super scription of data
『Shall I teach? However, since it is a secret between me and you, please do not leak information. This is a promise.』
(教えましょうか? その代り誰にも言わない約束してね)
八畳間の隅っこ。無数の空いたペットボトルと共に、電源が付きっぱなしのパソコンが置かれた机がある。タスクバーの時刻表記を覗くに、現在は四月二十日の午後十二時過ぎのようだ。
足を納めるのと、椅子を納める役割のある机の空洞スペースには、窓から差す日差しが生んだ影だけが蔓延っており、そこに本来鎮座しているはずの椅子は窓の傍らに移動させられていた。椅子の上には少女の姿・・・。
少女は桜色をした薄手のパジャマを着ていて、漆黒色をした肩まで伸びた髪は手入れをしていないのかボサボサに乱れている。おまけに頭皮の油でテカテカと光っていて、前髪は自分で切ったのであろう、眉毛の上でギザギザに不揃い。部屋の散らかり具合と相まって、途轍もなくダラシナイ印象を受ける。世間は平日だというのに、少女は窓のそばで椅子に座ってボーっと呆けていた。
かれこれ、何時間こうしているのだろうか?
・・・何日間もこうしているのだ。
暇であることは確かで、彼女には教育を受ける義務が法律上課せられているのだが、親の同意上で平日の真昼間から廃人ごっこをノウノウと行っている。彼女が部屋に一日中引き籠る生活を始めてかれこれ一年が経とうとしているのだけれど、・・・勘違いをしてほしくない。つい最近までは彼女だってここまで露骨に暇を持て余してはいなかったのである。彼女が椅子に座って空の埃を眺めるだけの生活を開始したのは、一週間前のことだ。それまではちゃんと、パソコンの前で一日中ブツクサと不吉な独り言を呟きなんかしながら健全な隠居生活をエンジョイしていた。
ぶっちゃけ飽きた・・・のではなく、事件が起こったのだ。彼女にとって紛れもなくそれは、“人生の意味を失った”ことを意味する大事件だったのである。彼女は悔んでいる。悔んで、悔んで、悔やみきれずにいる。
椅子に座る少女の名を、渡辺 桜子といった。歳は十四歳。つい数日前から中学三年生・・・に、為る予定だった。桜子には妹が居た。明るく、顔立ちも良く、面倒見の良い、優しすぎる子だった。妹の名は渡辺 向日葵。歳は桜子より一つ下だった。向日葵は桜子にとっての唯一の理解者・・・否、自己と現世を繋ぐ救世主であった。いつだって優しく天使のように微笑んでは堕落した生活を送る姉を気遣い、毎朝『おはよう、調子はどう?』 と挨拶をくれた。桜子にとって、その瞬間は至福の時間とも呼べた。向日葵の笑顔さえあれば、他人との面倒臭いだけのコミュニケーションなど取るに足りないモノと感じていたのだ。満開の桜のような笑顔を愛惜しく想い、また尊んでいた。そう、桜子にとって、向日葵の笑顔こそが大袈裟ではなく生きる意味であった。
そんな妹が、つい一カ月前に死んだ。
『何故、他でもない私が、彼女を守れなかったのだろう・・・』と、
妹へと差し伸ばされる魔の手から守ってやれなかったのだろうと、自分の無力さを、カッターナイフを片手に延々と憂いでいた。桜子の足元の絨毯には赤黒い斑点模様が描かれている。
語り部である私が彼女の内心やら内情に詳しいかといえば、やはり、彼女が私自身であるというのが答えである。
客観的に、何故私が私自身を見られているのか、不思議ではあるが、幽体離脱と呼ばれる現象が今、私の身に起こっているのかもしれない。しかし、私にはそんな吃驚現象さえ如何でもいいと思えるほど絶望している。このまま、魂だけ昇天するのも名案かも知れない。妹とも再会できるかもしれないし。・・・でも、きっとそれは叶わない。だって、あの子が逝った場所は天国のVIPルームで、私が逝くのは地獄の馬小屋なのだろうから。・・・さて、馬鹿なこと考えてないで、そろそろ魂を身体に戻して、手首を切る作業に戻らなくてはいけない。それが、今の私に出来る、たった一つの贖罪なのである。
しかし、予感がした。この怪奇現象にはきっと、意味があるのだ。私の身にとんでもない物語が始まろうとしている。
そんな気がするのだ。
1
『Please open the folded-up tale and show me.』
(折りたたまれたまま 蠢いている物語を ひろげて みせてよ)
夢の中だろうか。
私の目前には眩しすぎる程の光を放つディスプレイがあった。ブラウザが表示しているのはどうやら見知らぬサイトの動画視聴ページの様で、私は小さな枠に納まる、私自身の姿をジーっと眺めていた。丁度、カメラの位置としては電灯の場所にあたるのだろう。右肩より斜め上からのアングルである。
動画内の部屋の窓は何度も明滅を繰り返し、室内の影が角度と長さを忙しく変化させていた。どうやら、早回しをされているらしい。ついに、時間の感覚まで狂ってしまったのかと思う。気が付いたら、ベッドの上で皺くちゃな顔をした自分自身が居るのだろうか。
やがて、動画は歪な影を薄らと映し出す。その間も私の後ろ姿を映した映像は流れていて、その上に薄らと混じるように影は映った。ヘッドホンからはザーザーとノイズが仄暗い井戸の底から聞こえるようにささめいていた。影は、何事かを喋っている。
『バンッ!』と、突如として懐かしい物音が響く。ヘッドホンの外からだった。私は振り向く。
「おっはよ、お姉ちゃんッ。調子どう?」
小首をかしげて微笑む妹の姿が、そこにはあった。
息絶えた筈の、向日葵の姿が。
「 」
口を開けたが、喉が震えず、音声が発せられない。か細い空気だけが漏れて出た。
「どうしたの、そんな顔して。今のお姉ちゃんは、まるで幽霊とでも邂逅したような面構えをしているよ?」
ビンゴ!と叫びたいが、やはり声帯は震えてくれない。ただ、代わりに嬉しさのあまりか枯れていた筈の涙が目から毀れたのだった。夢でも良いから、醒めないでくれと強く願った。
「わっわっ、もー、ナニ。恐い夢でも見たの!?」
よしよしと、私の肩を抱いて頭を撫でてくる妹。柔らかな感触が妙にリアリティに忠実で、それがまた哀しかった。
「もぉ、帰ってきたらまた、話聞くから。それまで待っててねッ」
彼女の温度が呆気なく離れ、部屋を出て行った。また、感謝の言葉を口に出来なかった。夢であろうとも、せっかくのチャンスだったのに。
私はその場に崩れ落ち、声も無く涙と鼻水を垂れ流した。ゴミを掻き分けてティッシュを箱から取り、鼻をかむ。やはり、感触が妙にリアルだった。一頻り泣き、気分が段々と落ちついて来た頃に、ふと窓を見遣る。如何やら朝のようである。はて、さっきまで真っ暗な部屋でパソコンを眺めていたと記憶しているのだが。アレも含め夢だったのか。
しかし、今現在の私は酷く意識がハッキリとしていて、“現実に居る”という認識が確固としている。一体、いつからが夢で、いつからが現かがまるで判断が付かないが。とりあえず、今日が何日であるかは知りたい。四月の十九日の晩にカレーライスを食べたのを覚えているのだ。あれから、どの位時間が経過しているのか。
パソコンは相も変わらず付けっぱなしで、机へと貞子の如く這いずり寄る。エネルギーが足りない。あっ、この物音はお母さんが食事を扉の前に置いてくれた音だ。後で取りに行かねば。膝で立ち上がり、机の上のマウスを動かす。待機画面からデスクトップを映しださせる。タスクバーの表示を見る。一二月二十三日の日付が記されていた。唖然とする。
どんだけ、呆けてたんだ、私。八か月以上も記憶を失っていたわけ? 幾らなんでも、馬鹿が過ぎるぞ。暫し、困惑に思考を停止させる。そして、気付く。西暦が一つ繰り下がっていることに。なんだ、無意識に時間設定を弄っていただけのようだ。時間が遡って欲しいと懇願するあまりの奇行であろう。そんなことは意味もなさないのに・・・。時計はあっているようで、午前七時を指していた。丁度、お母さんが朝ごはんを運びに来てくれる時間である。
とりあえず、こっそりと扉を開けて壁に漆塗りのお盆を付けた状態の朝食を手に取り、引き入れる。未だ湯気が立っている味噌汁と御飯。鮭の切り身と共に五百ミリリットル入りのペプシコーラのペットボトルが乗せられている。
橋を手に取り、一応、いただきますのお辞儀をして、味噌汁から手を付けた。そして、味噌汁を口に運びながら棒動画サイトへと飛んでコメント欄の上の時刻欄を確認する。味噌汁を吹きだす。時刻欄はひとつ前の西暦と十二月二十三日の日付を指示していた。世界規模のドッキリに嵌められているのだろうか? エイプリル・フールだってとっくの前に終わっているのに?
色々と思考を重ねながら、大量のティッシュを箱から抜き取り、味噌汁が毀れた机の上を拭いた。拭き終わる頃には一つの結論が出ていた。今晩、向日葵が部屋に訪れることがあったら、本気出す。
もしもだ。宇宙の法則が乱れしサムシングが働いていて本当に時間が遡っているのだとすれば、数十分前に宣言した通り、妹は夕方にこの部屋へと訪れるのだ。されば、全てを受け入れよう。そして、私の知っている未来が訪れぬように、この部屋を退出して動かなくてはならないのだ。
それまで、起きていよう。コノ白昼夢みたいな現実を・・・。
* * *
情けないことに先述の宣言も虚しく、私は机に突っ伏して眠ってしまっていた。泣き過ぎで疲れていたのだ。
起きたら、やはり時間は元に戻っていた。期待するだけ無駄だったのだ。そんな御伽噺。結局はただの夢オチだったのだ・・・なんて、ことはなかった。
「ベッドで寝なくちゃ風邪ひいちゃうよー」
肩を揺らし、私を起こそうとしたのは、他でもない向日葵であったのだ。
嬉しさのあまり、私は無言で彼女に抱きつき、胸と尻を揉みしだいた。短い悲鳴の後、頬を張られた。当たり前である。
頬が痛いよッ! 夢じゃない!
「 」
その感動を向日葵に伝えようと試みるも、声は未だに発せられなかった。
なんだろう、風邪でも引いたのだろうか。そういえば、息が少し苦しい感じがする。
「どうしたの、お姉ちゃん。何か今日は一段と変だよ」
ジト目で向日葵が追及してくるのを応えようとするも、やはり。
「 」
「声出ないの? もー、きっとエアコンずっと付けてるから、喉がカラカラになっちゃったんだよ」
向日葵の言うことが最も正論のような気もするが、どうも違うような気がした。ともわれ、意思疎通を図るために、私は適当な落書き帳を机の引き出しから取り出して、ゴミの山からシャーペンを掘り起こし、文字を書いた。便筆という奴である。
「愛・し・て・る・・・? どうしちゃったの、お姉ちゃん。気持ちが悪いよ!」
言いながら、赤面しつつ私の額に掌を当てる向日葵。熱を測っているらしい。私だって、急に妹が愛の気持ちを伝えてきたら同じ反応をしているに違いない。
ともあれ、説明は全くつかないが前触れもなく世界は時を遡ったらしい事実が判明した。証拠不十分などと誰がどう言及しようが知ったことではない。例えこれが幻想の類などであっても、ここまで五感に鮮明な連続的な物語であるのならば、これは私にとって現実に他ならない。むしろ、未来を生きていた自分こそが夢ではなかったのかと、今では逆に疑わしいくらいだ。
自分に都合の良いように物事を捉えるのは苦手を通り越して嫌いなのだが、最早そんなことも言っていられないのである。幻想は踏み躙られても文句の一つも吐けられないが、現実となれば話は別なのである。
にっくき現実。いつだって私の敵な現実。私はここ一年間、ずっと現実から逃げてきた。しかし、これから、向日葵の身に降りかかろうとする・・・かもしれない惨劇を回避する為に、私は現実に立ち向かわなくてはならないのだ。この扉の向こうへと、歩み寄る必要があるのだ。
「どっ、どうしたの、お姉ちゃん!?」
唐突に吐き気を催し、私は声も無くえづいた。ここでやっと自覚をした。私の声が出ない理由。それは、生きることへの恐怖心からだった。気分が落ち着いてから、私は大丈夫だよと手を上げてサインを送り、それから、再びペンをノートに走らせた。
『ときにアンタ。彼氏が出来たって言ってたけど、もうHはしたの』
「は、はぁッ!? 何で急にそんなこと訊くの!?」
『いいから、答えなさい』
そう書き、私は真顔で向日葵の顔を見据えた。その時、初めて気が付いた。彼女の黒髪ショートヘヤ-が栗色のボブに摩り替わっていることに。明日から冬休みに突入する事を配慮した上であろう。部活動にも所属していない彼女は、新学期に突入する前に染め直しさえすれば問題は無い筈だ。
「もう! まだだよッ!」
顔を真っ赤にして応えてくれた向日葵であった。よし、まだだったか。だとすると、悲劇の足音が鳴りだすのは、やはり・・・。
『明日、私に彼氏を紹介しなさい』
「え、えぇ!?」
『顔見るだけで良いの、直ぐ帰るから』
「か、帰るってことは、お姉ちゃん外に出るつもりなの?」
『そう。アンタの彼氏の顔を拝むためにね』
「ん~、もう! なんで、そんな時だけ頑張るの! 性格が歪んでるよッ!」
『YES or NO?』
「YESだよッ!YESに決まってんじゃん! でも、顔見たらさっさと帰るってちゃんと約束してよね!」
私は黙って、二度頷いた。
「本当かなぁ? なんか余計なことしようとしてないかな」
流石、私の娘だけあって疑り深い。正解だけど。
『大丈夫、直ぐ帰る』
「ふーん、まあ、いいけどね。明日は午後からデートの予定だったし、一緒に行こうか。あっ! 午前中も空いてるから、久しぶりに買い物でも・・・」
『それは、嫌!』
「ケチ! ・・・まぁ、いいや。じゃあ、とりあえず、明日のお昼にはちゃんと起きててよね! 昼寝はしないよーに!」
そう言って、立ち去ろうとする向日葵の腕を掴む。
「なに」
腕を離し、さらさらと書き込む。
『一緒に寝よ』
「いいけど・・・。ちゃんとお風呂入ってからね」
自身の小さな鼻を掴む仕草をして、向日葵は言った。
ああ、一カ月以上入ってなかったなぁ。
* * *
翌日、つまりは十二月二十四日。クリスマス・イブ。
結局、私は午前中、美容院に半場無理やり派遣され、向日葵のコーディネートされた格好で昼に近所の待ち合わせ場所である丸太公園の噴水前へと向かった。
向日葵はデートだけあって、この真冬の中、超ミニスカのワンピに薄手のカーディガンという姿であった。二-ソックスを穿いているとはいえ、やはり寒そうだ。根性あるなぁと思う。対して私は、ジーンズ、ロングTシャツonパーカーである。街行くナウでヤングなイケてるメンズが見たら、「うわっ、地味!」とか感想を漏らすのだろうか。チッ、五月蠅い、五月蠅い。黙れ、黙れ! 他にまともな服を持ってなかったのだ。仕方がないじゃないか。
「お姉ちゃん、顔色悪いよ」
待ち合わせ場所へと向かう途中、隣で向日葵が気遣ってくる。顔色が悪いだろうなぁとは、自覚していた。身体がだるい上に、人とすれ違う度に軽い呼吸困難に陥っている。これは確か、panic disorderと呼称される病気のモノと同じ症状である。PDと略されることが多く、精神病の一種(今は脳機能障害と判別される風潮があるらしいけど)で、過度のストレスがかかると動悸や呼吸困難を伴うらしい。何故私がそんな専門知識を持っているのかといえば、二ちゃんねるで発症者の独白を延々と綴られたスレ板を読んだことがあり、興味が湧いて一度調べたからだ。うん、ウィキペディアで。
アゴラフォビア、広場恐怖を今私は抱いているのかもしれない。
「帰りは私付き添えない訳だから・・・。やっぱり、今の内に家まで送ろうか?」
親切な妹の持ち掛けに、私は黙って首を横に振った。もし、本当に私がそんな病気に発症しているのだとしても、感けて逃がれることなど許されていない。今は贖罪の時だ。課せられた試練を耐え抜かなければ、死んでも死に切れないような後悔を背負うことになる。
やがて、目的の場所が見えてきた。ここは昔、妹と共によく遊んだ場所である。近所の子供たちと一緒にこの公園で鬼ごっこなどをして駆け回っていた記憶があった。当時のロリロリの私が、現在の私の姿を見ても自分自身だとは気付かないだろうと思う。『お姉ちゃん友達いないんだ』と伝えても、『ふーん』(何言ってんだコイツ、キモっ)と内心で毒吐かれて終了であろうなぁ。閑話休題。
果して、辿り着いた待ち合わせの噴水前には、人っ子一人、居なかった。
「おかしいなぁ、また部活で急用かな」
白々しい台詞を吐き、向日葵はケータイを取り出す。彼女からの着信に彼は出ない。メールを飛ばしても返事は来ない。
「良くある事なんだよ、彼、生徒会長だし、色々忙しいんだって」
戸惑いや焦燥を隠すのが誰よりも上手いのが、向日葵だった。彼女の特技というか、特性であるようで、悪い方に状況が傾いたつど困惑している素振りを醸し出さないのである。これが、彼女に敵が存在しない所以でもある。
いざという時に頼りにされ、それに応える人間は、どんなに優秀で完璧超人でも嫉妬の対象にならない。自分にその能力が省みることが想定できるからだ。敵の力は怖くても、味方の力というのは心強く、そして、誇らしいものだ。良心を煙たがらず、加えて優越感に浸ることもない彼女は、如何に捻くれた人格の持ち主からでも嫌悪の念を向けられることは一切無い。誰だって自分本位なのである。器用である半面で、向日葵は不器用でもあった。人を避難する事をしないし、疑うことはしても、本気で真偽を問うこともしない。やれと頼まれれば断ることをしない、謂わば“御人好し”なのだ。
そんな彼女は、信じてやまない。最初の一人である男を、最高の人格者であるという幻想を。
向日葵が間違った道を進んでいる場合は、第三者が修正する必要がある。彼女は自分でレールを敷くことを知らない。敷かれたレールを文句一つ垂れず、笑顔で進むのが他ならぬ我が妹様の性分。
今回、致命的とも呼べる彼女の歪みきったレールの行く末はDead Endである。誰も不穏な空気さえ感知していない。フラグメントを察知していない。彼女の結末に干渉しているのは、この世界では私一人なのである。ならば、向日葵の為に新しいレールを引き直すのは、他でもない私の役目。
それから一時間近くもの間、私達は噴水のヘリに座って待っていた。そして、そいつは現れた。
「ごめん、待った?」
「もう、遅いよ!」
「おっっっそいッ!!!!!」
態とらしく汗だくで現れた長身の眼鏡少年に、開口一番、自分でも吃驚する程ドスの利いた大声を叫んでいた。今まで、機能する事を封じられていた口であったが、怒気が堰を切った様に溢れだす。
「何、急用を切り出して来たみたいな顔をしてやがる! 全部嘘の癖に! テメェがどんな言葉で向日葵を騙したのかは知らないけど、アンタみたいなボンクラじゃ役不足なんだよ! 今すぐ私の妹と別れなッ!」
私からの叱咤に怯んだ、というよりは少し身を引く感じで、恐る恐ると向日葵に作り笑顔で状況説明を要求する男。もとい、今村 耕輔。
「こっ、この人は誰なのかな。向日葵君のお友達?」
「ちょっと、お姉ちゃん! 約束と違うじゃないッ!」
「向日葵は一寸黙ってて」
そう言い、今村の方に近づこうとする向日葵を、私より前に出るなと腕で通せんぼする。
「私は、アンタがどういう人間かを知っている。アンタは女とヤリたいがために平気で嘘を吐くクソ野郎だ」
「変な言いがかりは止してくださいよ、心外だ」
低い声で、脅しをかけるように今村。
「何が心外だ、図星なんだろうが。その顔は。どうせ、今日の午前中だって、隣町の女子高生・二号とデートしてたんだろうがよ」
ピクリッと眉を動かす。本当にデートしていたかは真偽を問うが、コイツがとある女子高生と向日葵を二股にかけているのは紛れもない事実のようだ。何故お前がそれを知っている、そういう類の反応であろう。向日葵と違って、やはり動揺を隠すのが下手糞だ。私の台詞と、今村の顔の曇り具合から何かを察知したらしく、喚いていた向日葵が急に大人しくなった。
「嫌だなぁ、そんな噂話未だ信じていた人があっただなんて。ショウガナイ、認めましょう。私は大昔、部活動のコミュニティの伝手で知り合った年上の女性と一度デートをしたことがあります。その際に、周りの連中にからかわれて、未だにその話を引っ張り出す奴が居るんですね。まったく、迷惑な話ですよ・・・。今はその方との縁は切ってありますし、向日葵君一筋ですよ。お姉さん」
誰がお姉さんか。虫唾が走る。それに、私とコイツは同い年だ。同じクラスにもなったことあった。・・・いや、今はそんなことは問題じゃない。
今村の証言は堂々としていて、嘘八百を述べている風には見えなかった。本当なのかもしれない。もしくは、言い訳をしなれているだけなのか・・・。何にしろ、コイツは自分が腐っていることをまるで自覚していない節がある。ずっと、こうやって人を騙し続けて、そして、大きな失敗を経験しないままここまで来たのだろう。
今村は三カ月後、渡辺 向日葵を刺し殺す。常備しているらしいサバイバルナイフで全身をめった刺しにするのだ。動機は彼女の妊娠への責任逃れに失敗したことだという。少年犯罪は世間では面白がられる風潮がある。それも恋愛関係の縺れとなれば尚更だ。私はネットで今村 耕輔容疑者の情報を検索に検索をかけて検索をしまくった。最初は顔写真の画像を手に入れて、プリントアウトしたものを焼くなり、切りつけるなり、破るなり、釘を打ちつけるなりするのが目的だったのだが、明らかにされるあまりに非人道的すぎる今村のバック・グラウンドから、怨みの念が倍増したのである。
情報の信憑性を確かめるべくお母さんに頼んで事件に関する特集を組んだ週刊誌を購入して貰うなりして、今村の情報を出来る限り集め、そして更に憎んだ。自分の無力を憎むより、他人を憎んだ方がずっと楽なのだ。だが、そんな逃避も長くは続かない。それはそうだ、やはり被害者にも非があったという記事も多く、それを読むのが苦になったのだ。
しかし、その時に集めた情報が、まさかこんな形で役立つとは思わなかったな・・・。
相手がその気なのであれば、こちらだって考えがある。悪いが、切り札を出させて貰おう。
「ふーん、じゃあ、アンタのケータイの送信履歴見せてよ。その女子高生とやらにメール送ってないか確認させなさいよ」
「そんなこと、出来ませんよ。許されません。何で赤の他人である貴方に、個人情報を開示しなければならないのか・・・」
「出来ないよねぇ、裏で向日葵の写メ―ルを高価な値段付けて売ってんのがバレちゃうもんねぇ」
「ホンット・・・いい加減にしてくださいッ!」
今村が憤怒した。私を鋭い目つきで睨む。仮面が漸く剥がれたのだ。止めを刺す。
「それに、今見せたら碌でもないのが先頭にきちゃうもんねぇ。ヤル気まんまんのアンタが、向日葵に片想いをしてる内気なクラスメイトに送った“全裸の渡辺 向日葵の画像欲しいか(笑)”ってメールが・・・」
「ブッ・・・殺す!」
週刊誌の情報は馬鹿にできないな。迷彩色のズボンポケットに手を突っ込みながら、こちらに駆け寄ってくる今村の形相を見て私はそんなことを思った。
「危ない、逃げて!」
向日葵がそう叫ぶ。
「ウチのお姉ちゃん、空手五段だよッ!」
もう遅い。私は今村の懐に素早く潜り込み、正拳突きの構えを取って、短く息を吸った。
「へ?・・・ブワッシャァァァァアアアァアー!」
世紀末救世主伝説に出てくる雑魚敵みたいな悲鳴を上げて、今村はあっけなく吹っ飛んだ。いや、やったことないけど。
因みに、空手の腕前は小学生の時にとった杵柄だ。私にとって唯一の取り柄だったのだけれど、うっかり師匠を倒して破門されて以来、道場に足を踏み入れていなかったり。
カランカランッと音を立てて、カラフルなブロックが埋め込まれた地面に落ちる、折りたたみ式のサバイバルナイフ。折りたたみ式の癖にかなりの刃渡りである。
「おいおい、物騒だなぁ。これは立派な銃刀法違反だぞ」
呟きながら、私はそのナイフを拾い上げ、腹を押さえて仰向けに寝転がる今村に馬乗りする。その皹のはいったメガネが付属される顔面に突き付ける。
「なにをしやがる・・・!」
相当なダメージを内蔵に受けているようで、今村は一言喋るのも苦しそうだ。
「んー? 立派な正当防衛だけど」
落書きをするような感覚で、私は今村の頬をナイフの切っ先で詰る。ツーと紅く細い線が浮かびあがる。
「お姉ちゃん、それ正当防衛でも“過剰”が付いちゃうから!」
私を今村の上から退かそうと、脇の下に手を入れる向日葵。しかし、彼女の力では私の身体はビクとも動きはしない。・・・あと、せっかくの丁寧なツッコミ悪いけど、挑発している時点で正当防衛でもなんでもない。
「いいか、誓え。今後一切、向日葵に近づくな。話しかけるな。関わりを持つな。・・・わかったな」
ザンッと、私は今村の耳元スレスレの処でナイフを地面に突き立てる。今村は泡を吹いて、目を剥き気絶をする。
「さて、帰るよ!」
私はソソクサと立ち上がり、今村に背を向けて公園を後にする。向日葵は暫く如何すればいいのか判断しかねているようで、暫く去る私と今村の間をうろちょろとしていたけれど、直ぐに私の背中へと、トテトテとスニーカーの靴音を鳴らしながら駆け寄ってきた。
「よくわかんないけど、ありがと・・・」
静かな帰り道でのこと、ボソッとそんな呟きが背後から響いた。
* * *
その日の晩は久々に家族水入らずにリビングで過ごした。父親は相も変わらず居なかったけれど。我が家はいわゆる母子家庭で、その辺は事情があるのだけど、そんなもんをわざわざ補足として書くのもアレなので・・・パスね、パス。どうせ物語に干渉することなどないのだから。
これはもう終る物語なのだ。必要以上の描写などキーボードを打つのが面倒臭くなるだけだ。
お母さんは私がリビングで食事すると言うと驚いて、涙を流した。
華やかな食卓にはテンションの上がった母が買ってきたチューハイが何十本も並んだ。
幸せな時間があっという間に過ぎた。それだけだった。
そうだ、印象に残った台詞を向日葵から聞いたのであった。ベロンベロンに酔ったお母さんが『明日も仕事だからぁ』と先に寝室へと退場して、リビングに二人だけ取り残された際に、私はチビチビとチューハイを呑みながら、酔っ払いついでに向日葵へとこんな質問を投げかけたのだ。
「アンタはさぁ、嫌いな奴とかいないの?」
ずっと疑問に思っていて、それでも、中々本人から聞けない質問であった。その辺については、彼女自身も気持ちに折り合いを付けているという可能性があったからだ。向日葵だって人並みに嫌悪感を抱いていて、それを耐え忍ぶ強靭さを持ち合わせているだけなのかもしれない。強いだけで、火山のように憤る日が来るのかもしれない。そう考えると無礼極まりない気がして。
だけど、違った。彼女はやはり天性の御人好しなのだなとその時、直感した。
「あたしが嫌いなのは、あたしだけだよ」
酔いに興じた緩い微笑みを湛えながら、彼女が普段通りの口調で息を吐くように漏らしたのは、そんなぶっ飛んだ台詞だった。
自己嫌悪に酔いしれる人間は星の数ほどいる。だが、そんなナルシチズムに胸を満たす連中は決まって自己愛を尊ぶ者ばかりだ。向日葵のように自己犠牲を日常的に繰り返す人間がこんな馬鹿げた台詞を口にするのはあまりに分不相応である。懺悔は弱者のためにある。強い人間には必要のない瞞しなのだ。
私は戦慄をした。同時に、哀しくもあった。
だって、考えてもみろ、数時間前にナイフを人様に向かって振り回す奴を目前にした人間が、こんな言葉を軽々しく言って良いと思うか? それじゃあ、まるで、自分は殺されても別段構わないと定義している風ではないか。だとすれば、彼女は幸福を計る定規を持ち合わせていないことになる。生きることに執着がないのは縋りたい程の希望や過去を持ち合わせていない証拠だ。それは、あまりにも残酷過ぎる。彼女の命を守った私に対しての冒涜だ。彼女を守りたいと、傍に居たいと願う奴にとって、あまりにも冷酷な答えだ。
『きっと、この子は他人に殺されるために生まれてきたのだろう』
そんな風に強く印象付けられたのだった。
そして、その予感にも似た仮説は滑稽なことにも的を射ていたようで・・・、翌年の一月十四日、向日葵は再び死んだ。
死因は絞殺だった。
そう、やはり、他殺。
犯人は、彼女の同級生だった。クラスも一緒だったのだという。
ずっと、彼女のことが好きだったそうだ。
タイムスリップという奇跡体験を一度経験したのにも拘らず、同じ末路を送ってしまった哀れな奴である私を、誰か罵って欲しい・・・。
やがて、時は流れ、二度目の四月二十日が訪れた。私はその間、ずっと手首を切り続けていた。期待などはしていなかったけれど、私はパソコンの前でボーっと画面を見届けていた。今日が終われば、私は首をカッターナイフで切り裂き自害をするつもりであった。
日が暮れ、窓からの紅い日差しが絶えた頃、それは突然起こった。緑の牧場が描かれたディスプレイ画面が白く染まったのだ。インターネット・エクスプローラーが自動的に起動されている。勝手に現れたウィンドウは聞いたこともない動画サイトの一ページを表示していた。動画タイトルは『2011年時空の旅』。
なるほど、どこまでもふざけている。もしも、これが神様の所業だとするならば、神様をぶん殴りたい。ボコボコの末にこう云い捨ててやるのだ。「ありがとよ」と。
例によって、例により、動画プレイヤーには私の後ろ姿。点滅する部屋の窓の景色。やがて、薄らと人影らしきフォルムが薄らとノイズと共に浮かび上がった。ユラユラと揺れる人影について思考を馳せるも、やはり答えは一向に出てこない。
“彼”は白衣を着ている。口元からお腹の辺りまでが画面に映っているのだけれど、モサモサとした白い髭が顎から伸びている処からかなりのお年寄りと見える。
・・・“彼”が神様なのだろうか?
分かる筈もなく、そして、いつの間にやら、タスクバーの表示は二〇一一年十二月二三日に遡っていた。背後からドアの開く音が響いた。鼓動が高鳴る。彼女の声が心臓を激しく鳴らす。
「ただいま、向日葵」
今回は、ちゃんと声が出た。ただ、息苦しさが増した気がした。
* * *
二週目以降は難易度が上がるのがゲームのお約束でも在るのだけれど、再び一戦交えた今村 耕輔も正拳突き一発で葬られる雑魚敵であった。
タイムスリップを介して悪化した謎の体調不良のおかげで空気が薄く感じるのと、身体が若干重くなったことで生じる身体能力の低下が問題ではあったが、結果としては少し息が荒くなる程度で済んだ。
束の間の平穏な日々は過ぎ、訪れた一月十四日。向日葵が前の世界で二度目の死が訪れた日、私は近所のスーパーへと買い物に出かける向日葵に付き添いをすると申し出る。すると、
「わぁ! いいよ、いいよ。大歓迎だよ。お姉ちゃんこの頃、少し活発的になったんじゃないかな。あたしとしてはその調子で社会復帰する事を願っているよ!」
と、脱・引き篭もりの圧力をかけつつも、向日葵は快く了承を出してくれた。果して彼女の殺害現場となるであろう、薄暗い路地を二人で並んで歩くことに成功した。
「アンタさ、この頃一人で歩いてる時とかに後ろから気配を感じたりしない?」
「えッ? あれ、やっぱりお姉ちゃんだったの?」
「違いますよッ!」
幾ら偏執的な愛情を向けているからといって、人殺しのストーカーと同類扱いは勘弁願いたい。
「じゃあ、なんでそんなこと知っているのかな?」
「別に。まだ今村に執着されてたりすんのかなって、鎌かけてみたの。あの様子じゃ絶対アンタには近づけないと思うけどさ」
白目剥いて、泡吹いてたぐらいだし。私に殺されかねないというリスクを背負ってまで、あの腰ぬけが向日葵に白昼堂々と話し掛けるのはまずあり得ないだろう。きっと、あの一件以来向日葵の前には姿を表していない筈である。
「多分、今村君ではないと思うよ。後ろから付いてくる気配は去年の夏頃から続いてるからね。今に始まった事じゃないんだよ」
「は?」
私は驚愕に立ち止まった。収集した情報と齟齬を生じていたからだ。今村の情報を週刊誌等から掴んだように、今回も二人目の向日葵殺害容疑者の情報は集めてきた。読んだ記事には、どれも容疑者は『二カ月ほど前からストーカー行為を行い始めていた』と供述していると載っていのだけど、去年の夏頃からだというのであれば約半年以上も前から犯行に及んでいることになる。
「どうしたの? お姉ちゃん」
振り返り、小首を傾げる向日葵。ちょっとした近所の買い物ということもあり、ジャージ姿なのだがやはりダラシナイ印象は全く受けない。・・・それに引き換え私はと言うと、・・・いやいや、今はそんなこと如何でもよくて。
因みに、冬休みは終わって新学期はとうに始まっているため、向日葵の栗色に染めていた頭は黒髪のショートに戻っている。個人的にはこっちの髪形が好みである。
「そのストーカーってさ、複数人いるの?」
「・・・ううん、多分ずっと同じ人。一人だけだよ。今のところ、後ろから付いてくる以外にしてこないから、警察には被害届けは提出してないんだけどね」
向日葵の言葉を信じるならば、前に私が居た世界で流通していた情報は間違っている事になる。普通、そんな嘘を吐いたら直ぐにバレるもんだ。目撃情報とか、多少なりともあってもおかしくはない筈だろう?
うーむ。と私が腕を組んで苦い顔をしているのを覗いてか、向日葵がこんな助言を呈す。
「そんな不思議なことがあるなら、直接聞いてみれば?ほら、今も其処に居るんだし」
言って、私の背後を指さした向日葵。
ギョッとして、私は振り返る。不審な気配なんて微塵も感知していなかったのだ。アンテナはビンビンに立てて歩いてきたつもりだ。猫の足音一つ聞き逃さない気でいた。それなのに、
「・・・あっ」
そいつは居た。私達を電柱の陰から身体半分を覗かせて立っていた。口元をニタリと歪ませて。私達をじぃーっと睨んでいた。
「気持ち悪ぃッ!!」
あまりの気味の悪さに、思わず叫んだ。シマッタと、口を押さえるも遅すぎたようで、・・・そいつ、金山 明久は歪んだ笑みを湛えたまま、フラフラとこちらへと接近してくる。
「初めましてぇ、桜子さん。僕は金山 明久と申しますぅ」
半径五メートル程まで接近すると、学生服姿の金山は学生帽を脱いで紳士的に一礼をした。向日葵の顔を横目で確認すると、天使の頬笑みを張り付けて目前の不審者をみつめている。呆れることに彼女はこんな状況でも笑顔だったのである。手や足が震えているなどの怯えた様子も全くない。
「私の名前を知っているんだね」
ともあれ、ストーカー野郎なんかにビビってるわけにもいかないので、適当に場を持たせる。
「ヒヒヒッ! そりゃ知っていますよ。ええ。勿論、貴女の妹さんの事が大好きですからぁ。実のお姉さんであるアナタの名前ぐらいは覚えていますよぅ。くっ、キヒヒッ・・・!」
何か可笑しいのか、喋っている途中の節々で噴き出すように笑う金山。
・・・それにしても、妙だな。自分で名乗ったくらいなのだから金山 明久ご本人で間違いないのだろうけれど、掌握していた情報から想像していた人物像と、実際に会ってみての印象がまったく合致しない。週刊誌等には『金山少年は大人しく、マジメで、内気な性格の持ち主で、とても悪行を働くようなタイプの人間には見えない少年だった』と、どの記事にも証言として記されてあった。しかし、目前の少年はキチガイと間違えるほどの変態さんだ。
普段は本性を隠し通しているのか? いや、こんな個性的な性格が隠しきれるとでも?
「あれあれ、金山君。偶然だね。まさかこんなところで会うなんて」
私が、更に頭を悩ませていると、今更ながらシラを切ろうとしているらしい向日葵は、太々しくも休日に偶然クラスメイトとブッキングしたシチュエーションを演じようとしていた。この様子だと、彼がストーカーの犯人なのは概知事項だったようだ。因みに、本日は金曜日で平日である。
「ウィヒヒヒッ!本当ですよねぇ。まさか、こんな処で向日葵さんに出会えるだなんて思いもしませんでしたよぉ。くくくッ・・・今日も変わらずお美しいですねぇ!」
「でっ、アンタはさぁ、あんな処に隠れて何してたわけ?」
態と挑発的な口調を選択して割って入る。相手のペースにはまってはいけない。機嫌を逆なでして暴走させれば、今村同様に正当防衛を装って実力行使が可能である。いい加減、コイツのキャラクターもウザッタらしくなってきたし、ぶっ飛ばして済むなら早急に済ませたい。身長も女である私より低いし、筋肉もない。よっぽど強力な凶器でも持っていない限り、喧嘩じゃ負ける気がしない相手だ。
「アハハッ、今日は貴方の妹さんを犯してから殺そうかと考えていたのですけどぉ、今日はお姉さんが居るので叶いそうにありませんねぇ・・・キッヒャッハッハ!」
こんな不吉なことをバシバシ口走っているのにも拘らず、当の向日葵さんは相も変わらずニコニコと笑顔を張り付けたままだった。
「警察、呼ばれたいわけ」
「どうぞどうぞぉ、そんなことしたってお巡りさん方は真面目に取り合ってはくれないでしょうけどねぇ・・・クッフフ」
「アンタ一応優等生なんだろう?補導歴が出たり、変な噂が立ったら進路に影響しかねないよ。それは怖くないのかい」
気持ち悪い言動しやがってと、私はついでに吐き捨てる。さして、ダメージを与えられなかったみたいだけど。
「いえいえ、一向に構いませんよぉ。どんな噂がたとうとぉ、どんな補導歴が生じようとぉ、ボクの輝かしい未来には支障をきたさないでしょうからねぇ。くッ・・・キッヒヒヒヒヒヒ!」
「ほー、その自信はどこから湧くのか訊いてみたいところねぇ。そんなもんは勝手な思い上がりに過ぎないんじゃないの。確かにアンタの家はパパが大層立派なお医者様で金持ちみたいだけど、人殺しまでいけば幾ら出版社や新聞社に大金握らせても、アンタの個人情報が社会に流通するのは避けられないよ。なんせ、今のご時世にはインターネットなんて物がある訳だからね」
「随分と現代のメディア事情に詳しいようでぇ。・・・キヒヒッ」
ん? ここに来て、金山の表情に影が差し始めた。まぁ、初対面である人間に身内のことを口に出されれば誰だって不審がるはずだけど。しかし、それとはどうも違う反応な気がする。なんというか、バツが悪そうな・・・。そう、本人は入念に検討を重ねて完璧に組み立てたつもりだった計画ビジョンを予想だにしなかった観点から問題点が指摘されて狼狽えている風だ。離婚前、家族旅行にとハワイ三泊旅行を企てて、得意げに私達へと発表したお父さんがこの表情をしていた。ウチのお母さんは口うるさい。
しかしまさか、親の力で大罪を軽減させることで自己の未来を確保できると本気で信じていたのだろうか。・・・もしかすると、コイツは今の今まで親の権力にばかり頼って生きてきたのかもしれない。口から出まかせで相手に癇癪を起させようという作戦だったのだけど、思いのほか核心を突いてしまっていたようだ。嘘からでた誠って奴だろうか。・・・ちょっと違う気もするけれど。ともあれ、私がさっきから感じていた違和感はこれで解消した。しっかし、だとすると、金山少年はトンデモナイ世間知らずの大馬鹿お坊ちゃまのようだな。
「それにさ、アンタのパパが現代医療において神様と呼ばれる逸材なのだとしてもだ。息子が殺人犯となりゃその立場だって危うくなるよ。社会人には責任ってもんがあるんだからね。・・・そうなりゃ、アンタを救う力自体が弱まるってもんだ」
現に、金山が殺人罪を犯した未来では彼の父親は勤めている大学病院を解雇されられていた。週刊誌の情報齟齬から察するに、裁判等が有利に働くように手回しをしていたのは事実なのだろうけど、その手回し自体も完璧に行うのは不可能だったみたい。そりゃそうだ。少年犯罪なんて大衆が簡単に興味を失うネタではない。
「アンタがどんな輝かしい未来のビジョンを設計していたかは知らないけど、それはきっと今の親の立場があってのモノなんだろう? どうせ。万引きだのショボイ傷害事件の一つや二つ揉み消してもらった程度で社会の帝王気取りなんて、井の中の蛙にも限度があるね。まったく、親の顔が拝んでみたいもんだよ」
「・・・・・・」
私からの追なる言及に、金山はとうとう口元から不細工な笑みを消失させて、黙り込んでしまった。そして、ユックリと踵を返し、私達の歩いてきた道を引き返し始めた。随分とあっけない撤退に腰が抜けそうになるも堪えて、私は去る後ろ姿に声をかける。なんてことのない、興味があったから訊いてみた質問事項だった。素朴な疑問である。
「アンタ、本当に向日葵のこと好きなわけ?」
少しの間沈黙が続いた後、彼は口を開く。
「・・・キッヒヒ、好きですよぉ、大好きに決まってるじゃないですかぁ・・・! でもぉ、今はお姉さんの方に気移りしそうですけどねぇ・・・クッフフ」
此方を振り返ることもせず、それだけ言って、彼はユラユラと足音もなく路地の奥へと消えていった。
脅しは掛けていないものの、恐らく金山は今後一切のストーカー行為を止めるだろうという予想が付く。あの聞きわけの良さ、不気味な笑顔、数分話して掴んだ奴の性格から、ストーカー行為自体アイツにとってはお遊びの一環に過ぎなかったのだろうと踏んだのだ。そして、予想は当たっていたようで、後日、向日葵から背後に迫る気配に悩まされることがなくなったとケーキと共に感謝の言葉を受けた。
日もどっぷりと暮れた二〇一二年一月十四日の午後六時を回った買い物からの帰り道。金山との討論中、終始笑顔であった向日葵からこんな話しを聞いた。
「実は金山君とちゃんと学校で話したのって、ストーカーされるちょっと前の一回だけなんだよね。話した内容も正直覚えてないんだけど、ただ、最後に金山君がこんなことを言ってその場から去ってったのは覚えてる」
君は面白い。
彼は、向日葵をそう評したそうだ。
金山 明久、謎の多き男であった。
2
『super scription of data』
(あなたが変えるなら 全てが変わる)
三度目ともなると妹の葬式では涙が零れなかった。耐え忍ぶには永遠とも感じる、しかし、思い返すには一瞬の三ヶ月を過ごした。
謎のタイムスリップをした影響で、傷のない正常の状態に戻った左手首をカッターナイフで再び傷を付ける作業に勤しみながら暮らす空っぽの日々は、記憶の長さを計るために目安となる感情起伏の節目が存在しない。平坦な連続的時間は精神を蝕むでもなく、手首に赤黒い傷跡を生む猶予期間でしかなかった。この三カ月がたとえ三秒であっても、体感的には同じことだ。実際はもっと短いかもしれないし、長かったかもしれない。
時間は平等に与えられるとはいうが、それは違うだろう。
蝿の一秒と人間の一秒には圧倒的な体感速度に差があるように、人間個々にも時間を過ごす速度というものがある。本当に時間は平等に与えられているという言葉に嘘偽りがないとするならば、誰かは誰かの未来と今を過ごし、誰かは誰かの過去と今を生きている事になる。人は皆違う現在に在籍していて、時間と呼ばれる概念は四次元的に自分のポジションを認識するただの記号へと成り下がってしまう。
そんなぶっ飛んだ理論は成立して良い筈がない。相対性理論に少し似通った部分があるようにも感じるが、証明に値する数式が存在しない。机上の空論どころか、そもそも論理として破綻しているのだ。
だが、どうだ。一個人の勝手で未来が変わるのは些か都合が良過ぎるのではないか? しかし、私はそれを体験してしまった。そんな都合の良いように過去改編が可能であるならば、世界に悲劇や惨劇が存在し得る筈がないのに。だとすれば、意外に四次元的な空間移動は案外簡単なシステム構造をしていて、先の一例のように現在の私の記憶と過去の私を繋ぐリンクが存在し、再び残像の織成す世界で道化を演じることが可能なのかもしれない。
もしくわ、私は既に死んでいて、私が体験したタイムスリップ、またその前後の記憶は全て死後体験、三途の川の向こう側の景色だとすれば、『死者は成仏するまでの贖罪期間が与えられ、現世に影響を与えることなく浮世への未練を解決するシステムが存在している』ということなのかも。
やはり、いずれも、B級SF映画の結末のような酷い創作論理だけれど・・・。まぁ、真相が前者であろうと、後者であろうと、私自身が本当の意味で救われることには変わりない。だって、妹は既に死んでいて、彼女は彼女なりの贖罪を果たして成仏しているのかもしれないのだ。私がやっている事はただの自己満足で、ただの悪足掻きなのかも。
私は妹の命を長がわらせたいだけなのに・・・。その為なら命だって投げ出して構わないのに・・・。
気持ちの空回りは哀しい。
立てた仮説の真偽などは知ったことではないけれど、私は三度目の二〇一一年時空の旅へと飛び立つ事を決心した。四月二十日の夕暮れにパソコンのディスプレイ前でポカンと口を空けていた。例え、独り善がり過ぎないのだとしても、妹とまた会えるというのなら何度だって私はタイムスリップを繰り返そう。
私という世界に、また妹を閉じ込めるのだ。
自動的に立ちあがるインターネット・エクスプローラーのウィンドウ。開かれる謎の動画サイト。
画面中央でプレイヤーに流される作品名『2011年時空の旅』は、視聴する回を増すたびに途中で浮かぶ人影のビジョンは鮮明になってゆくようだった。例によってボンヤリと映し出された白衣姿をした老人の手には、長細い注射器が。暫くすると、注射器は画面外の下方向へとフェードアウトする。
数秒経つと、突然グルンとカメラの視点が移動して、まっ白い天井が映し出された。白衣姿の人物とはまた別の人影だろう、その人物はこちらを覗き込む。どうやら、この視点の持ち主は現在ベッドか何かの上で横になっているようだ。覗きこむ人影は口を動かす。光の加減でボヤケテ、顔がハッキリとは見てとれないけど、短髪に切り揃えた頭の形から大凡男性であろうことは判断できた。
こちらに向けて話しかけているようだけど。
「――sッ××o」
ぶつぶつと途切れるノイズに混ざって、聞き覚えのあるような、ないような低い声がヘッドホン越しに聞こえる。・・・彼は、何と言っている?
窓の外は朝に変わり、バタンと大きな音が背後で響く。
「おかえり」
と、私は呟いた。向日葵は怪訝そうに顔を傾けた。
感じる。此処がさっきまで居た世界とはまた違う空間であるという感覚。ふわりとした浮遊感と裏腹に身体は重くなり、肺に穴を空けられたかの如く呼吸は薄くなる。水中に居るのに近いかもしれない。目視できない不思議な力が空に漂っているのだ。それはタイムスリップを重ねるたびに強くなってゆく。次にタイムスリップをすれば、私はこの正体不明の力に溺れ死んでしまうのだろう。
時間はない。もう、失敗は許されない。
ここで決着を付けなければ、私の身が持たない。
* * *
私が最初に時間を遡った先の時間軸を“一周目の世界”と名称しよう。そこでの敗因は、主悪の根源である今村の魔の手より救うことに成功した妹の命が、一カ月という短いスパンの内に二度も狙われると想定できず、完璧に油断していたことが最大のモノだと挙げられる(しかし、まぁ言い訳にしかならないが、そもそも向日葵の命日は三月十七日であったのにも拘らず、死期が早まるなどと誰が予想出来ようか)。
その反省を生かそうともう一度タイムスリップをした先の“二周目の世界”では、金山との対抗の日以来、向日葵の外出時にはなるだけ私も付随した。今村と金山の手によって妹が命を落とした際、犯行時刻はいずれも辺りが暗くなった夕刻であったのだ。だから、その時間に彼女が外出するときは、絶対に私の許可を請うてからにしろと言い聞かせた。しかし、その働きかけも虚しく、向日葵が三度目の落命を果たすことになる犯行は、向日葵の通う真っ昼間の学校で起こったのである。
学校で事件を起こされてしまったら元も子もなかった・・・。とは、断言できない。何故なら、彼女の在学しているその中学校は本来なら私も登校していたからだ。引き籠りに甘んじた私が馬鹿であったのだ。『学校なら他社の目があるから殺人なんて起こる筈もない』、『登下校時も友達が一緒だろう』などと口実を並べて立てて、胸にうやむやを抱えては、ベッドで後ろめたさを誤魔化すのにゴロゴロと寝そべり昼寝をしていた。そんなものは詭弁に過ぎなかったのに。
白状してしまえば、私は登校するのが怖かったのだ。向日葵を命懸けで守ると決心していたのに、今後に及んでクラスメイトの目を恐れた。
いや、だって、約一年間学業をサボっていた様な奴が、一体、何を習いに行くというのか。来年もう一度二年生をやり直すことが決定づけられている私が、今更、顔を合わせたこともないクラスメイトと学窓を共有にする意味が何処にあろうか。どうせ、私の席など片付けられている。かの有名な、『おめぇの席ねぇーから!』って奴だ。わざわざ用意させるのも気の毒だし、もし教室の片隅で奇跡的に残されていたとしても、どうせ引き出しの中身はパンの袋やら読み飽きられた漫画雑誌などが詰め込まれているのだ。挙句の果てには、デリカシーのない下枠な連中が私へと後ろ指を立てて嗤うに違いない。そして、陰質な女子の群れが、心底ウザったらしそうに私へと邪険な視線を向けてくるのだ。嗚呼、想像しただけで胃がきりきりと痛むし、虫唾が走る! こんなの嫌だ、嫌過ぎる。一生モノのトラウマになること間違いナッシングじゃないか。人生経験がどうとかの粋、越えちゃってますから!
・・・そんな弱音なら幾らでも漏れた。漏らしても、漏らしても足りなかった。揺れ動く胸中の天秤は均衡を失ったままだ。腐りきった精神は、親に手を引っ張られても足の力を抜いてまでしてその場に留まろうとするダダっ子を連想させる。不体裁で、みっともないこと極まりなし。
もう、弱音も吐いてられない。みっともないのもここまでだ。私は自分の意思でまたタイムスリップを試みた。妹を救いたいのだ。流暢に羞恥を晒している場面じゃなかった。私が拒んでいたのは心が容赦もなく折られる事への恐怖だ。だけど、どうだ。私にとって向日葵が消えてしまうこと以上の痛みなどありはしないだろうが。
だらしのない生活とは、そろそろバイバイしなくては・・・ッ!
“三週目の世界”に辿り着くと、私はまず、部屋の掃除と入浴を自発的に行った。向日葵とお母さんは酷く驚いた。熱があるんじゃないかと額に手を当てられたのだが、実際に熱はあった。息も絶え絶えで、足元はふらついた。そんな致命的なハンデを負っても、やはり今村は雑魚のままだったけれど。
来たる一月十四日。三週目の世界には金山が現れなかった。訊ねるに、向日葵は元々ストーカー被害にすら遭っていないようだった。二度と会いたくはない奴だったけれど、会えないは会えないで別の不安が募った。個々の世界で起こる事象はランダム制であるのだという実例が挙がってしまったからだ。こうなると、二週目の世界で向日葵を殺した三人目の容疑者は犯行時期を早めたり、先送りにする可能性が生じる。また、別の人間が突飛に向日葵を殺害するという事態も否めなくなった。となれば、一瞬たりとも油断は許されない。いつ、どこで、だれが、だれと、どんなふうに向日葵を殺害するか判らない。一時も彼女から目を離せられない。そんなプレッシャーで眠ることも儘ならず、睡眠不足から顔は痩せこげ、目の下には隈がかかった。食欲も失せて、体調不良は悪化する一方だ。加えて、一月十四日の金曜日から、土日明けての一月十七日、月曜日には苦し恥ずかしの久々の登校となり。体力と精神力の消耗具合が倍増した。
登校については実のところ、二周目の世界で殺人が行われた二月十九日からと勢い込んでいたのだけれど、彼女の命がいつ消されてもおかしくない累卵の危機に置かれていると了すれば、妥協に狎れてなどいられない。四の五のくっちゃべずに諍わなければならない。
体調から、詭弁から、恐怖から。
因果応報、自業自得。放置していた問題がツケとして回ってきただけだ。それこそ、解決のタイミングが遅いか、早いかの違いじゃないか。この期に及んでも、制服に袖を通すのを躊躇ってしまったのは、自分が向日葵と比べて愚劣な人間なのだという裏打ちだった。呆れを通り越して少し笑ったよ。これが私なのだと。向日葵が愛おしくてショウガナイのはきっとここがルーツなのだ。
そう考えると、どんな情けない自分でもほんの少しだけ好きになれた。
* * *
登校初日、私は見知らぬ担任教師に土下座をして教室を移動させて貰った。もちろん、向日葵と同じクラスに。彼女からは半径五メートル以内から離れないようにしなければならないのだから当然である。
金山が現れなかった一月十四日以来、おはようからおやすみまで、風呂やらトイレのときまでも、私はずっと向日葵と密着している。これだけやっても、まだ足りない。特に、トイレの際はドアを跨いでいるせいで彼女の姿が確認できなくて不安なのだ。そんな私の病的とも思えるつきまといにも目立った言及は施さない向日葵は、やはり私と負けず劣らず異常である・・・。閑話休題。
最初は渋い顔をしていた赤の他人ならぬ真っ赤な担任だったけど、
『どうせ進学できないのだから来年同じクラスになるかもしれないのだから、元一年生と今の内から触れ合いの場を設けるのは悪いことじゃないでしょう』と、
床にデコを擦りつけて我を通す女生徒が不憫だったのか、某ダンブルドアにクリソツだとご近所からも評判である校長先生に表向きの動機を提示してもらう助け船を出航していただき、やっとこさ折れてもらった。右手に持っていたカッターナイフも一役かっていたかもしれないな。
交渉成立に諸手を挙げて飛び回り喜ぶ私。隣には、珍しく人前で引き攣った笑顔を覗かせる向日葵。こんな珍妙な図が二つ並ぶことなど、もうありはしないだろう。あったら困るのだ。全世界の向日葵ファンから顰蹙の的にされてしまう。
新クラスメイト達は私からの紹介を受けて目を丸くしていた。休み時間になっても転校生がクラスにやってきた時に起こる特有の現象、席を囲んでのチヤホヤ&設問攻めみたいなのがなかった。転校生ではないので至極当然なのだろうけど。向日葵に説明を求めようとする子達は数人いたみたいだけれど、私が妹へと向ける粘着質な熱視線に耐えられずにすぐ彼女の席からも離れた。
久々に受けた授業は一年前に受けているはずの内容だと云うのにとても新鮮だった。まぁ、大体去年の今頃から不登校児になったので実際は受けていないのかもしれない。どちらにしろ、私が一度受けた授業内容をちゃっかりと記憶しているはずもない。授業中の教室という特異とした空気に触れたことが久しぶりで、新鮮に感じたという意味である。体育の授業があったが私は体操着を持参してこなかったので見学をした。別に短パンに長袖の体操着姿をした妹などに興奮は覚えていない。本当だ。短パンから伸びる白く細い腿が忙しく走り回っているさまにフェチズムなどは断じて感じていない。本当だよ!
訪れたその日の放課後。私は三人目の容疑者になる、とある女生徒を探した。事前に犯行が食い止められそうならば、事前に済ましておきたかったのだ。それに、金山の件もあったし、犯行の有無さえあやふやなのである。無駄に気力を浪費するリスクも想定される。確かめるのに、状況確認ぐらいはしておいて損はない筈だ。
しかし、幾ら個人情報の漏洩にブレーキの効かないネットであっても、在籍していたクラスを書き込む奴などいない。誰も興味ないし。そんなわけで、まずは景子がどのクラスに在籍しているかを調査にあたった。いや、調査とは大仰だな。「このクラスに有嶋 景子は居ますか」とA組から順に尋ね回りまわり、D組に辿り着いただけだ。
もちろん、向日葵にも付き合って貰っている。ニコニコ笑顔を張り付けて、彼女は私の背後を黙って歩いている。勝手に一人で帰ってもらうと、私の監視が離れたところで誰知らぬ殺人鬼さんに殺されかねないからだ。
誘いに対して、彼女は「えー、帰りたーい」とか愚痴を言わず、二つ返事で「いいよー」と、引き受けてくれた。目的も説明していないのに。・・・本当に危なっかしい妹である。下手したら幼年期に誘拐されていたかもしれない。
妹(と現在の私)が属するクラスは一年B組なのだけれど、その娘のクラスは股隣の一年D組であった。名前は有嶋 景子。歳は、向日葵と同じく十三歳。私の一つ下だ。クラスこそ股隣りだったが、家は隣同士のご近所さんだったりする。向日葵が殺されてしまった際に、玄関先で屯するパパラッチの防衛線を掻潜ることをせずに、私の要求する週刊誌やら日常品、食材等を親が仕入れるのに塀越しでこっそりと協力してくれた家の子である。向日葵はどうか知らないけど少なくとも私と景子の関係は疎遠しているが、親同士のネットワークはいまだ健在だ。小学生だった頃はよく他の子供達も連れ立って、近所の丸太公園でよく遊んだものだったけれど・・・。
D組の教室入り口手前の廊下にて、聞き込み調査により在籍クラスを割り当てたとほぼ同時に、景子は横に友人らしき女子生徒二人と共に教室の出口へと向かってくるところであった。
「ほら、有嶋さんなら今出て来ましたよ」と、
教室を訪ねた眼鏡のよく似合う三つ網女生徒が指した入り口を向いて、私は景子の変貌ぶりにギョッとした。
数年ぶりに会った景子は大層垢抜けていた。とりわけ、元気でも活発でもなく、むしろ優等生然としていた頃の面影はいったい何処へ隠したのか、彼女は泰然自若な文学少女キャラから、イマドキなギャルへとクラスチェンジしていた。二階級特進もいいところである。
出し抜けに“二周目の世界”において情報収集不足という問題が発生していた。先に記したとおり、買い出しは有嶋家の母上様に頼んでいたのだった。流石に自分の娘を殺した子の家におつかいなど頼めるはずもなく、故に、多難ながらもウチのお母さんが買い出し等を直接していた。こちらの心情を知ってか知らずか、パパラッチ共は容赦なくお母さんへとカメラレンズとフラッシュを向ける。とてもじゃないがそんな状況で「お母さん週刊誌も一緒に買ってきて」なんて要求などは、幾らなんでも鬼畜の所業だろうと自粛した。インターネットもあるし、情報収集にはさほど問題はないだろう楽観視していた部分もあったけど・・・。どうやら、私はとことん甘い。
それが出来ていたら、彼女の変貌ぶりにさほど衝撃を受けることもなかったのかも。・・・パッチリとした目元は海苔でも乗せているのかとツッコミたくなるマスカラ+つけまつげ。薄いながらも一著前にファンデーションも塗っている。半径一メートル以内に強烈なコロンの匂いを漂せ、極めつけには金色に染めた髪の毛。何がお気に召さないのか、この娘は校則に喧嘩を売っているようである。
『え・・・? どれ、どれがあの子? え、まさか、この金髪が・・・。いや、間違いなく、コイツだ。この顔立ち、何より唇下のこの色っぽいホクロは景子のモノだ・・・。え、でもマジ?え?』といった感じで吃驚しすぎて、本人を特定した後も呼びとめるのを一瞬だけ躊躇ってしまった。
昔から肝の据わっていたのは分かっていたけど、そのベクトルがマイナス方向に働くことはなかった。元々は自らの高潔さを潔白とするため、様々な処世術を身に付けるにあたって、彼女が勝ち得た副産物的なスキルだったのだ。・・・小学生の癖にそんな処世術も糞もないだろうという声が挙がるかもしれないけれど、しかし、大袈裟に表現してしまえばそういうことだ。自我が完成している人間は歳に関係なく人間関係で苦労する。
景子はコロコロと対人態度の変わる子だった。周囲の子供達はそんな景子を気持ち悪がっていたけれど。私には彼女が一人で戦っているのを傍から眺めていてよく理解できた。基本的に同じ人種なのだろう。他人の横暴な素振りが気に障ってしょうがなくて、自分はああなるまいとポーズを取るけど、窮屈になってボロが出てしまい投げ出してしまう。新しい仮面を拾っては捨てを繰り返し、最終的に行き付くのはやはり、自堕落。
自然体であることが、不自然にしかならない人間の辿る道。障害と評して差し支えのない人格や臆病さを抱えていると、社会では生きているだけで苦労をする。人間は一人では生きていけないのだ。こればっかりは逃避も長くは続かない。
一年間以上、引き籠ることが許された私はまだ幸福な方なのだろう。お陰で、現実に歩み寄る準備期間が整えられたのだから。
「け・・・、景子?」
昔の馴染みで、私は景子と呼び捨てにした。正直、有嶋サンとお呼びしたかったのだけれど。
私からの呼びかけに御三方はきょとんと云う顔をして、それから、何故か背後の向日葵を一瞥すると、直ぐに露骨に嫌悪感丸出しの顔へと変化させた。嗚呼、と私は構え直す。そうか、この子達は戦っているのだ。具体性のない馬鹿馬鹿しい戦いをつね日頃から繰り広げている。私はこの種の人間を隠れて戦闘民族と呼称している。
「誰、あんた」
「あ、アタシ知ってるー、あの阿婆擦れ女のお姉ちゃんだわ。コイツ」
景子ではなく、隣の友達らしき二人が声を張り上げて喋り出した。巻き起こる、誹謗の嵐。突如として始まったそれの正体を私は知っている。威嚇だ。臆病な犬が近づいて来る影へと吠えているのだ。こちらに敵意はなくとも、相手の恐怖心が私達を敵に見せている。実に、哀れだ。
その後も二人の威嚇は続く。
肝心の景子は私の顔を興味もなさそうにガムをクチャクチャ噛みながら見据えている。私はその目をずっと睨みつけていた。
「えっ、マジィ? あの留年するって奴?今更なんで学校来てんの?」
「つぅーかぁ、同級生になるんじゃん?」
「うっわ、同じクラスになりたくねー!」
「どーっせ、妹と一緒で性格、ねじ曲がってんでしょ?」
「っんてかぁー、臭くない、コイツ」
「ぁあー思ったー。流石、引き籠り。どうせ、何週間も風呂入ってないんだよコイツ。テレビでよくみるじゃん? オタクとか、二ートとか皆、汚ねー顔してるしさ」
おいおい、昨今ではネットでもここまでド低能丸出しの中傷コメントは珍しいぞ。芸能人ブログが炎上したときぐらいにしか観測できない理不尽さを孕むコメントだ。小学生の喧嘩で飛び出すレベル。しかし、精神的にはこういうのが一番ダメージを喰らうのも事実だったりする。正直泣きそうだ。あれ、私、目ぇ赤くなってないかな。大丈夫かな、コレ。
それにしても、意外な事に私は有名人だったらしい。
きっと、向日葵にも迷惑を掛けたに違いない。
現実を生きると云うのはすなわち、戦うという事だ。大事なモノしっかりと抱きかかえて、手放さないために必死。その抱えている物が大多数の目からは下らない物と映っても、必死にそれを守るのだ。それが、私が馬鹿にしてきた戦闘民族。今では、私もその仲間だ。・・・反撃を試みる。
「アンタ達には用はないんだけど。景子、無視してないでなんか言ってくれる?」
「・・・ハァ?誰だよ、気持ち悪ぃな。行き成り気易く声掛けてこないでくれるかな。スゲェ口臭いんだけど」
やっと放たれた景子の言葉は、私を突き放すものだった。傍らの二人がギャハハハハハっ!と、合図を受けたように笑う。
本当に私のことを覚えていないのだろうか。いや、覚えてはいるはずだろう。なんせ、お隣同士だし。単に舐められているのだ。
ドラマなんかで、思春期を迎えた子供に、「一体、いつからあの子はああなったのかしら」と嘆く親の姿がよく素描されているけれど、ピッタリと心境が当て嵌まった。親なんだからメソメソしてねーでガツンと一発かましてやれよと唾棄すべき対象と認識していたのだけれど、考えを改めるとしよう。
確かに、降りかかる言葉の暴力に恐怖で足は震えていた。踵を返し、ダッシュで逃げ去りたい衝動に駆られている。それは、認めよう。しかし、私が反撃を諦めた主な理由は違う。
自分の言葉が通じない人間には何を喋る気にはなれないのだ。口で解決できないならやはり、実力行使しかないのだけれど。
苛立ちに握った拳がギリギリと軋む。・・・嗚呼、滅茶苦茶コイツら三人ブン殴りたい。しかし、ここは学校という公共の場なのでそんな横暴な真似をすればいろいろ問題がある。少なくとも暫くは自宅謹慎、下手すれば少年院送りとか。そうなると、嫌でも向日葵と距離を開けさせられることになる。本末転倒の極みだな。
拳を解く。力を入れ過ぎていたのか、掌に爪が深く食い込んでいたらしく血がぽたぽたと零れ落ちた。噛み締めた奥歯からも血が滲んでいるらしく、鉄の味が舌を浸食している。気持ちが悪い。ただでさえ“不思議の力”のせいで体調が悪いのに、吐き気を催しそうだ。
俯いて、何も云えなくなった私へと、フンっと鼻だけで一笑してから連れの二人は私の脇を通り抜けて、背後の向日葵に向けて、廊下中に響き渡るほどの大声でこう口にした。
「おめぇさぁ、私に何か云うことあるんじゃないの」
「・・・無視かよ。馬鹿みたいにへらへら笑いやがって。ホント舐めてるよね」
「人の男取っといてなにその態度」
「アンタの本性、みんなにバレてっから!」
「今更純情キャラ繕ってもねぇ」
「あーぁ、魔性の女超こえぇー!」
「ほら、景子も。そんな奴ら放っておいてさっさと、部活行こー」
ニタニタと笑う、空気の奴隷達。二人は勝ち誇ったかのような顔で去ってゆく。景子は依然として無表情でガムをクチャクチャと噛んで、暫くとどまっていた。私の二つあるつむじに興味があるのかもしれない。しばらくして、感慨もなさそうに私達の脇をすり抜けていった。
景子の足音が聞こえなくなった辺りで、肩に手をポンと手を置かれる。
「帰ろう?」
向日葵が私に小さな声でそう提案した。向日葵はやはり、頬笑みを絶やしてはいなかった。
* * *
翌日、下駄箱にガムが吐き捨てられていた。クラスは移籍したものの突発的且つ、公認し難い異例であるために、新しい下駄箱を用意されていない。今は本来私が使う筈の二年生のテリトリーにある下駄箱を使用している。一年間放置されていたのにも埃以外の異物の混入がなかった下駄箱なのに、わざわざ蓋を開ける手間をかけてまでガムを吐き捨てるモノ好きな輩が、よりにもよって一年ぶりの登校二日目にして現れた?偶然にしては出来過ぎだろう。昨日の今日だ、狙い撃ちされたというのが妥当である。しかし、景子を筆頭とした例の三人組の仕業と結びつけるのは安直だ。ああいう光景を目撃して便乗する馬鹿はいる。何故、学校と云う集団にはこういう馬鹿な連中が少なからず紛れているのだろうか。悪意を行動に起こすことにどれほどの意味があるのか。また、そのみっともなさを理解出来ないのか。不思議である。日に日に、嫌がらせはエスカレートした。犯人を割り出してボコ殴りにしてやりたいのは山々なのだけれど、貴重な体力を必要のない場所で浪費してしまうのは賢い選択ではないと判断した。
そうそう、あまり触れたくはないのだけれど、この世界でも金山 明久は向日葵とクラスメイトであった。二周目と三週目に生じた“イベントのランダム制”の謎について、何か解ることがあるかもしれないと一度接触を試みたのである。
金山は一日中誰とも喋らず、ずっと本を読んでいた。英語の時間中も、「この授業は二人一組で行います」と宣告があった時に、余って先生とプリントの英会話を再現していたのはコイツだった。いや、如何でもいい情報だけども。しかし、そんな暗い印象を放っているのにも拘わらず、誰一人としてチョッカイを出していないのは些か不自然だ。向日葵に聞いてみたところ、どうやら一学期の頃にそれをして停学を喰らった連中がいたらしい。その連中のボスに限っては少年院送りまでこじつけられたのだとか。幾ら親が金持ちでも、そんなことが可能なのかと疑問だったが、金山自身がそうされざるを得ないような問題を“起こさせた”らしい。簡潔に言えば、嵌めたのだ。加えて、彼はクラス内で断トツ成績が良く、家柄のこともあって学校中の教師が一目置いている存在なのだという。
クラスメイト達から金山は恐れられているのだ。だから、誰も彼と口を利こうともしない。触らぬ仏に祟りなしを決め込んでいる。というような背景があったらしいから、
「アンタなに読んでんの?本ばっか読んでて楽しいわけ」と、
私が半場喧嘩腰で話しかけた時は、一瞬クラスがざわついたのだった。
「・・・何を読んでいるかといえば、まぁこれですねぇ」
そういって、金山は本の表紙を私へと向ける。
「相対性理論って、アインシュタインの?・・・アンタ、そんなん理解できるわけ」
「理解できないから読まないというのは実に頭の悪い選択だと・・・キッヒヒッ」
イラっとしたので、一発殴った。
「キヒッ!」と、
笑っているのか、驚いているのか判断のつけにくい何とも珍妙な悲鳴を漏らして、金山は椅子から転げ落ちる。再び、教室がざわつく。
呼びかけても返事がないので放って置くと、次の授業開始時にはちゃんと席に戻っていた。頬は赤く腫れていたけど、別段、痛みに苦しむ素振りもしなかった。うん、男は頑丈でいいな。一回殴った位じゃベソ掻かないし・・・。流石の金山も女に殴られたことで少年院送りにするのは恥じと思ったのか、大事には至らなかった。
* * *
そして来たる、二月十九日。この日は二周目の世界において、向日葵が三度目の命日を迎えた日である。昼休み中に事件が起こったのだが、私が登校をすることで未来が変わったりしていないだろうかなどと、期待していたんだけど。その日、ゴミだらけの下駄箱から靴を取り、履き替え、廊下で向日葵と合流したところで彼女の表情が曇っていたのが分かった。笑顔は笑顔なのだけれど、少し引き攣っている。最近はずっと顔を合わせているので、以前は気付きもしなかった微かな表情の変化なんかも感知できるようになっていた。
きっと彼女の下駄箱の中に呼び出しの手紙があったのだろう。犯行が行われたのは屋上である。普通、生徒は立ち入り禁止となっているが、特定の生徒達が合鍵を持っていて、喫煙所として屯しているらしい。時折、いじめられっ子を呼び出しリンチの決行もしていたんだとか。十年来、鍵は受け継がれて続いているウチの学校の影の歴史である。景子が所属するテニス部の連中がその主犯らしいけど。これも事件が起こってからリリースされた情報なので、私も詳しくは知らない。
「付いて行ってあげようか」
「えッ?」
「昼休み中、屋上に来いってんでしょう」
「これ・・・お姉ちゃんの悪戯なの?」
「違う」
向日葵の反応から呼び出された場所と時間に変動がないことが察せられた。二周目の世界と同じく、本日の午後一時頃、有嶋景子は殺人を犯そうとするのだろう。
「お姉ちゃん、やっぱりこの頃変だよ」
珍しく眉を顰めて、向日葵は言う。
「そうかもね。・・・で、どうする。屋上へは一人で行くの?」
「・・・一人で、行くよ。だって、書いてあるんだもん」
置き手紙には一人で来いと書かれているらしい。普通なら従うはずなどないのだけれど。・・・向日葵の性格をよく知っている者でなければ、こんな頭の悪い手段は取らないだろう。
大方、リンチの執行役を請負い、景子自身が呼び出しから手回しをしたのだろう。そして昼には過失傷害により、向日葵を殺してしまう羽目になる。空気の奴隷の哀れな結末。堕落と腐敗に満ちた人間関係がもたらした惨劇。
「そうか、わかった」
私は、首を縦に振って了解をした。
「向日葵がそう言うなら、仕方がないね」
「・・・う、うん」
表情に影のある頷きであった。私が歩み出し、向日葵は俯きながら私の後を追う。授業が始まっても、向日葵はいつもの頬笑みを消して不安そうな顔をしていた。
そして、訪れた昼休み。向日葵は昼食も程々に、午後一時の五分前に席を立ちあがり、教室を後にした。私はそれを黙って見送り、その二十秒後、突然の尿意に駆られてトイレまでダッシュで・・・。
「・・・・・・。」
教室の出入り口を通過したところで、袖を掴む指があった。
向日葵だ。
「・・・どうしたの。待ち合わせは?」
「お姉ちゃんこそ、何で急にダッシュしてるのかな」
「私?私はオシッコしたくなっちゃったから、屋上のトイレまで一っ飛びしようとしてたところだよ」
「・・・・・・屋上にトイレなんてないよ」
「そうだっけ、確かあったと思うけどなぁー」
「あったら吃驚だよ。どんな学校だよって感じだよ。・・・んー、じゃあ、確かめに行こう。途中までついて行ってあげるからさ」
「そう?まぁ、別に私は構わないけど」
「いじわる」
・・・やべぇ!拗ねてる向日葵、超可愛い!抱きしめたい衝動が半端ねぇくらい胸に押し寄せる。
深刻そうな顔をした彼女は、私の袖を三本指で掴んで前を歩く。今日の向日葵は短い三つ網を二つに下げた髪形をしているのですが、その間からチラリと覗く細い項を私は舐めるようにみつめていました。嗚呼、本当に舐めたい。ただでさえ呼吸が苦しいのに、鼓動が高まるせいで酸欠に近い状態に陥りそうになる。眩暈が発症する。視界がぼやけ始める。それでも、彼女の項から視線を離せない。口元の綻びが自重をしない。道中すれ違う生徒達が私の顔を見て仰け反っていたのだけれど、絶賛不安抱え込み中の向日葵は感づくこともなかった。私のアへ顔を妹に目撃されずに済んだ。助かった。
ハードルみたいな形をした、危険色で塗りたくられたボードに立ち入り禁止の文字が躍る看板を跨いで、短く、埃っぽくて仄暗い階段を上り、銀色のドアを開く。柔らかな日の日差しと、温かな空気、さわやかな風がそよそよと吹きこむ。手摺りと街の風景、白いブロックの床。シートを敷いて弁当を広げたくなるような長閑な光景。
そんなモノを背景にして待ち構えていたのは、木製バッドに無数の釘を打ちつけた“鈍器のようなもの”を片手にぶら下げた女子高生。明らかに異質な画であった。心なしか、釘バッドは赤黒く変色している部分が見受けられる。
「なんだ、やっぱりついて来るのね」
言って、あっさりと景子はバッドを投げ捨てる。
「いや、違うんだ。私はトイレをしに来ただけだよ」
「・・・ハァ?相変わらず、発言が奇人じみてるよね。サクラちゃんは」
“サクラちゃん”という、懐かしい響きに、胸が一瞬だけ熱くなった。景子は私と遊んでいた日々のことを忘れていたのではなかった。ちゃんと覚えてくれていた。
まぁ、だからこそ私の姿を見るなり、さっさと降参したのだろうけど・・・。
その後は、私の事情聴取が始まる。話を訊くに、なんでも景子の連れであるあの二人の内の片方が、向日葵の元彼氏である今村耕輔と付き合っていたらしい。
「好きな人ができたんだ」と、
一方的な別れ話を持ち寄せられ、その三日後に今村と付き合い始めた向日葵を逆恨みの対象にしたんだと。
「しかも、一カ月足らずであっさり別れたものだから、あの子尚更腹が立ったみたい。まぁ・・・、ウチから言わせて貰えば、あんな馬鹿な男は振って正解。アレに騙されるなんて相当のモンよ。向日葵、あんたの性格はウチもよく知ってるつもりだけど、あんたは断ることをしなさすぎるのよ。いい加減、本音隠して相手を立てるなんて、自己犠牲主義みたいな考えは止めなさい。あのプ―太郎の本性ぐらい見抜いてたんでしょう?」
「私は、本当に素敵な人だと思ったから付き合ってただけだよ。そうじゃなかったらちゃんと断ってた。だって、告白してくる人全員OK出すなんて参っちゃうしさ・・・」
「はいはい。ま、どうでもいいんだけどー」
かつてとは容姿こそ変われど、景子と向日葵二人の会話風景は小学生の頃と漂う空気は一緒であった。さっきまで、あんなに怯えていた向日葵の顔も今では微笑みが戻っている。旧友とはいえ、よく自分に釘バッドを振りかざそうとしていた人間に笑顔を向けられるものだな。実に向日葵らしいが。
「で、あの子らいつまでも、いつまでも、ぐちぐち、グチグチ内輪の不幸を嘆いたりしてて。絶対向日葵のこと許さないって・・・、五月蠅くてね。この馬鹿みたいな道化の格好もそろそろ嫌気が差してたところだったのよ。向日葵、あんた殺して私も死のうって。そう思ったの。自暴自棄って奴だよ。ゴメンね」
景子は私と向日葵、どちらに言うでもなく、空をぼんやりと見上げて謝罪の言葉を呟いた。
* * *
「どうしよ、死のうかな」
昼休みが終わりを告げるチャイムが鳴っても、私達は屋上に居続けた。向日葵だけでも帰したかったけれど、その間に殺害される可能性は0パーセントではないため施しはしていない。別に引き留めているわけでもない。・・・空気を読んで、黙って成行きのまま付き合っているのだろう。私はともかく、向日葵は惜しくもこれで皆勤賞は泡と消えたわけだ。
「ケイちゃん、若いのにそんなこと言っちゃダメぇーっ」
『明日休日で夜更かし出来るけど、やっぱり今日は早く寝ようかなー』
みたいなテンションで自殺願望を垂れ流す景子に、気の抜けた注意を施す向日葵の図。
「だって飽きちゃったわ。全部遊びつくしちゃったの。もーやることもない。酸いも甘いも舐めつくしちゃったって感じよ」
ふぁあーっと欠伸をしながら喋る景子に、私もあまり考えずこう言葉を紡ぐ。完璧に駄弁りテンションである。
「なに、全クリアして、裏ボスまで倒しちゃったみたいな?最強の武器もコンプリートしましたーってか。アンタはRPGの主人公気分で人生を歩んできたと、そういうこと」
「んー、まぁ、そういうことかもね。RPGかはともかく、人生って色んなゲームと似通ってる部分が多々あると思うわ」
「パズルゲームの単純に見えて結構奥深い感じとか?」
ぷよぷよを筆頭とした落ちゲー大好きな向日葵さんらしい意見が飛んだ。いつの間にか、誰からともなく私達は並んで寝そべって空を仰いでいた。全体的に群青色が面積の大半を占めている。浮かんでいる雲はどれも小さく、流れは早い。太陽が眩しくて、三人とも掌を庇代わりにするために肘を立てていた。
確かに、ルールやコントローラーの操作方法を覚えれば誰でもできるってだけで、皆ゲームを軽んじてしまう。喩え定石を知らずとも、必殺技のコマンドを会得せずとも、一勝さえしてしまえばゲームの全てを網羅した気になる。負けを忘れられている時点では、勝者であり続けられる。だから皆、他人と自分の足元ばかりに注目している。醍醐味を楽しめないまま、ゲーム理論なんて編み出す余裕もないまま、空の蒼さを忘れてしまう。夜道を照らす星の光さえも意識から追い出してしまう。
得意分野のゲームを探し回り、苦手なゲームは捨て台詞を吐いて一蹴。勝ち続けられる場所を求め、勝てない場所からは逃げる。踏ん反り返ることが正義なのだと信じ込み、弱者を蹴り倒すことを正当化。・・・ミエミエのイカサマは見逃すけども、手品紛いの巧妙なモノが発覚すれば大声を張り上げ罵声を散らす。騙すことばかり考えている癖に、騙されることが許せない。どうにも支離滅裂な本性。
『人蔓延る箱の中、それ即ち賭博の場』か。・・・フム、絶妙だ。
しかし、
「・・・いや、人生はゲームじゃないよ、やっぱり」
私は、自己へと言い聞かせるように呟いた。
喩え、ゲームに例えられても、ゲームそのものではない。人生は人生、現実は現実。それ以外の何ものでもない。
勝負ごとが幸福の基準だなんて、全然これっぽっちも美しくないじゃないか。どんなに信憑性があろうと、信じた時点でそれは“負け”だ。
「アンタ、基本的に人とつるむの嫌がってたじゃん。頼みごとだなんて聞かされれば、テメェで解決しろの一辺倒だったでしょ。あの頃と比べたらすごく進歩してる。やっと肩の力抜いて、他人のこと考えられるようになったって証拠だよ」
「別に。ムリしてただけよ。それも明日にゃ嘘つき呼ばわりで積み上げたモン全部崩れ落ちるんだから笑いもんよね。あーあ、こんなことになるんだったら、『全部任せてよ』なんて、大見得切らなきゃよかったわ」
「口は災いの元ってね」
フフフっと、笑みを湛えながら向日葵。いや、君、彼女が何を任せられたか判ってるんよね。
「でも、加害者であることを放棄すれば舐められるんだわ。きっと、ウチがあそこで黙っていても結果的にはハブにされてた気がする」
「色々難しいよね」
思春期って。
そう、続けて漏らす彼女に、『君の歳は幾つなんだい?』というような疑問が浮かぶ。達観した妹である。
「・・・如何でもいい話だけど、うつ病患者に頑張れは禁句ってよく聞くけどさ、あれの本当の理由が分かる人間って少ないと思うわ。世間一般では、『うつ病患者が既に精一杯頑張っているのに、その姿勢にさえ気付かず、もっと頑張れよってプレッシャーをかけることは精神衛生上よくない』みたいな説明だけど。いえ、大体は当ってる。そうなんだけど、ニュアンスがちょっと違うのよね」
「いや、言わんとしている事はわかるけどさ」
急に話が飛んだな。
そういえば、昔、二人でブランコに座って、媚びもせず、こんな生産性のない話をぐだぐだと展開させていた覚えがあった・・・。私の好きな部類の話題だけどね。
まぁ、景子の言う、うつ病患者の本音はこうだ・・・。
『チッ、コイツ誰に向かって豪そうな口利いてんだ。あー、嫌になるわ、全部全部、嫌になる。死のうかなー』
いや、あくまで私達の憶測にしか過ぎないのだけれど。恐らく、こんな感じだろうと思う。
彼らは『文化祭たりぃー』とか、教室の隅でほざく中学生と男児となんら変わらない心境にある。そもそも、頑張れという言葉は疑心暗鬼に陥ってしまっている人間にとっては無礼なもので、冒涜の言葉でしかない。“正常に戻る為に頑張れ”というのは、つまり、こう発言しているのと変わりない・・・。
『精々、頑張ってくれた前よ。まっ、僕はそんな苦労しなくて済むんだけどね。大体、何でそんな簡単なことが出来ないんだか。あーあ、きっと幼年期の頃に(以下略)』
本人にその気があるかは知らないが、そう聞こえてしまうのだからショウガナイ。そんな舐めた態度を取られた人間はどう感じるのか。
勿論こうだ・・・。
『頑張るとか何様だよ。お前は頑張ってねぇって言うのかよ。・・・そうじゃないだろ。どうせお前は俺が低次元で足掻いているクズにしか映ってねぇんだろ』
「要は不良っていうのは、劣等感に囚われた人間が開き直っている姿である。って、話っしょ?」
「んー、まぁ。結論的にはそーいうことかなぁ」
結局のところ、素人視点で好きかっていう私らであった。専門知識を持っている者か、当事者が聞いていれば鼻で嗤う内容だろう。
「あっ、そうだ」
急に思い立ったように言って、上半身だけを起こして私の視線に割り込んでくる景子。日射光を遮り、お陰で掌の庇が無用になる。
「忘れたとは言わせないよ、ウチの兄貴のこと。サクラちゃんのせいで、アイツ壊れたんだからね。引き籠り卒業したんなら、せめて顔だけでも見せてやってよ」
「・・・・・・」
ああ、
・・・会ったら後悔する。そんな予感からずっと、意識を叛けさせてきた対象。忘れるはずなどない。アイツを想わない日などなかった。だから、アイツが薬漬けになっていると情報を掴んだときは、心底胸を痛めた。
手遅れ過ぎるのだ。私は向日葵を救うための力は与えられたが、万物を救えるほどのモノではない。
景子は怖い位に鋭い目をして私を睨んでいた。
* * *
有嶋景子の兄、有嶋 孝夫が薬中になっていたと知ったのは、二周目の世界で景子が起こした事件の詳細を調べた際だった。未成年者が大きな事件を起こしたとなると、やはり家族に問題があると考えるのが大衆だ。だから、血縁として最も濃い関係にあるであろう兄がドラッグ中毒者だったなら、マスコミは喜んで報道するのは世の筋とも言える。確認こそはしていないが、自宅治療のために孝夫も長らく学校を欠席しているらしかった。
孝夫は小学生の頃に近所の子供たちを招いて遊んだ仲間だった。彼と私はお兄さん、お姉さんを演じては近所の公園で様々なゲームを提案しては遊んでいた。缶蹴り、かくれんぼ、靴飛ばし。皆でわいわい、競い合ったりしながらやるのが楽しかった。私達は昨今、テレビゲームの普及により、外で走り回らなくなったと呼ばれる風潮をメンチ切って逆らっていたのである。ご近所さんからも評判で、是非ウチの子もと、親御さんの意向でメンバーが編入されることもしばしばあった。
仲間外れがないようにだとか、行き過ぎた喧嘩が起こらないようにだとか、怪我をしないように監視だとか、・・・意外と遊ぶだけにも大変な仕事は多かった。グループのリーダーとも呼べる年長者の孝夫と私はその役を主に買っていたのだけれど、私が怖いしつけ役だとすれば、彼はそのフォロー役していた。物腰が柔らかな少年で、優しいお兄さんキャラが本当に似合っていたのだ。
私達は互いに互いを信愛し合う仲だった。大人達からはアンタ達二人は良い夫婦になるんだろうね、なんて茶化されたりしていた。別に不快でもなかった。だって、事実そうなることを私も、孝夫も、信じていたから。
同じ中学生に進学してからも、最初数週間は私達のごっこ遊びは続いた。しかし、孝夫が剣道部に入部し、打ち込みだしてからはグループで集まる頻度は縮小し、六月に突入する頃には集まりは自然壊滅をしていた。丸太公園で遊ぶ子供たちの声も激減した。私も帰宅部ではあったが、放課後は文芸部の人達と図書室で読書に明け暮れていた。中学に入ったと同時に、私達は付き合い始めていたのだ。帰りはいつも一緒だった。幸せで全てが円満なままで、月日はゆっくりと流れていった。
あっという間に時は過ぎ、私達が付き合い始めて二年目の春が訪れようとしていたある日。近日中に両親が離婚をするつもりなのだと私と向日葵に打ち明けた。私は激昂した。断固反対だと叫んだ。家中を暴れ回った。それでも、両親は私を無視する。
翌日、私はそのことを昼休み中に教室で孝夫に相談した。彼ならいいアイディアを提案してくれるかもしれないと期待をしていたのだ。しかし、実際の答えはこうだった。
「それはきっと仕方のないことだよ。きっとサクラのお父さんとお母さんが何度も相談して決めた結果なんだ」
ふざけんな!と、私は孝夫を一喝した後、顔面をぶん殴った。コイツは私の前だけではこんなことは言わないと思っていたのに。どいつも、こいつも、なんて無責任なんだろう。二人で話し合って決めた・・・?私と向日葵の意思は無視していいとでも?私達は四人家族だったはずだろう!
「甘えるじゃないよ、サクラ。大人には、どうしようもない“事情”ってものがあるんだ・・・」
鼻と口から血を流しても尚、孝夫は私の目を見据えたままで意思を曲げずに伝えようとした。あまりの怒りに混乱をきたし、眩暈さえも伴う。彼が何を喋っているのか理解ができなかった。ただ、私の意思を尊重せず、我儘というレッテルを張って蔑ろにしようとしていることは確かである。
「アンタに相談した私が馬鹿だった!」「もう、アンタの顔なんて見たくもない!」「アンタなんて嫌い、大っ嫌い!」
ボロボロ泣きながら叫んで、私は教室から走って逃げた。そのまま家に帰って自室の部屋に籠った。扉をノックする音を全部無視して、一晩泣いて私はある決意を固めた。
『お父さんとお母さんが離婚を帳消しするまで、私はこの部屋から一歩も出ない』
そう脅せば、現状維持くらいは可能じゃないかと、俄かに期待をしたのだけれど・・・。
お父さんは家から立ち退く際、私にずっと謝っていた。
「ごめんな」
「一緒に暮らしたいと思う好きな人が出来たんだ」
「ごめんな」
「君達には不自由がないようにちゃんとお金は送るつもりだから」
「ごめんな」
「この家だって、君達とお母さんにあげるからね」
「ごめんな」
「ごめんな」
「ごめんな」
「もう、遅いんだ。どうしようもないんだよ」
「だから、桜子。ここから早く出てきておくれ・・・」
両親の離婚は私が部屋に閉じこもっている間に成立していたらしい。
そうして、つまらぬ意地を張ったまま、私は部屋から出られなくなってしまっていた。
3
『Since you desire it, there is it always. 』
(あなたが望むから それはいつだってそこに居れる)
「お姉ちゃん。これから逢引ってのに、浮かれないね」
ニコニコと、向日葵。
「そりゃあねぇ・・・。もしかしたら自分のせいで人生棒に振ったかもしれない奴にこれから会いに行くわけだけだからさ」
ウジウジと、私。
「もしかしたらじゃないわよ。だって、毎晩毎晩、『ゴメン、サクラ。サクラ、ゴメン』ってボソボソ繰り返してんだよ?隣部屋で寝てるウチの身にもなってちょうだい。こっちがノイローゼになるわ」
ブツクサと、景子。
結局、あの後私達は教室に戻らずにそのまま鞄も置いたままで学校を後にしていた。授業中の移動にも拘らず、別段こそこそとせずとも私達の歩みを妨げる輩は現れなかった。ウチの学校の防犯管理が少し不安になる。
お巡りさんに見つかったら補導されるかもねとか、そんなシャレにならない冗談を飛ば交せつつ、景子と向日葵、私の三人が並び昼の町を歩いた。小学生の頃、皆で探検ごっこをして遊んだ時のワクワクがほんの少しだけ蘇る。
「むしろ、サクラちゃんが人生棒に振らせたのはウチの方だっつーの」
「何だかんだで、アンタ楽しそうだからよかったじゃん。その愉快な頭の色がその証拠だよ。あっ、そこのゲーセン寄ってかない?久々にポップンしたいなー」
「ブッ殺されたいのかしら!?」
「あっ!、あたしもーッ!」
「妹もかよ!どんだけ悪ノリが好きなんだよこの姉妹ッ!」
景子に引っ張られる形で着実に目的地まで歩み寄り、それにギャーギャー抵抗をして騒いでいたら、いつの間にやら有嶋家の門前に立っていた。騒いでいたせいで心の準備も全然整っていない。心臓が破裂するんじゃないかと危機感を覚えるほどのすごい強さでドクドク、ドクドクと早鐘を鳴らす。帰りたい。めちゃくちゃ帰りたい。すぐ隣で鎮座している我が家を恨めかしく睨む。『俺はいつだって君をCOME ONしているよ。さぁ、おいで!』と、ウィンクをして私を出迎えているように見えた。
「私だって、あなたの胸に今すぐ飛び込みたいわ!でも、お父様が許してくださらないの!」
「お姉ちゃんが壊れた・・・」
両手を狂い惜しむように我が家へと翳して、私は禁じられた愛に焦がれる悲劇のヒロインを熱演する。前触れなしの唐突すぎる開幕のせいか、観客からは白い目線を向けられた。
「はいはい、現実逃避はその辺にして、さっさと彼氏との痴話喧嘩の決着をつけましょうね」
襟のスカーフを掴まれ、景子の手によって有島宅へと半場強制連行される。親御さんも留守のようで家の中はとても静かだった。靴下で軋む階段を三人で危なげに昇り、ついにマイ・ダーリンの部屋の前に到着した。施錠はされていないらしく、景子は顎でドアを開けろと催促してくる。
だが、踏ん切りれない私は数秒の間、挙動不審に髪やスカートを弄くったり、ソワソワと目線を彷徨わせた。そんな私へと、向日葵が励ましの言葉をくれた。
「お姉ちゃん、笑って!お姉ちゃんの夏に咲く満開の向日葵みたいな笑顔が、タカ君もあたしも、ううん、みんな、みんな、大好きなんだよッ!」
訪れた春を喜ぶ満開の桜のような笑顔が付随したその励ましに、胸が熱くなって焦りの気持ちが和らいだ。
もう大丈夫だ。と、私は黙って頷き、二つ、コンコンとドアにノックをした。手が震えている。
返事はない。
「入るよ」
そう断って、私はドアを開けた。
* * *
異質な空気が漂っていた。
部屋自体はなんら問題のない。とても、ドラック中毒者が住んでいるとは微塵にも想像させない小奇麗に片付けられている。今こそ掃除はしたが、少し前までの私の部屋のように、ペットボトルやら使用済みティッシュやらのゴミが散乱していない。きっと、親が掃除をしているのだろう。
勉強机、小型の液晶テレビ、背の低い本棚、ベッド、レースのカーテンの掛けてある窓。壁にも家具にも傷らしいものも見当たらない。暴れまわって部屋は半壊状態にあるとばかり思っていたのだけれど。
肝心の孝夫はといえば、部屋の隅っこ、ベッドの陰に隠れるようにして、体育座りで自身の爪先をみつめていた。私は彼に歩み寄る。
一歩、
二歩、
三歩目で、『バタンッ』と、勢いよく背後の扉が閉まった。
驚いて、振り返る。
そこで異変に気づく。振り返るだけの動作に異常なほどの労力を消費した。水中のように空気が重たいのだ。心なしか室内は、澄んだ水色を浮かべていた。
息が苦しい。呼吸はできているのだが、浅く短くなる。肺が痙攣をしているようである。
本能が叫んだ。
命の危機だと。
「サクラ?」
ボコボコと泡を吐く音と共に、声が響いた。紛れもなく、間違いなく、聞き覚えのある、懐かしい声。
息を呑んだ。鼓動の高鳴りを抑えるのに、息を止めるのもいいかもしれない。そんな、馬鹿なことを思った。
「久しぶり」
不思議と気分は落ち着いていた。喋るとしょっぱい味が口いっぱいに広がる。
涙の海に私は今溺れている。
孝夫は虚ろな眼差で此方を覗いていた。現実と夢の区別が恐らくついていない。そんな目だ。
ゆっくりと、再び彼へと近寄る。彼は私をぼんやりとした視線を送る。
歩けど、歩けど、私と彼の距離は遠ざかる一方だった。部屋が段々と広がっているのだ。
彼の居座る部屋の隅が遠ざかる。グニャグニャと蜃気楼のように壁も、床も、天井も、家具も、輪郭を曲げる。
遠ざかる。
遠ざかっていく。
やがて、涙の海は徐々に赤味が侵略してゆく。
鉄の味が鼻で、舌で、喉で踊る。
誰かが死んだ。
きっと向日葵が死んだ。
視界の端っこでドアらしき線が開く。
真っ赤に染まった包丁を握る、私の姿がそこにはあった。
* * *
「気がつきましたか・・・」
その声で私は意識を取り戻した。
「楽しい、楽しい、最初で最後の授業の時間です。ネタバレを多く含みます。夢を諦めていない人はバックブラウザを推奨します」
「君は誰だ」
と問うた。そう私が質問を投げかけた相手は、顎に白い髭を生やした白衣姿の老人だった。・・・ああ、例の動画サイトで“二〇一一年時空の旅”を閲覧中、薄ら暈けと映っていたあの人物だ。
「僕ですか・・・?僕は、誰でしょうねぇ・・・キッヒヒヒヒヒ!」
その笑い声は第二の向日葵殺しの容疑者となった金山明久の物だった。変声期を過ぎていない少年の甲高い声は、目の前の老人にはどうも不釣り合いだ。さながら、部屋に飾っていた薔薇の花が歌いだしたような、そんな不気味さを帯びている。
「まぁ、僕の正体など瑣末なことですよ。そんなことより、貴方は知っておかねばならぬ事があるでしょう。いや、思い出さなくてはならないことがある」
「・・・・・・」
“あるでしょう”などと、催促されてもピンとこない。そもそも、ここは何処なのだ。どこかの病院の病室のようだけど。私は現在ベッドの上に座っていて、彼はその傍で丸椅子に腰掛けている。それ以外に日本地図的にどの位置にあるのかだとか、詳しい情報を調べる手がかりは見当たらない。
いったい、孝夫は、向日葵は、景子はどこに消えたのか。
「そうですね。結論を急いでも混乱するだけですよねぇ・・・時間はもうありませんけど・・・キッヒヒヒヒヒ!」
情緒不安定な正体不明の老人は笑う。とても愉快そうに声を上げる。
「まぁ、のらりくらりと行きますか・・・。まずは、こんな与太話から入りましょうかねぇ・・・。貴方は過去へのタイムスリップとは可能だと思いますか?」
「・・・・・・」
唐突に投げかけられた質問に、私は答えられない。
「正解は“不可能”です。少なくとも、現代の人類技術では実現は無理なのです。残念ですねぇ、若かりし頃の僕はそれを悟った瞬間、大層落胆しましたよぉ」
残念と口にしながらも、老人の口元は笑っていた。
「どうしても、僕はタイムマシーンを完成させたかった。それが、この世に生を受けた意味だと私は過信していたんですねぇ・・・。謂わば、カルマをそこに見出していたんです。別に夢に神が現れたわけでもありませんけども・・・」
・・・っくっくくと今度は少し自嘲気味に笑う。追憶は続くようだ。私は黙っている。
「結局、私は親に敷かれたレールに沿って走ることになりました。医学の道を志したわけですねぇ・・・クックックッ・・・しかし、私は諦めなかった。存在意義を忘れられる人間などいませんよ・・・。父親の在籍する医大に入学して、せめて親と違う専門分野に就こうとした私は、薬学部を選びました。想像を絶する奥の深い世界に僕は戦慄をしましたねぇ。元々実験好きだった僕は無限の可能性を孕む“薬作り”にのめり込みました・・・。そして、この薬学に秘められた無限の可能性をタイムスリップに応用できないものかと、僕は考えたのです・・・なに、簡単なことでした。しかし、それは私が望むような形ではありませんでしたけども。・・・しかし、突き詰めれば、光速理論も宇宙ひも理論もワームホール理論もエキゾチック物質理論も全部全部、そういうことでしかなかったのですよ・・・。つまりは主観的な問題、ある一固体にしかその影響は与えられないという事実です。タイムスリップした観測者は孤独に過去の世界を歩むことしかできないわけですね。これが、タイムスリップをした結果で得られる事柄です。私が開発した薬は、その結果を投与された人物が体感するという効力を持つ、極シンプルなものですよ」
「・・・・・・」
「映画なんかでよく見ますよねぇ・・・自白剤と呼ばれる薬・・・。あれと似たものだと思ってくれてかまいません。用は脳に強く影響を与える薬というわけです。Super scription。略称SSと名付けられたその薬は、人間を理想の夢の世界に誘うことが出来ます。先の言葉の通り、本人が思う幸せな世界を夢の中で再現するのです。つまり、“夢の中”で、過去だろうが未来だろうが、それこそ、ファンタジー映画の世界なんかで一生を送れるというわけです」
「・・・・・・」
「信じるということ。疑わないということを脳に強要させるわけです。どんなに不自然な世界にいようとも、どんなに曖昧な世界にいようとも、疑うことが出来ないのであれば、・・・そこが現実であると信じることを強要されているのであれば、当人にとっては浮世で暮らしているのとなんら変わらない。思い描いた世界を、思い描いただけで、全て実体験をしたと錯覚をさせることができる薬。それが、SSです。効き目はほんの一時間程度しか持ちませんが。体感的には一生分だったという人もあります。性格やその思い描いた世界の具体性、執着の加減なんかが影響してくるようです」
「・・・・・・」
「賢い貴方ならもう、勘付いているはずだ。いや、すでに思い出したのかな・・・キヒッ・・・キヒヒッ・・・キッヒヒヒッ」
「・・・・・・」
「さぁ、自分の掌を見てくださいよ。渡辺社長・・・。いえ、サクラおばあちゃん・・・キヒッ」
恐怖にも似た劣情が胸に溢れる。鼓動が耳に響く。ドクン・・・ドクン・・・と。
シーツから手を出す。
その手は皺と染みに覆われた、細く、脆く、筋の浮き立った不健康的なものだった。
* * *
暗闇の世界。
無味無臭の世界。
痛みのない世界。
声と思考だけがある世界。
私は今、そんなところに居た。
「まさか、サクラが先に死んじまうなんてな。俺はてっきり、この女は百二十年ばかしは生きると予想をつけていたんだが・・・」
「それにしても、本当、安らかな顔してるわね。あの頑固ババアが・・・。孫の前でもこんな顔してなかったわよ」
「景子」
「あんた・・・死んでもサクラちゃんには頭上がらないのね」
「大きなお世話だよ。実際、僕はこの人が居なかったら、当の昔にどっかでのたれ死んでただろうし。感謝は幾らしてもし切れないよ」
「ふん、まさか、自分の妹を殺した奴を、自分で立ち上げたっていう製薬会社に雇うとはね。考えてることが常軌を逸しているとしか思えないわ・・・ま、その殺人犯と結婚してるあたしもあたしだけどさ」
「耕輔君には桜子の夫として、代わりに感謝の意を述べておくよ。本当によく長年妻のためにその身を尽くしてくれたね・・・なんというか、感服に値するよ。こんな我侭な女に従うなんて、とても俺には出来なかった」
「なんせ、夫以外の親類に見取りさえさせない偏屈者だものね」
「・・・景子」
「はいはい、うっさいわね。それよりあの弁護士はまだなの」
「ああ、さっき明久君が連絡をしにいったよ」
「ふん。どうも怪しいわよね。なんせ、サクラちゃんの様態が悪化したのって、あいつが医者には黙秘で薬打ってから直ぐでしょう?毒でも盛ってたんじゃないかしら」
「滅多なことを言うもんじゃないよ」
「その通りだ。そもそも、桜子がアレだけ拒んでいたSSを急に使いたいと言い出したのは、恐らく予兆を感じてとっていたからだろうしな。・・・まぁ、事実そうだとしても誰も文句は言うまいよ」
「彼の開発した薬があってこその、ヒマワリ製薬ですからね」
「ああ、SSの商権を桜子に売らなければ、彼は億万長者だったはずだ。いったい、何故そんな・・・」
「決まってるじゃない。あの男、向日葵に惚れてたのよ。そうじゃなければ、八百屋でバイトしてる既婚の女なんかにそんな商談しないわよ」
「まぁ、そうかもな」
「しかし、帰ってくるのが遅いわね」
「泣いてるのかも」
「まっさか」
「・・・ふんっ、人生長く生きると色々あるもんだな」
「なんなのよ、イキナリ」
「そうですね。でも、まだ五十数年しか生きていないわけですから、平均寿命を基準に考えるとやっと半分位ですよ」
「ドラックから抜け出そうとしてた時が人生で一番過酷だと思ってたけれど。シャバ出たらもっともっと辛いってんだから吃驚だよな」
「そういや、兄貴とサクラちゃん、どっちが先に引き籠り卒業したんだっけ」
「あぁ?・・・いやぁ、忘れちまったなぁ。なんか、気付いてたら結婚してた気がするよ。しっかし、コイツと子供を食わせるために現場仕事なんて泥臭ぇ仕事始めて、こんな歳まで続けてるわけだから。本当に人生わからないよなぁ」
「嫁に年収抜かれるしね」
「うっせぇよ」
「さて、喉渇いたし。どうせ、あのトロイ弁護士が来るまでもう少し時間が掛かるわけだから、明久、私達は少し表に出ましょうよ。今更だけど、夫婦水入らずを邪魔するのも悪いわ」
「ああ。・・・失礼します」
「うーっす。・・・・・・ふん、本当に安らかな顔してやがるぜ・・・・・・俺らが付き合い始めてた時くらいじゃないか?お前がこんな顔してたのって・・・・・・ッ・・・それも、これも、全部あの薬のお陰か・・・・・・おい、ちゃんと妹に会えたかよ・・・本当に、・・・妹が好きだったんだよなぁ」
* * *
「There is no regret. 」
(悲しみのカケラは もうどこにも無い)
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