池袋ウエストゲートパーク 「椎名町 リカ・ザ・リッパー」

池袋ウエストゲートパーク 「椎名町 リカ・ザ・リッパー」

マコトvsリカ

「・・マコトさん、その人たち。誰?」
病的にやせ細った浅黒い肌の中で、潤んだ黒目が上下に漂う。池袋西口、劇場通りを漂う硫黄臭が突然密度を増し、腐った卵の臭気が鼻孔を刺すように刺激した。街灯の光にリカが握りしめた注射器の束が反射する。
「リカ・・マコトさんと、2人きりに、なりたいな。」
リカとの距離は、劇場通りの街灯3つ分。目測で50m。リカのピンヒールがその距離を埋めるべく高い音を響かせる。
そのとき、タカシがコードバンのローファをおれのつま先の半歩前へ踏み出した。
「・・マコト、お前は今すぐ帰れ。こいつはマジでヤバい。あとは俺とGボーイズに任せておけ」
池袋の暴力ジャングルの王様から非力な賤民へ、ありがたいご提言。
確かにおれ一人では万が一にも勝ち目はない。だが、Gボーイズが束になっても、リカを容易に制圧できるとは思えない。リカは両手にメスと注射器を束ねている。タカシはとにかく、少なくとも街頭に潜んでいる10数人のGボーイズの半数以上は傷を負うだろう。場合によっては死者が出る危険すらある。
自分でも気づかないうちに、おれの口からは自分の中に潜む怯え切った少年の気持ちと180°反対の言葉が出ていた。
「いや、タカシ。おれとリカと、2人きりにしてくれ。Gボーイズも撤収だ。」
タカシの冷たい目が、おれの目を正面から射抜いた。
よしてくれ。おれには路上で男同士、見つめある趣味はない。たとえ相手が池袋のカリスマ、キングタカシであってもな。
タカシの薄い唇の端が、永久表土の表皮が1mm剥がれ落ちる程度わずかに上向いた。タカシとの付き合いが長いおれでなければ、それが奴の笑顔だとは気づかないだろう。
「・・そうか、お前、考えがあるんだな。」
タカシの声の絶対零度が、ほんの20分の1°度ほど上がった。
考えなど何もないのだと今すぐ自白して、ローファのつま先に接吻して詫びるべきなのだろうと頭では理解していた。だが、理屈に反した何か胸の中の思いが、それを押しとどめた。キングお抱え雑技団の道化師マコト奴にも、五分のプライドだ。
「Gボーイズ、撤収!」
タカシがしなやかに腕を振り上げた。タカシの合図からぴったり10秒後には、街角に潜んでいた十数人のGボーイズの姿が影もなく消えていた。その規律の徹底ぶりが今日に限っては実に恨めしい。
路地裏に去りかけたタカシが、ふと何かに気づいたように振り返り、おれの肩に手をかけた。
「マコト・・」
「なに?」
この王様専属ピエロは雇用主の期待を裏切らず、絵にかいたような間抜け面で応じた。
「・・気をつけろよ」
王様から賎民へ、お優しい労いのお言葉。おれはタカシからこんな言葉をもらうためなら喜んで自分の首を差し出すGボーイズ達を少なくとも12人は知っている。
タカシは黙って小さく頷くと、街灯の明かりを避ける影のように静かに街角に消えた。


突然高まった臭気に、おれは思わず振り返った。
「マコトさん・・・やっと2人に・・なれたね・・」
歪んだ黒目がアスファルトの上をくねくねとこちらへ近づいてくる。
なぜだろう、リカの目の前に立つとそのか細い輪郭や衣服は油筆で塗り広げられたかのようにぼんやりと拡散して、狂ったように潤んだ黒目しか認識することができなくなる。
そしてこの、腐った酢のような、臭い。
「リカね・・本当は凄く嬉しかったんだ・・・」
アスファルトを叩くヒールの音が、通りに満ちた硫黄臭をわずかに歪ませる。
「・・だって、マコトさんって、いつもリカのこと、正面から見てくれないじゃない?ロサ会館の3階から望遠レンズで撮影したり、リカのパソコンに侵入したり、警察との電話を盗聴したり・・」
ステューシーのTシャツの背中を冷汗が伝った。Gボーイズやゼロワンの協力を得て慎重に張りめぐらせたはずの包囲網が、全てリカにバレていたなんて。
「本当にマコトさんって、恥ずかしがり屋さんなんだもん。でも、リカ、マコトさんのそういうとこ、嫌いじゃないよ。」
ガリ、という異音に思わずリカの右手に目を向けると、束ねたメスを握るリカの左手が震え、握りしめた手の中でメスの切っ先が小刻みに揺れた。
「・・ねえ、マコトさん、リカ、綺麗・・?」
おれはその場に立ったまま目をつぶってゆっくりと息を吐いた。
「リカ・・あんたには確かに魅力がある・・」
リカが、高層ビルから墜落死した死体のようにぎくしゃくと首を片側に曲げると、組んだ両腕から右手を頬に当てた。
「・・だけど、綺麗じゃない」
黒目が潤んで腐臭が爆発的に密度を増した。左手に握った注射器の束が音を立てて砕け、リカの浅黒い手首を血が伝った。おれは自分の声の震えを気にすることをやめた。
「・・それとな、「綺麗」なんて言葉は、男から女に贈るべき言葉じゃない。
好きなら好きと伝えるべきだろ。相手の容姿の評価に逃げるのは、自分の恋に自信がないからだ・・」
突如、リカが道路にうずくまった。
池袋の土曜日早朝3時はキャバクラ帰りのサラリーマンやコンパ帰りのチャラい大学生で、吉祥寺や中野の平日昼程度の人通りがあるはずなんだが、なぜか今日に限って人っ子一人この通りに足を踏み入れない。
いくらオカルト嫌いのおれだってここまで異常だと超常現象を信じざるを得ない。怪奇ライター真島マコト、週刊誌デビュー「池袋の怪!黒い瞳の腐臭美女!」なんてな。
「・・リカは、リカは女の子なんだよ。女の子には優しくしなくちゃいけないんだよ.・・
リカはうずくまった姿勢からアスファルトに両手の指をついてゆっくりと腰を浮かせた。
「マコトさん、リカのこと、好きだって、愛してるって言ってくれたじゃない?あの時、リカ、本当にうれしかった。ベッドで朝まで何度も愛してくれた時も、ティファニーの婚約指輪を贈ってくれた時も、リカ、いつもマコトさんのこと見ていたの。リカだけ幸せになったらずるいんだって、マコトさんも幸せにしなくちゃって。だかリカはいつもマコトさんのこといつもいつもリカすきだからあいしているからマコトさんリカすきだからだからもうだれもとめられないとめたらころしてやるだからいつもじゃましていつもいつもマコトおまえもリカリカリカ」
虚ろな表情の中からのろいの呪文のように支離滅裂な言葉の羅列が溢れ出る。
その姿勢が祈りのポーズではないのだと突然理解した。リカの腰が高く上がる。それは、短距離走の・・クラウチングスタート。
その瞬間、憎悪に歪んだ黒目が弾けるようにおれに向かって疾走していた。
おれは冷静に死を覚悟する一方で、何かが頭の中をチカチカと突っつくのを不愉快に感じていた。
リカの潜伏先に残されていた1枚の古いレコード・・
おれは急いでディッキーズの右ポケットに手を突っ込んでスマートフォンを引っ張り出した。
距離20m。心当たりのサイトを急いでスワイプする。You tubeの三角形の再生マークが表示されたとたん、腐臭を伴う黒髪と黒目に跳ね飛ばされた。


真夏のアスファルトは夜になっても熱を持っていて、明け方の3時でもまだ熱い。こいつは真実だ。なにしろ現におれが右の頬でアスファルト舗装の温度を実測しているところだからな。
おれは横向きに倒れた姿勢のまま、片眼だけ動かして路面に落ちたスマートフォンを捉えた。ゆっくりと左手を伸ばしてストラップをつかむ。その手を引き寄せてディスプレイをタップした瞬間、左手を激痛が襲った。急いでその場に半身を起こして、左手の甲を貫いたメスを引き抜いた。
見上げた目の前に2本の浅黒い足が見えた。色褪せた花柄のワンピースはところどころ生地が擦り切れて黄ばんでいた。
「リカ、マコトさんのこと、愛してたのに・・・」
リカの左手が緩み、握りしめていた数本のメスが次々とアスファルトに落下して高い金属音を立てた。
「・・・マコトさんが悪いんだよ。リカのこと、裏切るんだもの。マコトさんは、もう、リカのものなのに」
リカは手の中に残った最後のメスを、ゆっくりとおれの目の前に突き出した。
死の直前には走馬灯のように楽しかった思い出が蘇るっていうけど、あれって嘘だと思う。
何しろそのときおれの頭に浮かんだのは、昨夜は店のシャッターを閉めずに出かけちまったから帰ったらさんざんお袋にどやされるな、なんて非現実的な(いや、むしろ現実的か?)ことだったからな。
メスの先端が動いた。
その瞬間、おれのスマートフォンから1つの旋律が零れ出た。淵まで満ちたグラスから酒があふれ出るように、ピアノの旋律が続いて2つ、3つ。ようやく動画が流れ始めた。
メスの動きが止まった。数秒遅れて、最後のメスがアスファルトに落ちて突き刺さった。
おれは左手の傷を押さえながらゆっくりと身体を起こした。
「・・いい曲だよな。・・少し暗いけど。」
リカはゆっくりとその場に座り込んだ。薄い唇の端がゆっくりと動いてマリオネットの様な不自然な笑顔を形作った。
『マズルカ』
ポーランドの片田舎。今から700年前に漁業で細々と暮らす寒村で数少ない娯楽としての踊りとともに歌い継がれた古典音楽。ショパンの師匠であるユゼフ・クサヴェルィ・エルスネルの演奏が有名だ。バレエ曲としてもメジャーで、チャイコフスキーがあの「白鳥の湖」の中に組み込んだエピソードは有名だよな。
「・・辛いときには明るい音楽を聴いた方がいい、なんていう奴がいるけどさ。おれはそうは思わない。落ち込んだ時には部屋に閉じこもって静かな曲を聴いて、とことん落ち込んでみるのもいい。」
リカはぎくしゃくと立ち上がると、マズルカのリズムに乗ってゆっくりと回りながら流れるように踊り始めた。
おれはポケットからGボーイズのバンダナを取り出すと、左手の傷口に固く巻き付けて口を使って縛った。スマートフォンを拾い上げると、動画を付けたまま池袋署生活安全部少年課の平刑事の電話を呼び出した。
「おい、なんだ一体これは?」
スピーカから吉岡の不機嫌な声が飛び出してきた。非番だったみたいだ。
「・・マコトか?新手のいたずら電話かと思ったぞ。何だこの音楽は?」
日夜いたずら電話に悩まされている気の毒な平刑事どの。ま、高校時代にはおれたちも実際かなりの数のイタ電をかけたもんだけどな。
「深酒で寝過ごしてるんじゃないかと思ってね。たまには崇高なクラシックで目覚める朝はどうだい。」
「ふざけるな、まだ4時前だぞ。おまえ、公務執行妨害、久しぶりに喰らってみるか?」
お遊びは終わり。だれも早朝から中年男の苛立った声なんか誰も聞きたくないよな。
「仕事だよ。吉岡さんのところに自首したい、っていう女の子が来てる」
その時、リカが踊りを止めて劇場通りの先を見つめた。
「あ、隆雄さん・・来てくれたのね・・・」
思わずおれはスマートフォンを外して通りを振り返った。だが、リカの視線の先には誰もいなかった。
「嬉しい・・。ねえ、隆雄さん。一緒に踊って・・・」
リカはまるでその空間に最愛の恋人がいるかのように幸せそうに優しく手を廻し、マズルカのリズムに乗ってゆっくりと円舞を始めた。その動きは流れるような自然さで、目を凝らすとリカに抱かれる「たかおさん」の姿が見えるかのようだった。
「・・おい、マコト、いい加減にしろ。何の話だ?自首ってのは?」
「花山病院の放火事件について供述したいって。」
花山病院、と聞いて中年刑事の声が1オクターブ低くなった。とはいっても耳障りな声であることには変わりないんだけどね。
「リカか?」
吉岡ってのはこういう男なんだ。よれよれスーツに頭はフケだらけ、見た目は悪いんだが、おれの知る限り、事件に関する直感は署内でも飛び抜けているはずだ。おっと、おれがそう言ってたなんて吉岡には絶対内緒だぜ。
「お前、それで、場所は?」
「ロサ会館の裏手。ロマンス通りにつながる路地。そこまで来たら、この曲が聞こえるからわかるだろ。」
電話の向こうが慌ただしくなり、何かがガチャガチャ揺れる音が聞こえた。吉岡が首と肩でスマートフォンを挟みながら、片手でよれよれの背広をハンガーから外そうとしている姿が目に映るようだ。
「いいか、そこを動くなよ。今すぐ誰かをやらすから。」
「あんたがおれのこと心配してくれるなんて感激だよ」
冷めたブラックコーヒー並みの音程でそう告げる。
「それはお前その、お前に何かあったら、お前のおふくろさんへの責任もあるし、な」
何で吉岡がおれのおふくろに責任を持たなきゃいけないんだ。なんだか急に気分が悪くなってきた。
「よ、吉岡さん、助けて」
マイクに向かって裏声でそう叫ぶと、すぐに画面をタップして通話を切った。これで到着が3分は早くなるだろう。
振り返ると、朝日が差す汚れた池袋の路地を舞台に、リカはマズルカの哀しげな調べに乗って円舞を舞い続けていた。


長くなっちまったが、これがあの夏のあいだ週刊誌や新聞の一面をにぎわせた「椎名町リカ・ザ・リッパー」事件の顛末。
だが、この事件がこのまま「めでたしめでたし」で終わらなかったことは、おれよりあんたたちの方が詳しいだろ。
何しろおれはブラック企業ならぬブラック八百屋で日々鬼店長にあごで使われて、のんびりワイドショーを見ている暇なんかなかったんだからな。
2日後「リカ・ザ・リッパー」こと雨宮リカは、検察庁への移送中に2名の警察官を殺害して逃亡。いまだに行方は杳として知れない。殺されたのが吉岡じゃなかったのは不幸中の幸いだが、それでも殉職した2人のお巡りさんにはなんだか責任を感じるよ。
今でもネット動画や喫茶店で「マズルカ」を耳にすると、あのリカの潤んだ黒目と腐臭とを思い出す。
同時に、とっくの昔に胸の奥深くに押し込めたはずの「弦楽セレナーデ」とその曲を憎み続けたある1人の女のこともね。

おっと、こんな話あんたには退屈だったよな。
そうだ、あんた柿は好きかい?時期はずれだって?いいや、池袋の秋は他の街よりほんの少しだけ早いんだ。これをキンキンに冷やして小さく刻んだやつを口に放り込むと、この世の嫌なことの半分はどうでもいいって気分になれる。
あんたもどうだい?
本当は酔っ払ったサラリーマンに1串300円で売りつけてるんだが、あんたとあんたの友達なら特別サービスでいいよ。
ただしこいつは鬼・・もとい、おふくろには秘密にしといてくれよな。

池袋ウエストゲートパーク 「椎名町 リカ・ザ・リッパー」

池袋ウエストゲートパーク 「椎名町 リカ・ザ・リッパー」

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • アクション
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-06-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted