20151002-夕子
(一)
僕が、京都の大学へ入ったのは、平成になった年の一九八九年。バブルが弾けて、有名な会社が次々と倒産するような時代だった。その為、有名大学に受かったとから言って遊びほうけていると、どこにも就職できないと言う事が頻繁にあった。また、首尾よく就職できたとしても、明日には倒産して路頭に迷う、そんな不安定な時代を僕たちは必死で生きていた。
そんな京都の学生生活にも、どうにか慣れてきた頃。僕は彼女、夕子さんと出会った。まだ残暑厳しい日の夕暮れ、僕はアルバイトに氷運びをしていた。表通りに軽自動車を止めて、重い氷の塊を狭い店の搬入口へキャリアーで運ぶと言う重労働。そのお得意さんの一つが彼女の店だった。
店の名を『甘いもの屋』と言う。お汁粉、あんみつ、かき氷などを売っている。店舗は広くなく、十人も座ればいっぱいになった。
彼女の店に着いたとき、僕は一日氷運びをしていて、汗だくだった。夕子さんは僕に、冷えたオシボリと、冷えた緑茶を出してくれた。それも、緑茶はよく冷やしたガラスの茶碗に入れて。
「どうぞ、おあがりやす」
「ど、どうもすみません。いただきます」
ひと口、口にふくむと、冷たさに脳天がしびれた。
「あなた、お名前は?」
「は、はい。三上トオルです」
「そう三上くんね。バイト、精が出ますね。おきばりやす」
「ありがとうございます」
彼女は、藤色の和服を綺麗に着て、長い髪を後ろでまとめ、ふっくらとした顔は慈愛に満ちていて、それはもう京都弁がよく似合う女性だった。
彼女は、緑茶を頂いている僕をニコニコしながら眺めていた。僕は失礼にも、そんな彼女の顔をまじまじと見てしまった。そのとき、年配の女性が笑いながら言った。
「あんさん。なに、そんなんジロジロ見てはるの? 失礼やわ。おほほほ」
僕は恥ずかしくなり、お礼もそこそこに、店を出た。
(それにしても、美人だなー。一人で店をやっているのかな?)
そんなことを考えながら氷屋というステッカーがはった軽自動車を運転してバイト先に着くと、友人の羽賀ヒロシが待っていた。彼は身長が百九十センチありマスクもいい。なんで、僕なんかの友達になってくれたのか、いまだに分からない。
「よう、三上。お疲れさん」
「羽賀。どうした?」
「それがさー、明日のコンパに面子が集まらなくて」
「人数合わせか? いいよ」
「ありがたい、恩に着るよ」
彼には日頃、授業の代返やらノートやらでお世話になっている。こんなこと位で恩に着るとは、逆にこちらの方が恐縮する。
翌日、僕が遅れてコンパ会場に着いたのは、もうみんな出来上がっていた頃。加賀は、よっと右手を挙げて僕に手を振った。彼はいくら飲んでも顔に出ない体質で、僕はそんな彼を大丈夫かと心配した。だが、今日は余り呑んでいないようでほっとする。
「さあ、こっちへ来いよ」
「ありがとう。ところで羽賀。今日こそは誰かいい人見つけたのかよ?」
「全然駄目だよ。きっと、俺の背が高すぎて、みんなビビっているんだよ」
羽賀は、僕のコップにビールを注ぎながら、言った。
「そんなことないよねえ、彼女。彼、格好いいよね?」
にこにこしながら僕たちを見ていた女の子に話を振った。
「うん。目なんかぱっちりしてかわいいし。ねえ、私じゃ駄目?」
「悪いな。俺は胸がめちゃくちゃ大きくないと駄目なんだ」
「なにが駄目なの? もしかして、あそこが立たないの?」
「そうなんだ。俺のあそこはめちゃくちゃ我ままなんだ」
「もう。あははは」
いやはや、加賀の好みには呆れる。きっとアメリカの金髪ロケットオッパイしか受け付けないのだろう。彼がアメリカに乗り込む日を想像した。
その時、足元が見るからに危ない女の子が突然立ち上がり、大きな声で叫んだ。
「私、今日は生理なんです、だからエッチ出来ません。ヒック」
「あはははは」
(全く、それがわざわざ大声で宣言する事かよ。酔っているのか、バカなのかは分からない)
しかし、遊んでいるのは明らかだった。関わり合いを持ちたくは無いと、男は皆思っただろう。
けれど……、これが夕子さんなら話が違う。彼女の口が同じことを言うのを想像すると、とたんに股間が熱くなった。いかんと思い、円周率の暗唱をして息子を黙らせた。
コンパが終わり支払いの計算をしていると、女の子が僕の袖を引っ張った。
「ねえ、このあとどうするの?」
「え? 帰るけど」
「よかったら、うち来ない?」
「悪い。今日は見たいテレビがあるんで、すまない」
「……」
そのやり取りをニヤニヤしながら見ていた芳賀は、
「しっかし、もったいないなー、いただいちゃえばいいのに」
「あははは」
加賀の言葉に嫌悪感を持ったが、僕は笑ってごまかした。
その夜は、夕子さんでオナニーをした。
(竹内くん、私今日は生理だから中で出しても大丈夫だよ)
そんなことを妄想しながらいった。
ある日、バイトで夕子さんの店に行ったときだった。彼女はカキ氷の機械と、汗だくで格闘していた。
「夕子さん、どうしたんですか?」
「あら、三上くん。お疲れさま」
「調子悪いんですか? この機械」
「そうなの。ぎょうさん働いたよって」
「新しい機械だったら安くしときますよ? こっそり社員割引きで」
「あら、そう。助かるわ。それで出来るだけ早く欲しいの」
「ええ、大丈夫ですよ。明日、朝一で持ってきますから」
「ありがとう。三上くん」
それからは、夕子さんはなにかあると僕を頼ってくれるようになった。
それで分かったことだが、夕子さんには亡くなった旦那さんがいたようだ。今恋人はいるのか、なぜ再婚しないのか分からない。けれど時折見せる寂しそうな姿は、きっと誰もいないのだろうし、亡くなった旦那さんを思い続けていると思う。
彼女とは年が十才以上離れている。それに、芸子をしていたとも誰かが話していたのを聞いた。だが、そんなことは僕にはどうでもよかった。君を守りたい、その言葉が何度も喉から出そうになった。
けれど、そんなことは言えない。もしも、彼女に告白してフラれたら、きっと僕は落胆して、とても今みたいに話せなくなる。それが怖かった。
夕子さんが素敵過ぎるのが悪い。そんな言い訳を用意している自分が惨めだった。
(二)
それは大学二年目の夏だった。
僕は、一人で買い物に出かけ、お目当てのCDを手に入れて、早く聞きたくて帰り道を急いでいたときだった。
道ばたに、うずくまる人がいる。
「大丈夫ですか?」
「あら、三上くん?」
「夕子さん……」
「ちょっと、気分が悪くなって」
「救急車、呼びましょうか?」
「それは、ちょっと……」
「だったら、直ぐにタクシー呼びますね?」
「ありがとう」
夕子さんは、ほっとした表情でそう言った。
話を聞くと、きょうは用事で遠出をした帰り、ちょっと立ち眩みがしたようだ。僕は肩を貸して、タクシーを捕まえ、彼女を家まで送った。
このとき、初めて彼女の身体に触れたが、その華奢な感触と、いい香りに戸惑った。そんなこと、気にする場合ではないのに、僕の身体はずきずきと反応していた。
彼女の家に着くと、抱きかかえて寝室まで入って布団を敷き、彼女を着物のまま寝かせた。氷を砕き氷嚢(ひょうのう)に入れると、彼女の両脇に入れる。そして、白湯(さゆ)に塩と、少しの砂糖を混ぜて飲ませた。本当は、ポカリスエットなどの清涼飲料水がいいのだが、冷蔵庫を探しても見つからなかったので仕方がない。
それでも、僕の処置が効いたのか、いくぶん顔色がよくなってきた。
「三上くん。ありがとう。おかげで身体が大分楽になったわ」
「よかった。高校の時の経験が役に立ちました」
「高校の時? なにかやっていたのね?」
「ええ、陸上です」
「道理で。わたしは、運動はしたことがなくて」
「そうですか。今からでも少し運動するだけで、ずいぶん違うと思いますよ」
「そうね。でも、私生理が重いほうなのね。だから、無理ね」
「すみません。勝手なこと言っちゃって」
「ううん。わたしの方こそ、お世話になっちゃって」
「そんなこと、気にしないで、少しでも眠ってください」
彼女の口から「生理」という言葉を聞いて、僕の股間は堅くなった。具合が悪いのに、そんなことを考えるなんて、なんて不謹慎な下半身だと思った。そして、ばれやしないか心配になった。
「もう少し、側にいてや」
「はい」
そう僕が返事をすると、彼女は安心したのか、白湯を一口コクリと飲み込んで目を閉じた。
どうやら、僕の下半身が大変なことになっているのは、彼女に悟られていないようだ。ほっとした同時に、僕のアソコも収まって来て、やっと楽になれた。そのまま、船を漕いでいたようだ。
彼女は一時間ほど眠り、目を覚ました。それに気付かずに、僕は相変わらずうたた寝をしていた。
ふと、僕の手が、湿った温もりを感じて目が覚めた。彼女は僕の手をそっと掴んで、自らの股間に持っていったのだ。手が着物を分けて行って、彼女のあそこに触れる。薄い毛並みの中に導かれると、そこは濡れていた。
「あっ、うーーーん」
わずかに、あえぎ声が聞こえる。彼女は僕の指で自慰をしているのだ。艶かしい声と、強く擦り付けられる手の感触で、僕は破裂寸前だった。しかし、ほどなくして彼女は、いってしまった。
(もう我慢できない!)
僕は目を開き彼女の唇にキスをした。狂おしいほどの思いで。
「だ……め……」
その言葉には意味がなかった。
僕は、彼女の身体を貪るように抱いて、思いを遂げた。
(三)
それからは、毎日のように彼女の家に通った。彼女の家に行くと、夕子さんは必ず僕にごちそうしてくれた。まるで結婚しているように。
魚料理も、肉を使った料理も、どれも美味いが、中でも煎茶のぶぶ漬けは美味い。あっさりしていて薄味だが薬味が効いていて、暑い夏でも食欲をそそった。
添えられる漬物がまたいい。カブ、白菜、大根、キュウリ。どれも美味いが、僕は特にカブの漬物が好きで、三食でも食べられるほどだ。
夕子さんにいつもごちそうになってから、身体が疲れにくくなった。それまでは店屋物ばかりで、あまり野菜を取っていなかったからだろう。
そして、彼女は自分一人では余り食事をとらなかったようだが、僕のためにご飯を作ると、彼女も一緒に食べた。おかげで元気になったと言っている。もう、以前のように立ちくらみで動けなくなることもない。そのことが彼女には嬉しかったようだ。
紅葉が美しい季節。僕は車を友達から借りて、夕子さんとドライブに出掛けた。元気になった身体を動かしたくて、うずうずしてるのだろう。初めてのドライブに彼女は終始雄弁だった。まるで子供ように。
間もなく、山間を抜け、湖に面する名所へ来た。二人は車を降りて紅葉する並木道を歩いた。
「綺麗やねー」
「本当だね」
「ありがとう、三上くん」
「大したことないよ。それより、夕子さん」
「なーに?」
「もうそろそろ、三上くんは止めてよ」
「あら、嫌やった? 許してや。今度からは、さん付で呼ぶわ」
「いいね。それで、出来たら下の名前で呼んで欲しいんだ」
「トオルさん……。嫌やわ。なんだか恥ずかしい」
「夕子さん!」
「なーに、真剣な顔して?」
「結婚して欲しい。もちろん、今すぐにじゃない。大学を卒業してから」
「……。三上くん」
「はい」
「わたしも、三上くんのこと、好きよ」
「だったら、」
「でも、わたしは三上くんよりも十才上。しかも、未亡人や」
「それでも、いいから」
「最後まで聞いて」
「……」
「三上くんは、これから一人で人生を歩んで行きゃなきゃいけない。その途中には、辛いことや、悲しいことも、たくさんあると思う。
でも、あなたにはこの立派な身体と柔軟な頭がある。きっと、あなたには素晴らしい未来が待っている。そして、あなたにお似合いの女性が現れる。それは、わたしじゃないわ」
夕子さんは僕の目を見ないように、上を見ながらそう言った。僕には夕子さんが泣いているような気がして、彼女の肩を抱いた。
「夕子さん。僕は夕子さんを愛しているんだ。ほかの人じゃ駄目なんだ。夕子さんじゃなきゃ」
「ふー。いくら言っても駄目やね。この話はもうお仕舞にしまひょう。せっかく、二人でデートしてるんやさかい」
なぜ、そんなにも希望のないことを言うんだ。自分の幸せだけ考えたらいいのに。そう言いかけたが、言葉を飲み込んだ。もしかして、夕子さんが昔芸子だったという噂は本当だったのだろうか。それを言わない彼女がいじらしかった。余り強く言って、彼女の傷をえぐりたくはないと思い、もうそれ以上言えなかった。
いずれにせよ、僕の心は変わらない。卒業したら、もう一度プロポーズしよう。そう思い、もうそろそろ日が暮れて寒さが忍び寄って来た並木道に、お別れをした。
車に戻ると、ウインドウにひとひらの楓が落ちていた。僕はワイパーも使わずに、自然にその葉が落ちるのを見ていた。
(四)
冬の気配がしてきた頃。僕と夕子さんの噂を聞き付けたのか、羽賀がひとけのない大学の講堂に、僕を呼び出した。
「三上。夕子さんと付き合うのは止めろよ」
「なんだ? お前、彼女に気があるのか?」
「そうじゃないけど」
「だったら、いいじゃないか。不倫って分けじゃないし」
「……。言いたくはなかったけど、あの人は昔、芸子だったんだ」
「そんなこと、とっくに知っているよ。僕は、そんなことは気にしないよ」
羽賀は黙ってしまった。静寂が講堂を満たす。遠くでオオジシギの羽音がした。
ふと、羽賀が僕の目をまっすぐに見て、口を開いた。
「……好きなんだ」
「えっ?」
「お前のことが、好きなんだ」
僕は、なにも言えなかった。悪いな、俺は女が好きなんだ、と言えば終わるのに。だが、この時は怖くて言えなかった。彼の真剣な目と、僕を圧倒するガタイに。
僕は、「悪い」とだけ言ってアパートへ帰った。その日は、とても夕子さんに会う気にはなれなかったから。僕は、加賀の言ったことを忘れたくて、飲み慣れないウイスキーを引っ張り出し、寝酒をあおった。
翌日の早朝、どかどかと大勢の足音がして、僕は叩き起こされた。煩く叩かれたドアを開けて見ると、警察官が三、四人立っていた。僕は胸騒ぎがして警察官に詰め寄った。
「なにか、あったんですか!」
警察官たちが、顔を見合わせている。
「三上トオルさん、ですか?」
「はい」
「実は、田口夕子さんが昨夜殺されました」
それ以降の言葉は僕には入ってこなかった。僕は放心状態でパトカーに乗せられ、長い事情聴取を受けた。何日拘留されていたのかも分からない。ただ、耳に入ってくる言葉を聞き流していた。
それから、僕はほどなくして解放された。犯人が捕まったから。
殺したのは、羽賀だった。
それからの僕は、一年の留年をして大学を卒業した後、僧侶になった。
その理由は、彼女がただ殺されたからではない。首を折られて殺されていたから。遺体安置場で見た彼女は、首の骨が肉を裂き飛び出していた。百九十センチもある大男の力だ。無理もない。
僕は、その業(ごう)を供養するために僧侶となった。
だが、いくら拝んでも、いくら修行しても、この悪夢から逃れられない。
(終わり)
20151002-夕子