雨男

千年間雨が降らず、諍いももめごとも別離もないハレの公国。そこに雨を降らすための画家「雨男」がやって来た。秘かに大公妃殿下と想いあう彼に、妃殿下の侍女ナータは叶わない恋をする。更には神話的な人々の争いに巻き込まれ……。切ない味わいのファンタジー作品。

来訪

 その日大公妃殿下は、臙脂色で、ターコイズの水玉が細かくちりばめられているという奇妙な傘を示し、私にこうお尋ねになられました。
 「これが何だか分かる? 」
 「日傘(パラソル)ではないんですか? でもそれにしては妙な色合いです。大きいし、装飾も少なすぎるし、それになんだかつるつるとしている」
 「これは雨傘(アンブレラ)よ。『雨』で濡れないように使う傘。つるつるとしているのは水をはじく加工がしてあるからよ。この骨をつたって、雨の雫はぽとりぽとりと落ちていく、まるで失恋した人魚の涙みたいにね」
 庭園を望むバルコニーにテーブルを出し、大公妃殿下はお茶を楽しまれているところでした。私はすぐわきで白いナプキンを下げて給仕をしていました。
 大公妃殿下の藍色の目は春の陽を物憂く反射し、ほどかれ波打つ黄金色の髪には、天蓋のレース模様がひらひらと揺れていました。風が吹くたびにその髪に混じった白いものが、白銀に浮き上がっては紙のように光を失います。
 それでも菫色の部屋着の下の体はまだしなやかで張りがあり、軽々と塀を乗り越えるやんちゃな猫のようでありました。そして春の陽を浴び一際若やいで見える妃殿下は今、私が生まれる前の時の層から取り出した、思い出の品を示されているのでした。この雨傘を使っておいでだったのはおそらく、妃殿下がまだ十代の頃ご留学あそばされていた、外国でのことに相違ありません。
 バルコニーから望む、五月になったばかりの庭園は、目覚めたばかりの緑と、色水晶がざくざくと林立しているような草花、そして杏や桜の白やピンクといった色彩が、名画家の筆先から生まれた点描のように響きあっていました。美しいハレの国の春でした。本当にあと数か月で、咲き誇る花々が雨にうつ向くことになるのでしょうか? そう思うと複雑な気分になったのを憶えています。
 空はいつものように、無窮の広がりを見せる宇宙を、直接見上げているような青い輝きでした。ええ私は、それ以外の空の色をまだ知りませんでした。灰色や鉛色や、そこから落ちてくる黒ずんだ雨の筋や、焚火の灰のような雪を一度も見たことがなかったのです。
 それは「彼」がやって来る二週間ほど前のことでした。そのころは「彼」が、このハレの国に、千年ぶりの雨をもたらすという話題で国中もちきりでした。
 私は十九歳でした。もったいのないご縁によってここでお仕えしている私は、地元の女学校を卒業したつい一年前までは、工場にでも勤めながら、看護学校に進学するお金を工面する心づもりでいたのです。その年父が亡くなり、農場は人手に渡って、三人もの弟のいる私には、進学ができるようなお金を出してもらうのは不可能だったのです。
 ところが思いもかけない展開が待っていました。一族の中で顔が利く大叔母によって、このハレの国を治める大公様のおきさき、大公妃殿下の侍女に推挙されたのです。大量生産品のパンを作る工場と宮殿では、お給金の額が同じくらいであるわけはありません。一二年で、私の求める学資金は貯まる計算でした。
 もちろん、私をよく思う人ばかりではありませんでした。宮廷というところは怖い所です。持ち物をとられたり壊されたりしたことは一度や二度ではありません。
 しかしどういう訳なのか、大公妃殿下におかれましては、この堅苦しく融通の利かない性分の私が、いたくお気に召されたれらしいのでした。問題が起きるたびに全面的にお口添えいただきました。三月も経てば、あえて私に嫌がらせしようとするようなものはもう現れませんでした。私は安心して妃殿下にお仕えしていました。
 「これが雨傘というものですか。カブトムシの殻のようにぱりっとしていますね」
 「ちょっとした護身用に使えるくらい頑丈よ。パラソルよりも大きいしね」
 妃殿下は古い恋文を弄ぶように、雨傘を開いたり閉じたりなさいました。私は眉根を寄せました。
 「雨がお好きだったのですか? 」
 「そうね。あの頃は雨が降るたびにわくわくしたものよ。何しろこの国で育ったわたくしにとって非日常だったの。知ってる? 雨には独特のにおいがあるの。降りそうなとき、降り始めるとき、地面からぱっと香りが立って埃っぽいような湿気たま放置された洗濯もののような、さあ降るぞっていう匂いがするのよ」
 妃殿下は頬を赤らめ、かつての雨に胸をときめかせていた少女のようなたたずまいで、開いた傘の曲線を撫でておられます。
 「雨なんて本当に必要なのでしょうか? 私は何だか不安です。これまで私たちが感じていた世界が、取り返しのつかないものに変わってしまいそうで怖いのです」
 「わたくしたちが永遠の晴天を享受してきたことは呪いでもあるのよ。片足だけ使って歩いているようなものよ。美しい朝を迎えたければ夜の闇が無くてはいけない、晴天の喜びを知るためには雨が降らなければならない。それに、雨は雨でとても美しいものよ。そして雨上がりの美しさというものは、わたくしが今まで生きてきて最も美しと思った光景なの」
 「でも、諍いや別離に満ちた人生なんて、放棄したままでもいいのではないのでしょうか? 」
 今の若い方々には想像もつかないことでしょう。この年まで千年もの間ハレの国では、一滴の雨も降らなかったのです。更には人生の雨模様、けんかや訴訟、死別をのぞく別離、戦争の苦しみからも無縁でいられたのでした。
 そのことについては古来より様々な説が言われておりました。人口に膾炙した説としては、大公一族のご先祖が雨竜を退治したからとか、いいなづけの乙女を主神に譲った褒美だとか、そんなおとぎ話がまことしやかに語られてきました。
 最も近年では、国土を構成する山々や気流の関係、偏西風の蛇行説など、科学的なアプローチで学者たちは研究を行うようになっていました。しかし、ハレの国に雨が降らない理由は立証できても、この国にもめごとや別離がない理由は説明がつかなかったのです。
つまりははっきりとしたことは、誰にもわかっていなかったのでした。
 それでもそんなことは私たち国民には関係のないことでした。この国は大陸の中央山奥にあって、国土は豊富な川水に恵まれ、幾つもの湖があって、雨が降らなくとも水に困る心配はありませんでした。灌漑用水を巡らせて、国を富ませるために農耕牧畜にいそしんで、千年もの間、私たちはひたすら心穏やかに過ごしていました。
 ところが別の方面から問題がやって来たのです。時代の流れとともに世界はより緊密に狭くなりました。陸の孤島だったハレの国もいつまでも国際情勢とは無関係ではいられなくなったのです。
 近隣の幾つもの国々と結ぶ条約と機構のせいで、ハレの国も軍備し、戦争を始められる武力を持たなければならなくなりました。
 その為に「彼」が呼ばれました。
 「彼」は俗に「雨男」と呼ばれていました。彼は画家でした。雨を専門に描く画家です。そして彼の絵が完成すると必ずそこには雨が降るのでした。
 一体、何故そんなことが「彼」に可能なんでしょうか? 彼の絵筆と空模様はどこでどうつながっているのでしょう? どこかの神様が彼に異能を与え、あたふたと騒ぐ人々を見てこっそりほくそ笑んでいるんでしょうか? そして、雨が降ればハレの国の人々が享受していた特権も、本当に失われてしまうのでしょうか?
 「どのようなお方なんでしょう? 『雨男』、ジュニさんというお方は」
 「身なりをかまわない人だったわ。髪は伸ばしっぱなし、外出着のままで眠ってしまい、寝巻のままで学校に来るの。彼の頭の中はひたすら雨の気配とそれを描くための絵の具の色が渦を巻いていて、それに集中していると、大声で話しかけられても聞こえないほどよ。でも、あれから二十年以上経ったのですもの。もしかしたら昔とは別人になっているかもしれないわね」
 大公妃殿下がご留学あそばされている際に、「雨男」は妃殿下のご学友であったのでした。そして一緒に留学なされていた大公殿下にとってもご学友だったのです。その伝手で、大公殿下は「雨男」をお呼びになったのです。
 「妃殿下は変わっていて欲しいですか? それとも昔のお友達が変わっていて欲しくないですか? 」
 会話の流れで何気なく口にした私の言葉に、妃殿下は心細げに言い淀まれました。それは十七八の少女が心のうちを言い当てられたときに浮かべる、戸惑いのような表情でした。
 「そうね、変わっていて欲しくはないわ。想い出が傷ついてしまうから。でも変わっていない方が実は怖いのよ……」

 二週間後、「雨男」はやって来ました。
 謁見の間で、私は妃殿下の後ろに控えていました。
 謁見の間は床石や柱、壁に至るまですべて、ハレの国を象徴する、ネモィラのような青と、タンポポの綿毛を思わせる白い雲で彩られていました。天井には神話の世界がテンペラ画で描かれていました。雨竜退治の神話でした。代々の大公様は、それはそれはこの神話を誇りにされていたそうです。
 現大公のトロイ様も、条約機構の話が出る二年ほど前までは、歴代大公の例に倣って、その穏やかな治世の最前列に並ぶことを当然のことだとお考えだったはずです。
 ところが彼は今日、この国ぐるみの特権をすべて反故にするため、それもおおよそ現実的とは言えない手段に訴えるため、「雨男」をお呼びになったのでした。
 「雨男」が謁見の間に入って来た時、私は彼がカラフルな服を着ているのだと思いました。赤や黄色、水色やオレンジやグリーンの、南国の鳥のような衣装を着ているのだと。ところが近づいてみれば、それらはすべて絵の具の汚れでした。彼がまとっているのは、あくまでも黒い、何の飾りもついていないジャンパーとペインターパンツでした。
 彼の髪は何か月も床屋へ行ったことが無いように見受けらえました。ひげも伸び放題でした。それなのに、濃い眉の下からのぞく黒い眼は、初めて自転車に乗ることが出来た少年のように澄み渡り、輝いて見えました。彼は私が一度も見たことがない類の人間でした。何しろ一国の大公様に謁見するというのに、そんな格好で現れるというのですから。
 大公殿下は色白でふくよかな顔に不安と懐かしさが入り混じったような微笑みを浮かべ、細かくうなずきながら彼に言葉をかけられました。
 「久しぶりだね、ジュニ。ちっとも変っていないようで嬉しいよ。この度は私の求めに応じてくれてありがとう。」
 「いいえ、いいえ、もったいのないお言葉です。トロイ様は大分ふくよかになられましたね。学生時代は棒高跳びが出来るほど身軽だったのに。でも、お顔や目はお変わりではありません。穏やかさはそのままに、深く知的になられました」
 「雨男」の言葉ぶりは、彼の奇矯な見た目からすると随分とまともで、しっかりとしたものでした。子供のように真っ直ぐで屈託のない目で、玉座の大公殿下に懐かし気に微笑みました。
 大公殿下は金と螺鈿で出来た椅子に座っておられました。背は高く、シャンパンとフォアグラが積み重なった脂肪が、殿下の肩や背中、お腹や太ももをもっこりとさせていました。その為、白を基調に、金銀細工や数々の勲章で飾られた衣装は、なんだかとても間延びしたものに見えたのです。
 その隣、私の右斜め前には、水色のドレスを着た大公妃殿下が座っておられました。横目に盗み見る妃殿下の憂いた眼差しは、私にまだ見ぬ雨というものを想像させるものでした。
 生まれ故郷の町で見た絵画展で、私は雨を描いた外国の絵を見たことがあります。幼い少女が雨の降りしきる街を窓の中から眺めているのです。その少女の、雨模様と同じくらい憂いた目を、私は大公妃殿下の眼の中に認めました。妃殿下は微笑みも浮かべず、「雨男」をじっと見つめていました。その途方に暮れたように見える表情は、とても旧友を迎えるものではないように思われました。
 「雨男」は大公殿下から視線を移し、妃殿下の上に心細げな微笑みを落としました。それはとても四十を超えた男のものには見えませんでした。年上のお姉さんからダンスに誘われた少年が、恥ずかしがって浮かべる微笑みの様でした。一瞬噛み合った二人のまなざしはすぐにほどけました。妃殿下は哀し気に目を逸らし、「雨男」は照れたように目を落としました。
 私はお二人を見比べました。奇妙な予感を感じたのはその時が初めてでした。
 私の左斜め前では、大公ご夫妻の一人娘であられます公女アブリ様がピンクのドレスのウエストも苦しそうな姿勢で座っておられました。公女殿下は妃殿下とそっくりな藍色の目に、好奇心を隠し立てもせずに、「雨男」を見つめておられました。
 「そちらのお方がお二人のお姫様ですか? 」
 妃殿下に微笑まれたのはまったく違う素朴な笑顔を浮かべ、「雨男」がたずねました。
 「エヴァ様そっくりのお顔立ちと色彩です。しかし、表情と体格はトロイ様譲りですね」
 「なかなか可愛い娘だろう? 来春ジョウロ伯爵の長男と結婚が決まっている」
 柔和な微笑みを浮かべたまま、大公殿下がおっしゃいました。
 「可愛いものですか。少し太り過ぎよ。これからはこのハレの国にも『別離』というものが生じることになるのだから、もうちょっと身なりに構わないと捨てられるわよ」
 妃殿下はそう口をはさんで、ため息をおつきになりました。「朝からグラタンとフォアグラはよくないわ」
 「ルト様が私を見捨てるはずないわ。恋するものには解るのよ」
 アブリ様がおっしゃいました。そして顎が三重になった笑顔を浮かべられます。妃殿下は顔をしかめ、大公殿下は声を出して笑われました。
 「ジュニ、長旅で疲れたろう。汗を落としてくるといい。コロン、バスタブにたっぷりとお湯を沸かしなさい。それから、非公式だけど晩餐に呼ばれてくれるね? いいシャンパンをたくさん用意したんだ。我が国特産のシャトーブリアンもあるよ」
 「まあ、お父様、楽しみです! 」
 「雨男」ではなく、汗で顔中てかてかとさせたアブリ様が叫ばれました。「雨男」はもじもじとジャンパーの裾をいじりました。
 「しかし、俺はそう言った華々しい場には不慣れなものですから……」
 「大丈夫、大丈夫、これは旧友を迎える家族的な晩餐だから。私はあの楽しかった学生時代の話がしたくてたまらないんだ」
 「はあ、そう是非にとおっしゃるのなら……」
 「雨男」はそう言ってお辞儀し、不安げに首をゆすりながら退出しました。
 私は目だけ動かして大公妃殿下の藍色の目を観察しました。それは「雨男」のカラフルな背中に注がれていました。不思議に空疎でけだるげなまなざしのように見えて、実はそこに消し難い炎が燃えているのではないか? 私は幼いながらもそう直感したのです。

 次に「雨男」を見たのは、その夜の晩餐の席でのことでした。
 最初私は、この男が「雨男」なのだとは気づきませんでした。それほどの変貌ぶりでした。まず彼はコロン侍従の沸かしたバスタブの中で体を洗い、宮廷付き理髪師カロによって髪を切られ、髭をあたられたのでしょう。絵具で汚れたジャンパーの代わりに、深いグレーのフロックコートを着ていました。どこでサイズを調べたのか、それは彼の体にぴったりでした。
 髭もじゃの時には何だか恐ろしげに見えた透明すぎる眼差しも、思いもかけず繊細で心細げな顔立ちに中に在っては、人を脅かしたり居心地悪くさせるような、負の魔力は影を潜めていました。それでも彼の視線をまともに受けると、レントゲンで透過されたみたいに自分の魂の骨格がはっきり映るんじゃないかという、おおよそ馬鹿げた恐怖を感じるのもの確かなのでした。
 ご一家の私的な宴が開かれる間である「矢車の間」は、淡いシャンパンカラーの地に、青紫の花弁を持つ花のパターンで彩られていました。燭台は銀色に磨かれ、ロウソクはぬくもりに満ちた灯りを放っています。調度や出席者の影が幾重にも重なり、定かには思い出せない夢の情景のようにゆらゆらと揺れているのです。
 大公殿下が乾杯のあいさつをして晩餐が始まりました。私は妃殿下からご指示があった際にはすぐに対応できるよう、部屋の片隅にじっと座っていました。そこは晩餐の出席者五名のお顔がよく見え、なおかつ、燭台の灯りのが行き届かず、出席者の方からは私の顔つきや目線は、うすぼんやりとした闇に沈んで見えないのでした。そうです、表情や仕草を観察するにはとても適した場所でした。
 大公殿下は終始上機嫌でした。よく笑いよく食べ、よくしゃべりました。「雨男」もそれによく答え、心細げな顔立ちもあって、ほとんど泣きそうに見えるような微笑みを作って、大公殿下と語らっていました。
 お二人の話題は共に過ごされた学生時代のお話でした。嫌われものだったり、反対にとても慕われていた教師や、学生食堂の人気メニュー、ころころと男を変えることで有名だった女生徒や、流れ星を見るために行った山奥の話など、こんこんと湧く泉のように話の種は尽きませんでした。
 「そうか、あの悪童ゴメも父親になったか。どうしているかなあ、あれから二十年以上たったのだものなあ。でも、かく言う私も父親になった。それも来春結婚する娘の父親だ」
 アブリ様は会話そっちのけで、羊の臓物を使ったパイにむしゃぶりついておられでした。そしてこの晩餐の五人目の出席者、ジョウロ伯爵のご長男、ルト様は、縮れた栗色の前髪の陰で、心浮かない顔をして溜息をついておられました。アブリ様が食欲を見せられれば見せられるほど、ルト様のナイフとフォークは滞りがちになりました。
 大公妃殿下は目も伏せがちに、細かく料理を切って、お口ににお運びになっておいででした。大公殿下が同意を求めれば相槌を打ち、ときより屈託無げな微笑みさえおつくりになっておいででした。それでも私の一抹の危惧に裏打ちされた目にははっきりと見えました。「雨男」を見ないように見ないようにされている。それなのに二つの藍色の目は、蛾がついつい灯りに飛び込んでしまうあの本能の業のように、「雨男」へと吸い寄せられておられるのでした。
 「それにしてトロイ様……」
 メインのシャトーブリアンが運ばれてきたとき、澄んだ目に不安げな色を浮かべた「雨男」が尋ねました。
 「どういうご決心だったんでしょう? あなたは十六七のやんちゃ盛りの年頃でさえ、争いも別離も雨もないこの国のことを誇りにしておられました。本当に俺がこの理を変えてしまってもよろしいのでしょうか? もちろん俺にもここに雨が降るべきだってのはわかります。『雨男』のあだ名に恥じない感覚がちゃんとあります。しかし、あなた、更には国民の方々がそれで本当に良いと考えでしょうか? 楽園の住人のままでいたいのではないのでしょうか? 」
 大公殿下はふっと真顔になられました。
 「もちろんね、ジュニ、私も出来れば永遠に変わらない楽園の住人のままでいたい。国民の多くもそう感じているだろう。
 しかし時代は変わってしまったんだ。兵器も戦術も進化した。徒歩でしか攻め入ることのできなかったこの国も、戦車や飛行機で簡単に落とせるようになった。同盟国側は虎視眈々と領土拡大を狙っている。このままでは犬も柵も牧童のピストルも守ってくれない羊の群れのように、我が国民は容易く狼どもに食い荒らされてしまうだろう。
 私はね、火中の栗を拾う覚悟で君を呼んだんだ。私はきっと、君のもたらす雨が国民の気持ちを開放するのだと思っているんだ。多くのハレの国民と違い、私には留学時代に見た雨と外の人々の感情の記憶がある。争いも別離もないのは確かに異常だ。何もかもが穏やかなのはいいが、変化も発展も革新もない。この国はひたすら閉じている。閉じて充足して眠っている。私はね、その閉じた国を開かれた世界へとかじ取りをする、最初の君主になりたいんだよ。個人的な野心を告白すると、国を守る方向へ英断した名君と呼ばれたいんだ。だがそれもおまけみたいのものだ。上に立つものは時に、嫌なことでもしなくてはならない、まあそういうことだ」
 大公殿下の白いお顔には、最後は照れ隠しのような笑みが浮かんでおられました。「雨男」は、魂の背骨やら肋骨やらを透かして写しとれそうな澄んだ目で、大公殿下の青い目を見つめていました。
 「わかりました。トロイ様のお気持ちは理解できました。早速明日から制作に取り掛かります」
 私は大公殿下が語られた長いお言葉のさなかで、妃殿下のお顔にさっと差した哀しみを確かに認めました。私は眼球だけ動かして、「雨男」を見ました。皺の刻まれ始める年ごろの顔の中では信じられないほど、澄んだ溌溂とした目で、彼は妃殿下に微笑みました。妃殿下の眼は濡れていました。こまったような表情を口元に浮かべ、目線を俯かせました。
 「お父様、このお肉とっても美味しいわ! 」とそのときアブリ様が叫ばれました。ルト様は溜息をつき、ナイフとフォークを置かれてしまいました。大公殿下は大笑いし、妃殿下は眉を寄せて天を仰がれました。「雨男」は楽しげに笑いました。

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綿毛

 次の日から、宮殿の中庭に建てられた仮設の小屋の中で、「雨男」は絵を描き始めました。小屋からは人払いがなされ、完成まで誰の目にも触れないようにされていました。一人大公殿下だけが昼下がりに、作品の進捗状況を見に行かれるのです。
 「雨男」が制作にとりかかってから五日目、大公殿下は妃殿下に、絵がどうなっているか見に行こうとお誘いになりました。そして私もお供としてついて行くことになったのです。
 あの日のことは何十年と経った今でも、よく覚えています。五月終わりの小屋の中は、からりと乾いてはいるものの、鼻の下に汗をかくような暑さでした。窓は開け放たれていましたが、塗料の匂いがツンときました。縦五メートル、幅十メートルの絵は、完成された暁には宮殿の広場に面した壁に掛けられます。雨というもので流れぬよう、特殊な絵の具が使われているのです。
 「雨男」はあの絵具で汚れたジャンパーを着ていました。自分の頬や額にさえ色を付けて、憑かれたように絵筆を動かしているのです。そうかと思えば不意に立ち上がり、仮設小屋に取り付けられたロフトに上がっては、上から絵を見下ろしては何か考え、また降りて絵筆をふるい、そしてまた上へ行って首をひねり、ぶつぶつと何ごとかをつぶやくのでした。
 描かれる途中の「本当の絵」というものを、私は初めて見たように思いました。その当時では、ハレの国からは素晴らしい画家は生まれないというのが古来よりの常識でした。
 もちろん学校には美術の時間もあり、私たちもそれなりに絵を描いたり、粘土をこねて焼いたり、木を削って彫像のようなものを作ったりもしました。しかしそれはただ技術的な手の技でした。本当の意味で人に感動を与える絵画や彫刻、さらには音楽や詩、舞踏や演劇といった芸術全般が、このハレでは全く生まれないのです。
 もちろん画家や詩人や歌手を志す人はあります。しかし彼らがどんなに技術的に習熟しても、ただ表面上整っているという体裁以上の表現はできなのです。そしてそれらの芸術を鑑賞する側も、どんなに絵を観察し言葉のジャンプに心を傾け、奏でられる音楽に耳を澄ましても、その本来もたらしてくれるであろう、感動というものに手が届かないのでありました。
 その時の私にかろうじて分かったのは、この絵が技術云々では図ることのできない、何か非常に不愉快に心を乱すフォルムと色の混雑物であるということだけでした。
 ええ、私は不愉快でした。大胆なタッチで描かれた、おそらくは山脈の形の下書きらしい曲線や、カラフルで心をひっかいているかのような斜線の数々が、不都合な噂を耳にして、それが耳から離れないときのように、心をむかむかさせました。
 「こんなものが広場の城壁に掲げられるの? 」
 私は心の中でつぶやきましたが、実際には何も言いませんでした。それはこの時の私に限った話ではなく、そのころのハレの国の人々は、不快に思ったことを口に出して、諍いの種にするようなことを全くしなかったのです。何か引っかかることがあっても、人々は口に出しません。ただ淡々とそれが通過するのを待つだけなのです。
 「うんうん、なかなか進んだね。素晴らしい絵になりそうだ、なあ、エヴァ」
 大公殿下がおっしゃい、妃殿下もうなずき微笑まれました。
 「そうね。この絵が完成したときわたくしたちも初めて、あなたの『芸術』というものが分かる位置に立てるわね」
 そして、「雨男」に、ずっと年上の姉のような眼差しを作ってこうおっしゃいました。
 「それにして、ジュニ、少し瘦せたんじゃない? 」
 「ちゃんと食べてますよ」
 「でも頬がこけたわ」
 「描いている時はいつもそうなんです。立って、絵筆が握れる力だけ出ればあとはどうでもよくなる」
 「雨男」はそう言って、泣きそうな顔を作って笑いました。彼は晩餐の席からのこざっぱりとした様子を保っていました。おそらくカロが毎朝髭を当ってくれているのでしょう。私は透明すぎる目に少し怯えながらも、平静を保って彼を見ることが出来たのです。確かに「雨男」は少し痩せたようでした。わずかに頬がそげ、眼の下もこけて、それなのに、透明すぎる目の輝きはいや増して光っています。
 「明日からお昼と晩餐の間に、この子に何か持ってこさせましょう。殿下、よろしいですね? 」
 妃殿下が私のことを指して仰い、その言葉に大公殿下は鷹揚にうなずかれました。
 「ああ、もちろんだとも」
 
 仮設小屋を出て、私たちは大公殿下を先頭に、庭園の小道をたどって歩きました。
 庭園は自然の野山を模して、マーガレットやつめ草、血のように赤いひなげしが、乱れるように咲き誇っていました。タンポポはもう盛りを過ぎ、ぱんぱんに膨らんだ綿毛が太陽を受け、風が吹き渡るときを待っていました。
 人工の小川がさらさらと流れていきます。粉ひき小屋を真似た水車が、ごとりごとりと回っています。真っ白いキャンバスに平和を描いて、眠たくなるほどの陽光で満たしたような光景でした。しかし、私たちには確かに何かが足りないのです。そのときの私には不思議に感じ取ることが出来ました。それが悲しいのか、それとも、それが失われることが悲しいのか、それは私にもわかりませんでした。
 大公殿下は何もおっしゃいませんでした。妃殿下もまた同様でした。私も、私に課せられた使命を顧みれば、何も言わないのがよいと判断し、黙って歩きました。長い沈黙の後で、妃殿下はこうおっしゃいました。
 「殿下はご不満ではないのですか? 」 
 「何がだね? 」
 「わたくしがジュニの体を気遣うことについて」
 「私だってジュニの友達なのだよ。同じ心配を抱いて何がおかしいんだい」
 「そうね。あなたもわたくしも楽園の住人なんですから、お友達の心配をするのは当たり前ね」
 「わかるだろう? 良くない感情は、しっかりと捕まえておくことのできない煙やもやのようにするりと逃げて、気がついたときにはもう過ぎ去ってしまっているんだ」
 それから大公殿下は、山を背負う巨人のように切ないため息をつかれました。そして遠い目をしておっしゃいました。
 「君は憶えているかい? 学生時代、窓際の席に座っていた、リタとエイトを。エイトが別の女の子を見たと言っては喧嘩し、リタの服装が挑発的だと言っては喧嘩し、そのたびに目まぐるしく仲直りするんだ。仲直りすれば前よりも一層、二人は親密になっていった。あの頃の私にはよくわからなかったが、今にして思えば実に楽しそうだった。
 なあエヴァ、我々にはこれ以外の人生はあり得ないのだろうか? まるで腱を切られたチーターのように、どこにも歩き出すことが出来ないんだ。この歳になって来ると、致命的な忘れ物をして、それを取りに行けないような気持になるんだよ 」
 「わたくしもそう思うことがあります」
 ざあっと風が吹いて、タンポポの綿毛が流れていきました。どこまでも透明な青の空の下を、白く儚く輝きながら、ゆるぎない命の意志を乗せて通り過ぎてゆきました。
 暖められた空気を切り裂くように、午後三時を知らせる鐘が鳴り響きました。ご夫妻はそれっきり黙り込んでしまわれました。私も、機械仕掛けで歩く人形のように黙っていました。

 次の日から毎日午後の三時に、私はカトーシェフ特製のサンドウィッチと、瓶に入った熱いコーヒー、薔薇の形をしたチョコレートを幾つか持って、「雨男」のところに届けに行くようになりました。
 「雨男」はノックからやや経った後、澄み切った眼に泣きそうに見える、彼独特の微笑みを浮かべながらドアを開けます。
 そして私たちは、仮設小屋の東側に落ちた影にすっぽりと収まるように、壁に背を持たせかけて草の上に座ります。日向では生温かく乾いている草も、そこではひんやりと水気を含んでいます。綿毛は今日もふわふわと、青い空の下を新天地を求めて旅をしています。そして、「雨男」は絵具だらけの手をぬぐいもせずに、オムレツやカツレツをはさんだパンにかぶりつきます。
 私が「雨男」と他愛のない会話することになったのは、単に間が持たないからという理由からだけでした。空のバスケットと瓶を持って帰らなくてはなりません。私は「雨男」の透明すぎる眼差しに怯え、雨を降らすという行為に嫌悪感を抱きながら、ただ穏やかに会話をするのでした。
 しかしそのことは当時のハレの国の人々にとっては当たり前のことでした。私も、心を苛む怯えや嫌悪感が、朝霧のように吹きさらされて、きれいさっぱり消えるのを待っていました。しかしそれらはまったく気持ちに反して、心の中にずっととどまり続けていたのです。まるで夏の熱せられた空気が、夜になってももやもやと立ち去らないみたいに。
 「雨男」は私の葛藤に気づきもしません。無邪気に絵の進捗状況を話して聞かせます。私もいかにも興味あるというふうに、頷いて見せます。彼の報告によると、絵はどうやら順調に進んでいるようでした。私はいまだに「雨男」の透明すぎる目の光に慣れないままでした。

 「ナータはいつからエヴァ様のところで働いているの? 」
 「ええ、半年くらい前から」
 「都の出身? 」
 「いいえ、モールという小さな町から」
 「君の家はそこの実力者だったのかい? 宮廷に伝手でもあるような」
 「いいえ、父は小さな農場を経営していて、生活には困らなかったけども、そんなたいそうな影響力なんてなかったわ。私がここへこれたのは、大貴族に嫁いだ大叔母さんからの口利きなの」
 「そうなんだ。君のお父さんも娘の出世について鼻が高いだろうねえ」
 「いいえ……」
 私はうつむき詰まり気味な声を出しました。
 「父は去年に亡くなりました」
 「そうか! ごめん、辛いことを言わせてしまったね」
 「雨男」は泣き出しそうに見える彼独特の笑顔ではなく、本当に泣き出す寸前のような顔になりました。私はつい気の毒になりました。そこで深入りするような話は避けて、あくまでクールな振る舞いを見せていたら、あるいは私と「雨男」の関係は、違った方向へと傾いたかもしれません。しかし私にはやり過ごすことが出来ませんでした。自分の方から、話さなくてもよいことまでぺらぺらと話したのです。
 「いいえ、病気だったのよ。心臓の方で、朝元気に家を出たと思ったら、冷たくなって帰ってきたの。私は遅くにできた子供だったから、もう父も六十歳を過ぎていて、それが天命だったんでしょうね。それぐらいで亡くなる人って多いじゃない? 子供も私を筆頭に三人も男の子がいたから、血を絶やさないという使命は滞りなく果たしたはずよ」
 「じゃあ、農場は弟さんのうち誰かが継いだのかい? 」
 「いいえ……」
 嘘をつくことも出きない私は、再びうつむいて、否定を口にするしかありませんでした。
 「ちょっとした負債があって、農場は手放したわ……」
 「雨男」は本当に黙り込んでしまいました。黒々とした眉は今にも泣きだしそうなほど寄せられ、澄み切った黒水晶のような目に涙さえ浮かべているようでした。私は何と答えたらよかったのでしょう? このことで、我が事のように悲しい顔をした人間は初めてです。私はとっさに、「雨男」の目から涙の影を取り去りたいと思いました
 「いいえ、大丈夫なの、生活には農場を売ったお金の一部があてられるから。弟たちも学校へ通うことができているし、贅沢さえ言わなければ全然問題ないの。秋になれば一番上の弟が働きだすし、私だって学資金がたまるわ」
 「学資金? 」
 「看護学校へ行きたいの」
 「雨男」は、澄み切った眼を潤ませたまま、四月の朝いちばんに屋根の上から降り注ぐ、暖かな日差しのようなほほ笑みを浮かべて言いました。
 「ナータは頑張り屋さんなんだね」
 私は一瞬言葉を呑みました。そして、頬や耳が熱くなるのを感じながら否定の言葉をまくし立てました。きっと私の声は上ずっていたことでしょう。
 「うううん、たいしたことじゃないわ。ただお給金のちょっとの額を分けておいて、寝る前に一二時間勉強するだけだもの……」
 「いいや、働きながら夢を追うのはそんなに楽なことではないよ。俺も、毎月の学費を払うのにきゅうきゅうとしていた時期もある。いろんな賃仕事をかけ持ちをしたよ。働き終えて帰ってくるとくたくたで、それでも絵だけは描かずにはいられなかった。同級生が楽しそうに遊んでいるのを見るとうらやましくて、楽に逃げたくなる気持ちを鞭でひっぱたいて、『俺は絵を描くんだ、俺の本分は絵なんだ』って言い聞かせ続けたりして」
 「雨男」の透明な目は陽光を吸い込んで、黒水晶をかざしたような輝きを見せています。私は鼓動が強く打つのを感じました。何故だか頬も熱くなります。
 「私はそんなに辛い思いなんかしていません。切羽詰まってもいないわ」
 「いいや、人間が日々の生活のそれ以上のことを望もうとすると、必ず強い負荷がかかるんだ。ナータも同じ仕事をしている同じ年ごろの娘たちよりも、はるかに頑張っているはずだよ」
 雨を降らせて、この国に災いを呼び覚ますという醜い使命を負ったこの男が、どうしてこんなきれいな目で優しい、力ある言葉を発することが出来るのでしょうか? 私の当惑は深まるばかりです。まるで心が、風にひらひらと翻弄される木の葉になったみたいです。いつかは、今、心地よく心を揺らしている「雨男」の言葉に吹き飛ばされて、何の守りもない宙へと放り出されてしまいそうな気がするのです。
 「そうだ、忘れていました」
 動揺を押し隠すようにそう言って、私は「雨男」に、大公妃殿下から預かって来た、雪のように白い便箋を手渡しました。ここに来ることになった初日から、私は密命を帯びていたのです。「雨男」は何も言わずに受け取り、筆記体で書かれた流麗な署名を指でなぞって、十五歳の少年のように微笑みました。
 明日にはきっと、「雨男」からの返事を妃殿下の元に持っていくことでしょう。「雨男」も、決して私の前では手紙を開けませんでしたが、妃殿下も受け取ってすぐには、手紙をお開けになられませんでした。夜になって私が退室するまでそれを机の引き出しの一番奥に仕舞っておかれるのです。それを読まれている様子を誰にもお見せにならず、「雨男」へのお手紙を書かれている様子もまた、誰にもお見せになることはなかったのです。

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 私のことを少しお話したいと思います。取り立てて珍しい生い立ちではありませんが、私という人間の物語る、長い回想物語を理解する上では有効な手立てかと存じます。少しばかり冗長なお話とあいなりますが、今しばらくお付き合いください。
 私が生まれたのは前世紀の九十一年、婚期が遅れて四十を過ぎた父親と、やはり婚期を過ぎてしまった母親との間に、第一子として誕生しました。前にもお話ししたように、私の後には三人の弟たちも生まれています。
 私の父は小さな農場を経営していました。特産品のさくらんぼを栽培し、多くの乳牛を飼っていました。さほど贅沢もしませんでしたが、生活にも困ったことはありませんでした。私は六歳から学校に通い始め、十八で女学校を卒業しました。読み書き算、第一外国語、近年目覚ましく進歩しつつある科学の知識、私は高等な職業に就けるだけの学識を、通り一遍は身に着けたのでした。
 私には憧れがありました。小学校の上映会で見た外国の映画で、野戦看護婦の活躍を知ったのです。きな臭い戦場で、人としての誇りと慈愛を見失わない彼女たちの姿に、私もかくありたいと願いました。
 女学校に進学してからは、単位取得を看護学校への進学に有利なものに選択して、まっしぐらに勉強に励んでいました。それなのにどうしてか気が引けて、進学したいと父に申し出ることがなかなかできずにいたのです。
 父が亡くなったのは、私が女学校を卒業する三月ほど前でした。
 その前日の夜、私は勇気を奮い起こして、看護学校へ入学したいという意思をはっきりと伝えました。私の声は有り余る憧れに上ずり、期待と不安のそのあまり震えていたはずです。それなのに父は拒否しました。態度こそハレの国の人々特有の、穏やかさに満ちてはいましたが、その態度はきっぱりとしたものでした。父は言いました。
 「お前が進学することを認めるわけにはいかない。ずっと前から考えていた縁談があるんだ。女学校を出たらすぐに結婚しなさい」
 私は一つ溜息をついて「はい」と言いました。視界は涙に滲み、奥歯はカタカタと言っていました。
 私の子供や孫の代の人たちにはきっと解らないことでしょう。何故戦わないのか? 自分の権利を得るために言葉を尽くして意見を主張し、ときには声を荒らげたりなじったりして欲しいものを得ようとする、それが今の人々の当然の態度です。親子の間であったらなおのことそうでしょう。
 しかしこの時代までのハレの国の人々にとって、人と対立してまで意見を押し通そうということは思いもよらないことだったのです。私も当然のようにこの父のむごい決定にため息一つで応じたのです。
 ところが従順に父に従っているように見えた、私の心の内側では、嵐が吹き荒れていました。
 「ああどうしよう、こんな嫌な結婚を逃れる方法はないのかしら? 看護婦はずっと小さいときから抱いてきた夢だったのよ、お父さんだって私の憧れを知っていたはずよ」
 私は表面上は穏やかに従っていました。ところが内心では父を激しく憎んだのです。穏やかに哀しく微笑んだ面の皮を一枚むけば、憤りで怪物のようになった面相が醜く歪んでいます。もっとも、そのころの私にはそれを自覚することが出来ませんでした。ええ、私は私の憎しみに全く無自覚でした。そんな醜い感情が、人間の心の奥底に宿るなんて、おおよそ常識的ではないと考えていました。
 何だか胸の奥底でぐらぐらと煮だっているような心持でした。それがたまらなく不快で、こんな気持ち、朝霧が風に吹きさらされるみたいに、早く消えてなくならないかと願っていました。それまでの私、いいえ、それまでの私たちは全てそうやって、もめごとの種をやり過ごしてきたのです。ところがそれはすぐさま、思いもかけないむごい終わり方をしたのでした。
 次の朝、父は来週婚約者に引き合わせると予定を短く口にしたまま、いつも通り農場へと向かいました。私もいつも通りに女学校へ出かけました。
 血相を変えた先生が私を呼び出しに来たのは、五時限目の途中でした。彼女は髪を乱して「お父さんが倒れた」と言いました。私は家から使いにやって来た農業用車に乗って、急ぎ帰ることになりました。
 家に着いた時、父はもう冷たくなっていました。「お父さん」と呼びかけて、手を握ってみました。それはすっかりと硬直して、妙につるつると青白くなった皮膚と相まって、蝋で巧妙に作られた父の人形の様でした。朝まで生きて会話していた私の父とは違う、「物体」だと思えてなりませんでした。
 私の足元では母が泣き崩れていました。先に帰っていた二人の弟も、顔をゆがめ嗚咽をこらえていました。私の後に帰ってきた一番小さい、まだ十歳の弟は、帰るなり冷たくなった父に縋り付いて大声で泣きました。私は泣きませんでした。どうして泣かなかったのでしょう? 泣かないことはいかにも不自然で薄情なことに思われていたので、私としては泣きたかったのです。ところが涙は出ませんでした。
 私のこのような心理を紐解こうとしたら、私が迎えに来た車の中で、農夫の青年からこう言われたことに触れなければなりません。彼は言ったのです、「お父さんが亡くなって縁談も流れた、気の毒なことが続くけれども気を落とさないでくれ」と。そのとき私は背中から、スーッと重荷が消えていくのを感じたのです。
 ええそうです、私は父が亡くなってほっとしていたのです。結婚はしなくていい、私は自由を手にしたのです! そしてその自由というのは、今までかりそめに与えられていた補助車輪付きの「自由」とは違う、大空を飛翔する大鷲になったかのような本物の自由でした。私は知らず胸が高ぶるのを感じ、そしてそのことに絶望感を憶えました。お父さんが死んでもちっとも悲しくならないなんて……。私は悪い、悪い人間だ……。
 お葬式の時も、埋葬の時も、私は一滴の涙も流しませんでした。夏が来て私は卒業しました。そのときも全く涙は出なかったのでした。生まれ育った家を離れて宮殿へと向かう時、母は私を散々心配して泣きました。一番小さい弟も、遠くへ行かないでと泣きました。私の涙は一滴も流れませんでした。そうです、凍り付いたように、あるいは干上がったように、私の涙腺は働きませんでした。

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 絵の制作が始まって一月が経ちました。私は気が進まない毎日を過ごしていました。
 毎日午後三時になると、私をX線投射機の前に立たされているような気持にさせる、「雨男」の元へ軽食を届けに行かないといけません。その上、大公妃殿下から託される手紙の内容が、私としては非常に気がかりでなりませんでした。
 「私は不義の片棒を担がされているのではないかしら? 」
 ある日の昼下がり、いつものように大公妃殿下は、バルコニーにテーブルを出してお茶を楽しまれていました。淡いブルーの部屋着をまとい、黄金の髪をご自分でゆったりと編み込まれて、部屋着と同色のリボンでお結びになっておられました。そこに光る白い髪の筋は、五月より幾分か少なくなったような気がして、私は余計に気をもみました。
 六月の光は強い意志を持って、天上から照り輝いているようでした。まっさらな洗濯ものみたいな雲が、歌い上げるように青い空に浮かんで流れています。からりと暑いのに、風が吹き渡っているせいなのか、それは身にこたえるものではありませんでした。
 大公妃殿下はお膝の上に、紅薔薇の刺繡装丁の小さな本をのせて開かれました。それは太陽が沈む国と言われる外国の詩集でした。妃殿下は左側の頬にえくぼを浮かべられておっしゃいました
 「これはね、留学時代に隣の席に座っていた女生徒がくれたの」
 「詩集ですか? 正直私には詩というものが分かりません。言葉自体の意味は分かるのです。でも、言葉と言葉が組み合わさった時に、なぜ外国の方々は激しく心がゆすぶられるというのでしょうか? そのまんまの意味で受け取ってはいけないのでしょうか? 」
 妃殿下は苦笑いなされました。
 「ハレの国では詩なんて読む人はいないわね。書こうとする人はもっといない。でも、もうあとに三か月もすれば、わたくしたちにもこの『詩』というものの真価が、理解できるようになるわ」
 「どうしてこの世が醜いものであふれていないと、詩や絵画の美しさは解らないんでしょうか? 美しい心を持った人たちだけに、真に美しものが解るのではないのですか? だとしたら、詩なんて実に醜悪でくだらないものです。絵だって……」
 妃殿下は黄金色の眉を寄せ、今にも泣き出しそうな笑顔をお作りになりました。その表情は私に、「雨男」独特の笑みを思い起こさせました。涙腺が熱くなるのを感じました。私の唇は、への字になって震えていたかもしれません。大公妃殿下からされてみれば、こんな表情はさぞかしご不快でございますでしょうに。一体私はどうしたというのでしょう? 何がそんなに不服なのでしょう? それでも心のうちからにじみ出てくる感情に、抵抗できませんでした。
 「あなたは不安なのね。もめごとや別離が当たり前な世の中になることが。確かに争いごとの大部分は醜いことよ。別離もまた心を大きく切り裂く。でも、怒りや憎しみを感じながら、それを心の中でくすぶらせているということは、それはそれでとても不幸なことではないのかしら? 自分の憤りを表現できない、憎い相手と別れられない、それは、なまじ喧嘩したり別れたりするよりももっと深く、わたくしたちの心を傷つけるのではないのかしら」
 「そんなことありません。私たちは皆楽園の住人なんですから、誰も憎んだりはしません」
 そう抵抗しながらも私は、今立っている宮殿の床が、足元からガラガラと崩れ、瓦礫の山の中に飲み込まれていくような気持を味わいました。自分を偽っているということが、口から言葉が放たれるそばからひしひしと迫ってきたのです。言いながら自信がなくなってゆき、私は首を垂れました。
 「ナータ、この本をくれたのはね」妃殿下は藍色の目に、母性とは違った色の優しさをたたえた微笑みを浮かべて、人差し指でぽんと本の表紙を叩かれました。
 「季節が変わるごとに恋人を変える女の子だったの。彼女はいつもかばんに二三冊の詩集を持っていて、授業と授業の合間によく開いていたわ。大体が恋の詩だった。
 正直今でもわたくしには詩というものがよくわかりません。でも彼女は、ひたすらに詩を読み、そしてそれをなぞるように恋をした。彼女はとても美しかったわ。顔立ちがどうということじゃないの、存在そのものが美しかったの。決して心は醜くなどなかった。それどころかわたくしなどよりももっと純粋だったわ。星の数ほどの男と付き合っても、彼女の魂は決して汚れを負わなかった。
 わたくしは彼女がうらやましかった。彼女が理解出来る詩というものを理解したかったの。それが出来たときはじめて、わたくしもやっと自由に純粋に生きられるような気がするのよ。わたくしは待っているの、ジュニの絵が完成する日を、彼と同じ目線に立って、世界の美しさを、ようやっと感じられるようになる日を……」
 妃殿下は何をおっしゃいたかったのでしょうか? 道徳に反した行動をとる少女が純粋で美しいだなんて。私にはちっとも理解ができなかったのでした。それどころか、まだ知らない恋というものへの嫌悪感や、詩や絵画と言った芸術全般を憎む気持ちを、ますます激しくさせました。「雨男」の絵なんて永遠に完成しなければいい、私はそう思うようになっていました。

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 夜の十時に、私の一日の務めは終わります。妃殿下が寝室にお休みになり、その後の時間には、私たちよりももっと古参の、妃殿下が少女であった頃からお仕えしているキルリばあやが当たることになっていました。
 妃殿下のお部屋の左隣の私室に戻るとまず、下働きの少女の汲んでおいてくれた水で体を拭き、顔を洗います。結い上げた髪をほどいて櫛を入れ、白い綿製の寝巻に着替えます。その後から、ひとり机に向かって看護学校の受験勉強をしました。
 儚い白熱灯の中で分厚い参考書を開いていると時々、世界から見捨てられているような気持になることがありました。私以外の、両親や学資金に恵まれていた同級生たちは、何の心配なく学生生活を送っていることでしょう。また、進学の意思を持たなかった同級生たちも、何ら疑問も抱かずに、家庭に入ったり縁談の準備を進めていたりするのでしょう。そして一緒に宮仕えしている同輩たちも、のんきに眠ったりお肌のお手入れに余念なく過ごしているはずでした。
 私だけが一人ぼっちで、根を詰めて、細々と、無駄になるかもかもしれない勉強をしているのです。私は家を遠くに残してきました。寂しいのか寂しくないのか、帰りたいのか帰りたくないのか、それすらよくわからなくなっていました。
 そして、こうしてぽつねんと座っていると、私が本当に帰りたい家があるとして、それはもうとっくに現実の世界には無いことが、儚い白熱電球の光にはっきりと浮かび上がってくるようでした。そうです、私の帰りたい家というのは、もう想い出の中にしか存在しないのです。
 想い出の中の家には母親と三人の弟、牧羊犬のリリーとそして父が、温かい微笑みの輪を作って生活しています。母は毎日パイを焼き、弟たちは群がるようにそれに手を伸ばし、父はリリーを従えて元気に出かけていきます。そこには季節はあっても時の流れはなく、常に笑い声に満ちています。
 ところが今、現実の家にはもう父はいないのです。想い出の中よりも白髪と皺が増えた母は、今では毎日はパイを焼きません。弟たちもそれぞれ大きくなり、リリーはもうまきばを駆けることもなく寝てばっかりいます。一人こうして起きていると、それらの一つ一つの意味が苦しく心にのしかかって来るのでした。
 私は何を求めて走っているのでしょう? 帰りたくても、過去の幸せにはもう帰れないことは分かっています。だから目当てを先に見定めて、息を切らせて必死に走り寄ろうとします。それなのにとても手が届かない気がするのです。何のために、自分を苦しくする道に身を置いているのでしょう? 賢い人間の選択とは思えません。私は肩ひじを張った馬鹿なのでしょうか? そこまで考えるといつも、参考書の文字が歪み始めます。
 「人間が日々の生活のそれ以上のことを望もうとすると、必ず強い負荷がかかるんだ。ナータも同じ仕事をしている同じ年ごろの娘たちよりもはるかに頑張っているはずだよ」
 ふっと頭に浮かんだ言葉に、私は救命ブイを投げ込まれたような気持ちになりました。それは「雨男」からかけられた言葉でした。
 私は振り切るように参考書の文章を目で追いました。何故、何故あんな醜い使命を持った男の言葉が、こんなにも深く優しく心に響くのでしょう? その言葉に一縷の慰めを見出した私に、苦い自己嫌悪が湧きました。
 「もめごとや別離もないのにこんなに苦しいのだから、それが普通にある世の中になったら、もっと私は不幸になるわ。ああ、あんな絵なんか完成しなければ……」
 不意に、ギシギシという悪声の鳥が鳴き、答えるように様々な鳥が騒ぎ出します。多くの鳥が飛び立つ音がしました。私は少し迷いましたが、机の向こうのカーテンを少しどけて外をのぞきました。「雨男」が、宮殿と庭園でつながった神殿の杜の方へと歩いていく後姿が、湿っぽい月影にくっきりと浮かび上がっていました。ええ、「雨男」間違いありません、闇に溶け込んだ黒いジャンパーの中で、オレンジと黄色と水色の絵の具が、南国の鳥のように自己主張しています。あんな特徴的な服を着ているのは世界中で彼ぐらいのものです。
 「どこへ行くのかしら? 」
 私は何か不穏な予感から、眉にギュッと力を入れました。「雨男」はわずかに後ろを振り向きながら、神殿を囲むお社の杜の中に見えなくなりました。

 それから毎晩、私は勉強をしながら、「雨男」が神殿へと向かうさまを見張り続けました。彼は毎晩のように出かけて行きました。
 私はどうしていいかの分かりませんでした。良くないことに関わっていることが想像できましたが、なおさら妃殿下にお知らせすることはできません。
 毎日仮設小屋の脇で会話を交わす「雨男」に、何ら変わった様子も見られませんでした。「雨男」の態度は自然そのものでした。何か隠し立てしたりたくらんでいる様子は見えませんでした。ええ、私にももう解っています。「雨男」は嘘がつけない人種なのです。醜い使命を負っているくせに、心のうちがそのまま表情に現れてしまう純な人間なのです。それくらいのことは、毎日小一時間も顔を突き合わせていれば簡単に解ります。
 「ということは、『雨男』はそれを良くない行為だとは理解していないということなの? 」
 「雨男」が出歩くのを見かけてから五日目の晩、思いあぐねた私は、寝巻に着替えずに黒い仕事着に頭巾をつけたまま、館の裏口の陰で息を殺して待っていました。
 不安におののく息遣いの合間に耳を済ませば、庭園のいたるところから、虫の鳴き声がシリシリと響いていました。神殿のお社の杜からは、きしむような不吉な声で鳴く鳥が、悪声を天に向かってつきたてています。夏へと駆けあがって行く緑の匂いがむっと立ち込める中、月は今夜もなまめかしい、湿り気を帯びた光を投げかけていました。
 「月の絵を描く画家もいるのかしら? 雨の絵を描く画家もいるのだから、月の絵を描く画家がいてもおかしくないわ。いっそのこと、『雨男』も月の絵を描いてくれたらよかったのに。新月の晩以外、例外なく月明かりに恵まれるハレの国の美しい夜を描いてくれたら……」
 十一時を少し回ったころでしょうか? 自分が見張られているとは思いもよらないような気楽な足取りで、「雨男」が垣根の向こうから現れました。彼は迷いなく神殿の方へと向かいます。「雨男」の背中がお社の森の中に姿を消した後、私も用心深くその後を追います。
 庭園の中心に繁る古代の森の生き残りは、その敷地の小ささの割に、心を脅かす暗さに満ちていました。樺やブナの密な葉に遮られ、足元に届く月光はほとんどなく、かろうじてわかる切り開かれた小径の上を、私は慎重に足を運びました。うっかり小枝を踏んでしまった音や、自分のもらす息の音が、取り返しもつかないほど大きな失策のように思えて、額には冷や汗がにじみ出てきます。
 やがて白い石造りの神殿が月明かりに浮かび上がりました。
 それは二千年をゆうにさかのぼる古代から、脈々と受け継がれた特別な場所でした。歴史的にはこの都も宮殿も、あえてこの神殿の建っているところを選んで築かれたのです。
 それは白い四角い建物でした。一つ一つの石が岩のように大きく、それを積み木の城塞のように積み重ねて、自らの重みで他の巨石をも支えながらそびえたっています。そうして改めて月明かりの元で見るその建物は、私の目には巨大な墓石のようにも見えたのでした。「雨男」はここへ入ったのでしょうか? 
 毎晩宿直して、寝ずの番をしているはずの神職たちの姿は見えませんでした。入り口には、やはり夜通し焚かれていることになっているかがり火も見当たりません。
 更に近づいてみると、賑やかな音楽の切れ端のようなものが耳に届くようになってきました。よく見ると、入口にはめ込まれた木戸の隙間から、赤々とした光が漏れ出ています。
 「神官様たちがご祈祷をなさっておいでなのかしら? 」
 ところがそれにしては妙に猥雑な笑いさざめきが、木戸に近づくにつれてはっきりと聞き取れるようになってきました。
 流麗なリュート演奏に重なるように、わああああっという歓声が膨らんで広がりました。それは男の人と女の人の声が密に絡まり合った、細くもあり太くもある、「人間の声」としか言いようのないものでした。
 私の心臓は止まる寸前であるかのように騒ぎ、頭は凍り付いたように真っ白になりました。それなのに足は引き寄せられるように入り口に向かって進みます。私は足音を忍ばせることも忘れて木戸を開け、その灯りの中へと入りました。
 わああああああっという歓声が私を包みこみ、その声の振動が皮膚を揺らしました。それにつれて、濃密な花の香りが鼻いっぱいに広がって、私は儚い夢に酔っているような気分になりました。そこは今抜けてきた闇よりはとても明るく、現代風の電光に照らされた部屋よりはだいぶん暗い場所でした。幾つもの燭台が置かれ、そこに立てられた蝋燭がオレンジ色の光を放っているのです。
 私はまず先に、儀式のときに祈りをささげる祭壇を見上げました。そこには真っ赤な薔薇の花がこんもりと捧げられれていました。普段白い百合が捧げられているはずのハレの大神の髪に首に足元に、花輪にして重ねているのです。
 しかしそこで繰り広げられる乱痴気騒ぎは、神様に花輪を奉って祈りをささげるような、敬虔さ、厳粛さにおおよそ欠けているものでした。
 いつも祈る人々のために、清潔な木造りの長椅子が並んでいるはずの場所には、貝殻で飾った長い卓と椅子が幾つも置かれていました。沢山の男女が笑いさざめいているのが、蠟燭の明りに照らし出されています。手に手に酒器を持ち、羊のあばら肉を食いちぎり、手近な異性の背中に手を回し、獣脂とお酒で湿った唇で歌を歌っていました。
 私は眉をひそめました。彼らは一応は服を着てはいましたが、いかにも妙でした。女たちが着ているのは白い毛織物のローブ、そうです、古代の彫像が着ているようなあのひだの多い着物です。私はレイトショーの歴史映画以外に、こんな格好をした人を見たことがありません。それも半分着崩れて、華奢な肩や丸い胸がのぞきかかっています。
 男たちが着ているのもやはり毛織物の着物でした。女たちのものに比べると草木染で染めたような色がついています。やはりたくましい肩や胸を半分出して、それが粋なんだといいたいばかり。その様子は、私が今までに見たことがない種類の猥雑さに満ちていました。
 濃密な薔薇の香りと、蜜蝋の燃える匂いに混じって漂っているのは、お酒の匂いと獣脂の焦げる匂い、そして肉に振りかけられた香辛料の香りと、この騒ぎの出席者たちの放つ体臭でした。ええ私はこの歳までに、こんなに生き物の本性を丸出しにしたような、あけっぴろげな体臭というものを嗅いだことがありませんでした。それはまるで父の農場で、牛の種付け作業を見学したときのような気分にさせられるものでした。
 「やあ、ナータも来たんだ」
 快活な声で「雨男」が声を掛けました。彼は一番上座の席に座る、一際背が高く一際美しい女の人の膝に乗っていました。「雨男」とその女の人の体は、蔓と蔓とが絡まり合うように悩ましく密着していました。あまりのことに、私は思わず叫んでしまいました。
 「雨男さん、大公妃殿下のことはどうなさったのですか! 」
 「雨男」は悪びれもしませんでした。
 「エヴァ様を裏切っているわけじゃないんだ。俺は画家だから、『しとしと歌う君』様の寵愛を頂戴することは本来的なことなんだ」
 「何を言っているの! 」
 「雨男」は私の抗議には全く耳を貸しませんでした。かえってその美しい人の、息がかかりそうなほど近い白い首筋に手を這わすと、年齢とは不釣り合いなほど透明な眼差しに酔いしれたような光を浮かべて、彼女の双眸をのぞき込みました。
 美しい人は黄金の細かく波打つ髪を垂らしていました。眼は鮮やかな藍色で、その整った顔立ちはどうしても私に、大公妃殿下の面影を思い出させずにはいられませんでした。彼女は、大公妃殿下が決してお見せにならない、唾をのむほどになまめかしい眼差しで「雨男」を見つめました。
 「ねえ、その服、宮仕えしている子? 」
 その声とともに、誰かが私の右腕を柔らかく引っ張りました。振り返ると、黒い髪の毛を二本のベルトでゆったりと結い、こぼれんばかりに大きな瞳が美しい、私よりやや幼い少女が、珍しい昆虫を発見した子供のような眼差しで、私を見つめていました。
 「そうよ」
 私は否定したり隠したりする必要も思いつかなくて、素直にそう言いました。
 「私もよ、私も『しとしと歌う君』様にお仕えしているの。侍女の中ではまだ若手よ。ざっと三千年ばかり」
 「三千年ですって! あなたはせいぜい十五六歳でしょう? 」
 「見た目年齢はね。あなたは何年お仕えしているの? 」
 「……ええと、半年ちょっと」
 私は気後れしてそう言いました。
 「まだまだ伸びる可能性ありね。お仕えしていくうちどんどん楽しくなっていくわよ」
 「うん……」
 私の気持ちは動転していましたが、一同の中でこの少女だけが、しどけない姿で異性と絡み合っていないことを発見し、ほんの少しだけ心を許しました。
 「ええと、皆さんは何をなさっているの? 」
 「見てわかるでしょ、宴を開いているの」
 「何の宴なの? 」
 「日ごと夜ごとの宴よ」
 「毎晩、こんな乱痴気騒ぎをやっているの? 」
 「ええ、そう。でもこんなのは実に千年振りなのよ! 千年間、私たちは地下に潜ったように息をひそめて暮らしていたの。お酒はあっても歌も詩もダンスもないの。ねえ、想像できる? そんな宴なんてアルコールの入っていない烈酒みたいなもんよ。でもあの方、雨男がやって来て私たちに権利を取り戻してくれた。『しとしと歌う君』様が、千年ぶりに歌を歌ったの。ねえ、素晴らしいと思わない? 」
 彼女の言っていることは私には何のことやらわかりませんでした。千年も地下に潜った? 歌も詩もダンスもない? しかし私は彼らに否定的な内心を、気取られないように図った方がいいと感じ、なんとかかんとか微笑みを作って彼女に向けました。
 「そうね……。千年間、とってもつまらなかったでしょうね」
 「本当よ! 」
 少女は勢い込んだように言いました。私はこのかろうじて話の通じそうな、会話の相手の名前を知らないのは不便だと思いました。
 「あなた、お名前は何というの? 」
 「リコリスよ。あなたの方は? さっき雨男が呼んでいたけれど忘れちゃったわ」
 「ナータよ」
 そう教えるとリコリスはにっこりと微笑んで、歯医者さんで見かける、顎の標本のように整った歯並びを見せました。私もつられて微笑みます。
 不意に上座の方から、一際大きな嬌声と拍手が巻き起こりました。「しとしと歌う君」が雨男を膝から降ろして、すっと背筋を伸ばし立ち上がっています。その横では、リュートを構えた男女が、ねじれ合わせるように艶やかなパッセージを響かせています。
 「しとしと歌う君」が薔薇の唇を開き歌い始めました。
 それは私には意味の分からない言葉で囁かれる歌でした。まるで、故郷の町でまじない屋をしていた、古代人の生き残りだという老婆の、恋によく効くと評判の呪文のような響きの言葉でした。
 でもそれを聴いたとき私の脳裏に浮かんだのは、恋に関係する連想ではありませんでした。それは八月の農場でした。数か月の間強い日差しに照り付けられる大地は、何もしなければ土も草も森も麦も、からからに乾ききってしまいます。でもそこには近くを流れる川から引いた灌漑用水の、浸透式の細かく配置された管から、じわじわと水が注ぎ込まれているのです。
 その命の水を吹き込まれた土や草や木々の、喜びの歌のようなものを、また水そのものが彼らにかける愛情のようなものを、彼女の歌の中に聞いたのです。
 彼女の歌は宴の空気を潤し、人々の心を潤し、この私の胸まで潤しました。何時の間にか私も、八月の暑い日に窓辺で牛たちを眺めながら飲んだ、冷たいレモネードの香りが、胸いっぱいに広がってくるような気分になっていたのでした。
 「しとしと歌う君」の瞳は底知れず深く、涙を含んで深海魚の尾ひれのように揺れました。その藍色の双眸は、彼女の左側で頬杖をついて聞いている「雨男」の澄み切った眼に注がれ、二人はどこか別の国で、誰にもわからない言葉で心を交し合っているようでした。
 低いビブラートで歌が終わり、「雨男」は、意外にも高い背丈で立ち上がると、右手を「しとしと歌う君」に向かって差し出しました。それをしっかりと握り返して、「しとしと歌う君」もまた立ち上がります。そうして二人は神殿の奥の暗がりの方へ連れ立って消えて行きました。
 私はしばらく歌の余韻から起き上がれずに呆けていましたが、やがて我に返り、跳びあがって小走りに後を追おうとしました。大公妃殿下のお顔が頭にひらめきました。
 「止めなきゃ! 」
 しかしリコリスが私の腕をつかんで離しませんでした。
 「ねえ、ナータ、あなたも手伝って。お酒や料理を配るのに、給仕が足りないのよ」
 「ああ、でも雨男が……」
 「お二人の邪魔をしちゃいけないわ」
 「あの二人はどこへ行ったの?雨男たちは」
 「お二人なら密なる苔の臥所へ行ったわ」
 「臥所ですって! そんな不道徳こと許されていいの? 」
 「不道徳? 本気で言ってる? 選ばれた本物の芸術家が、『しとしと歌う君』さまと臥所を共にすることの何か罪なの? そんなことよりも、これから皆さんが呑み疲れて寝てしまうまで宴を張らなきゃいけないのよ。私たち侍女は三人しかいないの。あなただって宮仕えしているんでしょう? さあ、この酒器を持って」
 私は訳も分からないまま、半ば強引にそれを手伝わされることになりました。お酒を注ぐたび、焙った肉を配するたび、猥雑な手が伸びてきて私をひどく怯えさせました。
 夜が更けるまで私はお給仕に駆り出されて大忙しでした。やがて音楽がどうどうと注ぐ滝の音のような奔流になり、人々の笑いさざめきが風に打ち鳴らされる木の葉のざわめきとなりました。徐々に、仕舞には滑り落ちるように、私の意識は朦朧としてゆきました。そしてはっと目覚めたとき、私は宮殿に与えられた部屋で、夏掛け布団にくるまって、ベットに横になっていました。
 私はきょろきょろと見回してみました。何故? 何時帰ってきたの? 私は確かに神殿にいたはずだったのにどうして? そして、疑問点を一巡りした後で、あれは夢だったのだという結論に達しました。「雨男」の不審な行動に対する不安が見せた夢だったのだと。私はほっとして息をつきました。
 ところがベッドの上に置きあがった時におののきととも気づきました。私は夜の神殿に着ていったのと同じ、黒い仕事着を着たままでした。白い頭巾も、寝崩れて半分落ちかかっていましたが、しっかりとピンで挟まっています。そこにはお酒と獣脂の焦げる匂いがしみついていました。

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七月

 その日は朝から落ち着かない、気が進まない気分でした。昨夜のことは妃殿下にお話しするべきことなのでしょうか? しかし私は結局何も言いませんでした。
 お話すべきではないと決めたからには、妃殿下の御前で不審な態度をとる訳にはいきません。あるいは私は、若干の動揺や不安を顔に出したかも知れません。しかし大公妃殿下におかれましては、それをあえて問いただすようなことはなさいませんでした。私は人形のように無口で無表情になって、妃殿下にかしずきました。
 やがて午後の三時がやってきます。私はいつも通り厨房をたずねて、カトー料理長から牛のカツレツをはさんだパンとコーヒー、チョコレートを受け取り、宮殿の中庭に降りて「雨男」のいる仮設小屋へと向かいました。
 随分と複雑な気持ちがしたことを、つい昨日のことのように憶えています。早く行って「雨男」を問い質したい、自分のしたことの非を悟らせてとっちめてやりたい、そう思う一方で、駄馬が重たい積み荷の山を見て、途方に暮れるかのような気分でした。私はいったいどんな顔をして彼を見ればいいのでしょう?  
 私は乙女でしたので、男女の秘め事というものには全く耐性がありませんでした。「雨男」と「しとしと歌う君」の、水に沈んだ宝石のような眼差しを思い出すとき、蔓が絡まりあうように肉体におかれた手つきを思い浮かべるとき、体の芯が熱くなってキュッと締め付けられるような、ひどく座りの悪い気分になりました。まるでまだ知らない何かが喉元までせりあがって来て、世界を覆そうとしているかのようです。私は何をどう問い質そうというのでしょう?
 心の苦悩とは全く裏腹に、私の脚は庭園をサクサクと進みました。私が「雨男」のところへ向かうのは妃殿下のご命令なのです。気分次第で違反などすることは許されません。
 「雨男」はいつも通りノックからやや経った後、泣きそうに見える笑顔を作って顔を出しました。今日は手だけでなく顔まで絵の具まみれでした。そしてやはり汚れた手をぬぐいもせずにパンにかぶりつきます。
 私は自分から昨夜のことを問い質すのがはばかられて、しばらく黙って彼を見ていました。「雨男」は上機嫌でした。それ以外普段と全く変わらない態度でした。彼は男を知らない少女に、自分の秘め事を知られたという気まずさを、一切感じていないかのようでした。
 私が言葉を飲み込んで彼がパンを咀嚼しているのを見つめていると、「雨男」は怪訝そうな顔をして尋ねました。
 「どうかした? 」
 「ええ……」
 私は言い淀み、そしてどうにかこうにか見つけ出した、当たり障りのないような質問で、昨夜のことを尋ねてみたのでした。
 「昨日はよく眠れましたか? 」
 「うん」
 「雨男」は言いました。
 「宮殿のベッドはマットレスの質が違うね。俺はどうしても絵筆を握る右肩が凝ってしまうんだけど、ここへ来てから少しだけ調子がいいんだ」
 そう言って「雨男」は右の腕を肩からぐるぐると回しました。
 おそらく私は、辛子だと思って舐めたら蜂蜜だったような顔をしたと思います。「雨男」の言葉には昨夜の猥雑な宴の影が全くありません。彼ならば、きっと顔に出てしまうに違いないと踏んでいたのに。
 「何時に寝ているの? 」
 「大体十一時ぐらいかな。それより早いと寝付けないし、それより遅いと翌朝辛いんだ」
 「一回も目を覚まさないの? 」
 「うん。自慢じゃないけど眠りは深い方だよ」
 「雨男」は機嫌よくそう言って、カツレツをはさんだパンをもりもりと食べました。私は言葉を失いました。
 「雨男」は、昨日の夜十一時に宮殿の質の良いマットレスの上で寝て、今朝まで目を覚まさなかったというのです。昨夜は彼の方から私に声をかけたはずです。「ナータ、君も来たんだね」確かにそう言いました。それをいまさらしらばっくれることに意味があるのでしょうか?
 私が黙り込んだ後も、「雨男」は機嫌よくしゃべりました。どうやらここ一週間ばかり、制作の調子が非常にいいらしいのでした。
 「今日は嵐の叩きつける雨を描いていたんだよ。黒っぽい鉛色に沈んだ線と、地面から跳ね返る白い王冠みたいなしぶきを、五色の絵の具を混ぜて描いているんだ。なんだか心の中にイメージの滾々と湧き出る泉が出来たみたいなんだ。この流れのまま最後まで走り切りたいな」
 私は無理やりに笑顔を作ってうなずきました。
 「きっと良い絵になりますよ……」
 私がそう言うと「雨男」は、お姉さんに褒められた子供のように、顔をほころばせました。
 「そうだ、今日も頼むよ、ナータ……」
 そう言いながら「雨男」は、いまだにもじもじと恥じらい、澄み切った眼の周りをぽっと上気させて、赤い蠟で封をした手紙を差し出しました。私は作った笑みを顔に張りつかせながらそれを受け取りました。

 それから毎晩私は、夢だか現実だか分からない、不可解な状況に巻き込まれるようになりました。寝巻を着て自室のベッドの中で眠りについたはずの私は、気付けばしっかりと仕事着をまとい、あの神殿で行われる乱痴気騒ぎの給仕に駆り出されているのです。リコリスたちと一緒に猥雑に伸びてくる腕たちを相手に、酒を注いだり料理を配ったりしているのです。
 「雨男」は毎晩現れました。そして「しとしと歌う君」の膝に座り、やがて彼女と連れ立って消えてゆきました。そして翌朝目覚めれば、私は自室のベッドの中で、きちんと寝巻を着て布団にくるまっているのでした。寝不足は感じません。「雨男」も同様に、特段眠気なんて無いようでした。
 このことは何を意味するのでしょう? あの宴に現れる人々は、「しとしと歌う君」様は何者なのでしょう? 私は試しに昼間の神殿に行ってみました。入口の前には神職がいて、夜に松明を燃やした後がありました。中には飾り気のない木の長椅子が並べられ、神像には清らかな水と百合の花が捧げられ、床も壁も天井も清潔で、お酒や獣脂の匂いなど、間違ってもしみついてはいませんでした。
 私には状況を受け入れるという選択肢しかありませんでした。もし仮に、大公妃殿下へ事の次第をご報告するにしても、もっと詳細に事態を把握してからではないといけません。そうでなければ、余計にあのお方を悲しませることになるかもしれない。
 何はともあれ、私は事の真相への「しっぽ」をこの手に掴んでいるのです。自分の方からそれを手放してしまうことは愚かです。私はできるだけ宴の席で耳の穴を大きくしていました。交わされる会話を聞き取り、リコリスたちにさりげなく質問し、状況ががはっきりと判明するように心がけていました。
 私がことの「しっぽ」をいまだに手繰り寄せられないでいるうちに、どんどん夏が近づいてきました。「雨男」の製作は順調に進んでいるようでした。彼は絵の具まみれになって嬉しそうに私に状況報告をしました。どうやら絵は半分ぐらい完成したようでした。
 大公妃殿下と「雨男」は毎日一通ずつ手紙をやり取りしました。それは密やかにさりげなく続けられました。

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 七月になりました。ある暑い日、アブリ公女殿下がお茶会を開かれました。そこにはアブリ殿下の婚約者ルト様と、彼と親しい貴公子たち、令嬢たちが招かれました。
 お茶会は「矢車の間」で行われました。幾人もの着飾ったお客様たちが大公妃殿下に挨拶に訪れ、笑いさざめきながらゆっくりと、「矢車の間」へと歩いて行かれます。
 最後に濃紺色のモーニングを着たルト様が、丸太棒のような胴体に、リボンとフリルで飾った桃色のドレスを着こんだアブリ様の手を取って現れ、クマの浮いた表情で妃殿下の前に礼をとりました。アブリ様はしきりに、お茶会で供されるお菓子や軽食の話をしておられました。 
 会の間、大公妃殿下と私は、妃殿下の居間の革張りのソファーの上で、静かに刺繡をしていました。窓からは、真夏へと昇り詰めてゆくように晴れやかになって行く青空が見えます。気温はかんかんと高いのに、空気は乾いて爽やかでした。どこかからか、百合の香りが運ばれてきます。それは香水のように主張せず、気まぐれな風の合間に切れ切れに薫ります。
 妃殿下の居間は、淡い菫色の細密な刺繍壁紙で壁面を飾り、床には年代物の幾何学柄の絨毯が敷かれ、その上に東方趣味の螺鈿のテーブルセットや、豪奢な装飾を施された寄木細工の棚などが、うるさくならない程度に華やかに配置されています。テーブルの中央では大国で今はやりの、解けた氷のようなガラス工芸の花瓶に、百合やラベンダー、アジサイといった季節の花々が活けられています。
 手仕事というものは真に芸術的な人間ではなくとも、ある程度は楽しく打ち込むことが出来るものです。妃殿下は紅い薔薇に取り組まれ、私は百合の朱色の花粉を、布の上に再現しようと試みていました。
 「あの二人、どうなるかしら? 」
 ご自分で手刺繍されたクッションをずらして、妃殿下が不意におっしゃいました。
 「あの二人とはどのお二人ですか? 」
 「アブリとルト」
 「お二人は来年挙式をあげられるんでしょう? 」
 「その前にジュニの絵が完成するわ」
 私ははっとして妃殿下の藍色の目を見つめました。
 「妃殿下は、お二人が一緒になれないとおっしゃりたいのですか? 」
 「なれないじゃないわ。ならないのよ」
 私は不安が風船のように、心の中に膨らんでいく思いでした。私がそれに対しての感想を口に出せず、ただ茫然としていると妃殿下が続けられました。
 「アブリは油断し過ぎよ。何があっても自分には『別離』が襲い掛からないものと思い込んでいる。知性を磨くこともせず、美しさを保つ努力もせず、ただひたすら食べてばかりいる。そんなアブリにルトは嫌悪感さえ抱いている。あなたも気づいているはずよ」
 私は晩餐の席で、アブリ様が食欲を見せられれば見せられるだけ滞りがちになった、ルト様のナイフとフォークを思い出しました。
 「ですけど、ご婚約は八年も前から決まっています。ルト様は来年創設される、ハレの国軍の総司令官におなりになる予定ではないですか? 大公殿下のご意向を反故になさるなんて、ルト様にお出来になりますか? 」
 「わたくしの目には、ルトが何もかも捨ててもアブリから逃げたいと思っているように見える。栄達や一族の利害がもう何の留め立てできないほどに嫌気がさしているように見える。アブリは政治には向いていない。だから殿下は優秀なルトを選んだのに……」
 大公妃殿下と私は、しばらく黙り込んで手元の刺繡を見つめました。
 「やはり、あのような絵が完成しなければことは丸く収まるのではないでしょうか? ここハレの国が永遠の晴天に恵まれた国であり続ければ……」
 「ジュニは必ず絵を完成させる」
 渾身の力を込めて発した私の意見に、大公妃殿下は鋭く反論されました。
 「ジュニがどれだけの覚悟をもってこの絵に向かっているか。彼は命さえかけているのよ」
 「それは妃殿下と殿下に『別離』をもたらすためにですか? 」
 言ってしまってから私は、自ら放った鋭い剣のような言葉で、自分の心臓をひと貫きにしてしまったような心地になりました。それはずばりと核心をついているように思われて、だからこそ、それを何としてでも打ち消したくて、私はすぐに自らの言葉を否定しました。
 「いいえ、申し訳ございません。出過ぎたことを申しました。そんなはずございませんよね、私の思い違いです。そうですよね、そうに違いませんわよね、妃殿下? 」
 「ええ、ええ、そうね……。ナータは少し飛躍しすぎだわね……」
 妃殿下はそう言葉を濁されました。私たちの言葉は死病を得た人間の前で、来年の楽しい予定をさも当然その病人も迎えるかのように、にこやかに話す態度に似ていました。そこにあるものを、二人して見ないふりをしました。私にそれ以上何が出来たというのでしょう?

 手紙を運ぶ役割は、私の胸になおさら重たくのしかかるようになりました。やはり私は、重大な不義の片棒を担がされているのです。
 私は激しく思い悩むようになりました。足元から重力がひずんで、体の比重がおかしくなってきそうなぐらいでした。ところが、とても眠れそうには思えないほど悩んでいるはずが、義務的に着替えて、寝床に横になって瞼を閉じた途端、私は即座に眠りに落ち、あの放埓な宴の場で給仕に駆り出されているのでした。
 私は苦心して、断片的ではあるものの一定の情報を集めました。
 まず知ったのは、目のやり場に困るほど放埓な様子の宴の出席者らは、自らを「澱の下の者たち」と呼んでいるということです。そして次に知ったのは彼らが、「太陽の番人」(リコリスによれば彼らは、白大理石を荒っぽく彫りだしたような、四角四面の男たちだそうです)と呼ばれる人々から、千年にわたる圧政を強いられてきたということです。
 「澱の下の者たち」も「太陽の番人」も、具体的に何を意味しているのかは分かりません。ただリコリスたちの言葉をかいつまんで言うと、(大体にしてその話に、そこから要点を摘み取らなくてはいけないほどの細部など、ほとんどありませんが)、つまりはそういう迫害の歴史となるのでした。
 千年前、突如攻め入ってきた「太陽の番人」は、「澱の下の者たち」の象徴、輝く月、潤す水ともいえる「しとしと歌う君」を石櫃に封じ込め、「澱の下の者たち」の力を圧殺ました。そして「澱の下の者たち」の楽しみを一切禁じ、陽の光を見ることはおろか、夜に灯りをともすことも禁じたのです。そしてまるで何かの罰のように、わずかに与えられる酒を前に歌おうとしても、詩を詠吟しようとしても、彼らにとって何よりも大切な、美しいものが湧き出してくる心の泉に栓を詰めたように、全く興が浮かばないようにしてしまったのでした。「太陽の番人」は彼らの「心」をも殺してしまったのです。
 それは「澱の下の者たち」にとって、なかなかに耐えがたい状態だったようです。リコリスはこう言うのです。「私たち千年間、まるでお通夜の席で故人をしのんで吞んでいるみたいに宴を張ったのよ」
 そこへやって来たのが「雨男」です。彼は「澱の下の者たち」復活を切り拓く明けの明星となったのでした。彼はこの国に着てすぐに石櫃を探し始め、ほどなくそのありかを探し出し、暗黒の石櫃をこじ開けて、「しとしと歌う君」を救い出しました。そして、「澱の下の者たち」のシンボルにして女王である彼女の寵愛を、頭から噴水を浴びる幼子の像のように、一身に授けられているというのです。
 そして彼がそんな特権的な立場に居られる理由というのは、彼が画家であり、芸術家であるからなのでした。千年よりずっと昔には、「しとしと歌う君」は詩人なり舞踏家なり役者なり、その時代の優れた芸術家たちに寵愛を与えて、インスピレーションの泉をこんこんと湧き立たせていたというのです。
 普通ならとても信じないような話です。ところが現に私はこうして今夜も、「澱の下の者たち」の宴に駆り出されているのですから、どう厳しく考え直してみても、そこには一定の真実が含まれていると言わざるを得ません。
 リコリスは言います。
 「詩歌や舞踏、神業の絵ほど心を開放するものはないわ。あなたもあと二月三月ほどすれば心から解るようになる」
 私はうなずいて微笑みます。リコリスにもいかにもうれしげな表情に見えたでしょう。彼らにとっては芸術というものがとても大きな比重を占めた存在であって、私のような普通のハレの国民にとっても、それが同様だと思い込んでいるようでした。
 でも、そんなふうにほほ笑むには、自らを突き刺すような痛みを伴います。「雨男」の絵が完成したとき、果たして「雨男」と妃殿下はどうなってしまうのでしょう? 考えれば考えるほど、天に逆らい、地を汚すような不道徳な結果が思い描かれます。 
 そして私自身も自分の行動に、どんどん自信が持てないと感じるようになってきました。現実に雨が降り、もめごとや別離が幅を利かせ始めたら、私は恥ずべき行動をとるかもしれません。
 心の深い所で、赤エンドウ豆の煮汁のように、赤茶に濁った感情がふつふつと煮だっているのを感じるのです。それは昼間、「雨男」が大公妃殿下からの手紙に口元をほころばすとき、夜、「しとしと歌う君」の膝の上に「雨男」がいるのを見るとき通低音のように、妃殿下や「しとしと歌う君」を呪い続けているのです。
 私は真っ二つに引き裂かれていました。心の半分では、これまで通り絵が永遠に完成しなければいいと願っています。でももう半分の私は、あきれるほどのほどの熱心さで、「雨男」が絵を完成させんとする様子を、幼い弟が伝い歩きする様を見守る、歳の離れた姉のように注視するのでした。

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太陽の番人

 ある晩のことでした。私はその夜も「澱の下の者たち」の不埒な宴の給仕に駆り出されていました。出席者たちの嬌態はいつもにもまして野放図で、その体臭はいつにもましてあけっぴろげでした。ここひと月もの間で、彼らはどんどん私の道徳心からは、かけ離れた存在となっていくようでした。「雨男」は今夜も「しとしと歌う君」の膝の上に座って、白壁に蔦が這うようにぴったりと体を沿わせています。
 汚らわしい、そう吐き捨てたいだけではなく、胸に焼きごてを当てられたように感じるのは、何故なのでしょう?
 私が五杯目の甕に酒を酌んで回り始めたとき、不意に重苦しい沈黙が広がりました。皆凍り付いたように歌やおしゃべりをやめ、盃を卓に置いたまま、背筋を怒らせて入口の方を睨みつけています。私も酒を注ぐ手をとめてそちらに目をやりました。
 見慣れない人が五人ほど、木戸の枠に手を掛けるようにしてのぞき込んでいました。彼らはみな背の高い男性で、純白の長衣をぴったりと体に巻き付け、余分な肌が出ないように装っていました。その顔立ちは知的で、よく訓練された犬のようなたたずまいです。
 私には「澱の下の者たち」の沈黙が、ただ嫌悪感に満ちているというだけのものではなく、ひょっとすると、今にも切りかかって喉笛をかき切ってしまうほどの、激しい憎しみをはらんでいるかのように感じられました。敵意が彼らのまなざしから、鋭い剣の切っ先のように、ひらりひらりと襲い掛かるのさえ見えたような気がしました。
 「いかなる理由でお出まし? 『太陽の番人』たちよ」
 いつも「しとしと歌う君」のすぐ下座に座っている赤毛の女性が、アルトの声に氷のような冷たさを隠すこともなく尋ねました。
 「理由はただ一つだ。我らはただそなたらの女王に詫びを言いに来たのだ。今後我らがそなたらの楽しみを邪魔することは一切ない。あの御仁もそう断ってこられた。こ奴の絵が完成すれば、ハレの国は雨も諍いも別離もある、普通の国になる」
 広げた手のひらで「雨男」を指し、そう答えたのは一行の中で一番背の高い、短い金髪の人でした。その、のみで彫りだしたような眉骨には、あまり感情というものは浮かんではいませんでした。反対に、その言葉を聞いていた四人の「太陽の番人」の顔には、悔しさがさっとにじんだようでした。とりわけ茶色い髪を短く刈った男性は、一瞬歯をかみしめたようにさえ見えました。
 金髪の人は「しとしと歌う君」の前に進み出ると、跪いて深々と頭を下げました。他の四人もそれに従いました。「澱の下の者たち」は冷たい沈黙を守りました。凍り付いたように固まった表情の中で、様々な色の眼だけが宝石を炎にかざしたかのように、かっかっと燃えていました。千年間に積もり積もったその恨みが、私の息遣いさえ重苦しくさせました。
 誰一人応えないと分かると、「太陽の番人」たちはあきらめたように、黙って戸口から出てゆきました。
 彼らの白い影が濃密な夜の闇に消えてしまうと、思い出したように「澱の下の者たち」は騒ぎ始めました。足を踏み鳴らし、酒器を打ち鳴らし、恨みとあざけりの混じった地声を張り上げ、濁った奔流のように歌いだしました。
 「雨よ降るなら早く降れ
 心にたまった膿を出し
 土砂降り雨で洗おうよ
 雨は流すよ全ての毒を
 心を汚すものすべて」
 繰り返し繰り返し、彼らは怒鳴る勢いで歌い続けました。その激しさに、私は思わず酒器を放りだして、両手で耳を塞ぐとしゃがみこんで目を閉じました。そこに黙って立っていることが危険に思われるほど、その興奮はすさまじいものだったのです。
 「勝った、勝ったぞ! 我らは勝ったのだ! 」
 一際体格の良い、黒い髭もじゃの男が叫びました。「澱の下の者たち」は息をそろえて両手を天に突き上げると、けだものが月に向かって咆哮するような声で吠えました。
 その興奮が不意にぴたりと止みます。耳から両手を外して、私は恐る恐る顔をあげて見ました。「しとしと歌う君」が立ち上がり、両手を掲げるようにして歌を歌い始めていました。その歌われる言葉はいつも同様、古いまじないのように私には意味の分からないものでした。
 それなのに今夜はその歌はいつも以上に輝かしく、いつもよりもっと陶酔に満ち、この夜のさなかに、闇を照らす月光のさらに遠い宇宙から、太陽までもが祝福の光を浴びせかけてくれていると思われるほどでした。
 底知れぬ藍色の目はプロミネンスの熱量で燃え、彼らに属さないこの私でさえ、意味も分からぬままに鳥肌が立ってくるのでした。心の中に水が湧き、きっちりとはまっていた重たい蓋が、激しい水圧に持ち上がりそうになります。私はしゃがみこんだまま眼に涙をため、ただ茫然とその歌を聴いていました。
 やがて歌の最後のフレーズが放たれ、「しとしと歌う君」はその唇をそっと閉じました。そこには長い冬を耐え抜いた先で花開いた、春一番の薔薇のような微笑みが浮かんでいました。「しとしと歌う君」の瞳は今度は、光降り注ぐ湖のように揺れて輝きました。
 そして彼女は今夜は自分の方から「雨男」に向かって右手を差し伸べました。彼女の脇で頬に右手を当てて聞いていた「雨男」も、立ち上がって彼女の手を取りました。
 「雨男」の目は神聖な泉の水のように輝き、どうしてか、私は彼が、遠いところへ行ってしまったかのような気持ちになって、苦しくなりました。二人は誇らかに、つないだ手を高く掲げるようにして、いつもの様に神殿奥の暗がりの方へと歩いてゆきます。
 二人のまなざしは、花と蝶、風と鳥、または降り注ぐ日光と青葉。親密に交流して音に聞こえない歌を歌っています。それを見る私の胸は締め上げられたように痛みました。何か途方もないものを失ったような気分になり、眼はくらみ、爪の先からは血が引いてゆくような心地がしました。私はしゃがみこんだまま立ち上がることが出来ませんでした。
 また思い出したように「澱の下の者たち」の興奮が始まりました。甲高い声を天に向かって突き立て、手を打ち足を踏み鳴らし、彼らは勝利という名の酒に酔いしれています。その美酒は、千年間の鬱憤の重い分、香り高く喉に心地よいものなのでしょう。
 「ナータ、立って」
 リコリスも私の右手をつかんで立ち上がらせました。黒い宝石のような瞳の周りは林檎のように赤く、顔にはまさに「破顔」と呼ぶのがふさわしい、大きな笑顔を浮かべていました。
 「勝ったわ、勝った、私たち勝ったのよ!  自由よ、これで自由よ! 」
 そう言うと彼女は、私の両手をとって嬉しさにくるくると回りました。その回転は私のめまいを一層激しくしました。
 私どうしてしまったというのでしょう? こんな苦しい気分は初めてです。それなのに理由が一つも思い当たらないのです。私はいったいどうしたというのでしょう?
 リコリスがはしゃぎながら同輩たちの元へと駆け寄ろうと手を放すと、私は力なくうずくまりました。そしてそのまま目を閉じると、いつもよりも一二時間ほど早く、意識が朦朧としてゆくのを感じました。

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 翌朝、目覚めた私を襲ったのは、山が崩れ、我が家が押しつぶされてしまったのを眺めるようなむなしさでした。起きて身支度しようにも、心の半分が壊死したようになって、体に力が入りません。私は体調不良を理由に、今日のお勤めをよっぽどお休みにしようかと思いました。しかし、やっとの思いで身支度を整えると、私はいつものように大公妃殿下のお部屋へと向かいました。妃殿下は私の顔色を見て心配なさいましたが、私は無理矢理に笑顔を作ってお勤めを続けました。
 やがて午後の三時がやってきます。「雨男」のところへと向かう時間が。
 乾いた暑い真夏の午後でした。見上げえれば大きな雲の塊が、半分灰色に色を落としながらそそり立っています。「雨男」が言うには外国では、それがどんどんと膨らんでゆき、鉛色や赤銅色にに染まって、「雷」というものを伴った、すさまじい雨を地上にもたらすというのです。そうです、「雷」です。それはいったいどれほど恐ろしいというのでしょう?
 でも今その雲は、空のやや低い所に風の渡る速度で、海底に影を落としながら浮かぶシロナガスクジラのように移動しています。芸術というものを知らない私にも、本物の「音楽」というものが聞こえてきそうな平和な眺めでした。私はただ泣きたくなりました。
 ノックのやや後、顔を出した「雨男」の顔色は明るく、何時になく気分がよさそうに見えました。その透き通った真っ直ぐな目を見ていると、昨日から折触れて訪れるめまいが私を襲いました。私の体がふらつくのを見た「雨男」も、ずいぶん私の心配をしてくれました。
 「ナータ、具合が悪いときはお休みしたっていいんだよ。顔色が真っ青じゃないか」
 「ちょっと眠れなかっただけよ。雨男さんは元気そうね。昨夜はいい夢を見れたのかしら? 」
 「雨男」はまだ心配そうに私をのぞき込みながら、ちょっとだけ眉をあげました。
 「どうして分かったんだい? 昨夜はこの作品を仕上げるうえで、とても重要なインスピレーションが湧くような夢を見たんだ。浄化の雨が蕭々と降り注いで、この地の停滞や汚れを、すべて洗い流すような雨が、確かに夢に見えたんだよ」
 「じゃあ後は、そのイメージを再現するべく、ひたすら絵筆を動かすだけなのね」
 雨男は太い眉を寄せ、目じりを下げたあの泣きそうに見える笑顔を浮かべてうなずきました。私ももはや制服と化していたような作り笑顔を浮かべ、それで泣きたい気持ちを覆い隠していました。でもどうして? どうして私は泣きたいというのでしょう? 
 私の心の中は、今「雨男」が悩みつつ色を混ぜている、パレット上の絵具のようにぐちゃぐちゃです。怒りの赤も、悲しみの青も、喜びの黄色も、慈愛の緑も、そして、嫉妬の紫も、もう分かちがたいほど混じり合って、衝動のままカンバスに叩きつけられるのを待っています。そうなってしまえば、私が今までに積み重ねてきた、善良なハレの国民としての功徳は台無しになってしまうのです。そうです、それが行われるのは、「雨男」が絵を完成させる時だと解っています。
 「ねえ、どうして、雨男さんは雨の絵を描くようになったの? どうして月や太陽や青空や、花や鳥や可愛らしい羊ではだめなの? 」
 この質問はこの三か月もの間、何故か散々迷ったまま口には出せずにいた言葉でした。私はそれを、さも今思いついたことのように尋ねたのです。
 「どうしてかな……」
 迷惑がる様子もなく、「雨男」は素直に答えを言いかけました。
 「最初は俺もいろいろな絵を描いていたんだよ。雨はその画題の一つだったんだ。それがいつのころからか、雨の持つ多彩な表情に魅了されるようになって……。ナータは知らないんだよね、雨にはいろいろな種類があるって。しとしと降る雨に叩きつけるような豪雨、お日様が照っているのに降るお天気雨や、氷交じりの冷たい雨、俺は試しに例としてここに四種類上げたけど、本当は雨は一つとして同じものはないんだ。一日一日、一雨一雨、更にはその時間帯ごとに様子が異なっている。その奥深い魅力にすっかりはまってしまったんだよ」
 「それで雨の絵ばかり描くようになったの? 」
 「うん」
 「じゃあ何で、雨男さんが雨の絵を描くとそこには雨が降るの? 」
 「雨男」は難しい顔を作りました。
 「何でだろうな? いや、俺にもはっきりとしたことはわからないんだ。ただ描くべきときははっきりと、ここには雨が必要なんだってわかる。そして描いているうちに、何か大地と天と体との間に、一方通行じゃない川が流れているような心地になって、そうやって絵が完成したときには、そこにはどうしてか雨が降るんだよ」
 「雨男」は絵の具まみれの手を握ったり開いたりして見つめていました。
 「ここハレの国には雨は必要? 」
 「是非とも必要だね。今までで一番、野や山や人の心が雨を欲しがっている。ナータ、水は飲めればいいってもんじゃないんだ。農作物が枯れなければそれでいいってもんじゃないんだ」
 「私は……」
 私の声は震えていたと思います。何者かが内側から、心の奥底の重たい蓋を持ち上げて、その細い隙間から、今まで一度も明かりを当てられたことのない感情が溢れ出てきます。
 「このままがいい……、雨なんて永遠に降らなければいい、諍いも別離も戦争もない、楽園の住人のままでいたい。あなたは妃殿下を奪うために、この地の自然をゆがめようとしているのではないの! 」
 私は「雨男」の澄み切った眼に、涙の気配が浮かぶのを認めました。それは彼がただ歳の割には老成していない大人であるというだけではなくて、人の痛みを感じ取る心や善悪を区別する心、自らの罪について感じ入ったり恥じ入ったりする心さえ、人一倍持ち合わせているのだというとを知ることが出来るような、痛みに満ちた表情でした。
 「ごめんなさい、言い過ぎました」
 私は途方に暮れていました。私は本当にこんなことが言いたかったのでしょうか? 彼に問いただすべき言葉は本当にこれでよかったのでしょうか? 一体何が私の心をこんなにも攻撃的にさせているのでしょう?  
 「雨男」は深くため息をつきました。そして、暗がりを一歩一歩確かめて歩くように、慎重に言葉を選んでこう答えました。
 「エヴァ様と知り合ったのはまだ俺たちが君ぐらいの歳のころだったよ。一目見て自分が今運命に出会ったのだと知ったんだ。本当に美しい人だと思った。あれから何人もの女性を愛したけど、いつもその向こうにはエヴァ様がいた。だからここで絵を描かないかと言われた時、とうとう自分にその時がやって来たんだって思ったんだ。
 もちろんトロイ様も好きだよ。あの方は友達だ。でも、俺は自分も自分をまきこむ運命も、もう何もかも止められないんだ。誰かを深く傷つけてもエヴァ様が欲しい。この国に降る雨の向こう側にエヴァ様がいる、その雨と俺の芸術は一体なんだ。俺の外にあるもので、同時に俺の中にあるものでもある。その向こう側のエヴァ様も、同時に、俺の中のものであって俺の中のものではない。
 俺は悪いことをしているのかな? いや悪いことをしているんだろう。でもナータ、人の心というのはどんなに深い海よりももっと深いんだ。その中には、時には顔をそむけたくなるような醜い魚がうようよ泳いでいる。でもそれもひっくるめて、その醜い魚がいるからこそ、海は豊かに波打つんだ」
 私にはそれに答えられる言葉がどうしても出てきませんでした。ただ微笑んで、一生懸命目の中に湧いてくる涙と戦っていました。熱い風が吹きつけると、瞳にためたものが揺らいでこぼれてしまいそうでした。
 そのときもまだ、こみ上げる涙の意味を知ることはできませんでした。ただこの世が、望んでいる世界とはかけ離れた世界であるということだけは、はっきり知ることが出来ました。宮廷でも、夜の神殿でも、「雨男」の仮設小屋でも、私はただ与えられた役割に忠実なだけのわき役でした。
 だから、私は今日も託された妃殿下からのお手紙を差し出します。手紙を渡すときにわずかに触れた指先から、花火で手を焼いてしまったときのような痛みが走りました。「雨男」は、本当に目に涙を浮かべんばかりになって、妃殿下の流麗な筆跡で書かれた名前の上をそっと撫でました。
 見上げれば先ほどそそり立っていた雲の塊は吹き渡る風に、ぐしゃりと割れた卵のような形に崩れ去って、吹き散らかされていくところでした。私は溜息とともに立ち上がりました。

 私が妃殿下の元に戻ると、妃殿下は大公殿下から御依頼されていた、隣国の王妃への親書を書き終えたところでした。私は封をしたばかりの親書をもって、大公殿下の元へと届けに行きました。
 お部屋の前でノックをしようと手の甲を翻したとき、殿下のお部屋が中から開いて、数人の男の人たちが現れました。彼らは背の高い短髪の人々でした。
 その顔立ちを見て私はぎょっとしました。彼らは現代風の背広やスラックスを着て、流行のネクタイを締めてはいましたが、昨日の晩夜の神殿に現れた、白い長衣をまとった「太陽の番人」に間違いありません。
 一番前でドアを開いていたのがのみで削り出したような眉骨をした金髪の人で、一番後ろに付き従っているのが、一番悔しそうな顔をしていた茶色い髪の人です。私は硬直し、身震いしながら一歩後ずさりました。
 彼らは私のことは何にも気に留めないような様子で、振り向いて室内の殿下に向かって「ごきげんよう、末永くお幸せに」と別れの挨拶を述べました。そして伝説中の騎士のように厳かに会釈をして、宮殿の廊下の奥へと消えてゆきました。
 私が扉の前で立ちすくんでいると、中から殿下がお声をおかけになりました。
 「ナータ、そんなところで何をしてるんだい? 」
 私は弾かれたように背筋を正してお部屋にお邪魔すると、恭しく預かり物の親書を差し出しました。殿下は体も重たそうに、椅子に深く腰を掛けながらその宛先を確認されました。
 「殿下、今の方々は……」
 殿下はさして興味もなさそうに、手紙の宛先から目も上げずにおっしゃいました。
 「ああ、古い取引先の方々だ。もうここを尋ねてくることもない」

 その晩十時、普段の何倍もの疲れをを憶えながら、妃殿下のお部屋を辞して自室へと戻ろうとすると、メイド長のミーネさんから声を掛けられました。
 「ナータ、お手紙が届いているわよ」
 私は一通の手紙を受け取りました。それは地元の高等学校を卒業したばかりの、一番上の弟からのものでした。私は着替えて髪をほどき、すっかり眠る準備をしてから、机上のスタンドの灯りでそれを開いて読みました。

 「親愛なる姉さんへ。
 こんにちは。姉さん。お元気ですか?宮廷でのお勤めは辛くはないですか? お仕事の上に勉強までされていて、体に無理はかかっていませんか? 
 姉さんは真面目な人であるがゆえに、誰にも寄りかかることが出来ないという弱点があります。それが小さいときから見ていた僕には少々心配なところです。僕のほうは元気です。元気で元気で叫びだしたくなるくらいです。目の前の道が急に開けたのです。
 今日は僕の輝かしい進路について報告したいと思っています。まず言い切ります。僕は大学へ行きます。何と、進学は可能なんです。一体どんな学校だと思いますか?
 それは今年度から新設される、国立軍事大学なんです。何と、国からの補助で、僕の成績だと授業料は無償になります。入学金もほんのちょっとで済むんです。お母さんもこれなら助かると言っています。イリーもルーイも喜んでくれています。
 軍事大学なんて、軍服を着て一日中ほふく前進をしているイメージしかなかったのですが、説明会に行って認識が改まりました。物理や歴史学や気候科学など、座学も十分に充実しています。特に僕が興味を持っている地理学の分野は、普通科大学よりも進歩的であるくらいです。
 もちろん兵士になるための学校ですから、肉体的に厳しい修練も当然あるでしょう。でも僕はもともと体を動かすことが好きだったし、陸上競技でも水泳でも学校の代表になれるくらいだったのを、姉さんも覚えているでしょう? 肉体の修養は精神の修養、それくらいにとっておいて損はないと思います。
 その上、軍務に就くにあたって、軍事大学を卒業した者は、即幹部候補生です。給与の面、将来的展望の面から見て、僕は実にいい選択をしたと思っています。
 僕は空軍科を志望しています。機械の類も、僕がお父さんの草刈り機をいじるのが好きで興味があったのを憶えているでしょう? 自分の体のように、戦闘機を操縦することを想像すると、わくわくと心が湧いてきます。
 姉さんが定期の休暇で家に戻り、僕が最初に帰省する年末には、僕の凛々しい制服姿を見せられると思っています。とても美しい制服なんです。楽しみにしていてください。
     あなたの愛する弟 ドニーより」

 私は意気揚々とした元気な字体から眼をあげました。不安が心の中に吹き荒れる風に、風車のように回っていました。
 弟が、弟が兵士になる、人を殺し、殺される兵士になる……。将来ハレの国が戦争に巻き込まれれば真っ先に戦闘機に乗って、敵の戦闘機と壮絶な撃ち合いを演じることになるのです。今にも真っ赤に火を吹いた弟の機体が、真っ逆さまに落ちてくるのが目に浮かんでくるようです。
 どこかで聞いた声の悪い鳥が、またその耳障りな声で鳴きました。強い風が吹くと、それに腹でも立てているみたいに、鳥はギャーと一声鳴いてぱったりと音が絶えました。虫の声だけが相変わらず静かに響いていました。机の上のスタンドライトの灯りがちらちらと揺れました。
 私は広げた弟の手紙をたたむことが出来ませんでした。

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苦悩

 その晩は夜更けまで悶々として寝付けませんでした。
 明け方近くようやく訪れた浅い眠りの中で、私は恐ろしい夢を見ました。美しい故郷の町やまきばに、いつか見た戦争映画のような焼夷弾が降っているのです。可愛らしい赤屋根の家々や風通しの良い農園に、オイルを撒いたような勢いで炎が燃え広がってゆきます。三階立ての家の窓から助けを呼んでいるのは、小学校から一緒だったお友達でしょうか? まきばに遊んでいた牛も羊も悲劇的に尾を振り回して、瞬く間に広がっていく炎に向かって無力な悲鳴を上げています。もうそこはあの平和で美しい私の故郷ではありませんでした。そこは死に絶えた町でした。
 私は距離的に離れたこの宮殿での災禍も同時に夢に見ました。夜空に閃光が走り、轟音ととも屋根や壁が崩れてゆきます。雅な天井画も、ネモフィラをモチーフとした蒼い壁紙も、銀の燭台も妃殿下のお部屋の刺繍壁紙も寄木細工の戸棚も、解けかけた氷のようなガラス花瓶も、全てが悪夢のように崩れ去ります。石材の砕けるきなくさい臭いの立ち込めるそこは、まるで野で死んだ狼のあばら骨のような無残な廃墟でした。
 愛した土地の惨状を目にしてなお、私は無傷で立っていました。煤で汚れた頬を涙で濡らしながら見上げれば、雄々しい一機の戦闘機が真っ直ぐと空を飛んでゆきます。あれには弟が乗っています。すぐに前方から敵機が現れ、頭の芯に響くような音で弾丸を連射します。真っ赤な尾の彗星のように火を吹いて、弟の機体が落下します。両手を広げたような形の羽根がひらひらときりもみされてゆくのを見ながら、私はあらん限り声を張り上げて、弟の名前を呼びました。機体は地上にぶつかって世界は血のように輝き、そこでようやっと目が覚めました。

 目が覚めるや否や、私は震えて泣きました。頭が痛くて起き上がれず、私が朝食に降りてこないのを心配して部屋にやってきたミーネさんに、具合が悪いことを伝えました。ミーネさんは言いました。
 「ナータ、今日はお休みするべきよ。妃殿下にはそうお伝えしておきますからね」
 私はミーネさんが運び込んでくれたレモンジュースを飲んで、午前中いっぱいベッドで休んでいました。
 その日は前日よりもいっそう暑い日でした。物の輪郭が埃っぽくかすむ、ハレの国の真夏でした。その年まで、この国では「夏」という季節イコール、乾燥を意味していたのです。
 窓から風は吹き込んでいましたが、それはからからに乾いた熱風で、私はしばしば起き上がっては水差しの水を飲みました。昼を過ぎると、じっと寝ているのにいよいよ暑さがやり切れなくなり、頭痛もいくらかは収まってきたため、私は起きだして顔を洗い、私服に着替えて部屋を出ました。どうしてそこへ行こうと思ったのかは分かりませんが、どういう訳か足は神殿へと向かっていきました。
 昼間の神殿は、本来そうであるべきの、清らかで静謐で厳かな空気で満たされていました。酒の匂いも獣脂の焦げる匂いもしない、薔薇の花の代わりに百合の花が薫り、詣でる人々の鳴らす鐘の音が響き、祈りの重さが空気に満ちて密度が高くなっていくような、まさに聖なる場所といった趣でした。
 祭壇の前には城外から、参拝料を払って詣でに来た市井の人々が幾人もぬかずいていました。両脇には頭に高い帽子をかぶった神官様も立っておられます。人々は恭しく神様にお願いをしていました。皆自分と神様が特別な絆で結ばれていると信じているようでした。多くの目を持ち多くの手を持つ神様は、思い悩む人々のすべてに心を行き届かせるのです。私は祭壇の前まで進み出ることに気後れして、長椅子の上に座ってじっと手を合わせていました。神様の前で心の内を語りかけていると、自然と涙がにじんできました。
 何故、何故、どうして? 私は私の苦境を問いかけに込めて訴えました。どうして、私を苦しめることがこれほどまでに続くのでしょうか? 悩みの生傷に塩や胡椒をすり込むようなことがどうしてこんなにも……。もう一生、かつてのように明るく笑うことが出来ないような気がします。
 私は浮かんでくる涙を瞬きでごまかして、祭壇を見つめました。神様の御像は温かく微笑んでおられましたが、どう考えても私は神様のご加護の網の目からは滑り落ちているのです。多くの目も手も、私の濡れた頬に触れると見せかけて、誰か違う人の頬に祝福を浴びせるのです。 
 ふと気配を感じて右脇に目をやると、何時の間にか体の大きな男の人が座って私を見つめていました。その茶色い短髪と、同じ色の犬のように賢げな目に、私はぎょっとして跳び退りそうになりました。彼は「太陽の番人」の中で一番悔しそうな顔をしていた人でした。彼は大公殿下の部屋を出て来た時と同じ、茶色い背広を着て、黄土色のストライプ柄のネクタイを締めていました。
 「もし、夜の神殿におられたお方でしたか? 」
 そう、「太陽の番人」は問いかけました。
 「何のお話ですか」
 私の髪の毛は随分逆立ったことでしょう。眼は吊り上がっていただろうし、そこには赤いシグナルのように警戒心がまたたいていたに違いありません。自分でも表情筋という表情筋がこわばっているのがよく分かりました。
 「いえいえ、何もあなたをとっ捕まえてどうこうしようという意図は私にはありません。ただ、お悔しいのではないかとね」
 私は表情を凍らせたまま彼を直視できずに、そのストライプのネクタイのあたりを見つめていました。「太陽の番人」は続けます。
 「ええ、お口には出さなくとも、私どもは解っています。この国の国民たちは皆不満です。なぜ今の穏やかな暮らしを捨てて、獰猛な雨や無慈悲な雪や、心を傷つけるもめごとや別離を招き入れようとするのでしょう? それは、あまりにひどい、後々の代までたたり続ける失政ではないのでしょうか? 」
 私は黙っていました。
 「あなたは雨男の絵など完成しなければいいと思っているはずです。でなければ、この昼の神聖な神殿で、祈りをささげに来るはずがありません」
 「大公殿下のなさろうとすることに、わたくしなどが異論を持つはずなどございません」
 「それは嘘ですね」
 「太陽の番人」は鼻でせせら笑い、その、犬が人間を見下すような目で、私のこわばってしまった目を覗き込みました。
 「では何故、ここで涙などためて祈っておられる? 何故、我らが敗北を認めてから、一層苦しんでお勤めを休まれたのです? 全てあの男が憎いからではないのですか? 」
 私は否定しようと思いました。私は「雨男」を憎んでいるわけではない、それはきっとボタンの掛け違いで、とても不運で不幸な何かなのだと言いたかったのです。でも喉がカラカラで息さえ漏れませんでした。
 彼の言う通り、私は本当は「雨男」が憎いのでしょうか? 確かにあの男の前にいると鼓動がかき乱されて、息が苦しくなります。それは彼を憎んでいるからなのでしょうか? 私には憎いという感情が分かりません。かつて一度も人を憎んだことがないはずです。この苦く痛みに満ちているのに、どこか甘美な感情が、その「憎しみ」だというのでしょうか?
 大公妃殿下からのお手紙を受け取るときの「雨男」の目つき、「しとしと歌う君」と連れ立って出ていくときの艶っぽい後ろ姿、私に関わりなく幸せそうな「雨男」の姿を見ていると、私はたまらない気持ちになります。それは彼を憎んでいるからなんでしょうか? 憎しみとは何なのでしょう? 私には解らない……。
 「太陽の番人」はまた続けました。
 「我々はもう公然とあの男を止めることもできない。殿下のご意志は固い、『しとしと歌う君』は完全に開放された。であるから、私はあなたを頼って声をかけているのです。ねえあなた、あなたは心の奥底の蓋が開きかけていますね。あの女の歌を何度も聞いたからなのかな。そうです、あの男があの女と同衾さえしなければいいのです。ねえそうでしょう? そうすればあの男の絵は完成しないままうっちゃられる。これはあなたにしかできないことです。そのために、あなたのお力を是非ともこいねがいます」
 そう言うと「太陽の番人」はポケットの中から透明な小瓶を取り出しました。それには病院でもらうような白い粉薬が入っていました。
 「これをあの男の口にするものの中にお混ぜになってください。いえ、大丈夫です。毒ではありません。これを飲めば、あの男はあの宴には行けなくなる。したがって絵は描くことが出来ずに、製作は中断になる」
 私は黙って震えていました。この男は何ということを私に強いろうとしているのでしょう? 私の指先は拒んで震えました。それなのに「太陽の番人」は、私のこわばった右の手指を一本一本開くと、無理やり小瓶を握らせてその上から冷たく大きな手でぎゅっと包みました。そしてそれをゆすぶって勝ち誇った顔で笑いました。
 「お頼みしましたからね、是非にやり遂げてください。あなたには断るいわれがないでしょう? 」
 そう言い残すと「太陽の番人」は私の両手を包んでいた手を放しました。そして席を立ち、祭壇に会釈を投げながら出てゆきました。
 私は手の中の小瓶をじっと見ました。私の手指はかじかんだように震え、硝子の表面はかいた汗で、はっきりと分かるほど濡れていました。
 一体どうして、「雨男」にこれを盛らないといけないのでしょうか? これが毒ではないという保証はどこにもないのです。もしこれを飲んだ「雨男」が苦しんで死んだら、私はどんな罪を背負うのだというのでしょうか? それに、たとえいくら死なないからといってそんなことは絶対にすべきではないはずです。それなのに私はもうどうしようもなく、これを「雨男」に盛った瞬間のことを考え続けているのでした。

 夕暮れが、庭園の木々やそそり立つ尖塔の影を長く落としました。やがて明日の晴天を保証する赤い赤い夕焼けがゆっくりと通り過ぎて、明るい夏の夜になりました。窓からは切なくなるほどに濃密な、木々の香気が届いています。夜の虫の鳴く声と、さんざめく星の数々が呼応するように降り注ぎ、ほの明るく光るひかりの粒となって地面に積もっていくようでした。
 私はもう何時間も、机の前に座ったままでした。机の上にはあの小瓶が置かれています。私は何度も手を伸ばしかけます。そしてそのたびに引っ込めます。これを使えば私の苦しみは消えるかもしれない。でも……。
 壁時計が午後八時を鳴らしました。その間抜けな鳩の鳴き声を聞いた時、私は数百回目の葛藤の末にようやく小瓶を手に取りました。かじかんだような手で蓋を回し、手のひらに粉薬を取り出して、ひと思いに口に含みました。
 ええ、私はこれが毒でも毒でなくても、どちらでもいいと思っていたのです。もし毒でなければ、これを飲んだ「雨男」は死なない。毒であっても、これを飲んだ私が死んで苦しみは終わる。
 口に含んだ薬は粉砂糖のように甘く、それでもすっきりと口の中で溶けて嫌な後味は残りませんでした。私は溜息をつき、壁の上の時計を見上げました。現在八時二分。私はそれから一時間ほど時計の針に注視していました。秒針の音が胸に杭を打ち込んでくように響いていました。これが毒だったら、あと何分でかで私は死ぬのでしょう。それでも、いくら待ってみても体に変化は起こりませんでした。
 長い確認時間ののち、私は溜息をついて立ち上がりました。脚のふらつきもなく、頭もくらくらしません。そして拍子抜けするほどに正気でした。
 これは毒ではない、これを飲んで「雨男」が死ぬことはない。ならいっそ……。いいえ、そうではなかったのです。私はまた別の問題を考慮すべきでした。「雨男」が制作を続けられなくなる。描けなくなった「雨男」が、どうなってしまうのか……。
 
 その晩私は夜の神殿で行われる、「澱の下の者たち」の宴に駆り出されることはありませんでした。

 翌朝、身支度する最後に、私はスカートの右ポケットの中に小瓶を滑り込ませました。何だか温かい塩水に心臓が浮いているみたいな、落ち着かない気分でした。小瓶を隠し持って姿見に映る自分は、十分な水が与えられず、黄変したツタの葉のように病みつかれているように見えました。
 私がお部屋に上がると、妃殿下は私の体のことをあれこれ心配なさいました。私は微笑みを作って「もう大丈夫です」と言いました。お勤めに出れば、私は「雨男」の所に行くことになるでしょう。私は何度も何度も、これを「雨男」に盛ることを想像しました。それなのに私は、車に乗り込んでしまってから、身を投げようかどうかとまだ迷っている自殺志願者の様に、心がふらふらと振れていたのです。
 午後三時、私はカトーシェフから分厚いオムレツをはさんだサンドウィッチと、チョコレート、そして珈琲の瓶を受け取りました。本当に暑い日で、歩きながら私の頭はどんどんのぼせていくようでした。籠の中にずっしりと重量を主張している珈琲の瓶と膨らんだポケットを見比べて、私は幾度となく手を伸ばしかけました。無機質な金属製の蓋を開け、指で白い粉末をつまんで、珈琲の瓶の中にパラパラと入れることを想像する……。そのたびに頭を振って邪悪な妄想を退けようとしました。それでも何度振り払っても、「それ」は確実に私の心の全部を占拠してゆきます。頭の芯が麻痺したように判断力が無くなってゆきました。
 水車小屋の所へ来たとき、私は周りを見計らって物陰に隠れました。ポケットから小瓶を取り出して見つめます。透明なガラスには何度も何度も握りしめたせいで、私の指紋がべたべたと張り付いていました。白い粉薬は無機質に輝き、私は昨夜口に含んだ時の、淡雪のようなくちどけを思い浮かべました。私が呑んだのよ、「雨男」も呑むべきよ。いいえ、人の信頼を裏切るようなことはすべきではないわ。でも絵が完成してしまえば、きっと妃殿下は出奔する、ドニーも兵士になってむごい定めの中へと巻き込まれてゆく。私の心は降り注ぐ日差しよりも苛烈な葛藤にじりじりと焦げていくようでした。
 「こうすればもう悩まなくていいのよ、こうすればもう何にも……」
 そう呟いて私は、とうとう小瓶の蓋をあけ、その粉薬を一つかみ、まだ湯気の立っている珈琲の中に入れて蓋を締め直しました。珈琲が重みを預ける籐籠はずっしりと重く、この籠を下げる私の細い腕に、「雨男」の魂や運命や、全存在がかかっているかのように感じられました。そう思うと何故か、口元に残酷な笑みが浮かびました。
 「雨男」の仮設小屋をノックすると、やはりややあってから彼はドアを開けました。泣きそうに見える笑みは今日は本当に、幾分かの不安を漂わせていました。それは私の健康に関わることでした。
 「体の調子はもう本当にいいのかい? 今日は病み上がりが歩くには暑すぎる気温だよ。カトーシェフも君に何か冷たい飲み物を持たしてくれたらよかったのにな」
 「あら、雨男さん、私は仕事中なのよ」
 「熱はないかい? まだ顔色が悪いよ」
 「熱はもともとないの。頭が痛かったのよ。でももう痛みはなくなったわ」
 私は何時からこんなにも演技が上手くなったのでしょうか? 「雨男」は簡単に騙されました。自分を害そうとする私の嘘に全く疑いを持ちません。彼はいつも通りオムレツをはさんだパンをもりもりと食べ、それを珈琲で流し込みました。 
 それをしっかりと見届ける私は、もうすっかりと悩むことに疲れてしまっていました。もうなんだっていい、どうだっていい。それでいて胸は奇妙に高ぶり、わくわくとした好奇心が「雨男」の、珈琲を飲み下すのどぼとけの上下を確かめていました。きっと私の眼は、死に逝くミジンコをプレパラートの上から観察しているみたいに、意地悪く光っていたでしょう。
 「雨男」は、粉薬の入った珈琲をすべて飲みました。

 その次の日もいつも通り軽食をもって、「雨男」の仮設小屋をノックしました。私の心臓は刑場に引きずられていく囚人のように動悸を感じます。それでいて、心高まり早くこの目で見て確認したいと思うのです。
 私の心を鼓舞していたのは、私が昨夜もあの不埒な宴には駆り出されなかったという事実でした。きっとあれを飲むと、「澱の下の者たち」と関わり合いを持てなくなるのかもしれない。今はまだ確認できませんが、雨男もきっとあの宴には行けなかったはずです。あの宴席で待ちぼうけを食らう「しとしと歌う君」の横顔を思うと、気分は晴れ晴れとします。
 ノックの後、いつもより大分遅れて「雨男」が顔を出しました。私はその面差しの変化を見て、自分で自分の顔から血の気が引いてゆくのがはっきりと分かりました。
 「雨男」の目はめっきりと落ちくぼんでいました。顔色は蒼白く、唇は黒ずんで乾いていました。瞳は相変わらず透明でしたが、昨日まで実現可能な幻視を生き生きと巡らしていた眼差しは、今日はいなくなった恋人を望みなく探しているような、途方に暮れた眼差しに変化していました。
 「どうされたんですか? お加減でも悪いのですか? 」
 心臓が追い立てられる罪人のように速く打ちました。「お加減でも悪いのですか? 」私はよくしゃあしゃあと言ってのけたものです。誰に違うと言われたとして、私にはその原因がただ一つしか浮かびません。昨日あの粉薬を珈琲に混ぜたときの、手の震え、胸の高鳴り、残酷な微笑み……。
 「いいや、具合が悪いわけじゃないんだ、ナータ。描けないんだよ、まったくイメージが浮かばない……。いつかこんな日が来るかって怖かった……、描けないんだよ、全然、全然! 」
 「雨男」はそう叫ぶと、宮廷付き理髪師カロの手によって、ここ三か月の間整えられていた髪の毛をかきむしりました。落ちくぼんだ目を苦しそうに歪めます。右頬には青と黒の絵の具が混じりあいながら縞を作っていました。目じりに寄った皺と絵の具の筋の上を、大粒の汗が幾つも滑り落ちていました。
 私が本来考えるべきだったのは何か、そのときになってやっと気づきました。「雨男」が死ぬかもしれないことを心配ずるのではなく、彼が描けなくなってしまったらどうなるのかを、心配すべきだったのです。それを今目の前で弱り切った「雨男」の顔を見たときに悟りました。全てもう手遅れでした。
 私は肩に力を入れ、小刻みに震えて、手に籠を下げたまま立ちすくんでいました。
 「パンも珈琲もいらない、手紙を、エヴァ様からのお手紙を……」
 「雨男」の声はかすれてしわがれていました。一晩で何十歳も年を取ったかのようでした。手紙を差し出す私の指先は細かく震えていました。それを受け取る「雨男」の手も、弱弱しく震えているように見えました。
 それなのに、妃殿下のお手紙を受け取った「雨男」は微笑みを浮かべました。あの泣きそうに見える微笑みです。それは今日は微笑みと泣きそうな顔の割合が、二対八で泣きそうな顔が勝っていました。
 「雨男」は泣き出しそうに歪んだ泣き出しそうな目に涙を浮かべて、途方に暮れたように妃殿下の署名の上を撫でました。
 「ナータ、今日はこれで失礼するよ。明日来てくれるよね? 返事を頼みたいんだ」
 そう言うと「雨男」は仮設小屋のドアをバタンと閉めました。私は外に締め出されました。そのときの衝撃を思い出すと、今も胸がキリキリと痛くなります。何もかもが私の目論見から外れていたのです。でも、私が一体何をもくろんでいたというのでしょう? あの夜の宴に出られなくなったら、彼は私にどう接してくれるようになったというのでしょう? 
 何も変わるはずはありません。昼間の「雨男」はあの夜の宴も、「しとしと歌う君」のことも覚えていないのです。今更になってやっと気づきます。私がどんなにこの時間を待ち焦がれていたのか。
 草の上に座ってのおしゃべり。絵の進捗状況や外国の話、殿下や妃殿下との思い出、絵というものに対して彼がどういう思いを抱いているか、そんな話を聞くことがどんかにか私の乾いた心を潤してくれていたのか。
 そうです。私は乾いていたのです。千年の晴天にからからに乾ききった大地でした。そして「雨男」はその名の通り雨だったのです。

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恋愛事件

 次の日から私は、妃殿下と「雨男」との手紙のやり取りだけを取り持つために、宮殿本館と仮設小屋を行き来しました。いいえ、目くらましのためにシェフ特製のサンドウィッチと珈琲は持っていきます。それでも雨男はほとんど口をつけませんでした。半月もすると彼はめっきりと痩せてゆきました。
 妃殿下もずいぶんと「雨男」の心配をなさっておいででした。妃殿下から託されるお手紙は、便箋の量が明らかに以前の三倍四倍に増えました。
 言い訳をさせていただくと、私も必死だったのです。私の残酷な好奇心のために苦境に陥った「雨男」に、何とか罪滅ぼしをしたかったのです。そして私にできることと言えば、妃殿下とのお手紙のやり取りを仲立ちすることぐらいでした。ええそうです、私自身として私そのものは、「雨男」にとって何の価値を持っていないのでした。ただ妃殿下とのやり取りの仲立ちとしてだけ必要なのでした。

 絵の製作は難航したまま九月中旬となりました。
 からからに乾いた大地には、ひんやりし始めた日差しがもたらす影が、長く伸びるようになりました。陽の冷たさと呼応するように、草木は瑞々しさを取り戻し、世界が急激に輝きを増したように感じられます。国土中に網目のように張り巡らされた、浸透式灌漑用水のもたらす潤いは、けして大地を見捨ててはいなかったのだと、私のようなちっぽけな娘でも実感し感謝することができます。
 埃っぽさは日に日に収まり、庭園を妃殿下のお部屋のバルコニーから眺めれば、宝石のようなダリヤが、東方の布細工みたいな花弁を丸く広げて咲き誇っています。木々は風にそよいでは白い葉裏を見せ、表葉のまだ力十分の緑と響きあい、点描のような輝きを放っています。そうです、「点描」です。あの草の上のおしゃべりで、私が「雨男」から知った美術の知識でした。
 「雨男」と妃殿下との間の手紙のやり取りは、眼には見えないところで地下水が交流するように、ひっそりと続けられていました。この宮殿ではだれも、籐籠にサンドウィッチと珈琲を下げて庭園を行く私に、こんなにも重大な秘密が託されているなんて、想像すらしなかったことでしょう。
 「雨男」が苦悩するのと応え合うように、妃殿下もまた悩みの中におられました。
 おそらく、このやり取りが始まってから何時かのタイミングで、妃殿下はご自分の身の振り方に関するご覚悟を決めておいでだったに違いありません。
 私は妃殿下の目のお色や、何気ない風を装われる声の高さ低さにそれを感じ取りました。それが腹立たしいのか悲しいのか、それとも八方手を尽くしてお二人の関係をお守りして差し上げたいのか、パレットの上の絵の具のように混乱した私の頭では、感情の輪郭が交わりあって上手く判別がつきませんでした。私にわかるのはただ、こんな状況は到底耐え難いということだけでした。
 絵は進展せず「雨男」はやせ細り、妃殿下は道ならぬ恋に苦悩し、私は自分で自分の心が図れずに茫然としたまま、九月真ん中の日がやってきました。

 その一週間ほど前から、ハレの宮殿は隣国の王女殿下のご訪問を受けておりました。
 キュラの国は西の大国で、早くから工業化が進み、王女殿下の父王はこの度ハレの国も加盟することになった重大な軍事機構の盟主でした。大公殿下も妃殿下も大変お気を使われ、失礼の無いように丁重にもてなしをされておられました。
 王女様は、それはそれはお美しい、人形のように整った面立ちをなさっておいででした。赤みのさしたブロンドの巻き毛と、碧玉のように大きく潤んだ瞳をお持ちでした。肩や腰回りが華奢でほっそりとしておられるのに、猫を思わせる敏捷な丸みがあります。このレア様というお姫様は、実は人間ではなく、人魚が魔法で変身して陸を歩いているのだと、宮廷付きの侍女たちがこぞって噂をするほどお美しかったのです。
 宮殿では毎夜のように晩餐会や舞踏会が開かれました。ご訪問の最初の晩に開かれた晩餐会で、レア様は薄桃色のリボンとレースで飾ったドレスをお召しになっておいででした。その衣装は、今にして思えばなんという不幸な偶然か、アブリ公女殿下のご衣裳とほとんどぴったりと被っておいでだったのです。
 背筋に冷たいものを走らせたであろう、両国の侍女たちや大公御夫妻のご心配をよそに、レア様は涼しいお顔で朗らかに談笑をなさい、アブリ公女殿下は衣装のことなど全くお気にも留められず、ただひたすら海老のテルミドールにむしゃぶりついておられました。
 私はルト様がまた食欲を失われるのではないかと心配になり、彼の握るナイフとフォークの方をじっと見ました。しかし今夜はルト様は、落ち着いた仕草で食事を続けておられました。
 彼の視線の先を目でたどってみると、レア様の桜色の唇にぶつかりました。レア様は美しい所作で、ナイフとフォークを動かしておいででした。小さく料理を切って、小さなお口でそれをお含みになります。ゆっくりと物を噛む仕草、呑み下すときに動く白く細い喉元、その隅々にまで、ルト様のご視線が注がれていたのです。時折レア様は視線をあげ、熱いまなざしを送るルト様に微笑まれておりました。その微笑みは歌を歌い始めた小鳥のようにはにかんでいるようで、とても深い自信にあふれているように見えました。
 翌日の園遊会の時も、盛大に開かれた舞踏会の時も、ルト様の視線をたどってみるとレア様にぶつかりました。レア様も頻繁にルト様と目を合わせ、お二人はしばし見つめ合っておられることも稀ではありませんでした。
 しかしそれは私にとって、すれ違いざまに意味ありげな視線を投げてくる、見知らぬ人の微笑みのように具体性を持ちませんでした。常に頭の八割を「雨男」とその絵のことが占めています。どんなに世界を観察して眼差しを外に向けても、気付けば心は「雨男」の小屋の前へと飛んでゆき、外の具象は意味のある像を結びません。後悔と自己嫌悪と何をしたらよいのか分からない苛立ちが、私の心を小屋の扉の前から一歩も動かしてくれませんでした。私の世界は、私と「雨男」と妃殿下とでいっぱいだったのです。
 その晩も私は悩みから勉強に身が入らず、ただ時計の示す時間通りに床へ入りました。半分うとうととしかけていた時、突如耳をつんざくような金切り声が浅い眠りを破りました。
 私は寝巻の上にカーディガンを羽織って、妃殿下のお部屋へと駆けつけました。不測の事態が起きた際、妃殿下の御身を何をおいてもお守りするのは侍女としての務めです。しかし、同じように眠りを中断された妃殿下は、それ以外の被害を受けておらず、妃殿下と私の部屋が並ぶ棟は、騒ぎの輪の外にありました。私は妃殿下の安全はキルリばあやや他の侍女たちに任せて、何やら数人の声が騒ぐ、南西のバルコニーの下を偵察に行きました。
 ひんやりと露に濡れた草をサンダルで踏みながら、思いもかけず冷たい夜気にカーディガンの袷を手でかき寄せて、私は数人の男女が、興奮した声でまくし立てている輪の中へと入りました。
 輪の中心にはルト様がうずくまっておられました。どうやら右足を負傷しておられるようです。周りに立っておられるのは、ルト様付きの家臣たちや、私のように寝巻を引っかけた、近くの棟担当のメイドや侍女たちでした。
 「どうしてこのような馬鹿なことをなされたんですか! 」
 度を無くした声でまくしたてているのは、ルト様の腹心の侍従です。彼も他の人々同様、寝巻のまま駆けつけて来たらしく、室内履きの灰色の布靴をつっかけていました。ルト様は胸元のはだけた白いシャツ一枚で、下半身は薄手の下着一枚を履いているだけで裸足でした。そんな身なりをかまう余裕もなく、苦しそうに顔を歪めて、赤く腫れた足首のあたりをさすっておられました。
 「アブリ様がこのことをお知りになったらどうなされるの! 」 
 「こんなこと、ハレの建国以来なかったことよ! 」
 メイドたちが蒼ざめた顔で騒いでいます。
 やがて丸太棒のような侍女を伴った、丸太棒のようなアブリ様が、寝巻の上に絹のショールを巻き付けて駆けつけて来られました。かなり息がお苦しそうでした。よちよちと走るたびに、頬や首元に垂れた肉がブルンブルンと揺れました。そのお顔は白い月光の下で、蒼ざめると同時に赤らんでもいる、紫色に照らし出されていました。
 「ルト様、一体これは! わたくしたちは来春夫婦の誓いをするはずだったではないですか! 」
 だらだらとかいた汗に大粒の涙をにじませて、アブリ様が叫ばれました。そのお顔にはぐちゃぐちゃに食べ散らかしたパイのような、驚きと悲嘆、怒りと嫉妬が混乱のまま浮かんでいました。ルト様はまるで他人のようにアブリ様を見上げました。彼のお心にはアブリ様は映っておらず、婚約者がどんなに嘆き悲しまれようと、知ったことないとでも言われているような眼をしておられました。これから先に起こるであろう厄介な現実も、彼にはもう何もかもどうでもよかったのでしょう。その全てが、婚約者にとってどんなに残酷な態度であることか! 
 「ハハハ! 」
 頭上から、若い女性のあざけり笑いの声が短く響きました。見上げれば、三階のバルコニーの上で、しどけない寝間着姿のレア様が、右往左往する私たちをを見下ろしながら、悠然と立っておられました。碧玉の目は月光を受けて、夜の泉がこんこんと水面を揺らしているようにほの白く光っています。背後から照らす部屋の灯りに、レア様の赤みのさしたブロンドが、夕日を受けた木立のように輝いていました。私はようやくこの時になって事態が飲み込めました。つまりルト様とレア様は……。
 「いやー! この泥棒猫! 魔女よ、あなたは人魚だわ! 」
 アブリ様は叫ばれて草の上にへたり込んでおしまいになりました。そのまま何もかもを繕うことを放棄されて、珍しい猿が吠えているようなお声で、おいおいとお泣きになりました。汗に濡れた紫色のむくんだ頬に、汗よりも塩っ辛いであろう涙が、後から後からしたたり落ちました。丸太棒のような侍女たちは、ある者は主とともに泣き出し、ある者は忠義芯から、手放しで泣いておられるアブリ様の背中を抱いてさすりました。
 「ルト様! 」
 侍従が皺を寄せた眉間をルト様の目に近づけ、一縷の希望を隠し持ったぎらぎら光る眼差しを向けました。
 「どこまでですか? つまり最後までは……」
 「ああいったよ、レア様は素晴らしかった……」
 侍従は立てていた膝をがっくりと崩れさせました。両手を地面について肩をがくがくと震わせています。ルト様は相変わらず他人事のように放心しておられました。
 「まずい、非常にまずい事態だ! ああ、ややこしい事になる……」

 この事件は翌朝には、宮中では知る人がないほどまでに広まっていました。午後までには都のいたるところにまで広がり、翌日には大分離れた町や村にも確実に広まりました。
 事件の翌朝、電信によって事態を聞かされたレア様の父王は、大公殿下に遺憾の意を表されました。そして、ルト様がレア様の純潔を汚したすべての責任をとって、正式に婿としてキュラの国の跡取りとなることを要請されてきたのです。
 大公殿下はアブリ様を大変愛しておられました。次期大公としてルト様に期待されていたところも大きく、その落胆は計り知れないものでした。何とか穏便に済ませようとあれこれと策を講されましたが、先方は娘の純潔を汚した責任をとれとの一点張りで、軍事機構に加盟する国々の間の力関係もあり、とうとう受諾されるしか方策はないようでした。
 問題となったのはハレの国に別離というものがないということでした。あれほど嫌悪感を示しておきながら、ルト様には積極的にアブリ様と離れようというご意志は見られませんでした。今の若い方々が聞いたら首をかしげることでしょうね。私にもそのときにはルト様の態度が、至極当然のように思えていたのだから不思議です。腰が抜けてしまったような状態とでもいうのでしょうか? 何も失わない分、何も得られないとでも言いましょうか。
 このため、ルト様がアブリ様と正式に婚約解消なされてレア様と縁組させるのは、「雨男」が絵を完成させてから、ということに話がまとまりました。
 この事態は、深刻なスランプに陥った「雨男」に、より重い心理的圧迫を加えることになりました。大公殿下が絵の進み具合を確認しに来られることも、もう彼は拒否します。ろくにものも食べず、眠りもむさぼらず、ある一点から進展することのできない絵の前で、パレットと絵筆を向けて立ち尽くしているのです。
 彼の唯一の心の支えは、私が託された妃殿下からのお手紙でした。それでもそれはかつてのように潤いと情熱に満ちたものではなくなっていたかもしれません。妃殿下はアブリ様のご心配をなさらなければなりませんでした。アブリ様はご自分がレア様と同じぐらい痩せれば、ルト様が戻ってこられるかもしれないとわずかな望みをつながれ、何日間も絶食されては、反動で普段の数倍の量をお食べになるということを繰り返されるようになっていました。
 アブリ様はこう嘆かれました。
 「わたくしたちが婚約した最初のころには、ルト様はよくお菓子をプレゼントしてくださったのよ。美味しそうに食べているわたくしが可愛いとおっしゃった……、だからたくさんたくさん美味しく食べるようにしていたのに……。どうして? どうしてこんなことになってしまったの? たくさん食べるわたくしは可愛くなくなったの? 」
 妃殿下はとにかく極端な食生活は避けて、健康的な体形を取り戻すことが大事だと繰り返されていました。
 「よいこと? お前はまだ若いのよ。体型さえ健康的になって美貌を取り戻せば、まだいくらでも幸せになれるチャンスはある。外国では、一生のうちに一度や二度の別離など誰にとっても織り込み済みのことなのよ。かの地の娘たちはたいていは、別離の涙の中から不死鳥のようによみがえって幸せをつかむのだから。お前も気を強く持つのよ。決して自棄になってはいけない」
 そんなやり取りを、お二人は昼夜を問わず繰り返されておられました。心を病んだ人間にとって、朝と昼と夜がそれにふさわしい感情をもたらしてくれることはありません。夜には食欲との葛藤が続き、朝に眠りが訪れ、昼の日中には嘆きのスイッチが入って、母親の慰めがあっても涙は止まることはないのです。 
 妃殿下は以前のようにじっくりとお手紙を書かれるお暇が足りなくなったのかもしれません。きっと母としてご自分と、女としてのご自分が、一方の死なくば生き残ることが出来ない敵同士のように、壮絶に戦い続けておられたのでしょう。アブリ様の顔色が死んだようになってゆかれるのと同時に、妃殿下の顔色も蒼白になってゆかれました。
 それでも妃殿下は、わずかの時間を誠実にお使いになり、枚数は薄くとも「雨男」への手紙を書き続けられました。「雨男」は相変わらず、そのお手紙を飢えた子供のような眼差しで待っていました。
 「描けないんだよナータ、心がカラカラのスポンジなったみたいに何も溢れ出てこない……」
 顔を合わせるたびに「雨男」は言って頭をかきむしりました。いかに髪形や髭を整えられていたとしても、その荒みようは隠し切れないものでした。めっきり痩せた顔は黒ずみ、透明な瞳だけがぎらぎらと刺すような光を放っていました。全身全霊をぶつけていた「画」という対象を止められた分、かえってその体に熱が停滞して、目の輝きだけは増してゆくように見受けられました。
 「雨男」はひとしきり私の前で嘆いては、すがるような目で私を見つめました。
 「ナータ、俺を見捨てないよね? 絵が完成できないっからって、エヴァ様と俺の仲立ちをやめるなんて言い出さないよね? 」
 「見捨てるだなんて、そんな……。私は妃殿下にできる限り忠実でい続けます」
 「エヴァ様は迷っておられるんだ。この前までどこまでも一緒だとおっしゃっていたのに。アブリ様と俺とどちらが大切なんだろう……」
 「まあ、そんな不毛なことはおっしゃらないで」
 「雨男」は一日おきに手紙を受け取り、一日おきに手紙を託しました。そのやり取りが済めばもう用済みとばかりに、ぴったりと仮設小屋のドアを閉じてこもりました。私のことは、何時も通うお屋敷の門の前の、雑草ぐらいにしか思ってはいなかったのでしょう。
 私は私を深く潤していたあの談笑の時間を、日がとっぷりと暮れてしまってから青空や木漏れ日や、夕空を染める茜の光彩を思い描くように、ひとりひっそりと反芻します。その時間は、私が経験した時の中で、最も美しいもののひとつでした。でも現実の太陽は毎朝昇るのに、その太陽はもう二度と昇らないのです。
 「雨男」が描けなくなったのは私の罪です。あんな怪しげな男の甘言に耳を貸すべきではなかったのです。私があんなことをしでかさなかったならば、「雨男」の絵は完成し、この地には雨は降り、諍いや別離は起きても、私と「雨男」は制作の時を共にした友人として、快く別れていったはずでした。
 何故、あの夜の宴に顔を出す「雨男」を見ては不可思議に不愉快な気持ちをかきたてられていたのか、今はもう思い出すことはできませんでした。濁った赤えんどう豆の煮汁は、赤い水彩絵の具を水に溶いた透明で悲しい薔薇色に染まりました。ただ二人でにこやかに話す時間が懐かしくてたまりませんでした。

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密会

 十月も半ばを過ぎたころ、アブリ様は大陸南部の海辺の温泉保養地にある、とある治療院に旅立って行かれました。その治療院はアブリ様のように、食欲に問題のある患者が大勢快癒したという評判の施設でした。アブリ様は妃殿下もご一緒にと望まれましたが、施設長の方から母親とは離れた方が望ましいとの方針を示されました。
 アブリ様が旅立たれた後、宮殿は抜け殻になったような静けさに包まれていました。お部屋や廊下からは昼夜を問わず響いていた、オイオイと泣く声や呪わしい唸り声が消えて、厨房のシェフたちも、料理を運ぶ仕事に従事しているメイドたちも、皆ほっとしたように定められた仕事をこなしています。
 庭園の木々はそろそろ紅葉の気配が始まりだし、相変わらずダリアは豪華に咲き誇っていましたが、菊類の花々が寂しく風に花弁をそよがせるようになっていました。陽はめっきりと短くなり、お社の森に群れる小鳥の種類も変わってゆきます。もうあの声の悪い鳥は鳴かず、北から渡ってきた冬鳥が盛んに鳴きかわしています。
 妃殿下は表面上は平静でおられました。アブリ様が旅立ったことで、「雨男」との関係がどのように変化したか、手紙の中身の見えない私には知ることが出来ませんでした。何度中身を開いて、その秘密のやり取りをのぞこうという衝動と戦ったことか。しかし封蝋は固く、これを手にする者は妃殿下と「雨男」と私しかいません。私は私の秘密を保ったまま秘密を知ることはできないのです。
 十月二十日の晩のことでした。その日妃殿下は、私にこまごまとした用を言いつけたため、同輩の侍女が皆お部屋を辞した後も、私が一人残されていました。用事が済み、私も退出しようとすると、妃殿下は近くへ寄るように促されました。私は妃殿下に近寄りました。
 「ナータ、もっと近くへ……」
 そして息がかかるほど近くに耳を寄せた私に、妃殿下が囁く声でおっしゃいました。
 「ナータ、今夜か明晩か、人が寝静まったころに、ジュニをわたくしの部屋へと連れて来ることはできる? 」
 私の目はおののきで、星が爆発するように光ったと思います。
 「是非に、ジュニに来て欲しいの、直接逢いたいの」
 「それでしたら昼間どうどうと小屋をお訪ねになればいいではございませんか。お友達なのですから苦境を励ますのは当然のことでございましょう? 」
 「いいえ、駄目よ、昼間では、お友達ではいけないの……、夜更けに来て欲しいの……、わたくしはジュニと……」
 私の胸には出所の分からない怒りがむらむらと湧きました。それは日ごろの私、いいえ、その頃のハレの国の人々全般には見られない激高でした。
 「妃殿下はどうなさりたいのですか! 私は嫌です、不義密通の片棒を担がされるのはもう今まででたくさんです! あなた様は私の苦しみにはどこまでも無頓着でおられます。私にも人並みの心がございます! 」
 私が声を荒らげると、妃殿下は怯えたように目に涙をお浮かべになりました。すっかりと途方に暮れておられました。そのご様子は打ちひしがれているのに、秋の最後の光をもうこの後はないと知りながら浴びる、大輪のダリアのようにあでやかでした。そのあでやかさが一層、私を救いの無いような気分にさせました。
 「お前だけが頼りなのよ……。他の者には明かせないの……。どうしても逢いたいの、一度でもいいから彼を知りたい……」
 妃殿下の藍色の瞳から涙が一筋落ちました。
 私はその場ではお答え申し上げず、黙ってお部屋を辞しました。

 次の日の午後三時、私はいつも通り籐籠を下げて庭園を歩いていました。籠の中にはカトーシェフ特製の生ハムのサンドウィッチと、熱い珈琲の瓶が入っています。その下の白いナプキンの下に、妃殿下からのお手紙は隠されています。
 見上げれば四方を峻厳な山々で縁取られた空が、サラダボールを内側から眺めたように、丸く広がっていました。その全面を、レース地のように淡い雲が覆っています。白い絹糸で編まれた模様の下から青いドレスの生地がのぞくように、秋の高い青空が透けて見えました。
 私は若いころの妃殿下を思い浮かべました。今よりも可憐で快活で、今日のこの空のような、シルクタフタの生地にレースを重ねたドレスをまとい、若く、より無垢で、より無防備な「雨男」と、ワルツを踊られている妃殿下を思い浮かべたのです。お二人は言葉を交し合いません。妃殿下の藍色の目と「雨男」の黑い目が、ピチカートの響きのような密やかさで合図を送りあいます。その様子を、ハンサムですらりとした大公殿下が黙って見つめておられます。
 私の幻想に答えるようにどこかの水鳥が鳴きました。十月の風はめっきりと冷たく、私の空へ向けられた頬を渦を巻きながら吹き抜けてゆきます。村の小径を模して伸びる道の両脇に、まばらに植えられたイチョウの葉が、わずかに黄色く変わりかけていました。幻想に苦しくなりうつむけば、そのこんもりとした影の下を、私の頼りなく長い影が横切ってゆきます。
 昨夜はほとんど眠ることが出来ませんでしたおそらく妃殿下があんなことをおっしゃったのは、昨日の午後に「雨男」から受け取られたお手紙の内容に関わってくるのでしょう。そのご返事が今私の手の中にあります。「雨男」は何を切り出してくるのでしょう?でも、彼が危険な賭けに出ていることは解っているのです。
 この宮殿は大きく複雑な造りをしています。そして「雨男」は、貴人たちの居住する棟に、ほとんどなじみがないのでした。そのため、妃殿下のお部屋まで忍んでゆくためには、誰か道に通ずる者が手引きする必要があるのです。だから「私」なのです。宮殿の廊下に通じて妃殿下に対して忠実、「雨男」にとっては良き友人、秘密を共有し、決してもらす素振りさえ見せたことのないこの私なのです。
 職務上の務めから行けば、妃殿下のご意志にはどこまでも忠実であるべきです。しかし仮にそれが妃殿下ご自身の身を危うくするようなものであったときは、どんなに謗られようともお諫め申し上げなければならないはずです。今私はどちらを選ぶべきなのでしょうか? 風がイチョウの葉をざわざわと揺らし、その冷たさが私の心に、彫刻刀を突き立てたようにきりきりとしみこみます。もうじき冬がやってきます。元気なころの「雨男」が言いました。「今年から雪も見られるよ」
 仮設小屋をノックすると、「雨男」はすぐにドアを開けました。きっと何時間も前から時計を見つめ、ドアの前で私の足音に耳を澄まし、待ち続けていたのでしょう。その目は、鼻づらの前に餌を差し出された狼のように、渇望していました。
 「やあ、ナータ、来たね」
 「こんにちは、雨男さん。あなたは妃殿下にどんなお便りをおよこしになったの? 」
 私はだしぬけに言ってしまいます。赤茶色の何かが心の奥底でぶつぶつと沸騰していて、心正しくあるために、胸に固くはめていた蓋がずれたのです。「雨男」は、嘘をついたことを素直に認める子供のような目で、ためらいもせずに告白しました。
 「ナータも分かっているよね? 今度お部屋を忍んでいきたいって書いたんだ」
 「それは道義上罪になるわ」
 「かまわない」
 「私が構います。お二人が罪を犯すだけではなくて、それに従っただけの私でさえも罪を犯す羽目になるのよ。私はそんなことは望みません」
 「じゃあお返事は持ってきてくれなかったの? 」
 「お返事なら持ってきました。妃殿下からのご命令ですから。でも、あなたを妃殿下のお部屋にお連れするというお話には同意しかねます」
 「後生だよ、この埋め合わせはどんな犠牲を払ってでもするから! 」
 「駄目です。私が大公殿下に合わせる顔がなくなります。あの方だって私の主なのです」
 「トロイ様も俺たちのことは昔から解っておられるよ」
 「望んで妻の不義をそそのかす夫がおられますか! 」
 「いやいや、あの方は全て解って俺を呼ばれたんだよ」
 「今は状況が変わりました。妃殿下はアブリ様のお心を癒す必要がおありです。大公殿下はアブリ様を誰よりも愛しておられます。こんな重大な時期に、殿下も今ではそんなことは望まれていないはずよ。母親の不義を知ったらアブリ様も、より心を病んでしまわれるじゃない! 」
 「君は俺を困らせてくて言ってる? 」
 「あなたこそ、私を困らせたいんでしょう? 」
 私は息切れがしました。「雨男」も肩で息をしています。私の心は強風にあおられる湖のように波打っていました。その紺碧の水面は白く乱反射し、ナメクジの腹のようにうねうねとうねっています。岸には私の膝まで届きそうな波が、ざぱりざぱりと押し寄せます。
 「海」というものは湖よりもっと波打つのでしょうか? こんな足元を濡らすだけでは済まない、背丈よりも高い波が次々と押し寄せて、ちっぽけな私など簡単に呑み込んでしまいそうなほどにうねるのでしょうか? 
 そういえば以前「雨男」は人の心を海に例えました。私の中にも醜い顔をした魚が泳いでいるのでしょうか? だから私の心はこんなにも理不尽に荒れ狂っているのでしょうか? 
 私が「雨男」の要求を不快に感じるのは、不義密通の片棒を担がなくてはならなくなるからだけではないと、うすうすは気付いています。私の海の醜い魚が、それに対してより醜く顔をゆがめているのです。悲しい透明な薔薇色の液体は、再び濁った赤えんどう豆の煮汁になります。ぷつぷつ、ぷつぷつ、気泡から血を煮詰めたような臭いが立っています。
 私は認めたくありませんでした。そんなものが自分の中にあるということが。そんなものが自分の言動を左右しているということが。だからなるべく世間的に正しい見解を装い、歯を食いしばって抵抗しているのです。
 しかしそんな私も心にまとった鎧がぼろぼろと崩れてきそうになります。その隙間から、本音のかけらがこぼれ落ちてきます。
 「とにかく駄目です、駄目なんです! お二人とも自分たちのことばっかりで、間を取り持つ私の気持ちなんておもんぱかってくれない! 私は伝書鳩ではありません。人間なんです、お二人を大事だと思うから心配もするのです! 」
 「だったらばれないように仲を取り持てばいいじゃない」
 突如後ろから、リンゴ酒のように可憐で甘酸っぱい声が、私たちの深刻な意見不一致をとりなそうとするかのように割りこんできました。驚いて振り向いた私の背中に、冷たい戦慄が走りました。何故なら親しい同輩のような顔をして立っていたのはリコリスだったのです。彼女は私が着ているのと同じような黒い仕事着を着て、豊かな黒髪をきっちりと結い上げて頭巾を付けていました。
 逃れられないような何かが、ひたひたと追って来ることに悄然とします。それは決して私を見逃したり、忘れたりはしてくれなかったのです。リコリスの宝石のように大きな黒い眼が、ずるい嘘を思いついた子供のように光っていました。   
 「君は誰だい? 」
 「雨男」が透明な目に、疑り深い色をあらわにしながら言いました。あの夜の宴では見知った仲であるはずなのに、昼間の「雨男」はリコリスのことを知らないのです。
 「このお宮に仕えているナータの同輩よ」
 リコリスの物言いは堂々としていました。私に真実を暴きたてる隙を見せたりなんかはしませんでした。
 「エヴァ様の侍女? 」
 「そんなところね。あらナータ、そんな顔しないで、それはあなたが考えているのと丁度裏っ返しのことなのよ」
 「君は俺たちに協力してくれるの? 」
 「雨男」は心の中で色々な可能性を精査しているような目で言いました。そしてまだ疑り深く、リコリスの艶っぽく微笑んだ口元に注視しています。
 「もちろんよ。私は以前からお二人のことを応援していたのよ。分別を忘れさせる情熱ほど心を興奮させるものはないし、二十五年越しの恋なんていかにも私たち好みだわ。だから絶対にうまく実を結んで欲しいのよ。お二人には幸せになって欲しい。ナータはそうじゃないのね? 」
 「まさか! とんでもないわ。私だってお二人には幸せになって欲しい……」
 「じゃあナータ、あなたどうして、何をそんなに拒んでいるの? 」
 「理由なんて、もちろん妃殿下の御身のために……」
 「そんなの建前でしょ。あなたの誰にも言えない心がこの話を拒んでいるの。でも、まあいいわ、そんなにあなたが拒むなら、私が雨男さんを妃殿下のお部屋にお連れします」
 私は慌てて声を荒らげました。
 「何故勝手に事を運ぼうとするの! 」
 「あなたがぐずぐずと話を拒もうとするからじゃない」
 「言ったでしょう? 私はただ妃殿下の身の上が心配なのよ」
 「そうかしら? 私の目にはそうは見えないわね」
 その一言ととも、リコリスの小悪魔的な眼差しが、深く瞳の中に注がれてきました。途端に心をのぞかれるような恐怖が襲いました。リコリスは知っている、私が道義を盾に、この計画を拒もうとしていることを。私が知らない私の醜い魚の名前を知っているのだ! 
 私は羞恥心から顔が熱くなりました。考えるよりも先に口が動きました。リコリスの視線から逃れようと、ついつい軽はずみなことを口走ってしまったのです。
 「分かりました。私が雨男さんを妃殿下のお部屋にお連れします! 」
 あっと思ったときはもう、言葉は口からこぼれ落ちていました。まるで処刑台のギロチンの刃を自ら落とす合図をして、一瞬で首と胴体が離れてしまったような心地です。何ということを口走ってしまったのでしょう? 私は首を失った自分の胴体を見て、途方に暮れるばかりでした。
 「そうね、私としてはそれが一番望ましいわ。全然心配はいらない、私達が全力でお隠しするから」
 リコリスは右の拳を胸の前でぎゅっと握り、微笑んで言いました。
 「ナータ、本当にやってくれるんだね? 」
 「雨男」が戸惑いながらも緊張を緩めた声で言いました。私が意見を翻したことで、リコリスに対する疑いを和らげたようでした。彼は我儘が通った子供のように、澄み切っているだけなおさら狡い目をしていました。ああ、今の私ならわかります。罪を自覚しないということは、ただ罪を犯すよりもっと深い罪となりうるのだということが。そして「雨男」は自覚しないままに、山のように罪をたくさん積み重ねてきた大人でした。
 「ええ……、仕方ないわ……、今日の深夜、あなたを妃殿下のお部屋にお連れします」
 私は急激に沈んでゆく気分を何とかごまかそうと、なるだけ平板に言いました。ただしぶしぶと、こまった友人と主君の御ために、危うい橋を渡ることを受け入れたポーズを保とうとしました。
 「頼むよ、ナータ、確かにお願いしたからね。ああ、二十五年待った、二十五年越しなんだ……」
 「雨男」はそう呟いて、はっきりと肩や背中を震えさせました。透明な目の周りのまつげは黒くしっとりと濡れ、口元は抑えることのできない期待と喜びとで歪んでいました。そして、ぬくもりが移るほど大事に持っていた妃殿下へのお返事を、今更のようにもじもじと私に手渡したのでした。

 「随分な仕打ちをしてくれたものね」
 本館へ帰る道すがら、リコリスは手を後ろに組んでぶらぶらと歩きながら、何度も私を振り返って見ました。その頭巾の上に、相変わらずレースを透かしたような青空が広がっています。風がピンで抑えきれなかったリコリスのおくれ毛をそよそよとそよがせます。
 「折角勝ちが転がり込んできたのに、あれから我が方は随分旗色が悪くなったのよ。あなたの裏切りのせいよ」
 私は黙っていました。何も言うべき言葉が見つかりませんでした。
 「でもよく決心をしてくれたわ。妃殿下と彼が結ばれれば、失われかけた天と地と彼との『川』が復活する。彼は再び描けるようになる」
 「どうして? 」
 「世界には表と裏があるのよ。魂の国でつながっているの。私たちは本来姿を持たない。今与えられている有様は、選ばれた芸術家である雨男が与えたものよ」
 「よく解らないわ……」
 私は打ちひしがれながら歩いていました。自分が打ちひしがれているという事実が理解不能でなりませんでした。何故? 何故私がこれほどまでに苦しまなくてはならないのでしょう? 私は妃殿下の幸せを第一に考えなければならない身です。「雨男」と結ばれることが妃殿下を幸せにするならば、喜んでこの身をささげるべきです。そのように重大でもったいのない役割を仰せつかったのだから、むしろ喜んでいいはずなのに、実際のところ私の胸は塞ぎ、寒い風を浴び続けたかのように深々と痛みました。
 「心配いらないわ。私たちが宮殿の廊下から完全に人払いをしてあげるから。今夜あなたと雨男が忍んでゆくときには、その道なりに絶対に人はいない。部屋で耳を澄ましている人もいない。皆泥のように眠り込んでいる」
 「ええ……」
 私は足を引きずるようにして歩いていました。体の中心にうまく力が入りませんでした。心臓だけが脈拍を主張しているのに、頭の方は霞がかかったようにぼんやりとしています。私の体を包んでいる肌寒い秋の風が、現実とかけ離れた夢の中の事象であるかのように感じられました。
 軽くなった籠の重さが、腕に空しく感じられます。サンドウィッチは紙に包んで仮設小屋においてきました。珈琲はいつも通り小川へ流してしまいました。チョコレートは、三人が秘密を共有した証として、分け合って食べてしまいました。ああ、私は何ということを受諾してしまったのでしょう……。
 リコリスは、イチョウの不揃いに並ぶ小径から、土手に野菊のそよぐ小川を渡る橋への分かれ道の所で不意に立ち止まり、くるりと私に向き直りました。
 「約束よ、もう裏切らないでね。私はあなたとお友達になった気でいたのよ。後味悪く別れたくなんかないわ。今夜十二時に、雨男を妃殿下のお部屋に連れ出すのよ」
 「分かったわ……」
 「本当に約束よ」
 リコリスの瞳は抜き身の宝剣の刃が、白い日差しをきらりと反射するように光りました。こうして昼間の光の中で見る彼女は、何の変哲もない、当たり前の少女の様でした。私に向かって何度か瞬きした後で、彼女はくるりと前を向いて駆け出しました。そのまま、土手に野菊をそよがせる小川への分かれ道を走ってゆきます。田園を模した、実際の田園よりより田園らしい庭園を、彼女の黒っぽい仕事着が横切ってゆきます。渦を撒く風がそのスカートを翻します。リコリスの形をした影は、橋を渡りかけたところでまるで蒸発したみたいに消えて、後にはカラスでしょうか、黒い鳥が、午後遅い陽に翼を輝かせるようにして飛んでいるのが見えました。

 それから後の時間、夕刻から夜更けにかけて、時間はまるで死刑宣告の刻限が刻々と迫ってくるかのように、速足で近づいてきました。何度も時計を見、そのたびにその急かすような針の動きに脅かされます。
 今夜もいつも通り妃殿下の晩餐にお仕えし、食後にはお茶をご一緒して、湯あみとお着替えを手伝い、午後の十時にお部屋を辞しました。
 今日の仕事へのねぎらい、明日のご予定の確認、ハレの大神様への短い祈祷など、お休み前の毎日の儀式を行う妃殿下の目の中に、私は私だけに送る無言の合図を認めました。妃殿下の目は密やかな秘密を抱いて潤み、星が爆発するような激しさで輝いていました。私も頼りない心を隠して瞬きを返したのです。私の他には二人の、私より古参の侍女が二人いました。キルリばあやは痛風が悪化して、一週間ほど前から温泉地で療養中です。
 自室へと下がった私は、仕事着も脱がず寝る準備もしないで、籠に閉じ込められたハツカネズミのように、うろうろと部屋を歩き回りました。頭の中に妃殿下のお顔と「雨男」の顔と、それに時々リコリスの顔が混じって点滅しました。
 なぜこんなにも気が進まないのか? 私は私の心に向かって言い聞かせました。「あなたは妃殿下の御身を案じている、そして『雨男』のことも案じている。だから、二人を危険な関係に進展させるようなことには気が進まないのだ」と。その度にあの神殿で出会った、「太陽の番人」のセリフがそのすっきりとした分かりやすさを脅かします。
 「私は雨男のことを憎んでいる……」
 本当なのでしょうか? 私は「雨男」を憎んでいる、彼の幸せを喜ばない。確かに理屈は整然としている。でも彼が描けなくなって苦悩している今は、その苦しみを何をおいても取り除いてあげたいとも願っているのです。これは憎しみとは相反する感情ではないのでしょうか? リコリスは言いました、妃殿下と「雨男」が結ばれれば、彼は再び描けるようになると。それなのに、今夜彼の苦悩が妃殿下のお力によって癒されるということが、何故か苦しくてならないのです。
 やがて壁の時計が十二時を示しました。私は実家から持ってきた骨董品のランプに火をともすと、深い谷間に身を投げるような心持で部屋を出ました。
 宮殿の廊下は巨大な古墳の中のように静まり返っていました。ビロードの青い絨毯が敷かれた廊下の両側に、曲線的な装飾を施されたドアが連なっています。宮殿は迷宮のように入り組み、幾つもの分かれ道と階上階下へと向かう階段が行く人の方向感覚を麻痺させてゆきます。しかし私ならこのお宮のことは我が家同然に親しんでいます。迷うことなく真っ直ぐに「雨男」のいる棟へと歩みをすすめます。
 ドアというドアの隙間からは明かりも漏れてはこず、時折誰かのいびきが聞こえました。毎晩立っているはずの警備の姿さえありません。明かりは階段や重要な分岐点には夜通しついていますが、それ以外の場所は闇に沈んでいました。私は小さいランプの炎を、隙間風から手のひらで守りました。
 いくら息をひそめても、その音が途方もないほど致命的な失策に聞こえてなりませんでした。何時どのドアが開いて、人の秘密を暴き立てるのを好む人が出てくるか、何時警備の者が戻ってきて、自分の担当から離れた棟を歩いている私を見とがめるか、そうなったらなんと言い訳をしたらよいのか、そうおののきながら、私は棟を三つ抜けました。
 そこは身分の低い客用の間が並ぶ北側の棟でした。私はあらかじめ知らされていた「雨男」の部屋の扉を小さくノックしました。すぐに扉は空きます。「雨男」は出来るだけ音を立てないように、小さくゆっくりと開きました。私の手の中の炎が揺れ、「雨男」の瞳がその揺らぎを宿すのが見えました。私は無言で歩き始めます。「雨男」も無言でついてきます。
 ひたひた、ひたひた、私と「雨男」の忍ばせる足音だけが廊下に響いていました。ランプの灯りは頼りなく、振り向けば「雨男」の肩から上だけが、暗闇の中にぽっかりと浮かんでいました。まるで世界には私と「雨男」の頭しか存在しないようでした。その想像は何故か私を嬉しくさせ、同時に空しくもさせたのでした。
 私は後ろをついて来る「雨男」の、羽が生えて飛び出しかねない心を押さえこんだ足音に、ひそめているのに昂って歌いだしかねないような息遣いに耳を澄ませます。彼は無言で、全身で喜びを爆発させていました。彼がどれほどまでに妃殿下を求めているか、どれほどまでに長いこと待ち続けていたのか! それを思うことは痛みを伴っているのに、何故か甘美な味わいがするお酒のように心を酔わせるのでした。
 誰にも見とがめられることもなく、私たちは妃殿下のお部屋の前に付きました。私は小さな音でノックしました。中から静かに、速やかにドアが開きます。小さく開けられた隙間から「雨男」は素早く部屋に滑り込み、妃殿下の小さな叫びが聞こえたと思うと、ドアはひたりと閉じました。私は取り残されました。何をするべきか分からず、しばらくそこで立ち尽くしていましたが、やがて見とめられたら厄介ということに気が付いて、すごすごと自室へと下がりました。

 私が自室で妃殿下と「雨男」の逢瀬が終わるのを待ち受けていた時間は、筆舌に尽くしがたいほどの痛みに満ちたものでした。
 私はぎゅっと両耳を塞ぎました。そうして目を閉じていると、心の中で何か理屈では説明のできない、虚しさがむくむくと育ってゆきます。私は両耳から手を外して、妃殿下のお部屋の側の壁に耳を押し当てました。そこから聞こえてくるものに耳を澄ませました。石壁は冷たくて分厚く、どんなもの音さえも通しません。私の心の中の虚しさはなおさら広がってゆきます。
 私はまた両耳を塞いでうずくまりました。頭の中で妃殿下と「雨男」が熱い想いを吐露しあっている声が響いていました。それを振り払おうとして、頭からベッドに入り、くぐもった唸り声を上げました。枕をぎゅっと歯に押し当てたせいで枕は私のよだれで濡れました。気付けば頬も、涙なんだかよだれなんだかわからないもので濡れています。そしてそのまま何度も寝返りを打ちました。それまで隙なく頭に留めれていた頭巾は取れてしまいました。私は構わずにのたうち回りました。
 「こんなこと長くは続かないわ」
 ぐしゃぐしゃのシーツの中で私はつぶやきます。
 「もうじき雨男の絵は完成する。そうしたら、雨男は自分の国へ帰ってゆく。私と妃殿下は元の通りに暮らすのよ」
 つぶやいてみて、それが如何に甘っちょろい、運命に反した内容であることに気づかされます。私はドレスを脱いで、「雨男」が着ているような量産品のジャンパーとパンツを着こんだ妃殿下が、大きなリュックを背負って、「雨男」と山の上の細い小径を歩いているところをありありと思い浮かべることができました。藍色と黒の瞳の中には親密に交し合う信頼の色がありました。二人はまるで十代の恋人同士のようで、何十年も連れ添った夫婦のようでもありました。
 お二人の肩に、恐らくは「雨」だと思われるものが落ちていました。ええ、私は、絵画や映画の中でしか「雨」を見たことがありません。その「雨」が、灰色に沈む直線と雲の上の陽光をとらえる光の直線を描いて、野に山に、祝福の様に降り注いでいました。

 翌日、午後の三時に、私は「雨男」の仮設小屋の前に立ち尽くしていました。夏の気配がぶり返したような、少し汗ばむ日でした。あっけらかんと照り付けるお日様の元にいると、寝不足と心労から頭がくらくらとします。一体どういう顔をして彼の顔を見ればよいのでしょう? 私はしばらく暑い日差しの下に立ったまま、軽く握った右手を差し出したり、引っ込めたりしました。
 意を決して行ったノックからやや遅れて、「雨男」がドアを開けました。私はその顔を見て目を見張りました。確かに彼は昨日までと同じようにやせ細ってはいます。頬はこけ眼窩は落ちくぼんでいます。それなのに彼はもう、昨日までの死神に取り憑かれているような、荒んだ空気を漂わせてはいませんでした。黒ずんでいた顔色は明るくなり、唇も血の色を取り戻しています。その黒い目は、病み上がりでやっと遊べるようになったのが嬉しくてならない子供のように、生き生きと輝いていました。彼は絵の具まみれの頬にぬくもりある微笑みを浮かべました。
 「やあ、ナータ、待ってたよ。今日は随分はかどったからお腹がすいていたんだ」 
 「描けるようになったの? 」
 「雨男」の声は、ボールにじゃれる子犬のように弾んでいました。
 「うん、描ける、描けるんだ! インスピレーションがこんこんと湧いて来る。でも小休止だ、軽食をいただこう。最近あまり食べていなかったせいか、体力が弱っていていけない」
 「雨男」は以前の通り仮設小屋の壁にもたれて座り、カトーシェフ特製の牛カツレツのサンドウィッチをもりもりと食べました。私は籠を膝に置いて、彼の隣に座っています。それは夏が半ばすぎるまで、毎日のように繰り返された光景とほぼ同じでした。以前と違っていたことと言ったら、夏場日陰を求めてもたれていた壁が、日向を求めた角度に変わったことぐらいでした。そして、「雨男」と私は、もう後には引けないような秘密を共有しているのです。
 雁の類が鳴きかわしながら雲一つない空を行くのが見えました。木々の色も、昨日より一層色づいているようです。今日の日は温かくとも、坂を転がるように秋は深くなってゆきます。ふと感じたことを質問しました。
 「雨の絵はいつごろ完成できそうなの? 」
 「雨男」は口に珈琲を含んで答えました。
 「この進み具合だとあと一月はかからないよ」
 あとひと月、あとひと月で絵は完成し、「雨男」はここから発ってゆく。この午後三時の日課も、あとひと月でお終いになる。私は妃殿下の顔を思い浮かべながら訪ねました。
 「それから後はどうするの? 」
 彼は私の質問の真意を正しくとらえたと思います。
 「分からない。なるようになるとしか言えない。先のことなど、俺には何とも答えられない……」
 私は「雨男」の幸せを願っているはずでした。彼が描けるようになって嬉しそうなことが嬉しくてならないはずでした。それなのに私の中では、あの赤茶に濁った煮汁がぶつぶつと沸騰していました。リコリスの言っていたように、妃殿下と結ばれたことが、「雨男」の損なわれていたインスピレーションを取り戻す事につながったのだとしたら、私はなんて滑稽でみじめな役割を押し付けられているんでしょう?
 「そうね、先のことなど分からないわね……」
 私は黙って青い釉をかけた焼き物のような空を眺めました。「雨男」も私と心を同じくするように、私の見上げる角度で空を眺めました。日差しの割に冷たく乾いた風が吹いて、私の頭巾から漏れた後れ毛と、「雨男」の整えられた黒髪を並んでそよがせました。私たちにはもう語るべき話題などないようでした。

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殺意

 それから三度ほど、私は妃殿下と「雨男」の逢瀬を手引きしました。私の心配と苦悩に反して、その関係は情熱と細やかさを増していくようでした。
 私は人目につかぬようにおりふれて、妃殿下をお諫め申し上げました。このように不道徳な関係を続けるわけにはゆかないと。
 妃殿下は仰いました。
 「不道徳不道徳とお前は言うけれど、愛と結婚と一体どちらが中身で、一体どちらが器だというのかしら? 器だけ整っていれば、中身は丁寧に炊いたスープの灰汁だけでいいの? いいこと、中身を本物に変えるためには、どんな綺麗な器だってわたくしは捨てて見せる」
 「失礼ながら、その比喩は大公殿下に対して失礼に当たられます……」
 「そうね……、不適切な比喩だったわ……。でも、とにかく、わたくしはもう自分の心を偽ることはできないのよ。二十五年、もうとっくに消えたはずの炎が新鮮な喜びを伴ってよみがえったのよ! わたくしの運命はこの瞬間を待っていたんだわ」
 「アブリ公女殿下のことはどうなされるおつもりですか? あのお方は今非常に深い闇の中にいらっしゃいます」
 妃殿下は眉を寄せて、喉から絞り出すように仰いました。
 「ああ、アブリ、アブリ、可愛そうなわたくしの娘……。お前のことは何としよう? 」
 そうです、私はアブリ公女殿下のことを盾に、妃殿下のご決意を覆そうと躍起になっていました。何故なら、心を病んでしまわれた公女殿下を案じることは、私が考え得るすべての規範からして、「正しい」行為だったからです。
 でもそれは半分以上ポーズでした。本音が別の所にあるということを、そのときはもううっすらと感じ取れていたはずです。醜い心を隠した私は、「正しさ」の仮面をつけて妃殿下と「雨男」の仲を引き裂こうとしていました。お二人がともにあることは、私にとって耐え難いことだったのです。それなのに、どんなに自分を騙して抗ったとしてもどんどんと、運命は望まない方向へと傾いてゆくのです。 
 月が変わる前に、軍事大学に進学した一番上の弟から手紙が届きました。その意気揚々と弾んだ文字から、新しい環境で胸を膨らませている様子がよく伝わります。私はどんなに案じているか、どんなに不吉な予感を感じているか、ついには書き送ることが出来ませんでした。多数の方面から、私の心の安心は脅かされていました。
 「雨男」の仮設小屋へ軽食を持って訪れるたび、出所の分からない喜びと痛みに打たれました。その喜びも痛みもどちらも、まだ熟成の進んでいない葡萄酒のように瑞々しく甘美なものでした。酔いしれることは甘くて苦く、そこにいないときもその美酒の味を反芻せずにはいられません。宮殿本館に戻ってからも夜になってからも、私の心は標本箱にピンでとめられた珍しい蝶のように、「雨男」の前から一歩も動くことが出来なかったのです。
 きっとあなた方はもう、その当時の私の心をよく理解されていることと思います。人生で初めて訪れた苦い苦い春なのだと。でも、当時の私には、どうしても自分の心を推し量ることが出来なかったのです。私は若く未熟でした。また、憎しみを封じられて育ってきたせいなのか、憎しみの裏返しの感情にも精通していなかったのです。
 私は折触れて神殿を訪れるようになっていました。いつも祭壇から少し離れた席に座って、神様に問いを投げかけます。
 「神様、あなたは私に何を求めておいでなのですか? この苦しみの出どころは何なのでしょう? どうして私にこのような苦痛を強いられるのでしょう? 」
 神様のみ像は穏やかにほほ笑まれたまま、私に今日持つべきハンカチの色のような些細な答えさえも、もたらしてはくださいませんでした。

 十一月の初めのことでした。庭園を鮮やかに彩っていた紅葉はすっかりとくすみ干からびて、乾いた音を立てながら地面に降り積もっていました。夜になると一層、葉っぱたちが秘密をこっそりと打ち明けるようなささやきが、かさこそ、かさこそ、と耳の奥の方にまで降り積もってゆきます。カーテンを少しのけて外を見ると、上空に浮かぶ綿を切りさいたような薄雲が、月光に輝きながら静かに流されてゆきます。
 私は今夜二杯目のアールグレイを給しました。妃殿下は熱心にあの外国の詩集を読まれています。まだ私たちには「詩」というものは理解することはできませんでしたが、情熱が言葉に置き換えられるというその神秘の作用への憧れから、妃殿下は一字一句、一行一行を声に出して読まれます。その張り上げられては切なく震える声が、落ち葉の降り積もる音だけがする夜の気配の中に、暖かなリズムを作って響いています。
 その詩集が半分ほど読まれた時でした。誰か妃殿下のお部屋をノックする者がいます。細めにドアを開いた私の目に映ったのは、一人の供もつけずに立っておられる大公殿下のお姿でした。殿下のふくよかなお顔には静かな決意がひたひたと満ちておられました。とても重たい荷物を背負われて、それを今日の日まで大事に取っておかれたように、そしてその体と心を圧迫する重荷を、降ろすのは今だと決意なされておられるようでした。
 「すまないね、ナータ、しばらくエヴァと二人きりで話させてはくれないか? 」
 私のは胸はさあっと冷たくなりました。それから、体中の皮膚から体温が逃げだして行くような心地がして、小さく震えあがりました。しかし、何かを感じ取って、瞬時に覚悟を決めたおつもりらしい妃殿下は、果敢に殿下の申し出を受けられました。そして、当然のことながら、殿下の来訪を拒むような権限は私にはありませんでした。
 妃殿下のお部屋を辞して自室へと移動した私は、たまらなく落ち着かない気分でうろうろと歩き回りました。
 大公殿下が妃殿下とお話しされるとき、侍女たちまでも人払いなされるということは、ほとんどございませんでした。お二人の話題は少ないものです。この宮殿に宿泊される外国の使節について、宮殿の内向きの人事について、アブリ公女殿下の療養施設でのご様子について、私が知る限りそれは、この三つのうちのいずれかのバリエーションに属したものでした。私たち侍女は当然のように、話し合われるお二人のそばで自分の仕事を黙々とこなしながら、耳を立てていたのです。
 それが今夜は、大公殿下は私の同席を拒みました。誰も聞き耳を立ててはいないお部屋で、ご夫妻二人きりで話し合われる話題など、私には一つしか思いつきません。
 「ああ、あの恋がばれているのかしら……」
 私はなすすべもなくうろたえて歩き回り、意味もなく屈伸したり、ベッドの中に両手足を投げ出してじたばたしたりしました。私にとって衝撃だったのは、私が妃殿下のことは案じていないという事実でした。立場上、殿下は妃殿下にめったな処分はくだされないはずだと、不謹慎なほど安堵していました。
 問題は「雨男」です。この一国の君主の妻を盗んだ間男に下される罰は、どれほど厳しいものであるのでしょうか?如何に「雨男」が大公殿下のご学友だとして、それが全ての免罪符になるだなんて到底思えません。私は彼の身を案じていました。なるべく甘くて、くすぐったいだけの罰が下されるように祈っていたのです。
 お二人が話し合われていたのは、ほんの三十分ほどのことだったと記憶しています。私は不安感から、終始壁にかかった鳩時計を眺めていましたから、それは確実なことです。三十分経ったころ、私の部屋をノックして大公殿下が顔を出されました。殿下は私が心配していたことを裏切るように、怒りも恨みも悔しさもなく、かといって嬉しいだけではなく、哀しみも半分入り交じっているような、そんなすっきりとしたお顔をなさっておいででした。
 「ナータ、君はよくやってくれているね。君が仕えてくれるようになって本当に良かった。だからもう、苦しんだりする必要はない。君をとがめる人は誰もいない」
 突然そんな言葉を向けられて、私は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたと思います。今伺ったことの意味を、どうとらえたらよいのでしょう? 
 「今月の二十日に、ジュニの絵のお披露目式典がある。それからはもう我々は楽園の住人ではない。苦しみも悲しみも別離もある、普通の人間に帰るんだよ」
 大公殿下のお背中を見送って、私は妃殿下のお部屋へと戻りました。短い距離でしたが一足一足が重く、それでいてふわふわとしていました。
 妃殿下は猫足のテーブルセットのあちら側に座り、今まさに大公殿下が席を立ったと思しき椅子の上を、眼には見えない人の心を凝視するような眼差しで、じっと見つめておられました。そのお顔は、洗い清められたかのようにすっきりとしておいでです。元から整ったお顔立ちをされていますが、今それはより一層生き生きと輝いておいででした。頬には赤々と血の色が上り、瞳という藍色の湖の奥には太陽よりも大きな星が燃え、その水面は濡れて揺れて、乱反射のきらめきを放っているのです。
 「妃殿下? 妃殿下? 」
 二度ほど呼び掛けて、妃殿下はやっと私に目を向けられました。「ああナータ」妃殿下は仰いました。
 「あなたには苦労と心配ばかりかけたわね。本当に、すまないと思っているの。でももう終わりよ。本当に終わるの。ジュニの絵が完成したらわたくしは……」
 そのとき私は全てがもうすっかりと、望んではいない方向に固まってしまったことを知ったのです。

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 宮廷での生活は、表向きには代わり映えせずに過ぎてゆきました。
 毎朝妃殿下のお部屋に上り、お着替えやらお茶やらお食事やらにお仕えをして、午後の三時には「雨男」の小屋へ行き、戻ればまた晩餐の準備やら寝支度などをお世話して、お部屋を辞した後は勉強をして眠ります。それでもそれは本当のところは、人生で初めて経験する大きな別離へのカウントダウンでした。
 私は相変わらずサンドウィッチと珈琲を入れた籠の下に、手紙を隠して宮殿本館と「雨男」の小屋を行き来していました。はい、この秘密はもう少しの間だけ、私と大公ご夫妻と「雨男」以外の人間には秘密にしておかなければならないのです。
 「雨男」はやはり私のノックからやや時を置いて、絵の具まみれの姿を見せました。黒いジャンパーのカラフルな汚れは、日々付け足され重なり合い、色絵地図がどんどんと更新されるみたいに変化していました。彼は澄み切った眼に、満ち足りはにかんだ微笑みを浮かべて、私に「いらしゃい」と言うのです。
 私と「雨男」の話題はほとんど尽きてしまったかのようでした。天気の話や、絵の進み具合などを通り一遍話してしまうと、私たちのあいだには沈黙が長く伸びました。でも、その沈黙は居心地の悪いものではありませんでした。彼は黙ってサンドウィッチを咀嚼し、冬を告げる渡り鳥の鳴き声に耳を澄ませていました。 
 大公殿下が妃殿下と「雨男」の仲を許したということならば、「雨男」が罰せられるということはないずです。それは私を深く安堵させ、そしてまた救いようのない気分にさせました。私はもう、二人のことが心配だから、この恋に反対しているというポーズは取れないのです。ええ、軽食を食べる「雨男」の脇で味わう沈黙は確かに居心地の悪いものではありませんでした。でもそれは、氷点下の朝、むき出しの頬に触れる北風のように、きりきりと痛いものでもありました。
 私は黙って「雨男」の隣に座り、空のバスケットを手持ち無沙汰にいじりながら、冬が速足で近づいて来る高い空を見上げていました。「雨男」のほうも、ほとんどしゃべりませんでした。本当に幸せな人は、かえって無口になる様ですね。
 私は私の心を図りあぐねていました。胸に沸騰している苦しみは、それまでの私の精神生活においては、どれも理屈に合わないことばかりでした。何故苦しいのか? 何故悲しいのか? 憎しみではないはずでした。今まで憎しみを抱いたことはないので、憎しみとは何なのかは知りません。私は「雨男」にある種の愛着を感じている事は確かです。でもその感情には、知らないはずの憎しみが、愛着と等価にこびりついているような気がするのです。いくら考えても訳が分かりません。気が違ったのかとさえ思いました。
 言い訳させていただくと、例えば皆さんは人生で初めて雨を見たとき、「これが雨だよ」という説明も無しに、それを「雨」だと認識できるものなのでしょうか? 時に荒ぶって災いをもたらすのに、大地を森を田畑を潤し、人の心も洗いさえするという「雨」という言葉に付随する意味を、空から降ってくる水滴の名前として正しく理解できるものなのでしょうか? 確かに私の頭は人よりも硬くて融通が利きません。でも、幼い時分に訪れるような想いは、誰でも似たり寄ったりなのではないでしょうか? もっとも、私は多少歳を取り過ぎてはいましたが。 
 百里霧中の中、何とか答えを見つけたくて、すがるものが欲しくて、私は足しげく神殿に通いました。必死に問いかけをして救いを見出そうとしました。きっと当時のハレの国には、私より熱心に祈ったものはなかったでしょう。しかし、どんなに熱心に手を合わせても、いのりの文句を熱い息とともにつぶやいても、やはり神様は私には何一つ答えを与えてはくださらなかったのです。
 おそらく、私は神殿へは行くべきではなかったのです。そこは「澱の下の者たち」の領分と重なっていて、なおかつ「太陽の番人」が私に甘言を弄した場所でした。心中を神様に語り掛ける私は無防備で、心は丸裸でした。だからこそ、心の危機は再びあちらの方から近付いてきたのです。

 その日私は六日おきの休養日にあたっていました。前夜もまた深く眠ることが出来ませんでした。カーテンの隙間から差し込む冷たい朝陽が目に沁みます。私は神殿を訪れようと思いつきました。冷たい水で顔を洗ってまっさらな光の中で、神様とお話をしてみようと。
 もう半分冬に脚を突っ込んだような冷たい朝でした。朝餉の時間に当たっているのか、祭壇前には神官様の姿もありません。私の他に祈る人もなく、白百合が絶えて、代わりに白菊をささげられた御像が穏やかにほほ笑まれています。私は必死に心中を語りかけていました。
 「どうか、どうか、答えをお与えください、私の心に平安を取り戻してください」
 ふと、左脇で誰かが咳払いしました。私は体をびくりとさせました。誰かが私の左側に座ってます。気が付かないうちにひっそりと……。私の他に祈る人もいなかったはずでした。その気配は振り向くこともできない私の横でふた呼吸つきました。
 「もし……」
 ニスを塗った木材のように低くて艶のある男性の声でした。私はそれを耳にした途端震えあがりました。もう二度と聞きたくないと思っていた声だったのです。
 私は合わせた手のひらを膝に置いて、首だけを傾けて、下から上に見上げるようにそろそろと振り返りました。そうであって欲しくないという思いは裏切られました。それは短く茶色い髪をした、「太陽の番人」でした。
 「随分と悩まれているご様子ですね」
 私は何と返したらよかったのでしょう? もしかしたら顔を見た途端に、わき目も振らずに逃げ出してしまうべきだったかもしれません。でも体は動けませんでした。声をあげることも立ち上がることもできませんでした。
 「ご意志に反した使命を仰せつかったのですね。心中をお察しします。あなたの立場であったなら詮無いことです。主の密通を手引きするという、道に反したことであっても」
 私は黙っていました。何も言えませんでした。そもそも返すべき言葉など持ち合わせていません。
 「再び、我らにとっては危機的状況となりました。あなた一人に責任をかぶせるわけにはゆきませんが、その罪の一端はあなたにいると断定してお話に来ました。このままでは今日明日にも「雨男」の絵は完成し、この国には雨が降るようになる。もめごとや別離、戦争も、楽園に親しんだあなた方を脅かすようになってしまう。このようなことは許されてもよいのでしょうか? 私なら断固拒否します。あなただってそうでしょう? だからこんなに苦悩されておられるのでしょう? 」
 私は心を固くしてじっと黙っていました。騙されてはいけないのです。この男は私をいいように利用しようとしているだけなのです。
 「あなたに挽回の機会を与えます」
 そう言うと、彼は私の膝に置いた右手をつかんで、何か細くて硬いものを握らせました。それは彼の体温で生暖かく湿っていました。私は驚いてその手の中のものを見つめました。
 「これで『雨男』の体を一突きするのです」
 それは小さな錐のような形をしていました。木製のグリップがあって、針の部分にゴムのカバーもついています。
 「いいえ、案ずる必要はありません。あなたの腕力であの男の心臓を一突きしろと言っている訳ではないのです。これには毒が塗ってある。遅効性の毒です。体に入って三日ほどで効力を示す」
 私は目の前の男を、血液が吹き出すのではないかと思われるほど、ひりついた眼で凝視しました。この男は、何ということを私に強いろうとしているのでしょう!
 「これが毒だということはつまり……」
 「そうです、あなたがこれで『雨男』の体に傷をつけて三日後、『雨男』は死ぬ」
 体が激しく震えました。歯と歯がかみ合わなくなっていました。洗い清められたかのような、初冬の神殿に差し込む優しい朝陽は、まるで幾千もの氷で出来た針のように、目に皮膚にざくざくと突き刺さる光線に変わりました。私は必死に、男の手から自分の右手を取り戻そうと抵抗しました。しかし、引き留める力は、男の波一つ立てない表情からは想像できないほど強く、かえって私の指で完全に錐をつかませると、左手もつかみ上げ、右手の上から無理やりに握らせました。まるで体の中に異物が入り込んだような心地になって、私は目を閉じて首を横に振りました。
 「駄目です、絶対に駄目です! このような卑劣で悪意に満ちたこと、道徳に反したことはなすべきではありません。良くない行いを止めるために、良くない手段を使ってはならないはずです! 」
 「状況はひっ迫しているんです」
 男は言いました。
 「表側の人間が行うことは、表側の者が止めなくてはならない。それが世界のルールなのです。あなたは幸運です。このように重大な潮目で、二度も運命の白羽の矢が立つなんて。あの男さえ殺してしまえば、あなたの弟は永遠に戦場に赴くことはない、妃殿下はここにとどまり、公女殿下も許婚を失わずに済む。良いことづくめではございませんか! 」
 「駄目です、駄目です! 人殺しなんて! それはあらゆる不道徳や罪の中で、最も重い罪状ではないのですか? 私は家庭においても教育の場においても、『人を殺して名誉をえよ』などと教えられたことはございません! 」
 私は涙まじりで叫びました。必死に両手を取り戻そうともがきました。しかし、静かに聞いているはずの男の腕の力は私に抵抗を許さず、ついに私は自分の手を一本も取り戻すことは出来ませんでした。
 「なるほど、楽園の住人としての資質が大いに使命の邪魔をしている。あなたは心の蓋が半端に外れかけているが、まだ完全にははじけ飛んでいないのか。ではこうしよう。今からあなたの心の蓋を完全に外して見せよう。そうすれば、今私が言ったようなことも理解できるようになる」
 男は自分の右手で私の両手をつかんだまま、左手で私の額から頭頂部にかけてを包みました。それは分厚い革のグローブをはめたように大きな手でした。そこから強い握力がくわえられて、額に痛みすら感じます。大きな熱い手のひらからは、今まで心の奥底で眠り込んでいた、知らない感情を燃え立たせる「何か」が注ぎ込まれてきます。私は抵抗の意をこめてぎゅっと目を閉じました。瞼の裏側は真っ暗でも、血の色に染まってもいませんでした。真夏の正午に照りつける陽光のような金色に埋め尽くされていました。その金色の「何か」が、皮膚から頭蓋骨、脳神経、それらの細胞の一つ一つをも侵略してきます。私はうめき声をあげました。望んでもいない変化が、私という、今まで作り上げてきた人間を覆そうとしているのです。
 あっと思った瞬間、私はもう変化していました。それはここに至るまでの紆余曲折や、いかにも理不尽な男のふるまいのような劇的な展開に比べて、拍子抜けするほど呆気のないものでした。心を重たく塞いでいた蓋は、分厚く重い鉄製の物を想像していたのに、実は量産品の薄っぺらいアルミ蓋だったというように、簡単に吹き飛んだのでした。
 胸の奥底の知らない感情が解放されると、まるで今まで知らなかったことのように、世界に風が吹き渡っていることに気づきました。それは枯れ木を吹き抜け、祭壇の蝋燭を揺らし、空のずっと高い所で歌っていました。全身の皮膚が耳になったみたいになって、皮膚を撫でるわずかな空気の流れにさえ命がときめきました。
 世界は様々なにおいに満ちていました。祭壇の香炉の匂い、枯葉のどこか香ばしい匂い、石造りの神殿特有の無機質で冷たい匂い、霜柱が解けて湿気た大地の中で、生き物の死骸が腐敗してゆく臭い。心臓が今までになく新鮮な血液を運んで脈打っています。自分の心が世界に向かってどこまでもどこまでも開かれてゆきました。
 それなのに……。一方で私はふつふつと怒りをためていました。新緑の緑のくらい息づいた心は、空恐ろしくなるほど攻撃的でした。意に介さない全ての物や人に憤りを感じていました。老いた母や弟たち、死んでしまった父親、敬愛する妃殿下さえその矛先を逃れることはできませんでした。そして私が誰よりも怒りを感じていたのは、「雨男」に対してだったのです。
 私の閉じた瞼の中に、「雨男」の子供じみた笑顔が浮かびます。私に向ける、私の心によらない、私のために作ったのではない笑顔が浮かびましす。全身に新しく怒りの毒液が回ったように震えが走りました。
 「許せない……」
 私は気付くとつぶやいていました。閉じられた瞼からは涙が溢れました。熱い熱い涙でした。涙と一緒に鼻水もこぼれました。私は流れるがままにしていました。
 私が固く閉じていた眼を再び開けたとき、「太陽の番人」の姿はもうありませんでした。
 彼から手渡された錐は、私の両手の中にありました。
 実際の質量に比べるべくもない、大地が陥没するような絶望的な重さを両手に感じました。私の手の中には「雨男」の命だけではなく、公国中の人々の命運が預けられていました。
 「私が、雨男を殺す……」
 それは、「見上げる山脈を一跨ぎしなければ殺す」と言われるくらい、理不尽なことのはずでした。それなのに、怖いものを凝視してしまうような魔力が、再び私の心をとらえたのです。

 私は錐を投げ捨ててしまうことも出来ずに、ふらふらと神殿を出ました。全身が震えていました。見上げればさっきと何も変わらない、すがすがしい初冬の朝日が、丸裸になった杜の上に輝いています。甲高く冬鳥が叫ぶのが聞こえて、その声の主に救いを求めるように探しながら、自分のものとは思えないくらいよろよろとした足を運べば、霜柱がしゃくしゃくと音を立てて崩れました。私は涙を流したまま歩きました。
 先ほどからの、世界に対して心が開かれている感覚は、ずっと続いていました。しかし世界は私が考えていたようなものではないことが、いよいよわかってきたのです。それはよく切れる剃刀の刃のように痛いものでした。今までまどろんでいた世界のように、愛着と共感に満ちてはいませんでした。私が憤ればあちらも憤り、一歩引けばあちらは二歩攻めてきます。私は涙と鼻水でボロボロの顔のまま歯を食いしばりました。心に映る「雨男」の像も憎々し気に歪みます。
 憎しみ……。そうです、憎しみです。今まで憎しみを感じたことはないと思っていましたが、私が感じているこの感情は、まぎれもなく憎しみでした。それは今生まれたばかりのものではありませんでした。ずうっと上澄みの清らかさしか見ない心と伴走して来たものでした。今まで表面上にこやかにふるまいながら、その実私はこのどす黒い感情を欝々と育てていたのです。
 「ああでも、どうしてこんなにまで雨男さんが憎いのかしら? 彼は私に対してひどいことをしたこともないのよ。雨と諍いと別離をもたらすという醜い使命は負っているけれども、ずっと私の親切な友人だったはずよ。私の方こそ彼にひどいことをした、変な薬を盛ったりして……」
 「何を甘ったるいことを! 雨が降ればもめごとも別離も起きるし、近い将来には戦争だって起きるでしょう。そうしたら何万もの人々が死ぬのよ、ドニーだって死ぬかもしれない。この国を戦乱に陥れる絵を描いている時点で、雨男は邪悪なのよ。彼の命一つ奪うことで、何千何万人もの人の命を救うことになるのよ。だから雨男を殺すことは……」
 私はお社の杜をさまよい続けました。小径をたどり、そこからそれて、くねくねと絡み合った樹木の根元を乗り越えたりしながら歩いたのです。小鳥が木の実を求めてちょんちょんと跳ね、私の気配に驚いてはバササという羽音を立てて飛び上がります。彼らのさえずりが、木の葉のざわめきも絶えて無くなった裸の杜に、賑やかに響いていました。
 私は涙を流し続けました。太陽は白さを増しながら頭上に高く角度を変えてゆきました。泣き過ぎてジンジンと疼く目で見上げれば、その絶対的な高さに絶望感を憶えました。あのお日様には手が届かないのだということが、何故か悲しくてなりませんでした。ちっぽけで地を這って生きるしかない私は、足元の枯葉の下をもぞもぞとはい回るゴミムシと同じです。
 どうしてそんなことに今まで気が付かなかったのでしょう? お日様は昨日までだってずっと頭の上にあったはずです。私には羽が無くて飛べないということだって分かり切っていたはずです。
 きっと私は、さっきと今とで大きく変わってしまったわけではないのです。ただ目が開いているかいないかの違いだけなのです。私が心の奥底で憎しみを飼い太らせていたということは、憎しみの種ももめごとの種も、別離の種も、この国にはしっかりと存在していたということなのです。しかし、それを凝視しなければならないことは、何て辛いんでしょう! 
 こんなこと、全てのハレの国民に強いるべきじゃない、と私は思いました。心の奥底の蓋が開いて、憎しみの感情を知ることで、こんなにまでも世界が痛く生きづらくなるのなら、そんなこと誰にも経験させるわけにもゆかない、こんなこと、私一人で十分だ……。
 私は手の中の錐を握り直しました。
 黒い鳥がヒュルルーッと鳴きながら舞い上がりました。私は「雨男」の黑い髪の毛を思い出しました。彼の年齢では、考えられないほど澄んで清らかな眼差しを思い出しました。絵筆のとり過ぎでタコが出来た右手指や、日々更新されていく黒いジャンパーの絵の具汚れ、笑うとき必ず泣いているようにも見えるところ、サンドウィッチを食べるときいつも左側の歯を使って咀嚼するところ……。もろもろの「雨男」の像が頭に浮かびました。
 私は立ち止まります。立ち止まって涙を流します。これのすべてが失われてしまうなんて耐えられない! 彼が死んでしまい、私が生きていて、どうしてそんな未来に耐えられるというのでしょう? きっと私は死ぬまで苦しみ続ける。今日のこの日のことを悔やみ続ける。
 頭の中に泣きそうな顔で微笑みかける「雨男」の姿が浮かびました。瞼の裏の彼は私から目を落とすと、大切な宝物のように、妃殿下からのお手紙の差出人の所を撫でました。ぞくりと憎しみが走りました。許せない、許せない、許せない、許せない! 彼が妃殿下といなくなることなんて許せない!  私は取り落としかけていた錐を再び握り直しました。そうしてまた瞼の裏に「雨男」の様々な姿を思い起こして涙を流しました。しかし太陽が高さを稼ぐにしたがって、私の手は、錐のグリップの曲線やその重みを、しっかりと手の中に確かめるようになったのでした。
 混乱のまま杜の中を歩いていると段々と、目の前に広がる風景が、夢か現か判別がつかないような心持になってゆきました。金属的な輝きを持つ黒い鳥が足元に舞い降りると、黒い仕事着に頭巾を付けたリコリスに変わって、ピーヨッという鳥の鳴き声のような、しかし確かに聞き慣れたリコリスの声で、私に悲痛に訴えます。
 「ナータ、考え直して、初めて本当の芸術に触れられるのよ、思いとどまって! 」
 気付けば「しとしと歌う君」の呪文の様な歌声が、空気を満たしていました。裸のナラの樹皮の模様が伸び縮みして、響きあう二つのリュートになります。楽器を奏でる二人の男女は、相手の膝の上を飛び越え、股の間をくぐり、曲芸的な演奏を繰り広げています。
 私の視線は「しとしと歌う君」を探しました。彼女は目の前の樫の木立よりも高く、サーカス小屋のテントのように膨らんでいました。くるくるとした黄金の髪は陽に透かされた柳のように垂れ下がり、その純白の衣からは半分青空が透けて見えました。紅の唇で彼女は歌います。辺りの枯れ枝が一斉に風に揺らぎます。小枝の一本一本に小さな鈴が括り付けられて、妖精のおしゃべりのようにさやかな音が鳴り響きます。「しとしと歌う君」は深海の様な藍色の目で私を見下ろしています。その眼差しは、まるで私を試すかのようでした。
 何時の間にか私の背後には、白い仮面をつけた「澱の下の者たち」が半円を作って囲んでいました。彼らはまるで古代の演劇のように、身振りも大仰に「しとしと歌う君」に呼応するように歌いました。

 愛の反対は憎しみではない
 愛してないとき
 人はからっぽになる
 憎しみの反対は愛ではない
 憎んでいないとき 
 それはからっぽになる
 愛の反対は憎しみではない……

 見上げれば雲のようにぽっかりと、大きな生き物が風に乗って流されてきました。それは学校の図書室で見た図鑑のシロナガスクジラでした。その潜水艇のような流線型の腹が膨れたと思った途端、クジラは地上からは見えない背中から勢いよく潮を吹きました。そのしぶきはクリスタルのように輝きながら、地上にこぼれ落ちてきました。

 雨よ降るなら早く降れ
 心にたまった膿を出し
 土砂降り雨で洗おうよ
 雨は流すよ全ての毒を
 心を汚すものすべて

 「澱の下の者たち」の合唱が熱を帯びます。彼らは何時の間にか私をぐるりと取り囲んでいます。二人一組になり、相手を突き刺し足蹴にする仕草を繰り返します。遠くでカラスが騒いでいます。「澱の下の者たち」の背中には、何時の間にか黒い羽が生えています。
 ねえ、今なら何を聴いても読んでも心に響くわ、思いとどまって! リコリスが懇願します。
 「しとしと歌う君」の歌声はいよいよ輝かしく、その黄金の髪の毛は、まだ見ぬ雨のいちばんやさしい降り方のようでした。

 愛の反対は憎しみではない

 「しとしと歌う君」が左手をその豊かな胸に当て、右手をこちらに差し伸べて声を張り上げます。

 愛してないとき
 人は空っぽになる……

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慟哭

 気が付いたとき私は、木の根っこと木の根っこにもたれかかるようにして、眠り込んでいました。何時の間にか太陽は天頂を過ぎていました。私の右手には、あの錐がしっかりと握られたままでした。私は、冷えた額と頬に張り付いた髪を一筋払いのけました。そうして決意を込めて立ち上がりました。

 午後の二時ごろ、私は厨房を尋ねました。宮殿には三つ厨房があります。下級の使用人たちのための粗末な賄い場と、私のような中間の身分の使用人たちのための厨房、そして、大公ご一家や賓客たちのための、一流の料理人の詰める厨房。「雨男」の軽食作ってくれていたのは、この一流の厨房のカトーシェフでした。
 私はちょっと気が向いたというように、いかにもぶらりとした風を装ってそこを訪ねました。そして、この数か月ですっかり顔見知りになったカトーシェフと、世間話をしました。
 十分も経った頃、カトーシェフは、厚切りの牛肉を二枚取り出してこう言いました。
 「ナータ、せっかく来てもらったんだから、雨男にいつも通りサンドウィッチを持って行ってくれ。あいつは今日もきっと腹をすかしているよ。それからついでだからおまえの分のパンも用意しておくよ。今日は非番なんだろ? お仕事じゃないから世間話でもしながらゆっくり軽食を食べるといい」
 私はいつもの籠の中に二人分のサンドウィッチと珈琲の瓶を持って、いつも通り庭園を歩いてゆきました。普段と違うのは、籠の重さが倍になったことと、私がモスグリーンの普段着を着ていること、妃殿下からのお手紙の代わりに、毒を塗った錐を籠の底に隠していることでした。
 私の心はパンパンに膨らんだ風船のようでした。中に充満しているのは、憎しみなのでしょうか? それとも使命感なのでしょうか? 私の脳裏にはもはやどんな考えも、苦悩も悲しみも迷いも罪悪感も、もちろん喜びさえも浮かびませんでした。ただ高揚感だけが私の体を動かしていました。そして私はレールの上をひた走る機関車のように、これまでに作り上げたルーティーンから逸れて動くことはできませんでした。私は何気ない足取りで歩いていました。表情だっていつもとほとんど変わっていなかったはずです。そんな私を見かけても、誰一人疑問に思う者はいなかったでしょう。
 太陽は気が進まないかのように地上を照らしていました。陽光は皮膚に届いてぬくもりを伝えるより前に、空気に熱を奪われていくようでした。冷たい初冬の風はさわさわと渡り、枯葉や枯草や、その下でしぶとく粘っている常緑の緑を揺らしていました。ピーヨーッと冬鳥が鳴いています。その姿を探して見上げれば、カスタード色の雲がぼんやり空に滲んでいます。私は水車小屋のあたりで、五月に空を渡ってゆく綿毛を見上げたことを思い出しました。
 私の足はどんどんと歩みを続けて行きました。それは心に従ってのことなのでしょうか? それとも心に反してのことなのでしょうか? まるで慣性の法則で、するすると動いて行く台車の様です。何もかも滑らかに、抵抗も焦りも、少しの誤差も感じません。
 常緑の椿の植え込みの前を行き、枯れたタンポポの群生の脇を行けばもうそこは、「雨男」の仮設小屋の前でした。私は迷いなくドアの前に進み出て立ち止まり、三度息をつきました。そして機械仕掛けの人形であるかのように、無感動に三度ノックしました。
 いつも通りノックからややあって、「雨男」がドアを開きました。彼は意外そうに、澄み切った目を丸くして言いました。
 「やあ、ナータ、今日はお休みだって言ってたじゃないか」
 私はにっこりと口角をあげました。どうしてここまで狡猾にほほ笑むことが出来るのだと、我ながらあきれるほど快活な笑顔を作って、手に持った籐籠を高く掲げました。
 「そうよ、今日はお仕事じゃないの。だから今日は雨男さんと一緒に食べたり飲んだりしていいのよ。カトーシェフに私の分のパンも作ってもらったわ」 
 私たちはいつも通り、日の当たる場所を選んで、枯草の上に座りました。北東の風は小屋の壁面で遮られ、そこだけはいつも少しぬくもりを感じる温度なのでした。見上げればしきりにカラスが騒いでいました。油っぽい羽根を陽光に輝かせて、こちらに着地するでもなく上空を旋回し、醜い叫び声をあげました。私は心の中でつぶやきました。「邪魔しないで」
 「雨男」が牛カツレツのサンドウィッチにかぶりつきました。それを見た私もまた微笑んでほお張ります。そして二人して邪気のない笑顔を浮かべ、他愛のない話をしました。私はパンと珈琲を取り出した後のナプキンの膨らみに、錐の細長い形を確認しました。
 「今日はお日様が出ているけれどもめっきりと寒いねえ」
 「この時期って何だか圧迫感があるわ。日々昼が短くなって、夜に押しつぶされているみたい」
 「五月の庭園がちょっとだけ懐かしいな。ここへ来たばっかりの頃は、沢山タンポポの綿毛があった」
 私は「雨男」の視線が逸れるたびに、籠の中の錐を探ったりやめたりしました。その衣服の薄い所をうかがい、背を見せる素振りでも見せようものなら即座に錐を突き立てるつもりでした。満点の笑顔で行おうとしているのは、悪魔か死神の所業です。
 彼が二切れ目のパンをとろうとして膝の上の包みに手を伸ばした時、「雨男」の右手指が目に留まりました。皮膚は乾き、ガサガサに厚くなって、その皺に幾筋もの絵の具がこびりついてます。中指と人差し指の関節はすっかりと折れ曲がり、絵筆をとる以外の動作をするときに、果たして支障がないものだろうかと思われるくらい歪んでいたのです。
 「その指のタコって、曲がりくねった木の枝みたいね。治してくれるお医者様はいないの? 」
 「うん、もうすっかり骨が変形してしまっているんだ。職業病だよ。まだ学生だった時からこうだったんだもの。こんなになるまで絵を描けていたんだって、かえって誇らしいぐらいさ」
 「私には解らないけれど、そんなにまでして画家になりたかったの? 芸術って、そんなに、真っ直ぐできれいな指を失ってまで欲しい大切なものなの? 」
 「雨男」はむきになったように顔を赤らめました。
 「何の益にもならないように見えて、実は命と直結するぐらい大切なものだよ。俺が画家になろうって決めたのは十歳の時だった。故郷の町に巡回に来ていた世紀の巨匠と呼ばれる画家の、反戦の絵を見た時だったんだ。その色やフォルムにうたれるだけじゃなくて、そこに込められた思いの激しさにやられてしまったんだ。見ていて涙がぼろぼろと流れてきたんだよ。実際、この絵一枚で反戦の機運が高まって、死ぬはずだった何万もの予備役が戦場送りにならずに済んだ。芸術がひとの心を動かしたんだよ」
 「雨男」の誇らしげに赤らんだ顔を見ていると、腹の底で憎しみがふつふつと沸くのを感じました。満点の笑顔はひび割れて、そこから押し隠していた感情がにじみだしてきます。私は右の口元をひくつかせながら言いました。
 「あなたの絵が完成すれば、反対に戦争が起きるじゃない」
 「誰がそんなことを言っているんだい? まだ決まっていないよ。戦争を回避するのは政治家のお仕事だ。絵はあくまでも私利私益で戦争を起こそうとしたり、憎しみにかられて判断力を失った、人々の心に訴えかけることしかできない。君は芸術というものを一方では過小評価して、一方では過大評価している」
 「どこがどう過小評価で、どこがどう過大評価なの? あなたの絵が完成すれば、ハレの国は戦争をする国になる。実際に戦争が起きるのは時間の問題じゃない」
 「いいかい、戦争を起こすのも止めるのも、人の心なんだよ。その心を芸術はゆすぶる、だからこそ時に、優れた絵や音楽や詩や小説は、世界を大きく変えることが出来るんだ。自慢じゃないけど俺は今まで一度も、好戦の気分を高める意図を込めて絵を描いたことはないよ。この絵が雨をもたらして、その雨が人々の心に平和をもたらすことを願って描いてきた」
 「カンバス一枚にそんな力があるのかしら? 」
 「あるよ、絶対にある。君は絵を見て泣いたことがあるかい? 音楽を聴いて泣いたことはあるかい? 」
 「絵を見て泣くなんておかしいわ! 」
 「それはきっと、まだ君たちが楽園の住人だからだよ。あの絵がお披露目されて雨が降れば、君たちだってきっと泣いてくれるよ」
 「私は泣かないわ、絶対に泣かない! あなたの雨の絵なんてなんだってのよ! 」
 「俺を馬鹿にするのはいいけど、俺の絵は馬鹿にしないでもらいたいな」
 心が嵐に巻き込まれた帆船のように大きく揺らいでいました。落ち着け、ナータ、落ち着くのよ! 憎しみをあらわにしては計画がとん挫してしまう、決して怪しまれるようなことを言ってはいけない。それなのに、私の横隔膜は大きくうねって、海面から大きなクジラが姿を現すみたいに、吞み込んでいた感情たちが、盛大に水しぶきをあげてせり上がってきます。きっと私の目も、私が隠し通そうとしていた本心をありありと表して、ただならぬ光を宿していたに違いありません。「雨男」はそんな私の目を見て一瞬口をつぐみ、透明すぎる眼差しにひどく真面目な表情を作って言いました。
 「いいだろう、ナータ、特別だよ。特別に完成間近の絵を見せてあげるよ。ついておいで。でも、ナータも楽園の住人だから、絵を見て泣くなんてことはないのか……。まあいいや」
 「雨男」は立ち上がって小屋の入り口の方へと歩きだしました。そのこちらへ向けられた背中に、私の右手は籐籠の中の錐を探り当てましたが、彼のジャンパーの背中にまでついた汚れが目に入ってしまうと、何故か冷たいグリップを握りかけた指を止めました。私は彼の後について小屋の戸をくぐりました。
 小屋の中は上方に大きくあいた窓から差し込む光に照らされていました。細かな塵がキラキラと輝き、四角い窓枠の形に角材のように浮かび上がっています。床にはおびただしいほど多彩な絵の具の缶と、大ぶりなものから細かいものまでそろった絵筆、絵の具まみれのパレットナイフが散乱していました。絵具のべっとりと鼻にこびりつく臭いが漂っていました。それは「雨男」の匂いでした。
 「雨男」は迷いなくロフトへの階段を上ります。その無防備な背中に、私は籠の中の錐を取り出して刃に着いたカバーを外しました。両手でしっかりと握り、腰の所に低く力をためて構えました。息をひそめながら、大きく吸って吐きました。「雨男」は命を狙われているなんて思ってもいないでしょう。これから三日後に苦しんで死ぬなんて。それも心を許した友人のはずの私の手で。でも、これで私の苦しみは、この数か月にも及ぶ煩悶は、はっきりと終るのです。
 「さあ、ごらんよ」
 雨男が階下に右手を差し伸べました。額にべっとりと汗を浮かべて突進する私は、ふと、本当に何を思ったか彼の導きに従って、一階の床に置かれた絵を見たのでした。
 胸に強い風圧を受けたように私は立ち止まりました。それは黒ずんだ青の絵でした。遠景にはこの都を丸く囲む山脈が蒼い影を巡らせていました。そこから緑あふれる農地、瀟洒な都会の風景が連なってきます。そこに見慣れない黒や藍色や、白く輝く斜線が、神々しいまでの威厳を備えて叩きつけられていました。地面には王冠の形をしたしぶきが散っています。そこに流れるものはやがて大きな奔流になり、滔々と流れる大河となりました。そこから白い湯気が湧き出して空に昇り、灰色や水色で描かれた雲に吸い込まれてゆきます。そして、そこからこぼれ落ちる黒や藍色の斜線。それは、私が今まで書物の世界でしか学んだことのない、水の輪廻でした。全ての水は巡ってゆくのです。ぐるぐる循環して、また新しく生まれ変わり、その巡りの中でひともまた生きているのです。
 私は震えながらため息をつきました。その色が、形が、構造が、さらにそこに込められた言葉にはできないものが、どかんと胸の中に飛び込んできたのです。それは実に生々しいものでした。誰かの命にじかに接しているような、むき出しの悲しみや喜びに接しているような。その絵を見た途端、私の心は丸裸になったのでした。
 私は握っていた錐を取り落としました。軽い音を立てて、それはロフトの床に転がり一階に落ちました。
 「どうだい、すごいだろう? 」 
 「雨男」は子供のように自慢げに鼻を鳴らしました。私の両眼からは大粒の涙がこぼれました。そのままがっくりと膝を折って、私はへたり込んだまま嗚咽しました。私は自分が絵を見て泣いていることが信じられませんでした。それでも、涙は後から後から湧いてきて、一生分ため込んできた悲しみや憎しみや怒りを、洗い流すかのようでした。泣きじゃくる私を見て、「雨男」はおろおろと背中をさすりました。
 「ナータ、どうしちゃったんだい? 俺の絵を見て泣いてくれるのは嬉しいけど、ここまで泣きじゃくられるとどう反応していいのか分からないよ。具合は悪くないかい? 大丈夫かい? 」
 私は答えませんでした。とても答えることはできませんでした。私という体をもってここに生きていることが、踊りだしたいくらい嬉しく、その反対にどんなに泣いても泣き足りないくらい悲しく、どちらの感情もすべて正しく、太陽の作り出す光と影が一体なように、まぎれもなく私自身の心でした。
 きっと雨というのものもお日様と同義の両面性を持っているのでしょう。もめごとも別離も戦争もまた、雨や太陽と同じ正と負の面を持ち合わせているのでしょう。それは、私たちが生きていくうえで、避けられないものだということが、どんなに言葉を尽くされるよりも生々しく心に迫ってきました。生きているということは、こんなにも嬉しくて、こんなにも悲しのです。「雨男」の絵は、私の人生の姿を言い当てているのでした。
 私は「雨男」の手に背中をさすられながら、泣き続けました。

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 一週間後、「雨男」の絵は、宮殿の広場に面した城壁でお披露目されました。ゆっくりと、大きな壁画がロープで持ち上げられてゆきます。都中の人々が広場にひしめき、物見高い遠方の人々も大勢押しかけていました。皆、自分たちの人生を一変させてしまうかもしれないこの絵を、不安とおののきと期待とを持って見上げていました。
 絵がよく見える左手前に、群青色をした天幕が張られていました。そこは貴賓席となっていて、大公殿下ご夫妻や、大貴族、大臣たちが、立派にしつらえた椅子に座って眺めておられました。カラフルな汚れのジャンパーの代わりに、黒い背広をお仕着せられた「雨男」も、大公妃殿下の左脇に座って、自分の絵が人々の目に届くのを待っていました。私は妃殿下の後ろに立って眺めていました。
 宮廷付きの金管隊が華々しいファンファーレを奏でると、するすると絵を覆っていた布が解かれました。私の心を打って、「雨男」の殺害を思いとどまらせた絵が、集まった群衆の前でそのベールを脱いだのです。絵は私が見たときよりももっと、精緻になり迫力も増していました。こうして実際に飾られるべき場所に飾られると、細かな光の加減や背景の色などが、よりもっと心の奥底まで迫って来るように思われます。
 群衆は一瞬どよめいて静まり返り、その後で、流れに幾つも渦を巻く水流のような溜息がそこかしこに広がって、広場中に静かにゆるやかに満ちてゆきました。私の心を打った絵は、人々の心をも打ったのです。皆、この絵の持つ魔力に心魅入られ、一言も話せないようでした。私は誇らしいような、それでいてけだるいような感覚で、それを眺めていました。
 人々の溜息がまだやまない中、今まで楽園さながらの青い光に晴れ渡っていた空が、さっと翳りました。刷り跡もまだ新しい新聞のインキを、ごしごしとこすってぼかしたかのような黒雲が、目に見える勢いで押し寄せてきたのです。見る見るうちに青い光は遮られ、辺りは黄昏たようになりました。しかし、私たちがよく知っている黄昏とは違い、赤さびた、妖しげな光が、雲と大地との間に明滅しています。
 地表から湿っぽい、まるで黴た石を濡らしたかのような匂いが立ち昇ってきます。私の記憶の断片にさっと光が当たり、花盛りのバルコニーと臙脂の雨傘を思う間にも、ゴロゴロという荒々しい音を立てながら、まるで命と意志とを持った存在であるかのように、雲は自律的に膨れ上がってゆきました。
 赤黒い妖気を漂わせた雲の中に、紫の閃光が走りました。人々が小さく悲鳴をあげます。ややあって、すさまじい轟音が鳴り響きました。空がざっくりと裂けるかのようなその音に、人々の悲鳴は大きくなりました。光は、邪悪な竜が我が物顔に飛び回っているように幾筋も走って、そのたびにやや遅れて轟音が鳴り響きました。集まった群衆は逃げることも思いつかず、ただその場に立ち尽くして見上げるばかりでした。
 ポツリ、ポツリ。最初にその雫を頬で受けた人は、いぶかしげに皮膚に伝うそれを指でなぞりながら空を見上げました。それがハレの国に、千年ぶりに「雨」というものが降った瞬間でした。続いて、人々の帽子に、スカーフに、そのむき出しの頬に首筋に、鉛色の雫がやや勢いを増したように注ぎました。それは見る見るうちに密度を高め、蕭々という、葉擦れのざわめきを大きくしたかのような音を立てて降り注ぎました。雨を知らない善良なハレの国の人々は目を丸くして、肌を、髪を、衣服を濡らす雨に、濡れるがままにされて立ち尽くしていました。
 妃殿下がお席をお立ちになられました。天幕をお出になり、菫色の刺繡を巡らせた豪奢な衣装のまま、驟雨の中へと御身をひらりと躍らせたのです。数々の勲章で身を飾られた大公殿下も続いて雨の中へ駆け出してゆかれます。お二人の横に座っていた「雨男」も、お仕着せの黑い背広が濡れるのも構わずに天幕を飛び出ました。三人はまるで子供のようにはしゃいで、雨の中じゃれ合い、地面にたまった水を飛ばし合い、笑い声をあげました。
 天幕の中の貴賓たちもすべて雨の中に飛び出し、金管隊は楽器に雫を伝わせながら、いよいよ華やかな曲を演奏しています。群衆もいつしか皆一様にはしゃいでいました。大きく口を開けて雨粒を飲み込もうとする者、石畳にたまった水に飛び込む者、隣の人を引き倒そうして濡らそうとする者。底抜けに明るい笑い声が広場中に満ちていました。
 私も静かに天幕を出て見上げました。生れて初めて知る雨でした。十一月の雨粒は身を切るようでしたが、冷たい水が頬に額にぶつかるたびに、私の両眼からは熱いものがこぼれ落ちそうになりました。雨は春に妃殿下がおっしゃったように、独特の匂いがしました。それは、私の隣でサンドウィッチを食べていた「雨男」の匂いに、どこか似ているような気がしました。
 そして、髪や顔や衣服が濡れていくごとに心の深い所が、清らかな水で潤されていくのを感じました。私は今まで本当には美しいものを見てはこなかったのです。美しい音を聞いてはこず、美しい言葉も発してはいなかったのです。そうです、乾いていました、私はこんなにも乾いていました、潤されるときを待っていたのです! 
 奔放なリュートの音が鳴り響きました。押し寄せた群衆の真ん中に小さなスペースが出来ていました。男女二人が楽器をかき鳴らし、旅芸人らしき一団が、リュートの音に合わせて無言劇を繰り広げています。彼らはみな古代人の様な衣装をまとい、白い、それぞれにデザインの違う仮面をつけていました。その中の一人は背の高い女性で、黄金の雨のような巻き毛を長く垂らしていました。また一人はまだ可憐な少女の体つきで、つややかな黒い髪の毛をゆったりと結い上げていました。一団は雨に打たれながら立ち尽くしている私に向かって、思わせぶりに会釈しました。
 広場の向こう側の出口で、不機嫌そうに立ち去ってゆく数人の人影が見えました。彼らの背は高く、肌を覆い隠す白い長衣を着ているように見えましたが、何せ雨の勢いがあまりにも激しく、景色が真っ白くかすんで見えたため、本当のところ彼らが誰なのか、私にははっきりと断言することはできません。
 驟雨が強まる中、妃殿下はふとはしゃぐのをおやめになり、居住まいを正して大公殿下の御前にお立ちになりました。寒さのためか、大きくうねるお心によるものなのか、私には震えておられるように見受けられました。そして、髪や顎先から雫を滴らせながら殿下の右手をお取りになると、二十二年ともに暮らした夫の目を、雨をためた黄金のまつ毛の下の、鏡のように光る藍色の目で真っ直ぐとお見つめになりました。
 「殿下、今までありがとうございます。わたくしは幸せ者でしたわ。殿下からたくさんのものをいただきました。でもわたくしは……」
 大公殿下は、自ら餌付けした小鳥を山に放つかのような、寂しげな微笑みをおつくりになりました。大公殿下の瞳は、妃殿下の瞳よりもなお一層潤んでおられるようでした。それでも弱く微笑まれた口元にも、限りない憂愁の刻まれた目尻の皺にも、とてつもなく大きな荷物を降ろし終えた後の満足感が満ちています。その微笑みは寂しげなのと同時に、茶葉がゆっくりと広がってゆく香りのように滋味深いものでした。そのふくよかなお顔を濡らしていたのは、雨でしたのでしょうか? それとも涙でしたのでしょうか? 
 「私の方こそ幸せだった。結局こんな自由しか与えられなかった自分が、情けないねえ」
 「雨男」は少し離れたところでしょんぼりと立っていました。半分背を向けて、それでもいかにも気になるというように、大公殿下ご夫妻の方にちらちらと視線を送ります。自分の悪さで、他の子供が叱られているのを見る子供のような眼差しです。彼にしても全く罪悪感がないわけではないのでしょう。その困ったような濃い眉毛は、今日も今にも泣き出しそうに見えました。
 群衆の狂騒は一層に高まって、複数の巣のミツバチが騒ぎ合っているように、混沌としてきました。千年ぶりの雨は勢いを弱め、新聞のインキのような雲は風に吹き散らかされて、その隙間から輝かしい太陽がのぞきます。そぼ降る雨粒は、私の幻想の中のクジラが潮を吹いたときとそっくりに、クリスタルと輝きながら落ちてきました。
 広場の中央には人だかりができ、仮面をつけた旅芸人の無言劇に、人々が喝采を送っていました。今まで芝居にも、音楽にも、舞踏にも価値を見出せなかった私たちが、彼らの歌に、マイムに、すじがきに込められた人生の寓意に、惜しみない賛辞を贈っているのでした。今なら妃殿下も、あの外国の詩を理解できるのでしょうか? しかし私は結局そのことを確認できないままでした。
 妃殿下と「雨男」はその晩のうちに、連れだって宮殿を出てゆかれたのです。

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 翌々朝の新聞には、人々の好奇心を刺激するような見出しで、大公ご夫妻のご離縁を伝える記事がでかでかと載りました。大公殿下は泰然として、無用な詮索には一切答えず、ただご自分のご使命であらせられるまつりごとのみに専念しておられました。三月もする頃にはマスコミも飽きて、この話題は時折人々の口の端に上る程度となりました。何時の世も、著名人のゴシップは魅力的で、でもあっという間に忘れ去られてゆくもののようです。
 私はすぐに宮廷を去る訳には行きませんでした。私たち妃殿下の侍女は、妃殿下がここを去るにあたり、特別の命を受けていたのです。
それはアブリ公女殿下のお世話でした。元々公女殿下にお仕えしていた侍女たちは、皆丸太ん棒のような体つきでした。主が食欲をコントロールして心をも落ち着けなくてはいけないときに、彼女たちの食生活はあまりにも奔放でした。結局、元の侍女たちはほとんど暇を出されてしまったのです。
 妃殿下が宮殿を去って一週間経った晩のこと。宮殿での最後の夕食を終え、私は一人部屋で荷造りをしていました。翌朝、アブリ公女殿下の待つ治療院へ発つことになっていました。パッキングした荷物を確認していると、誰かがドアをノックしました。いぶかしみながら開けると、そこにはグレーのシャツの上に、何の勲章も飾りもついていない緑色のカーディガンをお召しの大公殿下が一人立っておられました。手には、小さな赤いラッピング袋を携えておられます。私は恐縮して、すぐに簡素なテーブルセットに殿下をご案内申し上げました。
 「ナータ、君のために預かっていたものがあったんだよ」
 大公殿下はにこにことしながら、ラッピング袋から中身を取り出されました。袋に入っていたのは一辺二十センチメートルほどの小さな額縁でした。素朴で装飾のないオーク材で出来ています。
 「実はね、ジュニがこの宮殿でお世話になった者たちにお礼をするために、制作の合間を縫って小品を仕上げていてくれたんだ。君のだけじゃなくて、カトーシェフや、宮廷付き理髪師カロの絵もあるんだよ。さあ、これが当代随一の画家が仕上げた君の肖像画だ。見てごらん」
 その小さな画布に描かれていたのは、十九歳の私の横顔でした。いつも軽食を持って行ったときに左に座っていた、「雨男」の側から眺める私の顔だったのです。そうです、ご覧になりますか? 三十五年前の私の顔を。随分と若く、神経質で、ナイーブで、それでいてとても狂暴そうな横顔しているでしょう? 背景には昔のハレの国の真っ青な青空、そしてタンポポの綿毛です。
 「私じゃないみたいだわ」
 「ジュニが見た君だよ」
 「これが雨男さんから見た私……」
 きっとどうにもならないことを嘆いている気分は、すっかりと「雨男」に伝わっていたのでしょう。だからこの絵の私は、こんなにも哀しい目をしているのです。自分の真っ赤な花びらが咲き誇ることさもかえって憂わしい、ひなげしが風にそよいでいる様を思わせる横顔。
 そう思ったとき、両方の目からは涙が溢れ出ました。慟哭ではありません。静かな涙でした。何故私は泣いているのでしょう? 分かりません。悲しいことはわかるのです。でもその中にわずかばかりの喜び、心の傷を甘く撫でてくれる、柔らかな手のぬくもりのようなものも感じるのです。私はものも言えずに泣き続けました。
 大公殿下はしばらく黙って私が泣くのを眺めておいでになりましたが、慈しみ深い口調でこうおっしゃました。 
 「もしかしたらそうじゃないかと思っていたんだけれども、君はジュニのことが好きだったんだね」
 「私が? 雨男さんのことを好き? 」
 私は驚いて、慎み深い態度をとることも忘れて尋ね返しました。
 「そうだよ。そうでなかったら、今なんで泣いたんだい? 」
 「分からないわ……。人を好きになることって、私にはよくわかりません」
 「ナータは今まで誰にも恋したことがないのかい? 仲の良い男の子はいなかったのかい? 」
 「一人だけいました。とても仲が良くて、とても腹の立つ男の子が」 
 全てが遅すぎる今となってから、私はこの数か月にも及ぶ煩悶の理由を、やっと見つけることが出来たのでした。まあなんと、我ながらてこずったことでしょう? 十歳の私とダンスを踊るそばから口げんかした、故郷の町の男の子に対する愛着と苛立ちの火力を限界まで激しくしたら、それは私が「雨男」に抱いている感情そのものとなるのでした。
 これが、この痛みに満ちて苦く、それでいて貴腐葡萄酒のように甘い感情が、恋というものなのでしょうか? それはもっと輝かしく、春の小鳥のように歌うものではなかったのでしょうか? 小川のささやきのように優しいものではなかったのでしょうか? しかしそう言われてみると、私を自ら傷めつけていたこの苦く甘い心が、恋以外ではありえないような気がしてくるのでした。
 「私、雨男さんのことが好きだったんですね……。だからあんなにも苛々して可愛くて、噛みついて傷つけてやりたい気分だったんですね……」
 私はしゃくりあげました。強い後悔に苛まれていました。今でも思い出すたび同じ後悔を覚えます。私は何故「雨男」に優しくしなかったのでしょう? その才能を認めて褒めてあげればとても喜んだはずなのに。スランプに悩んだ時、ヒマワリのように明るく微笑んであげていたら……。そうして私の想いを直接言葉にして伝えていたら……。
 いいえ、当時の私にも今の私にもよくわかっています。私がいくらあがいたところで、大公妃殿下にかなうはずがなかったのです。きっとそれが、自分の気持ちに気づくのが遅れた一番の原因なのでしょう。結局私は、「雨男」に一言も想いを伝えることが出来ないまま、恋を失ったのです。
 失恋、言葉にすると実に簡単で収まりがいいものです。その中にこの数か月の私の、殺意さえもはらんだ煩悶と、苦さと裏っ返しの甘い陶酔が、すっぽりと収まってしまうのですから。しつれん、言葉を発するのはたやすいものです。ただ聞けば分かった気持ちになってしまう。でも、彼らに私の想いの何が分かるというのでしょう? 
 大公殿下は静かにこう仰いました。
 「ナータ、君はまだ若い。この涙は練習代だと思って、恋の女神さまにお納めしておきなさい。いい人はすぐに現れるよ。これからは自分の気持ちを過たず感じられるようになるよ」
 そう仰ると、大公殿下は震えている私の右肩にそっと触れられました。ふくよかなお顔には、生前の父を思い出させる穏やかな微笑みがありました。そうして数度うなずかれ、柔らかく靴音を響かせて部屋をお出になりました。
 一人残された私は静かに涙を流し続けました。今更になってやっと、自分がどれだけの痛みを感じて耐えて来たのか、どれだけ健気に尽くしてきたのか、実感が春の洪水のように押し寄せてきたのでした。
 「雨男さん、好きです、私あなたのことが好きです……」
 まだ聞き慣れないピシパシという音が窓を打つのが聞こえました。雨が降っていました。雨の音とは世界をくるむように響くものです。侘しい音でした。それなのに優しい音でした。この音を聞いていると、私の隣でサンドウィッチをほお張っていた、「雨男」の子供のように純粋な目が思い出されます。
 彼が触れてくれたのは、絵を見て慟哭した私の背中をさすってくれたあの時だけでした。その「雨男」が雨となってこの建物を包み、私の体をも抱きしめてくれている、そんな気持ちがしたものです。
 冬の雨はまたとない慰め手で、そうであるがゆえにまたとない涙の元凶でした。慰められれば慰められるほど、私の涙腺は脆くなりました。濡れた頬をぬぐうこともせず、鼻水をすすり上げて、しおたれたヒナゲシのように、ただ首を折って座っていました。
 窓をピシパシと叩いていた雨音がふと、ボツッボツッという重たくもったりとした音に変わりました。そしてふっと静かになりました。晴れている時よりもさらに音を失った静けさが、耳の奥底を埋めていくようでした。もうどれだけ泣き続けていたのか分からない私は、ようやく立ち上がってカーテンをのけました。白い結露を指で拭って見ます。
 スタンドの白熱灯の光を冷たく反射させた、銀色の何かが降りしきっていました。雨ではありませんでした。焚火の灰のように白く軽く、風にふわふわと漂うものでした。私は窓を開けて手を伸ばしました。白いものは私の指に触れると、あっという間に消えました。指先をすり合わせてみるとかすかに濡れています。
 それはハレの国に千年ぶりに降った雪だったのです。

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ラストエピソード

 結局私が看護学校に入学できたのは、その二年半後のことでした。アブリ公女殿下のご療養が長く響いたのです。アブリ様におかれましては、婚約破棄とご両親の離婚が、あまりにも身にこたえる痛手とおなりになったのでした。アブリ様の乱気流にきりもみされる大型飛行機のようなご気分と、何を食べても飲んでも満たされないブラックホールのような食欲は、私たち侍女団を大いに振り回して困らせました。
 二年療養なさってようやく、アブリ様は普通の量の食事で、お納めになられるようになりました。しかし、期待されていたプロポーションには程遠く、食べ吐きのせいで歯がぼろぼろになっておしまいになりました。私が宮廷を去った後のお話になりますが、結局アブリ様は、ご結婚はされたものの、身分と立場に見合った良い伴侶を、見つけることはお出来になりませんでした。
 一方、ハレの国で別離の第一号となった大公妃殿下には、その後新たに別離は襲い掛からなかったようです。人から伝え聞いた話ではありますが、妃殿下と「雨男」は最後まで幸せにお暮しになったそうですよ。

 私が看護婦として働き始めた次の年に、とうとうハレの国は戦争に巻き込まれました。かねてから激化していた領土争いの末、ハレの国と共闘する軍事機構側と同盟国側が激突したのです。ハレの国は主戦場とはなりませんでしたが、多くの兵隊たちが駆り出され、多くの血が流れました。その中の一人が弟です。仲の良かったドニーは爽やかな笑顔を残し、空軍のパイロットとして戦闘機に乗ったまま消息を絶ちました。私の不安は的中してしまったのです。
 実家からの手紙でその知らせを聞いた私は、泣きに泣きました。どうしてもっと弟の進学を止めなかったのか、そして、どうしてあのとき「雨男」の背中を突き刺さなかったのか……。そう考えると出口のない煩悶の中に突き落とされて私の頭はかんかんに火照りました。それでもこの戦争は、私の運命に大きな出会いをももたらしたのです。
 従軍看護婦として任務に就いていた私は、野戦病院で一人の負傷兵と出会いました。後に夫となるネールでした。ネールは陸軍少尉で、濃い色の髪をした背の高い青年でした。お酒よりも甘いものを愛し、雨の復活によってその魅力に目覚めた音楽について語るとき、子供のように純粋に目を輝かせるのでした。
 私は今度は自分の気持ちと過たずに向き合うことが出来ました。回りくどい表現など使わずに、好意を好意としてあらわすことが出来たのでした。「雨男」への片思いからうすうすとは気付いていましたが、私という女は、好意を持った男性にサディスティックになる癖がある様です。その性癖も、夫との間ではスパイス程度にとどめておくことも出来ました。大公殿下が仰ったように、恋の女神は私が払ったレッスン料の涙に、大いに便宜を図ってくださったのでした。
 戦争は軍事機構側の勝利で終わりました。戦勝の軍事パレードは華々しく、多くの市民が旗を持って出迎えました。我が方を勝利に導いた、トロイ大公殿下の名声はいや増すばかりでした。私も夫も手に国旗と大公家のご家紋の旗を持って、手がちぎれんばかりに振ったものです。
 少しずつ雲行きが怪しくなり始めたのは、トロイ大公殿下がお隠れになり、アブリ様が女大公とおなりになってからのことでした。軍事機構の盟主、そもそも味方であったはずのキュラの国との間に軋轢が生じました。その理由というのも、かつて婚約者を奪ったレア女王様と、その夫君ルト様に対する恨みからくるものであったのです。両国の溝はついに見過ごせないほどとなり、盤石であった軍事機構の結びつきを二分する争いになり、ついには再び戦争となりました。
 その戦争のむごさというものを、今私はこの短い紙面に言い表すことはできません。従軍看護婦として従事していた時にも、戦争の悲惨さというものは身に染みていたはずだったのに……。
 二度目の戦争では兵士だけではなく、子供、老人、女性、多くの市民が犠牲になりました。美しかったハレの国土は戦場となり、沢山の街や城や森が燃えました。野原には塹壕が掘られて穴だらけになり、そこにさらに大砲が撃ち込まれて、あの美しかった水利システムは破壊しつくされました。
 そしてこの無益な戦争の結果、ハレの国は敗戦国となったのでした。
 それがきっかけで国の形もずいぶんと変わりました。世襲による王侯の政治が、個人的恨みによって、国の進むべき道を歪めたと糾弾されました。大公制は廃止となり、新しく国民投票で選ばれた政治家が国を統治するシステムとなったのでした。これは喜ばしいことでしたが、同時に寂しい事でもありました。私の胸には、あの宮殿で過ごした青春時代の記憶が、今も鮮やかに息づいているのですから。アブリ女大公様はご家族と一緒に、辺鄙な山奥の離宮に軟禁状態となっておられます。

 今、ハレの国は莫大な賠償金にあえいでいます。国土はぼろ雑巾のように荒れ果てて、農産業が復興する機運はいまだありません。水利システムの復旧が待たれますが、予算というものはまったく立っていません。新しく定められた議員たちは、国会で様々な議論を戦わせていますが、それが私たちの暮らしをよくして行くという実感が持てません。
 都のややはずれにある、夫と私のアパートメントには、三人の娘と、娘の産んだ孫たちが八人身を寄せています。泣き声と笑い声と金切り声が、ひっきりなしに響いて頭がずきずきします。満足な水や食料もありません。一番幼い孫が熱を出して、私も夫も娘もただ祈るばかりです。
 こんな未来が待っていたと知っていたら、私はは果たして「雨男」の背中に毒を突き刺すことを思い留まれたでしょうか? 私は間違った選択をしたのでしょうか? あのまま、雨など永遠に降らず、戦争という災いを実感することもなく、おとぎの国めいた楽園の住人のままでいられたならばきっと……。しかし、戦争が私と夫を出会わせたのです。戦争が無ければ娘たちも孫たちも生まれることはありませんでした。ああでも、私は妻や母親であるよりも前には、姉でもあったのです……。
 そんな出口のない思いに駆られると、私は一人アパートメントを出ます。ぼろをまとって暗い顔のまま歩いている群衆に紛れ、私もぼろをまとって暗い顔で歩きます。どこをどう歩いていても私の脚は結局、かつて美しかった宮殿前の広場に向かってしまいます。
 宮殿は爆撃で無残な姿になってしまいました。まるで十九歳の時に見た不吉な夢をなぞったように、野で死んだ狼のあばら骨の様な廃墟となったのです。しかし、その絵のかかった壁だけは不思議と無傷で残っていました。
 水の輪廻を描いて、ハレの国に千年ぶりの雨をもたらした「雨男」の絵……。ハレの国にもめごとと別離と戦争をもたらした絵……。
 黒と藍色と白く輝く斜線、王冠の形の水しぶき、滔々たる大河、天に還って行く水。楽園そのものの、あくまでも穏やかな森や野原やまきば、優しい人々が穏やかに暮らしている瀟洒な都。三十五年経っても、私の胸には新鮮な感動が満ちます。今なら解ります、人生が苦しく、現実が残酷だからこそなおさら、芸術というものは限りなく美しく優しいのです。生きているということは何と嬉しく、そして反対になんて悲しのでしょう? 私の瞳に涙が浮かびます。
 不意に頬に打ち付けた冷たいものに、私は瞬きしました。空を覆い隠していた黒雲から雨粒が落ちてきました。十一月の慌ただしい時雨。道行く人々が頭を被い、足を速めて立ち去ろうとします。私は一人絵の前にたたずんだままです。
 あれから三十五年もの間に幾度となく雨は降りました。そのうち三回ほどは、災害をもたらすほど激しいものでした。そして何の刺激ももたらさない雨が、さらに幾百回と降りました。もうそれは決して珍しいものではなかったのです。
 それなのに冷たい雫が頬に落ちるたびに、葉擦れを強めたような雨音が耳に満ちるたびに、雨を恐れて思い悩んでいた少女の心が目を覚ますのです。「雨男」に焦がれ、変化を恐れ、殺害まで思いつめたいじらしい少女の心が、髪を濡らす雨と、漂いだす雨の匂いと、「雨男」の描いた絵に込められた意味に、つい昨日のことであるかのような迫真味を帯びてよみがえってくるのです。
 彼の綺麗に整えられた厚い黒髪、曲がりくねった枝のような右手指のペンだこ、南国の鳥を思わせるカラフルな汚れの黑いジャンパー、そして、笑っている時何時も泣き出しそうに見えた、歳の割には透明すぎる眼差し……。
 「雨男さん、雨男さんは、こんな未来を思い描いていた? 堕ちるところまで堕ちた、ハレの国を思い描いていた? 」

 今日の雨は最初の雨と同様、少し冷た過ぎるようです。 

            了

雨男

お読みいただいてありがとうございます。これからも精進を続けていきます。

雨男

千年間雨が降らず、諍いももめごとも別離もないハレの公国。そこに雨を降らすための画家「雨男」がやって来た。秘かに大公妃殿下と想いあう彼に、妃殿下の侍女ナータは叶わない恋をする。更にはハレの国の陰の歴史を作ってきた神話的人々の争いに巻き込まれ……。切ない味わいの寓話的ファンタジー。

  • 小説
  • 長編
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-07

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  1. 来訪
  2. 綿毛
  3. 七月
  4. 太陽の番人
  5. 苦悩
  6. 恋愛事件
  7. 密会
  8. 殺意
  9. 慟哭
  10. ラストエピソード