灰色の街より
彼女はいかにして失敗したか
高校生活最初の年末――12月は、私の大きな過ちと共に始まった。
私は誓って、油断していたという訳ではない。その上、それに対して何ら対抗手段を講じなかった、という訳でもない。言ってしまえば今回の件は、“内なる生存競争”がもたらしたものだった。二つの対立項が生み出す葛藤。それらの衝突と番狂わせの決着。それがすべての原因だった。
私はそうなるであろう事を、途中から半分受け入れていた。ある時点から、それはあるべき正しい姿として私の目に映るようになったのだ。要するに私は“自ら作り上げた都合の良い真実”のもたらす誘惑に負け、判断を誤ったという事になる。
この話には教訓がふたつある。ひとつめは、“人は簡単に本質を見誤る“ということだ。物事にはひとつひとつ、適切なラベルが貼ってあるものだ。だが人は見間違える。ほんの僅かな認識のズレひとつで。いとも簡単に。そしてひと度そうと思い込めば、たちまちにしてその銘柄に固執するようになる。このラベルには「真実」と書いてある、そう信じて疑わない。例えそれが避けるべき劇薬だったとしても。もうひとつの教訓は――
「――黙り込んで突っ立っちゃって、どうしたのさ?」
聞き慣れた気だるげな声が、私の耳を震わせた。どうやら隣にいるケイが不審がったらしい。考え事に夢中になっていた私を現実に連れ戻したのは、その一言だった。おぼろげになっていた視界の四隅が、一斉に解像度を上げる。
横断歩道の信号はいつの間にか青に変わっていた。棒立ちの私の周囲を、同じように信号待ちしていた人々が行き交う。私が取り繕うように慌てて歩き出すと、ケイも一拍遅れて小走りで着いてくる。掴みどころのない、浮世離れした走り方。彼女が一歩踏み出す度に、くせ毛気味の黒いショートヘアが、その性質を体現するようにふわふわと揺れた。
「――あと、さっきからなんか上の空だし」
追いついたケイが難色を示す。私が彼女の方を見ると、いつものジト目と目が合った。私はその奥にある真意を読み取ろうとする。メリハリの無い喋り方と表情。それが彼女だった。そのせいで、何をどの程度訴えかけているのか判断が難しい。今回のこれは――シンプルに、不服と非難の目つきだった。
「それにずっとブツブツ何か言ってるの、不気味じゃんね」
私は「嘘?」と反射的に声を上げた。
「……私、なんて言ってた?」
「良く分かんないけど、“生存競争”とか“真実が”とか――」
そこそこ口に出していたみたいだった。
「呪詛みたいにブツブツ」
「忘れてください」
私はちゃんと敬語で返した。するとケイはそんな私の態度に何やらか思い至ったのか、怪訝そうな顔をやめ、にやりと片方の頬を歪ませて私を見た。
「中間テストの惨状でも回想してた?」
「……してた」
……私は正直に言った。
「言ってたもんね、楽しみにしてたゲームの発売日とテスト週間が被ってるって」
この“おちびさん”は珍しく軽やかな調子で、さも愉快そうに言った。
「しかも、そのタイトルがねぇ――」
そう言って、私はため息をつく。
「昔好きだったやつの続編だっけ?」
「よりにもよって、ね」
「我慢できなかったんだねえ」
「出来ませんでした」
「哀れだねえ」
「はじめは、ちょっとだけのつもりだったんです」
「尚のこと、哀れだねえ」
私が肩を落とすと、ケイは片手で口元を隠しながら小さく笑い続けた。彼女があんまり長い間そうするものだから、私は段々そわそわしてきた。小刻みに揺れ続けるそのちっこい肩を見ていると、次第にそれは苛立ちに変わっていった。そうなった後はもう、ただ一直線に落ちていくだけだった。
「だってさあ! しょうがないじゃん!? あの名作の数年ぶりの続編だよ!? 前作は私にとって魂の一作だったんだよ!? 抑えられるわけ無いじゃん! 初めてプレイしたのは、10歳の時! 今でも覚えてます! それはもう、ハマリにハマったわけですよ! やりすぎて、どの武器で殴ったらどの敵に、どのくらいの乱数幅でどのくらいのダメージ量になるか計算できたくらいですよ! もちろん、敵ごとの耐性も行動パターンも全部把握してました! 縛りプレイもしました! RTAみたいな事もやりました! やり込めばやり込むほど、考え抜かれた至高のレベルバランス! 神がかったステージ構成! プレイする度に新しい発見のある、奥深さ! 古くさいとさえ言えるほどの堅実さと、決して目新しいというだけでない、ブラッシュアップされた革新性が同居する見事なゲーム体験! そんなゲームの続編ですよ!? やらずにいられます!?」
私は一息で思いの丈をぶちまけた。それから末尾に「オススメです!」と、念の為に加えておいた。自分でも分かるほど痛々しかった。そんな私を、ケイは立ち止まってじっと見つめる。それからそっと私の肩に手を乗せた。
「テスト前はゲーム、控えよう」
「……うん」
もうひとつの教訓。テスト前に新作ゲームをプレイすべきではない。一度途絶えたと思っていたシリーズの復活作ならなおさら。ちょっとプレイを初めたら最後、“取り憑かれた”ように止められなくなる。
……あと、もうひとつあった。八つ当たりはやめよう。
喫茶店へ続く道
そんな風にして私たちが歩いていくと、駅前のこじんまりした繁華街に差し掛かる。K駅に向かうメインストリート。この路地のちょうど中央にあるドラッグストアを左に曲がると「仲通り商店街」がある。上面が屋根で覆われた、典型的な歩行者専用のアーケード商店街。随所にある天窓は、それぞれ勝手気ままにくすんでいる。それは見る者に数世代分の時間の経過を嫌でも意識させ、何とも言えないワビサビを感じる仕上がりになっていた。
ケイが通りがかりに「仲通り商店街」の入口をじっと見ていた。
――彼女は大分“ちっこい”。なんだかその姿を見ていると、下校途中の小学生が通学路から逸れようと画策しているみたいで、不安にさせられる。やがて無事に彼女がそこを通り過ぎると、少ししてから気だるげな声で言った。
「ああいう商店街ってさ。好きとか嫌いとかじゃなしに――なんか、見てるとフクザツな気分になるんだよね」
「フクザツ、ってどうフクザツ?」
私が要領を得ないでいると、ケイが眠たそうな顔をこちらを向けた。
「――こんがらがってて説明できないから、フクザツって言うんじゃん?」
「より意味が分からなくなったよ」と、私が普通に文句を言うと、彼女は唸った。
「なんていうか、懐かしいとか落ち着くとかとは、ちょっと違くてさ――」
ケイは説明を試みる為に、ぽけーっとした顔つきで空を見上げた。が、上手い表現が見つからなかったのか、彼女は「ワカンナイや」とすぐにさじを投げた……ナンダソレ。
それから先はしばらくの間、お互いに何も言わなかった。
私たちは小さな横断歩道を渡り、向かいの歩道を引き返すようにして歩いていく。目当ての雑居ビルはすぐそこだった。4階建ての「小さな」、「古い」、「くたびれた」、「今にも崩れそうな」、「改築待ったなしの」、「建築物の耐用年数に関する法令のグレーゾーンを熟知してそうなイメージのある」、「1968年における3億円事件の真犯人をその当時、肉眼で目撃していそうな」、そんな雑居ビル。この近辺では古めかしい景観のビルがいくつもある。そこまで珍しいものではない。が、そのビルはとりわけ印象的だった。シミだらけの壁、亀裂とくすみのエレクトリカル・パレード。
要するにとりわけボロだった。もちろんエレベーターなんてものは無い。階段もなんだか細くて通りづらい。入口の階段脇にある「2F 喫茶paradiso(パラディーソと読む)」という看板がやや右に傾いていた。字体が何とも色鮮やかでポップな感じなので親しみやすさを感じるが、その反面、裏に潜む言いようのない“ものかなしさ”も同時に表現されている。調和の取れた見事な芸術品。競売にかけたら、きっと良い値段で売れるだろう。
私はそのようなしょうもない事を考えながら、もう何度目になるか分からないくらい上った階段に足をかける。相変わらずありえない角度の階段だった。まるで宗教上における何らかの受難のようだった。その恐るべき一段目に足をかけた瞬間、私は突然思いついてゆっくり振り向いた。
「――ジモト感?」
ふいに声をかけられたケイは、首を傾げる。私はかまわず続けた。
「ジモト感と、それに自分が含まれてる感覚?」
ケイはすぐに思い至り、「あ~」と納得したように口を開く。
「そう、それ。そんな感じ」
私は一段一段をかみしめる様に、じわじわと一歩ずつ進みながら、ケイの言う“フクザツな気分”についての考察を続ける。
「ああいうアーケードと――」
六段目。
「歴史ある個人商店とを見ていると――」
七段目。
「このY市で生まれ育った自分もこの一部に――」
八段目。
「含まれているんだなあ、みたいな――」
九段目。
「安心感とか納得感を抱くよね!」
九段目。
「――同時に、がっかり感も!」
九段目。
遅々として進まない私のせいで、ケイがひとつ下の八段目でつっかえている。
「それがどういう意味を持つかは、今回の授業では触れません!」
十段目で私がそう締めくくると、ケイがその感覚の比率について質問してきた。十二段目で私は「個人差がある」と答えた。ケイもそれに同意しつつ、行き過ぎたケース(承認欲求や顕示欲の拡大がもたらす有害性――例えばバイクによる暴走行為や往来における集団示威行為、傷害・損壊事件など)について触れてきた。私はようやくたどり着いた喫茶店の500kgくらいある木製ドアの取っ手に手を触れながら、それは”がっかり感”に付随したり、含まれたりして語られる事が多いと述べた。また、更に深く追及したければ、発展的な要素を扱う別の授業があるので、ぜひそれを選択して欲しいという旨も彼女に補足した。
私が最後の力をふり絞って、この建て付けが悪すぎる入口の扉と格闘している間に、安心感と納得感とがっかり感の比率に関する議論が、ケイと私との間で交わされた。紆余曲折を経て、結局は個人差ではあるが、おおむね1:1:8の割合であるという事で決着がついた。
喫茶Paradiso
喫茶paradisoの店内は、案の定がらんとしていた。お客さんは私たちだけ。店内に足を踏み入れると、床材がいちいち軋んで痛々しい。扉が閉まる物々しい音が背後から聞こえた――来店と退店を告げるベルの代わり。この喫茶店は大抵このようにして、私たちを歓迎してくれる。どうやってこの喫茶店が今日まで存続するに至ったのかは、ちっとも分からない。
入口前のカウンターの中から、店主さんが私たちに会釈する。店主さんは無口で、私は彼の声を一度として聞いたことがなかった。私とケイが「こんにちは」とあいさつをすると、店主さんは黙って頷いた。そんな彼を横目に、私たちは窓際にある四人がけのテーブル席に向かう。いつもの指定席。腰を下ろして早々に私はホット・カフェラテを注文した。ケイも同じものだった。
注文したものがやってくる間、私は何ともなしに、真新しいカウンター席とテーブル席が配置された、隅の一角を見つめていた。そこは最近改装された箇所で、やはり何度見ても違和感があった。他の古くガタの来ている、従来の調度品とのバランスが取れていない気がしてならない。
「やっぱりあの辺、浮いてるよね」
私が小さく感想を漏らすと、ケイも同じ場所を見て「確かに」と同調した。
「なんかさ、例えるなら――100年続く老舗の秘伝のタレに、そこら辺で買ってきたシーザーサラダ・ドレッシング、混ぜたような感じ」
――同意見だった。
やがて店主さんが飲み物を持ってきてくれた。ケイはすぐにテーブル脇に備えてある砂糖を自分のカフェラテに入れた。ものすごい量だったが、もはや私はそれを見ても何の感想も抱かなかった。目の前で繰り広げられる日常を気にも留めず、私は窓の外の景色を見ながらカフェラテを一口飲んだ。
窓からは往来を行く人々が見えた。私たちと同じY高校の生徒もちらほらいる。やがてK駅の方へと消えていく人の流れを意味も無く目で追いながら、私は店内に流れる音楽に耳を傾けた。ノラ・ジョーンズの『セブン・イヤーズ』だった。葉が落ちて丸腰になった梢を柔らかく撫でる、冬の北風のような歌声だった。私は心地よい肌寒さを感じながら温かいカフェオレを楽しんだ。
「そういやさ、サキの誕プレ、何にするか決めた?」
ケイが私と同じように窓の外を眺めながら言った。文章を短く切って、それを接ぎ木したような口調。私は視線を動かさず、窓枠に話しかけるように「そっか」と相づちを打った。
「もうすぐだったね、サキちゃんの誕生日」
「12月16日、日曜」
「今日が4日だから、あと二週間かぁ――まだ考え中なんだよね。ケイはもう何にするか決めたの?」
「決めたよ」
「何?」
「肩たたき券」
「わお」
「5回分の無料券。あと6回目から10回目にかけて30%OFFになるクーポンのおまけ付き」
「使用期限は?」
「半年間。来年の6月末まで」
「そいつはすごいや」
恐れ入った私は、全く表情を変えずにカフェオレを飲んだ。その時、入り口の扉が開く音と「あ!」と何かを見咎めるような声が同時に聞こえた。
「また二人で下校してるし!」
サキちゃんだった。彼女は何やら物申しながら、ずかずかとこちらにやってくる。
「ここ寄るんなら声かけてよ! どうせあたしも“ここ”に帰ってくるんだからさぁ!」
彼女は朗らかな長い金色のポニーテールを右に左に揺らしながら批難した。
「そっちのホームルーム終わったら廊下で待っててよぉ! あたしのクラス、二人のすぐ隣なんだから、そんなにメンドーでもないじゃん。っていうか、このやり取り何回目!? 今までで、70回くらい言ってるのでは!? ってことはこれ71回目だよ!?」
サキちゃんはコロコロと表情を変えながら、身振り手振りを交えて異議を申し立てた。私は「ごめんね!」と平謝りする。その一方で、ケイは茶化した。
「72回目にはさ、年老いた忠臣の“どやしつけ”みたいな感じでよろしく。愚鈍だけど根は真っすぐな我が主をほっとけないやつ的な」
サキちゃんは、ぎゅっと固く目を閉ざして「殿!」とだけ叫んだ。
言うだけ言って満足したのか、サキちゃんは大きくため息をついて矛を収めた。それから周囲を見渡した後、店主さんのいるカウンターの中に入っていく。
Paradisoはサキちゃんの家族が経営している。さっきから一言もしゃべらずにカウンターの向こうで洗い物をしたり、じっと壁掛けの時計を見つめたり、小さく咳払いをしながらキャンパス・ノートに何かを認めたりしている店主さん――彼がサキちゃんのお父さんだ。普段は無口だが、家族だけの空間では誰よりもしゃべり続けるらしい。
サキちゃんはその“おしゃべりな”店主さんに「ただいま!」と声をかける。それから戸棚を開け、カップとソーサーを取り出してスタッフ用の作り置きコーヒーを注ぐと、そのままこちらに戻ってきてケイの隣に座った。
私はこの一連の流れを見るのが好きだった。というより、サキちゃんが動いているのを見るのが楽しかった。見ていて何だかほっこりする。一番気に入っているのは、店の手伝いをしている時の彼女だった。この喫茶店は時々(偶然、とも言う)、人で賑わう事がある。そういう時、サキちゃんは店を手伝う。そうして忙しそうに店を飛び回るサキちゃんを、私はつい目で追ってしまう。
彼女はしばしば、どことなく演技じみた動作をした。その清々しい、ちょっと強調された動きや言葉遣いが、きっと私の興味を惹くのだろう。おまけに“若干”プロポーションも良く、店の制服である黒いシャツとの相乗効果でかっこ良く見える。それは私のトイメンに座るちっこい無愛想なちんちくりんや、色んな方面に無頓着で究極的に地味な私自身と比べると、一層印象深く見えた。
「ん、そうだった」とサキちゃんはコーヒーカップを傾けながら言った。
「先月は二人ともありがとね! テスト週間入っちゃって、言い忘れちゃってた。お陰で店の傾き具合も、ちょっとマシな角度になったみたい!」
私はそのあんまりな言い様に思わず苦笑いした。
「友達だけじゃなくて、お母さんにもサキちゃんの店のこと言ったんだ。そしたらすごい勢いで広めてくれたんだ。近所の友達と、町内会の知り合いと、あとテニス仲間と、パート先と――とにかくたくさんの人に声かけてくれたんだ」
「そうみたい! やっぱり主婦の“つながり”って凄いね! 合言葉も何回か聞いたよ」
サキちゃんはそう言って、思い切りテーブルに身を乗り出した。
11月の中頃、私とケイはお願い事をされた。話は非常にシンプルで、「この喫茶店、今月の売上終わってるから助けて」というものだった。で、私は店の宣伝、ケイは主にネットの口コミの印象操作を行った。
サキちゃんは口コミの件については未だに知らない。私でさえ、その裏工作の事を知ったのは最近だった。サキちゃんはその手の盤外戦術に乗り気ではなかった。実際、ケイがはじめの段階でこの提案をした時、却下されている。しかしケイは実行した。怪しまれないよう投稿タイミングやその文体、分量、投稿数、それから星の数のバランス――これらに細心の注意を払いつつ、彼女は少しずつ店の話題性が上がるような投稿を繰り返した。話題にさえなってしまえば、ある程度の客の流れが出来上がる。思い切りの繁盛ではない、程良い塩梅。それが狙うべき落とし所。そしてケイはほとんど完璧にやり遂げた。
私は口頭による宣伝を担当した。クラスメイトや家族、違う高校に行った中学時代の友達なんかに、この喫茶店がいかに素晴らしいかを説いた。会計時に「優待あります」という合言葉を言うと割引がある、という特典付きで。
……今思うと、地味過ぎる活動だった。だがこの活動の甲斐も少しはあったようだ……あるいは偶然、客足が月の後半に偏っただけなのかもしれないけど。
「――ってかさ」と、ケイがだしぬけに言った。
「今更だけどさ、なんで自分のクラスで宣伝しなかったのさ。サキ、そっちのクラスじゃ人気者じゃんね。未だにこの店の事、何も言ってないの?」
「そだね。言ったこと無いね」
サキちゃんはけろっとした様子でそう答えた。こんな調子でギリギリの運営を続けているにも関わらず、サキちゃんはParadisoの事も、自分の父親がこの店をやっている事も、クラスの誰にも言っていないらしい。それを受けてケイが当然の疑問を口にした。
「言ったら皆、来てくれるんじゃん?」
「んとねえ。まあ、最初はそうしようと思ったんだよね。でも色々考えてやめたんだ」
私が反射的に「なんで?」と聞くと、サキちゃんは笑った。
「だって、ここにクラスメイトの皆がめっちゃ来るようになったら、忙しくなっちゃうもん。お店手伝う時間も増えちゃうし、色んな席から呼び止められちゃうし――それはそれで楽しいけど、何か違うんだよね。今みたいに二人と話せなくなるし――ちっとも面白くない!」
そう言って彼女は残った残りのコーヒーを一息に飲み干し、最後にこう締めくくった。
「ここでは二人と一緒にいたいんだ!」
……サキちゃんは時々、“作り物”みたいな言葉選びをする。朝ドラのドラマチックな場面のような眩しい台詞回し――ケイはその強力な光属性の力をまざまざと見せつけられ、いつも以上のジト目で硬直していた。私は単純にむず痒くなって、全身がそわそわし出した。
サキちゃんは私たちの反応を見て、にやにやしている。彼女はわざとらしく咳払いをした。
「こほん。あたしたちは今、ようやく一つの結論にたどり着いたようです。つまりは何とも不思議な事に、この店は一定の角度以上に、常に傾いている必要があるのです。最新の研究によると、11月の中頃を30度くらいの傾斜角と仮定しますと、だいたい10度から15度くらいの傾きを維持するのが理想でしょう!」
その黒猫はいつだって正しい
「そういや中間テスト、どうだった?」
サキちゃんは、コーヒーのおかわりを注ぎにカウンターへ行った帰りにそう尋ねた。
「ちなみにあたしは終わってる」
人懐っこい笑みと共に繰り出されたその言葉には、一切の後ろめたさが無かった。ケイは「だろうね」と言って、コーヒーカップを小さく揺らす。
「なんせテスト範囲、2日前に聞いてきたしね。そりゃそうだと思った」
指摘を受けたサキちゃんは、目を固く閉ざした。それから「へ!」と、三下の悪徳商人の“おもねり”みたいな奇妙な鳴き声を上げる。ケイはその良く分からない、解釈困難なリアクションを無視して続けた。
「って事は結局、お二人とも、もれなくダメだったようで」
「……ん? という事はぁ?」
同族の気配を感じ取ったサキちゃんは、そう言って私に視線を据えた。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、思い切りテーブルに身を乗り出す……顔がすごく近い。彼女のくりっとした両の目は期待の輝きで溢れんばかりだった。それは、この話題から身を潜めてやりすごそうとしていた私を、たやすく炙り出した。早めに白状するべきだった。
「……同じくダメでした」
私は小声でそう打ち明けて目を逸らした。サキちゃんはそれを許さず、首を大きく曲げてその視線の先に回り込んでくる。そして私にこう訊ねた。
「敗因は?」
……逃げられなかった。私は早くも開き直る事にした。
「ゲームしてたら自然とそうなったよ」と私は一呼吸置いて言った。
「でも、そうしたいからしたんだ」
「何か、一番シンプルにダメそうな理由だね」
「……サキちゃんの敗因は?」
私は反撃した。すると彼女は、まるで世間話の切り出し方と同じようなトーンでこう言った。
「あたしは普通に動画見てた」
「私と変わらないじゃん」
「“終わった人”の動画チャンネル。シャンクスのモノマネのヤツ」
サキちゃんがいらない注釈を入れる。ケイが彼女の隣で「字面に結果が引きずられてるじゃんね」と呟いた。サキちゃんは勢い良く姿勢を戻し、「また次、頑張ればいいの!」と言った。
「そういうケイは? 割とダメそうと見た!」
余計な決めつけの言葉と共に、彼女は矛先を替える。ケイは予想に反して、落ち着いた様子だった。およそ自分には関係の無い話題、そういう態度だった。やがてそんな彼女の口から「残念だったね」という勝利宣言が告げられた。
「手応えあり、だった」
「嘘だあ」と、サキちゃんがすかさず否定する。ケイがにやけた。
「普段は授業態度、終わってるけどさ。悪目立ちしたくないじゃんね。こーいう時、ポイントだけは抑えてるわけ」
サキちゃんは納得出来ていなさそうだった。確かに不自然だった。どうしてこんな普段だらしなく授業中に寝てたり、こそこそソシャゲしてたりする奴が……あるいは嘘か。サキちゃんは何やら難しそうな顔を見せ、唸ったり天井を見上げたりしてしばらく考え込んでいた。そうまでしても、彼女は結局何も思い至らなかったらしかった。やがて彼女は適当に口を開いた。
「あ、不正だ」
「してない」とケイはジト目を僅かに開きながら即答する。サキちゃんは止まらなかった。
「カンニングだ?」
「してない」
「窓の外の目立たない場所でカンペを掲げる協力者を雇ったんだ?」
「雇ってない」
「成績上位の人の弱みを握って、モールス信号で合図を送ってもらってたんだ?」
「握ってないし、そんな麻雀のコンビ打ちみたいな事もしてない」
真相は闇の中だった。私たちが怪しんでいると、出し抜けに私の足元から「ニャッ」という声が聞こえた。テーブルの下を覗き込むと、黒猫がちょこんと行儀良くしていた。いつの間やらここまでやってきていたようだ。
それは喫茶Paradisoでサキちゃんが飼っている猫だった。元ノラで8歳の黒猫。オス。名前はレヴナント。命名者はサキちゃん。なんでこんな物騒な名前なのかは分からない。決めた本人でさえ分かっていない。突然閃いて付けた名前らしい。鳴き声に特徴があって、肯定を表明する時は短く「ニャッ」、否定の意思表示の時は長めに「ニャァー」と鳴く。
私がこの恐るべき名を持つ猫の名前を呼ぶと、私の右くるぶしに向かって突進してきた。そのまま何度か小さく旋回を繰り返した後、サキちゃんの膝の上に音も無く跳び乗った。彼は差し当たって、その全身をサキちゃんにくしゃくしゃにされた。どうも膝上に跳んだ時の彼の未来予想と、実際の結果との差異に納得がいかなかったらしい。彼は飼い主の元を早々に離れて、今度は隣りにいたケイの膝の上に移った。
「そうだ、レヴさんに聞いてみよう!」
サキちゃんは、ケイの膝上で細かく足蹴を繰り出すレヴを見て閃く。私も便乗して「確かに」と、さも深刻そうに首を縦に振って言った。
「レヴさんに見極めてもらおう」
この黒猫はひどく聡明で、今まで一度も判断を間違えた事がない。レヴさんはいつだって正しい。彼の緑色の慧眼にかかれば、全てが白日の元に正しく晒される。おざなりな論理の欠点はたやすく批判の的に早変わりし、どんなに巧妙な嘘も簡単にやっつけられてしまう。
ケイはこの決定に何か言いたそうにしていた。やがて諦めたのか、彼女は何も言わずに膝上の猫を両手で持ち上げた。その柔らかい身体がぐにゃあと、割とよく伸びた。そうしてレヴナントの上半身がテーブルの上に現れた。準備オーケー。サキちゃんは満足そうに頷き、黒猫に語りかけた。
「レヴさん、レヴさん、教えて下さい。ケイがしたのはチートですか? それともチーミングですか?」
「ニャァー」
――即、否定された。テーブル席に衝撃が走る。醜く狼狽える者さえいた。その張本人であるサキちゃんは、諦めきれずにもう一度同じことを聞く。
「ニャァー」
答えは同じだった。そして私たちは、このあまりに強力な証言を覆すことが出来なかった。逆転のカードはゼロ。果たして決着は付いた。
私たちはその場で被疑者に謝罪をした。それから二度と同じ事を繰り返さない事を誓った。サキちゃんはいそいそとカウンターに向かい、スタッフ用の作り置きコーヒーで二杯目のカフェオレを作った。それをうやうやしくケイに差し出すと、彼女は「うむ」と真面目ぶった。その温かい一杯にはいつもの通り、目を覆いたくなるほど大量の砂糖が流し込まれる事になった。それは勝利宣言の代わりだった。こうしてまた、歴史の本の一ページに文章が記された。このようにして私たちは毎日を生きている。
――私たちは数分後には何事も無かったように、ソシャゲの協力レイドで遊んでいた。ふいにサキちゃんが、昨日見た客について「そういやさー」と話を切り出す。
「昨日うちに来たお客さんがさぁ」
言いながらサキちゃんはボスキャラにデバフをかける。
「私の顔見てめっちゃ驚いてたんだよねー。何だったんだろ?」
私は全体回復のスキルを使いながら「何か変なこと言われたの?」と訊く。サキちゃんは「ううん、何も」と、首を横に降った。ケイが固有スキルで状況をリセットしながら「どんな人?」と質問した。
「黒人のお婆さん」
サキちゃんが返事をする。ケイは少し間を置いてから「孫と間違えられた?」と予想する。サキちゃんが唸った。
「ん~、そうなのかなあ。10分くらいで帰っちゃったんだけど、その間ずーっとあたしを見ててさぁ。普段見かけないお客さんだし、外国の人だし、注文も指さしでやってて一言もしゃべらないしで気になっちゃった。で、夜ご飯の時お母さんにその人の事聞いたらさ、その人は近所に住んでる人だろう、って」
私は「お母さんの知り合いなの?」と問いかける。
「お友だちとか?」
「友達っていうか――この辺りで有名な人なんだってさ。昔、そのお婆さんの飼ってた猫が、商店街の組合の軽トラックに轢かれちゃったらしくって……その次の日に近くのT字路で――あのミニストップがあるとこ――あそこでその人が、変な気味悪い儀式みたいなのやり出したんだって」
話を聞いていたケイが「何だそれ」と声を上げた。サキちゃんは「ほんと、ナンダソレだよね」と同意した。
「なんかさ、最終的にそれが警察沙汰にまでなっちゃったらしくってさ。この辺りで有名な事件らしいよ。あたしはちっとも知らなかったけど」
何だか“訳あり”そうだった。私が「何でそんな事したんだろうね」と疑問を口にすると、サキちゃんが続きを語った。
「噂でしか無いけど、ってお母さんが言ってたけど――猫が轢かれちゃった交通事故って、商店街の人たちがうやむやにしちゃったんだって。それでその人たちを憎んでるんだって。で、その仕返しに商店街に呪いをかけようとしたんだろう、って。その人、ネイティブアメリカンの呪術を代々継承して来た家系なんだってさ。ホントかな? それで皆、その人に怖がって近づかないんだってさ」
私は「変わった人なんだね」と、ボスに斬りかかるケイのキャラを回復しながら月並みな感想を言った。ケイはタップ操作を一度ミスったが、無事ボスは倒せた。そうやってレイドが終了したと同時に、この話も途切れた。外を見ると、もうすっかり暗くなっていたので、私たちは帰る事にした。会計の時、店主さんは何も言わず、ただ黙って割引した金額を提示してくれる。いつもありがとうございます。
駅の改札でケイと別れて電車を待つ間、私はサキちゃんの誕生日プレゼントについて考えていた。猶予はあと2週間――何をあげたら喜んでくれるだろう。頭の中でいくつかの候補があがる。が、どれもピンとこない。
色々と考えてはみたが、やがて方向性が何をあげたら迷惑がられないかという方に変わってきたので、一旦棚上げすることにした。そのあとすぐに電車が到着したので、私はそれに乗って家路についた。
翌日の放課後、サキちゃんから黒猫のレヴナントがいなくなった事を聞いた。
灰色の街より
参考資料
・Pat Metheny「From This Place」,2020年
・くるり「There is (always light)」,2014年