ソール・ライター/憧れ、焦がれる


 『ソール・ライターの原点 ニューヨークの色』はカラー写真のパイオニアと評される写真家、ソール・ライター(敬称略)の生誕100周年記念となる展示会であった。以下、拙いながらも彼の来歴をソール・ライター財団の活動に繋がるように記してみる。
 元々は画家を目指してニューヨークを訪れたソール・ライターは写真家であるW.ユージン・スミスや抽象表現主義の画家であり、写真を応用する作品制作を行なっていたリチャード・プセット=ダートと出会い、写真表現の可能性を確信。本格的にカメラを手に取った。写真家としてのキャリアの転機はファッション雑誌である「エスクァイア」のアート・ディレクターを務めていたヘンリー・ウルフにその腕を認められ、彼が別雑誌である「ハーパーズ・バザー」のアート・ディレクターに着任したことでほぼ毎号にわたってソール・ライターの写真がファッションページに採用されたことで迎える。他雑誌の仕事がぐんと増え、自分のスタジオも持てた。
 しかしながら、これらの仕事も写真表現の実験場の様に捉えていたソール・ライターは、時代の要請に応えるべきファッション雑誌において創造性を発揮できる余地が少なくなるにつれて仕事への興味を失くしていき、スタジオを閉鎖して、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあったアパート兼アトリエで思うままの創作を行う隠遁生活に入る。
 名声とは無縁の生活を送る中でも1994年頃に写真感材メーカーの補助金を受け、老舗ギャラリーにおいて個展を開催した。そこでソール・ライターのカラー写真の表現に感銘を受けた当時のスタッフ、マーギット・アーブ氏が作品発表への道筋に向けたアクションを起こし、ソール・ライターのアシスタントとして自宅にある作品の整理に取り掛かった(『EarlyColor』、2006年に出版)。2013年11月にソール・ライターが亡くなった後、現在でも行われている宝探しの様な財団活動はここに端を発する。その正確な数を未だに把握できていないと言われるかの写真家の遺された作品は例えば印刷を要するネガフィルムと違い、それ自体を作品として使用できるカラースライドからして数万点あり、そのアーカイブ化には数十年かかるといわれている。現段階の評価ですら発展途上というべき写真家に近づく為の秩序作りをソール・ライター財団が行なっている。コロナ禍の外出制限の時期はかえって「スライド・プロジェクト」を集中的に進める契機になったとのことで、その成果の一端を、展示空間を目一杯に使った大規模プロジェクションで鑑賞できる機会が上記展示会の目玉として用意されていた。



 色彩表現に優れているソール・ライターの写真作品の実際に迫る一つのアプローチとして、ソール・ライターの抽象的な絵画作品が本展では数多く展示されていたが、その一方でソール・ライター風という言い方が流布するほど特徴的な構図の淵源については、関連展示として渋谷ヒカリエの8階で開催中の『森岡書店×蔵書×ソール・ライター』で展示されている氏の蔵書の中に琳派の図録を見つけたことが個人的に凄く参考になった。
 様式美を代名詞とする琳派の空間構成は描く対象の配置に基づく均衡と、描かれる対象の形象に由来するリズムを平面的な構図の中で縦横無尽に繰り広げることを特徴とし、その描写を極めて精緻に行い又は美的に究めることで単純にデザインとしても優れた表現を行うだけでなく、内的イメージの在処を視覚的に経験させて、認識できる時間の質を幽玄なものに変えていく。
 ソール・ライターの写真表現においても撮り続けたニューヨークの街並みを構成する人工物の計算された形があり、鏡を用いた左右対称の構図や人物に重なる明暗が画角内で文体的に用いられ、あるいは通りすがった神様の足元に隠れてレンズを向けた様な「覗き見」的な視点からシャッターが切られることで、誰のものにもならない非現実的な光景が記録の意味を超える作品として成立している。ひと目見て分かりやすく、しかしながらじっくりと鑑賞すれば夢見心地な時間に引き込まれる点で琳派の絵画表現とソール・ライターの写真表現には共通点がある。
 他方で、カラー写真のパイオニアとしての特徴である色彩表現を楽しむにはソール・ライターが描く抽象画を目にするのがやはり一番であった。
 「COLLOR INSPIRATION」と題された展示コーナーでは、ソール・ライター財団が選定した写真作品と比較できる形で氏の絵画表現が数多く並んでいた。題名の有無に関わりなく、描かれたもの自体は何となく把握できる抽象画が数多くあったが、だからこそ画家としてのソール・ライターの色彩感覚を目の当たりにできる。
各部分、部分の色味の良さは、把握できる全体像へと移るときに覚える画面の豊かさになって現れ、感情を適度に刺激しては各々の思い出をスライドのように動かしていく。画家として備えるこのセンスこそ、ザ・ソール・ライターと称すべき構図の中で活きる時間感覚を生み出すのだと納得する。
 構図、撮影手法、そして色彩感覚。これらの要素に基づいてファッション雑誌の仕事を見直すと各ページに宿った物語性まで幻視できる。「ファッション写真以上の写真になることを望んだ」という写真家の言葉を裏打ちするものが展示会場の壁一面を埋めて、来場者の足を止めさせた。



 嘘としか思えないぐらいに劇的な場面を一枚の写真として収めるロベール・ドアノーの作品表現は、それが一から十まで用意され又は計算された演出によるものであったとしても、写真としての素晴らしさが少しも毀損されない点に凄みがあると筆者は考える。その事実を、東京都写真美術館で開催されていた『本橋成一とロベール・ドアノー』展でしっかりと確認できたが、一方で写真として完璧なその部分こそがドアノー劇場の弱さでもあるのかもという思いを、ソール・ライターの写真表現を通して抱きもした。
 もちろんソール・ライターの写真表現も、現実を巧みに切り取る撮影を行う点で、ドアノーの写真表現と変わりはないと感じる。しかしながら前者の写真には完璧と思えない緩さというか、どうとでも読み込んでいい許しが認められる。ドアノー劇場にはないその部分が、イメージの余剰として私たちに想像することを促す。イーストヴィレッジの東10丁目を散歩しながらシャッターを切ったソール・ライター自身もレンジを覗き込みながら、「それ」を楽しんでいたのかもしれない。



 AIによる画像生成も広義のイメージ作品として正当に評価すべきという考えを筆者は持つが、それでも写真表現において生身の写真家がシャッターを切るときの、瞬間的判断過程としての側面はこれからも失われて欲しくないと切に願っている。機械的なカメラとの共同作業で把持しようとする誰かの、アナザーな現実を見てみたいという欲望こそが写真撮影という表現行為の醍醐味だと思うから。
記録「行為」としての写真を目にしたい、私じゃない誰かが生きる現実感に触れてみたい。
 この欲求は、現段階でAIの現実を上手く想像できない筆者にとって、今なお人の手になるものによってしか満たされないものとなっている。だからソール・ライターの作品を心から求めてしまう。
 これと似た感覚をチェルノブイリ原発事故を受けてベラルーシ共和国を訪問した際に本橋成一が撮影したチェチェルスク、ブシシチェ村の記録作品にも覚えたのは決して偶然ではないだろう。
 テーマとの関係でいえば人が住めなくなった世界の有り様を具に写し取ってもよかったはずなのに、本橋成一が残したものはそれでも故郷に生きるしかない人たちの日常であり、逆説的な輝きに満ちる意思だった。「いのち」を念頭に置いてカメラを構えれば何も難しいことはなかったという趣旨の発言を東京都写真美術館の展示会場で見つけたとき、筆者は心底震えた理由がここにある。本橋成一ではない「私」でないと感じる事ができない感動がそこにはあったのだ。この衝撃を忘れられる訳がない。



 写真に有る深みとは、と考えると歴史的背景に基づく資料としての意義が筆者の頭に先ず浮かぶ。
 写真による記録は筆記によるものとはまた違い、視覚で認識する被写体のあり様を正確な形で伝え、いま現在と地続きの異同を知らしめ、そこに写る人や街、自然風景の過去や未来を同一の地平へと導く。戦時下での現実を写し取った一枚も、地に足をつける私たちの生活の延長線にあってそのインパクトを遺憾なく発揮する。記録としての写真に認められる深みは、機械としての正確さに拠って立つものといえる。
 他方で、写真には「撮る」という行為を突き詰める道がある。
 通常の撮影とは異なるアプローチにより人の内面で起こる現象をフォーカスし、視覚情報の処理(脳)過程を露わにしては、視るから知るへと至る記号的な意味の問い直しを行う。
 写真を目にする時、はたして私たちは被写体に感動しているのか、それとも被写体に刺激された個人または文化等で括られる集団で通じる肯定的または否定的な意味合いに感じ入っているのか。
 通常の撮影方法からあえて外したアプローチによって外界に表れるイメージ、その実際に対して生まれる不快であり、かつ興味深くもある疑問は写真という行為を知的に問い、感情面での再肯定を経て更なる高み、悩みを生み出しては、当たり前に見える光景を想像する楽しみを教える。



 奥や縦に繋がるような写真に対し、前後を感じる一枚がある。撮られる前と、撮られた後。何があって、何をしたのか。あるいは何かが起こり、何が起きなくなったのか。
 映像で記録されたのなら分かり得たはずの横の出来事がシャッターでぶつ切りにされたため、一枚の左右にある痕のように存在する。見ているとチクチクする。イメージに輝く意識。撮影者はなぜ、この場面を撮ったのだろうか。訊いてみたい。覗いてみたい。ウズウズする。
 灰色のコートの男性が手に掛ける黒く細い傘と、その頭上で輝くバーのネオンの古びた赤を中心に走らせる時間。
 1920年代の喧騒に再び降り始める雨に打たれる水溜りと、戻れない水滴が道を開ける一台の自動車から降りる時、何に驚くこともなく彼が見つめる視線の先に立つ私は、現在にある者として襟を正す。待ち合わせの時間に少し遅れた、その彼の展示会が近々戻って来る。私は浮き足立たないよう、深呼吸を繰り返す。



 彼の写真に心打たれた私も写真を撮った。
 しかし、あとで必ず心苦しくなった。私の写真は奥にも横にも繋がらない。だからこう言えるのでないか、ああいう風に評価されるのでないかと考えて撮る。それが私の性に合わなかった。彼とは別の若い写真家だって「シャッターを切ってからものを考える」のだという。こうして書くと如何にもな言い回しに聞こえるこの一文は、しかし私の経験からは、写真家の向こう岸とこちらを隔てる大きな川幅を保って今も滔々と流れている。

ソール・ライター/憧れ、焦がれる

ソール・ライター/憧れ、焦がれる

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-23

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