百合の君(60)

百合の君(60)

 義郎(よしろう)は、穂乃(ほの)をこの世のあらゆる困難から守ってやりたかった。だから食料も全て調達していたし、着る物も全部作った。さらわれて自分と会いたがっているはずの妻は、さらった男に心奪われていた。しかもその男は怪我までさせている。
 義郎の憤懣(ふんまん)はやるかたなかった。穂乃が勝手に去った後、義郎は脇息を叩き壊し、家臣たちを怯えさせた。しかし、義郎は彼ら、特に木怒山(きぬやま)には、穂乃と自分の関係を打ち明けようとは思えなかった。穂乃が出海(いずみ)にさらわれたのは、義郎が守り切れなかったからだ。弱かったからだ。出自卑しく、その武の力で喜林家を支配している義郎にとって、弱さを知られるということは、それまでに築き上げたすべてを失うことを意味していた。先代の臥人(ねすと)のような目に自分が遭ってもおかしくない。そこまで思いつめていた。
 それでも穂乃を諦めきれない義郎は、やや回りくどい方法に出た。次に穂乃を呼んだ時、義郎は捕虜にした少年も連れてこさせた。
「誰です? それは」
 襤褸(ぼろ)を着た傷だらけの少年を見て、穂乃は警戒心をあらわにした。
刈奈羅(かるなら)に捕まっていた八津代(やつしろ)の童だ、見ろ」
 義郎が唇をひん剥くと、少年の歯はそのほとんどが欠けていた。
「出海の口車に乗せられた結果がこれだ。兵卒の慰み者になり、この様だ」
 無理やり口を開けられたというのに、少年は微動だにしなかった。青黒く腫れたまぶたのすき間から、澱んだ瞳が中空を力なく眺めていた。穂乃はその瞳が動いて自分を見るのを恐れた。
「これが出海の言う戦のない世だ」
 穂乃は少年を視界に入れないよう、義郎の目だけを見て話した。
「酷い事をしたのは刈奈羅の兵ではありませんか、浪親(なみちか)様ではありません」
 しかし自らの声の震えは、自覚しない訳にはいかない。
「十三歳の子供を前線に送ったのは、出海だ」
 義郎の赤い瞳は、浪親に対する恨みというより、穂乃に対する嗜虐的な喜びに燃えていた。それに気づいて、穂乃の心はその持ち主が自覚しないまま、追い込まれつつも、足元と背後に若干の余裕を見出した。
「それはそうかもしれませんが、でも」
「正しい戦なら残酷なことは起こらないとでも思ったのか? そもそも正しい戦などがあるとでも? 人間が生きるか死ぬかの所にいるんだ、何だってする。あいつはお前には良い事だけ言って、裏でこのようなことをしている」
「それは」声が裏返った。穂乃は涙の力を借りた。「蟻螂(ぎろう)も同じですか?」
「そうだ、戦だからな」
 穂乃の涙を目で追ったが、義郎は、態度の変化を見せなかった。穂乃は、言い知れぬ怒りを感じた。
「それではケダモノと同じではないですか! 蟻螂は人間ではないのですか」
「人間はケダモノだ。切れば血も出るし、死ぬのは恐い」
 予想外の反応に、穂乃の怒りは燃え盛る炎から、穏やかながら雨の気配を含んだ風に変わった。穂乃は、義郎がかつての妻の心を取り戻そうと、格好をつけることを期待していた。自らを獣と言ってはばからない元夫に、幻滅を通り越して憐れみを催した。
「いいえ人間はケダモノではありません」
 義郎の眉が一瞬揺れた。足元や背後にあった余裕が、前方にも広がったことを穂乃の心は感じた。
「では何が違うと言うのだ?」
「人間は、理想に向かって進むことができます。例え失敗しても、残酷なことをしながらでも、それを目指すことができます」
 しかし穂乃の渾身の言葉は、義郎よりもむしろ少年を刺激した。
「りそうなどといわないでくだはい!」
 歯がない上に泣いていてひどく不明瞭だった。
「そのせいで、わ、私はこうなってひまったのでふ」
 義郎はにやりと笑った。
「分かったか、これが出海のしてきたことだ」
 義郎は立ち上がり、二人を残して部屋を出た。その後ろ姿を見て、穂乃は、盗賊の村で置いてけぼりにされた時を思い出した。夢塔(むとう)の兵が迫っていて、男達が出陣し、女子供が山に逃げたあの時。
 目尻の辺りに、みすぼらしい少年の視線を感じながら、穂乃は義郎から二度見捨てられたような、道理のない思いを持て余していた。

百合の君(60)

百合の君(60)

あらすじ:今ではない時のここではない日本。盗賊の出海浪親は、穂乃という女をさらい、夫の蟻螂(喜林義郎)から引き離しました。浪親は、穂乃との交流により天下人を志すようになり、八津代国を奪い、さらには穂乃に求婚したのでした。一方、蟻螂は穂乃を探す中で侍になり、古実鳴国の主になりました。二人はお互いの素性を知らぬまま、同盟を結び、人質交換として妻を送ったのでした。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-07

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