は「キャッチじゃなくてご案内です」って言い訳しながら、
今日も立ってる。

「メイドカフェ、どうですか〜」
「1時間3000円で飲み放題です〜」

笑顔、声のトーン、立ち位置。
全部マニュアル通り。
でも、足だけはマニュアル通りにいかない。

靴ずれのところ、また擦れた。
痛い。ムカつく。
誰も見てないけど、平気なふりをする。

お客さんの顔を見るたび、考える。
この人、店まで連れてったら怒鳴るかな。
触ってくるかな。
ねちねち話しかけてくるかな。
それとも…ただ黙って座っててくれるかな。

臭くない人なら、誰でもいいのに。
本当にそれだけなのに。
今日の私はそれすら引き寄せられないらしい。

プラカード重くて、少し前屈みになると、
スカートの裾が風でめくれる。
酔っ払いが一瞬こっちを見たけど、
興味なさそうに目をそらした。
ひれ伏したまえ。

祇園って、綺麗にライトアップされすぎてて、
逆に自分のくすみが全部見える気がする。
化粧も、制服も、ぜんぶ反射して、
「嘘やろ?」って顔でこっち見てくる店のウィンドウが嫌い。

でも、あと1時間立てば終わる。
もうちょっと。

スマホがピッと鳴って、
「いま空席7、がんばってー」と店長のDM。
がんばって、か。

頑張ったら、何か変わるんかな。

足の皮が破れたとこに、血が滲んでる。
でももう、気にならない。
私はまた声を張る。

「おにいさん、メイドカフェ、どうですか?」

臭くない人なら、それだけでいいのに。

千の顔

朝の京都は水墨画のようだった。曇天に霞む鴨川を渡り、あたしは静かに三十三間堂の門をくぐった。観光客の足音もまだまばらで、境内には鳥の囀りすら遠慮がちに聞こえる。

あたしはここが好きだ。千体千手観音がずらりと並ぶあの空間に足を踏み入れるたび、胸の奥がざわつく。あの無数の瞳、千の手、それらがひとつの意思に収束する感覚。

――これは祈りじゃない。命令だ。

そう思う。

祈りとは本来、弱き者が天にすがる行為であるはずだ。しかし三十三間堂に並ぶ観音像の視線は、まるでこう言っているようだ。

「救われたければ、見せてみろ。お前の内臓の奥から絞り出す、真の叫びを」

祈りは暴力だ。願いを込めて手を合わせるその手は、見えない何かを殴りつけている。世界を、自分を、あるいは神仏を。

あたしは十二年前、ここで母を見送った。乳がんで痩せ細った身体を抱えて、母は最後の京都旅行にここを選んだ。

「きっと…千の手がね、あんたを守ってくれると思って」

母はそう言ったけど、あたしはあのとき、守られたなんて思わなかった。ただ――

罰されたのだと思った。

母が娘の未来を願って命を賭けたその祈りは、やがてあたしをこの道へと引きずった。刃物を扱う資格を得て、他人の命を預かる。オペ室の中央で、心臓が震えるような瞬間に出くわすたび、観音像の顔が脳裏をよぎる。

それでも、あたしはここへ来る。来てしまう。

静かに堂内を歩く。千の視線が、千の手が、あたしを貫く。

赦してくれなんて、思わない。

ただ、見ていてほしい。あたしが今日も、祈りという暴力を振るいながら、誰かの命を引き戻しているということを。

あたしは三十三間堂が好きだ。

祈りという暴力がそこにはある。

そして、それを受け止めてくれる千の顔がある。

蝉の階段

マンションの階段は、いつも湿気を纏っている。
夏の終わりの熱気がゆっくりと沈み、ひんやりとした風が踊る。

今日も、踊るように鳴いていた蝉が一匹、静かに死んでいた。
その姿は、まるで檀林皇后九相図のひとコマのように感じられて、思わず足を止めた。

あの図は、生命の最後を様々な角度から写し取った、禅の静謐な断面。
蝉の死骸の乾いた羽根や崩れかけた体は、まるでそれを模したかのようだった。

34歳。
もう若くはない自分と、儚い蝉の死が妙に重なる。
この階段は、毎日昇り降りする場所だけど、
今日の蝉の姿はまるで、自分のどこかを映し出しているみたいで、息苦しくなった。

死と生の境目が、こんなにも間近にあるのだと感じたのは初めてかもしれない。
日常の何気ない階段で、無言の「終わり」を見つめることになるなんて。

檀林皇后九相図は、醜くも美しい。
蝉の死骸も、まさにその一部。

でも私たちは、それを知らず、気づかず、通り過ぎてしまう。
私はこの死骸に、一瞬だけ祈った。
生きているものは、いつか必ずそこに辿り着くことを。

そしてまた、この階段を昇る。
何事もなかったように。

扇塚下

五条大橋の下、こっち側は音が響かない。
靴音が湿った土に吸われて、
私のステップは、どこにも届かない。

それがちょうどいい。

ここなら誰にも見られない。
だけど川風と光だけは、見てくれる。

私は10年前まで、舞台に立っていた。
祇園のライブバー、時にはホテルのホール。
照明がまぶしくて、見下ろす客席の顔はいつも黒い影だった。
その闇に向かって踊るのが、
昔は好きだった。

でも、拍手と注文の音の区別がつかなくなって、
靴音がだんだん無力に感じてきた。
もっと深く沈める場所が欲しくなった。
もっと、聞こえない場所が。

最初にこの橋の下で踊ったのは、
たまたまだった。
酔っていた。
靴も履いてなかった。

でも、気づいたら、
ここにしか戻れなくなっていた。

土はやわらかく、冷たく、
それでも私の踏み下ろす音を受け止めてくれる。
誰にも「すごい」と言われない。
誰にも「まだやってるの?」と笑われない。
拍手も批評もない。

その代わり、川のにおいと、草のざわめきがある。
いつからか、私はフラメンコを踊っているふりをして、
自分を消そうとしていたんだと思う。

だけど、この橋の下でだけは、
私は私のままで立っていられる。

かかとが泥に沈む。
それでも、打つ。

もう誰にも届かない音を。
それでも打つ。
アオサギが笑う。

私はまだ、終わっていない。

スパイスセメダイン

模型屋さんがカレー屋さんになった。
それだけのこと。

でも、通るたびに、
「ちがう」と思ってしまうのは、なんでだろう。

私はその模型屋さんに、
ちゃんと入ったことがなかった。
外から中をのぞいたことが何回かあるだけ。

小さい戦車とか、
変な形のロボットとか、
店の奥のほうにはおじいさんみたいな人が座ってて、
白いランプの下でずっと何かを削っていた。

私が小学生のとき、
その前を通ると、いつも接着剤と埃の匂いがしてた。
なんとなく古くて、
入りにくくて、
でも、ずっとそこにある気がしてた。

今は、カレーの匂いがする。
スパイスの、よく知らない世界のにおい。
おしゃれな看板がかかって、
ガラス越しにカウンターの椅子が並んでる。

誰も悪くない。
模型屋のおじさんが亡くなったって、
たぶん、誰かが言ってた。
空き店舗に新しいお店が入るのは、当たり前のこと。

でも、
その匂いが、
前にあった音をぜんぶ消していく気がして、
私は息を止めて自転車をこぐ。

静かに、通り過ぎる。
あの店の中で何も買ったことのない私だけど、
なんだか裏切った気がする。

カレー屋さんが悪いわけじゃないのに。

街が生きてるって、
こういうことなんかな。

誰かがいなくなっても、
誰かが笑ってくれるように、
匂いを変えて、音を変えて、
それでも道だけは、ずっと同じ方向にのびてる。

私は、
たぶん、
まだこの町が変わるのが、
ちょっと「ざまあみろ」って感じなだけなんやと思う。

夜にカラスが鳴くときは、朝に必ず人が死ぬ

夜の十時すぎ、洗濯物を取り込みに出たときだった。

カア。
カア。

聞こえた。
カラスの声。

東山の空は真っ黒じゃなくて、
少しだけ藍色が混ざってる。
その空に、ゆっくりと羽ばたいていく黒い影がひとつ。

うちの祖母は言ってた。
「夜にカラスが鳴くと、朝に誰か死ぬ」と。

私はそれを小さい頃から、
なんとなく本当だと思っていた。
だって、言った次の日はたいてい、
お寺の前に花が供えられてたり、
町内のスピーカーが変な音を鳴らしたりする。

私は祈るような気持ちで、
物干し竿からハンガーを外す。

祖母はすでに寝ていた。
「夜に体を冷やすと、あの世が近うなる」とか言って、
早々に布団に入ってしまう。

カラスはもう一度鳴いた。
今度は、すこしだけ近い。

私は空を見上げるけれど、何も見えない。
だけど、見えないくせに、
そのカラスが私を見てる気がしてならなかった。

人は死ぬ。
それは当たり前。
でも、「誰かが死ぬ」と知ってしまうのは、
ちょっとした呪いだ。

私は静かに窓を閉める。

明日、学校へ行く途中に、
誰かの家の前に花が置かれていないことを願いながら。

けれど、
心のどこかでは、もう知っていた。

この町では、
そういう「音」が合図になっていることを。

そして、
私はその音を、
たぶん、もう何度も聞いてしまっていることを。

私は狂女

私のことは、老いた狂女だと思ってくださってけっこう。

この坂を毎朝ゆっくり降りていく女。
髪は白く、服は少し季節を間違えていて、
ひとりで何かをぶつぶつ呟きながら歩く女。

でも聞いてごらんなさい。
私が呟いているのは、呪いじゃない。
祈りでもない。
もっと、根っこの深いもの。
あれはね、「記憶」です。

東山は変わった。
祇園も清水も、観光客であふれて、
新しい匂いが通りに吹き込まれていく。
でも私は、まだ古い匂いのほうを信じている。

この壁のしみは、あの雨の日の跡。
あの石畳の角には、昔ひとりの女が蹲って泣いた。
私が泣いたんじゃない。
でも、私の体のどこかがそれを覚えてる。

誰も信じないでしょう?
誰も見えないでしょう?
だから私は、老いた狂女なんです。

そう思ってくださって、けっこう。
哀れんでいただかなくていい。

私は、この街の過去を担ぐカラスです。
時々、夜に鳴きたくなるのです。

誰かが、朝に死んでしまうような声で。

六道まいりのあと

最初はただの好奇心だった。
京都に来て、ふと聞いた六道珍皇寺のこと。
「六道まいり」? 何か面白そうな儀式があるらしい、
そう思って、軽い気持ちで足を運んだ。

境内は思ったより狭く、蝋燭の灯りが揺れて、どこか遠い場所みたいに見えた。
でも、私はその光の揺れに目を奪われて、
お守りのようなものを買ってしまった。

「死者の魂に祈る」なんて、ちょっと幻想的で、
どこか自分の旅のアクセントになればいいなと思ってた。

けれど、帰り道、足元が重くなった。
空気が変わった気がした。
道行く人の顔が、どこか陰を帯びて見えた。

夜、ホテルの部屋で窓を開けると、
外から低いうめき声が聞こえたような気がした。
それは風のせいだと思いたいけど、胸の奥がざわつく。

翌日、また寺に行ってみた。
誰もいなかった。

友達には話せなかった。
ただの気のせいだと言われるのが怖かった。

あの場所は、遊びで来るところじゃなかった。
今はそう思う。

祈りは、ただの言葉じゃない。
それは、誰かの命と重なっている。

私は、軽々しくそれを踏みにじったのかもしれない。

あの日の蝋燭の灯りが、
まだ瞼の裏で揺れている。

晩餐

講義のない日は、京阪に乗って大阪まで出る。
あの雑多な街のざわめきが、時々私を呼ぶ。

兎我野で出会う男たちは、どこか汚れている。
でも、その汚れが私には必要だった。
抱かれることで、どこか痛みを麻痺させ、
その金でたらふく焼き肉を食べ、酒を飲む。

煙が目に染みるあの店の灯りの中で、
私は少しだけ自由を感じている。

帰りの電車。
窓の向こうに流れる夜景。

誰も知らない私。
誰も触れられない私。

若かろう、美しかろう、臭かろう。
これが私だ。



声に出さなくても、心の中で何度も繰り返す。

ガロ

あいつが好きだった。
それは、頭の片隅でいつもぐるぐるしてて、
言葉にするときはいつも少し震えた。

でも、好きすぎて、どこかで嫌いになってた自分もいた。
素直になれなくて、強がってばかりで、
それで全部、壊してしまいそうで。

「私を繋いでたいなら、三回まわって鳴いてみろよ」って、
あのとき、笑いながら言った。
嘘でも、本気でもなかった。
ただ、どうしても本当の気持ちを言えなくて。

あいつは、笑ってごまかしたけど、
その笑顔の裏が見えなくて怖かった。

明日からまた、あざといデカリュックを背負う。
あのリュックは、ただの大きな荷物じゃない。
私の全部を詰め込んだ、見せたくない鎧みたいなもの。

道の向こうから誰かが見てる気がしても、
私はただ、自分の足で立っているって証明したいだけ。

涙はまだ、秘密のままにしておく。
誰にも見せたくない弱さを、
このリュックの奥にしまっておく。

「三回まわって鳴いてみろよ」
その言葉は、私とあいつの間の、
最後の約束かもしれない。

そして、たぶん、あいつも同じことを思ってる。

いつか窒息する母へ

母はいつか窒息するだろう。
私が日ごとに美しくなるから。

それは、愛の形じゃない。
それは、重なり合う息づかいが、
ふたりの空気を淀ませていくこと。

毎日、鏡の前で私は変わっていく。
笑い方も、目の光も、
知らない私が少しずつ顔を出す。

でも、家の中は狭くて、息苦しい。
母の視線は、重たくて、刺さる。
きっと、私が輝くほど、彼女は苦しくなる。

だから、私は家を出なければならない。

遠くに行くわけじゃない。
ただ、少し離れて、風を吸って、
またお母さんと笑いあう日のために。

その日が来るまで、私は自分を磨く。
母が息をしやすい空気をつくるために。

傷つけ合うことなく、
ただ、笑いあえるように。

パゴタ

アイツがまた新しい日傘を買った。
ブスのくせに。

あの傘は、私がバイト代が入ったら買おうと思ってたやつに似てる。
ずっと我慢して、節約して、
やっと手が届きそうだったのに。

なのに、先にあの女が持ってる。
まるで、私の計画を台無しにされたみたいで、
腹が立つのに、なぜか心がちくちく痛い。

少しだけ仲良くしてやろうと思ってたのに。
ほんの少しだけ、距離を縮めてみたかったのに。

でも、アイツはそんなこと、まるで気にもしてなさそうで、
自分の世界だけで楽しそうに笑ってる。

残念な女。

私のこの気持ちも、どこか残念で、
もしかしたら、私自身が一番どうしようもないのかもしれない。

そんなこと、わかってるのに、どうしても悔しい。

嫌いになりたいのに、どこか羨ましい。

そうやって、心はぐちゃぐちゃに絡まっていく。

でも、明日はまた学校で顔を合わせる。
何事もなかったように、普通に話すんだろう。

その時、私はどんな顔をすればいいんだろう。

あの傘の下で、アイツは何を見ているんだろう。

昼のみできマス

ママが店を閉めた。
理由はよく知らないけど、どうやら大家ともめたらしい。
それを聞いたのは、シャッターに貼られた張り紙じゃなく、
隣の立ち飲み屋の常連の噂話だった。

「急だったなあ」
「しかたないよ、あそこも家賃高かったろ」
他人事のように笑う声。
俺は笑えなかった。

週末になると、あのカウンターに並んで、
ママの押し寿司つまみながら、どうでもいい話をして、
濃すぎるハイボールで時間を溶かすのが、
俺にとっての週末だった。

週末だけの顔見知り。
名乗り合ったこともないのに、グラスが空けば誰かが気づいてくれた。
そんな連中も、店が閉まったとたん、
どこかへ消えていった。

どうやら——
本当に、ここにしか行き場所がなかったのは、
俺だけだったらしい。

ふと、別れた妻のことを思い出した。
連絡先ももう残っていない。
でも、たぶん、今の俺よりはずっとましな暮らしをしてるだろう。

それでも、あの頃の、
小さな灯りのともる部屋が懐かしくてたまらない。

ママの手書きの看板は、どこへいってしまったんだろう。
あれが灯っていない七条の夜は、
なんだかやけに寒い。

丹波橋乗り換え近鉄

ゼミの留学生を奈良公園に案内した。
まだ日本に来て半年の彼女は、鹿を見てすぐに声を上げた。
「信じられない…!ほんとうに自由に歩いてる!」

僕は笑った。
まあ、そういうもんだよ。
たしかに、はじめて来たときは僕も少し感動した気がする。

でももう何度目だろう。
小学校の遠足、中学の校外学習でも来た。
鹿せんべいの臭い、興福寺のシルエット、修学旅行生の大声――
すべてはもう、「風景」だった。

彼女が、何かを見上げてじっと動かなくなった。
「ここ、ほんとうに天国みたい」

僕は、ちょっと茶化して言った。
「いや、ただの観光地だよ?大げさじゃない?」

すると彼女は、目を細めて言った。

「そう。あなたには、あの天国が見えないのね」

そのとき初めて気づいた。
彼女の見ているものと、僕の見ているものは、
同じ風景で、まるで違っていた。

青空と若草山、石畳と鹿の群れ。
彼女の目には、千年以上の記憶と祈りが
柔らかな光になって差し込んでいたのだろう。

僕の目には、ただ歩き慣れた観光地。
でも、彼女にとっては、
この一歩一歩が「はじめての地面」だった。

僕は立ち止まり、黙って空を見た。
すると一瞬、
ほんの一瞬だけど、
その空の奥に、何かが透けて見えた気がした。

待合室

誰かが言っていた。
「安井金毘羅宮はすごいよ、空気が違うから」って。

笑い話のつもりで来た。
“映える”とされる、あの縁切り碑に潜るために。
観光客が列をなすその様子を見て、
私はどこかで冷笑していた。

でも、鳥居をくぐった瞬間、
空気が、変わった。

息が詰まるような、音のないざわめき。
人の気配はあるのに、誰も話していない。
いや、話せないのかもしれない。

並ぶ人たちの後ろ姿を見て、
私ははっと気づいた。

ああ、ここは――
精神病院の待合室だ。

それぞれが何かを患い、
手に余るものを抱えて、
それでも順番を待っている。

誰もが自分の番を黙って待っている。
切りたい相手。
終わらせたい関係。
封じたい記憶。
自分で処理できない想い。

絵馬には文字がびっしりだった。
「別れられますように」
「死んでくれますように」
「私を助けてください」

願いというより、叫び。
祈りというより、処方箋を求める声。

風が吹いても、鈴の音がしても、
まったく癒しにはならなかった。

私はその列に並ばなかった。
でも、
帰り道、しばらく歩けなかった。

あの場所に置いてきた“何か”の影が、
伸びてずっと足元にまとわりついていた。

エキスポ

うだる暑さに耐えきれず、
御前通から一筋入った角打ちの酒屋に滑り込んだ。

昼をまわってもまだセミが狂ったように鳴いている。
とにかく冷たいものを胃に入れたかった。
ショーケースの前にしゃがみ込み、
ちくわの磯辺揚げと、ポテサラをカウンターへ。

そして、黄金色に光る焼酎ハイボールの缶。
ラベルの「8%」の文字が頼もしい。

カウンターでひと口流し込んだ瞬間、
喉が焼け、汗が引く。
この瞬間だけ、世の中の全部を忘れられる。

……と、突然、外から奇声が響いた。

「あゃああああああっ!」

反射的に体がびくついた。
町家づくりの軒先から覗くと、
じいさんが、七条通を叫びながら横断していた。

上半身裸、左手にはビニール袋、
右手はなぜか空をかいていた。
車は停まり、誰もクラクションを鳴らさない。
まるでそういう“行事”か何かのように。

酒屋の親父が缶を補充しながら言った。
顔色ひとつ変えずに。

「あんなんでも、轢いたらおおごとや」

俺は愛想笑いをして、6Pチーズを指さした。
「それもひとつ、もらうわ」

本当は怖かった。
叫んでるじいさんが怖いわけじゃない。
誰も驚かない、この街が怖かった。

暑さは、まだ終わりそうにない。

疎水ガール

退屈になると、疎水記念館に行く。
無料で静かで、空調がきいてて、
年寄りしか来ない。最高の場所だ。

私は、展示なんて見てない。
見てるのは、人。
おじさん。

一人で、難しい顔してパネルに見入ってる。
服に金がかかってるのに、指の先だけ古い。
そういう“気配”をまとった人間を、私はロックオンする。

ちょっとした“演出”があればいい。
パンフレットを取り落とすとか、
展示の前で「これって、どういう意味なんですか?」って首をかしげるとか。

ちょろい。ほんと、ちょろい。
気を引いたら、あとは流れるように進む。
タクシー代付きでただ飯。ただ酒。
名刺を出されたら、それが帰る合図。

私はきっと、相当変わり者なんだと思う。
でも、こんなふうにしか生きられない。

彼らの話は面白い。
堆積したヘドロのような人生のにおい。
それが私は、たまらなく好きだ。

私が欲しいのは、カネでもモノでもない。
ただ、あの“におい”を吸い込む時間。

帰り道、鴨川沿いを歩きながら、
私はいつも思う。

あの人たちは“得した”と思って帰ったんだろうか。
それとも“奪われた”と思ったんだろうか。

私は誰からも何も奪っていないつもりだ。
ただ、ほんの少しだけ、
生きてきた時間の染み出す声を聴かせてもらっただけ。

疎水の水は、今日もよどんでいる。
でも、何も動かないわけじゃない。
あそこには、地下に染みてく何かが、たしかにある。

たぶん私の心も、同じように濁っていて、
それがちょっとだけ、誇らしい。

甘い夜

清水五条駅で降りる。
左折までの途中にある安売りローソン。
ここは、夜になると菓子パンが2割引になる。
それを知ってから、寄らずに帰れなくなった。

買い物カゴを握る指に、微かな震えがある。
あんこマーガリン、ホイップメロン、クリーム、銀チョコ、カスタードデニッシュ。
かごがだんだん埋まっていく。

「またやってる」
心の中で誰かがつぶやく。
でも止められない。

会計を済ませた袋は、ずしりと重い。
この重量はカロリーじゃなく、
どうしようもない一日の疲れと、明日への憂鬱だ。

誰か、止めて。
ほんのちょっとでいい。
レジの店員でも、通りすがりの誰かでもいい。
「そんなに食べたら太りますよ」って、
「明日仕事でしょ?」って。

でも誰も言わない。
私のことなんて誰も見てない。

明日は仕事なのに。
なのに、私は今夜もパンをむさぼる。

甘いパンで、何かを埋めている。
本当は、泣きたいのかもしれない。

真名レムリア

「UFO好きです!」
って言ったのは、たぶん自分を面白く見せたかっただけ。
特別な女の子っぽく見せたかった。
だって、好きな食べ物が抹茶とか、神社派ですとか、この町じゃ目立てないから。

だから、UFO好きって言ってみた。
で、ネットで検索して、動画見て、嘘じゃないように準備して。

気づいたら、UFOサークルに入ってた。
大学の掲示板にある、ちょっと古くさいA4の勧誘チラシ。
最初は「ネタとして行ってみよ」くらいだったのに。

……意外だった。
ここ、あったかい人が多いの。
真顔で「エリア51から流出したアレ」とか、「日航ジャンボのアレはやばい」って話してて、
普通なら引くとこだけど、なぜか居心地よかった。

もちろん、クソみたいな奴もいる。
やたら語りたがる男とか、距離感バグってる奴とか。
でも、そういうの含めて、なんか愛おしいんだよね。
不器用な人ばっかりで、
私もその中のひとりになれた気がした。

なにより――ここでは私は、
トップレベルに可愛い。

これがめちゃくちゃ大事だった。
自分に興味を持ってくれる目があって、
服を褒めてくれる人がいて、
「UFOガチのレムリアちゃん」ってちゃんと呼ばれる場所。

キャラとして始めたはずが、
いつの間にか、ここが本当の自分になってた。

誰かの“信じたい”が集まる場所って、
不思議と、嘘が優しくなるんだよね。

フリーレン

禁酒、2週間。
離脱症状で頭が痛い。

いつもなら、春の陽気に乗せられて、
コンビニの缶チューハイを2本は買ってたはずなのに。

死ぬ前に、こんな当たり前のことに気づけてよかった。
でも、どうせまた酒に沈むだろうとも思ってる。
わかってる。
でも、今日は浮いてる。たったそれだけのことで、うれしい。

春の鴨川を歩く。
桜の花は、もうほとんど散ってる。
川面を泳ぐ花びらと鳩の行進。
カップル、ジョギング、観光客。
それがなんだか、今日は少しずつ心に届く気がする。

前はこういうの、全部“他人の世界”だった。
自分には関係ない景色。
目に入っても、心が反応しなかった。
アルコールが、全部の感覚を布で覆っていたみたいだった。

でも今日は、届く。
ちょっとだけ、痛いほどに。

そんな時、ふと視界に入ったのは、
ママチャリに乗った葬送のフリーレン。
銀髪のウィッグにローブ、杖、籠に折りたたんだカメラ三脚。
完全に浮いてる。
でもなんだか、いい。最高に自由で。

そのままフリーレンは涼しい顔で北へ向かって、スイスイと去っていった。

笑えて、笑えて、
涙が溢れた。

こんなふうに笑える日が来るなんて。
禁酒のご褒美だと思った。

帰り道、川べりに座ってオールフリーを飲んだ。
思い出したらまた笑えた。

銀輪の

自転車のカゴが、コンビニの袋でパンパンだ。
ローブの裾をタイヤに巻き込まないようにクリップで留めて、
ウィッグの前髪を浮かせながら、鴨川沿いを北へ向かう。

風が気持ちいい。
だけど顔が、ちょっと熱い。
汗じゃない。視線だ。
まぁまあ見られてる。

知ってるよ。
そりゃそうだ。
ママチャリに乗った銀髪ロングの“フリーレン”なんて、鴨川に似合うはずがない。

でも――これが、今の私の“鎧”なんだよ。
どうしようもない仕事。
愛想笑い。
既読無視。
浮かない化粧。
疲れた心に効くのは、大好きなフリーレンに“なること”だった。

彼女は、表情が薄い。
でも、人の死をちゃんと見る。
何百年も生きて、やっと“わかろうとする”。
そういうフリーレンに、どこかで憧れた。

私も、何かを捨てて、
新しい時間を始めたかったのかもしれない。

それが今日、この春の、
ママチャリに乗る日だった。

団栗橋のあたりで、
一人の女の人が、私を見て笑っていた。
泣きながら笑ってた。

何も言わずにすれ違ったけど、
なんかちょっと――あれは、うれしかった。
何かを解ってくれた気がしたから。

私はそのまま、北へ向かった。
目的地はない。

この世界がクソでも、
風だけは、ちゃんと私の体を包んでくれる。

春の鴨川は、今日も、静かにざわめいている。

さっきの女フェルンやらねーかな?

サイゼ

「七条駅にサイゼできたらいいのに」
それはたぶん、いちばんよく聞く話題だった。
うちの学校の女子の間では。
誰かが言ってたし、私も言った。きっと一度は。
みんなが言ってる。
ほんまにみんな。
「駅前の汚い家とか、もう全部ぶっ壊してサイゼにすればいいやん」
言ってるときの顔は、明るい。
笑いながら、セットプチフォッカとドリンクバーの話をして、
まだ見ぬ“未来のサイゼ”で何を注文するか、真剣に迷ったりしてる。
たしかにあの通りは古い家が多い。
郵便受けから雨でふやけたチラシが垂れてるところとか、
空き家なのか住んでるのかわからん、そんな建物が何軒も並んでいる。
小さい頃はちょっと怖かったし、今でも夜は早足になる。
でも、たまに、そこの縁側でぼーっとしてるおばあさんを見ることがある。
眼鏡の奥でまばたきもせずに、鴨川の音のほうを見ている。
駅から降りてくる人たちが誰も気づかないような、沈んだ時間。
友達が笑って「幽霊みたい」って言ったとき、私も笑った。
合わせて笑った。
でも心のどこかに、すこしざらっとした何かが残った。
“ここに誰か住んでる”
“ここで誰か、毎日生きてる”
それが、あの子たちには、もう見えてない。
たぶん、私も見えてないふりをしている。
「サイゼ来たら毎日通うのにー」
そう言って、明るく笑って、
いつのまにかそこが本当に更地になっていたら、
そのとき私、何を思うんだろう。

ナニワイーター

また来たよ。
イキった若いのが二人。
髪型と声のデカさと、服の色で勝負してるようなタイプ。

どうせ京橋あたりで普段、騒いでる奴らやろ。
ああいうのは見りゃわかる。
飲み屋をハシゴしながら、
「隠れ家っぽい店」とか「通っぽい酒場」を求めてさまよってる。

で、ここに来た。
このくすんだ街の酒場に。
看板は薄れてるし、照明も蛍光灯一本。
メニューなんか半分、字がかすれて読まれへん。

だけど、こっちは毎晩、地元の声が沈殿してる。
愚痴、笑い、別れ話。
全部、酒と一緒に流し込まれて染みついてる。
この店の壁も床も空気も、
そんなもんでできてんねん。


「ここ、ヤバない?レトロ感えぐい」
「俺ら、知る人ぞ知る系やろ〜」
そんなノリで喋ってても、
たぶん1時間はもたんやろうな。

この街の湿度は、ちゃうねん。
空気が重い。
人の目が静かで、言葉が足りない。

若いのにはな、
その“沈黙”が効いてくる。
気がついたら、何しゃべっていいかわからんくなる。
テンションの逃げ道が、ない。

そうして、じわじわ“食われて”いくんや。
この街にな。

わしはそれを見てる。
ああ、またひとり、この街に沈んでいくなって。
そしたらようやく、ええ顔してくる。
その時の、乾杯がうまいんや。

ようこそ東福寺へホルモンブラザーズ。

水路閣

流行を追いかけるのは、やめた。
まるで借りものの仮面だったから。

私は、同じ文法で私を磨く。

まるで雅楽の旋律や、ひと筆の仮名のように。
変わらない調子を、自分の調べにする。

彼が、私を目で追う。
そのとき、私は彼の心に住む。
また会ったとき、
彼の仕草の“差分”が、
私という存在の輪郭を描く。

私は、他人に映された私を、
静かになぞることで、自分を知る。

だから、余計なことは言わない。
言葉で濁すのではなく、
沈黙の中に気配を落とす。

それはちょうど、
水路閣のアーチをそっと通る風のように。

デイウォーカー

木屋町の早朝は、いつも少しだけひどい。
まだ夜の匂いがかすかに残っているのに、
雑踏の生臭さが、それをどんどん押し流していく。

私は夜の端っこで働いている。
送り出すときは「ありがとうございました」と笑顔を貼って、
終電の逃げた背中に手を振る。
本音では、こっちが逃げたい気持ちのほうが大きいのに。

逃げるようにマクドに入る。
24時間の冷たい光。
酔いを冷まし、化粧を落とし、
目の下のクマと一緒に“さっきまでの自分”も拭う。

講義までは、まだ時間がある。
バッグからボードレールを出す。
読んではいない。
ただページを開いたまま、眺めている。
“他人から見た私”のためのポーズ。
知性と退廃と、現実逃避を混ぜたような、
とにかく“何か考えてそうな感じ”。

そんな私の前に、一人の外国人が座った。
金髪でも黒髪でもない、灰色のくせ毛。
年齢はわからない。
だけど、目だけが変わっていた。
何かをじっと、遠くから観察しているフクロウのような目。
少しだけ傷ついた目。
けれど、それをまるで隠す気のない目。

彼は何も言わずに、
トレイに乗ったホットコーヒーと、ソーセージマフィンを机に置いた。
私のボードレールをちらりと見て、
笑いもせず、何も言わない。

なぜか、その無言に救われた。
嘘を吐かなくていい朝。
会話も気遣いもない、ただの沈黙。

私は少しだけページをめくった。
詩の意味は、頭に入ってこなかったけれど、
その静けさだけは、胸に染みた。

彼が席を立ったとき、
私もやっとコーヒーに口をつけた。
ほんの少し、
目の奥が熱くなった。

朝の木屋町は、やっぱり少しだけ、ひどい。

サンボール

朝五時の冷たい光は、どこの国でもだいたい同じだ。
だが、この街の朝には奇妙な沈黙がある。
水の匂いが強い。
夜の酔いと高瀬川の水が、混ざっている。
それが、嫌いじゃない。

一人の女の子が視界に入った。
包み紙を開く手の向こうに、
彼女はボードレールを広げていた。

ボードレール。
懐かしい。
だが、彼女は読んでいない。
読むフリすらしていない。
開いたまま、視線はページを通り抜け、どこかに遠く漂っていた。

それでよかった。
読んでいたら台無しだった。

なぜなら、彼女のその姿こそが、
この街の象徴のようだったからだ。
意味を読み取ることよりも、
姿そのものが詩だった。

髪には夜の湿りが残っていた。
口元には、何かを飲み下せなかった名残。
それでいて、どこか高貴な匂いがした。
地に足がついていないまま、
それでもバランスを取って立っている、
紙人形のような若さ。

私がその前に座っても、
彼女は動じなかった。
ちょっとだけ、気配を感じるように視線を揺らし、
それから何も言わなかった。

それでいい。
言葉はここでは邪魔だ。

私はコーヒーを一口飲む。
胃の奥が熱くなる。
たぶん、彼女には何も残らない。
私のことなんて、すぐに忘れる。

私は忘れないと思う。
この街に住む理由がまたひとつ、増えた気がした。
こんな風景が、まだ落ちているから。

カッパーゴールド

祇園甲部は、やっぱりちょっとうらやましい。
だって、みんなががあっちを見てる。
八坂さんの福豆まきもあっち。
それに……やっぱり、綺麗な子が多いのは、うちでもわかる。


なんでやろうな。
着物の色も、髪の飾りも、うちらとそんなに変わらへんのに。

でもな、
稽古のあとのあの時間だけは、
ほんまに好きなんや。

湯気でふわふわになった姐さんらと、
一緒にお風呂をもらって、
ちょっとゆで卵みたいな顔して、
誰も化粧もしてへんし、
髪もまだ整えてへんし、
そのまんまの、ほんまの姿で、
ぽーんと小道を歩いて帰る夕方。

その時だけは、
だれにも見られてへんけど、
私はちゃんとここにいるって思えるんや。

みんな笑ってる。
なんにも着飾ってへんけど、
なんか、あったかい。

注目されるのも、そらうれしいけど、
この時間だけは、誰にも教えたくない。

いつまでも、こうして歩いていたい。
姐さんの笑い声が背中に響く、
あの細い石畳を、
何回も、何回も。

給料日と怪獣ソフビ

給料日。
駅から直結のヨドバシカメラに吸い寄せられるように入る。
まっすぐ地下。
エスカレーターを降りたら、正面。
おもちゃ売り場の奥に、怪獣ソフビが並んでる。

私はそれをひとつ選んで買う。
レジの人がチラと笑う。
「おみやげですか?」と聞かれることもある。
そのたびに曖昧に笑う。
そうです、とも、ちがいます、とも言わない。

袋の中でソフビが小さく揺れるのを見てると、
どうしてこんなことしてるのか、わからなくなる。
誰に見せたいんだろう。
誰を演じてるんだろう。
なんで、こんなに素直じゃないんだろう。

私は母親ではない。
誰かの恋人でもない。
ただの、たまに少しだけ寂しくなる女だ。

テレビ台の下が、
気がつけばソフビで埋まりかけていた。
ぺギラ、ガヴァドン、ゴモラ、キングジョーもいる。
シンとか平成版もある。

ある日、掃除機をかけながらふと気づいた。
ああ、私、
この子らの顔を見てるときだけ、
ほんの少しだけ、やさしくなれる。

たぶん、
私は休日の私におみやげを買っていたんだと思う。
ちょっと疲れた給料日に、
がんばったね、の代わりに。

そう思ったら、
次の給料日が少しだけ楽しみになった。

京都駅八条西洞院喫煙所

いつからだろう。
自分がクズだってこと、忘れてたの。

たぶん、生活がそれなりにまわってるからだ。
朝は起きて、電車に乗って、会社で適当にヘコヘコして、
夜は弁当とカップ麺食って、安酒のんで寝る。

これって、ちゃんとやれてる部類なんだろうな。
でも――
どれだけ人に無関心だったか。
どれだけ見下してきたか。
どれだけ、自分の言葉が人を傷つけたか。

正直、いちいち覚えてない。
それがいちばんクズいんだってことも、知ってる。

思い出すたび、くよくよする。
けど、そんな俺を、俺が甘やかしてる。

「今さら悔やむなよ?」
って、どっかの俺が言う。
わかるやつには、わかるんだって。
俺のクズ加減なんて、顔や声や間合いににじみ出てるって。
バレてんだよ、とっくに。

でもな、昼休みの空の下でタバコを吸ってると、
なんか全部がどうでもよくなって、
それでいて、少しだけ素直になる。

だから、今日も言う。

切り替えていこう。
できなくても、言うんだよ。
クズなままでも、歩けるように。

君たちはどう生きるか

河原町は、こわい街だった。
祇園祭の間は特に。
知らない大人がたくさん笑って、怒って、酔っぱらって、道路に寝転んでる。
スマホで動画を撮ってる人も、叫んでる人もいる。
あんなのが“大人”なら、自分は大人になりたくない。
小学校の頃から、ずっとそう思ってた。

でも、今日は来た。
『君たちはどう生きるか』
映画を初日に観るなんて、人生で初めてだった。

学校で友達に言っても、
「マジか」「おまえひとりで?ウケる」
そんな反応が返ってくるのはわかってた。
だから、誰にも言わなかった。

新京極の映画館。
空いてる最後列の真ん中にすわって、
背筋を伸ばして、エンドロールが終わるまで、立たなかった。

内容は、正直よくわからなかった。
でも、すごかった。
見たことない夢を、夢のまま見せてくれた。

帰り道、夜の祇園祭がまだ終わっていなかった。
提灯はもう一部しか灯ってないのに、
路地では大学生たちがわあわあ笑って、お酒の缶を落としていた。

一人の女の人が、閉まった猫カフェの前で吐いてた。
彼氏らしき男が「大丈夫?大丈夫やって」って言いながら、介抱してた。
その手が、ちょっと乱暴で、
俺は視線を外して、コンビニの前でうつむいた。

「君たちはどう生きるか」

誰が“君”で、誰が“たち”なんだろう。
酔って道端に寝てる人も、叫んでる男も、
「君たち」なんかな。
そんなこと考えなくても、いいんかな。

…でも、
俺はちょっとだけ、考えたことがあった。

そういうことを、ハヤオが教えてくれた気がした。

帰りの電車。
お京阪の中で、学生たちの騒ぎ声が耳に刺さったけど、
ふと窓に映った自分の顔は、
いつもよりちょっとだけ、イケメンに見えた。

特別な日になった。

ソンクラン

初めて祇園祭の宵山に来た。
ラグジュアリーホテルのシェフとして京都に来て三年。
祭りの夜に出歩くことすらなかった。

だが今日は、たまたまオフだった。
同僚の日本人に誘われたわけでもなく、
ふらっと、足が勝手に人ごみの方へ向かっていた。

四条通は、人、人、人。
天井の低い街並みに、提灯の赤と人の湿気が滞留していた。
見上げれば、鉾の上で笛が鳴る。
まるで、別の時代に入り込んだような空気だ。

私は、タイ・ナコンパトムの出身だ。
家族は今でも郊外で農業をしている。
LINEのグループに、姪っ子が載せる朝の市場の写真。
香草の匂いがスマホの画面から滲み出そうで、こみ上げて見られない日もある。

そして、ソンクラン。
あの、水を掛け合って無礼講になる三日間。
タンクトップ姿の兄がバケツをかぶせてきた。
はしゃぐ祖母、びしょぬれの犬。
あれは、暴力じゃない。
魂の歓喜だった。

だから今、この宵山の美しすぎる秩序に、少しだけ苛立っていた。

──なぜ誰も、叫ばない。
──なぜ誰も、水を撒かない。
──なぜこの熱が、熱のままで終わるんだ?

堺町通の路地にある甘味処の行列に並ぶ若いカップルを見て、
私は一瞬、拳を握った。
別に、怒っていたわけではない。
ただ、血が騒いだのだ。

騒げ、心よ。
今この場に、故郷の熱を注ぎ込みたい。
思い出の中の泥と雨と笑い声を、
この静かな鉾の下にぶちまけたい。

だが、何もせず、
セブンイレブンで冷たいコーラを買って、裏通りの民家の塀に寄り掛かった。

水は撒かれない。
誰かのうちわの風が、少しだけ汗を拭ってくれる。

目の奥では、
ソンクランと祇園祭が重なって、花火のように弾けていた。

サカタニ

駅前のスーパーエビスクが閉店してから、しばらく外に出る理由がなくなった。
行きつけやったのに、急に、更地になると、まるで人生を置き去りにされたみたいな気分になる。
家にあるもんで済ませる日が増えて、気がつけば足腰まで弱ってきた。
けど、なんやかんやで週に何度か、サカタニのファミマに行くようになった。
あそこは入りやすいし、午前中は日陰だし、野菜やだいたいのものはある。
レジの子も愛想がいい、
あんまり喋らんけどな。

そこで、よく会う男の人がいる。
シャキッとした帽子に、下駄、新聞を小脇に抱えて、果物やらを手際ように選ぶ。
なんとなく、「東京の人やな」と思った。
しゃべり方に、にじみ出る小気味よさがある。
梅雨が明けた日、その人が声をかけてきた。
「よお、あんたもひとり?」
びっくりしたけど、変に馴れ馴れしいわけでもなく、
その一言がなんとなく、胸の奥に引っかかった。
話すうちに、最近こっちに引っ越してきたこと、
前は東京の下町で暮らしてたことなんかを、ぽつぽつと聞いた。
「あすこ(ファミマ)があるだけ、助かるね」
と言われて、ちょっと笑ってしまった。
うちもそうやった。
エビスクがなくなって、どこに行ったらええかわからんかった。
それに今、あの人に会えるかもしれんと思うだけで、少し、足が軽い。



ある日、その人がいなかった。
次の日も、そのまた次の日も。
ぼんやり店の前で立ち止まってしまった。
こんなこと、若い頃には考えもしなかったのに。


「京都の暑さにゃ参ったね。風鈴鳴らずに蝉だけガン鳴き、こっちの頭もガンガンよ!」」
不意に声がして、そっちを見たら、
いつものカンカン帽と笑顔があった。
口が勝手に動いた。
「あらまぁ、あんた、夏バテしてはったん?」
ふたりで笑う。
ただそれだけで、今日がなんとかなる。
恋やなんて、そんなおこがましいことは思わん。
でも、会えるとうれしい。
誰かを待つ気持ちを、こんな歳になって、また持つとは思わんかった。

海のオーケストラ号

肥後橋を渡ってしばらくすると、三栖閘門が見えてくる。
息子は、あの重たい水門を「海のオーケストラ号」と呼ぶ。
たぶん、船だと思ってる。
巨大な管楽器みたいな音がたまにするし、なにより、あれは冒険の入り口に見えるのだろう。

手を引かれるようにして、川べりの細い道を歩く。
濠川と宇治川の水が入り混じるあたり、風が少しだけ海ような匂いを運んでくる。
息子がキャッと笑いながら「出港だよ!」と叫ぶ。

それを聞いて、ふと、自分がムーミンくらいの頃のことを思い出す。

あの頃、親の世代はどこかまぶしく見えていた。
「時代のせいだ」と、ずっと思ってた。
バブルもあったし、昭和の熱気も残ってたし。
でも、それだけじゃなかったんだ。
あれは、きっと“親という存在”そのものの輝きだった。

ムーミンは、今も昔も、男の子の象徴みたいな存在だ。
自由で、無邪気で、でもちょっと臆病。
僕らのなかの“子ども”がずっと手放せない幻想。

そして今の僕は、きっとムーミンパパに近い。
子どもの頃はわからなかったけど、今は少し、彼の気持ちがわかる。

何かをしようとして、ムーミンパパになったわけじゃない。
望んで、そうなったわけでもない。
ただ、生きていたら、いつの間にかこうなっていた。

旅のことを語るくせに、本当は家が恋しくて、
威厳を装うくせに、どこかにひとりの男の寂しさをかくしてる。
君のムーミンパパは僕なんかで良いのだろうか。

海のオーケストラ号に乗りたがる息子の手を取って、また歩き出す。
川風が吹いて、どこか遠くへ連れていかれそうになるけど、
しっかりと今を歩いている実感がある。

僕は、ムーミンパパとして、今日も岸辺を歩く

サンクスギビング

フロントの花瓶を交換しようとした瞬間、背後から男がぬっと現れて、
「あ、俺やりますよ」って。

やめろっての。
そう思うけど、口では「ありがとうございます」と笑うしかない。
こっちはパリッとした制服着て、丁寧な女役やってるだけなんだよ。

重くもない備品運び、バゲージ倉庫のドアの開け閉め、ちょっとした共有PCの不具合。
全部「見つけてくれてありがとう」って私に言わせたくて手を出してくる。
まるで「ありがとう」を貯金箱にでも入れてるみたいに、こっちの言葉を栄養にしてんの。

“見返りなんて求めてませんよ”って顔してるくせに。
だったらこっちが無言でも黙って立ち去れよ。
なのに、じっと「ありがとう」を待ってる。

「アリガトウ乞食」、最近はそう呼んでる。
心の中だけでだけど。

こっちはもう大人だ。たいていのことは、自分でやれる。
いや、やりたい。
頼って笑って「助かりましたぁ〜」なんて、誰かの承認欲求の餌にされたくない。

でもね、むすっとしてたら人格破綻者扱いだからね。



わかってんだよ、「薄い女」「愛想のない女」って噂される構図も。
だから笑うよ。
「ありがとうございます」って。
餌をやる。
私はもうプロだ。

帰り道、木屋町松原の立ち飲みワインバーでふとため息をついた。
ガラスに反射し、滅色された私がひっどい顔してた。

それでいい、それがいい。
誰にも、与えない。
今ぐらい私は私のままで、冷たくて結構だ。

夕立

夏の夕立が好きだ。

どうしようもなくこもった、街の不要な熱を、
下水に、河川に、ビルの谷間に押し流していくから。

バスの車体が濡れたアスファルトを引っかき、
屋根に叩きつける雨音が、眠っていた「冷たさ」を起こす。

やがて雨があがると、鴨川の流れが冷えた静かな空気を東山から降ろしてくれる。
その風が好きだ。
熱に浮かされていたこの街の脳みそを、ひやっと撫でて、
「もういいよ」と言ってくれるみたいだから。

夕立があがると、みんな笑顔になる。
街の灯りが反射する舗道を、
浴衣の女の子も、ダボダボTシャツのイケメンも、
どこか弾けたような表情で歩いていく。

まるで、
「熱がひいて、楽しんでもいい」っていう許可証が空から発行されたみたいに。



私は、いわゆる“ぽっちゃり”だ。
笑われるほどじゃない。
でも、自分の写真を見ると、いつも思う。
“お前は、物語の外な”って。

こんな体で何を着ても滑稽だし、
手をつなぐ相手もいない。
街の“笑顔の群れ”に入るには、細い体が必要で、
それを持ってない私は、箱の中から眺めてる。

たまに思う。
どんな悲しみでもいい、誰かの死でもいい。
私の心に降り注いでほしい。
この醜い脂肪を、罪みたいに押し流してほしい。
そうすれば、
私だって笑えるかもしれない。

夕立が、また降ってくる。
ガラスに水玉が打ち付けられ、光をぼやかす。

私はレシートを握りしめて、外に出る。
傘は、差さない。

濡れているのか、泣いているのか、
わからない顔のままで、鴨川に向かう。

いつか私にも、許可証が降ってくることを願いながら。

私だって、あんなふうに笑いたいんだ。

プロへの葬列

烏丸の夜も更けた頃だった。

ドアが開いて、ひとりの女が入ってきた。
やたら明るい声で言った。
「マスター、お久しぶりですー! ずいぶん痩せたんじゃない?」

一瞬、カウンターが静まった。
グラスを傾ける手が止まり、みんなが目を伏せた。
ああ、しょうもないこと言いやがって。
そう思ってるのは、きっと俺だけじゃなかった。

マスターは、やさしく笑った。
「年、かもしれませんね」
静かに、氷をステアしていた手を止めて、言った。
その声は、まるで誰かを気遣うような響きだった。

俺たちは知ってる。
マスターが末期だってこと。
もう長くはないってこと。
それでも何も言わないで、ここに通って、酒を飲んで、笑って――
やりきれない気持ちを抱えたまま、時間をやり過ごしてるんだ。


あの女は、悪くない。
知らなかっただけだ。
それはわかってる。
けど、あの言葉が、今の空気に刺さった。
乱反射した感情が、カウンター中に飛び散って、俺の胸をザラつかせた。

グラスを拭くマスターの手元が、静かに揺れている。
細くなった指に、バーカウンターの灯りが淡く照り返す。
その仕草を、俺たちは誰も言葉を発さずに見つめていた。
グラスの中の氷が静かに溶けて、時がすべるように過ぎていく。
その一瞬一瞬が、どこか惜しくて、切なくて、
やたらと愛おしい。

泣かせてくれよ、マスター。
ありがとうって、大泣きさせてくれよ。
あの時も、この時も、マスターがいなかったら、俺――
きっと、もうここにいなかった。

だから、
だからお願いだ。

葬式は嫌いなんだ。

東山界隈 ― 湿度の中の人々 ―

東山界隈 ― 湿度の中の人々 ―

京都東山を中心に…交わらない視線の余韻を。 京都/鴨川/東山/感情小説/静かな話/湿度/孤独

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-28

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 七条大橋たもとの包丁草
  2. 猫のいない坂
  3. 目玉の奥で斬る
  4. 灰皿のあった朝
  5. 松原
  6. 臭くない人なら
  7. 千の顔
  8. 蝉の階段
  9. 扇塚下
  10. スパイスセメダイン
  11. 夜にカラスが鳴くときは、朝に必ず人が死ぬ
  12. 私は狂女
  13. 六道まいりのあと
  14. 晩餐
  15. ガロ
  16. いつか窒息する母へ
  17. パゴタ
  18. 昼のみできマス
  19. 丹波橋乗り換え近鉄
  20. 待合室
  21. エキスポ
  22. 疎水ガール
  23. 甘い夜
  24. 真名レムリア
  25. フリーレン
  26. 銀輪の
  27. サイゼ
  28. ナニワイーター
  29. 水路閣
  30. デイウォーカー
  31. サンボール
  32. カッパーゴールド
  33. 給料日と怪獣ソフビ
  34. 京都駅八条西洞院喫煙所
  35. 君たちはどう生きるか
  36. ソンクラン
  37. サカタニ
  38. 海のオーケストラ号
  39. サンクスギビング
  40. 夕立
  41. プロへの葬列