アガルタの風
瞼を開ける前は、ほのかな風を感じた。一筋の風、体にまんべんなく吹き込んでくる。このままずっと目を閉じていたい衝動に駆られた。これから何が起こるのか想像がつかないが、今、こうして目を瞑って足を開き立っている状態……この状態より心地良くなることはないだろうと感じた。
仕方なしに、ゆっくりと目を開けてみた。見渡す限り一面を覆い尽くす灰色の『空』。いや、『空』だけでなく、足元から先も色がない。一切の色彩感覚が体の中から抜け落ちていた。足元の草原は、冴えない小動物の背中を彷彿とさせた。自分は小さな小さな虫、蚤のような存在で、今からこの広い毛並の一点に鋭い針を突き刺し、バターのような至高の甘みを持った血液を吸い尽くす。どれだけ吸っても相手は気づきもしないし、枯れてなくなることもない。可能な限り吸い尽くして、僕の体は颯爽と動物の毛並から離れる。ここまで考えた。
ただ、問題はどれだけ考えたところでここが小動物の毛並に変わることがないことだった。鋭い針も持ち合わせていないし、万が一、僕が蚤で足元に血管が流れていたところで、見上げたところに『空』があった。これが唯一の問題であり、僕を蚤ではない、僕だと証拠づけるものだと思った。
言うまでもないことだが、僕は一度ここを訪れたことがあった。全くもって、考える必要のないことだ。あの円窓での出来事から、僕は本質的なものが大きく変わっていることに最近気が付いていた。
右腕を突き出し、左手で関節のあたりから手首まで、ゆっくりと皮をめくっていった。右半身に激痛が駆けた。左手に貼りついている皮は、それを待っていたかのような表情で一枚の風景を映し出した。その写真は、僕が知っているものと違い、中に映るものはしっかりと、より生き物に近い動きをもっていた。
世界で最も穢されている、何人もの少女たちの姿が映っていた。体は処女のまま残酷に蝕まれ、何度も何度も乳房を握り締められ、信じられないようなものを陰部に押し込められる。あるときは愛の形として、またあるときは恥辱の極みとして、あらゆる手段を尽くして犯され、果てた姿。休むことも苦しむことも許されていない。髪飾りや帽子だけはもぎ取られることなく、美麗で鮮やかな衣装が男たちの手によって引き剥がされた。
想像を絶するような装置で内臓が抉り出される。たちまち下半身が真紅の海で染まる。少女は絶叫するが、その叫びすらも彼女自身の心を癒すことはもはや不可能だった。絶叫する少女がほとんどだったが、恍惚の笑みを浮かべているものもいた。殺されたり、毒薬を盛られたり、抱き合ったり、子を孕んだり、体を貫かれたり、……少女たちは死ぬことすら許されていなかった。その有様はまさに闇そのものだった。「地獄」すら超越する世界に、美しい少女はなんの罪もなく引き裂かれる。もしかすると彼女たちは前世で大罪を犯した者たちなのかもしれない、と想像してしまうほど残酷な仕打ち。罪の償い。感情を支配され、犯されるためだけに生みだされた奴隷たち。私たちは本当に、彼女たちの言葉を聞いているのだろうか? 深い闇の中から、最も綺麗な部分だけを抽出している私たちこそが、彼女たちを苦しめていた。
僕は憎悪に駆られ、動きを止めないその写真を、破り捨てて踏みにじってしまおうとした。何度も何度も試みた。時間を越えて何千回も。だが、この写真はもともと僕の身体の一部だった。結局、その写真は僕一人の力では、到底破ることのできないものへとすでに変貌を遂げていたのだ。僕は左手から手放せない写真を少しでも忘れるためだけに、新たな罪人を少しずつ、一人ずつ作らざるを得なかったのだ。全てはあの、百年前の円窓のせいだと確信していた。
僕は悲しくなって、大きく『空』を仰いだ。ここには来たことがあった。僕が最初に来たとき、天に浮かぶこの景色……この灰色を表現する手段はなかった。一度僕がここを離れる、その時に初めて名付けられたのだ。
そうだ。ここを歩いていけば大きな建物があるはずだ。否、「大きい」と形容するには畏れ多すぎるものが。その前に……そう、僕が覚えていた通りだ。何人かの同じ衣を身にまとった僧が、僕を迎えに来てくれていた。僧たちは身長にこそ差はあれど、その頭から被った衣のせいで区別が全くつかなかった。
ここまでは、良かったのだ。僕の物語は、僕自身によってこれから不当に捻じ曲げられることになった。
僧たちは僕の前で立ち止まった。心地よい風はやむことを知らなかったが、それを心地よいと感じることがもはや出来なくなっていた。僧たちは突然、自分たちの衣をかなぐり捨てた。美しい、とても美しい黄金の頭髪が、僕の前に姿を現した。僕はとっさに左手の写真を隠さなければならなかった。こんなものを見せるわけにはいかない。彼女たちは四人。そのうち二人が美しい金の髪を持ち、またその片方の少女は先の大きく太った煙管を手にしていた。一人の少女は他の三人の少女と違い、漆黒の髪を長く伸ばしていた。
しかし、彼女たちは「彼女たち」とは違う部分があった。どこまでいっても潔白、処女なのだ。僕は心底不思議に感じた。
歩いて行けば遭遇できた『大きな建物』は、その役割を失い、跡形もなく消え去っていった。輪の核心部分となる場所だというのに、簡単に消失していいのだろうか? 僕の心配はよそに、ただこの疑問すらも、もうあまり意味のないことになりつつある。大伽藍が『空』に溶けてゆく。
彼女たちと僕は長い間対峙していた。少女たちは、必死に僕に未来の事を思い出させようとしているようだった。表情が、僕にそう訴えかけていた。
「……これでなにか、思い出せた? ……」
彼女は蚊の鳴くような、今にも泣きそうな声を上げた。発せられた彼女の言葉と共に、突然、僕の中にありもしない常識が流れ込んでくる。
「君たちが言っている意味が分からない。未来を思い出す? そんなことが出来るはずがないだろ……」
「……」
「そもそも、どうして僕をこんな訳のわからないところへ連れ出して来たんだ。もう何が起こっても驚きはしないけど、せめて仲間のいるところまで帰らせてくれないか。このままだと僕たちが夢見た、楽園での素敵な生活はおろか、僕一人わけのわからないところで野たれ死にしてしまう」
「わけのわからないところ……そんなのどこだって同じじゃない」
「どこで死んでも構わない。」
「仲間だって。 貴方、あの人たちが仲間同士だとまだ思ってるの? あの人たちは正直者よ! 一緒に暮らすなんて……貴方、朝御飯に毒を盛られて死ぬことになるわ」
「……駄目。やっぱり私たちが責任をとらないと、本当に、危険なことが……」
そう言うと、彼女は自分が握っていた煙管の尖った部分を僕の前に振りかざす。いや、これは煙管じゃない。大きな釘……吸血鬼を刺し殺すために作られた、魔法のかかった特別な銀の杭だ。杭のくせして派手な大陸風の装飾が施されていたため、突き付けられた今でもそれを釘とは思えなかった。煙管のように見せかけた大きな釘を、ほんの一瞬のうちに僕の首筋に突き立てる。彼女に慈悲の気持ちなど欠片もなく、憎しみのこもった目付きで僕の命を掻き切った。
常識の流れ込んできた僕は、全く意味を理解できなかった。何のために僕はここに連れられて責められた挙句、殺されなければならないのだろう……
しかし、彼女は僕を殺すことが出来なかった。杭は僕の首筋の一ミリ先の空気を切り裂き、命を断つことに失敗していた。彼女の指の先の杭――やはりそれは煙管だった――が、端の方から彼女の指に向かって粉々に砕けていき、跡形もなく消え失せた。彼女は心底絶望しているようだったが、残りの三人の表情から、これが当然の結果だったということだとが、なんとなく理解できた。彼女はそのまま膝から崩れ落ち、肩を震わせて咽ぶように泣き始めた。彼女のもう片方に握りしめられたロザリオが、締め付けられるような叫び声を上げた。
全部こいつのせいだ。こいつさえここで死ねば何もかも許される。私はこいつをここで殺さなければならないのに。どうして。
彼女たちの後ろ、広い『空』のちょうど真ん中あたりに、大きな薄い円盤が出現していた。とても不思議な色をしていたが、僕はこの色に見覚えがあった。いや、見覚えがあったというのはおかしな表現かもしれない。ここに迷い込んでゆくにつれて、この色と同じ性質の空気のようなものを確かに感じていた気がするのだ。今の僕には上手に表現できないが、この色は視覚を用いない、特殊な色なのだと思った。
僕たちは円盤に心を奪われていた。彼女たちも僕から目を逸らし、体全体で円盤を感じ取っているように見えた。
音楽が、流れ始めていた。気がつくと、円盤がゆっくりと回転しはじめていた。それは、僕が二度目に確かに聴いた「この世のものではない音楽」のひとつだった。音楽は、僕の耳を風そのものとして抜けてゆく。無名の地に名前が刻まれてゆく。空から光が差している。僕たちの体は、音を立てずにほどけていった。溢れた細長い糸が宙を舞い、色彩を取り戻した無名の地を僕たちにまじまじと見せつけた。
僕の視界には、一面の『直線』――禍々しい光景が、浮かんでいた。
地平線の果てまでも限りなく続く、無機質な大理石。どこまでも、白い、白い、白い……色を取り戻した草原がその異常さを、僕に強く訴えかける。薄い紫の衣を羽織った僧侶たちが、いまだとめどなく穴を掘り続けていた。果てしなく続いたであろう、そしてこれからも永遠に償われ続ける咎。見るからに重たい墓石を数名がかりで持ち運ぶ姿。その墓石は、ほとんどが西洋風の、丸みを帯びた大きな墓だった。頭髪を剃った僧侶たちは、この光景に異常に不釣り合いだった。
僕は目を大きく見開いたこの石の下には一つにつき一人づつの命の残骸が眠っている音楽が既に止まっていてもう決して目覚めることのない僕が最も恐れる『死』がすぐそこにあze %d渉 @)\・%s write
僕はついに未来を思い出したんだ。つまり、そういうことだったのだ。
この墓標の中に埋まっている人たちは、全部僕が産み出したってことだ。軽い弾みで彼女たちがこの地から離れられなくなったせい、僕が無名の地の大伽藍を壊してしまったせいで、僧たちはここ一帯に墓を建てざるを得なかったんだ。
――つまり、産み出した者の責任があるんだ。僕はここで最期を見届けなくちゃいけない。
長い時間が過ぎた。左手にはずっと一枚の写真が握り締められていた。一人づつ写真の人物の動きが止まって行くうちに、墓標は着実に一つづつ増えていった。時間が経つにつれて、だんだん写真はセピアに染まっていき、ついに何もなくなってしまった。しかし、結局最後まで「最初からここにいるべきだった二人」が来ることはなかった。一人は、僕も良く知る二胡弾きの女の子だ。彼女は僕そのものであり、僕たちが彼女であった。ここに来ないのは、当然の結果のようにも思えた。もう一人の少女には、一度しか会ったことはなかったけれど、彼女はとうとう最期まで不老不死でいられたのだろう。ここに来ることを免れた、唯一の僕の子だ。
僕の体は草原の一本一本だった。
無名の地の僧たちは、ついに僕の中での役目を終えて跡形もなく消え去ってしまった。
僕は最後に、もう一度彼女たちと対峙した。僕が最初にこの地を訪れた時のように。彼女たちは何も問題がなかったように、つまらなそうに紫色をした煙を吐き出した。僕はその時初めて、彼女たちの見かけが僕たちの想像よりずっと幼いことを思い出した。ああ、こんなことまで忘れてしまっていたなんて。僕は改めて自分の行ったことを恥じなければならなかった。僕は深く恥じたが、それを悔い改めることはもはやできなかった。
「……最後に、私たち全員が考えてること、一つだけ質問していいかしら……?」
泣きそうな声だった。CDジャケットの向こう側から声がする。
「……本当に全部、貴方だけで産み出したの……? ねぇ、子を授かるときはどうであれ……独りの力では不可能なはずよ……? ……答えて……お父様……」
最後の言葉は、灰色の空に隠されてしまった。突然、首の後ろが引っ張られる感覚がした。僕の体は宙を舞い、無名の地から離れようとしていた。僕はとっさに目を瞑った。僕は高所恐怖症なんだ。
ほのかな風を感じた。一筋の風、体にまんべんなく吹き込んでくる。僕は目を瞑っていたので、彼女たちの表情を知ることが出来なかった。体が宙吊りに浮かび上がる。僕を引き上げる二本の虹色の蜘蛛の糸の先は、どこに繋がっているのだろう?
アガルタの風
宮部みゆき『英雄の書』から舞台一つお借りしました