
百合の君(61)
少年はただ泣いていただけだったが、その体臭は、反対側を向いている穂乃の鼻をも図々しく侵していた。穂乃は少年を直視するのが恐ろしかった。彼がしゃくり上げると、涎が糸を引いてその膝に垂れた。涎は襤褸とこびりついた泥の上に黒い円を描き、泥が固まってひび割れているのは、こうして何度も濡れては乾いているからかもしれないと穂乃は思った。少年が煤けた手で涎を擦ると、着物に黒い筋が付いて余計に汚れた。
ふと目の前にいる少年は、外から見た八津代、出海浪親だと穂乃は思った。目を逸らしてはいけない。国母である私には、この子を理解する義務がある。
穂乃が少年に目を向けると、その分彼はさらに視線を落とした。
「あなたは、あの檄文を見て兵に志願したのですか?」
穂乃はなるべく優しい声を作った。
「そうでふ、い、出海はまをお助けひ、別所の非道を正ほうとひたのでふ」
その声からは正義を成そうという若い野心の炎はすっかり消え失せて、ただ怯えた心だけがあった。
「村ではと、友に後れを取ってひまった自分でひたが、い、戦場でなら英雄になれる、なんて思い込みがあったのかもひれまふぇん」
歯のない少年の不明瞭な言葉は、若い男であれば誰もが持つ根拠のない自尊心が崩れた後の砂粒のように、頼りなく揺れていた。
「で、でも戦場で英雄になれる人間なら、村でと、友に負けるはずがないのでふ」
少年は言葉に詰まって、また泣き出した。獣のような声が響く中、穂乃は彼が再び話し始めるのを辛抱強く待った。
「かひこい出海はまが、ほ、ほれを知らないはずがありまふぇん。人のあ、憧れを利用ひて使い捨ての兵にふる、お、同じ人間のふることではありまふぇん」
穂乃は、少年が「子供の」とか「若い」とかではなく、「人の憧れ」という言葉を使ったことに、その自尊心の残滓を感じ取り、安易な慰めを控えた。
そして泣き続ける少年を見ているうちに、自分があのビラを見た時の気持ちを思い出した。幼い少女に心から同情し、別所の所業を憎んだ。自分だけではない。城の女達はみな、自分があの少女の母親であるかのように心配した。少女の居所が分からないので、絵を描いた清道に文を送った者までいる。思い出すと脚の傷が突っ張るように痛んだ。この傷も、別所との戦いで負ったものだ。自分も、この子のようになってもおかしくなかった。心の中の温かい芯が抜け落ちて、一気に冷えた。
しかし、それで現実に蓋をして浪親から去ろうと思う程、穂乃はもう甘えた小娘ではない。浪親が国と穂乃を守ろうとしたこと、それは紛れもない事実だ。浪親が戦のない世を目指しているのも、本当だ。しかしそれでは十分ではないという事だ。
穂乃は勃然と悟った。人は守るべきものがあるから戦うが、戦うから、誰かの守るべきものを奪うのだ。例えどのような理想を掲げようとも、戦争という方法に頼る限り出海には破滅が待っている・・・。
「あなた、字は書けますか?」
唐突な質問に少年は面食らい、初めて穂乃に視線を向けた。その追い詰められた小動物のような瞳を、どこかで見たことがあると穂乃は思った。
「は、はい、書けまふけど」
当然のように言うその態度に、穂乃の心はさらに痛んだ。この子に字を教えた親がこの姿を見たら、どう思うだろう。もし珊瑚がこのようになってしまったら。
「私はこれから浪親様に文を書きます。あなたも出海に言いたいことがあるのなら、それを書きなさい。私の文と一緒に出せば、きっと本人に届くでしょう」
そして人を呼ぶと、木怒山というだるまみたいな男が紙と筆を持ってきた。穂乃が文を書きあげる間、少年の筆は動かなかった。墨ではなく涙が紙を濡らしていた。
「私はここにいる間、きっと何度も出海に文を送るでしょう。書けたら私に知らせてください。一緒に送ってあげますから」
少年は涙を拭きながら何度も頷いた。書き終わると、穂乃はそれを木怒山に手渡した。
「なるべく急いでくださいね」
「かしこまりました、全く出海様は果報者ですな。蝶姫様からは何の便りもないというのに・・・」
木怒山が道を横切ろうとする毛虫のように髭を動かすのを見て、穂乃は初めて義郎にも妻がいるのだということを思い出した。
木怒山はうやうやしく文を受け取って城を出ると、穂乃の手紙を破り捨てた。風はすっかり木枯らしになっている。
百合の君(61)